護国山 宝円寺

お客さんの自宅に伺うことになって、待ち合わせ時間に3.40分あったので時間調整に久しぶりに立ち寄ったのが宝円寺でした。あまり時間がないので、境内だけを少し歩いてきました。 10年ほど前に一度簡単にUPしていますが、合わせて観て頂けましたら幸いです。⇒ H20.11.28 宝円寺 今回は時間があまりなかったので境内をちょこっと歩くだけで、あまり前回と変わり映えしませんがご容赦ください。。新緑や紅葉の時期に本堂内からの濡れ縁から大正時代に建てられた対青軒と庭園の眺めが美しい寺院です。 曹洞宗・宝円寺の開基は天正3年(1575年)以降、前田利家が府中三人衆の一人として初めて領地を持った際に寺院を建立して父母の供養塔を置いたのが始まりとされています。一説には古くから宝円寺という寺院は古くからあったものを住職・大透圭徐(だいとうけいじょ)との出会いから自身の父母の菩提寺にしたとも云われています。その後、天正9年(1571年)利家が能登を領国とすると、七尾に圭徐を招いて同名の宝円寺を建立しています。更に天正11年(1583年)金沢入城の際にやはり圭徐を招いて千歳台(現在の兼六園蓮池の東端に同名の寺院を建立して加賀前田家の菩提寺としていました。ちなみに表門となる山門は石川門の正対にありました。寺院の南隣に前回の記事で触れた白山信仰の波着寺が置かれ祈祷所となっていました。前田利家の葬儀もこの千歳台にあった頃の宝円寺で行われ菩提寺となっています。 宝円寺が現在地に移ったのは元和9年(1620…

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加賀騒動

更新頻度が少なく、ご訪問も多くなく、皆さんにはご迷惑をおかけしています。 機会を観て、整理がてらUPしようと思ったものの、途中書きになってそのままのものも。。今回の加賀騒動にしても歴史の陰に埋もれた人が多いので、なかなか機会や画像がなくて、。。ただ相変わらず年末年始にだらだら書いたので、まとまりなく長くなってしまいました。知ってる人は知っている、名前や事件の名は知っていても、中身まではの人も多いと思います。たまたま書き始めた時は映画「武士の献立」が公開されて、作中の舟木伝内の墓が特定された時期でもありました。映画に関しては加賀騒動と加賀藩の料理頭の話を絡めたものですが、作者が思うほど加賀騒動の内容を理解している人が多くなく、知らずに見ると何のことやらになっただろうな。。上戸彩が久しぶりの映画主演で頑張っていましたが、ちょっと展開が早すぎて空回りという感じでした。。加賀騒動のあらましを知るには良作品と思います。 2013.12.11 椿原天満宮(椿原山砦跡) から 脇参道の稲荷社について・・・(本文から抜粋) 椿原天満宮の社域には石段とは別にもう一本の脇参道があります。 こちらは稲荷神社があるのですが、この稲荷神社は月読社と稲荷社を合祀したものです。実はこちらは加賀騒動で大槻伝蔵と密通の末、自分の息子を殿様にしようと図ったとされる6代藩主・吉徳の側室・真如院(稲荷社)と息子・勢ノ佐(利和・月読社)を祀ったものだそうです。そういえば、この辺りは加賀騒動で犯人とされた真如院の墓があ…

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実性院③ 大聖寺藩主墓所

実性院の左脇の裏山に続く参道を登ると、大聖寺藩主の墓所があります。この墓所も前回紹介していますので、詳しくはこちらをどうぞ ⇒ 山ノ下寺院群② 実性院 (H27.11.3)  藩主墓所に登る参道沿いには、家臣団の墓地があります。実性院の真裏に当たる山上の位置にあるのですが、時代ごとに墓石の形態は変わりますが、山上に近づくごとに墓標が大きくなっていきます。特に最後の石段前の脇道、実性院の本堂の上に当たる位置には、藩主墓と同形態の墓があります。大きさも側室・子族並みの大きさがあり身分の高さが窺えますが、碑文が摩耗していて判読できませんでした。。 大聖寺藩主墓所 梅芳院の五輪塔 空・風・火・水・地が鮮明に彫られています。梅芳院は後述していますが、7代利物(としたね)の側室、9代利之(としこれ)の生母 前ブログでも書きましたが、大聖寺藩主の墓は石垣の土台の上に五輪塔を重ねたものです。石垣の中はどうなっているかは解りませんが、江沼神社の利治を主祭神ににする神殿の様に南加賀の神社の神殿も石垣造が多く、石垣の形態が似ています。五輪塔は元々は仏教のストゥーパ・五重塔から変形したものと云われますが、この形態は日本特有のものです。大きくは名前の通り、空(輪)・風(輪)・火(輪)・水(輪)・地(輪)の五行を表していると云われます。発案者は空海とも云われていますが、古くから宗派を超えて広まっています。 藩主墓所入り口の灯篭土台 上部が無くなっています。 ちなみに加賀本藩の野田山墓所…

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実性院②

実性院は江戸期の建物ですが、内外部共に補修や改造の痕が多く観られますが、曹洞宗特有の屋根付通路の伽藍配置、本殿内の正側三方丈・広縁(大廊下)・露地(土間)は基本的な配置と景観を保っています。曹洞宗寺院は仏間・正方丈が派手なものが多いのですが、思ったよりも簡素な造りです。ただし、正方丈を仕切る柱、仏間の装飾柱は立派な木柱で側方丈、広縁から隔絶した雰囲気を感じます。 曹洞宗は臨済宗・黄檗(おうばく)宗と並ぶ禅宗の一派ですが、禅宗は武家階層に広く広まっており大名家の菩提寺に広く広がっています。密教系の天台宗・真言宗や浄土系の法華宗・浄土宗・浄土真宗の内陣・外陣に比べるとはっきりと広間が区別されたものが多いのが特徴です。特に大名家が訪れる菩提寺には、この区割りが更にはっきりしてきます。法要や葬式では座る位置は身分や序列がはっきりしますから、正側三方丈の他に広縁・露地は更にこれを助長していると云われます。 また、九谷焼の本家ともいえる大聖寺藩の菩提寺ですから、再興九谷・現代九谷の良品も展示されています。 上:実性院門前 九谷絵皿参勤道中一里塚碑 中:再興九谷 赤絵大皿 下:実性院 九谷焼コレクション 上:海部公子作 色絵水注ぎ 以前、ご紹介した洋画・陶芸家、硲伊之助(はざまいのすけ)氏の弟子に当たり、硲伊之助氏が作陶した吸坂窯を継いで、ご夫婦で製作活動を行っています。まだ嫁さんを連れて行っていないなあ。。あの美術館。 中:下:現代九谷 コーヒーカップ 古九谷が廃された原…

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高山右近の碑③

慶長19年(1614年)にマニラに退去させられた高山右近でしたが、乗船した船にはすし詰めの乗員数で劣悪な環境状態。途中、高齢の三人の宣教師が死亡したと云われています。定員オーバーの為、通常の倍以上の日数を掛け、マニラに辿り着いたというのが実情でした。しかし、先駆けの伝達で「日本の殉教者的武将」の名は知られており、マニラ総督府の祝砲と大歓声と共に、大歓迎を受け、総督からはスペイン人しか許されないイントロラムス内に邸宅と十分な援助を与えられたそうです。 しかし、この過酷な船旅に消耗した身体は癒えることはなく、熱病に侵され到着40日後、帰らぬ人となっています。マニラでの高山右近の葬儀は10日に渡り盛大に行われたと云われています。旧暦慶長20年(1615年)1月6日(新暦2月3日)享年63歳。福者記念日は逝去日2月3日。 高山右近に同行した一族や仲間には妻のジュリア夫人、娘で横山康玄に嫁いでいたルチア、長子・長房の子が5人と云われています。高山右近の家族構成については色々な説や伝承があり一致は見ないのですが、マニラに向かった一族は右近と7人の家族と云われています。 長子・長房(ジョアン)については死亡説があって慶長13年(1608年)夫婦共々亡くなった(病没)というものがあります。そうなると、利長が同年に書いた遺言状の不和を嘆いた「高山長房・篠原長次の不和」は右近本人になってしまいますが、この点は大きな疑問が残ってしまいます。この頃の金沢での右近の公的な事蹟は高岡城築城くらいで、伝わるの…

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玉龍寺 (前田対馬守家菩提寺・墓所)

加賀藩では人持組頭として1万石以上の所領を受け、家老として藩政に常時参画する資格を持つ一門衆・重臣の家系を別名で加賀八家と呼んでいました。他藩の年寄役に当りますが、所領を見ても解るように、外様陪臣とはいえ小大名以上で幕府でも別格扱いを受けており、明治には全家が男爵号を受けています。加賀八家の成立時期ははっきりしませんが、三代・利常から五代・綱紀にかけて成立して行ったようです 軍制面では、約68家と云われる人持組(上士身分、1000石以上)からなる7組をそれぞれの組頭(軍団長)として率い、また藩主不在時や緊急時の金沢城代、平時・緊急時の小松城代として努めています。行政面では幕府交渉、藩内人事、財政管理、藩校運営などがありますが、月番で行政担当を努め、残りの組頭(年寄)が加判と呼ばれ承認・非承認の判断役となり、重要事項の全員連署で決定していました。つまり、加賀八家の八人が加賀藩の最高首脳部になります。 加賀八家をあげると(所領は時期で分家・返上や相続・恩賞・昇給で変動があります。) 本多家   ・・・筆頭家老5万石 家祖・本多政重 徳川家康の最側近で某臣と呼ばれた本多正信の次男         本多政重の波瀾万丈の人生は以前(松風閣庭園)で書いていますが、紆余曲折(七家を渡り歩いています)の末で前田利常に2万石で帰参、対幕府交渉に当り、特に幕府からの越中国返上の強要を撤回させた功績で3万石を加増されてます。また利常・光高・綱紀と三代の藩主の補佐をしています。 長家…

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前田利常灰塚 ~徳橋神社 ~埴田の虫塚

ここのところ、加賀市に行く機会が多くて、山側バイパスから小松の八幡で国道8号に合流する産業道路をよく利用していました。この産業道路は広告看板が禁止されていて景観重視の要素が大事にされています。それはそれでとても良いことなんですが、金沢・松任・鶴来の分岐点の安養寺交差点から国道8号に合流する小松の八幡まで延々と続く片側2車線は、多少の起伏とカーブがありますが走りやすく、ドライバーはついつい飛ばし気味になってしまいます。 途中には松任グリーンパーク、いしかわ動物園、辰口丘陵公園など家族連れに人気のスポットもありますが、ビジネスや作業の営業車は脇目もふらずスピードに乗って走って行きます。 この産業道路のおかげで近接した場所に、精密機械系の工業団地や住宅地が形成されています。自然景観や緑をそこなうというなどの欠点はありますが、事前調査で埋もれていた遺跡や古墳など多くの歴史的遺物が発見されています。 そういう面では、この道路が開発されると聞いたときに期待したのが加賀国府の特定でした。日本の各地に置かれた国府のなかでも一番最後に出来た国府なのに、場所が特定されていない加賀国府は石川の歴史の中で最大の謎の一つです。 一応、地名から推測すれば国分寺を称する寺院のある古府町、河田山古墳群の近くの国府小学校近辺の河田町、埴田町近辺など諸説まちまちです。 地名の通り、歴史深い地名なのですが、現在はのどかな田園地帯で、産業道路でも一番の起伏地で周りを観ずに走りすぎることがしばしばの地でもあります。 そ…

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仏御前の里②

仏御前の生まれ故郷を強く主張する地は北陸には2か所あります。福井県大野市仏原及び栃沢(栃沢は現在は九頭竜湖の底です。)。国道158号線で和泉村に向かう途中にあります。ここには落差100mの三段滝の「仏御前の滝」があり、仏御前が髪を洗っていたという伝承があります。福井県内には、仏御前だけでなく祇王・妓女・刀自の過ごした寺と供養塔があったそうです(現・福井市三郎丸)。 そして、もう一つが石川県小松市原町になります。一般にはこちらが有力とされています。 小松市でも東端にあたり、先に進むと中の峠、三坂峠を越えると一向一揆最後の拠点・鳥越城・二曲城の鳥越を抜けて白山禅定道を経由、白峰越えで福井の勝山・大野へと抜けられます。 京からの帰り道は大野・勝山を経て、禅定道の途中・木滑(きなめり)の地で子供を生み落し、しばらく民家で静養、原村に戻ったとされています。しかし残念ながら生まれた子は男子でしたがわずか2週間程で夭逝しています。日数的には原村に到着後に亡くなったとも、木滑の民家でとも云われはっきりしません。ところで、仏御前出産の伝承地はもう一か所あって、尾小屋経由で西尾の手前にもあります。こちらは大倉岳スキー場に向かう道ですが、平安期は人一人がやっとの峻険な山岳路で、臨月の仏御前が歩くのは無理だと思われます(尾小屋二ツ屋地蔵尊)。 2012.09.01撮影 尾小屋トンネル南口 尾小屋二ツ屋地蔵尊 木滑での仏御前の出産地と伝わる木滑神社には、祠に安産石が祀られています。旅路の途…

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山ノ下寺院群② 実性院

前回ご紹介した山ノ下寺院群の一番南端に在るのが実性院になります。 この実性院が大聖寺藩主の歴代の菩提寺になります。実性院は前の庭園に萩の花が咲くことでも知られています。9月初旬には白い花が咲き乱れて美しい姿を見せてくれます。 残念ながら訪れたのが10月で遅れてしまったので花は観られずでした。来年は9月にこちらに来る予定なんで、忘れずに寄るつもりです。今回は駆け足ということもありましたが、けっこう撮ったはずの画像が抜け落ちているんで、リベンジも含めて。。。。というわけで、画像は少ないですが、ご容赦ください。。 寛永16年(1639年)加賀藩3代藩主・前田利常は隠居して相続分けの形で、次男・利次に富山10万石、三男・前田利治に7万石を分藩しています。加賀藩の東西を扼するもので支藩としての防衛拠点を造るのが主眼となっていました。前田利治は21歳と若く、隣の小松20万石には隠居領として父・利常が入っており、当初は利常が利治を後見指導する腹積もりだったようです。藩主が若く、菩提寺や墓所は当然ながら当初は存在しておらず準備もされていませんでした。 正保2年(1645年)に加賀藩主・前田光高が急死したため、3歳の綱紀の養育と後見に復帰していた前田利常が万治元年(1658年)に亡くなり小松は加賀藩領に復しましたが、その翌々年に大聖寺藩初代の前田利治が江戸屋敷で43歳の若さで亡くなっています。利治には出羽米沢藩上杉家から徳姫が正妻として入っていましたが子供がなく、異母弟・利明(22歳)が前年に養子となっ…

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山口玄蕃宗永 首塚跡

「全昌寺」が菩提寺となっている旧大聖寺城城主・山口宗永の首塚が移設されているとなっていたので、改めて宗永の首塚の在った地にやって来ました。 宗永の首塚があったのは、大聖寺城の東北東に6,700m程行った旧大聖寺川に架かる福田橋の対岸になります。 大聖寺の町には大聖寺川・熊坂川が市街を流れていました。市内を蛇行して流れるために、江戸期には氾濫が何度も繰り返されていました。上流に昭和39年(1964年)我谷ダムが造られ本流も市街を巻くように外周の直線化が図られて、洪水対策がなされています。 現在、福田橋が架かり、江沼神社の側を流れる本来の本流は「旧大聖寺川」と呼ばれる大聖寺川の支流となっており、現在の本流は2.300mほど北を流れています。 福田橋は小松から大聖寺に入る貴重な橋で、古くから戦乱の地となって何度も落とされていたと伝わります。 江戸期にも小松・橋立と大聖寺を結ぶ街道の橋として貴重な存在になっていたようです。大聖寺市内でも有力商家が多かった新町と武家屋敷の耳聞山を結ぶ道の架け橋として近年まで栄えていました。 大聖寺一番の豪商で、古九谷の吉田窯の開業・販売、橋立漁港の運送に係り、全昌寺の五百羅漢の世話方になった吉田屋も新町に居を構えていました。 加賀藩資料「聖藩文庫-山口文庫」によれば、山口宗永、修弘親子は大聖寺城の攻防戦で善戦しますが、多勢に無勢で最後は追い詰められ、城内戦の混乱の中、山口修弘は前田軍先方の山﨑長徳の家臣・木崎長左衛門を呼び出し名を名乗った後、一太刀…

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傅泉寺(でんせんじ、大野弁吉墓所) ~ 大野日吉神社(大野弁吉居宅跡)

金石・大野地区の有名人と云えば、以前何度かUPした銭屋五兵衛と大野弁吉(中村屋弁吉。 銭屋五兵衛は海の百万石・海の豪商と呼ばれ、河北潟の干拓事業による一家破綻など、波瀾万丈の生涯を送った人物です。前に幾つか書いていますんで興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 銭屋五兵衛記念館 銭五の館 本龍寺・銭屋五兵衛の墓所 大野弁吉も一度書いています ⇒ 金沢大野からくり記念館 概ねの経歴などは「金沢大野からくり記念館」で書いてありますので、お読みいただければ幸いです。 からくり儀右衛門こと東芝の創始者の田中久重と並び称されますが、対照的な生き方をしたからくり職人として知られた人物です。羽子板職人の子として京都に生まれ、30歳で指物師・中村屋の娘・うたと結婚して婿入りしています。その後すぐに、妻の故郷である石川郡大野村(現・金沢市大野)に移っています。 清貧を旨として、製作・研究にその生涯を費やしています。 その製作は本業の指物師としての家具・根付・神棚・祠の他、獅子頭・山車は現在にも伝えられています。祭礼の県内の獅子頭が20頭、美川のおかえり祭りの山車などが知られています。この製作の合間には、エレキテル・色ガラス、火薬の製法・大砲・色ガラス製法・細工・写真機・湿版写真、更には鶴型模型飛行機の製作、医学分野では梅毒研究・医薬品開発と他分野にまで及んでいます。 発明家として藩内外に知られる存在でしたが、地位名声・金銭への執着がないというより敬遠した帰来が強く、加賀藩からの登用にも謝辞、高峰…

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津幡城址 為広塚 清水八幡神社

金沢市の北隣にある津幡町。現在は金沢市の衛星都市的な存在です。近年になって国道8号線・159号線のバイパス化で、主幹線道路が変わって西側を回るようになり、旧国道から商業地や住宅地が西方や北方の郊外に移り、元々の中央銀座商店街や津幡宿があったおやど商店街も少し寂しくなってきました。 この中央銀座商店街とおやど商店街が交差する四ツ角という交差点を北に真直ぐ行って、急な坂道を登った大西山と呼ばれた丘陵に津幡城がありました。城址の痕跡はほとんど見られませんが城址碑がある高台からは津幡の街並みがきれいに見渡せる場所です。 この丘陵には平成23年3月まで津幡小学校の校舎がありました。現在は新校舎が完成して東の麓に移り、現在は小学校グラウンドと記念庭園となっています。 何を隠そうこの津幡小学校は僕の母校になります。家庭的にはその後の人生を左右する良いことも悪いこともありました。校舎はなくなりましたが、それでも懐かしい母校に変わりはありません。 僕の小学2年の時に旧校舎が建ったのですが、県内初の4階建て鉄筋コンクリート造・床総アスタイル張りという近代型校舎でした。当然ながら田舎者だらけの子供達で、初めてのアスタイルにツルツル滑り、掃除には今まで見たこともなかったモップにワックスで大騒ぎになっていました。掃除のときはアステアやジーンケリー、ポパイとかの感じで遊んどりました^^ 旧校舎が新築された際には大幅な改修工事が施され、城の痕跡はほぼ無くなってしまいましたが、地中から人…

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律川 ~ 後鳥羽・順徳大原陵

大原と云えば、やはり観光のメインになるのが三千院ですが、観光の場合には大原駐車場から三千院道と呼ばれる参道、呂川伝いの茶屋・お土産屋さんが並ぶ道を行くのがオーソドックスなんですが、今回は律川伝いに登ることにしました。意外に知られていませんが、三千院や勝林院・実光院・法泉院などに行くならこの道が一番の近道なんですよ。そのかわり途中には茶屋もお土産屋もなにもありません。当然、すれ違う人も少なく大原の山里的な雰囲気を感じられます。 大原(魚山)の地は、仏典に節をつけた仏教音楽の一つで声明の発祥の地と云われています。大原の声明は最澄が伝えた天台声明ですが、平安末期には来迎院・勝林院は大原流魚山声明の道場として知られていました。この声明は三種・五音・七声・十二律で構成されているそうですが、三種(呂曲・律曲・中曲)の呂曲と律曲の名からそれぞれに付けられたのが大原に流れる二つの川(呂川・律川)の名になっています。「ろれつが回らない」という言葉もここから来ています。 律川沿いの道は観光道ではないので、それほど整備されていませんが、その分静かで途中には大原・京野菜の栽培畑も見られます。また律川の流れで夏場でも癒されます。 登って行くと最初に出会う神社は「服部神社」・・・この神社がこの辺りの産土神で地元の人たちに親しまれていて、「ハットリさん」と親しまれていると案内板に書かれていました。そういえば、滋賀・京都・大阪では、お寺や神社を「・・・さん付け」で呼ぶのをよく聞きましたねえ。石川にも山代温泉の産土神…

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寂光院

久しぶりに家族がそろった完全休養日。なにがしか用事が入って一日まるごと三人が朝から夜まで揃うのは久しぶり。。ここのところ、だいぶストレスを溜めていたので、そろそろ発散しないとやばくなってきたお父さん。。 前日、遠出のドライブをすると宣言朝早く出ると云ったのに予想通り寝坊が一人発生で、出発は9時前になっちゃいました。。相変わらず、あっちで休憩、こっちで眺望と下道をゆっくり(嫁さん曰くそれでも早い) 懐かしい朽木渓谷を抜けまして、やって来たのが大原・草生の里 今は昔、18.9年程前になりますが、前職の転勤で松任から滋賀県の守山(仕事先は栗東・草津・守山の境)に引っ越したんです。急遽の転勤だったため、事前の下調べなしで地理も何も解らずに引っ越したんですが、住んでみれば、約1時間強あれば京都・滋賀・三重・奈良・岐阜と下道でも行ける好位置だったんですね。 しかも昔から行きたいと思っていた大原の地も琵琶湖大橋・途中峠越えで約30分当時、平家物語や源平盛衰記に凝っていた僕。平家物語の最終話の地は是非行きたかった地だったんです。 滋賀だけでも歴史好きを自称する僕にとっては、猫にマタタビ、いくら時間があっ…

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本龍寺 銭屋五兵衛の墓所

金沢西警察署を更に西に向かうと、江戸期に北前船の港湾として栄えた宮の越(金石)の町になります。 金石の交差点近くに古びた3階建ての建物がありますが、以前までは「銭五遺品館」として銭屋五兵衛の記念館がありました。現在は大野湊神社の近くの「大野湊緑地公園」内に「銭屋五兵衛記念館」「銭五の館」として移転整備されています。その建物から更に西に100メートルほど進んだ所に長い塀垣の寺院があるのですが、そこに銭屋五兵衛が眠っています。 寺院の名前は「本龍寺」。真宗大谷派(東本願寺)の寺院で、境内には同じ真宗大谷派の妙清寺があり、金石随一の敷地を誇っています。 本龍寺は正式名は「潮聲山 本龍寺」。 以前にUPしましたが、真宗の北陸布教の土台を作り、越中井波に瑞泉寺を開山した綽如の曾孫・蓮欽(瑞泉寺四世)が隠居寺として越中梅原村(現在の南砺市梅原 梅原護摩堂遺跡)に、文明元年(1469年)一宇を建てたのが始まりと云われており、慶長7年(1602年)にこの地に移転してきたそうです。 瑞泉寺の所縁を継承している為、本殿は秀逸な仏教彫刻がそこかしこに施されており、本殿伽藍も金石随一の大きさを誇っています。鐘楼もなかなか見ごたえがあります。通常は非公開ですが、庭園も江戸期を代表する物だそうです。瑞泉寺関連の寺院は真宗の中でも重要施設で、蓮如の遺骨を納めた蓮如塚があることも特徴です。 本龍寺には芭蕉の句碑があります。 小鯛さす 柳すずしや 海士が軒 松尾芭蕉は奥の細道の途上…

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平時忠墓所&則貞家

平時忠(たいらのときただ)という人物をご存知でしょうか? 平清盛の正妻・時子の実弟で、後白河法皇の寵妃・建春門院(平滋子)の異母兄になります。 清盛の台頭と共に、ただの堂上貴族から正二位・権大納言にまで登り詰めた人物です。 「平家に非ずんば人に非ず」という大言壮語を残した人物といえば、大概の人がこの言葉を知っているはずです。 昨年(H24)の大河ドラマで視聴率の最低記録を作ってしまった「平清盛」の中で、V6の森田剛さんが熱演していました。今まで何人かの俳優が演じていましたが、以前の大河の平家物語(仲代達也主演)の山崎努さんが演じたような重厚な陰謀家が多かったんですが、泥臭くひ弱だから陰謀に走ってしまうというのは斬新でした。 けっして悪い作品とは思いませんでしたが、暗いイメージと複雑な人間関係が視聴者には解りづらくて低迷してしまったようです。 ただ実際の人物像としては、清盛の武闘・豪族的な伊勢平氏とは違い、堂上を許された貴族としての平氏であり文官として活躍しており、武家の一翼として見られがちな清盛を代表とする平家とは一線を画します。 政治的センスはあったようで、何度か左遷も味わっていますが、延暦寺強訴に対して単独交渉・打開を行っていますし、清盛の福原遷都への条件的反対など行動力と洞察力はあったようです。 検非違使庁長官時代の苛烈誅求な行動や一の谷での源氏の使者への辱めなど、激しい性格の一面もあったようです。 清盛没後の総領は平宗盛ですが、実質的な棟梁はこの時忠だ…

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永光寺 ③ 五老峯 瑩山禅師墓所 峨山道

回廊の最上段から伝燈院とは反対の扉から出ると緩やかな登り坂があります。これが五老峯に向かう道です。 登り始めるとすぐに右手に手水舎のようなものがあります。 この水舎に流れ出す水は、これから向かう五老峯の下を通って湧き出す名水です。そのため「白山水」「五老峯の御霊水」と呼ばれています。 案内板には元享3年(1325年)に五老峯を築いた際に湧水が出たとなっていますが、瑩山が元応元年(1319)に書き残した「洞谷山尽未来置文」に五老峯のことを書き、元享元年(1323年)に五老峯を築いています。瑩山禅師の逝去と共に瑩山の墓が作られ、瑩山の書を五老峯に納めて以降に湧き出した湧水だと思われます。尊師達の元を経由して流れ出る清水は大事にされ、現代に至るまでこの霊水は伝燈院と大本山・總持寺の尊前に礼されています。 ちなみに、開祖・道元の永平寺の廟所を見学した人は観たと思いますが、廟所の入口手前の脇にも「白山水」があります。曹洞宗が北陸に来てからは禅という修行を主とした教えと相まって、白山信仰や白山修験者との結びつきが出来ていました。 特に、總持寺の貫主を瑩山から継いだ峨山は、元々は白山修験者から瑩山に弟子入りした人物で、その傾向は更に顕著になったといえます。 白山は山自体が信仰の対象でしたが、そこから流れ出る水は霊水は修験者だけでなく北陸民衆には愛されていたもので、以前書いた浄土真宗の北陸の先駆者・綽如(しゃくにょ)も白山信仰を無視できず協調を図って信仰を広めています。 …

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法船寺 義猫塚

法泉寺は長町の武家屋敷とは道路を挟んだ向かい側にある中央通町にある浄土宗の寺院です。 前に書いた板屋神社(板屋兵四郎)の記事で書いた金沢の町の大部分を焼き尽くした「寛永の大火」の火元がこの寺院の門前の町家でした。原因が放火であり、しかも犯人は武家であったということ、原因も町娘への横恋慕。 金沢の町を総なめにした大火には、当時の藩主・前田利常には二重三重のショックでした。 その後、金沢の復旧が急速に行われましたが、現在の金沢の町割りはこの時に確定したものです。 当時、2代将軍・徳川秀忠が病中で急速な町割りと復旧、更に金沢城の補修は幕府からの謀反の嫌疑を受け(寛永の危機)、嫡男・光高共々に江戸に参府して弁明に努め、辛くも嫌疑を晴らしています。 利常にとっては憎んでも余りある放火犯ということ、、、、極刑にしたと思われます。犯人がどう処分されたかは不明。 ただこの場合には、管理・監視義務のある法船寺も大きな責任があったのですが、地所の返上に留まっています。これは当時の住職の母が前田利長の乳母ということが影響しているようです。利常は利長を最大の恩人として尊重した人物ですから。。(妾腹だった利常を、正妻に遠慮したと利家は6歳まで会おうともしませんでした。それを諫言し面会を実現したのが利長でした。更に子供がなかった利長は利常を養子として後継者としたのです。利常にとっては大事な兄であり、義理とはいえ父とも思う人物だったわけです。) 法泉寺は元々、尾張の犬山にあったものですが、前田家の移動…

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称念寺① 新田義貞墓所

称念寺は時宗の寺院です。福井の丸岡町長崎の地(現・坂井市)にあります。 泰澄大師が阿弥陀堂を建立したのが始まりと云われています。 時宗については名前を聴けどあまり知られていない宗派の一つです。特に北陸ではなじみの薄い存在になっています。しかし、江戸期以前は全国で一番流行った宗派は時宗といわれています。 開祖は一遍(智真)、元々は浄土宗に学んだ人ですが、浄土宗の基本の「信心の表れが念仏」に飽き足らず、簡易・掘り下げて「念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になる」と説きました。民衆への衆生済度のために、全国行脚(遊行)をして「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」という札を配る「賦算(ふさん)」と踊り念仏を広めました。 時宗では1日を6分割して交替で念仏を唱えるため大勢で遊行しましたから、室町時代以前は時衆とよばれていました。またこれに関しては開祖・一遍が独自の宗派を作る気はなく、あくまで浄土宗の一部であり、市井の上人と云われた空也を手本にしたためとも云われています。一遍は全国行脚を行ったこともあり遊行上人と呼ばれ、以降の時衆のトップは代々遊行上人と呼ばれることとなります。 一遍死後、時宗はバラバラになってしまいましたが、それを改めて宗派としてまとめ上げたのが、2代遊行上人・他阿真教になります。現在の各宗教団にはこういった中興の祖となった人物がおり、その後の発展につながっています。曹洞宗の瑩山紹瑾・浄土真宗の蓮如・日蓮宗の日乾などがその例です。 現在でも時宗では一遍と真教を祖と…

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浅井畷古戦場

加賀における最後の合戦が行われたのが小松城東方の浅井畷と呼ばれる一帯でした。 畷の名の通り、当時は小松の地は手取川による湿地帯が多く、そこをほそい隘路が通っていたそうです。また、その湿地を利用して桑の実畑が広がっていたそうです。 現在はその名残は観られませんが、住宅地の一角に九つの墓標が立つ園地があるのですが、ここが浅井畷合戦の最激戦地になった場所と云われています。 戦ったのは前田利長軍(25000)VS丹羽長重軍(3000) これは前田軍の侵攻時のもので、実際は戦闘開始時は1万余VS1000と思われます。 時は関が原合戦(慶長5年 1600年)直前 この時点ではご存知のように能登・加賀の前田家は東軍に服属した形でした。当然、そのままならば、大国の前田家が東軍になるのですから、加賀江沼・越前の小中名も東軍に与したはずだったのですが、石田光成との友諠によって大谷義継が西軍についたことで、北陸の様相は一変します。そもそも敦賀の大谷義継をはじめ加賀江沼・越前の各領主は豊臣秀吉による政策で、前田・上杉の抑えとして配されており、その元締めが大谷義継だったのです。 同じことは毛利・黒田の抑えの宇喜多秀家や、島津の抑えの小西行長・加藤清正、徳川の抑えとなる東海も云えるのですが、こちらは肝心の元締めとなる福島正則が徳川方の先鋒になったのですから、やんぬるかな秀吉の構想は一番大事な部分が破たんしたわけです。 大谷義継の西軍参戦は、前田利長にとっては脅威になったわけで、京・近江に向かう…

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瑞龍寺 ~ 前田利長墓所

新年(H21)の三が日、我家では年末に引いた風邪で絶不調の嫁さん 結局何処にも行かずに、駅伝見ながら寝正月に徹しておりました 1/4さすがに3日間篭っていると窒息しそうでしたよ ゲホゲホいっていた嫁さんも、「どこかイキタイ」 という事で、兄弟や親戚の所へ年始に廻って、途中、尾山神社の前を通ったんですが、石段まで並ぶ人の列 >>> う~む え~い、予定通り、富山に行っちゃえ 国道359号線を山越えして砺波から156号線を北上 やって来たのは「瑞龍寺」 建物が国宝・重文指定を受けている富山を代表する寺です。この寺は前田家2代藩主の前田利長の菩提寺として、3代藩主・弟の利常が建てた物です。写真は2度クリックすると大きくなりますよ。天気が悪くて暗いけど 伽藍構成も変わった配置で、総門・山門・仏殿・法堂を一直線に配置し、そこを回廊で囲むようにして作られています。先の総門から山門・仏殿を三つの門にして法堂が本殿になる造りです。観てもらうと解りますが重厚でシンプルな造りです。 本来、妾腹で腹違いの弟…

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実盛塚 篠原古戦場

加賀市篠原町は海に近く松林が続く風光明媚な場所です。平安末期の頃は葦の原野が広がっていたと云われています。この地は倶利伽羅合戦で敗走した平維盛軍を追尾した源義仲軍が追い付いて合戦になった地です。結果として平家軍はここでも完敗、京へと落ちていきます。この戦いで最後尾の殿(しんがり)を引き受け討ち死にした武将が今回の「実盛塚」の主・斉藤実盛です。 越前南井郷(現在の鯖江市南井町)に河合助房として生まれ、斉藤氏の養子となって斉藤実盛となり、長井の庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠として活躍した人物です。 武蔵の国では源義朝・義賢兄弟に仕えています。主に義賢に仕えていましたが、大蔵合戦で義朝の子・義平によって義賢が敗死後は義朝に仕え保元・平治の乱でも活躍しています。 義理人情にも厚く、源義朝・義平親子から義堅の遺児で2歳の駒王丸(後の義仲)を匿い、信濃木曽の仲原兼遠の庇護下に送っています。 平治の乱後は長井の庄は平宗盛の所領となりましたが、それまでの功績と実績を認められ宗盛の家人となり、別当として長井の庄を引き続き任されています。 長井の庄においては庄内の開拓・治水・土地改良に努め、農作物の出来具合の面倒を見る事などから農民から大きな信頼を得ており、総鎮守として聖天宮を建立して、現在も「妻沼聖天」として受け継がれています。熊谷では現在も人気の人物だそうです。 妻沼聖天山 歓喜院 http://www.ksky.ne.jp/~shouden/ 篠原の戦いの時には実盛は72歳の高齢で…

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前田利秀の墓所

前田利秀は父親の後を受け、小矢部の基礎を築き、北条攻めでは前田軍の主力として上野・松井田城攻め、武蔵・八王子城攻めに活躍しました。 しかし、文禄2年(1593年)朝鮮出兵で滞在中の肥前・名護屋城で発病帰国しましたが、その年に治療中の京都で弱冠26歳でなくなっています。 墓所は父母の菩提寺・永傳寺から愛宕神社を間に置いた本行寺の高台の墓所に眠っています。本行寺の境内から階段を登って行けますが、愛宕神社の拝殿前の鳥居横からも行けます。こちらの方が楽に進める道です。 利秀の墓所は石垣造りでなかなか堅固な造りです。小矢部・石動の市街を見下ろせる位置にあり、眺望のよい場所です。 菩提寺の本行寺には利秀19歳画像が寺宝として残っています。大阪の画家が描いたと云われています。本行寺は元々は能登の七尾にありましたが、父親の前田秀継の本拠(津幡・木舟)が移動するごとに本行寺も一緒に移動して来た寺です。前田家にはこういう伝統があるようで、前田利家の宝円寺に通じるものがあるようです。利秀も本行寺を石動に再建して厚く帰依したようです。 前田家での故人の評価は高かったようで、後世において250回忌の法要が行われているのは、開祖・前田利家、3代藩主・利常、父の秀継・利秀の4人だということからも窺えます。 小矢部・石動では前田利秀が城主として入城した際の獅子舞や感謝祭が今も受け継がれています。 旅行日 2011.11.26

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高徳寺址 前田秀継夫妻の墓所

今石動城の初代城主・前田秀継が木舟城に移って3か月後、天正13年・(1586年)に天正の大地震が起こっています。 この地震により、木舟城は3丈(9メートル以上)以上も沈下し圧死した秀継夫妻の遺体発見には3日以上を要したと記録に残っています。 息子の前田利秀は当時弱冠18歳。石動山合戦を初陣にして末森城合戦・今石動合戦など大きな合戦を副将として経験していますが、現代でも多感な年齢で悲しみは深かったと思いますが、その後8年間の小矢部統治・北条攻めなど大活躍の働きを示しています。 その利秀が、両親の眠る地として選んだのが、この矢波地区にある高徳寺です。前面には宮島峡から流れる子撫川があり、ちょうど砺波平野に流れ出る位置にあります。静かな盆地地帯で現在も閑静な場所です。 ここから子撫川に沿って行く二つの街道は、一方がかつて秀継が居城とした津幡城に至り、もう一方は石動山系の山並みを越えて末森城に至ります。どちらも父と共に過ごした地です。 越中は佐々氏の統治があったとはいえ真宗の影響が強く、宗教面の制約がきつい地域でした。また前田家は石動山合戦に見られるようにこの頃は宗教対決色が強い時期でした。高徳寺はそんな越中にあって規模は小さいながら当時唯一の曹洞宗の寺院でした。秀継が曹洞宗信者ということもありますが、小さな寺院を選んだのにはそんな事情もあったようです。 利秀が今石動城を主城として城下町を整備した際に、高徳寺は名前を真光山永傳寺と名を改めて石動城下に移り、秀継夫妻の菩提寺として続い…

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石動山 天平寺址

石動山の麓にあったのが「天平寺」 石動山頂上の五社権現を中心にして、石動山系には平安期になると多くの山岳修験者が入るようになり、北陸の修験場の中心地となって行きました。さらに仏教とも結びつき真言宗寺となり神仏習合色の強い「石動山 天平寺(てんぴょうじ)」として成立していきました。天皇の御撫物(おんなでもの、天皇や宮家の御召し物、昔は新着の着物は1年間祓いをしてから着用していました。)の勅願所にもなっており朝廷よりの保護も厚かったようです。最盛期には360坊3000衆徒を誇りました。 比叡山・興福寺などと同じく当時は政教分離には遠く、2度の兵火に遭い2度とも全山焼亡にあっています。一度は南北朝、南朝方の武将を保護した為、北朝方の越中守護に攻められたときに全山焼亡しましたが、朝廷の命を受けた足利尊氏により再興されており、戦国期には能登畠山氏の保護を受けて前記の絶頂期を迎えました。 2度目が本能寺の変後、上杉軍の後押しを受けた温井・遊佐軍が荒山砦に侵攻した際、これに加担して兵を挙げたため、前田利家軍に攻め込まれました。荒山砦が陥落後、五社権現の本尊・虚空蔵菩薩像を人質として差出し投降を願い出ましたが、利家は許さず荒山砦の射掛山の捕虜50名程を除き、全山焼討ち・衆徒全員なで斬りを行っています。このときの焼討ちは比叡山に匹敵すると云われ、僧兵・僧侶だけでなく稚児にまで及んだと云われています。 その後、朝廷の命を受けた豊臣秀吉に再興が命じられ、秀吉の命を受け前田利家が復興し江戸期までの間、…

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朝倉義景墓所

戦国期、越前を治めていたのが朝倉氏。 朝倉氏の本拠は大野から西方の一乗谷で、5代約100年間勢威を誇っていました。5代当主・朝倉義景は織田信長に敦賀の刀根坂の合戦(斉藤龍興が戦死、美濃斉藤家の実質滅亡)に敗れ、一乗谷を放棄して大野に撤退して勝山・平泉寺に味方要請しましたが拒否され、宿所の六方賢松寺を寝返った朝倉景鏡に囲まれ自刃しました。ここで朝倉氏の越前支配は幕を閉じています。余談ですが、朝倉景鏡は姓を土橋と改め信長から本領安堵を受けましたが1年後、越前一向一揆により亡くなっています。このため信長が再侵攻するまで越前は一向宗のものとなりました。 江戸時代になって朝倉氏の旧臣・松田氏の子孫により五輪塔がつくられ曹源寺に置かれていましたが、20年後に100メートル程離れた現在地に移されたそうです。 朝倉義景の墓を中心に、信長により処刑された愛王丸(義景の子)・小少将(義景の側室・愛王丸の母)・光徳院(義景の母)の3人連名の墓。朝倉義景に殉死した高橋景倍・鳥居景近の墓が配されています。 大野における朝倉氏の人気は高く、この墓所の近在には義景保育園・義景集会所など義景の名を冠したものが多く存在します。 この墓所は閑静な住宅街の一角にあるのですが、一帯は「義景公園」として綺麗に整備されています。「義景庵」、湧水の「義景清水」とにかく義景だらけです^^;非業の死を遂げた義景もニンマリしているかも^^ 義景庵の前には「水琴窟」が作られていて、耳を澄ますと甲高い澄んだ音色が聞こえます。立ち…

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富樫家御廟谷

高尾城の南側、額谷町の交差点を山側に入って、額谷ふれあい公園を右に見ながら山道を登って行くと遊歩道の看板の側に「富樫家御廟谷入口」の標柱があります。 ここから約500mの険しい登り降りを進んで途中を右に降りると、三つの五輪塔が建つ一画があります。ここが「御廟谷」と云われる場所です。富樫家代々の墓域と伝わる場所です。 1488年、高尾城落城の際、城主・富樫政親は自刃しましたが、その後遺体は当時の野々市にあった大乗寺に葬られたのですが、高尾城で戦死した重臣の額丹後・景春・親家の3代をここに葬ったと資料が残っているそうです。 ただ、丹後守は元々富樫政親と争った幸千代派の重臣で落城の20年程前に合戦死しています。しかし子の景春・孫の親家は富樫政親と共に高尾城で戦死しています。 円墳形式をとっていることなどから諸説まちまちで、富樫家の墓域かもまだ未確認の状態ですが、寺院・墓所の可能性が高く、今後の研究・調査が待たれています。 御廟谷は「額谷レクリエーション遊歩道」の一部になるのですが、この遊歩道はなかなか起伏が厳しく、ハードなので装備を整えて行くことをお奨めします。カモシカなどの野生動物にも出会う場所です。金沢市が住宅街からわずかに山に入ると、とても深い自然の中になることを実感する場所です。 旅行日 2011.9.9

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上越高田・会津墓地

金谷山スキー場の「スキー発祥の地記念館」の脇の道から降りて道路を県道に向かうと、杉林に墓地があります。知る人も少ないですが、これが「会津墓地」です。 会津戦争を戦い抜いた会津藩士1742人は降伏後、上越高田藩に預け入れとなりました。上越高田藩は維新時は官軍の先方として戦いましたが、元々は徳川四天王の一人・榊原康政の流れをくんでいたこともあり、旧幕軍としての会津藩への同情が強かったようです。 政府からの給費の他に藩庫からの金品を開放して、会津藩士を厚遇したそうです。 しかし、戦傷を負った者、異国と捕虜生活、栄養失調による脚気などにより、1年余りで68人が亡くなりました。68人を葬ったのがこの「会津墓地」です。更に、その後会津から移住した藩士関係者30余人が加わりました。 金谷山の裾野の静かな杉林に眠る会津藩士達。 正直、僕もここは近年になって存在を知りましたが、苦しい戦いと更なる捕虜生活で亡くなった方々が眠る地には胸に迫るものがありました。 尚、この墓所から南、臥蛇池を挟んだ場所に官軍兵士の墓所があります。 旅行日 2011.6.19

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剣豪・草深甚四郎の墓

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて剣技は発展して、剣豪と呼ばれる人材が出現、各地に流派が起こりました。加賀の国にも一人の剣豪がいました。「草深甚四郎」がその人です。 草深甚四郎は13歳で武者修行で各地を巡り、29歳で地元に戻り「深甚流」を起こし、この墓から南にある土室地区に居を構え多くの子弟に教えたそうです。その後「深甚流」は加賀藩の武学校・経武館に受け継がれていきました。 古話には、流浪中の塚原卜伝とも対戦していて、長剣・短剣の木刀で2試合を行い、長剣で勝利・短剣で敗れ、互いの弟子になることを請うたそうです。その際使ったとされる木刀が土室の神社に奉納されています。 川北町では毎年、慰霊祭を行い「草深奉納剣道大会」が開催されています。10月に行われるこの大会には石川県内の剣士が集まってきます。 墓のある場所は田園の真ん中にありとても静かな場所で、駐車場やベンチなど小さな公園として整備されていて、春には桜も綺麗に咲くため隠れた僕の休憩のお気に入りの場所になっています。 旅行日 2011.4.15 剣聖草深甚四郎 平成2 戸部新十郎監修刀剣ーかたなのほんや 甚四郎の虚像と実像1.伝承にみる甚四郎像2.卜伝との邂逅3.甚四郎松と天狗説上段の章 甚四郎の生きた 楽天市場 by

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巴塚 葵塚

埴生八幡からの源義仲軍の進撃路は3路と云われています。 一つは現在はふるさと歩道とよばれ、毘沙門川を経由して埴生大池を抜ける険しい迂回路。現在も車が一台がやっとの幅で山間を上り下りします。 更に当時の北陸道で、長坂山を越える縦貫路。近年までこの道に茶店もありました。現在は山越え部分が「いにしえの街道」として保存整備されています。義仲の本軍はここを進んでいます。 そしてもう一つが古代北陸道でこの合戦で一番重要な役を演じた樋口兼光が進んだ道です。この樋口兼光は同じ源義仲四天王の今井兼平、巴御前の兄になります。更に子孫には樋口与六のちの直江兼続がいます。ここは現在の車道の源平ラインがこの道をなぞる様に作られています。 この源平ラインを進んで山に入る手前の堤池の脇を入って行ったところに塚があります。それが葵塚と巴塚です。 堤横の道から真直ぐ登ったところに巴塚があり、分かれ道から回り込むように登ったところに葵塚があります。ちょうど位置的には隣り合うような場所にあります。 巴というのは巴御前のことです。源義仲の愛妾で武勇でも特出される女性として有名です。 義仲は強い女性が好みだったようで、京への遠征軍にも3人の愛妾を従軍させています。それが巴・葵・山吹御前です。この3人共に戦女として鎧着用で戦闘に参加した女傑です。 あまりに巴御前が有名になりすぎて他の二人はあまり知られていませんが、勇ましさは葵・山吹も優れていたようです。 ちなみに義仲の正室は藤原伊子といって義仲が京都上洛後に摂関家…

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