粟津白山神社

大王寺の本堂を左手に進むと、祈りの小径の入り口になる粟津白山神社の長い石段が現れます。 粟津温泉街を見下ろす山上にあり、一の鳥居から粟津温泉の町の広がりが観られます。大王寺が拝殿とすれば、白山神社の位置は神殿、奥の院といった位置になります。そのためか加賀の国守や、加賀藩から小松に隠居領として入部した前田利常が参拝した記録が残されています。 一の鳥居を潜ったすぐ脇に、綺麗な由来碑がありましたので転記を。。綺麗だったので新しいものだと思ったんですが昭和60年(1985年)のものでした。後ろには同時期に寄進された珠玉を抱えた獅子像。さすが小松・加賀の神社ですねえ。。現代九谷の代表的なモチーフです。珠玉は加賀手毬になることが多いのですが、有力氏子や九谷焼の工房のある加賀・小松の神社ではよく見かけます。けして嫌いなモチーフではないですが、僕にはお金持ちの床の間に置かれた置物が連想されてしまいます。う~~む、貧乏人のひがみ眼ですかね。。 白山神社由来碑 湯の町を眺望するみどり深き山上に鎮座まします白山神社は、奈良時代より粟津保の総社であり、保内の人々によって厚く崇敬されてきた。 粟津保はもと粟津上保、粟津下保に分かれていたが、南北朝以降は合して粟津郷となった。 当社はむかし白山比咩神社と共に伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉〇命(いざなみのみこと)・菊理比咩命(くくりひめのみこと)の三柱を祭ると称せられ、また粟津白山宮と号し、養老二年(718年)僧泰澄の温泉発見の古事に因み…

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能登国総社

以前も書いていますが北陸道の国名は越の国と云い、分割された国名は若狭(嶺南)、越前(福井嶺北)、加賀、能登、越中、越後、佐渡となります。若狭は北陸道ですが、京都の外海として畿内に含まれることが多く、佐渡は離島ですから、越前・越中・越後を北陸道とすることが多くなります。三国に分立したのは天武末期から持統天皇の時代と云われています。 元は越前・越中・越後の三国でしたが、国域や国境も何度か変遷しています。越前の最大域は嶺北に能登・加賀を含めた領域、越中は新潟の上中越を含んだ領域という時代もありました。 養老2年(718年)、越前国から四郡(羽咋(はくい)郡・能登郡(鹿島(かしま)郡)・鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡)を分離して能登国が誕生しています。天平13年(741年)一旦、越中国に併合していますが、天平宝宇元年(757年)に改めて独立して能登国が再誕生しています。能登が越中時代、国司で赴任したのが28歳の大伴家持(746~749年)で、家持はこの赴任期間に223首の和歌を作っています。 能登巡行の際にも幾つか読んでいます。 (万葉集から) ※之乎路(しおじ、志雄路)から 直越えくれば 羽咋(はくい)の海 朝凪したり 舟梶もがも ※妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川(にぎしかわ、仁岸川) 清き瀬ごとに 水占はへてな ※珠洲(すず)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり ※香島)(かしま、鹿島)より 熊木をさして 漕ぐ舟の 梶取る間なく 都し思ほゆ ※とぶさ(鳥…

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以仁王と北陸宮

富山県の最東部・朝日町の朝日ICから国道8号線を新潟方向に進むと城山を貫く笹川・城山の二本のトンネルがあり、抜けると左手に翡翠がとれる別名・翡翠海岸と呼ばれる宮崎海岸の海岸線が観られ、それまでの暗く狭い道がいきなり開けたような穏やかな平地に変わります。この平地帯は東端の境川で越中・越後の国境になります。この境川の地は国境の緩衝帯であり、国境の係争地でもありました。江戸期の加賀藩の境関が出来るまでは越中側の国境警備・防御は、この城山の山頂にあった宮崎城が果たしていました。 散らした画像は、笹川郷の総氏神の笹川諏訪神社です。寿永元年(1182年)源義仲が諏訪大社の大祝(おおはふり)・金刺盛澄に銘じて勧請して建立・創立した神社です。全国にも広がる諏訪神社の中で創立者・創立年が明確なのは笹川諏訪神社が唯一だそうです。この地で源義仲が烏帽子親となって元服式が行われ、正式に北陸宮という名が誕生した地です。 この宮崎城を築いたのは地元の豪族・宮崎長康ですが、城としての防御機能を持たせるようになった最初の事由が、朝日将軍・源義仲がこの城山の裏側に御所を造営して以仁王の第一王子・北陸宮を庇護し、その防御の役割として城山の山頂に築城を命じたのが始まりと云われています。今回はこの北陸宮の出自と父親の以仁王について。。。名前は「以仁王の令旨」として平家打倒の旗印としてよく知られていますが、どんな人と云われると意外に知らない方が多いですからね。。 治承4年(1180年)5月、以仁王は打倒平氏の令旨…

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白山七社(番外編) 岩根神社

前回紹介した白峰の中心から天領取次元・大庄屋・山岸家を右手に観て、石積みが観られる道を真っ直ぐ行くか、白山公園線を市ノ瀬方向に進むと。。白山公園線を冬季通行止めにするゲートの左手に広場があります。 そこが岩根神社になります。(例年ならば11月から4月末までゲートは閉まっていることが多いです。) 白山七社・岩本神社で書きましたが、岩本宮の旧名が岩根宮と呼ばれたとなっていました。能美市教育委員会では岩根宮として文化財指定しています。 しかし、疑義にしたように岩本神社では、岩根宮の名称を天狗壁頂上の磐座を名の謂れにしていますが、やはりどうしてもこれには無理が多いと思われます。それに加賀禅定道とは手取川を挟んでおり、登山道とは少し違っています。ただ、中世以降は間違いなく岩本の渡しの関係性からも岩本宮として白山七社・本宮四社の一角というのは間違いありません。 白山開山(養老元年・717年)から加賀国成立(弘仁14年・823年)までは加賀自体が越前の一部でした。 加賀・越前・美濃番場が定められた天長9年(832年)、鎌倉時代に書かれた白山之記に岩本宮の記述があることから遅くとも平安末期。それまでは加賀の白山社として岩根宮という存在があったわけです。 白峰が主張しているのがこの岩根神社の地になります。越前・加賀禅定道からも離れた位置です。 しかし白山七社の中でも加賀国府からの道からの中継点になる岩本宮・別宮。松任・金沢からの本宮の前に立つ剣宮が示すように、加賀の白山七社は各街道…

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白山七社③ 佐羅早松神社

加賀番場にあたる白山比咩神社と岩本宮・剣宮・三宮はある程度近い距離の存在で固まっています(本宮四社)。 「白山之記」の「白山七社本地垂迹事」という箇所には・・・ 本宮   御位は正一位なり       本地は十一面観音なり。 垂迹は女神なり。 御髻と御装束は唐女の如し。 金剣宮 白山の第一の王子なり       本地は倶利伽羅明王なり。 垂迹は男神なり。 御冠に上衣を着す。 銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀刷かせ給ふ。 三宮   白山の第三の姫宮なり       本地は千手観音なり。 垂迹は女神なり。 御装束等は本宮の如し。 岩本宮 白山の第二の王子なり       禅師権現なり。 本地は地蔵菩薩なり。 垂迹は僧形なり。 本地は仏教での本体。垂迹は姿を変えた神話の神の姿になります。この四宮が本宮の菊理姫神を母親にして、残りの三つの宮は兄弟・妹の家族を表していることになります。金剣宮の倶利伽羅明王は剣が本性の明王ですから不動明王にすることがあります。 これから紹介する中宮三社も、この形式を持っていて、関係性が解ります。前述の「白山記」の同文を記すと   中宮   本地は如意輪なり。 垂迹は本宮の如し。 ただし童形か。 児宮と云々。 ただし根本は如意輪なり。 後に三所を祝ひ奉る。 佐羅宮 本地は不動明王なり。 垂迹は金剣宮の如し。 早松は普賢・文殊なり。 二童子の本地か。 別宮   本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は…

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白山七社② 岩本神社

だいぶ日が経ってしまいましたが、白山七社シリーズに戻ります。 前回のブログ ⇒ 白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺 白山山頂の奥宮へと参拝する禅定道は、加賀・越前・美濃の三道がありました。古来の禅定道は信仰の道ですから、自分の足で歩くのが基本でした。どんな有力者・分限者であれ変わりはありませんでした。 古く伝統のある神社や寺院の入り口では観ることがあると思いますが、下馬下乗の石碑や掲示札(下馬札)があります。 大きな神社になるとその神域は広大なものになっていきます。白山神の神域もなかなか広大なものになります。最初に元も子もないことを書いてしまいますが、白山という名の山は本来はここには存在しないんです。御前峰(2702m)・剣ヶ峰(2677m)・大汝峰(2684m)の白山三峰、三県が跨る別山・三ノ峰を加えた白山五峰を中心にした山地の総称が白山になり、正式には両白山地・白山連峰といいます。ただ両白山地にしてしまうと、富山・石川・福井・岐阜;滋賀の山並みのほとんどになってしまうので、白山と云えば前述の五峰を中心にした連山を指して言います。白山開祖の泰澄上人が拝んだ別山・御前峰・大汝峰が白山三山と云います。この三山にそれぞれ別山神社・白山奥宮・大汝神社が置かれています。この三山が白山神の総称地になります。 当然ながら、この神の山地・越のしらやま・白山に登る禅定道も神の道ということで、下馬下乗の対象になったわけです。加賀・越前・美濃の三禅定道が成立したのは平安時代初期で、その起点(…

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倶利伽羅峠 手向神社 倶利伽羅公園①

前々回の記事では、倶利伽羅不動尊の西之坊・鳳凰殿をご紹介しました。 僕の子供時代と云えば、山頂本堂に初詣でに行くのが、当たり前になっていました。倶利伽羅駅から反対方向に父方の本家があって、年始がてら伺って、軽トラで乗せてって貰うか、坂戸口や九折(つづらお)から、てくてくと登って行ったのを覚えています。その頃は、そんなにきつい印象の記憶がなかったんですが、改めて車で登ると結構どちらの道も険しく厳しい道のりです。若かったのかなあ。そういえば、小中学高校の頃、歩くことには全然苦にしてなかったなあ。。今はちょっとの坂道でぜーぜー 当時は裏駐車場から参拝してたんで、ほとんど手向神社の印象はなかったんですが、大人になって自分の運転で登るとなると坂戸口からの距離が長く感じるけれど、子供の頃は観ることのなかった場所を再確認することが出来て、思わぬ発見や位置関係が解るようになって、この辺りに来ることを楽しみにするようになっています。 実は、山頂本堂に行って奥の院の撮影をしたはずなのに消えておりまして、また行ったときに奥の院を撮影して記事を書こうと思っていました。ところがそう思っている時に限って機会がないんですね。で、奥の院はまたの機会ということで。。倶利伽羅不動寺を書き始めて方針転換。。僕が、倶利伽羅では倶利伽羅不動明王以上に重要と感じる神様について、先に書くことに。。 鳳凰殿のブログで書いたように、倶利伽羅不動尊は長楽寺としての歴史は長いのですが、江戸末期の門前店の火災の延焼で荒廃した後は、再…

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四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)

全国には変わった神様を祀っている神社がありますが、北金沢の波自加弥(はじかみ)神社もその一つです。 波自加弥神社が主祭神としているのが生姜(しょうが)の神様になります。生姜の古名は「薑・椒」で「はじかみ」と読んでいたと云われています。神社名の波自加弥はこの語が変じたものだと云われています。金沢では波自加弥神社の生姜から更に広義に広げて香辛料の神様として、神社で開催される「はじかみ大祭」には、生姜を扱う生産者や業者はもちろん食堂やレストラン関係者が集まってきて製品などを献納して、社業発展などを祈願して賑わっています。日頃は静かな神社ですが、この日は賑やかな祭礼でごったがえします。近年ではすっかり金沢の風物詩の一つになってきています。 6月15日は「生姜の日」。実はこれはお茶漬けの素やふりかけなどで知られる永谷園が、日本記念日協会に登録申請して制定されたものなんです。H19(2007年)に冷え知らず・生姜シリーズのヒットで、気を良くした永谷園は生姜部という部署を造るほどの力の入れよう ⇒ 永谷園生姜部HP H21(2009年)に前述のように日本記念日協会に申請して6月15日が「生姜の日」になったのですが、波自加弥神社のはじかみ大祭の開催日でして、永谷園はこの祭礼の日に因んで申請したそうです。 波自加弥神社の神主・田近氏は、河北・金沢や白山市の神社合わせて42社の兼務をしていて、石川県神社庁の金沢支部長さん。相当多忙なはずなんですが、ブログも毎日更新しています。神主らしからぬはじけた…

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白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺

お客さんへの営業廻りの時間調整や予定のない帰途に名所旧跡めぐりをすることが多い僕ですが、本来ならばこの時季は桜の名所ならばいうことなしなんでしょうが。。。そこはお客様の場所と時間次第さらに飛び込みの事務仕事が多いんで、出られない時も多いんで。。 桜の名所もちょこちょこ短時間立ち寄りはしていますが、また後になりますが時季外れという声は無視してご紹介いたします^^なんせ気に入ってて、3年連続で行ってる場所もあるのにいまだアップしてないし‥ ここ何日かは白山麓の入り口に行っていました。おかげで、まだ行ってなかった白山七社の佐羅早松神社にもよることが出来ました。これで白山七社は全制覇^^V 画像のない岩本神社に再度行って画像をとって紹介すれば、全部ご紹介できると思います。 実は前のブログの前には、だいぶ前に訪れていた白山別宮神社(別宮)を途中まで書いていたんですが、弥生さくら公園の桜が見事で、そっちを優先してしまったんです。 今年開山1300年を迎える霊峰・白山に加賀から登る際には、現在は白峰経由で市ノ瀬から登るのが主流ですが、実はこれ、勝山の越前馬場(平泉寺白山神社)からの越前禅定道の中途から登る形になります。 加賀馬場(白山本宮・白山比咩神社)を起点に尾添の一里野からハライ谷を登るのが、古来の加賀禅定道でした。ちなみに馬場(ばんば)のあった加賀・神宮寺・白山寺、越前・平泉寺、美濃・長滝寺ですが、各寺から先の白山に向かう道は霊域として、馬は禁止されていて、ここでつなぎ…

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中乃郷神社

少し前に自宅から二番目に近い神社として徳丸白山神社をご紹介しました。で、一番近い神社はというと、この中乃郷神社になります。神社の紹介をするときに、僕が参考にするのは神社にある社歴・由来碑が主になって、地誌や神社庁の紹介などを参考にして、地域伝承を調べて書いています。 実を言えば、同じ旧松任市内から今住んでいる場所に引っ越して10年に満たないために、この辺りの地図や場所は解っていても、地元の伝承や史実には知らないことが多くあります。この神社などは良い例で、謂れが全く解ってなかったんですね。もっと言い訳すれば、この神社のある場所は近い割には、ここ3.4年まで、あまり前を通らなかったんです。まあ、神社やお寺巡りが好きな僕が一度も行かなかったというわけじゃないんですが、神社前の道は五歩市踏切から番匠町の狭い道の集落に繋がるだけで、車の通行には向いていませんでした。 画像は解りにくいですが、向こうに観えるのが金沢=白山車両基地間の新幹線高架、下を北陸本線が走っています。アップすると北陸本線の列車が走る姿が観えます。 ところが近年、海側バイパスの4車線整備、北陸新幹線の高架整備によって五歩市踏切脇に新幹線保線の作業口が出来て、北陸本線脇の側道が整備され、それまでは五歩市踏切から番匠町までしか行けなかったのが、光野中学まで直線で行けるようになり、更に光野中踏切の前を横断すると、郷町、更には御経塚・金沢八日市まで直線路で行けるようになって、混む道を避けて通る際に機会が増えてきたん…

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沖太郎丸神社

小松市原町にあった豆丸様の祠の伝承の続きです。 太郎丸の姉兄弟についての伝承は、沖太郎丸神社の長い社歴のほんの一部になります。 前回のブログに引用しましたが、改めてここに書き出すと。。 太郎丸さまと称せられる。往古二人の公達が都より落ちのびてきて、ここで敵に謀殺され、夜毎に金火がでたので、その御霊を祀ったのが太郎丸・次郎丸の宮であるという。他に姉丸宮もあった。後厳之御魂社と称したが更に今の社名に改称。昭和44年沖町イ一番地甲より、今の社地に移転と同時に社殿改築。 忙殺された太郎丸・次郎丸の兄弟には、さらに姉と幼い弟がいました。 幼かった弟は部下に救われ原町に逃れたといわれ、豆丸と呼ばれたと云われています。幼い名で祀られたということは非業の死をとげたのか、白山神社に合祀された豆丸様になります。 豆丸様・・・H27.12.24 白山神社 (旧・仏が原金剣宮) また、姉丸はこれまたアップしたように小寺町にある相之宮白山神社に祀られています。兄弟が謀殺された当時の生死は不明ですが、機織りを近在に伝えたという伝承があることと、同じ小寺町に次郎丸神社があったことから兄弟の菩提を弔っていたのではないかと推測されます。 姉丸の宮・・・H28.2.24 相之宮白山神社(姉丸宮) これは沖町近辺に伝わる伝承ですが、社歴にある金火の出現に関するものですが、、、太郎丸・次郎丸を守護していた武将は二人を謀殺された後、二人の遺体を埋葬した後(小寺町)は悲嘆と無念から野町(沖町近辺、太…

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徳丸白山神社(とくまるしらやまじんじゃ)

冬場になると寒いのが一番でついつい引き籠りになってしまい、自堕落な生活を送ってしまいます。仕事も日暮れが早くて目的地に行って真っ直ぐ帰ってくるだけになってしまい、なかなか寄り道もしていないので記事のネタもないので、ついつい古くなっちゃいます。替わりに画像整理で掘り起こしています。 久しぶりにご近所シリーズです。。。。我が家から2番目に近い神社が「徳丸白山神社」です。 田圃のマン真ん中にある神社ですが、けっこう古い歴史を持っているようで、境内の広場も広く、毎年左義長が行われています。ただ残念なことにまだ一度もこの神社の左義長を観たことないんですけどね。。 名前が示すように、旧松任市の徳丸地区の氏神様です。徳丸町は結構広い地区で、思ったよりも広域に渡っていています。 徳丸白山神社由来碑 主祭神 菊理比咩命(きくりひめのみこと) 祭 神 豊受比咩命(とようけひめのみこと) 伊邪那岐尊(いざなぎのみこと) 伊邪那美命(いざなみのみこと)       菅原道真公(すがわらのみちざねこう) 宮  司 柏木 信勝 伝説によれば大宝二年(西暦七百二年)文武天皇の頃 白き霊鳥が船岡山(元白山比咩神社鎮座の地)より飛びきたりて留まること三日ばかり ついに飛び去る様もなく依って村人たち神霊なりとして白山比咩神社に願うて御分霊を豊受し霊鳥の留まるところに鎮斎せり これ当社の起源なりとある その頃この地に眼病が流行し 宮守の者夢に観音よりその薬法を授けられその薬にて眼病も平…

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金沢駅東口~石川県立音楽堂~平岡野神社

金沢駅東口がリニューアルされて鼓門(つづみもん)ともてなしドームが完成したのは、早いもので平成17年(2005年)3月でしたから、もう12年も経つんですねえ。。 平生、完璧な車人間の僕は、電車や汽車を利用することはほとんどなくって、当然ながら駅構内に入ることはほとんどありえない世界が正直なところ。。最後に金沢駅のプラットホームに立ったのは、友人の娘さんの結婚披露宴の2次会で駅前のホテルのレストランに行った時(15年前)だから、まだ現在の東口改装の完成してない時で、百番街が出来た頃で、まだ懐かしい雑然とした駅風景でした。ついでにいえば、家族や知り合いの送り迎えも車の停車しやすかった西口が多かった(昨年からは西口もタクシー乗り場が増設されて一般車は停め難くなった)。。しかも西口から金沢駅構内には喫茶店や百番街に2.3度入っただけ。。 と、いうわけで、車では駅前道路を何度も通って鼓門やもてなしドームの姿は何度も見ているのですが、準地元ともいえる金沢駅なのに、表玄関の東口には前述の披露宴の2次会以来、立ったことがなかったんですねえ・・ この新装になった金沢駅東口に、初めて立ったのはナントナント10年以上経った昨年(H28)10月になってしまいました。 建設時、完成時には正直高い金(詳しくは知らないけど50億以上をかけたと云われています。)かけて、能楽(加賀宝生流)に使われる鼓を2本立てたような門と、アルミパイプとガラスを組み合わせたもてなしドームの姿を観て「変なの{%顔モジヘェー(シェ…

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境関所③ 境神社~護国寺

境関所跡があった境小学校跡のグラウンドの東端参道を進んで、急な長い階段を登った裏山の中腹にあるのが境神社になります。拝殿前には境関所跡を広く見渡せる好眺望の展望台があります。 展望台になるところに枝を広げた木が邪魔をしていますが、春には美しい花を見せてくれる桜の大木だそうです。 社歴碑がないので詳しいことが解りませんが、江戸時代の境関所の絵図面にはこの神社は描かれていません。 このことから、江戸末期から明治期の創建ではないかと思われます。ただ高台にあるために海風を受けることから拝殿は風化が窺われ、古い造りのようにも見えますが、拝殿規模が大きくやはり明治以降の建立だと思われます。予想ですが、お隣の真言宗仁王山・護国寺から神仏分離で独立したのではないかと思います。 拝殿右横には海辺の町に多く見られますが、大正11年(1922年)建立の金毘羅大神の石塔が鳥居と共に建てられています。ちなみに、金毘羅(こんぴら)は水運の神様として認知されることが多く、琴平の金刀比羅宮(ことひらぐう)は総本宮として知られています。また薬師如来を祀る寺院では、如来を守る十二神将の筆頭・宮比羅(くびら)と同神としても知られています。 同じ敷地越しで、お隣の護国寺に行けますが、改めて表参道から登り直してみました。 小さな軽自動車がやっとな参道沿いには、小川に沿って地蔵尊が在ったり、綺麗な花を見れたり、山頂に近づくと無骨ですが…

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相之宮白山神社(姉丸宮)

昨年末に訪れて、小松市原町の白山神社(旧仏が原金剣宮)を紹介した時に、地場の祠になっていたという豆丸さまのことを書きました。それに関連した神社があるということで、沖太郎丸神社と相之宮白山神社を訪れていました。今回は相之宮白山神社です。  前回のブログ(H28.1.9) → 白山神社 (旧・仏が原金剣宮) 久しぶりの神社関連になります。 このブログの中で、豆丸さまに触れたのは ちなみに前述の番谷に在った豆丸さまですが、現在の小松市沖町に「沖太郎丸神社」というのがあるのですが、、社歴には、、太郎丸さまと称せられる。往古二人の公達が都より落ちのびてきて、ここで敵に謀殺され、夜毎に金火がでたので、その御霊を祀ったのが太郎丸・次郎丸の宮であるという。他に姉丸宮もあった。後厳之御魂社と称したが更に今の社名に改称。昭和44年沖町イ一番地甲より、今の社地に移転と同時に社殿改築。 この太郎丸と共に殺されたと云われる弟が次郎丸と言います。更にこの二人の下に居た弟を豆丸と言いました。元は沖太郎丸神社から派生したものと思われます。原町の白山神社では、野町太郎丸神社、小寺町次郎丸神社の兄弟神としていますが、野町、小寺町の神社は僕は聞いたことがないので、解ったら詳しく再UPするつもりです。ただ、沖太郎丸神社の社歴文中の姉丸宮は、小松市御宮町近くにある「相の宮白山神社」の別名が姉丸宮だと近所のお客さんに教えて貰ったことがあります。沖、相の宮から探れば案外簡単に解るかも。。甘いかな。 あまいかな。。と…

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輪島朝市通り

毎年恒例になっていますが、今年も輪島まで仕事がてら、朝市通りのお客さんの家まで行ってきました。午後からは観光をしようということで、ちょっと体調のすぐれない嫁さんも同行です。娘は翌週に趣味のイベントがあって、部屋に籠って準備中なのでお留守番です。 午前中はお客さんの家に居たので、またまた賑やかな朝市通りは観られずに終わって、横目で朝市の片づけを観ながら駐車場で嫁さんと合流。。画像のようにすっかり終了風景です。 嫁さんは僕のいない間に朝市を1.2時間かけてウロウロ。。。行く前から、去年のおばさん居るかなあ、とウキウキしてましたから、昨年お試しで買った梅干しが僕や娘に好評でまた買おうと意気込んでいたようです。 しっかり、おばさんもいたようで駐車場ではにっこにこで、大きな袋に入った梅干し3か月は持ちそうな量。。嫁さん曰く「天然塩使用で無添加・天日干しで紫蘇に付けた純天然でしょっぱいけど。今年は晴れが多くて天日干しがしっかり出来て、肉ズレが少なくて綺麗な赤になったと、おばさんが自慢していたよ。」「二人の会話を興味津々で観ていた観光のおじさんは「しょっぱい」という言葉に「僕、医者に減塩指示出されている」と、残念そうにしていたよ^^;」というご報告。しっかり防水ナイロン袋の大量買いでこの瓶に4杯分ご購入、約一週間でこれだけ減ったのはいかに梅干し好きな家族というのが想像つくでしょう^^; 一緒に買ってくれた縁賀良饅頭を駐車場で食べて腹ごしらえ。。この後、食事処もないコースで帰ったので、これがお昼ご…

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石部(いそべ)神社 加賀国総社(惣社)

加賀国府が置かれた際に加賀国総社とされていたのが石部神社でした。 このため、現代においても加賀一の宮は、白山神社の総鎮守の白山比咩神社(はくさんひめじんじゃ)と石部神社が並立して主張し合っています。 弘仁14年(823年)、日本の国で一番最後に成立した加賀国。その政庁と云える加賀国府が置かれたのが、現在の小松市古府町近辺と云われています。推定されているものの、はっきり特定はされていませんが、現在の国府中学の近辺ではなかったかと云われています。これは、石部神社が国府の南にあり府南社と呼ばれたことからというものです。 国司の最初の重要な仕事は人心掌握のために、有力神社を廻って参拝することが挙げられます。 神社や祠の多くは地元神を崇拝・継承していることから地元民衆に根づいており、この参拝は民心安定には欠かせないものでした。このため奈良時代から平安初期には、国が指定した神社を国司が巡拝することを定めていました。ところがこれがなかなか大変な作業になります。 一例ですが、皇族関連や臣籍降下の重臣が国司となった令制国だった下野国では、12座の神社をランク付けして一宮、二宮と順番に巡拝していたのですが、これらの神社は現在の栃木県の外周に点在しており、栃木県の県境沿いに一周しなければなりませんでした。しかもこれを毎月行っていたわけです。相当な費用と日数、更には国司の体力も消耗してしまうのが想像されます。加賀国でも有力神社八座を毎月1日に巡拝するのが定めになっていました。 こんなことをしていて…

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菅生石部(すごういそべ)神社 加賀二の宮

前回紹介した大聖寺関所から東に向かうと、菅生交差点で三叉路になります。南に向かうと加賀温泉郷の山中温泉や山代温泉への街道だった国道364号線になり、北に向かうと北国街道の本道となる県道145号線になります。市街地から北にこの街道を進んで大聖寺川を渡ると、山腹に突き当たり街道が直角に東に伸びて行きます。 この山腹にあるのが「菅生石部(すごういそべ)神社」になります。別名は敷地(しきぢ)天神。 敷地は敷地村の村名からですが、「神が敷きます地なる」からと云われています。 創建は古く用明天皇元年(31代、585年)。用明天皇はかの有名な聖徳太子のお父さんになります。在位2年、疫病による病死とされています。天皇が疫病で病死するほど、用明天皇が即位した当時は全国各地で疫病発生が頻発していました。当時は仏教伝来が示すように、朝鮮・大陸からの文化の流入、渡来人の渡来・帰化が活発化してきた時代で、疫病もこの影響が大きかったようです。当時は越前国だったこの地でも疫病が発生し大変な被害を出したそうです。 当時の越前国は敦賀から北の福井県と石川県の大国で朝鮮からの入国ルートの一つであり、都から近からず遠からずの大国で、現在の天皇家の祖とも云える継体天皇(26代)の出身国・勢力母体(生まれは近江と云われています。)であり重要視されていました。 疫病発生を憂い、宮中で祀られていた菅生石部神を遷座して、疫病鎮護と五穀豊穣を祈願したのが始まりとされています。菅生石部神は、医術の神とされる少彦名神(すくなひこ…

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白山神社 (旧・仏が原金剣宮)

小松市原町は世帯数134戸、人口391名。山間ののどかな町ですが、ここの鎮守の杜といえる白山神社は規模も大きく整備も行き届いて立派なものです。特に斜面に拝殿があるのですが、参道は美しい石畳みと石段が綺麗で、町の方の信心深さが垣間見られるようです。 社歴によれば創建は弘仁14年(823年)。 加賀の国が出来た年ですね。当時は新田・農地開発を目指した三世一身法(723年)や墾田永年私財令(743年)などにより公地公民制が崩れ墾田が増えた時期です。当然ながら個人の私有地を持つことは、生産物・土地の管理・警備・保全は重要案件になります。 平安時代は軍隊を放棄していた時代で(東北の蝦夷討伐も、行軍途中で寡兵して軍隊を構成しています。)簡易な警察機能程度しかありませんでした。このため、自分の土地を守ったり、運送の護衛などには自警団や自衛団を持つ必要がありました。 こういう集団を保有できたのは、村や部落単位では難しく、有力貴族や大寺院となってしまうわけです。大貴族は、地元領主を武装した管理者にして代行させていました。これが侍・武士へとなって行きました。大寺院は自前の武装集団を寺院に置きます、これが僧兵になって行きます。個人や小さな村落では寄進という形で土地名義を差し出し、一定の年貢を納めることで土地の安全を図り、自分たちは生産管理を行うという形態をとりました。これによって、貴族や大寺院の荘園化が進んで行きました。 私有財産となる土地とはいえ、国の課税は存在しており、これを管理徴収し…

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高瀬神社 越中一の宮 のひとつ

庄川・井波がある旧砺波郡には越中一の宮と称する「高瀬神社」があります。帰り道にここにも立ち寄ってきました。 全国には○○一の宮と呼ばれる神社があります。 越中一の宮とか加賀一の宮など○○一の宮は律令制時代の国割による令制国の一番社格の高い神社を指すとされています。二番目が二の宮、三番目が三の宮となるのが基本です。あるいは国府と共にある総社と呼ばれる神社を指すという人もいます。国ではなく神社名で白山一の宮とか立山一の宮などは、白山神社や立山神社などの序列を示す別種のものになります。 日本の律令制度は、日本史の授業では聖徳太子・天智・天武が手掛け、持統以降で完成、奈良時代からの荘園発生で破綻して武士の時代にはまるで消滅したように習わなくなります。ところが意外かもしれませんが、律令制は朝廷があることで連綿と続いていて、明治初期まで実は続いていたんです。律令制の基本は隋・唐の政治理念で「王土王民(臣)」「一君万民」、簡単に言えば天皇一人の前に国土と国民は服属し、天皇は万民に平等に仕置と報酬(日本では土地が主体)を分け与え、万民は平等に奉仕と税を天皇に捧げるという考え方です。 この理念を進めるために、律という高度な刑法と令というその他の法律や条令を持ってするという考え方です。天皇という最高の場所に一旦すべてを集めて、平等に地方に配分するというのが律令制の大きな考え方です。 つまり中央集権ということですね。ただ勘違いされやすいのは、律令制の基本は天皇対国民一個人が理念の主体で、天皇対団体とい…

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笥笠中宮神社(けがさちゅうぐうじんじゃ)

先日、久しぶりに一里野まで用事があって行ってきました。白山麓まで道路は冬に向けて補修工事が真っ盛り。 もう少しすれば紅葉も盛りを迎えるし、白山スーパー林道もとい白山白川郷ホワイトロード(今年から名前が変わったんでした。)にも久しぶりに行ってみたいですねえ。通行料金も以前の半額(普通車1600円)になったことだし。 しかし今回は夕方の約束だったんで、時間的に陽が落ちるんで一里野から先には行かなかったんです。帰り道の夕暮れ時でしたが、新中宮温泉の幟に釣られて、笥笠中宮神社(けがさちゅうぐう)に寄ってみました。江戸期以前は笥笠中ツ宮(けがさなかつのみや)というのが正式なようですが。。 そういえば、いつのまに新中宮温泉になったんでしょうか。。たしか、僕の記憶の中では、ちょっと前まで中宮温泉と思っていたけど。。でも温泉施設の総湯は昔から新中宮温泉センターだったような。。気もするし まあ前述のホワイトロードの料金所近くに中宮温泉がありますから、ややこしいのは確かなんですが、新ナントカというのはなぜか違和感を感じますね。どちらが中宮の元祖となると温泉は確かに奥の中宮温泉になるんですが、歴史的な文化では新中宮の方が古いんじゃないでしょうか。。あんまりその辺の名称に関しては詳しくはないんですが。。 白山市には市が運営する五つの市民温泉があるんですが、ここの新中宮温泉センターもその内の一つになります。ちなみに他の市民温泉施設は松任海浜温泉(徳光CCZ)・めおと岩温泉(旧河内村紅津、ラクヨウ)・大…

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中村神社拝殿 (旧金沢城二の丸舞楽殿・旧卯辰山招魂社拝殿)

今年の春に金沢城の玉泉院丸が復元公開されました。次の復元は玉泉院丸と金谷御殿の間の堀を繋いだ鼠橋や鼠多門ということで計画が進んでいるそうです。そうなると、金沢城と尾山神社が繋がることになります。 近年、金沢城の復元計画が進められています。それに合わせて調査や発掘も進められており、今月には本丸南側に庭園があったことが確認されたところです。しかも寛永年間の火災の瓦礫が積み上げられていて、年代も特定されたそうです。 金沢市や石川県では百年後の国宝を目指しているそうですが、金沢城内の建物が無くなったのは明治14年(1881年)の陸軍歩兵第七連隊が基地を置いた際、それも火の不始末による焼失でかえすがえすも残念な出来事になっています。金沢城内の石垣を残して、江戸期の建物は石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫くらいしか残っていません。 石垣に関しては石垣の博物館と云えるほど、多種多様な石組みや技法がありますが、やはり建物がないというのは寂しいものです。 明治期に金沢城が焼失したわけですが、それ以前に移築によって焼失を免れた遺構が幾つかあります。尾山神社の裏口にある東神門は二の丸御殿唐門 として使用されていたものです。また以前紹介しましたが尾崎神社は本殿、中門、透塀、拝殿・幣殿は元々は北の丸に東照権現としてあった物です。金沢城内にあった建物としては尾崎神社は現存する最古の遺構になります。 他には玉泉院丸太鼓塀も城外に移されたそうですが、こちらはどこにあるのか復現地に戻したのかは不勉強で僕にはわかりません…

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佐奇神社(さきじんじゃ)

富山との県境の稜線にある奈良岳(二又川)や大門山(倉谷川)の稜線を源流にして、金沢市街を流れる犀川は、途中幾つかの支流や用水路を配したり、幾つかの支流を合流して、普正寺町と金石の河口から日本海に注いでいます。金沢市民の貴重な水として利用され、文学にも多く取上げられて石川県内では一番有名な川ともいえます。 犀川は辰巳用水が代表するように、金沢市内を巡るように水が供給され、兼六園の湖や噴水もこの水が美しい景観を演出しています。また本流も浅野川が泉鏡花が浅野川を女川と評し、それに対比するように男川と呼ばれています。更には室生犀星や国府犀東といった中心街に育った文学者たちにも大きな影響を与えています。 今はあまり観られなくなりましたが友禅流しの風情や、河岸広場の桜など金沢市民の憩いや伝統にも大きく貢献しています。金沢市民の多くが犀川と浅野川に慣れ親しんでいるように観光客の人達も犀川の流れに眼を休めさせています。 河口には金沢の外港となり銭屋五兵衛を代表とする宮腰湊(現・金石港)が、北前船の本拠として機能していました。同じく大野川を河口(大野湊・金沢港)として河北潟を経由して金沢にたどり着く浅野川・森下川(もりもとがわ)と共に、金沢と日本海を繋ぐ重要な海運としての重要行路にもなっていました。 犀川という川名を持つ川は全国にも点在しています。有名なものでは長野県にある犀川。頼山陽の漢詩で読まれた「鞭声粛々夜河を渡る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)。。。」川中島合戦の様子に語られる犀…

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七ツ滝

咳風邪が治ったと思ったら、お腹に来て約3週間トイレに行ったり来たりで、とにかくあまり動けなかった先月までの半年間。 今はすっかり元気になって、美味しく物が食べれるようになりましたが、半年近く自重して体を動かさないようにしていたら、すっかり足腰が弱ってしまいました。ここ一か月は外回りでも歩くようにして、時間余ったら緩い山なんかを登るようにして鍛え直しています。でもまだまだですねえ。けっこうそれでヘマをやらかしちゃうんです。 というわけで、この日も小松からの帰り道、ちょこっと寄り道をしてきました。 小松から産業道路で金沢方向に走って、川北大橋の手前を右折すると、北陸先端科学大学院大学(JAIST)という長い名前の大学と付属施設を中心にサイエンスパークと呼ばれる国や県の研究施設、ベンチャー企業の施設、さらにはそれらとの産学関連施設が丘陵の上にあります。 ところで地元では先端大と呼んでいますが、実態というか詳しいことは意外に知られていません。僕もよく知らなかったんですが、営業で先端大や県施設に行く機会があり、学生や教育関係者のお客さんもいたので、多少教えてもらう機会が有りました。 大学院大学というのは、一般大学とは違って学部というものが存在しません。専門分野の研究者や教育者の育成を目的にしています。一般大学の大学院を特化したものと云えば話が早いかもしれません。学士課程の大学がないので、高専出身者、他大学出身者や企業在籍者、留学生が多いことが特徴です。現在は国の方針で、私学の大学院大学が増…

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赤瀬那殿観音

赤瀬から牛ヶ首峠のダム湖に沿った道を採らずに、赤瀬の里で鳥居を潜って山中に向かいます。 鳥居の前に大きな案内板がありますが、この道は那殿観音への参道になっています。 以前にもご紹介していますが、加賀には那谷寺という寺院があります。白山開創の泰澄上人が千手観音像を納めて「巌屋寺」としたのが始まりとされています。その後、花山法皇によって西国三十三観音の全てがここにあるとして、一番の那智寺、三十三番の谷汲寺の一字ずつを採って「那谷寺(なたでら)」と改名しています。 奇岩が織りなす遊仙峡に堂宇が配された寺院建築は、菟橋神社で紹介した寺院建築の名工の山上善右衛門。 寺院や神社の紹介が多い僕ですが、加賀で是非観て欲しい寺院はと聞かれれば、金沢ではなく最高の景観と建築を有する小松の那谷寺だと思っています。 この那谷寺の奥の院と伝承されているのが、今回の「那殿観音」になります。正式名は「赤瀬那殿観世音菩薩」 一説には那谷寺の発祥地ともされています。 白山開創の泰澄上人が白山から下山後、持仏であった黄金仏の観世音菩薩像をこの巌谷に納めたのが始まりとされています。 昭和40年代に赤倉林道が出来るまでは、那谷寺からは真直ぐには徒歩でしか来れず、赤瀬からの参道が一般人の唯一の参道でした。現在も狭い林道で冬季はほとんど通行止めです。おかげでとはいってはなんですが、僕も数年に一度くらいしかこの辺りには来ていませんでした。 赤瀬の村落から林道というか参道を進むと、西国三十三か寺を模した石仏が道…

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菟橋神社(うはしじんじゃ)

お旅祭りの橋北側の祭礼を司る菟橋(うはし)神社にも参拝してきました。この神社もよく前を通っていながら、素通りしてしまっていた神社でした。初めて境内に入りましたがなかなか立派な社殿でした。 菟橋神社の社歴によれば、創建は慶雲元年(702年)以前となっています。しかし、慶雲元年は704年、702年なら大宝2年になります。ただ、以前にも書いたことがありますが有力神社を初めて書き記した神社の本籍帳とも云える「延喜式内神名帳」に「加賀国能美郡八座 莵橋神社」と記されており、古くから存在したことは確かです。ちなみに延喜式内神名帳は延長5年(927年)に記されたものです。 菟橋神社は名前から、当初は加賀国府が置かれた能美郡菟橋郷(現在の小松市小野町、古府町)の古府台地の周辺に平安初期にはあったと推定されています。その後、地名の漢字が変遷を重ねて最終的に得橋郷(読みは同じです)、桃山期の丹羽氏の前の村上義明の領主時代に小松城近くに移転したとなっていますが、その頃は得橋神社となっていたそうです。 ちなみに加賀国が成立し加賀国府が置かれたのは弘仁14年(823年)越前から分離したものです。当時の加賀国は加賀郡・石川郡・能美郡・江沼郡によって構成されていました。 北陸を越の国と古来呼んでいたのに、福井=越前、富山=越中、新潟=越後となるのに、どうして石川だけが能登・加賀なのか疑問を持つ人が多いのですが、元は石川福井は越前だったんです。ついでながら、能登は養老3年(718年)に分離独立…

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瓶割坂② 神明宮

前回の大蓮寺のお隣にあるのが「神明宮」になります。 神明宮は金沢五社(宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮)に数えられる江戸期に重要視された由緒ある神社です。金沢五社は以前にも書いたことがあり、この神明宮も文字だけですが、簡単な説明を書いていました。 椿原天満宮(椿原山砦跡) その時の文章を抜粋すると 金沢五社 ・・・ 前田家の加賀藩時代には、金沢の町と城の鎮護と防衛拠点として、正式な神官だけが常駐している神社が五つ存在しました。金沢城を囲むように存在したこれらの神社は、宇多須神社、小坂神社、神明宮、椿原天満宮、安江八幡宮 それぞれが浅野川や犀川、卯辰山や小立野台地と云った重要拠点に配置されているのですが、地図で見ると五芒星の形に配されているようにも見えます。現在も金沢五社巡りとして、神社愛好家に人気のコースになっています。  加賀・金沢神明宮・・・金沢城の南に位置し、犀川に掛かり加賀・松任・鶴来からの主要入り口となる犀川大橋のたもとで、城から観ると犀川の対岸となる場所にあります。 別名は祓宮(はらいのみや)。この名は江戸期、正月などに金沢城内で使われた注連縄などを寺社奉行立ち合いで、境内で祓い燃やすのが慣例となっていたためです。この行事が金沢の左義長の起源と云われています。 また、春(5/15~17)・秋(10/15~17)に行われる「あぶりもち神事」は食べるお守りとして、金沢の風物詩の一つになっています。 上戸彩・高良健吾主演の「武士の献立」の前作と…

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粟生少彦名神社(あおすくなひこなじんじゃ)

前回の「芭蕉の渡し」の対岸に当たる粟生宿にあるもう一つの「粟生少彦名神社(あおすくなひこなじんじゃ)」 ここには芭蕉の渡しの半年ほど前に立ち寄っています。お客さんとの待ち合わせの時間調整に立ち寄ったんですが、なかなか古風で規模の大きさが印象に残っていました。 粟生少彦名神社の由緒書によれば、江戸期の火災で文書類が焼失して詳しい由緒が解らなくなっているそうです。 往古に湯口村と北尾村が合併して一村となった際に、村民を挙げて防水土手と水路を作事したことにより、良質な穀草類が生産されるようになり「粟生」という地名が生まれたとされています。旧寺井町粟生(現・能美市粟生)は、現在も非常に広い範囲で工業団地や田園地帯が広がったりしますが、江戸期には対岸の芭蕉の渡しの辺りも粟生と呼ばれていました。明治中頃には、寺井の中心街に当たる三道山や吉光なども粟生と呼ばれ旧寺井町の過半を占めていました。 江戸時代には、加賀平野屈指の穀倉地帯の実りの感謝と願い、治水の願いを込めて、藩主が参勤交代でこの道を通る際には、この神社に立ち寄って祈祷を行ったと云われています。 社域の大きさはそれを示すようです。更に、この神社の紋所は梅鉢紋で加賀前田家との深い係わりを窺わせます。今回は画像がありませんが、現在の本殿の中に江戸末期の本殿が収められており、一間社流造・柿葺・壁板三面が欅の一枚作りで流麗な彫刻が施されています。 是非一度は拝みたいのですが、まだまだ果たせずにいます。能美市のHPに画像がありましたので、興…

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火伏不動尊 ~ 市神宮跡

鶴来の町にお仕事でお客さんちに行ったんですが、ちょっと早かったみたいで留守。 少し時間つぶしにそこらをぶらぶら。。ちょっと変わった建物を見つけて立ち寄ってみました。 鶴来の町は獅子吼側は段丘になっていて、大きな断崖が壁のようになっています。そこを背にするように中心街があります。その崖の登り口にあったのが、この建物でした。古風な木造りの建物。 入口には火伏不動尊の文字が、こういうのを見ると興味津々で観に行ってしまう僕^^ 玄関は鍵が掛かっていて入れませんでしたが、ヒョイと上を見上げると面白いもの発見。 表額と並んで架けられているのは、一枚岩の欠片。その石に古銭を貼り付けて鳥居を作ってありました。 のどかで静かな所で鶴来別院や真宗系のお寺が多く並び、住宅が立ち並ぶ場所ですが、ひょっこりとこういうのがあるのが、古くから白山麓に向かう宿屋や酒造が多くあって、真宗と白山詣での入り口として栄えた宿場町だった名残と云えますね~~ この火伏不動尊の下に広がるのが鶴来の中心街で住宅なども密集している場所で、火の用心は大事なものでした。もちろん、消防設備も大事ですが、古くから火から守られる願いを込めた火伏不動尊は大事にされてきました。ちょっと格子の隙間から覗き見すると小さな不動尊像が。。。 地蔵堂や地蔵尊はよく観かけますが、この不動尊の管理は清沢町の有志で管理しているそうですが、町内管理でこのように立派な御堂を持つ不動尊はなかなか珍しいと思います。この辺りは古くからの住人が多く、真宗時…

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多太神社

小松市街にありながら大きな本殿と参道を合わせ持ち、社域には大きな木々と三社の摂社を抱えているのが「多太神社」です。創建は当社縁起から武烈天皇5年(503年)。祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこ、仁徳天皇、)。八幡三所大神(応神天皇、仁功皇后、比咩大神(宗像三女伸))他多数 元々は仁徳天皇(仁徳大皇)が主祭神だったようです。(多太の名は、出雲風土記の命名(みことな)の現れる地・多太郷から来ていると思われるため)つまり、古くから知られる延喜式内社になるわけです。式内社については、以前触れたことがあるので、こちらをどうぞ ⇒ 式内社(上柏野 楢本神社の欅) 平安初期に八幡宮を合祀して多太八幡宮と称していました。更に江戸期には能美郡の総社とされていました。この小松・能美では由緒ある神社の筆頭になります。 延喜式内社として知られる神社ですが、その名を更に高めたのが斉藤実盛の兜鎧が奉納されていることにあります。 斉藤実盛に関しては以前に2記事をUPしています。是非お読みください。              実盛塚・篠原古戦場        首洗池 斉藤実盛の篠原の戦・首洗池は「源平盛衰記」「平家物語」の悲話となっています。また、実盛塚での遊行上人との出逢いと成仏は世阿弥によって物語となり、能、謡曲「実盛」・浄瑠璃「実盛物語」となって受け継がれています。 斉藤実盛は天永2年(1111年)越前国南井郷(現・鯖江市南井町)に河合助房として生まれ、13歳で武蔵国長井庄(現・熊谷市妻…

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