和倉温泉駅周辺

和倉温泉駅は名前の通り観光地・和倉温泉の玄関口になります。北にまっすぐ1キロほど進むと七尾西湾になり、左手に石川でも一番元気な温泉地・和倉温泉、右手に行けば能登島大橋を渡って能登島に行けます。駅から東に行くと古くからの漁師町の石崎漁港になります。和倉温泉駅の近辺も町名は同じ石崎(いっさき)町で漁師の町として繁栄してきた町です。 8月の第一土曜日には石崎奉燈祭といって、高さ12~15m、重量2トン、担ぎ手100人に及ぶ大奉燈七基を含む14基が担がれて練り歩く勇壮な夏祭りが行われています。能登のキリコ祭りでも最大規模の一つになります。元々は石崎八幡神社の夏祭りで京都祇園社の流れに沿った山車がメインだったのですが、明治22年(1889年)、度重なる大火の被害を受けて、輪島の古い奉燈を移入して奉燈祭となって数と大きさを増して最大規模の祭りになったものです。見所は直角路での角曲がりと乱舞狂演。。日本最大(体積・重量)の曳山の青柏祭・花火が海面を照らし出す七尾港まつりと並んで七尾三大祭りとされています。 夏に嫁さんと行った輪島からの帰り道。。輪島の朝市通りをお昼に出て、七尾の山の寺寺院群に向かう途中、さすがにお腹が減って、立ち寄ったのが和倉駅前の喫茶レスト「はいだるい」外観は喫茶店ですが、カレーはもちろん丼物・うどんまで、ついでにコロッケや大きなエビ天までメニューだけ見たら、食堂そのもの。。 ちなみに「はいだるい」は能登の方言で「体がだるい。つまらない。しょうもない。」といった意味。汽車…

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本行寺② 隠れキリシタンの寺

昨昨年(H29)2月、高山右近の列福式が大阪で行われ、福者の宣言がされた際に長々と3部作を書きました。 高山右近記念公園①  ②高山右近 前田利長時代 高山右近の碑③  高山右近像と本行寺堂宇 高山右近像はレプリカだそうですが、作者は大正から昭和中期にかけて彫刻界の重鎮として活躍した彫刻家・吉田三郎。吉田三郎の作品としては長く金沢駅に飾られた杜若(かきつばた)像、台湾の烏頭ダムの八田与一像などが知られています。 ジュスト・高山右近は戦国武将として、清廉潔白で人徳に優れた賢者、戦略・戦術に優れた武将、教えのために大名としての地位や所領を返上するなど献身的な殉教者、更には利休七哲に挙げられる芸術性にも優れていたと云われ、現在でも人気の高い戦国武将です。 キリスト教に殉じて大名の地位・所領の返上、国外追放によるマニラ客死などはよく知られています。この大名返上の際の年齢が33歳。マニラで客死が63歳。この間の30年は、3年間の細川・有馬氏などの庇護を受けた逃亡生活を経て、豊臣秀吉の特赦で前田利家の客将として迎えられて26年間の長きを加賀藩で過ごしていました。 利家在世中は、金沢・大坂間の往復と軍務に忙殺されていたようですが、利長の代には緊急時や高岡城の築城などの他は、家督を長子・長房に預けて半隠居として、文化面や自身の信仰に費やしていたようです。その中で右近は金沢・志雄・七尾に教会を建設したと云われます。 ちなみに志雄町(現・宝達志水町)は、羽咋郡と河北郡の境界に当た…

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本行寺① 丸山(円山)梅雪

実を言えば、山の寺寺院群に訪れた本来の目的地はこの本行寺でした。ところが勇んで来てみれば、住職は裏山の作業中で不在で、用事の人は携帯までの残し紙が玄関に・・・どうもこういうのに電話するのは苦手なんですよね。。勝手に不法侵入するわけにもいかず。。しかも嫁さんが一緒だと尚更。。。というわけで、外回りだけになってしまいました。 また機会があれば、ゼウスの像を始め茶室・きく亭やキリシタンの観音像やマリヤ像、高山右近の書状の草稿などはまたの機会に、、、出来れば5月のデウス祭に来れると最高なんですが。。。  本行寺 山門 本行寺門前 案内文より 本門法華宗 京都妙蓮寺末 揚柳山 本行寺 我国茶湯(殿中)の祖 「円山梅雪」創建(文明年間) 梅雪由来 前田家茶室「きく亭」 皇室より「法華経八巻」奉経 永代聖号寺院 七尾城三面大黒天安置 「ぽぷら(かぼちゃ)御講」 隠れキリシタンの寺 高山右近とゼウスの塔 全山紅葉 一名もみじ寺  畠山文化の重鎮 円山梅雪 草創の寺 本行寺の始まりは丸山(円山)梅雪という人物から始まります。出自には諸説あって判然としませんが(没年1542年、1558年?70歳没)。主要諸説としては・・・ 河内畠山家(畠山本家)の一門衆・遊佐(ゆさ)家に生まれたと云われています。姓は不明ですが(遊佐?)清三郎家長。ただ病弱なため出仕は短期間で出家。丸山梅雪を名乗ったと云われます。正室は泉州堺の有力商家・柳屋から迎えており、分限者として知られ丸山長者とも呼…

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長壽寺② 裏千家と宮崎彦九郎義一(寒雉)

長壽寺には、他にも注目に値するものがあります。まずはこの鐘楼堂の梵鐘(釣り鐘)。 以前ご紹介したことが有りますが、加賀藩の鋳物師で宮崎彦九郎儀一(初代寒雉)の作になります。 以前に宮崎彦九郎儀一(寒雉)を書いた記事 ⇒ 2013.05.08 宝乗寺 宮崎彦九郎家は金沢で代々寒雉の名を受け継いで現在14代続く茶釜鋳物師で、大樋焼とともに金沢茶道界の一翼を担ってきた伝統工芸の名家と云えます。その宮崎寒雉・初代の梵鐘になります。 初代・宮崎寒雉こと宮崎彦九郎義一 祖先は七尾北湾の海辺の能登・中居村(現・鳳珠郡穴水町中居)で代々鋳物師を営んでいました。中居村は近くに原料産地もあり、古くから鋳物の産地として知られていたようです。現在は左官業の町になっているそうですが、七尾湾に沿って走る国道249号線を奥能登に向かうと入江に古代猟法のボラ待ち櫓が見られる中居ふれあいパークがありますが、その近くに能登中居鋳物館があり、往古の能登鋳物の歴史が解ります。 天正9年(1581年)前田利家が能登を領有した際に召し出されたのが中居村の宮崎彦九郎吉綱(義一の祖父?)。小丸山城の普請にも係わったと云われますが、主には武具・馬具・鳴り物(鉦鼓,銅鑼など)などの製造に係わっていたようです。天正11年前田利家が金沢に入城すると、木の新保(現金沢駅・駅周辺)に千坪の土地を授けられて武具・馬具の生産工場を任されていました。 江戸時代に入り状況が落ち着いてくると、武具・馬具の製造はある程度落ち着…

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長壽寺① 能登長谷川家菩提寺 長谷川等伯

天正9年(1581年)前田利家が織田信長から能登23万石の領有を許されて、能登に入部すると政務をとるために山城で不便な七尾城から平地で東西にある御祓川と北の七尾湾に囲まれた小丸山城を翌年に築城しています。交通要路・攻め口になる南には今は掘削されて線路になっていますが、大念寺山砦が置かれ、更にその先に加賀・奥能登からの侵攻に対する出城替わりに、低山で緊急時の防御陣地として29の寺院を集積します。現在、山の寺寺院群と呼ばれる地区です。元々、武生府中から呼び寄せた小丸山城内にあった宝円寺をこの地に移したのが始まりで、その後既存の七尾の寺院を集めたものです。ちなみに宝円寺は本拠地を金沢に移した前田利家と共に金沢の現在地に。。寺院は名を長齢寺と改めて、前田利家の父母の菩提寺として存続しています。 後の加賀藩も人心安定政策・防御陣地を目的に前進基地となる寺院集積を行っており、金沢の寺町・東山、富山の梅沢町、大聖寺の山の下寺院群など寺院の密集地帯が要所に配置されています。 寺院群は能登畠山氏の七尾城時代は七尾城周辺に点在していたものが多かったと云われます。現在は16か寺残っていますが、宗派の内訳は浄土宗3・曹洞宗4・日蓮宗6・法華宗1・本門法華宗1・真言宗1になります。金沢・大聖寺・富山の寺院群にも言えるのですが最大人口を誇る真宗寺院が含まれないのは、実質的な加賀前田家の前の実質支配者・旧敵対勢力であり、宗教政策上は平等な扱いですが、講を教義の基本にして地域に密着しており、防衛上には問題があり地域に点在…

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能登比咩神社

能登比咩神社  表参道入口 一の鳥居 雨の宮古墳群を見て狭い林道を抜け、眉丈山トンネルを抜けて能登部の旧町道を右折して1キロほど進むと能登比咩神社の鳥居があり、長い参道がみられます。鳥居側には駐車スペースがないので手前のスーパー横の路地を登ると神社の駐車場があります。 神社のある場所は能登部・下という古代から続く街道沿いの集落に当たり、伝統的な能登の住宅が観られる地域です。ちなみに上は能登比咩神社には兄宮とも弟宮とも云われる能登部神社の辺りをいいます。能登部神社は後でも書きますが能登国造(くにのみやつこ)の祖神を祭った神社で能登でも重要神社の一つになり、後年には同地で前田家から隠れた寿福院(千代保)が加賀藩3代藩主・前田利常を生んだ地とも云われています。江戸期には前田利常の産神として崇敬されています。利常自身も「兄宮(大入杵命、おおいりきのみこと)の神域を侵すべからず」という掟書を残しています。 上:能登部下 旧家住宅 中:能登部下 旧街道 下:能登部下 能登比咩神社 東部 旧鹿西(ろくせい)町の能登部上・下、徳丸地区は前述の様に古くからの集落であり、黒瓦の大屋根と切り妻の大きな三角壁のアズマダチ、土壁などの古民家の大型住宅が約50軒が軒を並べる地区になります。 石川県の方針もあって、能登の各地には景観保全のために、新築・改築物件に屋根や壁の色調制限がある地区があるのですが、ここもその一つになります。しかし、古くからの伝統的な家屋が多く残る地区としては突出した存在です。そ…

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雨の宮古墳群

すっかりブログが停止して、ご訪問もせず申し訳ありません。 毎年2月から4月にかけては仕事のかき入れ時で絶対にさぼれない時期に突入しています。 ところがご存知の如く2月初旬から中旬が大雪で交通マヒ状態で動けず、豪雪によって多くの家や車に被害が発生。。おかげでトラブル処理に忙殺、雪が消えた3月には家屋の破損が解る状態で、契約や更新、変更で大変な時期にさらなるトラブル処理、ブログを書き始めるとのめり込むので、ログインしないと決めて勝手な休止状態になってしまいました。この2月から引きずり込まれたトラブルはGWまでは引きずりそうです。。まだまだ、温かい眼で観てください。。おかげで、好きなスポットにもなかなか立ち寄れず、咲き始めた桜も満開の桜も横目で見るだけの生活。。(ため息) とはいえ、ストレスを解消するにはやはり好きな場所に佇むのが一番。山城や古墳など木や草に覆われる場所は冬枯れの3月初旬が地形や形が見えて、最高の時季なのです。合間にはちょこっと立ち寄りたい衝動に駆られてしまいます。たまにはおサボりタイムも欲しいですからねえ。。。 能登半島は日本海に突き出ており、様々な形態の海岸線や年中波静かな七尾湾、深海が陸に迫る好漁場の富山湾と海に恵まれた土地柄です。海に突き出た好位置のために古代から東北・九州の交易の中継港、大陸の朝鮮・渤海などとの交易や親善使節の港があったことが知られています。以前ご紹介した福浦湊(福良津)はその代表のような港です。 しかし、港としての好条件な土地ですが、海岸線を…

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能登国総社

以前も書いていますが北陸道の国名は越の国と云い、分割された国名は若狭(嶺南)、越前(福井嶺北)、加賀、能登、越中、越後、佐渡となります。若狭は北陸道ですが、京都の外海として畿内に含まれることが多く、佐渡は離島ですから、越前・越中・越後を北陸道とすることが多くなります。三国に分立したのは天武末期から持統天皇の時代と云われています。 元は越前・越中・越後の三国でしたが、国域や国境も何度か変遷しています。越前の最大域は嶺北に能登・加賀を含めた領域、越中は新潟の上中越を含んだ領域という時代もありました。 養老2年(718年)、越前国から四郡(羽咋(はくい)郡・能登郡(鹿島(かしま)郡)・鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡)を分離して能登国が誕生しています。天平13年(741年)一旦、越中国に併合していますが、天平宝宇元年(757年)に改めて独立して能登国が再誕生しています。能登が越中時代、国司で赴任したのが28歳の大伴家持(746~749年)で、家持はこの赴任期間に223首の和歌を作っています。 能登巡行の際にも幾つか読んでいます。 (万葉集から) ※之乎路(しおじ、志雄路)から 直越えくれば 羽咋(はくい)の海 朝凪したり 舟梶もがも ※妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川(にぎしかわ、仁岸川) 清き瀬ごとに 水占はへてな ※珠洲(すず)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり ※香島)(かしま、鹿島)より 熊木をさして 漕ぐ舟の 梶取る間なく 都し思ほゆ ※とぶさ(鳥…

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高山右近の碑③

慶長19年(1614年)にマニラに退去させられた高山右近でしたが、乗船した船にはすし詰めの乗員数で劣悪な環境状態。途中、高齢の三人の宣教師が死亡したと云われています。定員オーバーの為、通常の倍以上の日数を掛け、マニラに辿り着いたというのが実情でした。しかし、先駆けの伝達で「日本の殉教者的武将」の名は知られており、マニラ総督府の祝砲と大歓声と共に、大歓迎を受け、総督からはスペイン人しか許されないイントロラムス内に邸宅と十分な援助を与えられたそうです。 しかし、この過酷な船旅に消耗した身体は癒えることはなく、熱病に侵され到着40日後、帰らぬ人となっています。マニラでの高山右近の葬儀は10日に渡り盛大に行われたと云われています。旧暦慶長20年(1615年)1月6日(新暦2月3日)享年63歳。福者記念日は逝去日2月3日。 高山右近に同行した一族や仲間には妻のジュリア夫人、娘で横山康玄に嫁いでいたルチア、長子・長房の子が5人と云われています。高山右近の家族構成については色々な説や伝承があり一致は見ないのですが、マニラに向かった一族は右近と7人の家族と云われています。 長子・長房(ジョアン)については死亡説があって慶長13年(1608年)夫婦共々亡くなった(病没)というものがあります。そうなると、利長が同年に書いた遺言状の不和を嘆いた「高山長房・篠原長次の不和」は右近本人になってしまいますが、この点は大きな疑問が残ってしまいます。この頃の金沢での右近の公的な事蹟は高岡城築城くらいで、伝わるの…

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高山右近記念公園①

今年(H29)2月7日 大阪城ホールで戦国武将だった高山右近(洗礼名ジュスト、ユスト)の列福式が行われ、高山右近を福者とするカトリック教会・ローマ教皇庁の宣言がなされました。古くから、高山右近の所縁の地(金沢・高槻・明石など)から日本キリスト教会に聖者・福者の申請が行われており、もっと大きなニュースとして報道されると思っていましたが、意外に小さい見出しで逆に驚いたものです。やはり、キリスト教は名前は知られても、まだまだ日本での地位は小さいものなのか、聖人じゃないとダメなのかと勘繰ってしまいました。 高山右近列福式ニュース ⇒ バチカン放送局 カトリック教会では各教区から推薦された候補者が「神のしもべ」とされて、教皇庁列聖省による列福の審査対象者になります。神のしもべの中から英雄視、福音的な生涯と公認された者が「尊者」と呼ばれます。 更に、尊者の徳ある行為、あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたものであったことを列聖省が証明した者が列福式を経て「福者」になるわけです。「福者」はその上のランクになる「聖人」の候補者になるんです。今回の高山右近の「福者」の列福は「聖人」への道が開かれたことを意味します。一部関係者の間では一気の列聖を期待していた向きがありました。 ちなみに、近年、「聖人」となった有名人は、「神の愛の宣教者会」を設立して貧困者の救済と後継者育成に尽くし聖女と呼ばれたマザー・テレサ(1997年死去、2003年列福、2016年列聖)。歴代2位の教皇在位と宗教の枠を…

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西保海岸~間垣の里~男女滝

奥能登観光では、のと里山海道から輪島を起点にする人が多くいます。輪島から曽々木海岸を観ながら、珠洲の方に向かうのが一般的な観光コースになっています。輪島から棚田が美しい白米千枚田、御陣乗太鼓の名舟海岸、風光明媚で奇岩の多い曽々木海岸、昔ながらの揚げ浜式製塩の珠洲塩田村の仁江海岸、大谷の鯉のぼり流し、白亜の禄剛埼灯台など見どころ満点の観光コースです。輪島を起点にした方が左手に海岸線が観られ、道の途中に道の駅・ポケットパークも多く休憩や食事処も点在しています。 ところが西に進むとこれといった施設がなく、門前市街に着くまでお食事処もほとんど見当たりません。更に海岸伝いの県道38号に至っては、海岸線を進んで山岳地帯に入ると人家もほとんどなく、交通量も少なくなります。山岳特有の狭く曲がりくねった峠道とはいえ、猿山灯台の手前まで海岸沿いを走れるので、美しい景観が観られますし、何といっても西に海が広がるために、晴れた日に行ければ海に沈む夕陽も観られます。 西保海岸は日本海の強風をまともに受ける為、地形が峻険なものになっています。80mに及ぶ断崖や「ぞうぞう鼻」「夫婦岩」の奇岩が観られます。所々の突端からは天気が良ければ、広がる日本海に七ツ島や舳倉島が遠くに観ることができます。右の画像はちょっと解りにくいですが、UPすると七ツ島と舳倉島が観えます。 能登半島は日本海に突き出た半島の為いろいろな海岸風景が観られます。その中で僕個人の一押しの海岸風景といえば、入江に降りる峠道途中から観る断崖が続く風景と…

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キリコ会館

輪島朝市駐車場の東側の海辺に広がるマリンタウンに昨年(H27.3)にリニューアルオープンしています。 昨年、観たかったんですが、諸事情で見学せずに珠洲の方に行ってしまいました。改めて、今夏に見学することに。嫁さんが朝市通りでキリコの実物を観たこともあって快く同意マリンタウンやキリコ会館の外装も撮ったはずなのに画像が何故か残っていなので、館内のキリコの画像でご勘弁を 元々は、老舗旅館ホテルの高州園から少し東に行った塚田町という所に、輪島塗の最大手老舗の稲忠漆芸堂の工房・販売店と共に運営していたものです。最盛期には相当数のキリコが各地から集められ100基ほどはあったと云われていました。また、ミシュランガイドにも老朽化した建物ながら観光スポットとして二つ星を点けられた隠れた人気スポットでした。 塚田町のは以前にも簡単に紹介しているのでこちらをどうぞ → 旅行日 平成19年8月 ところが、バブル崩壊・能登沖地震の風評被害などで輪島塗販売の不振に陥り、平成22年に稲忠漆芸堂が破産による会社更生法申請、同24年に同法取消で稲忠は隠れた人気スポットのキリコ会館・イナチュウ美術館や輪島でも数少なかった団体客用レストラン・花車などを手放したり閉鎖に追い込まれてしまいました。これらの施設は輪島観光の大きな一翼を担っていたためダメージが大きく、県や市を挙げて存続を検討されましたがキリコ会館のみの存続になってしまいました。、 …

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輪島朝市通り

毎年恒例になっていますが、今年も輪島まで仕事がてら、朝市通りのお客さんの家まで行ってきました。午後からは観光をしようということで、ちょっと体調のすぐれない嫁さんも同行です。娘は翌週に趣味のイベントがあって、部屋に籠って準備中なのでお留守番です。 午前中はお客さんの家に居たので、またまた賑やかな朝市通りは観られずに終わって、横目で朝市の片づけを観ながら駐車場で嫁さんと合流。。画像のようにすっかり終了風景です。 嫁さんは僕のいない間に朝市を1.2時間かけてウロウロ。。。行く前から、去年のおばさん居るかなあ、とウキウキしてましたから、昨年お試しで買った梅干しが僕や娘に好評でまた買おうと意気込んでいたようです。 しっかり、おばさんもいたようで駐車場ではにっこにこで、大きな袋に入った梅干し3か月は持ちそうな量。。嫁さん曰く「天然塩使用で無添加・天日干しで紫蘇に付けた純天然でしょっぱいけど。今年は晴れが多くて天日干しがしっかり出来て、肉ズレが少なくて綺麗な赤になったと、おばさんが自慢していたよ。」「二人の会話を興味津々で観ていた観光のおじさんは「しょっぱい」という言葉に「僕、医者に減塩指示出されている」と、残念そうにしていたよ^^;」というご報告。しっかり防水ナイロン袋の大量買いでこの瓶に4杯分ご購入、約一週間でこれだけ減ったのはいかに梅干し好きな家族というのが想像つくでしょう^^; 一緒に買ってくれた縁賀良饅頭を駐車場で食べて腹ごしらえ。。この後、食事処もないコースで帰ったので、これがお昼ご…

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白米千枚田

遅れてしまいましたが、皆様、明けましておめでとうございます本年もよろしくお願いいたします 昨年は、年末にひいた風邪をこじらせて、完璧な寝正月で年末を含んで約一週間、布団の中で過ごしたのを思い出します。おかげで、20数年ぶりに初詣にも行かずでした。。。更にぶり返しや体調不良で半年近く苦しんで、仕事以外はほとんど大人しくしていました 新年を迎えてみると、嫁さんが参が日は仕事で昼間は不在、娘も自分の趣味でお出掛け、TVの駅伝を観ながらのんびり書類整理や部屋にたまった紙の分類で過ごしていましたが、すっかり出不精で部屋に籠っておりました。けっこういらない書類やパンフレット類が出てきますが、懐かしい物も多くついつい見入ってしまって、遅々として進みませんでした。。 昨年、初詣をしなかったこともあって、今年はなんとなく一人で出かける気にもならず、自堕落に籠った状態で食っちゃ寝の世界に埋没していました まあ、元々が混雑した場所が嫌いで、毎年初詣は4.5日にしていたんですから、たいして例年と変わらない感じなんですがねただ、今年は参が日に土日が絡んで、4日から仕事始め。例年よりお正月気分が薄く感じます。 4日の仕事始めで夕方近くに家に帰って、休日の二人を連れて初詣に行…

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末次城址 (奥能登の城②)

松波城の支城となるのが末次城です。別名は地名から行延城とも呼ばれています。 築城年代は未詳ですが南北朝になるのではないかと云われています。 位置的には松波城から旧街道と云える国道249号線を4キロ程西に位置します。街道を見下ろす位置にあり出城の役目を十分に果たす存在です。また街道は末次城を巻くように続いており、街道と山城の間には木郎川と大杉谷川があり、天然の外堀になっていました。 典型的な山城の形態ですが標高50mと高さはありませんが、山肌を削って攻城兵の登りをきつくしています。東口の竪堀は特に急角度となっており、山頂までの登りのきつさを感じさせます。 本丸や六つの曲輪の一つ一つは大きくなく砦の規模のようですが、城域は大きく取っており標高30~50mの丘陵の三つの尾根を利用しており、その広さは東西360m・南北400mと広範囲に渡ります。尾根と云っても頂上部は高低差20メートルほどで尾根上の移動はけっこう楽にできています。搦め手道は尾根を迂回するように東口・狼煙台・曲輪を迂回するように山並の尾根を利用して各曲輪を結んでおり、南に出られるようにしています。 山頂は守備兵の俊敏な移動を重視し、山肌を堅固にして攻城兵を各個撃破することを狙ったようです。 上杉軍侵攻の際には松浪畠山家の配下武将・末次甚右衛門が主将となり、地元土豪を集めて抵抗していますが、松波城に先立って落城しています。ちなみに末次城の登山口にある家が末次家で、山頂にあった天神社を家の側において守り伝えているそう…

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松波城址 (奥能登の城①)

毎夏、仕事の関係で輪島まで行くんですが、お仕事は午前中のみ。で、毎回、その後に能登観光をしています。 今夏は新幹線効果とまれ効果もあり、石川に来る人が多いようで海浜道路(のと里山海道)も車が多くて、いつもより時間が掛かっちゃいました。最初、仕事でつきあえないと同行を拒否していた嫁さんは、休みが取れたと云って一緒に来てくれたから、1人よりはおとなしい運転ということもあったみたい お天気は家を出るときは良かったんですが、能登に北上するごとに曇天にそしてポツポツ 天気予報は豪雨注意だったけど、そこは出かけると晴れ男の僕車を降りると雨がやむ僕輪島はず~~ッと曇天、ときおり太陽が観れました のと里山海道の高松SAで一休み ここまでは最高に良い天気・・・出がけに何も食べてなかったんで、おにぎりとお客さんにお土産 相変わらずですが、お客さんの家は朝市通りなので、海側の駐車場に車を停めて朝市通りを少し通るんですが、盆後ということで昨年よりお客さんは多く感じませんでしたが(いつもは盆前や祭りの前くらい)、僕が御客さんの家にいる間、朝市をウロウロしていた嫁さんが言うには、去年より賑わってるよ…

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千枚田 イルミネーション

冬になるとすっかり出不精になるし、年末年始の風邪で体調不良でまったくと言っていいほど、仕事以外の外出がなかった僕。ストレスが溜まりに溜り、ついに爆発。 一緒に行かないかと誘っても反応を示さない嫁さんに「ちょっと、行ってくる!!」 午後3時半頃に、行先も告げずに車に飛び乗ってひとっ走り。。向かうは輪島・千枚田 海側バイパスから、H25.4に無料化になって料金所が無くなって、ノンストップで能登空港まで直通になった能登海浜道路改め「のと里山海道」をひた走り、輪島への山越え、海岸線と更に15キロほど。。 場所によって海道に残雪などがありましたが、意外に車も少なくスムーズにPM5:30過ぎ到着。。夕方だけど、まだ当りは少し明るい感じ。。陽が長くなってきましたねえ。。 やって来たのは、輪島の千枚田ポケットパーク 千枚田では冬季間はイルミネーションを施しています。 能登は冬は風も強く、風景も冬枯れで寒々しく厳しい感じ。竹などを使った間垣の風景や波の花など、食も穴水の牡蠣が美味しい。それはそれで風情がありますが、やっぱり寒々しく厳しいのはと、途中の七尾・穴水辺りは雪も多いので、敬遠されることが多いのです。確かに能登と聞くと冬のイメージを持つんだけど、寒い・厳しいはマイナスイメージになってしまいます。 観光に力が入る能登ですが、四季の中でも冬はどうしても観光が落ち込む傾向があります。 そりゃそうだ。。寒風吹きすさぶ海風のなか、海の前に立つのはよほどの酔狂な人か、失恋でもして落ち込んでるか…

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碁石ヶ峰

能登には平野が少ないのですが、といっても半島特有で高山は少なく100~200m前後の山が尾根となって続く地形になります。当然ながら、山並のなかの盆地や海岸沿いに町があります。 100~200m程の尾根が続く中で、500m前後程の高山が幾つかあります。奥能登では高州山(567m)・鉢伏山(544m)・宝立山(469m)、七尾・鹿島の中能登には碁石ヶ峰(461m)・石動山(564m)、かほく市・羽咋の口能登では宝達山(637m)が400mを越す代表的な高山になります。 山岳が多いことから山岳修験の場になっており、石動山を代表とするような山岳信仰の修行地や山岳を主祭神として山頂に神社を置くものが多く見られます。 宝達山から石動山にかけて南北に尾根が続く宝達丘陵ですが、その中に石動山よりに碁石ヶ峰があります。 この碁石ヶ峰の辺りは険しい峠道が示すように急崖地帯になっています。しかし所々に太古の断層運動によって構成された台地があり、同じ断層運動によってできた原山大池の辺りはまるで高原の一画ような風光明媚さがあります。 この景観の良さから、石川県内では5公園ある県立自然公園(山中・大日山、獅子吼・手取、碁石ヶ峰、白山一里野、医王山)に選定されています。 碁石ヶ峰の頂上付近には自動車でも行けますが、ハイキングコースも整備されていて、ちょっとハードなハイキングコースと思って頂ければ幸いです。山頂は羽咋市・中能登町・富山氷見市の境界点にもなっています。 碁石ヶ峰の名の由来は幾つかあ…

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南惣美術館

すっかり、間が空いてしまいました。仕事がきつく成ったのもあるのですが、体調を崩してしまって身体は重いし頭は痛い、ちょっと動くと疲れがひどい。。 おかげで、仕事以外のPC使用を家族に禁止されてしまいました。。UPは遅れるは、皆さんの所にも行けないはで申し訳ありませんでした。まだふらつくけど、だいぶ良くなったので、嫁さんと娘のお許しを戴いて、久しぶりにこれを書いているところです 輪島の西の方に町野の大野地区があります。そこに木々が生い茂った山並みを背景に白壁の大きな蔵と大屋根の屋敷があるのですが、そこが南惣(なんそう)美術館です。 海岸線に沿って山岳が迫る奥能登において、河川は重要な水源であり交通機関でもありました。 特に、この地区に流れる町野川は古くから重要視されていた河川として、両岸は古くから能登を引っ張る旧家や豪族が本拠を置いていました。 南惣美術館のある大野地区も町野川の東岸に当たる場所です。その対岸には、能登旧家として有名な時国家になります。 江戸期に大野村と呼ばれたこの地は、能登アテ(ヒバ)の一大産地で幕府直轄の天領でした。 その大野の土地を所有管理していた大地主が南家でした。南家は江戸期天領下で役人組頭として、大野村の行政にも深く係わっていました。 元々、南家は土着の豪族で13代を数えますが、史実をたどると25代が連綿として続いていると云われます。その在地能力は現在もですが根強いものがあ…

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平時忠墓所&則貞家

平時忠(たいらのときただ)という人物をご存知でしょうか? 平清盛の正妻・時子の実弟で、後白河法皇の寵妃・建春門院(平滋子)の異母兄になります。 清盛の台頭と共に、ただの堂上貴族から正二位・権大納言にまで登り詰めた人物です。 「平家に非ずんば人に非ず」という大言壮語を残した人物といえば、大概の人がこの言葉を知っているはずです。 昨年(H24)の大河ドラマで視聴率の最低記録を作ってしまった「平清盛」の中で、V6の森田剛さんが熱演していました。今まで何人かの俳優が演じていましたが、以前の大河の平家物語(仲代達也主演)の山崎努さんが演じたような重厚な陰謀家が多かったんですが、泥臭くひ弱だから陰謀に走ってしまうというのは斬新でした。 けっして悪い作品とは思いませんでしたが、暗いイメージと複雑な人間関係が視聴者には解りづらくて低迷してしまったようです。 ただ実際の人物像としては、清盛の武闘・豪族的な伊勢平氏とは違い、堂上を許された貴族としての平氏であり文官として活躍しており、武家の一翼として見られがちな清盛を代表とする平家とは一線を画します。 政治的センスはあったようで、何度か左遷も味わっていますが、延暦寺強訴に対して単独交渉・打開を行っていますし、清盛の福原遷都への条件的反対など行動力と洞察力はあったようです。 検非違使庁長官時代の苛烈誅求な行動や一の谷での源氏の使者への辱めなど、激しい性格の一面もあったようです。 清盛没後の総領は平宗盛ですが、実質的な棟梁はこの時忠だ…

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茅葺庵・三井の里(みいのさと)

今年(H25)4月に無料化になった「のと里山海道」 以前までは「能登有料海浜道路」と呼ばれていたんですが、償却無料化を前倒しして名称も変わりました。 輪島や穴水・七尾に直接向かうときは便利になりました。やはり、1000円以上を交通費に払うのは痛かったですからね。 それと料金所が多くて、穴水に行くまでに何度も停車しなければならなかったのが、直通ノンストップはやはり良いですねえ。ただスピードの出しすぎには注意しましょう。速度感知器や覆面に引っ掛ってるのをよく見かけますから 「のと里山海道」の終点「能登空港IC」を降りて、「洲衛」の交差点を左折して輪島市街に向かいます。輪島に行こうとして、初めてここまで来た人はこの交差点で迷ったり、違う方向に行っちゃう人が多いので注意して下さいね しばらく道なりに走ると右手には、健康の森と呼ばれるアテやコナラ・アカマツ・杉の森が続きます。 ちなみにアテ(档)は石川県の県木に指定されている木で、ヒノキアスナロの変種で、青森ではヒバと呼ばれています。つまり石川と青森は呼び名は違うけど、同じ県木なんですよ さて2キロほど行くと大きなT字路の交差点に出るのですが、そこに大きな茅葺屋根の大型旧家が…

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永光寺 ②

曹洞宗の太祖・瑩山禅師が能登で初めての禅道場として創建した「洞谷山 永光寺(とうこくさん ようこうじ)」 創建はちょうど鎌倉末期の時代でしたが、南北両朝からの帰依を受けて創建時から10年で五院二十数坊と大きな規模を誇っていました。 後醍醐天皇から鎌倉末期の約四年間に渡って瑩山に下された「十種の勅問」に奉答したことから、天皇から「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨と勅額を受けています。ちょっと解り難いかもしれませんが、要は天皇直筆の紫袈裟の許可状と寺院の扁額を受けたということです。紫袈裟は僧侶の最高位を表し、瑩山にこれを与えて、それ程になれる曹洞宗の寺院なんだよ。本山なんだよと天皇自らが認めたということになるんです。(ところが、瑩山が總持寺・永光寺どちらで受けたのか、更には總持寺・永光寺ともに兵火や大火がありどちらにも残っておらず、永光寺に答弁書の下書が残されていますが、不明状態で曹洞宗内でも真偽自体が議論されています) 北朝からは光厳天皇の勅願で、足利尊氏・直義兄弟の連名で三重の利生塔が建てられていました。現在は焼失してありませんが塔の礎石跡が残っており、中に納められていた青水晶の舎利器が寺宝として残されています。 瑩山は元亨元年(1321年)に門前(現在の輪島市門前)の(真言宗?の)諸岳寺を住持から譲り受けて本山の總持寺を開山したのですが、3年間で總持寺の寺制を整えると弟子の峨山韶碩(がざんじょうせき)に貫主を譲り、永光寺に住職として戻っています。 永光寺の伽藍…

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洞谷山 永光寺(とうこくさん ようこうじ) ①

金沢方向から国道159号線を七尾方向に走って、白鳥が飛来することで有名な邑知潟(おうちがた)のある邑知を過ぎると右手に「五老峯 永光寺」という大きな看板と石柱の門があります。そこを右折して山の方にしばらく登って行くとある寺院が「洞谷山 永光寺」です。ずっとエイコウと思っていましたがヨウコウが正解だそうです。 永光寺は曹洞宗の寺院です。創建は正和元年(1312年)、瑩山禅師(常済大師)が建立したものです。 現在の曹洞宗の大本山は、御存じのように、福井の永平寺・横浜鶴見の總持寺の二大本山制を採っています。 両本山のトップは貫主と呼ばれており、曹洞宗全体のトップは管長となっています。この両二大本山の貫主が2年交代で管長を努めています。現在(H25)の管長は永平寺の貫主が勤めています。 江戸期以前は奥州と九州にも大本山がありましたが、幕府命令で二大本山になりましたが江戸期には水戸の祇園寺も大本山を名乗った時期がありました。明治維新後は現在の形態になっています。 つまり曹洞宗は大きく分けると2派閥(二大本山)の共同体制組織というわけです。 なぜにこのような2派閥になったのかというと話が長くなりますが、開祖・道元が曹洞宗を開いた頃に遡ります。 開祖・道元が京都の聖興寺で曹洞宗の布教を始めていたころは、新教に対して延暦寺からの制約や妨害が厳しい時代でした。 同じ頃に派生した禅を主体とした日本達磨宗も延暦寺からの制約・禁制を受け、布教禁止令や焼き討ちを受けて越前に避難していたのです…

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お食事処 みず

今年(H23)はなぜか能登に行く機会が多いんですよ。輪島に3回、七尾に3回 仕事絡みなので、家族が一緒に行ったのは1度だけ ただ仕事と行っても、短時間で終わるのが多かったので、ついつい観光になってしまうんですよね。それを口実にしているという話も 一人で運転して名所旧跡を回ると、食事をそっちのけで走り回るし 一人だと早く食事を終わらせて、ささっと走っちゃうのが多いし、そもそも怖い家族の目がないと、とんでもないコースを走りますから、まず食事処がないんですよ おのずとコンビニやお店のパンになっちゃいます。へたするとそれさえない道も そんな中、久しぶりにめっちゃ素晴らしいお店を見つけちゃいました 何が素晴らしいって、「安い」「まずまず美味しい」「量がある」 ちょっと古くて決して綺麗じゃないけど 和倉温泉から見える能登島大橋。この橋を渡ると七尾湾に浮かぶ能登島に渡れます。以前は渡るだけで1500円近く獲られる有料橋でした。 ところが能登島には日本海側最大の「のとじま水族館」や「ガラス工房」も近くにある「能登島ガラス美術館」、「イルカ…

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能登のお饅頭

毎年恒例になってしまった輪島の朝市通りに行ってきました。 今回は仕事のみで輪島を離れ、帰りに能登島によって帰ってきました。 また買ったの?と、云われそうですが、朝市通りで縁賀良万頭は忘れずに買ってきましたよ 途中で何個か食べて家に帰って、オーブンで焼いてまた食べてホクホクもアツアツもまた違った味わいで美味しいですねえ 嫁さんと娘も呆れています。 「お父さんて、ほんとに甘い物食べてる時って、ほんとに幸せな顔してるねえ」 「いいの!!好きなんだから」 ということで、今回は甘党自認の僕の好きな「能登のお饅頭 BEST3」 まずは最初の写真のお馴染み「饅頭処 つかもと」の「縁賀良万頭(えがらまんじゅう)」 お店は輪島の朝市通りの一番奥にあります。朝市にもテントを通りに出しています。 初めての人は色を見てビックリするみたいですが、漉し餡をもち粉で包んで、くちなしで色付けしたもち米をまぶしたものです。 元々は加賀藩の五色生菓子の一つなんです。五色生菓子は加賀藩3代藩主・前田利常に徳川家から珠姫が嫁いだ際に、金沢の菓子屋が創作した祝い菓子です。江戸期は加賀前田家で受け継がれていたのですが、明治になって庶民に行き…

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輪島 イナチュウ美術館 ~ 中島 時葵 ~ 田鶴浜 竹内の味噌饅頭

すっかり毎年恒例になってしまいましたが、今年(H22)も輪島に行ってきました。 今回は夏ばてでへたっている娘はお留守番 一人で行くのは寂しいから嫁さんにつきあって貰ったんですが、途中で二人の携帯に 嫁さんにはお仕事に夜出てきて。。 僕も似たような電話 ゆっくり観光するつもりでしたが残念無念 夕方には戻らなくてはいけなくなりました いつものお客さんも家族で出かけるということで、早々にお邪魔したら久しぶりに朝市通りを見ることが出来ました。久しぶりだなあ。こんなにゆっくり観て廻れたのは 途中で待ち合わせていた嫁さんと出会うと、その手にはしっかり買った物が 毎年僕が買っている縁賀良饅頭も先買い(あんたはエライ) 二人で歩いていたら眼について買った「巌海苔」「あおさ」、嫁さん海草系大好きなんですよ 朝市通りには朝市以外にも面白い場所が幾つかあります。 昨年の日記で紹介した「永井豪記念館」、市姫神社の参道前にある「永井洋服店」は永井先生の親戚でマジンガーZなどのキャラクターTシャツなども売っています。 輪島の朝市通りは…

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金蔵寺(こんぞうじ) ~ モーゼの墓

輪島市街から東に向かい、千枚田を過ぎてから山の方に右折して山越えで穴水に向かっていると、山裾に趣のあるお寺が見えました。ついつい寄り道しちゃいました 田園の向こうの山裾に見える山門はなかなかの重厚さがあります。 寺の名前は金蔵寺(こんぞうじ)、建立は白雉2年(651年)。能登でも最古に近い寺院です。本堂は戦国期の戦乱で焼失してしまい、現在の本堂は1752年江戸時代のものです。境内にはタブの古木もあります。立派な木でしたねぇ。タブは太平洋側の暖かい地区に多い木なんですが、能登の先端にあるのは珍しいですねぇ。 寺の前には、小さな蓮池があったんですが。綺麗な花をつけていました。 さて、穴水まで戻ってきまして、海岸沿いのレストハウスで食事 ちょっと遅い食事になってしまいましたが、その分レストハウスはがらがらでした。のんびりと窓際の席につくと、外には芝生の向こうに静かな七尾湾が広がって綺麗でした。こんな眺めで食べるのも良いもんですねぇ 海を見ながら食べるなら、やっぱりこれかなということでね、「海鮮丼840円」 食べてみると意外にまともで美味しい。レストハウスの名前は「とうりゅう」 団体客用で物産館などという大層な名前だけど、建物は古いし土産物品もあまり置いていない。ちと寂しいけど、この辺りでは食べ物屋がないところだから、続けていけるんでしょう{%…

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永井豪記念館

毎年の夏恒例になってしまいましたが、今回も輪島まで行ってきました。 朝市通りにあるお客さんの家なので、午前中に来るとこんな感じです。 特にこの日は土曜というのもありましたが「能登大祭」が当日だったのでよけい人出が多かったみたいです。朝市通りの北側にある重蔵神社には夜練り歩くキリコが境内に用意されていましたから。 いつものごとく、午前中はお客さんの家にいたので、出てきた時にはしまう準備のところ お客さんの家の側に(H21)5月に「永井豪記念館」が開館したので寄って行く事に実はここが今回のメインのつもりだったんですよ 永井豪さんの漫画は、僕らの年代には馴染み深いですからね永井豪さんは輪島市生まれで幼少の6歳くらいまで住んでいたそうです。ちなみに記念館の斜め向かいに永井洋服店というのがありますが、ここは永井さんの伯父さん筋にあたるそうです。 記念館の入口には、マジンガーZがお出迎えしてくれます。中には原画やデビルマンのフィギュアやファン垂涎のものが並んでいます。カメラ撮影は禁止なので映像なしでごめんね。朝市に来られた際には寄ってみてください。まだ、展示品が少ないので物足りないかもしれませんが、これから充実していくことに期待しています。        永井豪先生は、もちろん現役で、近頃は乱とかの時代劇や戦国漫画を見かけますが、僕は一番好きなのは少…

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千里浜海岸

先日、大阪のakoさんが能登や金沢に来られていました。 んで、千里浜海岸の綺麗な写真が載せられておりました。 千里浜海岸は乗用車でも砂浜を走れる世界でも数少ない海岸線です                           内灘海岸もそうなんですが、石川県の砂浜の砂はきめが細かく成分が固いので車で海辺まで入れる所が多いんです。こういう砂浜になれている石川県人。他県に行ったときに、いつもの調子で砂浜に入って行って出られないなんて、情けないことをする経験者が多くいます 7月中旬から8月にかけては観光客や海水浴客が多いし、なんと砂浜に制限速度の標識やポールが立つので、ちと走りにくい 春秋に行くと車も人もいないので、素晴らしいスピードで走れるのでお勧めです 同じくコメントを頂いたmeiさんに「砂祭り」もあるんだよとお返事を書いたら、「どんなの?」と返されたので、古い写真ですがご紹介します。 千里浜で毎年6月か8月に開催される砂の彫像を作る「千里浜砂祭り」               「能登青年の家(国立…

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恋路海岸

見附島を離れて5キロほど南下すると「恋路海岸」に着きます。前の日記にも書きましたが、ここから見附島の横顔が見られます 海岸からすぐ近くに弁天島と鳥居が見えますが、干潮時には浜辺から島に渡れる道が現れます。それと、毎年7/27には「恋路の火祭り」が開催されています。キリコと花火が勇壮で美しい火の祭りです。 恋路海岸はその名前と縁結びとして多くのカップルが訪れています 3年前までJR能登線の「恋路駅」があったんですが、今は廃線となってしまいましたが駅舎とホームは残されています。当時、松波駅で購入できた「恋路」の切符は人気を集めていました。チョット残念ですねぇ。 恋路海岸の名前はある悲恋伝承から付いたものです。海岸のモニュメントの側に建つ説明板に書かれています。 約700年の昔、助三郎と鍋乃は、人目を忍んでこの浜で逢瀬を重ねていた。暗い夜、鍋乃のともす灯は助三郎の唯一の目標であり、愛する二人を結ぶ希望の灯でもあった。 鍋乃に想いを寄せるもう1人の男・源次は二人の仲をねたみ、灯を崖のはずれに移してだまし、助三郎は深い海から帰らぬ人となり、鍋乃も源次の求愛を退け、海に身を投げ、助三郎のあとを追った。 この悲しい恋の物語を秘めた浜は、いつの頃からか「恋路」と呼ばれるようになったと伝えている。(説明板から)   助三郎は狼煙の漁師、鍋乃は地元恋路の女だったそうです。つまり、助三郎は真夜中の海を禄剛…

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