木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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押野高皇産霊(たかみむすひ)神社

高皇産霊(たかみむすび)神社神社沿革 霊峰白山を源とする手取川の支流・木呂川の清流に恵まれ、周辺の何処よりも早く居住した。そのことは、手取川扇状地では最も古い、今から四千年前の縄文式土器群が大塚遺跡で発見されたことからうかがえる。大塚の地名は、明治初期まで古墳が残っていたことに由来し、古墳時代の押野は、豪族が居住した地でもあった。中世には、押野荘地頭・富樫家善の館が建ち、大野荘湊と白山本宮を結ぶ白山大道が通るなど、押野は、古くから人々の往来が盛んであった。 押野の旧社として中世の押野山王社が知られている。江戸中期には神明社・春日社・観音社の三社が存在し、後期に多聞天社・国常立社・比咩社と改められている。明治期には旧高皇産霊神社と清水神社の二社となり、現在の高皇産霊神社は、神社合祀令によってこれらを合祀して明治四十四年に建立したものである。 旧高皇産霊神社 祭神 高皇産霊尊 押野山王社は当社と伝えられ、押野西部の「宮様跡」と呼ばれる地に鎮座した。江戸期の神明社・多聞天社にあたり、押野南西部鎮座(押野霊園辺り)の国常立社を合祀したとみられる。 清水神社 祭神 天照大神 比咩社とも呼ばれ、前身は江戸中期の観音社とみられる。押野東部に鎮座し、門前の村長が「宮前」姓を名乗る由来になった。 押野居住の十村役後藤太兵衛(一六一四~一六七三)は、野田山麓に泉野村などの新しい村々を開き、長坂用水を開発した。同用水開発には、石川郡内の徒歩通勤圏内から延べ三十六万人が動員された。江戸初期の…

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砂子谷富士社 砂子谷の大杉

金沢の森本ICから富山県・福光に向かう国道304号線で、県境を越えて1キロほどを右折すると砂子谷の集落になります。坂道の途中に土地の産土神と思われる神社があります。 日頃、神社や旧跡を見るのが好きな僕は、標柱や歴史看板などを見るとつい急ブレーキを踏んじゃいますねえ^^;今回も石柱の「巨木」の文字に反応してしまいました。 自分の知らない神社に出会うと、後で神社庁を検索することが多いのですが。。石川の神社庁のHPでは小さな神社でも、それなりの由緒や由来が載せられているんですが、富山の神社庁では名前・住所くらいしか載っていないことが多いんです。いつも四苦八苦^^;今回の砂子谷富士社も例にもれず、境内にも案内板もなく、今のところ不明状態です。 とはいえ、鳥居横の標柱「富士社」の揮毫は衆議院議員・綿貫民輔氏。南砺市出身の代議士で、すでに政界は引退していますが、自民党で入閣、国民新党でも活躍していました。 綿貫民輔氏は28歳で倒産寸前の砺波運輸の社長となって、4年間で立て直して上場、現在のトナミ運輸へとつなげたことで知られています。その後、政界入り、自民党幹事長・建設大臣・衆院議長などを歴任、郵政民営化で小泉首相に反旗を翻して、自民党離党の末に国民新党初代代表など。。。南砺市では名誉市民第一号。。 ちなみに綿貫家は歴代・井波八幡宮の宮司の家柄になります。現在の井波瑞泉寺のお隣りで、大きな境内地を誇っています。境内は元々は瑞泉寺・井波城の跡地でもあって、けっこう…

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芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。 先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。  石川県立美術館広坂別館 大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。 翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、…

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小松天満宮 浮島・輪中堤 梯川分水路

前回の葭島神社の最後の方に、奥の細道の芭蕉と喧嘩別れした小松天満宮の能順を書きましたが。。。 実はその文章に天満宮の外観の画像を差し込むつもりでした。ところが文章がまとまらず余計なことを書き過ぎて、久しぶりの文字数オーバー><;  葭島神社から小松天満宮 ちょうどこの辺りが葭島神社側の船着き場かと。。右に見える白い建物は社務所会館(梅林院)ですが、その手前の岸が天満宮の船着き場のあった位置でした。 今は葭島側は河岸の急な土手になっています。小松天満宮は急な河岸壁。どちらも船着き場の面影はないですねえ。おかげで、今は鳥の楽園^^; 葭島神社河岸から小松天満宮東方 画像をアップしてもらうと解りますが、真ん中の大きな屋根が天満宮の拝幣本殿屋根、やや右に小さな切妻屋根が山門の屋根です。山門の前には明治初期までは約20m程の岸辺に船着き場がありました。右には小松大橋が掛かっており、そこまで河岸壁が続きます。 江戸時代、小松城の一角になる葭島神社(小松稲荷社五穀寺)の北岸と小松天満宮の南岸に船着き場が設けられ、藩主や城代は参拝時には、船で梯川を往復していました。明治以降は河岸の改修で船着き場は消滅しています。現在は100m東方の小松大橋から回り込まねばなりません。。  小松城側から小松天満宮西端 左の赤い橋は天神水管橋といって、水道水用の配管橋になります。この橋も以前は天満宮の西端の境内地を通していたのですが、今回の浮島工事で護岸が出来たおかげで、橋台が築けるようになったので、天満宮…

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葭島(よしじま)神社

小松城は加賀藩三代藩主・前田利常が自身の隠居城として、金沢城の倍の規模と趣向を凝らした建物や庭園(お花の庭園まで造っていたそうです。)を造作していたと云われます。利常の死後、小松・能美の隠居領(約20万石)は加賀藩に帰属しましたが江戸期を通じて小松城代(主には前田対馬守・土佐守家が多く努めています。)・城番が置かれ、維持されていました。一藩(一国)一城令の中、幕府の許可を得た慮外の城として存続していました。 残念ながら明治の廃城令によって、一部の払い下げと共に、刑務所が置かれ懲役業務が城郭の破却作業となって徹底的に破壊されてしまいました。更に堀を構成していた梯川(かけはしがわ)の度重なる氾濫の対処に明治以降、平成の現在まで、川の流れを変えたりの度重なる改修工事で、小松城の面影を残すのは天守台の石垣と僅かな堀壁の一部くらいになっています。 小松城の古地図を観ると梯川が直角に曲がる角地を利用した水に浮かぶ城だということが解ります。前田利常の改修によって、新設された南面の竹島の裏鬼門には菟橋(うはし、得橋)神社を城外内に移転させています。その他にも城内の一角には幾つかの守護神的存在として、寺社が存在していたようです。琵琶島の北堀対岸の外郭にあった愛宕養福院(鎮座地は現在は梯川に水没)で鬼門の守護神としていました。その後にその延長線上の対岸に創建したのが、小松天満宮になります。  葭島神社 表参道 一の鳥居 同じ鬼門方向のもう一社が古地図上では小松城郭の最外郭の梯川岸辺にある稲荷社にな…

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野間神社

金沢の北東部にある野間神社。現在は金沢市ですが、旧小坂村一帯の惣社として河北(加賀)13座に数えられる式内論社としても古い歴史を持つ神社です。小坂村は長く河北郡でしたが昭和11年(1936年)に金沢市に編入されています。 一応、式内社・野間神社に関しては金沢市玉鉾(たまぼこ)の野間神社も論社として主張しています。ただ玉鉾野間神社の主祭神は豊宇賀能売命(とようけび、豊受大神、稲荷神)にしています。豊宇賀能売命は伊勢神宮の外宮の主祭神と知られた食物・穀物を司る女神で、天照大神の相棒的存在で大和系ともみられます。 野間神社御由緒 金沢市小坂町東一番地鎮座 一.御祭神 草野(かやの)比賣大神    配祀   武甕槌(たけみかづち)命 経津主(ふつぬし)命 天児屋根(あまのこやね)命 比咩(ひめ)大神 一.境内地 壱千八百拾四坪 一.由緒    本神社は延喜式内の名社であり、古来小坂地区の総鎮守神として仰がれて来た。    その創建は悠久の大古にさかのぼるが、文献に現れたのは、斉明天皇二年(西暦六五六年)二月を始めとする。以来、歴代天皇、国守、介、守護等の崇敬極めて厚く、神階を授け給い、神領を寄進し、社殿の造営や幣帛の供進などしばしばであった。藩政期には河北郡一郡の総社と称せられ、明治三十八年石川県より郷社に列せられて今日に至った。  表参道石段下の狛犬像  平成8年(1996年)奉納と新しいものです。平成生まれの加賀の狛犬にはこのような迫力系が多いです。 …

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小松(梯)天満宮

もう昨年の話ですが、嫁さんが夏に足を骨折して約2カ月ちょいで仕事に復帰してからも、まだまだ歩くのには支障があったようで、しばらく送り迎えをしてあげてたんですが、2カ月ほどで復調。足慣らしもあるからと歩いて通勤していたんですが、復帰明けから仕事が忙しそうで、ストレスを相当ためていたみたい。 強がってたくせに、ついにまだ床に座ると足に響くんだとグチグチ。。悪い癖で、どうもやせ我慢が過ぎるんですね。 ついに我慢も限界と、気分転換に高めの座椅子を買いに行くことに。。前に、小テーブルを買いに行った家具屋さんを覚えていて、小松まで遠征することに、オリジナルのちょっとした小物インテリアが余程気に入っていたみたい。在庫や陳列もそう多くない店なんですが、余程印象に残っていたようです。気分転換には遠くで一人じゃいけないショッピングが一番とは嫁さんの言葉。。ここのところ、嫁さんの相手は娘に任せっぱなしで、二人で市外へのドライブは、春以来行ってませんでしたねえ。。あ~~耳が痛い。。気に入った足高の座椅子を買ってニコニコ^^なのに、一カ月で用済みにして、その後元気にルンルンしている嫁さんって@@; それにしても家具屋さん(家具ホームファッションイシイ)で、ミニテーブルを買ったのは8年前。よくもまあ覚えていたものです。その時に帰り道に遠回りして小松天満宮に立ち寄ったんですが、思い出して寄ってきました。 H22.10.09 道の駅こまつ木場潟                      H22.10.09 小松天…

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国造(こくぞう)神社

金沢市街には「泉」のつく町名が多くあります。米泉・増泉・西泉・泉本町・泉・泉野・泉野出町・泉が丘他、僕が思いつくものだけでもこれだけあります。この泉の付く地区は、犀川南岸から伏見川の両岸、大乗寺から西金沢駅周辺に及ぶ一帯です。この辺りは古くから金沢市内でも屈指の人口密集地になります。 この泉の地名のルーツですが、別にここに大きな泉や湖があったというわけではありません。前々回にご紹介した天満宮の前身・椿原砦を築いた須崎兵庫になります。須崎兵庫は賀州三箇寺(松岡寺・山田光教寺・本泉寺)の旧真宗軍団の中でも主力的存在で、加賀守護・富樫政親が滅んだ高尾城攻めでも、攻城方の総大将を努めています。この須崎兵庫の別名が泉入道と云い、前述の範囲が泉入道の領地だったといわれ、町名にそれが残っているそうです。泉入道自身も隠居後は米泉に庵を結んで隠棲、後に法名・慶覚から慶覚寺になっています。後に移転して現在は幸町の県税事務所の近くにあります。 旧北国街道 泉2丁目付近 犀川大橋から南に向かう旧北国街道は現在の国道157号線をなぞるように進みますが、大きくずれている場所が泉一丁目交差点から右斜めに進み、有松交差点手前に抜ける細い住宅路が特筆されます。この通りには江戸期から続く伝統のお店や店舗が残っていますし、一歩露地に入ると迷子になりそうな迷路の細道があります。 この北国街道沿いの泉2.3丁目、泉本町、弥生の産土神の神社になっているのが国造神社になります。神社の門前にも何軒か老舗や旧家が観られます。 …

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椿原天満宮② 稲荷社 ~ 牛坂八幡神社

椿原天満宮は丘陵の断崖の斜面を利用した長い石段が表参道になりますが、天神坂に面した山裾を巻くようにもう一本の脇参道があります。ちょうど、石段の横から進むと小さな祠堂・小祠を見ながら進めます。最初は田井天神の名残かと思ったんですが、この小祠と云いながら前の置石には卍が刻まれています。神社の祠に卍ですから???この脇参道は稲荷社に続く道なんですが、この稲荷社にはちょっとした謂れがあって、仏教的・慰霊的な意味なのか。。残念ながら謂れについては、不明でまた機会があったら調べてみようと思っています。 卍は寺院の記号に用いられるように、仏教信仰、仏教の吉瑞を顕す紋で神社にはふさわしくないものです。武将の家紋としては鎌倉から南北朝の武蔵七党の中心核・横山党が使用し、その末裔に受け継がれたと云われます。有名武家では蜂須賀家の代表紋、津軽家・大給松平家(松平庶流)が使用しています。武蔵七党の所縁か横山姓の家に多く、加賀藩では加賀八家老の一家・横山家の紋所が「丸に左万字」を代表紋として使い続けています。 横山家 丸に左万字 ちなみに卍紋は戦国末期及び江戸期には隠れキリシタンが十字の替わりとして用いたと云われています。以前、高山右近の項(②③)で書いていますが、横山長知(ながちか)は右近との親交が厚く、嫡男・康玄(やすはる)は右近の娘・ルチアを正室としていました。横山文書では長知より先に亡くなり康玄の項は多くが謎の削除がされていますが、右近退去後に正室を離婚してキリシタン取り締まりの責任者となりな…

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椿原天満宮①

椿原天満宮 右の道が天神坂 この神社に関しては、以前に一度アップしています。永仁5年(1298年)に山崎(?)の地・富樫丹波邸(?)に天神社として開基され、観応年間(1350~1352年)に当地に遷座、田井天神と呼ばれていました。ただ前回も書きましたが時代的にも記述的にも疑問が多く、慶長以前は詳細不明の神社です。前田利家金沢入城後に椿原天満宮と改め現在地に社殿を建てています。 江戸時代、常駐の神官が置かれ祭祀的にはもちろん金沢城の防衛拠点としても重要視された金沢五社の筆頭格とされた神社です。また戦国期には一向宗の洲崎兵庫が砦を置いた際は当初の本拠・越中・福光・城端、その後の加賀・本泉寺の先端地であり、金沢御堂の時代には越中方向の最終防衛地となった重要地です。 金沢五社や一向宗時代について興味のある方はこちらをどうぞ⇒2013.08.06椿原天満宮(椿原山砦跡) 天神坂標柱 椿原神社の旧社名、田井天神の隣にあるのでこの名でよばれている。昔坂の上部は三つに分かれていた。 金沢は九十九坂の町とも呼ばれるほど坂道の多い町ですが、その坂道の紹介があると一番に挙げられるのがこの坂になります。椿原坂・天神坂とも呼ばれています。どちらもこの天神宮から由来しています。元々、金沢大学が金沢城から角間に移って以来、急速に開けたのが杜の里・若松・田上といった地域です。それまでもその手前の旭町・田井町・桜町・横山町・材木町などは江戸期には栄えた町でもありました。更に富山の福光に抜ける主要道として重要道でし…

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西山古墳群~高座八幡神社

西山古墳群 標柱 前にご紹介した北陸最大級の前方後円墳1号墳の秋常山古墳群と隣接しているのが西山古墳群になります。秋常山は発見時は西山古墳群の一部とされていました。 以前紹介したように能美平野の中に点在する丘陵地帯を利用して造られたのが能美古墳群ですが、その中で一番東方の丘陵に位置しています。前回紹介したようにこの西山古墳群も南面や西部が宅地や田畑地として掘削を受けています。更につい最近まで西山はこの辺りの秋常・高座・久常といった地区の共同墓地になっていました。 西山古墳群入口 久しぶりに訪れてみると共同墓地は平坦地に降りて新設されていて、西山墓地はその多くが撤去移動されていました。国史跡指定の関係と思われますが、墓石が撤去されたとはいえ、古墳の形跡は解り難く、西山古墳群の標柱が無ければ、古墳のあった地とは解らない状態。。今後の灌木や藪地の整備が課題になってくると思われます。 何カ所かは円墳の形跡も観られますが、この西山は古墳群が注目されていますが、その前の時代、弥生期から古墳期への移行期の周溝墓、土坑墓・木棺墓が発見されています。また、その位置が古いものが高度の高い東北部の位置、古墳期の物は麓の低地である西南部と見事に分離されていて、しかも同じ方向に並列しています。墳墓同士があまり重なる場所がないということです。とはいえ、その後の平成に至るまでこの西山の上は墓地の集積地だったわけです。 以前は地続きだった秋常山の大型古墳を含め、弥生期から古墳終末期そして現代ま…

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太田の大栃 国内最大のトチノキ

前回に続いて七尾の寺院を書こうとしたのですが、どうも文章がまとまらず途中書きになったまま、、しばらく頭を柔らかくしてまとまってから書こうと思います。。 久しぶりに一里野に仕事で行ったのですが、予定よりも2週遅れたので、今年はイルミも観れずに終わってしまいました。蕎麦畑も終了した後。。。せっかく白山麓の奥まで来たんですから、ついでに白峰に寄り道してきました。白峰には何度も訪れていながら、白峰でも10数年から20数年ぶりの場所ばかりを再訪してきました。 白峰と勝山の県境は豪雪地帯で、今年の冬も国道沿いでも2メートル以上積もっていたそうです。そんな豪雪地帯の山間地には大木が点在しています。その中には樹種では国内最大の巨樹も存在します。「太田の大栃」。 ご近所ブロ友のgoさんがお気に入りの高山植物園の入り口を200m程、福井方向の谷峠に向かうと、堂埜森神社の社があります。この社が大栃へむかう山道への目印になります。 この堂埜森神社は神社庁HPによれば、古来ここに堂があって守をなしていたところから堂ノ森と称したという。明治に神社明細帳に登載されなかったが、昭和23年に宗教法人になった白峰村内の八坂神社が管理者になっているようです。神社としては新しい部類ですが、古くから祠堂が置かれていたようです。主祭神は素戔嗚(すさのお)ですが、前述の様に、この先には勝山に抜ける最大の難所・谷峠があることから、旅人の安全を見守る手向(たむけ)神の祠堂だったと思われます。 社殿前には文学碑がありま…

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宮島神社 岩抱きのけやき

宮島峡の一の滝から少し下流に向かって公民館の手前を右折すると宮島神社があります。 宮島神社は子撫川(こなでがわ)を中心に山間に点在する宮島二十五村の惣社とされています。総社と惣社は現在は同義語扱いで、よくゴッチャになってしまいますが、基本的には前者は主に奈良時代以降の国府の側に建てられ、国司が祭祀を行うために国内の神を合祀した国社ともいえます。惣社は近在の地方・村・部落・集落の点在する神様を合祀したり、代表として奏者としての役割を果たした神社になります。 宮島神社が惣社のどれに当てはまるかは別にして、大岩に巻きつくように立つケヤキが注目の社です。 小矢部市指定天然記念物 岩抱きのけやき この神社は、宮島郷宮島谷二十五ヶ村の惣社と伝えられている。神社の社殿に向かって右手の巨岩は、周囲一七メートル高さ三メートルを測り、その上に幹まわり三・六メートル樹高三五メートルの大木が太い根で岩を抱きかかえるようにして生えている。「岩抱きのけやき」と呼ばれ、小矢部市指定天然記念物に指定されている。 境内には、自然石の露頭が多くあり、かつては神霊を招き祭祀を行った聖地で古代、神社が発生する以前の磐境(神霊祭祀の霊域)と考えられている。後に社殿がつくられるようになり、この磐境をそのままにして、後方に拝殿を建て、その奥に本殿を築いた。このように古い時代の磐境のすがたを今に残している埜は、県内でも数少ない。(昭和六十年九月には由緒を伝える石碑が建立されている。) 平成十年七月十五日 小矢部市教育…

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狹野(さの)神社・能美九谷陶祖(とうそ)神社

狭野神社 表参道・一の鳥居 九谷焼陶芸村から500mほど西に行った所に、産業九谷の草分けとなった佐野窯が開かれた佐野町(旧佐野村)があります。旧佐野村は辰口丘陵の姓南端に当たり、広大な加賀平野の東端からなだらかな丘陵帯に広がる村落でした。この地で崇敬されていたのが狭野(さの)神社になります。佐野の名の由来はこの神社の名からのようです。 狹野神社由緒 御祭神 素盞嗚尊命 すさのおのみこと 天照大神 あまてらすおうみかみ 豊受比咩命 とようけひめのみこと 仰、当社は往昔、佐野集落の発祥の地である。東部丘陵団地の東端、峠路の山中に、鎮守の神として創建されたもので、郷民の崇敬厚く、嘉祥三年(八五〇)に皇室から正六位上を賜 った。狹い谷間の野原の奥にあったから狹野の社と称えられ、これが佐野の地名の起こりと言う。やがて祖先が農耕に便利な八丁川沿岸と鍋谷川沿岸に移住した。延喜七年(九〇七)に式内社となって、全国でも著名な古社として知られたが、嘉元元年(一三〇三)に南禅寺領となって、その管轄の政所が置かれた。その後南北両佐野が合体し、現在地へ氏神が遷座された。 前田藩政のとき、利常公が格別に崇敬され正保元年(一六四四)の春にご参拝、翌年の春の祭儀に自ら祭主となられた。明治三十五年県社に昇格し、同年神饌幣帛供進神社に指定さ れ、明治四十年に末社神田神社を合祀し大正十三年拝殿を改築し、昭和五十年に本殿、幣殿、社務所を造営した。 境内は二千坪余(神苑神楽山を含む)神田山、お守り 山、雉の山の神…

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奥野八幡神社

能美市の中心地・寺井地区は古代は広大な平野の真ん中に忽然と存在した丘陵と平坦地でした。 古墳期にはこの丘陵地帯に多くの古墳が築かれており60基以上の存在が確認され能美古墳群として国史跡に認定されています。しかし、戦後の高度成長期に市街地化のために丘陵地が掘削されて消滅しており、実際には150.200以上の古墳が集積されていたと推測され、日本最大級の古墳群であり、一大勢力が存在したと思われます。 奥野八幡神社 一の鳥居 表参道 平安初期に加賀国が成立した際にも、能美郡に五郷(村)の臨時集合地となる寺井市(いち)が置かれたと云われています。平安期には加賀の中心地ということもあり荘園が点在して勢力争いも垣間見られますが、この寺井市が商業市場として緩衝地の役割を果たしていたようです。この辺りのことは奥野八幡神社の縁起にも書かれています。 奥野八幡神社由緒 御祭神 応神天皇 比売大伸 神功皇后 武甕槌命 比咩大神 天小屋根命 経津主命 少彦名命 高良玉垂命 千数百年の昔、能美丘陵に墳丘を築き祖宗を祀る豪族がいて、この地にも村があった。 九世紀、加賀立国の時、五郷二駅で能美郡が置かれ、郷が寄り合う寺井市が開かれた。 中世この地が畿内の岩清水八幡や南禅寺などの荘園になり各郷それぞれの争いを、商いで解決し、荘園ごとの均衡を保ったのも、この寺井市があったからといわれている。 十四世紀の初めから、臨時市が定期市に発達し、商い店が建ち人が住んで町に発展し、住む人それぞれが、…

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大野湊神社

金沢の東西を外環状のバイパス道路が近年、すっかり整備されました。まだ他にも計画道路が多いのですが、今の知事さんはホントに交通網の整備に力を入れますねえ。確かに便利になったけど、景観が変わりすぎてちょっと寂しいものもあります。 金沢の東側を走る通称・山側バイパス。能登方面に向かう北金沢の花園で中央を走る国道8号と分岐、小松の八幡町で合流します。西側を走る通称・海側バイパスは山側バイパスの途中の白山麓に向かう安養寺北交差点から県庁のある大通りまでつながっています。更に現在は浅野川の手前まで延伸しています。 金沢の中心街を通る国道8・157号線の交通緩和が進んで、進行やアクセスが楽になりました。更に能登里山街道や川北大橋の無料化も拍車をかけています。 この恩恵を大きく受けているのが、車を駆使して広範囲に営業・サービス活動に動く僕なんですね。日頃、景観がどうの、地名がどうの、名所旧跡が消えるなどと言っておきながら、大きな寄与を受けているわけです。 僕が住む旧松任地区はこの山側・海側・8・157号といった主要幹線道路の中心経由地、特に乾の交差点は前述の四路線の中継点で我が家からすぐの場所になるんです。おかげで目的地によって進行があっさり決まります。前は地図とにらめっこがよくありましたから。。 しかし交通網が広域化して大忙しなのが、道路公団や警察関係。。特に白山・金沢西部は大変だと思います。まあ、石川県警本部が県庁横、交通機動隊が野々市の二日市に移転しています。まあ、おかげで海側や野…

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能登比咩神社

能登比咩神社  表参道入口 一の鳥居 雨の宮古墳群を見て狭い林道を抜け、眉丈山トンネルを抜けて能登部の旧町道を右折して1キロほど進むと能登比咩神社の鳥居があり、長い参道がみられます。鳥居側には駐車スペースがないので手前のスーパー横の路地を登ると神社の駐車場があります。 神社のある場所は能登部・下という古代から続く街道沿いの集落に当たり、伝統的な能登の住宅が観られる地域です。ちなみに上は能登比咩神社には兄宮とも弟宮とも云われる能登部神社の辺りをいいます。能登部神社は後でも書きますが能登国造(くにのみやつこ)の祖神を祭った神社で能登でも重要神社の一つになり、後年には同地で前田家から隠れた寿福院(千代保)が加賀藩3代藩主・前田利常を生んだ地とも云われています。江戸期には前田利常の産神として崇敬されています。利常自身も「兄宮(大入杵命、おおいりきのみこと)の神域を侵すべからず」という掟書を残しています。 上:能登部下 旧家住宅 中:能登部下 旧街道 下:能登部下 能登比咩神社 東部 旧鹿西(ろくせい)町の能登部上・下、徳丸地区は前述の様に古くからの集落であり、黒瓦の大屋根と切り妻の大きな三角壁のアズマダチ、土壁などの古民家の大型住宅が約50軒が軒を並べる地区になります。 石川県の方針もあって、能登の各地には景観保全のために、新築・改築物件に屋根や壁の色調制限がある地区があるのですが、ここもその一つになります。しかし、古くからの伝統的な家屋が多く残る地区としては突出した存在です。そ…

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斐太(ひだ)神社・雁田神社

昨年、上越に行った際に家族でドライブがてら鮫ヶ尾城に登ろうと思って妙高の方に行ったんですが、山裾を車で登っていくと公園の入り口にはパトカーが二台がトウセンボ><前日の大雨で崖崩れでもあったのかと引き返したんですが。。。家に帰ってネットを見るとお城のお祭りだったんですねえ。大失敗でした。。滅多にない好機だったのに。。歩いて登ってみるべきでした家族が一緒だとこれがあるんですね。。 みょうこう景虎物語~山城の陣~ 鮫ヶ尾城は上越でも信州との北国街道における国境警備の城で、春日山城直近の最前線基地に当たりました。 上杉謙信死後の家督争いに端を発した上杉景勝と上杉景虎が戦った御館の乱の決着地です。 画像:上越埋蔵文化財センター前 上杉謙信公像 上杉謙信は御存じのように戦国時代、軍神・越後の虎など軍事では戦国最強とも云われていましたが、その信仰から女犯をしない聖将としても知られるように実子はいませんでした。長尾守護代家の生まれとはいえ四男坊主、栃尾城という中越の一角から台頭して越後を統一、31歳で上杉姓を譲られ関東管領・北国探題の名のもとに勢力を広げていました。 国が広がるごとに人質となる子を受け入れていますが、養育と教育に熱心で気に入った人物は自身の養子や側近としたものが多く存在しました。 画像:上越埋蔵文化財センター 謙信公と春日山城展 ドラマ天地人使用甲冑 左・上杉景勝 右・直江兼続 名前の知られたところでは、七尾の畠山義春(上条政繁、七尾城主・畠山義読の次男)、村上国…

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白山七社④ 白山別宮(しらやまべっくう)神社

前回から、すっかり間が空いてしまいましたが、白山七社で最後に登場するのが白山別宮(べっくう)神社です。別宮の読み方は諸説あってはっきりしませんが「べっくう、べつぐう」と読む資料が多いようですが、地名では「べつく」になります。 画像は春先と夏が混在します。申し訳ありません。 小松に加賀国府があった時代、加賀国の中心地は小松でした。加賀国府の推定地は小松市東部の国府町近辺と云われていますが、現在も不明のままです。加賀国府は前のブログでも書いたように、安元事件以降は自然消滅的に消滅して、その後の源平の争乱、寺井・林氏、野々市の富樫氏と中心地が北上して、国府の地も荒涼とした荒れ地や耕作地になったこともあります。 加賀国府が健在だった頃、小松市街や加賀国府から白山参拝の道は、辰口の虚空蔵山などの山間の道を通って、宮竹の平地に出て岩本宮を経由して岩本の渡しから渡し船に乗って本宮、加賀禅定道を進む道。 もう一本が現在の国道360号線をまっすぐ進んで、仏御前の原町を越えて中ノ峠・三坂峠越えで白山麓の鳥越から吉野で加賀禅定道の途中から入るルートでした。 小松から中ノ峠・三坂峠を越えて白山麓の鳥越に入ったところで待つのが白山七社で中宮三社の一つの別宮でした。前回の佐羅宮が加賀禅定道から白山の登山道の関門とするなら、三坂峠越えの関門に当たるのが別宮でした。 前回も紹介しましたが、白山記の記述には…本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は垂迹なり。 御姿本宮の…

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粟津白山神社

大王寺の本堂を左手に進むと、祈りの小径の入り口になる粟津白山神社の長い石段が現れます。 粟津温泉街を見下ろす山上にあり、一の鳥居から粟津温泉の町の広がりが観られます。大王寺が拝殿とすれば、白山神社の位置は神殿、奥の院といった位置になります。そのためか加賀の国守や、加賀藩から小松に隠居領として入部した前田利常が参拝した記録が残されています。 一の鳥居を潜ったすぐ脇に、綺麗な由来碑がありましたので転記を。。綺麗だったので新しいものだと思ったんですが昭和60年(1985年)のものでした。後ろには同時期に寄進された珠玉を抱えた獅子像。さすが小松・加賀の神社ですねえ。。現代九谷の代表的なモチーフです。珠玉は加賀手毬になることが多いのですが、有力氏子や九谷焼の工房のある加賀・小松の神社ではよく見かけます。けして嫌いなモチーフではないですが、僕にはお金持ちの床の間に置かれた置物が連想されてしまいます。う~~む、貧乏人のひがみ眼ですかね。。 白山神社由来碑 湯の町を眺望するみどり深き山上に鎮座まします白山神社は、奈良時代より粟津保の総社であり、保内の人々によって厚く崇敬されてきた。 粟津保はもと粟津上保、粟津下保に分かれていたが、南北朝以降は合して粟津郷となった。 当社はむかし白山比咩神社と共に伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉〇命(いざなみのみこと)・菊理比咩命(くくりひめのみこと)の三柱を祭ると称せられ、また粟津白山宮と号し、養老二年(718年)僧泰澄の温泉発見の古事に因み…

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能登国総社

以前も書いていますが北陸道の国名は越の国と云い、分割された国名は若狭(嶺南)、越前(福井嶺北)、加賀、能登、越中、越後、佐渡となります。若狭は北陸道ですが、京都の外海として畿内に含まれることが多く、佐渡は離島ですから、越前・越中・越後を北陸道とすることが多くなります。三国に分立したのは天武末期から持統天皇の時代と云われています。 元は越前・越中・越後の三国でしたが、国域や国境も何度か変遷しています。越前の最大域は嶺北に能登・加賀を含めた領域、越中は新潟の上中越を含んだ領域という時代もありました。 養老2年(718年)、越前国から四郡(羽咋(はくい)郡・能登郡(鹿島(かしま)郡)・鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡)を分離して能登国が誕生しています。天平13年(741年)一旦、越中国に併合していますが、天平宝宇元年(757年)に改めて独立して能登国が再誕生しています。能登が越中時代、国司で赴任したのが28歳の大伴家持(746~749年)で、家持はこの赴任期間に223首の和歌を作っています。 能登巡行の際にも幾つか読んでいます。 (万葉集から) ※之乎路(しおじ、志雄路)から 直越えくれば 羽咋(はくい)の海 朝凪したり 舟梶もがも ※妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川(にぎしかわ、仁岸川) 清き瀬ごとに 水占はへてな ※珠洲(すず)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり ※香島)(かしま、鹿島)より 熊木をさして 漕ぐ舟の 梶取る間なく 都し思ほゆ ※とぶさ(鳥…

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以仁王と北陸宮

富山県の最東部・朝日町の朝日ICから国道8号線を新潟方向に進むと城山を貫く笹川・城山の二本のトンネルがあり、抜けると左手に翡翠がとれる別名・翡翠海岸と呼ばれる宮崎海岸の海岸線が観られ、それまでの暗く狭い道がいきなり開けたような穏やかな平地に変わります。この平地帯は東端の境川で越中・越後の国境になります。この境川の地は国境の緩衝帯であり、国境の係争地でもありました。江戸期の加賀藩の境関が出来るまでは越中側の国境警備・防御は、この城山の山頂にあった宮崎城が果たしていました。 散らした画像は、笹川郷の総氏神の笹川諏訪神社です。寿永元年(1182年)源義仲が諏訪大社の大祝(おおはふり)・金刺盛澄に銘じて勧請して建立・創立した神社です。全国にも広がる諏訪神社の中で創立者・創立年が明確なのは笹川諏訪神社が唯一だそうです。この地で源義仲が烏帽子親となって元服式が行われ、正式に北陸宮という名が誕生した地です。 この宮崎城を築いたのは地元の豪族・宮崎長康ですが、城としての防御機能を持たせるようになった最初の事由が、朝日将軍・源義仲がこの城山の裏側に御所を造営して以仁王の第一王子・北陸宮を庇護し、その防御の役割として城山の山頂に築城を命じたのが始まりと云われています。今回はこの北陸宮の出自と父親の以仁王について。。。名前は「以仁王の令旨」として平家打倒の旗印としてよく知られていますが、どんな人と云われると意外に知らない方が多いですからね。。 治承4年(1180年)5月、以仁王は打倒平氏の令旨…

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白山七社(番外編) 岩根神社

前回紹介した白峰の中心から天領取次元・大庄屋・山岸家を右手に観て、石積みが観られる道を真っ直ぐ行くか、白山公園線を市ノ瀬方向に進むと。。白山公園線を冬季通行止めにするゲートの左手に広場があります。 そこが岩根神社になります。(例年ならば11月から4月末までゲートは閉まっていることが多いです。) 白山七社・岩本神社で書きましたが、岩本宮の旧名が岩根宮と呼ばれたとなっていました。能美市教育委員会では岩根宮として文化財指定しています。 しかし、疑義にしたように岩本神社では、岩根宮の名称を天狗壁頂上の磐座を名の謂れにしていますが、やはりどうしてもこれには無理が多いと思われます。それに加賀禅定道とは手取川を挟んでおり、登山道とは少し違っています。ただ、中世以降は間違いなく岩本の渡しの関係性からも岩本宮として白山七社・本宮四社の一角というのは間違いありません。 白山開山(養老元年・717年)から加賀国成立(弘仁14年・823年)までは加賀自体が越前の一部でした。 加賀・越前・美濃番場が定められた天長9年(832年)、鎌倉時代に書かれた白山之記に岩本宮の記述があることから遅くとも平安末期。それまでは加賀の白山社として岩根宮という存在があったわけです。 白峰が主張しているのがこの岩根神社の地になります。越前・加賀禅定道からも離れた位置です。 しかし白山七社の中でも加賀国府からの道からの中継点になる岩本宮・別宮。松任・金沢からの本宮の前に立つ剣宮が示すように、加賀の白山七社は各街道…

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白山七社③ 佐羅早松神社

加賀番場にあたる白山比咩神社と岩本宮・剣宮・三宮はある程度近い距離の存在で固まっています(本宮四社)。 「白山之記」の「白山七社本地垂迹事」という箇所には・・・ 本宮   御位は正一位なり       本地は十一面観音なり。 垂迹は女神なり。 御髻と御装束は唐女の如し。 金剣宮 白山の第一の王子なり       本地は倶利伽羅明王なり。 垂迹は男神なり。 御冠に上衣を着す。 銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀刷かせ給ふ。 三宮   白山の第三の姫宮なり       本地は千手観音なり。 垂迹は女神なり。 御装束等は本宮の如し。 岩本宮 白山の第二の王子なり       禅師権現なり。 本地は地蔵菩薩なり。 垂迹は僧形なり。 本地は仏教での本体。垂迹は姿を変えた神話の神の姿になります。この四宮が本宮の菊理姫神を母親にして、残りの三つの宮は兄弟・妹の家族を表していることになります。金剣宮の倶利伽羅明王は剣が本性の明王ですから不動明王にすることがあります。 これから紹介する中宮三社も、この形式を持っていて、関係性が解ります。前述の「白山記」の同文を記すと   中宮   本地は如意輪なり。 垂迹は本宮の如し。 ただし童形か。 児宮と云々。 ただし根本は如意輪なり。 後に三所を祝ひ奉る。 佐羅宮 本地は不動明王なり。 垂迹は金剣宮の如し。 早松は普賢・文殊なり。 二童子の本地か。 別宮   本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は…

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白山七社② 岩本神社

だいぶ日が経ってしまいましたが、白山七社シリーズに戻ります。 前回のブログ ⇒ 白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺 白山山頂の奥宮へと参拝する禅定道は、加賀・越前・美濃の三道がありました。古来の禅定道は信仰の道ですから、自分の足で歩くのが基本でした。どんな有力者・分限者であれ変わりはありませんでした。 古く伝統のある神社や寺院の入り口では観ることがあると思いますが、下馬下乗の石碑や掲示札(下馬札)があります。 大きな神社になるとその神域は広大なものになっていきます。白山神の神域もなかなか広大なものになります。最初に元も子もないことを書いてしまいますが、白山という名の山は本来はここには存在しないんです。御前峰(2702m)・剣ヶ峰(2677m)・大汝峰(2684m)の白山三峰、三県が跨る別山・三ノ峰を加えた白山五峰を中心にした山地の総称が白山になり、正式には両白山地・白山連峰といいます。ただ両白山地にしてしまうと、富山・石川・福井・岐阜;滋賀の山並みのほとんどになってしまうので、白山と云えば前述の五峰を中心にした連山を指して言います。白山開祖の泰澄上人が拝んだ別山・御前峰・大汝峰が白山三山と云います。この三山にそれぞれ別山神社・白山奥宮・大汝神社が置かれています。この三山が白山神の総称地になります。 当然ながら、この神の山地・越のしらやま・白山に登る禅定道も神の道ということで、下馬下乗の対象になったわけです。加賀・越前・美濃の三禅定道が成立したのは平安時代初期で、その起点(…

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倶利伽羅峠 手向神社 倶利伽羅公園①

前々回の記事では、倶利伽羅不動尊の西之坊・鳳凰殿をご紹介しました。 僕の子供時代と云えば、山頂本堂に初詣でに行くのが、当たり前になっていました。倶利伽羅駅から反対方向に父方の本家があって、年始がてら伺って、軽トラで乗せてって貰うか、坂戸口や九折(つづらお)から、てくてくと登って行ったのを覚えています。その頃は、そんなにきつい印象の記憶がなかったんですが、改めて車で登ると結構どちらの道も険しく厳しい道のりです。若かったのかなあ。そういえば、小中学高校の頃、歩くことには全然苦にしてなかったなあ。。今はちょっとの坂道でぜーぜー 当時は裏駐車場から参拝してたんで、ほとんど手向神社の印象はなかったんですが、大人になって自分の運転で登るとなると坂戸口からの距離が長く感じるけれど、子供の頃は観ることのなかった場所を再確認することが出来て、思わぬ発見や位置関係が解るようになって、この辺りに来ることを楽しみにするようになっています。 実は、山頂本堂に行って奥の院の撮影をしたはずなのに消えておりまして、また行ったときに奥の院を撮影して記事を書こうと思っていました。ところがそう思っている時に限って機会がないんですね。で、奥の院はまたの機会ということで。。倶利伽羅不動寺を書き始めて方針転換。。僕が、倶利伽羅では倶利伽羅不動明王以上に重要と感じる神様について、先に書くことに。。 鳳凰殿のブログで書いたように、倶利伽羅不動尊は長楽寺としての歴史は長いのですが、江戸末期の門前店の火災の延焼で荒廃した後は、再…

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四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)

全国には変わった神様を祀っている神社がありますが、北金沢の波自加弥(はじかみ)神社もその一つです。 波自加弥神社が主祭神としているのが生姜(しょうが)の神様になります。生姜の古名は「薑・椒」で「はじかみ」と読んでいたと云われています。神社名の波自加弥はこの語が変じたものだと云われています。金沢では波自加弥神社の生姜から更に広義に広げて香辛料の神様として、神社で開催される「はじかみ大祭」には、生姜を扱う生産者や業者はもちろん食堂やレストラン関係者が集まってきて製品などを献納して、社業発展などを祈願して賑わっています。日頃は静かな神社ですが、この日は賑やかな祭礼でごったがえします。近年ではすっかり金沢の風物詩の一つになってきています。 6月15日は「生姜の日」。実はこれはお茶漬けの素やふりかけなどで知られる永谷園が、日本記念日協会に登録申請して制定されたものなんです。H19(2007年)に冷え知らず・生姜シリーズのヒットで、気を良くした永谷園は生姜部という部署を造るほどの力の入れよう ⇒ 永谷園生姜部HP H21(2009年)に前述のように日本記念日協会に申請して6月15日が「生姜の日」になったのですが、波自加弥神社のはじかみ大祭の開催日でして、永谷園はこの祭礼の日に因んで申請したそうです。 波自加弥神社の神主・田近氏は、河北・金沢や白山市の神社合わせて42社の兼務をしていて、石川県神社庁の金沢支部長さん。相当多忙なはずなんですが、ブログも毎日更新しています。神主らしからぬはじけた…

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白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺

お客さんへの営業廻りの時間調整や予定のない帰途に名所旧跡めぐりをすることが多い僕ですが、本来ならばこの時季は桜の名所ならばいうことなしなんでしょうが。。。そこはお客様の場所と時間次第さらに飛び込みの事務仕事が多いんで、出られない時も多いんで。。 桜の名所もちょこちょこ短時間立ち寄りはしていますが、また後になりますが時季外れという声は無視してご紹介いたします^^なんせ気に入ってて、3年連続で行ってる場所もあるのにいまだアップしてないし‥ ここ何日かは白山麓の入り口に行っていました。おかげで、まだ行ってなかった白山七社の佐羅早松神社にもよることが出来ました。これで白山七社は全制覇^^V 画像のない岩本神社に再度行って画像をとって紹介すれば、全部ご紹介できると思います。 実は前のブログの前には、だいぶ前に訪れていた白山別宮神社(別宮)を途中まで書いていたんですが、弥生さくら公園の桜が見事で、そっちを優先してしまったんです。 今年開山1300年を迎える霊峰・白山に加賀から登る際には、現在は白峰経由で市ノ瀬から登るのが主流ですが、実はこれ、勝山の越前馬場(平泉寺白山神社)からの越前禅定道の中途から登る形になります。 加賀馬場(白山本宮・白山比咩神社)を起点に尾添の一里野からハライ谷を登るのが、古来の加賀禅定道でした。ちなみに馬場(ばんば)のあった加賀・神宮寺・白山寺、越前・平泉寺、美濃・長滝寺ですが、各寺から先の白山に向かう道は霊域として、馬は禁止されていて、ここでつなぎ…

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中乃郷神社

少し前に自宅から二番目に近い神社として徳丸白山神社をご紹介しました。で、一番近い神社はというと、この中乃郷神社になります。神社の紹介をするときに、僕が参考にするのは神社にある社歴・由来碑が主になって、地誌や神社庁の紹介などを参考にして、地域伝承を調べて書いています。 実を言えば、同じ旧松任市内から今住んでいる場所に引っ越して10年に満たないために、この辺りの地図や場所は解っていても、地元の伝承や史実には知らないことが多くあります。この神社などは良い例で、謂れが全く解ってなかったんですね。もっと言い訳すれば、この神社のある場所は近い割には、ここ3.4年まで、あまり前を通らなかったんです。まあ、神社やお寺巡りが好きな僕が一度も行かなかったというわけじゃないんですが、神社前の道は五歩市踏切から番匠町の狭い道の集落に繋がるだけで、車の通行には向いていませんでした。 画像は解りにくいですが、向こうに観えるのが金沢=白山車両基地間の新幹線高架、下を北陸本線が走っています。アップすると北陸本線の列車が走る姿が観えます。 ところが近年、海側バイパスの4車線整備、北陸新幹線の高架整備によって五歩市踏切脇に新幹線保線の作業口が出来て、北陸本線脇の側道が整備され、それまでは五歩市踏切から番匠町までしか行けなかったのが、光野中学まで直線で行けるようになり、更に光野中踏切の前を横断すると、郷町、更には御経塚・金沢八日市まで直線路で行けるようになって、混む道を避けて通る際に機会が増えてきたん…

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