前田利常~5代綱紀・6代吉徳
加賀藩主墓所案内図 この真鍮製の案内板は5代綱紀墓所横にあります。昭和後期頃の物と思われます。アップすると解りますが、右上に豪姫・千世姫・幸姫・利貞が表示が無く、利貞は分家筋ですが、豪姫は宇喜多家・千世姫は村井家に嫁いだこともあり、藩主墓所に含めないという考えが主流だったようです。当時は藩主墓地として初期墓を藩祖・利家夫妻、2代利長夫妻としていたのが解ります。5代前田綱紀墓所 綱紀は利家一族の野田山山頂部の一段下を整地して、万治元年(1658年)3代利常、寛文2年(1662年)叔母・富姫(八条院正室)を築墓、寛文11年(1671年)祖母・珠姫(利常正室)を50周忌に天徳院から移築。早世した創業一族とは別格として利常一族を志向したと考えられます。5代前田綱紀は80年に及ぶ治世によって、江戸幕府からの信頼感を勝ちとり加賀藩の地位を準御三家待遇にまで引き上げ、内政面でも利常・光高の残した諸問題解決や政策を整備し、寛文の飢饉時には辛口で有名な荻生徂徠をして「加賀侯非人小屋を設けしを以て加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」と言わしめています。また文化面でも書籍の蒐集・文化事業から新井白石から「加賀藩は天下の書府」と評価をえています。
5代前田綱紀が父・光高の急死により藩主となったのは僅か3歳。このため、小松城に隠棲していた3代・利常が自発的ですが幕命の形で藩政復帰で後見として藩政改革に着手しています。戦国生き残りとして加賀藩の基盤を整備していた利常でしたが、戦国期を過ごし日陰の身から兄弟との確執を潜り抜け…
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