富樫家俊 館跡~押野後藤家 屋敷跡

平安中後期から戦国後期まで加賀国武士団の有力者の筆頭とされたのが、富樫氏でした。 野々市町小史の略系図によれば、藤原北家・藤原房前の五男・魚名の流れで鎮守府将軍・藤原利仁を祖にすると称しています。藤原利仁の諸流には、各地域で諸説ありますが、北信越の各国の武士団創始の祖とされています。 利仁は長男を越前済藤(斎藤)氏、三男を越中井口氏を起こさせ、次男・叙用が加賀国守となり富樫姓を、それ以降は加賀介を世襲土着、小松国府に四代を住しています。利仁から七代目・富樫家国の代に野々市に富樫館を構え本拠を移し、石川郡・河北郡南部を領有したとされ加賀介から富樫介を名乗ったと云われています。この時に兄が林氏を起こして能美・小松郷を領しています。林・富樫両家は平安中後期から鎌倉初期に至って加賀を主導し両家から後の加賀武士団の各豪族が分家派生したとされています。承久の乱で林氏を含め加賀の多くの豪族が衰弱・没落する中、富樫氏は波乱の中を生き残り、戦国期を生き続け加賀の代表として600年以上に続いた名家でした。 ちなみに富樫氏当主が名乗った富樫「介」について・・・ 古代から中世にかけて、朝廷が派遣した国司(地方行政官)は、国の規模や格によって違いはありますが、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう、丞)、目(さかん)の四等官になります。職務が重なることもありますが原則的には守=地方国行政長官、介=副長官、掾=軍事・警察長官、目=記録・奏上などの書記官と思って頂ければ。。。 これとは別に重要地と見なされた西…

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芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。 先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。  石川県立美術館広坂別館 大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。 翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、…

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満願寺山 九萬坊権現 ~ 富樫大明神

前回の桃雲寺の記事の最後に紹介した九萬坊(くまんぼう)という天狗。金沢にはこの九萬坊を祀っている神社やお寺は幾つかあるんです。 有名所では珠姫の菩提寺・天徳院、寺町にある前田利家の娘・菊姫の菩提寺・西方寺。医王山にある山岳信仰のメッカ医王山寺などが知られています。特に知られているのが金沢東部の窪団地の頂上にある満願寺山にある「九萬坊権現」。 本殿とも云える奥の院は満願寺山の更に山向うの三小牛にある黒壁山にあります。こちらにも相当前に一度行っているんですが画像が無いので、春になったら再訪してご紹介するつもりです。 というわけで、今回は窪にある「九萬坊権現」です。 満願寺山は標高176.6m。金沢の東南部の高尾にあるお椀を伏せたような丸っこい山です。その山裾の斜面にあるのが窪団地という新興団地ですが、急な斜面で勾配のきつい坂道が多いことでも知られています。その頂上部に九萬坊権現はあるのですが、そこまで登るのには車が悲鳴をあげそうな斜面です。冬場の雪がある時期には登れない車があるため、平野の下部に駐車場を借りている住人も多いそうです。 そのような悪条件の地なのですが、この満願寺山の頂上部には古墳期前期の高地性集落跡、三基の方墳、更に隣の高尾山の高尾城の支城的な砦跡が混在していることが確認されているそうです。ですから、古から知られた場所にはなっていたようです。 高地性集落は平野部ではなく、生活条件としては悪条件な山頂や斜面に作られた集落です。主に西側に向いた海などを望める地に多…

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伝燈寺 富樫守護家・終焉の地

金沢から越中福光に向かう旧街道にあるお寺で「伝燈寺」があります。 加賀伝統野菜の伝燈寺里芋でも知られる地区でもあります。 東金沢・森本方向から向かうのが本来の道筋ですが、金沢大学のキャンパスを抜けて福光に向かう県道から回った方が道が解りやすく、車も走りやすいと思います。 「伝燈寺」の開山は元徳3年(1330年)、曹洞宗の太祖・瑩山禅師に師事し、大乗寺住持を継いでいた臨済宗僧・恭翁運良が大乗寺を出て開いたものです。正式名は「瑞應山 傳燈寺」。最盛期、室町時代には塔頭二十一ケ寺・末寺五十ケ寺を数えたと云われています。 長享2年(1488年)に加賀守護・富樫政親が高尾城で一向一揆に敗死しましたが、実権は本願寺派に握られていましたが加賀守護・富樫家は富樫館を中心に存続していました。ところが元亀元年(1570年)、北陸進出を狙う織田信長に呼応して加賀守護・富樫晴貞は加賀復権を狙って兵を挙げました。しかし、一向宗徒に敗れ富樫館は焼亡。最後にこの「伝燈寺」宗徒に匿われ共に篭りましたが寺は火攻めで焼かれ、晴貞は裏山で自刃したと云われています。裏山には晴貞の墓がありますが、これは江戸期に作られたものと云われています。また堀切などの跡や名残が一部にみられます。 富樫晴貞はこの寺の落城前に嫡子の富樫春友を越中に落ち延びさせたといわれ、その子孫は現在は福島県に在住だそうです。 富樫晴貞の死後、兄・泰俊が野々市で反抗して敗走していますが、実質的にはこの伝燈寺が加賀守護・富樫家の終焉の地となったといえ…

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布市神社

野々市市で一番大きな神社がこの「布市神社」です。場所は旧野々市役場(現・野々市図書館)の隣りになります。 創建は康平6年(1063年)、富樫家国が加賀介(後の守護)となって野々市(当時は布市)に国府として富樫館を建てた際に、邸内に住吉三神を祀った祠堂を建てたのが始まりとされています。更に富樫泰家(勧進帳の富樫)が加賀国守として、加賀富樫家の開祖といえる「富樫忠頼」を合祀して護国神社と称していたそうです。 富樫館滅亡後は衰退していましたが、元和元年(1615年)に加賀藩3代藩主・前田利常による調査・保護によって復活したそうです。明治以降は富樫郷住吉社と呼ばれていましたが、八幡社2社を合祀して「布市神社」となったそうです。 境内には 「弁慶の力石」・・これは大野湊神社に泊まった源義経から答礼に富樫館に派遣された弁慶が富樫泰家の前で力技を披露した時に使ったとされる石。江戸期は雨乞いに使われたそうです。 「公孫樹」・・高さ20メートル・幹回り5メートル・樹齢500年以上豊臣秀頼の側近として大阪の陣で活躍した木村重成の伯父とされる木村孝信の墓標とされています。孝信の屋敷は旧役場跡だったそうです。 「道興の歌碑」・・、「風をくる 一村雨に 虹きえて のの市人は たちもをやまず」 道興は聖護院門跡から園城寺・熊野三山・新熊野社の長史・検校を兼務した人物で、大僧正・準后(皇族待遇)と僧侶としては最高位まで進んだ人物です。北陸・関東・奥州を廻国し、紀行文「廻国雑記」を著した人物としても知られ…

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富樫館 堀跡

以前、高尾城址の記事で紹介したように、多くの教科書などには1488年に守護の富樫政親が倒され、加賀は一向一揆の「百姓の持ちたる国」などと書かれていますが、実際には加賀守護の富樫家は存続していて、実権は本願寺にありましたが、守護としての富樫家はそれなりの尊重を受け、一種の協調体制をとっていたようです。 http://72469241.at.webry.info/201210/article_5.html 1531年に守護追放がありましたが、実際には守護の二男・富樫晴貞が継ぎ富樫家は守護職待遇として存続していて1570年まで続いています。 その加賀守護家が本拠を構え政務を執っていたのが「富樫館」と呼ばれたこの場所です。以前から江戸時代の文献や古図からこの辺りではないかと推定されていたのですが、平成6年(1994年)の発掘調査によってⅤ字形の幅6メートル・深さ2.5メートルの大規模な堀跡や白磁器・鏡が発見され特定されました。特に鏡は奈良の法隆寺に奉納された物と同じものだそうです。古図や測量図から館の規模は1.5町四方(164メートル四方)在ったとされています。 写真で解るように空き地奥の窪みが堀跡で、その向こうの家からが館跡とされています。なぜに今まで特定できなかったかといえば、富樫家亡きあとは中心地が野々市から金沢御坊(金沢城)に移り荒廃したことと、江戸末期から明治初期にかけて野々市全域に大火を浴び、その後の急激な住宅化が進んでしまったことがあります。現在も館跡と推定される部分は住宅…

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富樫家御廟谷

高尾城の南側、額谷町の交差点を山側に入って、額谷ふれあい公園を右に見ながら山道を登って行くと遊歩道の看板の側に「富樫家御廟谷入口」の標柱があります。 ここから約500mの険しい登り降りを進んで途中を右に降りると、三つの五輪塔が建つ一画があります。ここが「御廟谷」と云われる場所です。富樫家代々の墓域と伝わる場所です。 1488年、高尾城落城の際、城主・富樫政親は自刃しましたが、その後遺体は当時の野々市にあった大乗寺に葬られたのですが、高尾城で戦死した重臣の額丹後・景春・親家の3代をここに葬ったと資料が残っているそうです。 ただ、丹後守は元々富樫政親と争った幸千代派の重臣で落城の20年程前に合戦死しています。しかし子の景春・孫の親家は富樫政親と共に高尾城で戦死しています。 円墳形式をとっていることなどから諸説まちまちで、富樫家の墓域かもまだ未確認の状態ですが、寺院・墓所の可能性が高く、今後の研究・調査が待たれています。 御廟谷は「額谷レクリエーション遊歩道」の一部になるのですが、この遊歩道はなかなか起伏が厳しく、ハードなので装備を整えて行くことをお奨めします。カモシカなどの野生動物にも出会う場所です。金沢市が住宅街からわずかに山に入ると、とても深い自然の中になることを実感する場所です。 旅行日 2011.9.9

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高尾城址・見晴し台

金沢市の東南に位置する場所にあったのが「高尾城」別名は「富樫城」 「百姓が持ちたる国」と呼ばれた加賀一向一揆を象徴する城でした。 高尾城の築城年代は不明ですが、富樫氏が建武の新政時に加賀守護についた1335年から加賀守護に復帰した1400年初頭ではないかと云われています。富樫氏の本城でしたが防衛戦用の山城で郭内に館などもあったという記録もありますが不明です。守護職は近くの野々市の「富樫館」に住んで政務・生活をしていたようです。 高尾城の最後の城主は富樫政親。一時期、小松の今江城に本城を移したりしましたが、ここを本城にして加賀一国の守護でした。1488年、一向一揆に攻められこの城で自刃しています。城もこの後歴史に出てくることがなく廃城となったようです。 教科書などでは政親の死を持って加賀は百姓の国になったと書いている物が多いですが。政親の家督継承の際、応仁の乱の関係で東西に分かれた弟の幸千代(大聖寺城主)との長きにわたる争いとなり、政親は一向宗の支援を受けて勝利を得ました。その後から一向宗勢力の勢いを恐れた政親は一向宗の勢力減少を狙い圧迫を続け、たまりかねた一向宗徒が在地勢力や一部の富樫一族と結びつき、守護に反抗して攻めたのが真相です。実際、落城後、守護職は政親の大叔父・富樫泰高がついています。大きく力は弱まりましたが守護としての地位と政務は富樫家に残っていたわけです。 更に言えば、1531年本願寺の内紛により起こった「大小一揆」において、富樫家は小一揆に加担して敗れ守護追…

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弁慶謝罪の地 堂林寺跡

安宅の関に行ったので、せっかくなので「勧進帳」の完結の地にも立ち寄りました。 根上町と美川町の境には昔、道林寺という寺院がありました。 根上町の体育館の脇道を入り、公民館の前広場に記念碑があります。 ちなみに根上町はスポーツ教育が盛んな土地柄で、格技館や町営グラウンドも充実しています。今年アスレチックスに移籍した松井秀喜の生家も近く。こんな土地柄もメジャーリーガーが生まれたのかもしれません。 計略の為とはいえ、主人の義経を杖でぶん殴った弁慶が涙にくれて、謝罪をしたのが堂林寺と云われています。 ここで休息を取っている義経一行に、後を追って来た富樫が酒樽を振る舞い酒宴を催しています。しかし、疑った弁慶が舞を舞う間に義経一行を先行させ、自分一人が残って富樫に礼を申し上げて立ち去ったそうです。 この行為に激怒するかと思いきや、富樫はこの主人思いの弁慶を優しく見送ったそうです。その後、義経主従は東の鶴来の金剣宮に、北の大野湊神社に向かったという2説があります。 ちなみに富樫は、名前は「富樫左衛門泰家」。安宅の関守となっていますが、この時は加賀の守護に任じられていました。 この安宅の一件によるためか、義経逃亡後解任されて出家しています。 更に後日談があって、彼はその後、一族で奥州平泉に行き、義経との再会を果たして加賀に帰国。現在の金沢の隣町の野々市に本拠を構え、長寿を全うしたそうです。野々市に本拠を構えた富樫氏は、建武の新政時に加賀守護に復帰しました。その後、一向一揆との確執…

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