お礼参りに神岡へ

先々月(9月)の上旬に熊谷まで行ったんですが、車のトラブルで1時間半ほど途中でストップしたんですが、緊急事態も何とか回復して、その後は何事もなく無事に帰って来れました。ストップした原因は未だに解らないんですが、愛車のフィット君もその後も僕の酷使にめげずに走ってくれています。トラブルの時に、エンジンを止めれるようになって20分ほど冷却のつもりで、駐車したまま、真ん前にあった神社に参拝して、まさに神頼みをしたんです。 ご利益があったのか、フィット君のご機嫌も直ってエンジンも元に戻り、無事に動き始め(レッカーと代車手配のキャンセル電話をするのは恥ずかしかった^^;)、その後は新平湯迂回路や安房・上高地を横目に走る梓街道(あずさ、高山ー松本間の野麦街道と並ぶ難コース)、更には碓氷峠越えと起伏の激しい道を走り抜けて、無事熊谷に、そして帰りは雨の信越・北陸の高速道と無事に帰ってこられました。帰ってからディーラーに点検もしてもらいましたが原因も解らないまま、ともあれ神社の参拝のご利益ということで、いつかお礼参りをしたいと思っていたんです。11/3久しぶりに嫁さんを連れて紅葉見ながら、神岡までお礼参りに小矢部川下り線SA 右・芭蕉句碑 手前は安養寺集落、戦国期に西方に一向宗越中西勢力本拠地(勝興寺旧地、旧土山御坊移転地)がありました。山並みの左端が倶利伽羅峠。奥の細道では芭蕉・曾良は江戸千住から奥州・北陸道をなぞるように美濃大垣まで、5カ月で総計2400キロ余りを踏破しています。小矢部では、芭蕉が同じ墓所に眠る…

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江馬白山神社 (カミオカラボ向かい)

8月末 昨昨年から体調を崩していると聞いていた大伯母が98歳で亡くなりました。僕には数少ない親戚筋の中でも一番頭のあがらない伯母だったのですが、昨年声を聴いたときにも相変わらず明るい声だったんですが。。最後に一目ぐらいということで、葬儀に行くということで、久しぶりに国道41号から飛騨越えで旧中山道経由で熊谷まで行くことにしました。 それなりに余裕をもって出発したのですが、いつもの国道359号からでなく国道8号から国道41号線と迂回して行ったのでいつもより手間取ってしまいました。山岳道路となる越中から飛騨越えの高原川沿いに41号から471号と進むのですが、この辺りから今回の道の選択に少し後悔が、すっかり失念していたのですが、岐阜から長野にかけては今年の梅雨に集中豪雨で崖崩れや道路の崩落が頻発していたために、道路の整備工事が多く片側通行でなんども停車することに。。速度も乗らないために前後にトレーラーに挟まれて走る緊張状態。。神岡町に入って、前の車が居なくなってアクセルを踏み込んだ途端、緊急事態 いきなり警告ランプとエンジンの異音が発生 慌ててハザード点けて道路の端に車を寄せて停車したのですが、後ろのトレーラーも慌てて避けて行きました。。車のトラブルは久しぶりだなあと、まだのんびり気味の僕は車のマニュアルをペラペラ・・排気系の過熱状態の警告で10分ほどエンジンを切って様子を見ろ、それでダメならディーラーまでというマニュア…

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安産(やすまる)日吉神社

安産日吉神社 白山市平加町鎮座、拝殿は平成12年(2000年)に大改築。参道沿いに狛犬が3対、灯篭が多いなど寄進物が多いのが特徴白山市を構成する平成の合併の際の旧市町村(松任市・鶴来町・美川町・河内村・鳥越村・吉野谷村・尾口村・白峰村)の一角を占める美川町。歴史を振り返ると古代には比楽河(ひらか・ひらかわ、手取川の先名称)の河口に比楽湊と呼ばれた港と駅が置かれたとされています。古代から明治にかけて手取川河口は重要港湾として知られた村でした。室町時代に編された廻船式目に記された十大港湾とされた三津七港の一つ・本吉湊を持つ本吉村となっていました。 三津七湊(さんしんななそう・ななみなと)は室町期に十大港湾都市とされた地を云います。三津は湾の交易都市で、安濃津(あのつ・伊勢、津市)・博多津(筑前、福岡市)・堺津(摂津和泉、堺市)、中国(明)書では坊津(薩摩川辺、南さつま市)が加わります。七湊は河口を港とした港湾都市で、三国湊(越前坂井、九頭竜川河口)・本吉湊(比楽湊)(加賀本吉、手取川河口)・輪島湊(能登鳳至、河原田川河口)・岩瀬湊(越中新川、神通川河口)・今町湊(直江津)(越後頚城、関川河口)・土崎湊(秋田湊)(出羽秋田、雄物川河口)・十三湊(陸奥津軽、岩木川河口) 明治2年(1869年)に石川郡本吉町と手取川対岸の能美郡湊村が合併し美川町となりましたが、わずか2年で分離して美川町と湊村に分かれています。明治5年(1872年)に廃藩置県で金沢藩が消滅し、美川町に県庁が置かれ石川郡の名から石川県とな…

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下柏野 楢本神社

加賀国石川郡の式内社10座の中で現在、場所はともかく由緒を伝える確定的な神社(式内社)は6座、幾つかの候補神社がある式内論社(比定論社)3座、行方不明が1座※式内社 ・・・白山比咩神社・本村井神社・額東神社・額西神社・佐奇神社・笠間神社※式内論社・・・御馬神社・楢本神社・神田神社※行方不明・・・味知神社となります。ちなみに行方不明の味知神社は創始の本宮の所在地自体が不明で、由緒や分霊を伝える神社として安江住吉神社・味知郷神社が候補として比定されています。下柏野楢本神社 表参道入口 道路は旧北国街道で左(北東)に200mほどで柏野宿、右(南西)に4.5キロほどで手取渡し場下柏野楢本神社標柱日露戦捷記念の記があるので明治37年(1905年)以降の建立 今回の楢本神社にしても、社殿が洪水で流されて本宮が消滅したと伝わっています。往時は手取川本流はこの辺りを流れていたために幾度も遷座分霊を繰り返したと云われます。また町村の集落にしても離合集散を繰り返したと云われます。このために、柏野・宮丸地区のどこかとされる楢本神社本宮の跡地も後継の所在も明確には解らなくなっています。 楢本神社の分霊遷座を受けた、社殿が流れ着いた地などと伝承する三つの神社(上柏野・下柏野・宮丸)が論社になっています。三社ともに名前は楢本神社なのですが、区別するために地区名を記させてもらっています。ちなみに当ブログではすでに二つの楢本神社を紹介しています。⇒ 2014.08.20 上柏野・宮丸 楢本神社下柏野楢本神社 一の鳥居 昭和3年…

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犀川・犀川神社

金沢の城下町を形作っているのが、犀川と浅野川になります。この二つの河川に囲まれたのが金沢の城下町になります。対照的な流れとして優美な流れの浅野川は女川(雌川)。雄々しい流れの犀川は男川(雄川)、雅名・菊水川と呼ばれて、金沢の様々な景観や産業、生活に根付いています。水源の両白山地からの雪解け水、いつ開けるか解らない梅雨、「弁当忘れても、傘忘れるな」という言葉があるほど、県庁所在地では高知と全国一位を争うほどの降水量、雨の多い金沢という土地柄から、何時も水量豊かな川と用水路の流れをもたらしてくれています。水不足を知らない土地柄として恵まれています。犀川 犀川緑地から上流方向ところが、今年は暖冬で上流部も雪なし状態で雪解け水が少なく、春は例年の1/3と云われるほど雨が少なかったこともあって、極端に川の水量が少なく、少し寂しいものがありました。ちょうど、今の時期には犀川では鮎が産卵のために溯上を始めているのですが、あまりに川水が少なく川底が浅くなったために上流に遡上できないという異常事態で、ついに水量調整で上流貯水を増やし放流が計画されています。というわけで、普段なら水量豊かな川が流れているのですが、水の少ない画像で申し訳ありません。 北陸特有の高所から低地に流れる短い河川から過去には何度も水害をもたらしてきました。有名なものでは大正11年(1922年)大雨で浅野川・犀川が氾濫、両川の橋が天神橋を除き全て流出、犀川大橋は流木などで危険性を増し、繁華街も浸水し、…

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式内論社 神田神社

式内論社 神田神社 表参道東向きに神社の本殿が建っています。古くは拝殿・本殿裏に参道があり、南向きになっていたようです。右の道は安吉に向かう道路。前回も少し触れましたが神田神社は白山市吉田町にある神社になります。旧松任市の中でも最大の田園地帯の山島郷(林郷)にある集落の神社になります。 山島郷は手取川の北岸に位置して能美市と並ぶ手取川によって出来た扇状地の広い平原地帯で、古くから屈指の広さを誇る加賀平野の穀倉地帯として加賀を支えてきた地になります。手取川の氾濫によるために高台になる島の名を持つ町名が多い場所で、七ヶ用水路によって区域が分けられ、島ごとに独自の村落が発展していました。吉田町も昭和32年(1957年)までは東南の隣の漆島と合わせて「吉田漆島」と呼ばれていました。吉田漆島は七ヶ用水の大慶寺用水の南岸に沿って、白山麓から山島郷の中心地・安吉に向かう手前にある集落になります。前回ご紹介した加賀国石川郡式内社の神田神社の比定地の最有力の論社になります。まずは、吉田町の神田神社の由緒書から。。神田神社社記御祭神 饒速日(にぎはやひ)命天児屋根(あまのこやね)命武甕槌(たけみかづち)命経準主(ふつぬし)命 八幡大神末社  高良社の御祭神 武内宿祢命 当社は、第十二代景行天皇の御代、武内宿祢が北陸及び東方諸国の風土観察の為、下向のおり、北陸守護の為、吉ヶ中と称する地に饒速日命を勧請し、其の際、地名を神田村と命名しました。延喜式(九〇五~九二七)に加賀国石川郡神田神社とあるのは、当神社であり、延喜…

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延喜式神名帳

久しぶりに式内論社の神社を書こうと思ったのですが、そういえば、ここのところ一般神社ばかり書いていたのと、現代(戦後)は伊勢神宮を除いてすべての神社は同格として、神社庁が一部を特別な存在として別表神社としているくらいです。式内論社と云われても、一般人には縁が薄いというより、何のことともいえます。式内論社 神田神社 標柱には「式内郷社神田神社」 白山市吉田町 2020.3.25撮影画像をよく見ると郷社は後で書き直しているのが解ります。元は小社或いは論社となっていたと思われます。たぶん論社が有力だと思います。神田神社は位置的にも式内社・神田神社の有力地なのに、神田神社の歴史を綴る宮司家の資料の年号誤りなど確実性を疑問視され、他の候補神社も名乗りを上げていて論社に甘んじているという思いの強い神社です。どうにも論社という文字が我慢できなかったようです。郷社は明治の近代社格制度の一環で定められたもので、府県社>郷社>村社という諸社の分類によるものです。ちなみに府社は東京・大阪・京都。北海道は県社になります。神社によってはこの諸社下位の村社を削ったり、書き直しているものもいます。それほど神社にとっては表札以上の意味が込められています。あまりに久しぶりなので、まずは復習の意味でご説明を。。古い由緒ある神社に行くと、古い標柱や案内板に誇るように旧位階の他に、式内・式内社・式内論社・論社・式外社・国史見在社(国史現在社)・国幣大(小)社・官幣大(小)社などと表記しているものがあります。明治の近代社格も同じ名称(国幣・…

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日御子(ひのみこ)神社

北陸鉄道石川線の現在の終点・鶴来駅の一つ手前に日御子(ひのみこ)駅があります。鶴来駅との中間に鶴来高校があるので通学、ガステーブルの点火装置では全国シェアの7割を誇り、現在では浴室テレビ・浴室照明を製造するRBC鶴来工場、陶器のニッコー鶴来工場などがあり貴重な地域の足場になっています。駅名の日御子は、西に少し行ったところにある日御子神社に由来する村名からになります。元は火御子社と呼ばれ、古代には太陽信仰も行われたと伝わりますが、詳しくは解らなかったのでいつもの加能郷土辞彙から抜粋すると・・・日ノ御子・・・石川郡林郷に属する部落。邑名は白山の御子神なる火ノ御子神が鎮座するから起ったのである。大永神書に日御子宮とあるから、火御子を日御子と書いたことも古いことであらう。郷村名義抄に、日御子村の宮神体日天子の由と書いたのは誤である。加越能当跡緒に、『日御子領の内、六郎畠と申所有。林六郎館跡之内。塚も有。』と記する。補足:石川郡林郷は江戸期以降の呼称でお隣の旧松任市の林中地区を指しますが、ここでは後文にある、この一帯を領した林氏の領地を指しています。鎌倉中期以前の林郷を指し、野々市南部(現在の上林・中林・下林など)を中心に旧松任市・旧鶴来町・能美市・金沢港・金沢西南部と広範囲に及ぶと云われています。 六郎畠は現在の六郎塚のことになります。林六郎の正名は林氏全盛時の林六郎光明を指しています。この林氏は能美・石川郡の名家として通っていて富樫氏とは同族になり鎌倉期に没落しています。家系を辿ると富樫氏の本家的存在…

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波自加彌(はじかみ)神社

神社に行くと、神社の奥山に先座地や奥宮がある場合があります。今回の波自加彌(はじかみ)神社も、だいぶ前になりますが奥宮の方をアップしていました。 ⇒ 2017.05.10四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)  今回は改めて本社の方に伺いました。神社の駐車場は山上になるため表参道を右折して山道を登ると便利ですが、なにせ参道は長い石段に急な傾斜。。一応、山上から一往復しましたが、きつかったあ。。冬の間にすっかり運動不足のつけがたまってますねえ。。というわけで進行(撮影)方向とは逆になりますが、表参道入口というより時間が無くて立ち寄れなかった遥拝所付近からスタート。。 波自加彌神社標柱 花園小学校から100m程北に進んだ旧北国街道沿いの三叉路に建っています。標柱の方向に進むのが波自加彌神社の本宮への表参道になります。北国街道をここから、更に北に7,80m進んだ右に遥拝所兼神主さんの自宅があります。御札やお守り、御朱印帳は遥拝所で授与して貰えます。ナビに頼るとこの標柱に案内されてしまいますが、この標柱から500m程、IR七尾線の踏切、国道8号の二日市交差点を越えて行った山の突き当りにあるのが波自加彌神社の本宮になります。表参道入口には河原市用水に立派な神橋が掛かっていていますから、それが良い目印になります。波自加彌神社 神橋 河原市用水(浅田用水)河原市用水(浅田用水)は医王山を源にする森下川の不動寺町から取水して山裾を縫うように流れ、更に旧国道8号に沿うように10.2キロを流れて津幡町の加賀…

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若宮八幡宮②

文中の補足・・・森林研究家が縄文期の面影を残すと比較に上げている森林        気多(けた)大社「入(い)らずの森)」・・・能登一宮・気多大社の奥宮がある1万坪に及ぶ原生林。住民の立入りが禁じられていて、通常12月の例祭で神主一人だけが奥宮に赴く人跡未踏の森でした。昨年12月、天皇の即位記念として、歴代天皇(昭和、平成)が入った場所までの参拝が公開されて話題になりました。国指定天然記念物。志雄路(しおじ)から 直(ただ)越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫(ふなかじ)もがも 大伴家持・赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首        吉崎御坊「鹿島の森」・・・石川と福井の県境の福井側にある浄土真宗8代法主・蓮如が開創した北陸の拠点・吉崎御坊(越前御坊)の近くに、大聖寺川と北潟湖に囲まれた陸続きの小島の名です。ちなみに鹿島の森は石川県になります。加賀唯一の暖地性の原生林。滋賀近江八幡から金沢までに分布する絶滅危惧種の大型のカタツムリのツルガマイマイが生息し、アカテガニの産卵地となっています。国指定天然記念物。よもすがら たたく船ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき 蓮如上人 吉崎退去時の作 横浜国立大学名誉教授・宮脇昭(1928年生)氏は、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長。土地本来の植生の自然林が自然災害に耐える。土地の植生は鎮守の森にあると主張しています。植生の確認から「混植・密植型植樹」を提唱・実施しています。横浜国立大学キャンパスの森の設計実施、マレーシアの熱帯雨林再生の成功、…

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松任 若宮八幡宮①

遅れましたが、明けましておめでとうございます。小難しいブログに毎度ご訪問頂いて恐縮ですが、本年もよろしくお願いいたします。松任 若宮八幡宮 表参道日頃、神社仏閣をちょこちょこ見て歩いているというのに、ここ2.3年初詣に出かけていなかった僕なのです。昨年は大晦日寸前に眼鏡を壊して、修理に2週間、、新品を購入しようとしたら、カラーや乱視を入れるとやっぱり2週間かかると云われ、度の合わない眼鏡とサングラスしかなかった僕は遠出が出来ずに、年末年始は家に籠っていました。昨昨年、昨昨昨年は年末年始に風邪ひいて完全な寝正月で、嫁さんも仕事というわけで一人布団の中から駅伝を見ながら寝ておりました。若宮八幡宮 表参道 一の鳥居(明治33年建立)そして今年こそはどこかへ行こうと思っていたのですが、今冬は雪も降らずに肌寒いけど天気の良い日が続いています。年中花粉症の嫁さんにとっては唯一の元気な時期のはずなのに、こう穏やかな日が続くと早くも何かが飛んでいるとグズグズ言っています。当然、出掛けたがらないのですが、休みのあった1/4、近くに初詣に行こうというわけで、近くの神社で済ますことに。。。表参道 門柱20数年前、滋賀に引っ越す前に3年程、旧松任の布市町にいたんですが、娘も幼い頃で近くにあった若宮八幡宮に初詣に行っていました。滋賀から戻った場所は東一番町で少し離れましたが、祭礼などでは役をやらされて何度か行っていました。。ところが、氏子地区ではない現在地に引っ越してからは、近くて遠い神社になってしまい、すっかりご無沙汰し…

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味知郷神社

久しぶりに町の神社です。白山市の福留地区の鎮守社で味知郷(みちごう)神社。   味知郷神社南脇参道・社標 石川県神社庁案内 味知郷神社(みちごうじんじゃ)御祭神 経津主(ふつぬし)神・天児屋根(あめのこやね)命・比咩(ひめ、比売)大神・白山比咩(はくさんひめ)神・天照(あまてらす)皇大神・武甕槌(たけみかづち)神鎮座地 白山市福留町1 氏子区域 白山市福新町・福留町・福留南 由緒 創立の年代不詳 初め福留白山神社と号したが明治40年神明社、春日社、白山社を合祀し味知郷神社と改める。境内地は843坪周囲小高く中央が低く稀なる地形をなしている。       上:表参道 右表参道 鳥居扁額歴史や由緒を細々と書く石川県の神社庁ですが、いたって簡略な案内文です。味知郷神社の氏子区域となる福新町・福留町・福留町は旧松任市の南の国道8号線沿い、平野部のど真ん中になります。神社の西にある南北の道は松任宿から水島の手取川の渡し場に向かう北国街道になります。往時は田園と平坦な交通路になっていました。北土塁上の旧神明社跡碑創基は不明ながら江戸期以前から存在したようで、江戸期には手取川北岸の平野部の味知郷・山島組42村の総鎮守だったと地元には伝わっています。明治以降は福留地区の産土神として福留白山神社(白山比咩神)。明治40年(1907年)に近在の春日社(経津主神・天児屋根命・比咩(比売)大神・武甕槌神)、北土塁上の神明社(天照皇大神)を合祀して味知郷神社と改めています。上:北脇参道 神橋 左右に土塁が見られます。…

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尾山神社遥拝所と雑話

実は前回のブログに続け書きをしてたんですが、あまりに長く煩雑なものになったので、別枠の雑話ということで。。。 気分が悪くなるような宗教話や批判ばかりが目立つと思うんで、、、、ご容赦を。。。 右:遥拝所入り口石段横 関口光生記念標 従三位神田孝一謹書 とありますが、僕には不明。。横に顕彰碑がありましたが、時間もなく、摩耗で真剣に読めませんでした。。下:遥拝所入り口 ここから神苑の背景の裏山を巡れます。 次回に回そうかとも考えていたんですが、神苑の背景となる出丸南面の山林の山は明治以降には通路が造られて、歩けるようになっています。南西面にある神輿庫前にある顕彰碑横の石段から登れます。入り口に遥拝所の標柱があり、それが目印。遥拝所 伊勢神宮の方向に向けています。尾山神社では春分・秋分の日をメインに遥拝所での遥拝が行われているそうです。 ここからの文章は個人的意見ですから、宗教話や神道支持派など反発を感じる方はパスしてください。。 遥拝所は山岳信仰として山を神体として拝む場所になるものと、今回のような伊勢神宮などを拝むものがあります。神社や仏閣を巡ることが多い僕は、たまにこういう遥拝所を観ることが有るんですが、前者の山岳信仰の遥拝所は良しとして、伊勢神宮に向けた遥拝所は存在自体が国家神道の押しつけのようであまり好きではありません。 そもそも今回の尾山神社にしても、先に何度も書いたように尾山神社創建時の神様は加賀藩祖・前田利家個人だと理解されていると思います。ところがそんな個人の神社で伊勢神宮…

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尾山神社④ 神苑

神苑東側から 手前の飛び石が沢渡り、女性が渡っているのが八ッ橋、右手には水上に藤棚が配され、左手は琵琶島で奥に図月橋、図月橋の向こう岸は鳥兜島 尾山神社の南面に広がるのが神苑になります。10年程前は神仙苑と呼んでいたのですが、今は神苑と統一したようです。別名は和楽器の庭。明治になって尾山神社が創建されると、それまで荒廃した庭園に大きく手を入れて整備し直しています。⇒ 2009.07.29 尾山神社 神仙苑上:西丘陵から 右:南丘陵から神仙苑は元々は金谷御殿庭園となっていました。その創始ははっきりしませんが、以前までは池泉の存在と小堀遠州作と伝わったことから1620年頃と推定されていました。ただこの推定の問題点はまだ戦国の風が残った時代に出丸の地に御殿はまだなく、庭園だけを造るかという疑問が湧いてしまいます。18世紀初頭には庭園が作庭されたのは確かでしょうが、個人的には現在の泉水を配した庭園は前田斉泰が金谷御殿を大きく増築したころ文化15年(1844年)以降に整備したのではと思っています。辰巳用水導水管現在の神苑の池水は地下水を利用していますが、金谷御殿庭園時代は金沢城から辰巳用水の水を通水していました。この通水には兼六園霞ヶ池から金沢城内に通水した方式と同じ逆サイフォンが採用されていました。文化15年(1844年)に導水管が木管から、庄川上流の金屋石の石管に変えられています。この時に泉水や滝が配されたと思われます。神苑 響遠瀑 水が勢いよく流されてる時もあるらしいんですが、僕は未体験、観られたらラ…

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尾山神社③ 本殿・金谷神社・東神門

尾山神社の本殿は明治6年(1873年)建立。古式に則ったという三間社流造・銅板葺屋根、拝殿と本殿の高さを合わせ間の低い位置に幣殿代わりの庭面(石の間)が置かれた権現造の様式になっています。本殿は拝殿との高さを合わせるために底部を懸け造の木組みで支えています。今年9月、以前までは緑青などで緑がかった屋根色でしたが、真新しい明茶色屋根に変わりました。20X36.5㎝の銅板4000枚を使用し、屋根面だけでなく鬼瓦・千木・鰹木にも銅板を巻いたり覆ったりで処理が施されています。本殿前の守護神? 遠目には狛犬?龍?身体は蛙? ピンボケで申し訳ありません。。本殿は尾山神社境内でも一番の神域で、勝手に中に入れないのと、観ようと思うと最奥の東出口に向かうため、金谷神社と木々に隠れて暗がりで観光客もほとんど居ない場所ですが、注目に値するものが一つ。本殿を囲む塀垣で、神社などでは玉垣と云います。拝殿・石の間と金谷神社の境界には銅板葺柵塀垣ですが、本殿南面には銅板葺レンガ塀が玉垣として重厚な守りとなっています。等間隔で梅鉢紋透かしを施されています。神社でこれはなかなか見られない代物です。ちなみにこのレンガ塀は、金沢で最初のレンガ建築になります。以前、金沢の代表色の一色としてレンガ色を紹介しましたが、代表となるのが赤レンガミュージアム(旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫)としましたが、それよりも40年近く古い建築物で、金沢の代表色の原点と云える建築です。金谷神社 上:拝殿      中:拝殿・幣殿・神殿      右:金谷神社境内尾…

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尾山神社②神門・狛犬・拝殿・菊桜

尾山神社と云えば、人気を集めるのは西の表参道石段上にある尾山神社神門 右:西表面 下:東裏面明治8年(1875年)11年、長谷川準也(金沢製糸場創業者、第2代金沢市長(M30~金沢区を含むと8代目))・大塚志良(長谷川準也の弟、江沼郡長)兄弟が願主となり、金沢大工・津田吉之助が設計・施工したものです。ちなみに津田吉之助は北陸のダヴィンチと呼ばれた大野弁吉の藩校や家にも通う弟子筋でもありました。石川製糸場の織機も富岡製糸場派遣で学び製作しており、吉之助の子・米次郎と甥・駒次郎は明治33年国内初の動力式絹織機を作製、明治42年に駒次郎が金沢で個人経営の「津田駒次郎工業」を開業、現代の高速自動織機で世界トップシェアの津田駒工業となっています。神門中央 透彫り 上:西表面 下:東裏面上画像中央門の床面の円盤は、後で紹介しますが神苑の大型灯篭の天板だと云われています。灯篭の崩落で人身死亡事故によって、天板に神罰の意味で人に踏まれる通路に埋め込んだと云われています。家紋の透かし彫りも撮影したんですが画像が消えていました。家紋透彫りに興味のある方はこちらをどうぞ⇒2009.7.29尾山神社神門は和漢洋の銅板四柱造三層建物になります。その異様な造りが徐々に人気を集め、金沢のシンボル的存在になっています。高さ18m、避雷針は8メートルになります。 基部にはレンガ積みが施され、全体を木造架橋で支持しています。門となる第一層は神苑の渡月橋をモデルにしたと見られ、戸室石が使用され、木製門扉には加賀梅鉢紋や透かし彫りが施…

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尾山神社①

金沢観光でシンボル的存在と云えば尾山神社・西神門が挙げられます。尾山神社の地は、金沢城の金谷出丸と呼ばれた堀に囲まれた出丸でした。金沢城が攻められた際には最激戦の地となる場所のはずでした。しかし250年に渡る江戸の太平期ではそういった戦闘もなく、藩主の別邸と馬場が置かれていました。明治4年(1871年)廃藩置県により藩主が東京に去った後、とはいえ全国的に長い藩政を懐かしむ風潮から、士族会を中心に全国的に藩祖を祀る神社の造営が行われていました。尾山神社もその一つと云えるものでした。明治政府も慰撫政策から容認していたようです。 幕藩体制の時代には公に藩祖を神として祀ることは幕府への遠慮から大名家では忌避されていました。ところが加賀藩では、慶長4年(1599年)藩祖・前田利家が没した際、浅野川から引き揚げられた卯辰の鏡を神体に、式内社・物部神社(現・富山県高岡市東海老坂)の八幡神、榊葉神明宮(現・榊葉乎布(さかきばおふ)神社、富山県氷見市阿尾)を勧請して卯辰八幡宮(現・宇多須神社、金沢市東山)を創建して利家の神像を祀っていました。物部神社・榊葉神明宮ともに2代前田利長の守山城時代所縁の神社です。このことは幕府に隠れての公然の秘密とされ、加賀藩と東山の武家屋敷の住人の位別の拠出金で運営されていました。しかし幕末期の藩財政の逼迫と混乱により荒廃が目立ち、神像は卯辰山三社の卯辰山天神社(現・卯辰神社)に仮遷座していました。 ちなみにこの卯辰山天神社は江戸後期に造営された竹沢御殿の部材で建てられた表向きは撫…

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医王権現社

国見ヒュッテから少し南に向かうと小さなお社があります。医王権現社。        医王権現堂標柱 養老3年(719年)泰澄(法澄)が開山した医王仙ですが、その名を高めたのは養老6年の元明天皇の大病快癒に貢献した泰澄の薬剤と祈祷でした。この業績によって元明天皇から泰澄は神融禅師の称号、薬剤の産地となった医王仙の山名も医王山と授けられています。 薬剤の元となった薬草ですがその効用から薬師如来薬草と呼ばれ薬師如来(大医王仏)を祀ることになったとされます。医王山中でも白兀山(しろはげやま)周辺が薬草が多く山頂に奥宮を置いたと思われます。加賀では医王山と云えば白兀山を指すのはこのことからではないかと云われています。泰澄が開いた加賀・能登を代表する白山・石動山と並んで医王山は加賀三権現として山岳修験道の一大霊場となり長く栄えたと云われます。 加賀側では白兀山を奥宮としてキゴ山・戸室山または二俣を登山口として、登山口周辺に寺院群が創建されたようですが、越中側では白兀山と奥医王山を頂点に国見から祖谷の斜面、前医王山を胎蔵界の中心にした香城寺にかけての斜面に天台系の四八寺三千坊が立ち並び栄えたと云われています。大池平に四八寺を取り纏めた大寺院・惣海寺が建てられたとも云われますが、今のところ所在地も詳細も真偽不明中世以降の神仏混交、明治の神仏分離によって、祭神や本尊仏がややこしく感じると思います。神仏混交時代、神道と仏教の神仏を同神として、神道側では仏の姿で神が降臨する、仏教では仏が神の姿でという一種の融合説で…

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木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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押野高皇産霊(たかみむすひ)神社

高皇産霊(たかみむすび)神社神社沿革 霊峰白山を源とする手取川の支流・木呂川の清流に恵まれ、周辺の何処よりも早く居住した。そのことは、手取川扇状地では最も古い、今から四千年前の縄文式土器群が大塚遺跡で発見されたことからうかがえる。大塚の地名は、明治初期まで古墳が残っていたことに由来し、古墳時代の押野は、豪族が居住した地でもあった。中世には、押野荘地頭・富樫家善の館が建ち、大野荘湊と白山本宮を結ぶ白山大道が通るなど、押野は、古くから人々の往来が盛んであった。 押野の旧社として中世の押野山王社が知られている。江戸中期には神明社・春日社・観音社の三社が存在し、後期に多聞天社・国常立社・比咩社と改められている。明治期には旧高皇産霊神社と清水神社の二社となり、現在の高皇産霊神社は、神社合祀令によってこれらを合祀して明治四十四年に建立したものである。 旧高皇産霊神社 祭神 高皇産霊尊 押野山王社は当社と伝えられ、押野西部の「宮様跡」と呼ばれる地に鎮座した。江戸期の神明社・多聞天社にあたり、押野南西部鎮座(押野霊園辺り)の国常立社を合祀したとみられる。 清水神社 祭神 天照大神 比咩社とも呼ばれ、前身は江戸中期の観音社とみられる。押野東部に鎮座し、門前の村長が「宮前」姓を名乗る由来になった。 押野居住の十村役後藤太兵衛(一六一四~一六七三)は、野田山麓に泉野村などの新しい村々を開き、長坂用水を開発した。同用水開発には、石川郡内の徒歩通勤圏内から延べ三十六万人が動員された。江戸初期の…

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砂子谷富士社 砂子谷の大杉

金沢の森本ICから富山県・福光に向かう国道304号線で、県境を越えて1キロほどを右折すると砂子谷の集落になります。坂道の途中に土地の産土神と思われる神社があります。 日頃、神社や旧跡を見るのが好きな僕は、標柱や歴史看板などを見るとつい急ブレーキを踏んじゃいますねえ^^;今回も石柱の「巨木」の文字に反応してしまいました。 自分の知らない神社に出会うと、後で神社庁を検索することが多いのですが。。石川の神社庁のHPでは小さな神社でも、それなりの由緒や由来が載せられているんですが、富山の神社庁では名前・住所くらいしか載っていないことが多いんです。いつも四苦八苦^^;今回の砂子谷富士社も例にもれず、境内にも案内板もなく、今のところ不明状態です。 とはいえ、鳥居横の標柱「富士社」の揮毫は衆議院議員・綿貫民輔氏。南砺市出身の代議士で、すでに政界は引退していますが、自民党で入閣、国民新党でも活躍していました。 綿貫民輔氏は28歳で倒産寸前の砺波運輸の社長となって、4年間で立て直して上場、現在のトナミ運輸へとつなげたことで知られています。その後、政界入り、自民党幹事長・建設大臣・衆院議長などを歴任、郵政民営化で小泉首相に反旗を翻して、自民党離党の末に国民新党初代代表など。。。南砺市では名誉市民第一号。。 ちなみに綿貫家は歴代・井波八幡宮の宮司の家柄になります。現在の井波瑞泉寺のお隣りで、大きな境内地を誇っています。境内は元々は瑞泉寺・井波城の跡地でもあって、けっこう…

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芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。 先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。  石川県立美術館広坂別館 大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。 翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、…

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小松天満宮 浮島・輪中堤 梯川分水路

前回の葭島神社の最後の方に、奥の細道の芭蕉と喧嘩別れした小松天満宮の能順を書きましたが。。。 実はその文章に天満宮の外観の画像を差し込むつもりでした。ところが文章がまとまらず余計なことを書き過ぎて、久しぶりの文字数オーバー><;  葭島神社から小松天満宮 ちょうどこの辺りが葭島神社側の船着き場かと。。右に見える白い建物は社務所会館(梅林院)ですが、その手前の岸が天満宮の船着き場のあった位置でした。 今は葭島側は河岸の急な土手になっています。小松天満宮は急な河岸壁。どちらも船着き場の面影はないですねえ。おかげで、今は鳥の楽園^^; 葭島神社河岸から小松天満宮東方 画像をアップしてもらうと解りますが、真ん中の大きな屋根が天満宮の拝幣本殿屋根、やや右に小さな切妻屋根が山門の屋根です。山門の前には明治初期までは約20m程の岸辺に船着き場がありました。右には小松大橋が掛かっており、そこまで河岸壁が続きます。 江戸時代、小松城の一角になる葭島神社(小松稲荷社五穀寺)の北岸と小松天満宮の南岸に船着き場が設けられ、藩主や城代は参拝時には、船で梯川を往復していました。明治以降は河岸の改修で船着き場は消滅しています。現在は100m東方の小松大橋から回り込まねばなりません。。  小松城側から小松天満宮西端 左の赤い橋は天神水管橋といって、水道水用の配管橋になります。この橋も以前は天満宮の西端の境内地を通していたのですが、今回の浮島工事で護岸が出来たおかげで、橋台が築けるようになったので、天満宮…

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葭島(よしじま)神社

小松城は加賀藩三代藩主・前田利常が自身の隠居城として、金沢城の倍の規模と趣向を凝らした建物や庭園(お花の庭園まで造っていたそうです。)を造作していたと云われます。利常の死後、小松・能美の隠居領(約20万石)は加賀藩に帰属しましたが江戸期を通じて小松城代(主には前田対馬守・土佐守家が多く努めています。)・城番が置かれ、維持されていました。一藩(一国)一城令の中、幕府の許可を得た慮外の城として存続していました。 残念ながら明治の廃城令によって、一部の払い下げと共に、刑務所が置かれ懲役業務が城郭の破却作業となって徹底的に破壊されてしまいました。更に堀を構成していた梯川(かけはしがわ)の度重なる氾濫の対処に明治以降、平成の現在まで、川の流れを変えたりの度重なる改修工事で、小松城の面影を残すのは天守台の石垣と僅かな堀壁の一部くらいになっています。 小松城の古地図を観ると梯川が直角に曲がる角地を利用した水に浮かぶ城だということが解ります。前田利常の改修によって、新設された南面の竹島の裏鬼門には菟橋(うはし、得橋)神社を城外内に移転させています。その他にも城内の一角には幾つかの守護神的存在として、寺社が存在していたようです。琵琶島の北堀対岸の外郭にあった愛宕養福院(鎮座地は現在は梯川に水没)で鬼門の守護神としていました。その後にその延長線上の対岸に創建したのが、小松天満宮になります。  葭島神社 表参道 一の鳥居 同じ鬼門方向のもう一社が古地図上では小松城郭の最外郭の梯川岸辺にある稲荷社にな…

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野間神社

金沢の北東部にある野間神社。現在は金沢市ですが、旧小坂村一帯の惣社として河北(加賀)13座に数えられる式内論社としても古い歴史を持つ神社です。小坂村は長く河北郡でしたが昭和11年(1936年)に金沢市に編入されています。 一応、式内社・野間神社に関しては金沢市玉鉾(たまぼこ)の野間神社も論社として主張しています。ただ玉鉾野間神社の主祭神は豊宇賀能売命(とようけび、豊受大神、稲荷神)にしています。豊宇賀能売命は伊勢神宮の外宮の主祭神と知られた食物・穀物を司る女神で、天照大神の相棒的存在で大和系ともみられます。 野間神社御由緒 金沢市小坂町東一番地鎮座 一.御祭神 草野(かやの)比賣大神    配祀   武甕槌(たけみかづち)命 経津主(ふつぬし)命 天児屋根(あまのこやね)命 比咩(ひめ)大神 一.境内地 壱千八百拾四坪 一.由緒    本神社は延喜式内の名社であり、古来小坂地区の総鎮守神として仰がれて来た。    その創建は悠久の大古にさかのぼるが、文献に現れたのは、斉明天皇二年(西暦六五六年)二月を始めとする。以来、歴代天皇、国守、介、守護等の崇敬極めて厚く、神階を授け給い、神領を寄進し、社殿の造営や幣帛の供進などしばしばであった。藩政期には河北郡一郡の総社と称せられ、明治三十八年石川県より郷社に列せられて今日に至った。  表参道石段下の狛犬像  平成8年(1996年)奉納と新しいものです。平成生まれの加賀の狛犬にはこのような迫力系が多いです。 …

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小松(梯)天満宮

もう昨年の話ですが、嫁さんが夏に足を骨折して約2カ月ちょいで仕事に復帰してからも、まだまだ歩くのには支障があったようで、しばらく送り迎えをしてあげてたんですが、2カ月ほどで復調。足慣らしもあるからと歩いて通勤していたんですが、復帰明けから仕事が忙しそうで、ストレスを相当ためていたみたい。 強がってたくせに、ついにまだ床に座ると足に響くんだとグチグチ。。悪い癖で、どうもやせ我慢が過ぎるんですね。 ついに我慢も限界と、気分転換に高めの座椅子を買いに行くことに。。前に、小テーブルを買いに行った家具屋さんを覚えていて、小松まで遠征することに、オリジナルのちょっとした小物インテリアが余程気に入っていたみたい。在庫や陳列もそう多くない店なんですが、余程印象に残っていたようです。気分転換には遠くで一人じゃいけないショッピングが一番とは嫁さんの言葉。。ここのところ、嫁さんの相手は娘に任せっぱなしで、二人で市外へのドライブは、春以来行ってませんでしたねえ。。あ~~耳が痛い。。気に入った足高の座椅子を買ってニコニコ^^なのに、一カ月で用済みにして、その後元気にルンルンしている嫁さんって@@; それにしても家具屋さん(家具ホームファッションイシイ)で、ミニテーブルを買ったのは8年前。よくもまあ覚えていたものです。その時に帰り道に遠回りして小松天満宮に立ち寄ったんですが、思い出して寄ってきました。 H22.10.09 道の駅こまつ木場潟                      H22.10.09 小松天…

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国造(こくぞう)神社

金沢市街には「泉」のつく町名が多くあります。米泉・増泉・西泉・泉本町・泉・泉野・泉野出町・泉が丘他、僕が思いつくものだけでもこれだけあります。この泉の付く地区は、犀川南岸から伏見川の両岸、大乗寺から西金沢駅周辺に及ぶ一帯です。この辺りは古くから金沢市内でも屈指の人口密集地になります。 この泉の地名のルーツですが、別にここに大きな泉や湖があったというわけではありません。前々回にご紹介した天満宮の前身・椿原砦を築いた須崎兵庫になります。須崎兵庫は賀州三箇寺(松岡寺・山田光教寺・本泉寺)の旧真宗軍団の中でも主力的存在で、加賀守護・富樫政親が滅んだ高尾城攻めでも、攻城方の総大将を努めています。この須崎兵庫の別名が泉入道と云い、前述の範囲が泉入道の領地だったといわれ、町名にそれが残っているそうです。泉入道自身も隠居後は米泉に庵を結んで隠棲、後に法名・慶覚から慶覚寺になっています。後に移転して現在は幸町の県税事務所の近くにあります。 旧北国街道 泉2丁目付近 犀川大橋から南に向かう旧北国街道は現在の国道157号線をなぞるように進みますが、大きくずれている場所が泉一丁目交差点から右斜めに進み、有松交差点手前に抜ける細い住宅路が特筆されます。この通りには江戸期から続く伝統のお店や店舗が残っていますし、一歩露地に入ると迷子になりそうな迷路の細道があります。 この北国街道沿いの泉2.3丁目、泉本町、弥生の産土神の神社になっているのが国造神社になります。神社の門前にも何軒か老舗や旧家が観られます。 …

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椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石には卍が刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。 卍は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。 横山家 丸に左万字 ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりな…

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椿原天満宮①

椿原天満宮 右の道が天神坂 この神社に関しては、以前に一度アップしています。永仁5年(1298年)に山崎(?)の地・富樫丹波邸(?)に天神社として開基され、観応年間(1350~1352年)に当地に遷座、田井天神と呼ばれていました。ただ前回も書きましたが時代的にも記述的にも疑問が多く、慶長以前は詳細不明の神社です。前田利家金沢入城後に椿原天満宮と改め現在地に社殿を建てています。 江戸時代、常駐の神官が置かれ祭祀的にはもちろん金沢城の防衛拠点としても重要視された金沢五社の筆頭格とされた神社です。また戦国期には一向宗の洲崎兵庫が砦を置いた際は当初の本拠・越中・福光・城端、その後の加賀・本泉寺の先端地であり、金沢御堂の時代には越中方向の最終防衛地となった重要地です。 金沢五社や一向宗時代について興味のある方はこちらをどうぞ⇒2013.08.06椿原天満宮(椿原山砦跡) 天神坂標柱 椿原神社の旧社名、田井天神の隣にあるのでこの名でよばれている。昔坂の上部は三つに分かれていた。 金沢は九十九坂の町とも呼ばれるほど坂道の多い町ですが、その坂道の紹介があると一番に挙げられるのがこの坂になります。椿原坂・天神坂とも呼ばれています。どちらもこの天神宮から由来しています。元々、金沢大学が金沢城から角間に移って以来、急速に開けたのが杜の里・若松・田上といった地域です。それまでもその手前の旭町・田井町・桜町・横山町・材木町などは江戸期には栄えた町でもありました。更に富山の福光に抜ける主要道として重要道でし…

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西山古墳群~高座八幡神社

西山古墳群 標柱 前にご紹介した北陸最大級の前方後円墳1号墳の秋常山古墳群と隣接しているのが西山古墳群になります。秋常山は発見時は西山古墳群の一部とされていました。 以前紹介したように能美平野の中に点在する丘陵地帯を利用して造られたのが能美古墳群ですが、その中で一番東方の丘陵に位置しています。前回紹介したようにこの西山古墳群も南面や西部が宅地や田畑地として掘削を受けています。更につい最近まで西山はこの辺りの秋常・高座・久常といった地区の共同墓地になっていました。 西山古墳群入口 久しぶりに訪れてみると共同墓地は平坦地に降りて新設されていて、西山墓地はその多くが撤去移動されていました。国史跡指定の関係と思われますが、墓石が撤去されたとはいえ、古墳の形跡は解り難く、西山古墳群の標柱が無ければ、古墳のあった地とは解らない状態。。今後の灌木や藪地の整備が課題になってくると思われます。 何カ所かは円墳の形跡も観られますが、この西山は古墳群が注目されていますが、その前の時代、弥生期から古墳期への移行期の周溝墓、土坑墓・木棺墓が発見されています。また、その位置が古いものが高度の高い東北部の位置、古墳期の物は麓の低地である西南部と見事に分離されていて、しかも同じ方向に並列しています。墳墓同士があまり重なる場所がないということです。とはいえ、その後の平成に至るまでこの西山の上は墓地の集積地だったわけです。 以前は地続きだった秋常山の大型古墳を含め、弥生期から古墳終末期そして現代ま…

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