木製笠塔婆 金沢市埋蔵文化財センター

今月14日、北金沢の千田町から画期的な発見がなされたことが発表されました。 木製の笠塔婆が発見されたのは国内2例目。ところが今回の発見が画期的なのは、梵字が金箔で描かれており、その金箔が残っていたことにあります。そもそも木製品が腐らずに残るのも奇跡的ですが、漆や金箔が残されているというのは、画期的というよりもう奇跡としか言いようがありません。 ちなみに木製笠塔婆の国内初の発見は、平成19年(2007年)奥能登の野々江本江寺跡遺跡で、平安末期の物とされています。ちなみに本江寺は小さな寺院ながら明治まであった寺院でした。珠洲市の飯田高校から東に2キロ弱の金川という河川の段丘上にありました。古くは平安末期から室町にかけては真言宗寺院と江戸期には伝わっていました。(石川県文化財、笠塔婆の竿(支柱)2・笠塔婆の額・板碑) ⇒ 野々江本江寺遺跡出土品(石川県HP) リンクを見て貰えば分かりますが、非常に簡素なもので笠塔婆と言っても、板棒に近い造りです。それでも竿丈は2mの長さがある大きなもの。 千田町で発見された笠塔婆はTVの映像を見ると、額がはっきりある様子。。これは見たい^^/しかも公開場所は、車で15分くらい。。 しかも日曜だけど午前中は仕事で、津幡に用事があるから千田町にも寄って行けるし、公開時間にもバッチリ^^V 発見された場所は全くの偶然の産物。。白山市から金沢の西側(海側)を縦貫する海側バイパス道路。片側2車線化を施しながら浅野川の手前・大河端まで延伸しています。県や金…

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能美市九谷焼資料館

前々回に奥野八幡神社を書いていたら、やはり寺井の九谷焼陶芸村に行こうか、忘れないうちに、、イヤ行った方が良いかなと。。 昨年秋から長いリニューアルのために閉館していた能美市九谷焼資料館が3/21に開館したということだし。。やっと歩けるようになった嫁さんをリハビリがてら誘いまして、九谷焼の鑑賞に それにしても、佐野の泉台地の高台は遮蔽物がなくて、厳しい陽射しに、車から降りた途端に汗がドバ~~ 先々週まで松葉杖をついていた嫁さんですが、もうゆっくりなら歩けると、サッサと館内に逃げ込みます・・玄関にある像も太陽がまぶしそう 加賀の各地に九谷焼の資料館や博物館がありますが、後述する九谷焼作家や後進育成を目指す石川県立九谷焼技術研修所・支援工房九谷、資料館別館でロクロ・絵付体験の出来る九谷焼陶芸館、販売店群など九谷の陶芸村を構成する中心点として、能美市九谷焼資料館は九谷焼の収蔵品は古九谷から現代九谷まで最大規模を誇っています。 能美市九谷焼資料館 HP案内 能美市九谷焼資料館は九谷焼の歴史を振り返るとともに、過去の名作を鑑賞し、さらに現代九谷の新しい息吹を広く一般に公開するため1982(昭和57)年にオープンし、2018年(平成30)年にリニューアルオープンしました。館内では、「紺青の間」「朱赤の間」の江戸時代からの名品の常設展のほか、「紫の間」「緑の間」では随時特…

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白山市立博物館 白山下山仏と加賀禅定道

凄く久しぶりに、本地元の白山市立博物館に行ってきました。 市外の博物館や美術館などはちょこちょこ行っているんですが、意外と自分の地元にはほとんど行っていないんですねえ。これが3度め、しかも10何年近く振りかもしれません・・名称が市立松任博物館から白山市立博物館になって初めての来館になります。 今回、今年は白山開山1300年ということで、現在、特別展が開かれています。 10月21日~11月26日 白山下山仏と加賀禅定道 今年の僕のブログでも白山七社や林西寺などをご紹介しましたが、これらの神社・寺社を巡っても、堂宇内に納められていたり、平素観られない非公開のものが多くあります。それらのものが全部とはいかないまでも、一部とはいえみられる稀少な機会ですから、是非期待していました。 今年、僕がUPした白山の遺物を持つ施設のブログは・・・ 4/14 白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺 4/13 白山七社③ 佐羅早松神社 6/11 白峰の歴史 白峰八坂神社 6/11 林西寺 白山下山仏に関しては林西寺で詳しく書いていますが、今回はもう一カ所の下山仏を保管する尾添白山社が何年振りかで公開されています。 実は白山七社シリーズは中宮三社の別宮神社(べっくう)は途中書きのままになってまだUPしていませんでしたが、別宮は白山三所権現(白山妙理・大行事・大汝)を祀った神社ですが、名前の通り、この三権現が本尊で、江戸期までは三権現の本地として十一面観音立像・座像・聖観音…

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チカモリ遺跡~縄文ワールド

金沢にある国史跡「チカモリ遺跡」は縄文末期(BC3000~2300年)から晩期にかけての集落遺跡になります。 チカモリ遺跡のある金沢市の西南部に当たる場所は、近くには同時期の遺跡で土器・石器が1万点近く出土した環濠集落の御経塚遺跡、弥生期の遺跡から続いて庄家(奈良期?)・初期荘園(平安初期~鎌倉中期)となり多くの木簡が発掘された東大寺領荘園の三宅(今でいう管理事務所)があった横江庄・上荒屋遺跡が近くになります。他にも縄文・弥生期の遺跡を含め戦国中期まで近隣に遺構が多くあり、加賀の中心的存在地の一つとして連綿と発展を続けた地でもあります。 左:チカモリ遺跡史跡公園 H24.4.20撮影 下:東大寺領横江庄跡(東庄)・上荒屋遺跡 H24.9.20撮影 このチカモリ遺跡を含む地域は手取川・犀川によって構成された扇状地で、水分を多く含んだ土壌と水脈が地下にあるために、柱跡が390、それと木柱の底部である木柱根が295本も発掘されたのです。遺跡の発掘現場を観たことのある人は解ると思いますが、通常は柱跡などは木柱は腐って土となって柱の跡として穴だけが残る場合が多いのです。この遺跡は、掘れば水が出る悪条件ながら、柱の底部とはいえ水にパックされ保存されたことで木柱が数多く発掘された貴重な例にもなります。 上荒屋遺跡ではこの豊富な水脈を利用した舟輸送用の運河が確認されています。 元々、チカモリ遺跡は昭和29年(1954年)の調査には縄文土器が発掘されていて、縄…

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古九谷の里~九谷焼窯跡展示館

石川県を代表する色絵磁器・九谷焼、時代ごとや先駆者によって開発改良で特徴が変わっていますが、華やかさに定評があって人気を得ています。 九谷焼の始まりは、寛永17年(1640年)頃、大聖寺藩始祖・前田利治が、山中温泉の奥地(九谷)に良質の陶土を発見したことから、殖産業振興のために藩士・後藤才次郎を有田に派遣して製法を学ばせて、明暦年間(1655年)に後藤才次郎が帰国後に九谷の地に開窯(九谷初窯)したのが始まりと云われ、同年、初期のの作陶の花瓶(田村権左衛門銘)を当地の九谷八幡宮(現・三柱神社)に奉納したというのが九谷焼の創始と云われています。(画像はH24.9.29) 現在の三柱神社は、九谷ダム建設による離町後の平成12年(2000年)に再建されたものです。九谷町はダム建設によって離町を余儀なくされましたが、九谷初窯・吉田屋窯跡が国指定史跡に指定されたことから、九谷の里としてダム湖(五彩湖)計画が変更され建物や町民はいませんが大部分が残されています。(画像はH24.9.29) 九谷の地名の由来ですが、最古の九谷の名が出てくるのは文明18年(1486年)浄土真宗・蓮如の四男・蓮誓が九谷坊を開基したという記録がありますが、古来から山中温泉の中心地を一番にして、西の谷村と呼ばれる地区を隣接する柏野が2番、柏野は以前紹介したことのある柏野の大杉のある所です。その先の今はダム湖の下ですが我谷が3番といった具合に、奥に向かって村落に番号が振られていました。九谷は名前の通り、最奥の九番目の谷にあ…

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境関所② 境関所跡

現在は主要道路になる国道8号線は当然ながら江戸時代には存在せず、前回紹介した境一里塚横の海沿いの街道を500m程進んだ先に、境関所が明治2年(1869年)までありました。 現在は境関跡はほとんど痕跡はないのですが、旧境小学校の跡地と道路を挟んだ向かいの空き地と数軒の民家が境関跡に当たります。境関所は大きく分けると小学校跡地の岡番所と、向かいの空地及び民家と海辺までにあった浜番所。後で画像を紹介しますが境神社の階段を登って、更に国道を横切った先にある山を登ったところにある二つの御亭(おちん)と呼ばれた見張り所から構成されていました。境神社の境内が展望台になっており、境関所の全景が把握できます。 年ごとに強化されて規模の拡大・人員が増やされ、武器類も多く保有しており、その規模・人員・武器数は、有名な箱根の関所を上回る全国一といっても過言ではない厳重な関所でした。 古来から境には国境としての施設が置かれていたようで、古代朝廷では公務で。ここを通って境川を越えて行くときには、馬を用意したと云われています。馬匹の用意施設が当地にされていたのではないかと思われます。当地の文献として境関について名前と共に出て来るものとしては、資料館の年表に書かれていましたが、永正15年(1518年)伊達稙宗(伊達家14代当主、伊達政宗の曽祖父)が、当主就任の左京太夫任官にあたり朝廷御礼の使節派遣の際に、経費として「二百文。境川の関の庭立共に御酒の分」と記述されているそうです。 加賀藩としては前田利長在世…

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前島密記念館

少しずつですが、バタバタしながらもブログを書き進めていたんですが、先日お客さんチで契約計上をPCで進めて完了した途端、液晶が不良になってピンクとグリーンの世界になってしまいました。PCがないと仕事が全く進まなくなる僕としては、慌てて買いなおす羽目に陥ってしまいました。その後は仕事関係ソフトのインストールや計算ソフトのデータ移行、そもそもウィンドウズ10は初めてで何がなにやらチンプンカンプン。。すっかり嵌まり込んでいます。それにしても、今年は異常なくらい電化製品が壊れて買い替える羽目になってます。。洗濯機・冷蔵庫・オーブントースター・テレビ・電子レンジのコードが断線・娘のアイパッドにスマフォにイヤフォン、CSのリモコンを嫁さんが洗濯機に水没、そしてついには自分のノートPC。。毎月何か壊したり故障したりで超出費。。これでおしまいと思ったら3日前には風呂の湯沸かしが不能で交換修理、久しぶりの日帰り温泉しちゃいました。。。もうお祓いしかないかも 先日、嫁さんの実家のある上越まで行ってきました。。行く日は途中で小雨が降ったりでちょっと心配でしたが、大降りの雨は初日の夜だけでのんびりできたし、久しぶりの義母や兄弟とあえて、ウキウキしてる嫁さんや娘を家において、のんびりと近場を巡ることも出来ました。 僕が初めて上越市に訪れたのは25.6歳の時ですから、もう随分時が流れたものです。 上越市は昭和46年(1971年)に直江津市と高田市が合併し…

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井波彫刻の里

庄川水記念公園を後にして、家路につこうと思ったんですが、せっかく庄川まで来たんだからということで、お隣の井波町にも立ち寄ることにしました。 庄川町が轆轤(ろくろ)の里なら、井波は彫刻の里になります。井波の欄間といえば超一級品ですが、その他にも獅子頭、全国の寺社仏閣の彫刻など広く出回っていて、各名所のどこかに井波彫刻が施されています。 獅子頭は特に加賀・越中では各部落・村に一体あるのが当たり前ですが、僕の故郷の獅子頭も井波の職人が作製した物でした。また越中では天神信仰が盛んで、端午の節句には天神様の掛け軸を飾る家が多いのですが、井波木彫の天神像も良く見かけます。 井波彫刻が発展したのは井波瑞泉寺に由来すると云われています。瑞泉寺の山門と本堂は北陸では最大規模と云われています。梵鐘は昭和の作ですが、これまた北陸最大級です。宝物殿の展示も素晴らしいし、聖徳太子絵図の絵解きをする太子伝会(7月末の10日間)、10月10日の連休の町アートの庭園解放は狙い目ですが、機会があったら必見のお寺です。 瑞泉寺は明徳元年(1390年)、浄土真宗五代法主・綽如(しょうにょ)上人によって開基建立されたそうです。中国からの難解な国書を読解した褒賞に、後小松天皇に勅許所として瑞泉寺の建立許可が下り、歓進状を書く料紙が下されています。綽如はこの料紙に歓進状をしたため有縁に送っています。この歓進状は瑞泉寺にあり明治に国宝指定(現在は国重文)を受けています。 北陸の浄土真宗は戦国期の加賀一向宗の印象が強く、八代・…

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庄川水記念公園① 庄川水資料館~鯉宮神宮

久しぶりに家族全員が休みで、みんなでドライブに出かけました。久しぶりだなあ~~ だいぶ前なんですが、ニュースを観ていたら、面白いのをやっていたので、しっかり記憶しているうちにということで庄川水公園にやってきました。北陸の年配の人には鮎の里がある所と云えば、知っている人も多いかも。ニュースってなんだ チャハ 後のお楽しみに ナ~ンだと云われそうですが まずは、混む駐車場を避けて庄川水資料館の駐車場に車を停めまして、庄川水資料館(アクアなないろ館)を見学(入場料210円)。ちょうど、資料館では地元陶芸家・木村恭子さんの個展「スリップウェアと三島」もやっていました。僕は陶芸品に関してはとても疎いんですが観るのは好き。嫁さんは食器関係は観たり集めたりでシゲシゲ 個展の記念に箸置き3個を貰って、嫁さんは長距離ドライブに嫌な顔してたのが一発でご機嫌アップ う~む。。。なんでも、貰っちゃうと喜んじゃう我が家族 個展は皿類が多かったんですが、スリップウェアと三島手という技法のようです。…

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尾小屋鉱山資料館(尾小屋マインロード)

以前、ご紹介した十二ヶ滝のある郷谷川を横目に観ながら上流に進むと、尾小屋鉱山資料館と鉱山跡を巡ることができる尾小屋マインロードがあります。 尾小屋鉱山は江戸時代から続いた鉱山です。 天和年代(1680年頃)から加賀藩が金の採掘を試験的に始め、宝永年間(1704年頃)になって加賀藩が本格的に採掘を始めましたが、量・質的にも良質とは言えずあまり重要視されていませんでした。 明治13年(1880年)、加賀藩八家老の一つ・横山家の10代当主・横山隆平(よこやまたかひら)・隆興兄弟が経営参入、鉱山開発に乗り出し、翌年に銅の優良鉱脈を発見して隆盛しました。(名義的に当主の隆平、鉱山実務を鉱山長として隆興が行ったと云われています。) 洪水などで苦戦した時期もありましたが近代装備を導入して乗り越え、銅の精製も行い粗銅生産量は明治36年(1903年)には生産量が1000トンを超えて、当時の日本一の銅生産量を誇るほどに隆盛しました。全盛期の大正8.9年(1919年)には2000トンを超え、山間の町には鉱夫数1700人超・人口5000人超が存在し、小松から尾小屋を繋ぐ尾小屋鉄道が開通しました。 横山家の鉱山事業部は金沢(現・金沢市大手町)に置かれていました。 明治期の石川県には繊維工場などの女性労働力をメインにしたものが多かったのですが、男性労働力をメインにした鉱山事業は北陸では特筆されるもので、前出の横山隆平・隆興・章(隆平の次男の子)などは北陸の鉱山王と呼ばれ、他鉱山の買収、尾小屋鉄道、加州…

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呉竹文庫 熊田源太郎

手取川の河口にある美川湊は古くから漁業や北前船の中継地として栄えた町です。 美川町(現・白山市美川地内)は手取川の両岸にあるのですが、北隣の松任側から美川町を南北につなぐ美川大橋を渡ってすぐに左折して、手取川の導水路になる熊田川沿いの高台を登った場所に呉竹文庫があります。 ちなみに、この導水路の熊田川はサケが遡上することで知られています。毎年一万匹超の鮭が遡上しており、日本海側では最南端の遡上地と云われているそうです。 その高台にあるのが「呉竹文庫」です。入口は狭いですが、駐車場は広く停め易いです。 駐車場にはこんな記念碑があります。上杉謙信軍と織田軍の戦った手取川合戦の碑です。 手取川合戦に関しては信長公記や長家家譜などに書かれているくらいで、詳細な記述書や図解があるわけではないのですが、合戦地は水島の記述からフィッシュランドのある手取川橋辺りからこの美川河口ではないかと云われています。 手取川合戦とは。。。七尾城攻防戦に端を発します。能登国守の畠山家は永禄九年の変以降衰退を極め、畠山の当主を若年の春王丸が継いだ頃には、七尾城内は大きく二つの派閥に分かれていました。それが温井・遊佐氏と長氏でした。こういう内憂の際に外部の勢力に頼ることは国を滅亡させることになるのですが、この両者はそれをやってしまいます。前者は上杉謙信を頼り、後者は織田信長を頼ったわけです。 前者の要請を受けた上杉軍は七尾城を囲みます。ここで後者の長氏は一族の長連竜を織田軍の援軍要請に派遣します。…

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河田山古墳群

前回紹介した和田山城址のある和田山・末寺山古墳群には約40基以上の古墳が確認されているのですが、近くの秋常山や寺井山を合わせれば約60基程。造成や掘削を考慮すれば、100~200基以上が存在したとされています。 これに匹敵する県内の古墳群が「河田山古墳群」です。この古墳群は昭和61年(1986年)に発見されたもの。それまでにもいくつかの古墳が確認されていたのですが、国府台・上八里町の工業団地・住宅団地の造成時に多数の古墳群が確認されました。その数63基。県内の古墳群として確認されたものとしては最多数を誇ります。 河田山は元々、六つの尾根からなる丘陵地帯でした。そこに古墳期前期から後期にかけての63の古墳が所狭しとあったそうです。形状も前期の前方後方墳から後期の円墳までがあり、前回紹介した和田山・末寺山古墳群と時代を共にするものですが、方墳などから発生時期はこちらの方が早い時期からになるようです。 金沢方向から産業道路で国府台を左折したところですが、閑静な工場地帯と住宅団地になるのですが、発掘調査後に開発修正で9基を保存して、残りすべてが掘削・開発され、工場や住宅地の下です。 残念な話ですが、発見時に詳細な発掘調査が行われ、古墳期後期の切石積の石室が発見された12.33号墳が移設されており、12号墳は屋外に復元展示、33号墳は資料館内に移設展示されています。切り石積みの石室は全国的にも珍しく、貴重な発見ということもあったようです。 この方墳は7世紀中頃のもので、切り石は凝灰…

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小矢部ふるさと博物館

小矢部市の水落地内にあるのが「小矢部ふるさと博物館」 外観を見ると古びた公民館に見えますが、れっきとした博物館登録された資料展示館です。入場料は無料で展示点数はそれほど多くはありませんが、こちらには結構興味深い展示があります。 1Fには小矢部地内で発掘された考古史料や昔使われた農具や祭事の道具・衣装が展示されています。更に2Fには今石動城の詳細図や小矢部の偉人たちを紹介しています。 その中で大きなスペースを取っているのが大谷兄弟のコーナーです。 大谷米太郎・竹次郎兄弟をご存知でしょうか。小矢部市のこの水落の寒村に生まれ、日雇人夫・相撲取り・酒屋など職を重ね、戦前後「鉄鋼王」と呼ばれるほどの人物です。 大谷米太郎は大谷重工業・ホテルニューオオタニの創業者。蔵前国技館の勧進元、浅草寺寶蔵門の寄進などで知られています。 竹次郎は米太郎を手伝い大谷重工業を経て、尼崎の昭和電極(現在のエスイーシー)の創業者。死後、自宅やコレクションを西宮市に寄贈して大谷記念美術館となっています。 成功後の二人は母親がここに残っていたこともありますが、郷土愛が深く、特に教育機関に対して多額の寄付や建設に係っています。主なところでは石動小学校・大谷小学校・富山県立大学(当時は短大)・市庁舎と枚挙にいとまがありません。小矢部市に対する多大な貢献から兄弟揃って、小矢部市の名誉市民となっています。 この博物館も元々は兄弟が大谷記念会館として地元市民の交流施設として建設したものです。その後、小矢部市に寄…

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金沢大野からくり記念館

「からくり」と聞けば、多くの人が連想するのが茶運び人形・弓曳き人形などのからくり人形達です。英語でKarakuriは日本のからくり人形を指すそうです。特に江戸期以降は鎖国政策もあり、僅かに伝わる海外技術と自己研究・開発によって独自の発展を遂げました。 本来の「からくり」は機械・模型を指していたそうです。からくり名人と呼ばれた人たちは単なる単一職人ではなく研究・開発の為に多種の学問にも通じた総合技術職人というのが共通していました。 からくり名人として代表される三傑は、土佐の「からくり半蔵」こと細川半蔵、久留米の田中久重、京都生まれ加賀の大野弁吉とされています。 細川半蔵は郷士身分の大工職から始まり、京都・江戸で暦学・儒学を治め、他にも物理・数学にも通じ、和時計・からくり人形を作成し、晩年は江戸に出て幕府の歴作方となって「寛政の改暦」に参画しています。半蔵が高く評価されているのは「機巧図彙(からくりずい)」という自分が作製した4つの和時計と9つのからくり人形の仕組み、諸元寸法、製法を記述した機械技術書として残したことです。これによって、後に続くからくり職人の手本となり現代の職人の復元・技術継承に繋がっています。また、後に出た田中久重・大野弁吉もこの書を模写し参考にしたそうです。 田中久重は「日本のエジソン」「からくり儀右衛門」の異名が知れ渡っています。 社会科の教科書にもよく載っているので、ご存じの人も多いと思いますが、鼈甲職人の息子から始まり、天性の才能か子供の頃からからくり人…

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銭五の館

銭屋五兵衛記念館から公園を挟んで、海側バイパスの県道8号線(松任・安原線)沿いにあるのが「銭五の館」です。元々、10年程前まではお隣の「百楽天」というラーメン屋さんの部分も資料館・売店でしたが、公園に記念館が完成して隣り部分の資料や遺品が記念館に移され右側の建物と蔵が記念館の別館として展示公開されています。 「銭五の館」の建物は金石町(かないわまち)の銭屋五兵衛の本宅に在った蔵を移築改築したものです。 内部も本宅を再現したものになっていたり、北前船に使われた板を使った場所もあり貴重な建物です。記念館を訪れた人はここを見忘れる方が多いのですが、こちらの建物や資料価値も高い物が多いのでお忘れなく。 銭屋五兵衛は非常に筆まめな人物だったようで、記念館の方にありますが「年々留」という留帳が残されています。五兵衛が長男・喜太郎に当主を譲る辺りから商家としての銭屋の家訓から船の状況・購入品など細部にわたって受牢寸前まで書かれており、銭屋の最盛時の状況・様子が解る資料です。 そんな五兵衛は趣味の道具類も絵入りで注釈を書いたりしています。その一枚一枚の細かいこと^^;また愛用した杖など、散逸を免れた遺品が展示されています。 また土蔵内には文書類が展示されており、五兵衛の書簡の他、永代渡海状、千賀女の代牢願などがあります。特に千賀女の代牢願は繊細で丁寧な文字がびっしりと書かれた物です。祖父や父(長男・喜太郎)への愛情が伝わるもので、文字の美しさも芸術品に値すると思います。 銭屋一族の多く…

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銭屋五兵衛記念館

加賀百万石と云われた大藩の歴史の中には、豪商と呼ばれた商人も多く輩出されています。その中から石川県人に一人挙げろと言われたら、10人中9人以上がこの人物を答えると思うのが「銭屋五兵衛」です。別名は「海の百万石」「豪商 銭五」。 実は銭屋五兵衛という名前は3人います。 元々、銭屋家は越前朝倉家を祖に称する一族で、越前から初代・吉右衛門が能美辰口・金沢の大野・宮腰(現在の金石町)へと移住し両替商を営んだのが始まりです(別説では、白山市鶴来の舟岡山城の家臣一族が出自とも言われています。) 銭屋の名はこの両替商からそう呼ばれたようです。その後、5代目五兵衛が商家を大きくしたことから、銭屋家では当主は五兵衛と名乗ることになります。6代目は両替商の他、質屋・醤油醸造と徐々に多角化を進め、7代目に至って両替商・質屋の他に材木・生糸・海産物・米穀の問屋など多角化し、海運業にも乗り出します。 先に書いた「海の百万石」と呼ばれた銭屋五兵衛とは、この7代目五兵衛を指します。 銭屋五兵衛は幼名を茂助と云い17歳で銭屋家当主となっています。 39歳時、質屋の関係で質流れとなった120石船で米を運ぶ海運業を始め、54歳で当主を長男・喜太郎に譲り(但し、商家の実権は五兵衛が持っていました。)本格的に海運業に乗り出します。 その後20年間で、日本各地に支店34軒、1000石以上の船を20隻以上、総持ち船200隻以上、使用人120人という江戸期屈指の海運業者にのし上がります。更に時の最大権力者・奥村栄実によっ…

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桜町遺跡

昭和63年に国道8号線の増幅工事に伴って発見されたのがこの「桜町遺跡」です。以前から縄文遺跡があることは予測されていて、前々年に行われた試掘では1万2千年前の縄文草創期から2千年前の晩期までの縄文時代を通じての重層遺跡だということが解っていました。 金沢方向から国道8号線の源平トンネル・小矢部トンネルを抜けた辺りから道の駅「メルヘンおやべ」の辺りが桜町遺跡の縄文時代の遺跡だとされています。 桜町の交差点辺りが縄文初期の遺構で、その後石川に向かって中・晩期の遺構が谷川に沿って広がって行ったようです。中後期には石川にもある環濠型遺構や同種の土器・北陸特有のウッドサークルが発見されて交流が伺えます。 この「桜町遺跡」が一躍注目されたのは、平成9年の第2期発掘で2300年前の高床式建物跡の遺構と加工された柱材が発見されたからです。それまでの定説では大陸から米作と共に弥生後期に高床式建物が伝えられたと考えられていました。ところが定説を2000年も上回る縄文晩期に高床式建物が存在したことが確認され、同時期に日本各地の縄文遺跡から稲の痕跡が確認され定説が大きく変わったきっかけになりました。 その後も籠・笊の発見、漆塗の土器、祭祀用と思われる彫刻装飾の柱などの発見、Y字に加工された謎の木材の発見。その意味でも縄文全期を通じる遺跡としてまだまだ新発見を期待されています。 桜町の交差点を右折したところに「桜町JOMONパーク」があります。 これまでの土器・石器・装飾木柱など発掘品の一部…

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金谷山スキー場

1911年1月12日、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人・レルヒ少佐(テオドール・フォン・レルヒ)によってこの地で日本に近代スキーが伝えられました。その為、この金谷山は「日本スキー発祥の地」とされています。 今年がちょうど100周年で、高田市内でイヴェントが開かれていたそうです。新潟出身で近くの関根学園に1年間在学した皆川健太郎・上村愛子夫妻や天地人に出ていた加藤清史郎君が花を添えていたそうです。 観たかったなあ^^; 当時、日本は日露戦争で勝利、世界各国から注目を集めた時期で、各国の軍事使節や軍事研究に訪れており、レルヒもその一人でした。 レルヒ少佐は自ら北方軍を希望し第13師団が置かれた高田に赴任しました。国内では八甲田山事件もあり、雪中行軍の難しさに直面していた当時の師団長・長岡外史はレルヒにスキー技術の教示を依頼したそうです。 レルヒ少佐はアルペンスキーの開祖と云われたマティアス・ツダルスキーの高弟で有名な人物だったようです。それを見越してスキーを用意して待った長岡外史も新規に優れた人物だったようです。 レルヒ少佐の「メートゥル・スキー(スキーを履きなさい。)」に始まった14人の将校達へのスキーの教練が高田のスキー隆盛に繋がりました。その後、将校夫人達へ、郵便配達夫・警察官へと広がって行きました。更に裾野は広がり、高田市民にも大きく広がり、レルヒが教示した1か月後には「高田スキー倶楽部」が発足したほどです。 レルヒは1年で旭川に赴任し帰国しましたが、毎年2月1…

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浅野太鼓楽器店 資料館・新響館

石川県内で一番古い会社・店舗はと聞かれると僕が思いつくのが「浅野太鼓楽器店」 創業は慶長14年(1609年)・6/3に加賀藩に播磨から呼ばれ、この場所で創業402年になります。和太鼓を原木の伐り出し、胴づくり、漆塗り、革張り、最後の鋲留めなど全ての工程をこなす太鼓専門店です。口径3尺以上の大型太鼓は国内シェア70%を誇っています。 和太鼓は古代から祭礼、歌舞伎、能、神社仏閣における儀式等に使われてきました。 大きく分けるとバチで叩く太鼓と手で叩く鼓になります。基本的に和太鼓は欅から作られた胴に革を張ったものです。日本の伝統音楽は太鼓演奏を中心にしたものが多いんです。そんな太鼓の数々を浅野太鼓の「資料館・新響館」で観ることができます。 浅野太鼓の敷地内に「浅野太鼓資料館」がありますが、その中では各種の和太鼓・楽太鼓・鼓が観られます。芸術品にしか見えない楽太鼓、特に楽太鼓の大型のダ太鼓はその彩色に眼が惹きつけられます。緻密な鼓の数々、更には太鼓の試し打ちもできます。口径180㎝の大太鼓も叩けます。 他にも外国の太鼓や打楽器も展示されています。 「新響館」は1Fが太鼓関連の販売店ショールーム。太鼓はもちろんですが、バチや太鼓や鼓のアクセサリー、CD・DVD、書籍まで並んでいます。2Fは太鼓練習場になっていてます。 浅野太鼓では太鼓の人材育成や振興も図っていて、この練習場の他にも「浅野‐EX」と呼ばれる施設を別地に持っていて、太鼓アカデミーも開催しています。 浅野太鼓から…

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一乗谷朝倉氏遺跡資料館

戦国時代、一乗谷を本拠に越前を治めていたのが朝倉氏です。 元々、初代の孝景(敏景)は越前の土豪から始まり、越前の守護にまで登りつめました。下剋上の成り上がり戦国大名の第1号。教科書にも載った分国法(実は家訓)の「朝倉孝景条々(朝倉敏景十七箇条)」でも有名です。初代から5代義景まで一乗谷を本拠に繁栄していました。 織田信長によって滅び、一乗谷も田畑に埋もれていました。 昭和42年から発掘調査が行われ5000以上の遺構、160万点以上の遺物が発掘されています。そのうちの2300点以上が重要文化財指定を受けています。 その遺物を展示公開しているのが、この「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」です。一乗谷に入る前にここに立ち寄って、事前の予備知識をつけるとまた違った目で復元町並みや庭園が見られます。 ここでは「復元町並」との共通観覧券を230円で販売していました。 旅行日 2010.11.07

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(石川県郷土)人間国宝館

加賀市の8号線沿いに「お菓子城加賀藩」があります。 名物の「加賀福」を中心にお菓子を製造販売しています。ちょっと伊勢の赤福に似ているあんころ菓子です。製造現場もガラス越しに見学することもできます。 お城を模した建物と城門が目印です。ちなみにこの城は金沢城を模した物です。けっこう忠実に再現されたものですよ。 ここは、お菓子だけでなく色々な博物館や資料館も併設されています。 今回は「石川県郷土人間国宝館」をご紹介しましょう。 お菓子城の奥の大駐車場の奥に幾つものドームが繋がって建っていますが、これがそうです。ちょっと奥過ぎて知らずに帰っちゃう人が多いんですが、一見の価値はありますよ。 人間国宝の正式名は重要無形文化財保持者と団体、芸能と工芸技術に分けられています。 工芸技術では、現在現役のの人間国宝は56名、京都が一番多くて13名、その次が石川で8名です。その8名の作品を各ドームに展示しています。8名は大場松魚(蒔絵)川北良造(木工芸)三代目徳田八十吉(彩釉磁器)前史雄(沈金)吉田美統(釉裏彩金)三代目魚住為楽(砂張銅鑼)中川衛(彫金)小森邦衛(髹漆(きゅうしつ)) 各ドームの展示室には各作家の作品と手を見られます。最高作品の集まりを堪能できますよ。作品の半分以上が非売品ですが、中には販売しているものもあって小さな価格表示もあります。 見たら、びっくりの価格のものがいっぱいです。 とにかく石川県の伝統工芸の最高作品がここに来れば、いっぺんにみられます。…

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長町武家屋敷群

金沢の繁華街の片町・香林坊の西側の大野用水沿いにあるのが長町武家屋敷群です。この辺りは江戸期には下級・中級武士の屋敷が集中していた場所です。明治期に入り、士族は没落して屋敷土地を切り売りしたりして没落していきましたが、屋敷群の風情がこの地区には残っています。 大野用水路に沿ったこの道路には板葺や瓦葺の屋根を持つ塗り壁や土壁の塀が続いています。道路はアスファルトですが、ちょっと違った世界にタイムスリップした雰囲気があります。またこの塀には冬になると雪よけのためコモが架けられ、また違った雰囲気を感じられます。 長町のこの通りには、長町交差点側に前田土佐守資料館や老舗記念館なども新設・移築されています。 お奨めとしては、 前田家八家老の一つ、「前田土佐守家資料館」 前田利家の次男、前田利政を祖にした家系で、多くの資料が保存されています。特に室町期の甲冑や書見は貴重なものばかりです。母親(まつ)が心配のあまり送った手紙などもあります。 前田利政は長男の利長に比べ勇猛な性格で徳川嫌いで知られた人物です。利政は利家死後、能登22万石を継ぎましたが、関が原戦では東軍についた利長と共に西軍の大聖寺城を陥落しましたが、東軍参入を嫌い仮病で再途上せず、所領没収を受け(所領は利長に与えられた。)京都で余生を過ごしました。 大坂の陣では両軍から勧誘を受けましたが参加せず、大坂方に参加しなかったことから徳川家康から10万石復帰を打診されましたが断っています。理由が「大野治長の指揮下に入りたくな…

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散居村・散居村ミュージアム

全国的にも持ち家率NO.1の富山県。 そんな富山には、特徴的な家並みがあります。それが散居村です。 国道359号線沿いを走ると、小矢部・砺波・富山にかけて見られます。 散居村は広い田圃の中に家がぽつんと一軒だけ建っています。そんな家がそこかしこに点在しているのです。お隣が何百メートルも離れて孤立したように立っているのです。 特徴的なのは、カイニョと呼ばれる屋敷林に囲まれるように各家が建っていること。杉や欅、竹林が多いんですが、防風の役目を果たしています。 また、各家の特徴として、各家の造りが黒瓦に白壁です。そして、必ず大きな蔵や納屋が並立していることです。 元々、この辺りの土壌は弱めの砂上地で、家を建てる際には少ない固めの点在する土壌を選んだことと、そんな弱い土壌の為に庄川の水を用水として小まめに管理するための必要上、田畑の中に家を立てる必要性があったようです。 とにかく、緑の中に白黒の建物と背の高い木々のコントラストが美しい姿で見られます。 このような隣同士が離れているためなのか、富山人は人づきあいが苦手な人の多い県民性があります。逆に家族の親密性が高いお国柄でもあります。 面白いのは、富山人は人と馴染むのは奥手なんですが、一旦信用するととことん尽くす正直者の多いお国柄でもあります。 たぶん、北陸の中で一番、性格が良いのもこの辺りの人たちかもしれません^^ 砺波市内に散居村の代表的な家を展示公開しています。屋内も見られるようになっています。 年配の人には懐かしい家の…

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松井秀喜ベースボールミュージアム

石川県出身のメジャーリーガーといえば「松井秀喜」選手!! 松井選手は小松市と白山市の間の能美市>旧の根上町が出身地です。 根上町には、地名の元となった源平盛衰記にも載っている高坂山の「根上の黒松」の古戦場がある砂丘地の町です。 この町は県内でも少年スポーツの盛んな場所です。そんな町から有名選手が出たということで1月には松井選手とのファン交流会が開催されています。毎年松井選手の帰省に合わせて行われるのですが、今年(H21)は町の手違いで開催できなかったようです。 松井選手は中学時代から、県内では名前を知られた存在で、中学高校と活躍して巨人に入団、現在はメジャーのヤンキース・アスレチックス・レイズに在籍。今は解雇で新しい球団を模索中のようです。 ちなみに高校野球といえば、甲子園大会の大会歌の「栄冠は君に輝く」というのがありますが、「雲はわき 光あふれて~~~♪」という歌がシーズンに流れますが、この歌の作詞家の加賀大介さんも根上の出身でした。 http://www.youtube.com/watch?v=_X9k72480mY&feature=related そんな松井選手の実家の近くに、お父さんが作ったミュージアムがあります。巨人に入団後、少年時代からのものを集め展示していたのですが、数年前に新しい建物でリニューアルしました。元々は「松井秀喜野球の館」という名称だったのですが、それから現在の名称になっています。 少年時代のメダルから現在のものまで、初ホームラン球や記念ボール・カ…

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御経塚遺跡

御経塚は野々市市にある地区です。 市町村合併で石川郡の多くが松任市と合併し白山市となる中、唯一、石川郡野々市町として独立していましたが、ために多くの商業施設を誘致して、独立独歩の町運営を進めていました。 昨年(2011年)11月11日に単独町から市制に移行して「野々市市」になりました。市の面積は13.56㎢と小さい都市ですが、人口密度は日本海側では最高の都市です。その中で一番の商業集積地が御経塚です。 御経塚の一角に竪穴式住居を中心とした環濠集落が発掘されています。それが御経塚遺跡です。縄文から室町時代にかけて、石川の中心地が現在の野々市市の近辺に集中していたそうです。この辺りは掘れば何か出てくる区域なんですね。 現在は竪穴式住居を復元して、それを中心に公園にしています。隣にはゲートボール場もあって憩いの場になっています。 そんな公園の向かいに「野々市町ふるさと郷土館」がありますが、入場無料で自由に入館できます。ここに野々市町の出土品が展示されていますが、多くの注目すべきものが多く展示されています。縄文・弥生・古墳・奈良・平安・鎌倉・戦国の各資料が見られます。歴史好きにはたまらない場所ですよ。しかも、知らない人が多いみたいで、僕が行ったときも一人でゆっくり見られました^^ 旅行日 2008.11.9 野々市町ふるさと郷土館  http://www.city.nonoichi.lg.jp/bunkashinko/furusatorekishi…

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