加賀本多博物館

旧本多蔵品館跡地 現在は国立近代美術館工芸館の移築改装工事中R1秋完成予定 本多家の上屋敷地には平成27年(2015年)まで県立美術館と藩老本多蔵品館が建っていました。昭和48年(1973年)本多蔵品館は加賀八家で最大禄高5万石を誇った本多家と石川県が共同出資で財団法人を設立、旧金沢美工大の図書館建物を利用して、収蔵品2000点(内、初代政重・二代政長関連100点+当主夫妻火事装束2点が県文化財)は調度品や収集品は武家文化を伝える物から、北斎漫画や紀行文の庶民文化まで幅広いものがありました。上:県立歴史博物館・本多博物館共通入口 左二棟が県立歴史博物館、右一棟が本多博物館中:入口前の辰巳用水導水管の復元モニュメント 午前10時から午後4時まで10分間隔で水が噴き出るようになっています。今回は4時過ぎで見られず。。下:本多博物館入口藩老本多蔵品館時代の馬具一式展示(二代・本多政長使用)初代・本多政重画像 讃・沢庵宗彭(たくあんそうほう)筆 平成27年(2015年)東京国立近代美術館工芸館(今秋完成予定)の移設工事で、赤レンガミュージアムに引っ越しています。それまでの手狭な展示スペースが広くなったおかげで常設展示はそれまでのまとまった一斉展示から個別展示が増えています。僕としては、2代政長所用の馬に合わせての馬具一式の展示は気に入ってたんですけどねえ。。それと、単独展示になった当主や当主夫人の火消装束は間近で見られるようになりましたが、周りが無地でイマイチ華やかさに落ちる展示になってしまったかも。。…

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越中国司邸跡 伏木気象資料館

新元号の令和が万葉集からの典拠・引用ということで、万葉集が売れ、梅花の宴が開かれた大伴旅人の邸宅跡とニュースにされた坂本八幡神社は人が押し寄せたそうな。。でも、大伴旅人邸は正式には特定されていなかったと思うんですが。。。僕の記憶では30年程前に「玉石敷きの溝」が発見されたとき、奈良時代の国守邸の庭園発見と騒いでいたはず。。ニュースを見てて???となった僕。。菅原道真の邸跡附近も国守邸候補地と云われて、まだ確定していなかったような。。マスコミは何の根拠で坂本八幡神社としたんだろう。。そういえば世界遺産の推薦が決まった百舌鳥・古市古墳群の仁徳天皇陵も文字が躍っていたけど、近年は大仙陵古墳として、一部では伝仁徳天皇陵と書くくらいで、教科書からも消えていたはず。。まあ、宮内省は相変わらず仁徳天皇陵と治定してるけど。。 父・旅人繋がりで、万葉集の編者の第一候補とされる大伴家持もすっかり名前が売れてしまって、全国の所縁の地が名乗りを上げ、多くの人が訪れています。かく言う僕の石川でも、家持が越中守時代に能登が越中国に属していたこともあって、巡検の際に気多大社で読んだ歌碑と選者の噂の中西進氏の歌碑が並ぶと千里浜海岸が連日賑わしてくれました^^;さすが、何でも打ち出す羽咋市と感心もしましたが。。。 GWには中西氏が館長を務める「高志の国文学館」(富山を題材にした文学資料を収集展示しています。)、家持の万葉歌を研究展示する「高岡市万葉歴史館」、大伴家持の子孫を自称する「放生津八幡宮」もどっと人が押し寄せて…

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土山御坊③ 御峰城 

           御峰山 登山道 御峰城(土山城)は、天正12年(1584年)加賀の前田利家と対立した佐々成政が国境防御の城として築いた城になります。前・前々回でご紹介したように、半世紀以上前には一向宗の土山御坊があり、遺構が重なっています。元々あった杉浦家の屋敷周りにも空堀が掘られ、土塁が施されており、城と御坊の判別が付き難くなっています。また、土山への登山道になる南東面にも大規模で大きな削平や土塁が施されており、現在の家屋や道路は削平や土塁の盛り土面上を縫うように、施されたり建てられたりしています。この為、道が狭く曲がりくねったようになっています。                  御坊碑奥の土山城道標 事前下調べで主格部は御坊から、すぐ西面の山上ということで、嫁さんと娘を庭園において、山を登ることにしたのですが。。。林道の入り口には道標が、ところがこれに従ってひたすら林道を進むと、肝心な主郭には行きつけません。。 林道を進んで、猪・クマ用の罠や祠がありますが、そこまで進むと完全に行き過ぎです。まあ、その辺りも崖面を削った古い形跡は感じられますが。。。僕も完全に騙されて檻の近くまで行って、祠からの道は作業中で、引き返してきました。 御峰城(土山砦)登山口 実は主郭に向かう道の目印は水道メーター、ここになります。まさかと思って進んでみると右に大きな堀切が施された崖路に。。堀切の上面の険しい登りをあがると主郭部と云われる御峰山の頂上部の主郭部に出られます。   …

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土山御坊跡② 庭園「御壺」

蓮乗(蓮如次男)は本泉寺退却時の落馬で負傷を追いながらも一揆衆を指導しましたが、病がちとなり、補佐として蓮悟(蓮如七男)を蓮乗の娘の養子として迎え入れて本泉寺を任せ、実悟(蓮如10男)を蓮悟の養子につけています。 この蓮悟が二股から若松本泉寺(金沢市若松、現・専徳寺)に本拠を移し、加州三箇寺を主導していきます。瑞泉寺は妹(了如、蓮如9女)の婿・蓮欽(勝如の甥)を住職としています。 蓮悟に実子が生まれ、疎まれた実悟は独立して白山麓の鶴来に清沢坊願得寺を創建しています。この実悟が加賀一向一揆を例えた言葉「百姓が持ちたる国」を残した人物です。清沢坊願得寺は後に現在にも続く河内願得寺で、明治まで東本願寺法主を選ぶ5箇寺(勅許院家、別院、一家衆)の一つとなっています。 蓮乗は病を押して越中全土を主導していましたが、蓮如が京都に去って以降、病で父の死に目にも会えず、父・蓮如の死の5年後に逝去しています。 瑞泉寺を起点にして、三人もの息子を瑞泉寺・本泉寺に投入した蓮如が、後の勝興寺となる土山(どやま)御坊を重視したことが窺われます。蓮如の構想には越前・吉崎御坊に三男・蓮綱を中心にした超勝寺・本覚寺と越中の次男・蓮乗を中心にした土山御坊・瑞泉寺・本泉寺の協力で、加賀御堂(金沢御堂)の成立を企図。北陸を真宗布教の王国にしようと企図していたようです。 将来的に京都の本願寺を預かる長男・順如を法主として、真宗の教生と集団を平和的に固めたかったようです。それに応えるように順如は、朝廷・幕府へ…

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土山(どやま)御坊跡① 石楠花の庭園

10連休直前の26日 なんとかぎりぎりに仕事を切りの良いところまでこぎつけて、、、最終日の訪問先3軒。。お昼前に1軒目の国道304号沿いの三谷地区に、、、次の訪問先の野々市市・白山市には時間があったので、県境越えで福光から八重桜の並木がある27号で遠回りの金沢大学経由で戻ろうと思ったのですが、県境で土山の文字に思わず方向転換。。お花見ついでに久しぶりに山城散策をしようと。。しかし、日頃の行いが悪いのか、山間に入ると雨がポツポツ。。 帰り道の金沢井波線・県道27号線の八重桜の並木     一向宗時代は瑞泉寺と本泉寺を繋ぐ連絡路、江戸期には加賀藩主13代・前田斉泰の参勤交代の帰路とされていて、別名「殿様街道」と呼ばれていました。 土山の御峰山の頂上に着く頃には本格的な雨模様。。山の天気は変わり易いとはよく言ったものです。雨が降ってしまうと、山城への道はぬかるみになってしまいます。とても山の中には入れません。。長靴は常備してますが、服は仕事途中のネクタイ・スラックス姿では無理。。今回はあきらめて、、、 またまた変更で土山御坊跡の庭園のお花見に変更。。 土山の石楠花の庭園は土山の村民に大事に手入れをされている庭園。山深く隘路を登るため、真宗関連の人以外にはあまり知られていない存在ですが、隠れた石楠花の名所になります。 石楠花の庭園はちょうど満開でしたが、雨のせいか花が下を向いているのがちょっと残念。。 一週間後に家族を連れて再訪したんですが、晴天に近か…

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葭島(よしじま)神社

小松城は加賀藩三代藩主・前田利常が自身の隠居城として、金沢城の倍の規模と趣向を凝らした建物や庭園(お花の庭園まで造っていたそうです。)を造作していたと云われます。利常の死後、小松・能美の隠居領(約20万石)は加賀藩に帰属しましたが江戸期を通じて小松城代(主には前田対馬守・土佐守家が多く努めています。)・城番が置かれ、維持されていました。一藩(一国)一城令の中、幕府の許可を得た慮外の城として存続していました。 残念ながら明治の廃城令によって、一部の払い下げと共に、刑務所が置かれ懲役業務が城郭の破却作業となって徹底的に破壊されてしまいました。更に堀を構成していた梯川(かけはしがわ)の度重なる氾濫の対処に明治以降、平成の現在まで、川の流れを変えたりの度重なる改修工事で、小松城の面影を残すのは天守台の石垣と僅かな堀壁の一部くらいになっています。 小松城の古地図を観ると梯川が直角に曲がる角地を利用した水に浮かぶ城だということが解ります。前田利常の改修によって、新設された南面の竹島の裏鬼門には菟橋(うはし、得橋)神社を城外内に移転させています。その他にも城内の一角には幾つかの守護神的存在として、寺社が存在していたようです。琵琶島の北堀対岸の外郭にあった愛宕養福院(鎮座地は現在は梯川に水没)で鬼門の守護神としていました。その後にその延長線上の対岸に創建したのが、小松天満宮になります。  葭島神社 表参道 一の鳥居 同じ鬼門方向のもう一社が古地図上では小松城郭の最外郭の梯川岸辺にある稲荷社にな…

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御誕生寺

毎年この時期は忙しいのですが、その分遠出が出来ず、ストレスをためまくる僕。 そういう時には仕事に眼をつむって、ひたすら遠くに逃避ドライブが発散方法。。ただその分、仕事をためるので後で四苦八苦。。そういう僕を知ってる嫁さんは嫌々ながら助手席にというのがいつものパターン で、二人で久しぶりにやってきたのは越前市。。午後になって出て来たので、訪れたのは一カ所だけ。。もっと早くから来ていればいろいろ回れるんですが、毎度の思い付きでしたので、、、 御誕生寺の猫ハウスの窓辺にいた猫ちゃん   この日は寒いので体調がすぐれなかったり、猫風邪の猫ちゃんはハウスに隔離中。ハウスの猫ちゃんはみんな寝ていたけれど、この子だけは外に行きたくて、窓辺で行きたそうにウズウズ、窓の前を通る人を見つめていました@@眼の鋭さと鼻筋がハッキリしているのはチャトラの特徴 まあ、嫁さんをつきあわせるんですから多少後ろめたい僕は、嫁さんが喜びそうなところにしようというわけで、初訪問の御誕生寺に。。。平成生まれの寺院ながら大きな敷地と本堂を持つ寺院ですが、巷では知る人ぞ知るの猫寺でもあるのです。 嫁さんの近頃の趣味と言えば、スマフォやタブレットで、日がな猫の動画を観ること^^ 一時期のペットのワンちゃん流行から、数年前からはすっかりニャンコに流行は移っていますが、そこは御多分に漏れず我が家の嫁さんと娘も猫にはハマりまくっています。実家の頃は母親が猫好きで、僕も好きな部類。。元々、キティちゃんグッズに嵌る嫁さん。そこへ…

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和倉温泉駅周辺

和倉温泉駅は名前の通り観光地・和倉温泉の玄関口になります。北にまっすぐ1キロほど進むと七尾西湾になり、左手に石川でも一番元気な温泉地・和倉温泉、右手に行けば能登島大橋を渡って能登島に行けます。駅から東に行くと古くからの漁師町の石崎漁港になります。和倉温泉駅の近辺も町名は同じ石崎(いっさき)町で漁師の町として繁栄してきた町です。 8月の第一土曜日には石崎奉燈祭といって、高さ12~15m、重量2トン、担ぎ手100人に及ぶ大奉燈七基を含む14基が担がれて練り歩く勇壮な夏祭りが行われています。能登のキリコ祭りでも最大規模の一つになります。元々は石崎八幡神社の夏祭りで京都祇園社の流れに沿った山車がメインだったのですが、明治22年(1889年)、度重なる大火の被害を受けて、輪島の古い奉燈を移入して奉燈祭となって数と大きさを増して最大規模の祭りになったものです。見所は直角路での角曲がりと乱舞狂演。。日本最大(体積・重量)の曳山の青柏祭・花火が海面を照らし出す七尾港まつりと並んで七尾三大祭りとされています。 夏に嫁さんと行った輪島からの帰り道。。輪島の朝市通りをお昼に出て、七尾の山の寺寺院群に向かう途中、さすがにお腹が減って、立ち寄ったのが和倉駅前の喫茶レスト「はいだるい」外観は喫茶店ですが、カレーはもちろん丼物・うどんまで、ついでにコロッケや大きなエビ天までメニューだけ見たら、食堂そのもの。。 ちなみに「はいだるい」は能登の方言で「体がだるい。つまらない。しょうもない。」といった意味。汽車…

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本行寺② 隠れキリシタンの寺

昨昨年(H29)2月、高山右近の列福式が大阪で行われ、福者の宣言がされた際に長々と3部作を書きました。 高山右近記念公園①  ②高山右近 前田利長時代 高山右近の碑③  高山右近像と本行寺堂宇 高山右近像はレプリカだそうですが、作者は大正から昭和中期にかけて彫刻界の重鎮として活躍した彫刻家・吉田三郎。吉田三郎の作品としては長く金沢駅に飾られた杜若(かきつばた)像、台湾の烏頭ダムの八田与一像などが知られています。 ジュスト・高山右近は戦国武将として、清廉潔白で人徳に優れた賢者、戦略・戦術に優れた武将、教えのために大名としての地位や所領を返上するなど献身的な殉教者、更には利休七哲に挙げられる芸術性にも優れていたと云われ、現在でも人気の高い戦国武将です。 キリスト教に殉じて大名の地位・所領の返上、国外追放によるマニラ客死などはよく知られています。この大名返上の際の年齢が33歳。マニラで客死が63歳。この間の30年は、3年間の細川・有馬氏などの庇護を受けた逃亡生活を経て、豊臣秀吉の特赦で前田利家の客将として迎えられて26年間の長きを加賀藩で過ごしていました。 利家在世中は、金沢・大坂間の往復と軍務に忙殺されていたようですが、利長の代には緊急時や高岡城の築城などの他は、家督を長子・長房に預けて半隠居として、文化面や自身の信仰に費やしていたようです。その中で右近は金沢・志雄・七尾に教会を建設したと云われます。 ちなみに志雄町(現・宝達志水町)は、羽咋郡と河北郡の境界に当た…

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本行寺① 丸山(円山)梅雪

実を言えば、山の寺寺院群に訪れた本来の目的地はこの本行寺でした。ところが勇んで来てみれば、住職は裏山の作業中で不在で、用事の人は携帯までの残し紙が玄関に・・・どうもこういうのに電話するのは苦手なんですよね。。勝手に不法侵入するわけにもいかず。。しかも嫁さんが一緒だと尚更。。。というわけで、外回りだけになってしまいました。 また機会があれば、ゼウスの像を始め茶室・きく亭やキリシタンの観音像やマリヤ像、高山右近の書状の草稿などはまたの機会に、、、出来れば5月のデウス祭に来れると最高なんですが。。。  本行寺 山門 本行寺門前 案内文より 本門法華宗 京都妙蓮寺末 揚柳山 本行寺 我国茶湯(殿中)の祖 「円山梅雪」創建(文明年間) 梅雪由来 前田家茶室「きく亭」 皇室より「法華経八巻」奉経 永代聖号寺院 七尾城三面大黒天安置 「ぽぷら(かぼちゃ)御講」 隠れキリシタンの寺 高山右近とゼウスの塔 全山紅葉 一名もみじ寺  畠山文化の重鎮 円山梅雪 草創の寺 本行寺の始まりは丸山(円山)梅雪という人物から始まります。出自には諸説あって判然としませんが(没年1542年、1558年?70歳没)。主要諸説としては・・・ 河内畠山家(畠山本家)の一門衆・遊佐(ゆさ)家に生まれたと云われています。姓は不明ですが(遊佐?)清三郎家長。ただ病弱なため出仕は短期間で出家。丸山梅雪を名乗ったと云われます。正室は泉州堺の有力商家・柳屋から迎えており、分限者として知られ丸山長者とも呼…

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小松(梯)天満宮

もう昨年の話ですが、嫁さんが夏に足を骨折して約2カ月ちょいで仕事に復帰してからも、まだまだ歩くのには支障があったようで、しばらく送り迎えをしてあげてたんですが、2カ月ほどで復調。足慣らしもあるからと歩いて通勤していたんですが、復帰明けから仕事が忙しそうで、ストレスを相当ためていたみたい。 強がってたくせに、ついにまだ床に座ると足に響くんだとグチグチ。。悪い癖で、どうもやせ我慢が過ぎるんですね。 ついに我慢も限界と、気分転換に高めの座椅子を買いに行くことに。。前に、小テーブルを買いに行った家具屋さんを覚えていて、小松まで遠征することに、オリジナルのちょっとした小物インテリアが余程気に入っていたみたい。在庫や陳列もそう多くない店なんですが、余程印象に残っていたようです。気分転換には遠くで一人じゃいけないショッピングが一番とは嫁さんの言葉。。ここのところ、嫁さんの相手は娘に任せっぱなしで、二人で市外へのドライブは、春以来行ってませんでしたねえ。。あ~~耳が痛い。。気に入った足高の座椅子を買ってニコニコ^^なのに、一カ月で用済みにして、その後元気にルンルンしている嫁さんって@@; それにしても家具屋さん(家具ホームファッションイシイ)で、ミニテーブルを買ったのは8年前。よくもまあ覚えていたものです。その時に帰り道に遠回りして小松天満宮に立ち寄ったんですが、思い出して寄ってきました。 H22.10.09 道の駅こまつ木場潟                      H22.10.09 小松天…

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椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石には卍が刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。 卍は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。 横山家 丸に左万字 ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりな…

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椿原天満宮①

椿原天満宮 右の道が天神坂 この神社に関しては、以前に一度アップしています。永仁5年(1298年)に山崎(?)の地・富樫丹波邸(?)に天神社として開基され、観応年間(1350~1352年)に当地に遷座、田井天神と呼ばれていました。ただ前回も書きましたが時代的にも記述的にも疑問が多く、慶長以前は詳細不明の神社です。前田利家金沢入城後に椿原天満宮と改め現在地に社殿を建てています。 江戸時代、常駐の神官が置かれ祭祀的にはもちろん金沢城の防衛拠点としても重要視された金沢五社の筆頭格とされた神社です。また戦国期には一向宗の洲崎兵庫が砦を置いた際は当初の本拠・越中・福光・城端、その後の加賀・本泉寺の先端地であり、金沢御堂の時代には越中方向の最終防衛地となった重要地です。 金沢五社や一向宗時代について興味のある方はこちらをどうぞ⇒2013.08.06椿原天満宮(椿原山砦跡) 天神坂標柱 椿原神社の旧社名、田井天神の隣にあるのでこの名でよばれている。昔坂の上部は三つに分かれていた。 金沢は九十九坂の町とも呼ばれるほど坂道の多い町ですが、その坂道の紹介があると一番に挙げられるのがこの坂になります。椿原坂・天神坂とも呼ばれています。どちらもこの天神宮から由来しています。元々、金沢大学が金沢城から角間に移って以来、急速に開けたのが杜の里・若松・田上といった地域です。それまでもその手前の旭町・田井町・桜町・横山町・材木町などは江戸期には栄えた町でもありました。更に富山の福光に抜ける主要道として重要道でし…

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桑島化石壁(恐竜壁)

桑島の大栃のある百合谷橋を渡って進むと広々した広場の三叉路に出ますが、右折すると谷川に沿った大嵐山への登山道の入り口駐車場に行けます。途中には近年発見された立木の珪化木があり、大嵐山の登山道の途中には水芭蕉の群生群が見られます。5.6月にまた再訪したいなあ。。今回は先日の台風のせいか通行止めの表示があったのと時間的に断念。三叉路をまっすぐ進むことに、以前は深瀬の手取橋まで行けたんですが、道路が数カ所崩落していてトンネルを抜けたところで通行止めです。とはいえ、目的地はこのトンネルでしたから。。。 三叉路からしばらく行くと、前回画像を紹介した「手取川総合開発記念館」が右手の山上にそびえ立っています。遠くからでも目立つ建物ですが、間近で観ると本当に大きな建物です。 その記念館の前には寂しげで朽ち果てそうな旧家造りの家屋二軒(旧桑島資料館)に挟まれた広場に記念碑と迫力満点の恐竜の像が佇んでいます。 「ライン博士顕彰碑」(写真は撮ったんですが不鮮明な上に銘文が潰れたりで、予測字があります。) ライン博士(1853~1918)は、明治七年(1874)に我が国の工芸調査のため、二年間、プロシア国(現ドイツ国)から派遣された。 山岳信仰研究のため、明治七年七月白山登山をされ、帰路桑島化石壁付近で植物化石を採集された。化石は友人ガイラー博士によって、明治十年ジュラ紀(一億数千年前)のものと公表された。このことは、我が国の化石による地質時代確認の最初の報告であった。 したがって、桑島地区は日本…

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桑島の大栃

白山麓には前回紹介した日本最大の栃ノ木「太田の大栃」のような、栃ノ木の巨樹が幾つか点在していますが、そのほとんどが山間の険しい位置にあります。ただ、唯一の例外が今回の「桑島の大栃」になります。 案内板から・・・ 『桑島の大栃』 推定樹齢・約400年 幹周り・615㎝ 幹高・23m 所在地・石川県白山市桑島10号4番地13号 標高・465m  昭和50年の手取川ダム建設事業に伴う、桑島住宅地や道路の整備により、白峰地域では唯一身近に見られるようになった大栃です。 栃の実は、古くから先人を支え、特産品『とち餅』を育みました。これからもこの巨樹が、多くの人々に末永く見守られる事を願います。 桑島区 白峰観光協会 案内板にあるように、本来この木のある場所は、水芭蕉の群生地のある大嵐山(1204m)の中腹に当たります。 元は山間だったところに、昭和50年(1975年)居住地や道路の造成整備によって、身近な位置で観られる巨木になったわけです。 金沢方向からだと国道157号線で左手に手取川ダム湖を見ながら進むと、白峰村落の手前を左折した桑島大橋でダム湖を渡ったところ、ホテル八鵬を左手に曲がった先、百合谷橋のたもとに桑島の大栃が佇んでいます。 樹勢が強そうで、真っ直ぐで太い主幹が目前で枝分かれしており、葉も生い茂っています。横に停めた愛車フィット君と比べてもらうと大きさが解ると思います。白峰の名産品・とち餅や桑島地区のシンボル的存在です。 百合谷と言えば、この谷川の…

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長壽寺③ 八百屋お七の供養塔

長壽寺の見所も三作目、、、、境内には立派な供養塔がありますが、なんと八百屋お七の供養塔と伝わっています。 長壽寺の案内板・・・当山八百屋お七縁起 合掌 八百屋お七の父親は七尾出身で、加賀藩の足軽・山瀬三郎兵衛といい参勤交代の折に江戸に出る。元々、侍奉公を嫌っていた三郎兵衛は脱藩し、本郷駒込追分町に八百屋を開業、相当の財を成した。一六八二年二月二十八日、江戸市外駒込の大円寺から出た火事は、おりからの強風にあおられて南の市内に向かい、本郷・上田・神田日本橋を襲い、隅田川を越えて本所・深川まで延焼、夜になってようやく鎮火した。延焼家屋は大名屋敷七十五、旗本屋敷百六十六、寺社九十五、町屋五万二千余、焼死者三千五百人。世にいわれている八百屋お七の「お七火事」とは、この日起こった火事をさしている。 だがこの火事はお七の仕業ではない。実は、この大火では、お七一家も収容者だったのだ。家を失ったお七一家は菩提寺である円乗寺に仮住まい、ここでお七は寺小姓の吉三郎と運命的な出会いをする。店が再建され、連れ戻されたお七の思いはつのるばかり 「また火事があれば・・・」 そこでお七は翌年三月二日、新築まもない我が家に火を放つ。江戸市中を火の海に埋めたお七はつかまり、火あぶりの極刑にあった。この話は、やがて浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、お七と吉三郎の恋物語は語り継がれてきた。 だが、娘を非業の死で失ったお七の母親の子を思う心はいかばかりか計りしれない。お七の母と称する者が娘の菩提を弔いたいと、供養塔を建…

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長壽寺② 裏千家と宮崎彦九郎義一(寒雉)

長壽寺には、他にも注目に値するものがあります。まずはこの鐘楼堂の梵鐘(釣り鐘)。 以前ご紹介したことが有りますが、加賀藩の鋳物師で宮崎彦九郎儀一(初代寒雉)の作になります。 以前に宮崎彦九郎儀一(寒雉)を書いた記事 ⇒ 2013.05.08 宝乗寺 宮崎彦九郎家は金沢で代々寒雉の名を受け継いで現在14代続く茶釜鋳物師で、大樋焼とともに金沢茶道界の一翼を担ってきた伝統工芸の名家と云えます。その宮崎寒雉・初代の梵鐘になります。 初代・宮崎寒雉こと宮崎彦九郎義一 祖先は七尾北湾の海辺の能登・中居村(現・鳳珠郡穴水町中居)で代々鋳物師を営んでいました。中居村は近くに原料産地もあり、古くから鋳物の産地として知られていたようです。現在は左官業の町になっているそうですが、七尾湾に沿って走る国道249号線を奥能登に向かうと入江に古代猟法のボラ待ち櫓が見られる中居ふれあいパークがありますが、その近くに能登中居鋳物館があり、往古の能登鋳物の歴史が解ります。 天正9年(1581年)前田利家が能登を領有した際に召し出されたのが中居村の宮崎彦九郎吉綱(義一の祖父?)。小丸山城の普請にも係わったと云われますが、主には武具・馬具・鳴り物(鉦鼓,銅鑼など)などの製造に係わっていたようです。天正11年前田利家が金沢に入城すると、木の新保(現金沢駅・駅周辺)に千坪の土地を授けられて武具・馬具の生産工場を任されていました。 江戸時代に入り状況が落ち着いてくると、武具・馬具の製造はある程度落ち着…

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長壽寺① 能登長谷川家菩提寺 長谷川等伯

天正9年(1581年)前田利家が織田信長から能登23万石の領有を許されて、能登に入部すると政務をとるために山城で不便な七尾城から平地で東西にある御祓川と北の七尾湾に囲まれた小丸山城を翌年に築城しています。交通要路・攻め口になる南には今は掘削されて線路になっていますが、大念寺山砦が置かれ、更にその先に加賀・奥能登からの侵攻に対する出城替わりに、低山で緊急時の防御陣地として29の寺院を集積します。現在、山の寺寺院群と呼ばれる地区です。元々、武生府中から呼び寄せた小丸山城内にあった宝円寺をこの地に移したのが始まりで、その後既存の七尾の寺院を集めたものです。ちなみに宝円寺は本拠地を金沢に移した前田利家と共に金沢の現在地に。。寺院は名を長齢寺と改めて、前田利家の父母の菩提寺として存続しています。 後の加賀藩も人心安定政策・防御陣地を目的に前進基地となる寺院集積を行っており、金沢の寺町・東山、富山の梅沢町、大聖寺の山の下寺院群など寺院の密集地帯が要所に配置されています。 寺院群は能登畠山氏の七尾城時代は七尾城周辺に点在していたものが多かったと云われます。現在は16か寺残っていますが、宗派の内訳は浄土宗3・曹洞宗4・日蓮宗6・法華宗1・本門法華宗1・真言宗1になります。金沢・大聖寺・富山の寺院群にも言えるのですが最大人口を誇る真宗寺院が含まれないのは、実質的な加賀前田家の前の実質支配者・旧敵対勢力であり、宗教政策上は平等な扱いですが、講を教義の基本にして地域に密着しており、防衛上には問題があり地域に点在…

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河合谷 大滝

お盆の時季となって、我が家も復活した嫁さんと僕の休日が合うということで、早めにお墓参りに行くことに。。 早くいくということは、他の家族より早いということで、墓掃除は今回は僕たちのお仕事に。。 お盆と言えば、新盆と旧盆がありますが、子供の頃不思議に思っていたのが、石川だと金沢市は新盆の7/15を中心にしていますが、その他は8/15を中心にした旧盆になっています。なんで金沢だけ7月なんだろうと思っていました。まあ、その後も気にはなっても何にも考えない僕は、前職ではお盆休みなど関係なく逆に忙しくお仕事をしていたので、気にもしていませんでした。ところが今の仕事になるとお盆は意外に暇になっているんで、ふと気になって調べたことがありました。 江戸期以前までは、ご存知のように太陰暦を採用していました。ただ、日本では純粋なイスラム世界で使用する月の運行のみで数える純粋なものではなくて、太陽の運行にも合わせた閏月を入れる正確には太陰太陽暦と呼ばれるものを飛鳥時代(554年)に導入して以来、中国の暦を和暦として使い続けていました。江戸初期にズレを修正する日本独自の貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦と改変を加えながら運用していたわけです。今でもたまに見ることがあると思いますが、伊勢神宮が発行している神宮暦の略本などは(子供の頃はなんのこっちゃとみるだけでしたが。。)、この天保歴に沿った作製ですが、修正を加えないので、真実とはあてにはならないのですが。。 旧暦(太陰太陽暦)の良い所は、お月さまを見ればだい…

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浅蔵五十吉美術館 陶壁ビッグモニュメント

能美市九谷焼資料館と道路を挟んだお隣にあるのが、浅蔵五十吉美術館です。 二代・浅蔵五十吉は大正2年(1913年)、能美郡寺井町(現・能美市寺井)生まれ、戦後、現代九谷焼の旗手・トップを走り続けた人物です。昭和61年(1986年)に寺井町名誉町民、平成4年(1992年)に九谷焼作家としては初の文化功労者になったことを記念して、翌年に浅蔵五十吉美術館(能美市立)が開館しています。合わせて、同年には小松市からも小松市名誉市民を受けています。 浅蔵五十吉美術館 斬新な立体造形の建物としても評価が高く、平成6年中部建築賞、翌年には建築業協会賞を受賞しています。 更に平成10年(1998年)10月に建設省(現・国土交通省)設立50周年記念の公共建築百選に選定されています。ちなみに石川関係では、石川県立歴史博物館・金沢市文化ホールがあります。当時の箱物行政批判の払拭を狙ったものですが、それだけに厳選された百選では大型建物が多い中、中小規模建築物としては稀少な存在です。ただ、入り口が登って奥まっているので入場するのを躊躇する人が多いようですが、池を配した直線と三角形を重視した建物を見るだけでも一見の価値があります。 浅蔵五十吉略歴(パンフから) 二代 浅蔵五十吉(1913_1998年) 大正2年、石川県能美郡寺井町(現能美市)生まれ。小学校卒業後、父親(初代・磯吉)から陶技一般を習得。昭和3年(1928年、15歳)初代・徳田八十吉氏に師事、21年(1946年、33歳)に北出塔次郎氏に師事…

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能美市九谷焼資料館

前々回に奥野八幡神社を書いていたら、やはり寺井の九谷焼陶芸村に行こうか、忘れないうちに、、イヤ行った方が良いかなと。。 昨年秋から長いリニューアルのために閉館していた能美市九谷焼資料館が3/21に開館したということだし。。やっと歩けるようになった嫁さんをリハビリがてら誘いまして、九谷焼の鑑賞に それにしても、佐野の泉台地の高台は遮蔽物がなくて、厳しい陽射しに、車から降りた途端に汗がドバ~~ 先々週まで松葉杖をついていた嫁さんですが、もうゆっくりなら歩けると、サッサと館内に逃げ込みます・・玄関にある像も太陽がまぶしそう 加賀の各地に九谷焼の資料館や博物館がありますが、後述する九谷焼作家や後進育成を目指す石川県立九谷焼技術研修所・支援工房九谷、資料館別館でロクロ・絵付体験の出来る九谷焼陶芸館、販売店群など九谷の陶芸村を構成する中心点として、能美市九谷焼資料館は九谷焼の収蔵品は古九谷から現代九谷まで最大規模を誇っています。 能美市九谷焼資料館 HP案内 能美市九谷焼資料館は九谷焼の歴史を振り返るとともに、過去の名作を鑑賞し、さらに現代九谷の新しい息吹を広く一般に公開するため1982(昭和57)年にオープンし、2018年(平成30)年にリニューアルオープンしました。館内では、「紺青の間」「朱赤の間」の江戸時代からの名品の常設展のほか、「紫の間」「緑の間」では随時特…

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奥野八幡神社

能美市の中心地・寺井地区は古代は広大な平野の真ん中に忽然と存在した丘陵と平坦地でした。 古墳期にはこの丘陵地帯に多くの古墳が築かれており60基以上の存在が確認され能美古墳群として国史跡に認定されています。しかし、戦後の高度成長期に市街地化のために丘陵地が掘削されて消滅しており、実際には150.200以上の古墳が集積されていたと推測され、日本最大級の古墳群であり、一大勢力が存在したと思われます。 奥野八幡神社 一の鳥居 表参道 平安初期に加賀国が成立した際にも、能美郡に五郷(村)の臨時集合地となる寺井市(いち)が置かれたと云われています。平安期には加賀の中心地ということもあり荘園が点在して勢力争いも垣間見られますが、この寺井市が商業市場として緩衝地の役割を果たしていたようです。この辺りのことは奥野八幡神社の縁起にも書かれています。 奥野八幡神社由緒 御祭神 応神天皇 比売大伸 神功皇后 武甕槌命 比咩大神 天小屋根命 経津主命 少彦名命 高良玉垂命 千数百年の昔、能美丘陵に墳丘を築き祖宗を祀る豪族がいて、この地にも村があった。 九世紀、加賀立国の時、五郷二駅で能美郡が置かれ、郷が寄り合う寺井市が開かれた。 中世この地が畿内の岩清水八幡や南禅寺などの荘園になり各郷それぞれの争いを、商いで解決し、荘園ごとの均衡を保ったのも、この寺井市があったからといわれている。 十四世紀の初めから、臨時市が定期市に発達し、商い店が建ち人が住んで町に発展し、住む人それぞれが、…

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余談 荘園・刀伊(とい)の入寇

実は次回作・能美市寺井町の奥野八幡神社をアップするつもりで書いていたのですが、いつもの悪い癖で荘園の話を書いていたら、やはり大嫌いな部分は辛らつに長くなる傾向が出てしまい、まとまらない文を羅列してしまいました。。。削除するのももったいないので、、、、そのまま荘園と刀伊の入寇だけ抜粋です。日本史でも一番人気のない時代ですから、覚悟してください。。。 平安期以降は、加賀は多くの有力寺社や皇室領の荘園になっていたのですが、この為に地区(荘園)ごとで分散していたというのが実情です。 荘園というのは有力寺社や皇室領、貴族の領地になります。初期はそもそも、これらが自身で開発した農地を指していました。 歴史の授業では三世一身・墾田永代私有令は律令を崩した原因の法律と教えられたと思います。そもそも目的は新田や畑地という農地開発促進が大きな目的でした。実際にこの法に依って、農地自体は飛躍的に伸びたのも確かです。そして大小の土地所有者が増えて行きました。ところがこの法を悪用したのが10世紀末の摂関家や高級貴族を独占していた藤原氏でした。 それまでは律令の班田収授法によって、土地はすべて国有地で、決められた耕地面積で定められた租税を国衙に納め、中央政府に集められていました。集められた租税を政府が政府運営の国費として地方に再配分するというのが、律令制度の根幹だったのです。前述の三世一身・墾田永代私有令はあくまで土地所有権を土地開発者に認めるもので、本来は租税免除まで認めるものではなかったのです。これは現在…

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さざれ石公園

君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで ♪ 御存じ 「君が代」の歌詞ですねえ。歴史の経過と共に、いろいろな論議を醸す歌なんですが、、、それはさておき国歌としては馴染み深いものがあります。あの独特なメロディーも僕は好きですねえ。。ただ、独唱となると非常に歌いにくい歌で、いきなり歌うと千代に八千代に↑↑で声が裏返っちゃう人が続出。。プロでも失敗は多々、それと、さざれ石は本来つなげて歌うのが本当なんですが、歌い難いので一度さざれと石を切る歌手も多いですねえ。 入学式や卒業式はもちろんですが、各種国際イベントのスポーツではいろいろな人が歌っていますが、僕はテレビで観ることが多いのですが、覚えているというか印象に残っているのは。。。ちょっと対照的ですが。。この二人 小柳ゆき 日米国歌 ポップス調 2000/11 小柳ゆき 2012/2 サッカーWC アジア予選 2012/2 野々村彩乃 選抜高校野球大会 2012/3 小柳ゆきさんは「あなたのキスを数えましょう~~」で、デビューして、「愛情」「be alive」といきなり連続ヒットしました。今はライブ中心ですが、僕は今でも好きで何枚かCDを持っています。 野々村彩乃さんはこの時高校生ですが、声楽コンクールでは名を知られていたようです。その後、プロのソプラノ歌手で活動しているそうです。2.3年前にTVで歌ってる姿を観ましたが、相変わらず耳を惹きつける歌声でした。 ついでに、…

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能登比咩神社

能登比咩神社  表参道入口 一の鳥居 雨の宮古墳群を見て狭い林道を抜け、眉丈山トンネルを抜けて能登部の旧町道を右折して1キロほど進むと能登比咩神社の鳥居があり、長い参道がみられます。鳥居側には駐車スペースがないので手前のスーパー横の路地を登ると神社の駐車場があります。 神社のある場所は能登部・下という古代から続く街道沿いの集落に当たり、伝統的な能登の住宅が観られる地域です。ちなみに上は能登比咩神社には兄宮とも弟宮とも云われる能登部神社の辺りをいいます。能登部神社は後でも書きますが能登国造(くにのみやつこ)の祖神を祭った神社で能登でも重要神社の一つになり、後年には同地で前田家から隠れた寿福院(千代保)が加賀藩3代藩主・前田利常を生んだ地とも云われています。江戸期には前田利常の産神として崇敬されています。利常自身も「兄宮(大入杵命、おおいりきのみこと)の神域を侵すべからず」という掟書を残しています。 上:能登部下 旧家住宅 中:能登部下 旧街道 下:能登部下 能登比咩神社 東部 旧鹿西(ろくせい)町の能登部上・下、徳丸地区は前述の様に古くからの集落であり、黒瓦の大屋根と切り妻の大きな三角壁のアズマダチ、土壁などの古民家の大型住宅が約50軒が軒を並べる地区になります。 石川県の方針もあって、能登の各地には景観保全のために、新築・改築物件に屋根や壁の色調制限がある地区があるのですが、ここもその一つになります。しかし、古くからの伝統的な家屋が多く残る地区としては突出した存在です。そ…

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斐太(ひだ)神社・雁田神社

昨年、上越に行った際に家族でドライブがてら鮫ヶ尾城に登ろうと思って妙高の方に行ったんですが、山裾を車で登っていくと公園の入り口にはパトカーが二台がトウセンボ><前日の大雨で崖崩れでもあったのかと引き返したんですが。。。家に帰ってネットを見るとお城のお祭りだったんですねえ。大失敗でした。。滅多にない好機だったのに。。歩いて登ってみるべきでした家族が一緒だとこれがあるんですね。。 みょうこう景虎物語~山城の陣~ 鮫ヶ尾城は上越でも信州との北国街道における国境警備の城で、春日山城直近の最前線基地に当たりました。 上杉謙信死後の家督争いに端を発した上杉景勝と上杉景虎が戦った御館の乱の決着地です。 画像:上越埋蔵文化財センター前 上杉謙信公像 上杉謙信は御存じのように戦国時代、軍神・越後の虎など軍事では戦国最強とも云われていましたが、その信仰から女犯をしない聖将としても知られるように実子はいませんでした。長尾守護代家の生まれとはいえ四男坊主、栃尾城という中越の一角から台頭して越後を統一、31歳で上杉姓を譲られ関東管領・北国探題の名のもとに勢力を広げていました。 国が広がるごとに人質となる子を受け入れていますが、養育と教育に熱心で気に入った人物は自身の養子や側近としたものが多く存在しました。 画像:上越埋蔵文化財センター 謙信公と春日山城展 ドラマ天地人使用甲冑 左・上杉景勝 右・直江兼続 名前の知られたところでは、七尾の畠山義春(上条政繁、七尾城主・畠山義読の次男)、村上国…

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加賀騒動

更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。 機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。 2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から 脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋) 椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。 こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓があ…

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粟津白山神社

大王寺の本堂を左手に進むと、祈りの小径の入り口になる粟津白山神社の長い石段が現れます。 粟津温泉街を見下ろす山上にあり、一の鳥居から粟津温泉の町の広がりが観られます。大王寺が拝殿とすれば、白山神社の位置は神殿、奥の院といった位置になります。そのためか加賀の国守や、加賀藩から小松に隠居領として入部した前田利常が参拝した記録が残されています。 一の鳥居を潜ったすぐ脇に、綺麗な由来碑がありましたので転記を。。綺麗だったので新しいものだと思ったんですが昭和60年(1985年)のものでした。後ろには同時期に寄進された珠玉を抱えた獅子像。さすが小松・加賀の神社ですねえ。。現代九谷の代表的なモチーフです。珠玉は加賀手毬になることが多いのですが、有力氏子や九谷焼の工房のある加賀・小松の神社ではよく見かけます。けして嫌いなモチーフではないですが、僕にはお金持ちの床の間に置かれた置物が連想されてしまいます。う~~む、貧乏人のひがみ眼ですかね。。 白山神社由来碑 湯の町を眺望するみどり深き山上に鎮座まします白山神社は、奈良時代より粟津保の総社であり、保内の人々によって厚く崇敬されてきた。 粟津保はもと粟津上保、粟津下保に分かれていたが、南北朝以降は合して粟津郷となった。 当社はむかし白山比咩神社と共に伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉〇命(いざなみのみこと)・菊理比咩命(くくりひめのみこと)の三柱を祭ると称せられ、また粟津白山宮と号し、養老二年(718年)僧泰澄の温泉発見の古事に因み…

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養老山 大王寺

祈りの小径からの終点が粟津白山神社と大王寺になります。 さてどちらから書こうかと迷いつつ、どちらも由来や縁起を読めば、泰澄上人の開湯から始まりますし、元は一体の寺院だったと思われます。まあ、祠が先か寺院が先かという余地はありますが、地形は山裾に張り付くように敷地が重なっていますから、共存していたと思われます。 西国三十三カ所 第一番 如意輪観世音菩薩 大王寺・白山神社の中間点 泰澄上人坐像の前にあります  祈りの小径の始点で考えれば、、やはり大王寺からになると思うのでそちらから。。大王寺はのとやの脇を通って80段の石段を登ったところにあります。 大王寺の縁起を撮影して、後で転写・参考にと思ったんですが、見事なピンボケで判読不能状態。。まずは大王寺のHPからご住職のご案内を転写でお許しを。。 養老山 大王寺 HP 当寺は約1300年前の養老二年(718年)に泰澄大師(泰澄神融禅師)によって開かれた「高野山真言宗」の寺院です。 泰澄大師は、聖域として禁則の地であった霊峰白山を白山神(白山妙理大権現)に導かれて開山された高僧です。 白山の山頂で修行中の泰澄大師の元に再び白山神が十一面観世音菩薩のお姿で現れ、「この白山のふもとから山川を越えて五、六里行ったところに粟津という村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉がある。しかしながら、まだ、だれ一人として地中深くに隠れたその霊泉のことを知らぬ。お前は、ご苦労ではあるが山を下りて粟…

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旧養老公園 祈りの小径

おっしょべ公園から山の方に登ると長い散策路になります。別名・祈りの小径。 前ブログでも書きましたが、本来はのとやの側道から登った所にある粟津の守護寺・大王寺からが順路になりますが、今回はおっしょべ公園から逆に進むことにしました。ただ、ちょっと後悔したのは、最初の三叉路までの登り坂が結構きついんですよね。日ごろの運動不足がこんなところに出てしまいます。 祈りの小径には西国三十三観音が道伝いに配されています。落ち葉の中の石仏は少し寒そうですが、なかなか良い雰囲気で静かな山道を石仏を眺めながら進むことができます。案内板には総延長630メートルになっていますが、側道とかもありますから実質的には倍以上はあると思います。起伏があるので運動靴が良いですねえ。   画像はおちょぼ滝 手前が29番・馬頭観世音菩薩坐像 奥は不動明王像 おっしょべ公園から最初の登りでクランクの曲がり角の広場にあるのが、おちょぼ滝 。残念ながら、水は流れていませんでしたが、流れた後がありますから雪解けの春先頃には滝の流れも観られるかも。。 広場には日露戦役の慰霊碑が。。山陰に建っています。日露戦役では金沢の第九師団は乃木希典の第三軍の主力で旅順攻略、奉天会戦で多くの犠牲者が出ています。石川・福井には日露戦役の慰霊碑が多く各地にあります。 急勾配の登りに、やっぱり順路通りにするべきだったと後悔しながらも三叉路に、右に登る道が泰澄上人像や岳山への登山道のあるところ、ますます厳しい登り坂になります。ヒイコラ言い…

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