巴塚 葵塚

埴生八幡からの源義仲軍の進撃路は3路と云われています。 一つは現在はふるさと歩道とよばれ、毘沙門川を経由して埴生大池を抜ける険しい迂回路。現在も車が一台がやっとの幅で山間を上り下りします。 更に当時の北陸道で、長坂山を越える縦貫路。近年までこの道に茶店もありました。現在は山越え部分が「いにしえの街道」として保存整備されています。義仲の本軍はここを進んでいます。 そしてもう一つが古代北陸道でこの合戦で一番重要な役を演じた樋口兼光が進んだ道です。この樋口兼光は同じ源義仲四天王の今井兼平、巴御前の兄になります。更に子孫には樋口与六のちの直江兼続がいます。ここは現在の車道の源平ラインがこの道をなぞる様に作られています。 この源平ラインを進んで山に入る手前の堤池の脇を入って行ったところに塚があります。それが葵塚と巴塚です。 堤横の道から真直ぐ登ったところに巴塚があり、分かれ道から回り込むように登ったところに葵塚があります。ちょうど位置的には隣り合うような場所にあります。 巴というのは巴御前のことです。源義仲の愛妾で武勇でも特出される女性として有名です。 義仲は強い女性が好みだったようで、京への遠征軍にも3人の愛妾を従軍させています。それが巴・葵・山吹御前です。この3人共に戦女として鎧着用で戦闘に参加した女傑です。 あまりに巴御前が有名になりすぎて他の二人はあまり知られていませんが、勇ましさは葵・山吹も優れていたようです。 ちなみに義仲の正室は藤原伊子といって義仲が京都上洛後に摂関家…

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西光寺 柴田勝家の菩提所

北ノ庄城落城により亡くなった「柴田勝家」の菩提所がこの「西光寺」です。 元々、西光寺は朝倉氏の時代、天台宗真盛派の祖・真盛上人により一乗谷に創建されたもので、現在も一乗谷の寺跡には多くの石仏塔・石仏群が残されています。柴田勝家が越前に進出した際、柴田家の菩提寺として現在地に移したものです。 福井駅から南へ市電伝いに足羽川を渡った足羽山の下、住宅街にあるお寺です。幕末に安政の大獄で小塚原で命を落とした橋本左内の菩提寺の善慶寺の裏側になります。 境内には柴田勝家の墓所があります。 この墓には北ノ庄落城の際、亡くなった勝家・お市の方・甥の柴田勝景(丸岡城主)・子の孫次郎が合祀されたと伝わっています。しかし、戦後になって墓の位置を移動した際に中を開いたところ、わずかの遺品・調度だけだったそうです。落城の火災・爆発で遺体も発見できなかったと何かで読んだような気がします。尚、お市の方の墓も合祀されてここですが、菩提寺は江戸時代に近くの自性院になっています。 毎年、二人の亡くなった4/24には法要が行われていますし、市内では勝家の武者行列が行われています。残念なことに、震災の為、今年は武者行列は中止になってしまったそうです。 墓の横には北ノ庄城の堀から発見された礎石、勝家が愛用の梅の木があります。梅の木は戦災で焼けたのですが数日で後日発芽したそうで、現代に残っています。 勝家・お市夫婦の遺品は数多くあったそうですが、第2次大戦の福井空襲により多くを失ってしまったそうです。そ…

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龍言寺跡 長尾政景墓所

長尾政景は、上杉景勝の実父です。 元々、越後の守護代家の長尾氏は、春日山、上田、栃尾などに分かれていました。守護代は春日山の長尾能定・為義・晴景・景虎と続いていましたが、政景の上田長尾家は外戚として、重要な位置を占めていました。 晴景・景虎(謙信)の姉妹の仙桃院を正室にしていたことでも、重要な位置にいたようです。謙信の引退を引き止めたり、川中島の際には春日山城の城代を務めたりしています。 38歳の若さで亡くなっていますが、野尻池(鐘淵公園)の舟遊びの際に溺死したと言われています。謙信の軍師として有名な宇佐美定満に依る謀殺という説が有力です。地位と権力の進捗を恐れたともいわれています。 ちなみに宇佐美定満も同じ場所で同時に溺死しており、宇佐美家はこの後断絶しています。 龍言寺は景勝が、政景の菩提寺として建立したものですが、米沢に移封の際、一緒に移されています。 その寺跡の奥の山裾にあるのが政景の墓所です。 案内に沿って登ると墓石がありますが、これは地元の愛好会が建てた物。 その裏側にある石碑が、政景の碑と言われています。刻まれた文字に名があるそうです。本通りからだいぶ奥に入った位置にありますが、静かな森の悠久に触れるのも良いかもしれません。 入口にある上田長尾家当主の歴代墓や直江兼続の墓は観光用に後で作られたご愛嬌ですが^^; 古い歴史を知るには良いかも^^; 旅行日 2009.12.6

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東香山 大乗寺

以前紹介した、藩主前田家の墓所がある金沢最大の墓地「野田山墓地」 http://72469241.at.webry.info/201208/article_20.html その野田山墓地の西南側にあるのが「東香山 大乗寺」 元々は野々市に富樫家が真言宗の寺として1263年に創建しました。 その後、1283年に曹洞宗として開山されましたが、その後、戦乱に巻き込まれ金沢の此花町に、 そして前田家の家老職の本多家の菩提寺として元禄時代にこの地に移されました。本多家の開祖は本多政重。天地人の直江兼次の養子となっていた人です。養子の後は各地を放浪、最後に前田家に仕え5万石という家臣では最大の領地を有していました。下手な大名より大身の家老の力が伺える寺の規模です。 寺の横の墓地内に本多家の墓所があります。また、この寺域の墓所内には能登の大名だった畠山家の墓所もあります。他にも明治4年に日本で最後の敵討ちの12義士の墓もあります。野田山や大乗寺の墓地には、歴史的に貴重な人の墓があり、お墓めぐりをするだけでも相当の労力と発見があります。 「大乗寺」は、現在は曹洞宗の専門僧堂、鶴見本山・永平寺・総持寺祖院と並んで、修行道場としての役割を果たしていて20余名の修行僧が奉仕・修行に励んでいます。真冬に金沢市内の道や各家を托鉢して回る「寒行托鉢」は金沢の風物詩になっています。 毎日、午前4:30、日曜の午後1:30より座禅会が催されています。 一般の人の参加も受けているので、座禅を組…

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モーゼ・パーク モーゼの墓

さて、皆さんはモーゼって知っていますか。 紀元前13世紀、エジプトから独立して、ユダヤの民衆を率いて40年間放浪して、イスラエルの地に導いたとされる旧約聖書に出てくる人です。その後シナイ山に登って、エホバの神から十戒を授かったといわれる人です。 古い映画ですが、チャールトン・へストンが演じ、ユル・ブリンナーが兄のエジプト王を演じていました。海が割れて道ができるシーンは素晴らしいスペクタル映画でした。 そのモーゼの墓がこの宝達山の麓、旧の押水町、現在の宝達志水町の河原に、 な、な、なんとあるというのです。 宝達志水町のHPから http://www.hodatsushimizu.jp/webapps/www/section/detail.jsp?id=100 「モーゼは40年の歳月をかけ、ユダヤの民衆をイスラエルの地へ導いた後、シナイ山に登った。そこからモーゼは天浮船に乗り、能登宝達山に辿り着いたという。その後、583歳までの超人的な余生を宝達山で過ごし、三ッ子塚に埋葬された。」 学術的にはこの墓は「三つ子塚古墳」と呼ばれている古墳です。 古墳だから、年代的な問題はありますが、地元では古くから言い伝えられていて、お墓には花やお酒の供物が絶やされていません。 ロマンといえばロマン、奇想天外といえば奇想天外、信じるも信じないも貴方次第です。 現在、この墓を中心に「モーゼパーク」として広場と遊歩道が整備されていますが、散策にはもってこいかも^^ 街中からも外れた場…

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宝円寺

金沢大学付属病院の西側に入った奥にあるお寺です。前田利家が加賀藩金沢に移封された際に建立したものです。寺域内のつつじや桜、庭園と茶室も風情のあるつくりです。 元々、宝円寺は前田利家が始めて領地を得た福井の武生に建立したことから始まっています。その後、能登の七尾、そしてここ金沢と本拠の変わるごとにこの寺も建立しています。建立の大透住持は利家と同じ尾張の出身だそうで、利家の異動と共にしています。 宝円寺には前田家墓所とは別に菩提寺として大事にされています。 一族の墓所もここにあります。 加賀前田家に於ける重要な寺で、前田利家の葬儀もここで行われました。 この寺の更に西側に墓所があるのですが、この中には「風神雷神図」などで有名な俵屋宗達の墓もあります。近年発見されたものです。 旅行日 2008.11.28 名画 漆絵 俵屋宗達の名作 「国宝・風神雷神図屏風」絵画制作専門店ユーラシアアート 画家肉筆による漆絵(うるしえ)で、名作を見事に再現しました。絵画サイズは40x80cmです。背面にフ 楽天市場 by

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野田山 加賀藩主墓所

金沢城から南南東方向の標高175mの野田山の山肌に、金沢市最大の墓地群が存在します。墓地の広さは43万㎡、東京ドーム敷地面積の10倍あります。墓の数も数万を数えるそうです。室生犀星・鈴木大拙・大久保利通暗殺事件の首謀者6名・日露戦争のロシア人墓地など有名人や時代を象徴した人たちの墓があります。その墓地群の一番高い位置にあるのが加賀藩主前田家の墓所です。 歴代当主17代の墓はもちろん現当主18代以降の墓も準備されていますが、関係の墓を含め76基が7.6haの敷地に建てられています。元々は初代・前田利家の兄利久を野田山墓地の一番高い位置に葬ったのが野田山墓地の始まりだといわれています。 元々、尾張の荒子城が居城だった前田家において本来の当主は利久でした。それを信長の命令により利家を当主として強制されたものです。利家は利久が好きだったようで、各地を放浪した利久を七尾・加賀に迎え入れて手厚く保護しています。利久も利家が国を出ているときは、城代として執務していますから、けして無能ではなかったと思われます。利久の死後、利家は野田山に葬りましたが、野田山墓地の一番高所に利久を葬り、自分の墓はその下に位置させています。 この前田利久の息子(養子)で長男が「花の慶次」で有名な前田慶次郎利益です。 前田家の墓は神道方式で、土を盛り上げた土饅頭の形の円墳ですが、仲良く並んでいる利家と松(芳春院)は階段型の方墳になっています。入口には鳥居を建てて神になるという神道式になっています。 加賀前田家の絶頂期は…

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前田利長 墓所

瑞龍寺の総門前から800メートルちょっと続く遊歩道が整備されています。「八丁道」といって瑞龍寺から前田利長の墓所を繋ぐ参道です。 参道沿いには松並木と利長像・オブジェそして114基の灯篭が立っています。 利長の墓所は高岡の芳野中学の横になります。 森の中の参道を通っていくと、利長の墓所に突き当たります。 前田家の墓所は、神道方式で古墳のような造りなのですが、ここには曹洞宗の影響が多分にあります。水郷に囲まれた静かな場所に墓は立っています。 墓の入口には10m超の灯篭、大きさにはびっくり、小さいものでも2.5m以上あるんですよ。 この利長の墓所と金沢の野田山墓所は、合わせて国指定の史跡として今年認定されます。 旅行日 2009.1.4

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