桃雲寺(とううんじ) 前田利家の墓守寺

金沢市の野田山は加賀藩主・前田家墓所を頂点にして、総面積43万㎡以上(東京ドーム敷地面積の10倍以上)・総墳墓数1万~2万と国内でも最大級の墓地となっています。 野田山墓地の始まりは、天正15年(1587年)前田利家の兄・利久を埋葬したのが始まりと云われていますが、やはり前田利家を埋葬したのが始まりと云って良いと思われます。その後、江戸期を通じて家臣団、武家、戦没者、一般民衆と裾野を広げ、現在の一大集合墓地となっています。現在も無縁墓の整理整備、新墓地の整備でさらに巨大化して行っています。 前田利家を始めとする前田家墓所の墓守であり、江戸期を通じて野田山墓地全体のの管理を行っていたのが、この桃雲寺(とううんじ)です。巨大な墓域の為、野田村の住民の多くが墓守となり現在も存在しますが、その一括管理を行ったのが桃雲寺でした。 慶長4年(1599年)3月に前田利家は京都で亡くなっていますが、跡を継いだ利長は金沢の宝円寺(現金沢市宝町)で葬儀を行い菩提寺としています。また利家を野田山の現在地に埋葬しています。 翌年の一周忌に併せて野田山の麓に寺を創建して、利家の墓守としての菩提寺を創建します。それが桃雲寺であり、創建時は「野田宝円寺」と呼ばれていたようです。 後に前田利家の戒名から名をとって「高徳山 桃雲寺」と改めています。その時期は定かではありませんが、三代藩主・利常が就任して、江戸屋敷に居た利家の正室・芳春院(於松)と利常の母・寿福院(千代、千代保)が交代して、芳春院が金沢に戻り野…

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西尾十二ヶ滝 ~ 松岡寺跡

小松市の東方の大倉岳高原スキー場に向かう国道416号線を走ると、西尾の里の入り口の県道167号線の手前、郷谷川の流れの途中に「十二ヶ滝」はあります。 小松市街を流れる梯川(かけはしがわ、下流では安宅川ともいいます。)がありますが、郷谷川はこの梯川の上流域の支流の一つになり、さらに上流で西俣川と三つに分かれ、鳥越と大倉岳に更に枝分かれしますが大日山・大倉岳山系を源にしています。 大倉岳の麓には昭和46年(1971年)まで大規模鉱山の尾小屋鉱山があるように、この辺りには固い岩盤があちこちに存在します。西尾の里にも多くの奇岩や岩盤の滝が多くあります。町興しに西尾八景(十二ヶ滝.・象岩.・観音山・烏帽子岩・鱒留の滝.・鷹落山・大滝.・大倉岳)が制定されていますが、岩盤で構成されたものが多くあります。大滝と鷹落山以外は観て来ていますから、一部ですが。。。。残りは機会が在ったらまた。。(2012.09.01撮影) 郷谷川は流れは緩やかですが水量が豊富な川です。明治以降に尾小屋の銅山からの廃水のために汚染問題がありましたが、長年の地元・小松市の努力で改善が施され、現在はまったくそういうことは感じさせない清い流れと田園・森林風景が豊かな世界になっています。 ちなみに閉山した尾小屋鉱山には鉱山博物館と尾小屋マインロードと呼ばれる鉱山通路を回れるようになっています。山奥深いですが、なかなか面白い場所です。 小松市街から尾小屋に向かう国道416号を進むと、加賀三カ寺の一つ・松岡寺の前身の庵が…

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浮御堂

大原から途中峠越えで懐かしの滋賀県に。。守山市の国道477号線沿いに住んでいたので、琵琶湖大橋に来るとホッとする部分があります。琵琶湖大橋交差点にスーパーいずみやとヤマダ電機のある場所に当時はびわ湖タワーの遊園地がありましたねえ。。当時、びわ湖タワーは経営不振で寂しい雰囲気でしたが、娘が小学校の低学年ということで良く遊びに行っていました。その時にはびわ湖タワー自体はバンジーになっていましたが、世界最大の観覧車「イーゴス108」があって、1.2度だけど娘と乗った時の眺めは良い思い出として残っています。(嫁さんは高所恐怖症で観覧車は断固拒否、でもバンジーとコースターは乗ってたなあ) びわ湖タワーは、石川に戻ってしばらくして閉園のニュースを聞きました。イーゴスも数年前に解体されてベトナムに送られたと聞いています。ちょっと寂しいですね。 この琵琶湖大橋の側でもう一つ観損ねていて心残りの場所がありました。 守山にいた頃に1.2度行こうとしたんですが、入り組んだ場所と時間的に混雑する道で断念してたんです。 それが近江八景のひとつ「堅田落雁」として知られる「浮御堂」でした。 近江八景は 以前のブログの中で触れたことがありますが、日本の八景の中でも最古に近い選定になるものです。また、八景の名所が完全とは言えないまでも場所や名所が残る希少なものです。 近江八景はこの堅田落雁の浮御堂の他はといえば。。。 石山秋月・・・石山寺   ・・・紫式部が源氏物語の着想を得た場所として知られていま…

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寂光院

久しぶりに家族がそろった完全休養日。なにがしか用事が入って一日まるごと三人が朝から夜まで揃うのは久しぶり。。ここのところ、だいぶストレスを溜めていたので、そろそろ発散しないとやばくなってきたお父さん。。 前日、遠出のドライブをすると宣言朝早く出ると云ったのに予想通り寝坊が一人発生で、出発は9時前になっちゃいました。。相変わらず、あっちで休憩、こっちで眺望と下道をゆっくり(嫁さん曰くそれでも早い) 懐かしい朽木渓谷を抜けまして、やって来たのが大原・草生の里 今は昔、18.9年程前になりますが、前職の転勤で松任から滋賀県の守山(仕事先は栗東・草津・守山の境)に引っ越したんです。急遽の転勤だったため、事前の下調べなしで地理も何も解らずに引っ越したんですが、住んでみれば、約1時間強あれば京都・滋賀・三重・奈良・岐阜と下道でも行ける好位置だったんですね。 しかも昔から行きたいと思っていた大原の地も琵琶湖大橋・途中峠越えで約30分当時、平家物語や源平盛衰記に凝っていた僕。平家物語の最終話の地は是非行きたかった地だったんです。 滋賀だけでも歴史好きを自称する僕にとっては、猫にマタタビ、いくら時間があっ…

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吉崎別院

前回、ご御紹介したように、江戸期に入って本願寺の分裂を受けて所有管理問題が起こりますが、延宝5年(1677年)に判決が降り、御山(吉崎山)は東西共有地となりました。御山(みやま)の麓は東西に分かれ、吉崎惣道場(東)と興宗寺系列の山下道場(西)が東西並立の現在の元となる形になりました。 その後、宝暦元年(1751年)に山下道場を直轄にしていた西本願寺が西念寺(現・吉崎寺)として移転させ本堂を創建して「福井西御坊」と改め、東本願寺は翌年、惣道場から改称した願慶寺となった隣に本堂を創建して「吉崎御坊願慶寺」と呼称されます。 明治に入り御坊制度が廃され別院制度になると、西御坊は「吉崎別院」、東御坊は「願慶寺」を分離独立して「吉崎別院」を創設しました。両者で吉崎別院を造ってしまったわけで、これではややこしいので、西別院・東別院と呼び分けているわけです。近年になって吉崎御坊内で一番古い歴史と格式を持つ願慶寺から多くの古文書が発見され、蓮如退去から現在までの不明の歴史が徐々に解明されて来ています。 ちなみに願慶寺から御山に向かう参道は古地図にもあり、吉崎御坊の創建当時からも参道だったようです。狭い道で登り続け、最後は虎口のような曲りから御坊の広場に出られます。 願慶寺には多くの遺物や資料が観られます(拝観・聴講料500円)が、気さくで豊富な知識を持った住職のお話は面白くて解り易く、庶民的なもので笑いが絶えないものです。立ち寄った際には見学がてらは聴講してみてください。500円以上の価値はあると思…

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吉崎御坊跡

義母と義兄が2泊3日の滞在で帰る日、白山ICまで送った後、嫁さんと二人でドライブすることに 二人が行ったのが吉崎御坊跡。 長年、吉崎御坊の前は何度も通っておきながら、今まで一度も御坊跡地に立ったことがなかったんです。 あいにくの雨ふりでしたが、二人でそぞろ歩きをしてきました。 それにしても、我が家の嫁さんは雨女 家族や二人で出かけると必ず雨や雪が降ります。。ところがそこは晴れ男を自認する僕 車で走ってる間は雨雪が降っていますが、降りると雨雪がやむんですよ。うまくできてます。 ところが今回は車を停めても、降りても降りやまず。。 嫁さんが元気だったのか、僕が弱っていたのか。。 吉崎御坊は浄土真宗本願寺派の中興の祖・蓮如上人が北陸布教・教生拡大の拠点として創建したことで知られています。 元来、御坊というのは、坊さん(僧侶)や火葬従事者に対する尊称の意味と寺院に対する尊称もあります。もちろん、吉崎御坊の御坊は後者の意味になります。ただ、御坊制度は江戸期からの物で、その前はどう呼んでいたかははっきりしません。尾山御坊が金沢御堂…

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埴生護国八幡宮~砺波の関~倶利伽羅不動尊・鳳凰殿

嫁さんが頭の中で膨らませた如来寺の牡丹はちょこっと空振りだったため、盛りは過ぎてるだろうけど倶利伽羅の八重桜を観に行こうと意見の一致をみました。山側環状から国道359号を経由して小矢部に廻って倶利伽羅峠越えを目指すことにしました。 まずは、何はともあれお昼ご飯ということで、3対1(義兄は中華にしたかったみたい。残念でした。)の多数決で、御蕎麦が食べたいということで、ナビで検索して一番近いお店に。。 花そば やぶ お昼時とはいえけっこう駐車場に車が停まっていました。内は満席でしたが、すぐに席が空きましてメニューと睨めっこ@@; 表看板や駐車場の看板は蕎麦だったのに、一品料理、丼物、定食、うどんもありの食堂と云った感じ。。丼の文字につい眼が行っちゃうけど初志貫徹で御蕎麦に(でも誘惑に負けて天婦羅定食のお蕎麦付) 麺はまずまず つゆが思ったより美味しいのが驚き 天婦羅もべたつかず、カラッと揚がって美味しかった 埴生護国八幡宮は倶利伽羅合戦において、源義仲が最初に本陣を置いて戦勝を祈願した場所です。 騎馬像としては日本有数の大きさを誇る源義仲像(ちなみに近くの高岡は銅器製造が盛んで全国の7割以上の銅像製造を行っています。)、100段以上の急な石段(室町・戦国期に蓮沼城主・遊佐慶親が寄進したもの)、本殿拝殿は江戸期に前田利家・利長・利常と三代に渡って造営したものです。 元は埴生八幡の名でしたが、前田利長の時代に飢饉…

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如来寺② 大姫と光高 石仏群

(画像はH25.12.14のものです。)如来寺は①で書いたように加賀藩4代当主・前田光高の正室・清泰院(大姫・阿智姫)の位牌所であり、前田家に嫁い徳川系女性や将軍の位牌所となっています。当然、寺のあちこちには三つ葉葵の紋が配されています。 清泰院は水戸徳川家初代藩主・德川頼房の四女・阿智姫として生まれています。頼房の三男で水戸藩を継ぎ水戸黄門で有名な徳川光圀とは、腹違いになりますが一歳違いの姉に当たります。 5歳で三代将軍・徳川家光の養女として大姫と名を改め一年間養育され、6歳で前田光高17歳に嫁いでいます。 夫婦仲は良かったようで、光高は生涯側室を置かず(德川正室からの嫡子という考えもあったでしょうが、これは父・利常と母・珠姫の関係に感化さているようです。ちなみに利常が側室を置いたのは珠姫死後10年以上たってからです。) 二人の間には大姫16歳の時に江戸屋敷で長男・綱紀(5代目当主)が誕生しています。綱紀誕生を金沢で聞いた光高は父・利常と祝いの連歌会を開き喜び合っています。当時の家光時代、多くの大名改易が発生していますが、その多くの理由が後継問題でしたから、嫡子誕生は大きな喜びだったはずです。 その喜びが、いかに大きかったかを証明するように、直近の参勤交代では金沢→江戸の通常行程12泊13日間を、7日で歩くという歴代藩主最短記録を樹立しています。金沢・江戸間480キロ、しかも現在とは違いアルプス越えや橋のない急流40以上、また加賀藩の大名行列ですから規模も尋常ではないこ…

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如来寺① 前田光高と天徳院墓所

義母・義兄がやってきた翌日。みんなで観光しようとなったんですが、別段行きたい場所を決めていなかったというご返事。 2.3日前の北國新聞の記事に如来寺の牡丹が満開だというのを観た嫁さんが、満開の牡丹が観たいというご要望。嫁さんは頭の中で満開の牡丹のお花畑を連想していたようですが。 何度か如来寺には立ち寄ったことのある僕は内心で思っていたこと、如来寺にそんな大きな花の敷地があったかなあというくらい。。まあ、嫁さんのリクエストだし、いざとなれば近くの珠姫の寺・天徳院もあるし、牡丹と聞いて喜ぶ義母もいましたから。(一部画像はH25.12.14の物があります。) ただ予測通りと云いますか、牡丹の花畑はそれほど大きいものではなく、これから徐々に広げていくという感じでした。でも牡丹が花開いて美しい姿を見せていました。 この牡丹はへ平成18年(2006年)に住職の古希祝として、縁故の人達から贈られたものだそうです。昨年、更に40本を新たに植えて数を増やしたそうです。 如来寺は小立野台地の一角、金沢商業高校に向かう道の入り口にあります。 この寺の近くには前述の加賀前田家三代当主・前田利常の正室・珠姫の菩提寺・天徳院。利常の生母・寿福院(千代保(ちよぼ))の位牌寺.・経王寺などがあります。如来寺も利常の長男・光高の正室・清泰院(大姫)の位牌所となっています。清泰院の位牌所になって以降、この寺院は前田家に嫁いだりした徳川家関連の女性の位牌所になっています。 前田光高は利常の…

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本龍寺 銭屋五兵衛の墓所

金沢西警察署を更に西に向かうと、江戸期に北前船の港湾として栄えた宮の越(金石)の町になります。 金石の交差点近くに古びた3階建ての建物がありますが、以前までは「銭五遺品館」として銭屋五兵衛の記念館がありました。現在は大野湊神社の近くの「大野湊緑地公園」内に「銭屋五兵衛記念館」「銭五の館」として移転整備されています。その建物から更に西に100メートルほど進んだ所に長い塀垣の寺院があるのですが、そこに銭屋五兵衛が眠っています。 寺院の名前は「本龍寺」。真宗大谷派(東本願寺)の寺院で、境内には同じ真宗大谷派の妙清寺があり、金石随一の敷地を誇っています。 本龍寺は正式名は「潮聲山 本龍寺」。 以前にUPしましたが、真宗の北陸布教の土台を作り、越中井波に瑞泉寺を開山した綽如の曾孫・蓮欽(瑞泉寺四世)が隠居寺として越中梅原村(現在の南砺市梅原 梅原護摩堂遺跡)に、文明元年(1469年)一宇を建てたのが始まりと云われており、慶長7年(1602年)にこの地に移転してきたそうです。 瑞泉寺の所縁を継承している為、本殿は秀逸な仏教彫刻がそこかしこに施されており、本殿伽藍も金石随一の大きさを誇っています。鐘楼もなかなか見ごたえがあります。通常は非公開ですが、庭園も江戸期を代表する物だそうです。瑞泉寺関連の寺院は真宗の中でも重要施設で、蓮如の遺骨を納めた蓮如塚があることも特徴です。 本龍寺には芭蕉の句碑があります。 小鯛さす 柳すずしや 海士が軒 松尾芭蕉は奥の細道の途上…

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永光寺 ③ 五老峯 瑩山禅師墓所 峨山道

回廊の最上段から伝燈院とは反対の扉から出ると緩やかな登り坂があります。これが五老峯に向かう道です。 登り始めるとすぐに右手に手水舎のようなものがあります。 この水舎に流れ出す水は、これから向かう五老峯の下を通って湧き出す名水です。そのため「白山水」「五老峯の御霊水」と呼ばれています。 案内板には元享3年(1325年)に五老峯を築いた際に湧水が出たとなっていますが、瑩山が元応元年(1319)に書き残した「洞谷山尽未来置文」に五老峯のことを書き、元享元年(1323年)に五老峯を築いています。瑩山禅師の逝去と共に瑩山の墓が作られ、瑩山の書を五老峯に納めて以降に湧き出した湧水だと思われます。尊師達の元を経由して流れ出る清水は大事にされ、現代に至るまでこの霊水は伝燈院と大本山・總持寺の尊前に礼されています。 ちなみに、開祖・道元の永平寺の廟所を見学した人は観たと思いますが、廟所の入口手前の脇にも「白山水」があります。曹洞宗が北陸に来てからは禅という修行を主とした教えと相まって、白山信仰や白山修験者との結びつきが出来ていました。 特に、總持寺の貫主を瑩山から継いだ峨山は、元々は白山修験者から瑩山に弟子入りした人物で、その傾向は更に顕著になったといえます。 白山は山自体が信仰の対象でしたが、そこから流れ出る水は霊水は修験者だけでなく北陸民衆には愛されていたもので、以前書いた浄土真宗の北陸の先駆者・綽如(しゃくにょ)も白山信仰を無視できず協調を図って信仰を広めています。 …

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永光寺 ②

曹洞宗の太祖・瑩山禅師が能登で初めての禅道場として創建した「洞谷山 永光寺(とうこくさん ようこうじ)」 創建はちょうど鎌倉末期の時代でしたが、南北両朝からの帰依を受けて創建時から10年で五院二十数坊と大きな規模を誇っていました。 後醍醐天皇から鎌倉末期の約四年間に渡って瑩山に下された「十種の勅問」に奉答したことから、天皇から「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨と勅額を受けています。ちょっと解り難いかもしれませんが、要は天皇直筆の紫袈裟の許可状と寺院の扁額を受けたということです。紫袈裟は僧侶の最高位を表し、瑩山にこれを与えて、それ程になれる曹洞宗の寺院なんだよ。本山なんだよと天皇自らが認めたということになるんです。(ところが、瑩山が總持寺・永光寺どちらで受けたのか、更には總持寺・永光寺ともに兵火や大火がありどちらにも残っておらず、永光寺に答弁書の下書が残されていますが、不明状態で曹洞宗内でも真偽自体が議論されています) 北朝からは光厳天皇の勅願で、足利尊氏・直義兄弟の連名で三重の利生塔が建てられていました。現在は焼失してありませんが塔の礎石跡が残っており、中に納められていた青水晶の舎利器が寺宝として残されています。 瑩山は元亨元年(1321年)に門前(現在の輪島市門前)の(真言宗?の)諸岳寺を住持から譲り受けて本山の總持寺を開山したのですが、3年間で總持寺の寺制を整えると弟子の峨山韶碩(がざんじょうせき)に貫主を譲り、永光寺に住職として戻っています。 永光寺の伽藍…

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洞谷山 永光寺(とうこくさん ようこうじ) ①

金沢方向から国道159号線を七尾方向に走って、白鳥が飛来することで有名な邑知潟(おうちがた)のある邑知を過ぎると右手に「五老峯 永光寺」という大きな看板と石柱の門があります。そこを右折して山の方にしばらく登って行くとある寺院が「洞谷山 永光寺」です。ずっとエイコウと思っていましたがヨウコウが正解だそうです。 永光寺は曹洞宗の寺院です。創建は正和元年(1312年)、瑩山禅師(常済大師)が建立したものです。 現在の曹洞宗の大本山は、御存じのように、福井の永平寺・横浜鶴見の總持寺の二大本山制を採っています。 両本山のトップは貫主と呼ばれており、曹洞宗全体のトップは管長となっています。この両二大本山の貫主が2年交代で管長を努めています。現在(H25)の管長は永平寺の貫主が勤めています。 江戸期以前は奥州と九州にも大本山がありましたが、幕府命令で二大本山になりましたが江戸期には水戸の祇園寺も大本山を名乗った時期がありました。明治維新後は現在の形態になっています。 つまり曹洞宗は大きく分けると2派閥(二大本山)の共同体制組織というわけです。 なぜにこのような2派閥になったのかというと話が長くなりますが、開祖・道元が曹洞宗を開いた頃に遡ります。 開祖・道元が京都の聖興寺で曹洞宗の布教を始めていたころは、新教に対して延暦寺からの制約や妨害が厳しい時代でした。 同じ頃に派生した禅を主体とした日本達磨宗も延暦寺からの制約・禁制を受け、布教禁止令や焼き討ちを受けて越前に避難していたのです…

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法船寺 義猫塚

法泉寺は長町の武家屋敷とは道路を挟んだ向かい側にある中央通町にある浄土宗の寺院です。 前に書いた板屋神社(板屋兵四郎)の記事で書いた金沢の町の大部分を焼き尽くした「寛永の大火」の火元がこの寺院の門前の町家でした。原因が放火であり、しかも犯人は武家であったということ、原因も町娘への横恋慕。 金沢の町を総なめにした大火には、当時の藩主・前田利常には二重三重のショックでした。 その後、金沢の復旧が急速に行われましたが、現在の金沢の町割りはこの時に確定したものです。 当時、2代将軍・徳川秀忠が病中で急速な町割りと復旧、更に金沢城の補修は幕府からの謀反の嫌疑を受け(寛永の危機)、嫡男・光高共々に江戸に参府して弁明に努め、辛くも嫌疑を晴らしています。 利常にとっては憎んでも余りある放火犯ということ、、、、極刑にしたと思われます。犯人がどう処分されたかは不明。 ただこの場合には、管理・監視義務のある法船寺も大きな責任があったのですが、地所の返上に留まっています。これは当時の住職の母が前田利長の乳母ということが影響しているようです。利常は利長を最大の恩人として尊重した人物ですから。。(妾腹だった利常を、正妻に遠慮したと利家は6歳まで会おうともしませんでした。それを諫言し面会を実現したのが利長でした。更に子供がなかった利長は利常を養子として後継者としたのです。利常にとっては大事な兄であり、義理とはいえ父とも思う人物だったわけです。) 法泉寺は元々、尾張の犬山にあったものですが、前田家の移動…

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おぶせミュージアム(中島千波館) ~ 善光寺

高井鴻山記念館を出て小布施堂の庭を観たり、街並みを観ながら、三館目のおぶせミュージアム(中島千波館)に向かいました。そうそう、小布施の店舗や旧家には、庭を公開している所が幾つかあります。こういうのは石川ではイベントの時や期間限定の時くらいしか、なかなかないので良いですねえ。 おぶせミュージアムは、小布施出身の日本画家・中島千波(なかじまちなみ)の寄贈作品を中心に展示されています。 また、江戸期から明治の祭り屋台も別建物で展示されています。 中島千波は日本画家で桜や菖蒲や鳥を描いた花鳥図が多いのですが、西洋画の技術も取り入れていて、特にリトグラフの桜の細かさは必見です。以前まで東京芸大の客員教授でTVにも出ていましたが、僕がちらっと観るときは大概は山を歩き回って木がどうこう言ってる時ばかりで、てっきり植物学者か環境の研究者と思ってました。僕がこの人の名前と顔と作品が一致したのは近年です 小布施が出身地だったんですねえ おぶせミュージアムの敷地には四季折々の花や植物がみられるように庭園と散策路が配置されています。 小布施ではこのミュージアムを別名「花咲くぶらり美術館」と命名しているそうです。 確かに、散策路を観て歩くだけでも飽きないかも^^ 美術館を観て、屋台を観に行こうとしたら、後ろから待ちくたびれた嫁さんと娘に声を掛けられました 「お父さん、探し回っちゃっ…

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海月寺

江戸期、金沢の金石は宮腰(みやのこし)と呼ばれ北前船の母港として栄えました。 そんな金石の東方の一画に海月寺という小さな寺院があります。ここに銭屋五兵衛の三男・要蔵の墓があります。 以前、海の豪商と呼ばれた銭屋五兵衛を紹介しました→銭屋五兵衛記念館  銭五の館 海の豪商と云われた銭屋五兵衛ですが、その最期は悲惨なものでした。 銭屋五兵衛は晩年は家督を長男・喜太郎に譲っていましたが、喜太郎は生来病弱で性格も温厚なことから、銭屋の実権や方針は引き続き五兵衛が握っていました。そして、その意向を実践していたのは三男・要蔵と手代・弥吉が両翼となっていました。銭屋の没落の要因となった河北潟干拓事業も総責任者は要蔵が受け持っていました。 銭屋が加賀藩から責任追及されたのは、河北潟での魚の大量死、それを食べた漁民の死が銭屋の干拓事業の際の石灰と共に毒を投入したと疑われたことです。(数年後、河北潟の赤潮による毒素化と学者に証明されています。) 加賀藩の苛斂誅求な処置は情け容赦のないものでした。銭屋一族・使用人のことごとくが捕えられ入牢と共に厳しい拷問や追及に処されます。 千賀女などの奔走に同情した真龍院の助言などにより、長男・喜太郎が釈放(ただし加賀所払い)されましたが、時すでに五兵衛は牢死。しかし加賀藩の処分は厳しく銭屋は家名断絶・財産没収(家名に関しては後年、許可が下ります。)更に主犯格とされた要蔵と弥吉は磔刑。さらに一族・使用人など51人が斬死・さらし首となってしまいました。 …

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称念寺② 明智光秀伝承

前回紹介した称念寺には、もう一人の武将の伝承が残っています。それが明智光秀夫妻の伝承です。 明智光秀はご存じのように「本能寺の変」で、織田信長を急襲した武将です。その後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、三日天下と主殺しの汚名を着たまま消えて行った人物です。 新田義貞もそうなのですが、敗軍の将はその後に勝者によって事績や記録が消されてしまうため、生い立ちや変の動機など謎の部分が多く残ってしまいます。しかし、明智光秀の所領だった丹波や大津・坂本はもちろん各地に残る事績・伝承では悪い評判があまりありません。逆に誠実な人柄の表れる物ばかりです。 特に自分の家族、家臣団や家来には細やかな対処を行っており、実際に信長に対する反乱「本能寺の変」においても、家臣団から一人の裏切りを出していないことは特筆されます。  (※明智光秀に関しては多くの説や異論がありますが、ここでは省略します。  ただ、一言いっておくと、個人的には好きな武将の一人ということです(ちなみに信長も好きなんですよね。)。  知れば知るほど、織田信長とは対極をなす人物像が浮かび上がってきます。この二人が結びつくこと自体奇  跡に近いものがあるし、あの信長が正反対の性情の光秀を軍師的存在として身近に置くと云うのも奇跡的でし た。  信長の覇業があれだけ先進できたのは、信長の急進的な発想と光秀の伝統に精通した合理性、臨機応変な  機敏性が合致したと云えます。) この称念寺の伝承は、明智軍記から伝わるものです。明智軍記に関…

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称念寺① 新田義貞墓所

称念寺は時宗の寺院です。福井の丸岡町長崎の地(現・坂井市)にあります。 泰澄大師が阿弥陀堂を建立したのが始まりと云われています。 時宗については名前を聴けどあまり知られていない宗派の一つです。特に北陸ではなじみの薄い存在になっています。しかし、江戸期以前は全国で一番流行った宗派は時宗といわれています。 開祖は一遍(智真)、元々は浄土宗に学んだ人ですが、浄土宗の基本の「信心の表れが念仏」に飽き足らず、簡易・掘り下げて「念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になる」と説きました。民衆への衆生済度のために、全国行脚(遊行)をして「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」という札を配る「賦算(ふさん)」と踊り念仏を広めました。 時宗では1日を6分割して交替で念仏を唱えるため大勢で遊行しましたから、室町時代以前は時衆とよばれていました。またこれに関しては開祖・一遍が独自の宗派を作る気はなく、あくまで浄土宗の一部であり、市井の上人と云われた空也を手本にしたためとも云われています。一遍は全国行脚を行ったこともあり遊行上人と呼ばれ、以降の時衆のトップは代々遊行上人と呼ばれることとなります。 一遍死後、時宗はバラバラになってしまいましたが、それを改めて宗派としてまとめ上げたのが、2代遊行上人・他阿真教になります。現在の各宗教団にはこういった中興の祖となった人物がおり、その後の発展につながっています。曹洞宗の瑩山紹瑾・浄土真宗の蓮如・日蓮宗の日乾などがその例です。 現在でも時宗では一遍と真教を祖と…

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二俣本泉寺

本泉寺は戦国期において、加賀一向宗の加州三ヶ寺として波佐谷松岡寺(小松市)・山田光教寺(加賀市)と共に中心的な存在でした。ただ真宗独立王国・百姓の持ちたる国と云われた時期は二俣から若松(現在の金沢市若松町)に移っていました。 二俣(金沢市)は山深い場所ですが、加賀から越中・砺波に抜ける最短コースにあります。江戸期には参勤交代もこのコースを通っていました。 浄土真宗は当時幾つかの派閥に分かれていましたが、戦国期初期においては主流は他派閥が大きく、現在隆盛を誇る本願寺派(東・西本願寺)が教勢を大きく伸ばしたのは、8代教主・蓮如になってからです。そして蓮如が最初に教勢を伸ばした地が北陸という地でした。 現在、宗教界で大きな勢力の浄土真宗・日蓮宗・曹洞宗の開祖死後の隆盛は北陸から派勢しているのが共通で興味深いものがあります。当時、仏教の本場は京都・奈良で、国教扱いだった高野山・比叡山でしたが、前述の三宗派それから時宗・臨済宗・浄土宗などの開祖も両山で勉強・修行した人達です。 この開祖たちに共通するのは宗教は特別な人間の物なのか、民衆には無用な物なのかという疑問から始めていることです。もちろん教義に関して修行や善行の必要性に対する疑問もですが。 当時の宗教は民衆の物ではなく、貴族階級の物でしたし、京都・奈良近隣では両山の影響力が強すぎて、独自の宗派や教えを延ばすのは排他的で難しかったというのが実情でした。その点から関西圏から近く、文化吸収には柔軟な北陸の地に避難・進捗は当然の流れだ…

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白山本地堂 ~ 一向一揆蕎麦「長助」

大杉茶屋の前の国道364号線を福井方向に向かうと「越前竹人形の里」の側に出れます。以前まではカーブだらけの狭い山道で車がすれ違うのもたいへんな道でしたが、久しぶりに来たら綺麗に整備されて走り易くなりました。これなら福井の東に行く時はここを使うのも良いなあ 竹人形の里にちょこっと寄って勝山へ157号線に乗り換えて白峰に向かいます。157号は走り易いワインディングロード。夏場はバイク乗りのメッカになっています。 白峰の村内で食事をしようと思いましたが、ちょっと寄り道が多すぎてコミニュティ広場のレストランは終了してました 先にコミニュティ広場に来るべきでした。。白峰に来て寄り道してきたのが「白山本地堂」 着いた途端、仕事の電話が掛かってきて時間を食っちゃいました。あれが敗因だったなあ。 「白山本地堂」は、白峰村の林西寺にある別館です。 林西寺は浄土真宗・真宗大谷派のお寺ですが、創建は白山開山の泰澄と云われ、元々は天台宗の寺でした。奈良時代、恵美押勝の乱で逃れた藤原仲麻呂(恵美押勝)がここに隠れたという伝説があります。 中世・室町時代に蓮如に帰依して浄土真宗に転じたという歴史があり、小さな村にしては大きくて立派な本堂を持つ寺です。本堂内も真宗の寺というより天台・曹洞のような威圧感があります。 白峰は石川県の水源とも云える手取川の上流になり、瓦や欄間には竜がアシラワレ…

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イケメン大仏 高岡大仏

日曜日、久しぶりに仕事も完全OFFでしたが、嫁さんはお仕事で家に居らず。ここの所、仕事でストレスが溜まりっぱなしだった僕としては、どうしても発散するためにドライブに行きたかったのです 部屋でボケッとしている娘を連れ出して(娘に言わせれば、無理やりつき合わされた ご存知のごとく、僕のストレス発散は車で走り回って、あっちこっち回ること。ところが事前に行き先を決めていないことが多いんですよね。 んで娘に、「東西南北、どっちが良い」「う~ん、東かな」 ということで、東に向かってGO 朝は晴れていたけど、出かけた頃には曇り空 さて、東と言うことで、着いたのが富山の高岡市。4.50分くらいですかね。高岡は今年(H21)開町400年、先月まで賑やかな行事が開かれていました。 加賀藩の2代目藩主・前田利長が隠居後、この高岡を居城として入城し、現在日本の銅器の70%以上を占める銅器製造や織物の奨励などで町を発展させました。30数年程前までは、富山で一番大きい町でした。 皆さんの近くにある銅像のほとんどが高岡製ですよ{%顔モジヘェー(シェ…

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永平寺

前日に嫁さんの実家の上越から義母と義兄が遊びに来てくれました。当日仕事で出かけられなかったので、家で運転疲れを癒してもらって、、、 お相手は娘がしておいてくれたのでチト安心。義母・義兄ともに娘を猫っかわいがりしていますからね 嫁さんも二人が持ってきてくれたお土産に感謝感激     「当分、これで食いつなげる」オイオイ 翌日の朝からドライブに出かけることに、みんなの意見の一致を見まして、久しぶりに永平寺まで行くことにしました。一泊二日の予定を2泊三日に変更させたので、ちょっと遠出することに 僕の車で、もちろん運転手は僕です。二人も僕の運転は解っているので、乗ったと同時にシートベルトばっちし、「安全運転でね」4人が4人同じお言葉 国道157号線から山越えで勝山を越えて永平寺に向かいます。永平寺に近づくとさすがはシルバーウィーク。町営の第3駐車場の辺りから渋滞です。     {%車(セダン)docomo%…

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金蔵寺(こんぞうじ) ~ モーゼの墓

輪島市街から東に向かい、千枚田を過ぎてから山の方に右折して山越えで穴水に向かっていると、山裾に趣のあるお寺が見えました。ついつい寄り道しちゃいました 田園の向こうの山裾に見える山門はなかなかの重厚さがあります。 寺の名前は金蔵寺(こんぞうじ)、建立は白雉2年(651年)。能登でも最古に近い寺院です。本堂は戦国期の戦乱で焼失してしまい、現在の本堂は1752年江戸時代のものです。境内にはタブの古木もあります。立派な木でしたねぇ。タブは太平洋側の暖かい地区に多い木なんですが、能登の先端にあるのは珍しいですねぇ。 寺の前には、小さな蓮池があったんですが。綺麗な花をつけていました。 さて、穴水まで戻ってきまして、海岸沿いのレストハウスで食事 ちょっと遅い食事になってしまいましたが、その分レストハウスはがらがらでした。のんびりと窓際の席につくと、外には芝生の向こうに静かな七尾湾が広がって綺麗でした。こんな眺めで食べるのも良いもんですねぇ 海を見ながら食べるなら、やっぱりこれかなということでね、「海鮮丼840円」 食べてみると意外にまともで美味しい。レストハウスの名前は「とうりゅう」 団体客用で物産館などという大層な名前だけど、建物は古いし土産物品もあまり置いていない。ちと寂しいけど、この辺りでは食べ物屋がないところだから、続けていけるんでしょう{%…

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妙成寺

この日は、仕事で羽咋市(はくいし)まで行ってきました。 行き先は「能登青年の家」だったんですが、さっさと終わりまして、時間もたっぷり余ってしまいました。せっかく此処まで来たんですから、しばらく行ってなかったところを周ってみることにしました(最初から、それが目的だったとか) 此処から、北上すると妙成寺があります。「みょうじょうじ」みょうせいじ」「みょうごんじ」いろんな読み方があるようですが、「みょうじょうじ」が一般的みたいです。僕が中学の頃は、「みょうごんじ」と言っていたんだけど。。。。  20年ぶりに来たなぁ この日は曇天で、ガスった日でした。てっきり黄砂かと思っていたんですが、後でニュースを見ていたら、上空が無風状態で埃や塵が停滞していたそうです。と云う事は、あれはごみだったの。。。 それはさて置き、「妙成寺」は日蓮宗の北陸本山です。 鎌倉時代の開山ですが、江戸期に三代藩主の前田利常が母親・寿福院(千代保)と長女・浩妙院(亀鶴姫)の菩提寺にしてから大きくなりました。(二人の墓所は東京の池上本門寺にもあり、万両塚・十一層塔としても知られています。) 妙成寺の建物も江戸期の物で重文指定が10あります。   まずは石段を登っていくと、仁王門です。門の左右に厳つい仁王様が待っています 境内の写真…

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倶利伽羅不動尊 鳳凰殿

倶利伽羅不動尊から出て、このまま帰るのもなんなので、源平合戦で有名な合戦跡を通って小矢部に行ってみようかなと ところが雪のせいですねぇ。な、なんと通行止 ちょうど、平氏の陣地跡の「猿が馬場」でSTOPです。 倶利伽羅合戦の場所は、ここから2〜3km程、小矢部寄りにあるんです。 また、合戦跡地には源義仲(木曾義仲)の奥さん二人の墓もあります。巴塚と葵塚です。 巴御前は有名なので知ってる人も多いと思いますが、葵御前も義仲の愛妾で巴と同じく合戦に参加奮闘しましたが、ここで戦死したそうです。巴御前とは仲が良かったようで、巴が93歳で亡くなった際、遺言で葵の側に墓を指定したそうです。 そこから先の小矢部の埴生には義仲の戦勝祈願をした神社もあります。埴生護国八幡宮ですが、ここから倶利伽羅峠を越えた竹橋口までが「歴史国道」として整備されています。小矢部市と津幡町で整備したり行事を行ったりしています。 通行止なら仕方ないので、駐車場に車を停めて、を2.3枚 「猿が馬場」のブナ林と本陣に使ったとされる平たい岩です。 松尾芭蕉の句碑     「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」 芭蕉は、よっぽど義仲が好きだったみたいで、芭蕉の墓は滋賀・大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓の側にあります。 倶利伽羅は昔から人気…

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倶利伽羅不動尊 山頂堂

本当は4日に行くつもりだったんですが、仕事が入っちゃって1日延期しました。 行った先は、倶利伽羅不動尊です。 倶利伽羅不動尊は石川と富山の県境にあります。 千葉の成田山・神奈川の大山と並んで三不動尊と呼ばれています。。 「倶利伽羅」はサンスクリット語で「剣に黒龍の巻きついた不動尊像(姿)」。つまり剣に巻きついた黒龍の姿が本体で、よく人間のような姿で表現される神様たちとは一風違った存在です。ただ黒龍は北の守護神ともされていて玄武になぞらえる説もあります。サンスクリット語はインドの古代言語で、現代でも公用語になってるらしいですよ。あまり使う人はいないらしいけど。。。此処の不動明王は「倶利伽羅紋々」といって、その筋の人の刺青などでも有名です。 不動尊山頂堂下の駐車道路から撮りました。ちなみに、この道路から東が富山県です。 今回はカメラと携帯両方で撮ったので、アップすると解り易いですが、緑色の屋根下が石階段になってます。 登った上にあるのが本堂山頂堂です。こちらが表口だと思ってる人が多いですが、実は裏口なんですよ ついでに、赤いダツフルと黒いコートが、我家の娘と嫁さん。一応初公開 階段の途中には、弘法大師一行像や水掛不動なんかもあります。 長い階段を登ったところが、本堂の山頂堂。煙で本堂が煙っちゃってます 本堂内では護摩を焚いてくれるので、護摩…

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総持寺祖院

さて、輪島の朝市通りを後にして、帰りの道へと車(RV)車(RV)ダッシュ(走り出すさま) でも、タダ帰るのはつまらないので、門前や富来によって行こうと思いました。 朝市通りを抜けたところにある「いろは橋」から 輪島に来た道も門前は通ったんだけど、ちょっと遠回りして光浦から西保海岸経由で戻ることにしました。 西保海岸は海側に切り立った崖や奇岩のある海岸で隠れたビュースポットです。それと家を囲む間垣が有名です。 ちょっと写りが悪いけど海岸線に白っぽく見えるのが道路です。切り立った崖がわかるでしょう。 結構遠回りして、地震の被害がひどかった門前町に、やっぱり青シートが所々に目に付きました 本町内に入ると、潰れかけた家も何軒か。屋根工事も間に合わなくて、シートが掛かった家もまだまだあります。 そして門前町役場(門前は輪島市と合併したので輪島市門前支所)に車を停めて、総持寺祖院に足足 総持寺の創建は1322年(後醍醐天皇の時代)です。以降、明治後期まで曹洞宗の大本山として存在しました。明治38年に大火で消失、横浜の鶴見が丘に本山を移しました。以降は、曹洞宗の起源地として祖院と呼ばれています。。(福井の永平寺は道元が開いた大本山で、曹洞宗では鶴見と2本山制をとっています)。 総持寺の参道入り口ですが地震で崩れて、ブルーシートが掛かっています。 入り口にある「芳春…

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浄教寺 世界に一本だけの桜 浄教寺手毬桜

浄教寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。 元々は近くにある真言宗・安居寺の24坊の一つでしたが、文明6年(1474年)に住持が蓮如に弟子入りして転宗したものです。 入口の山門も2層式で上部に釣鐘があり、なかなか趣のあるものです。 山門は明治10年頃の創建と言われています。昭和36年の室戸台風による倒木で倒壊しましたが、創建時の原材料を使って再建されたそうです。 境内の本堂前にある樹齢推定150年程の老桜木が「浄教寺手毬桜(じょうきょうじてまりざくら)」です。可憐な花の中に花が咲くように手毬のような花弁が咲くのが特徴です。 前々からこの寺にあった桜なのですが珍しい綺麗な桜として地元の人にしか認識されていませんでした。花の趣味を持つ信徒が花の名を知りたくて地元の植物園に持ち込んのが始まりで、平成20年に中央植物園の調査研究により桜の新種発見となった経緯があります。分類的には菊咲きの山桜になるそうです。 老齢の桜木のため樹勢が弱く接ぎ木では不可能で存続が心配されていましたが、富山中央農業高校バイオ技術科が増殖に成功したそうで、今年の秋に研究成果が発表されるそうです。 訪れた日は少し早かったようで花も三分咲き。。 この桜の葉も変わっていて、最初は赤みがかって紅葉のように見え、徐々に緑に変わっていくという変わり種です。この日の木はまるで秋の紅葉のようでした。花もポツポツ。。 GW前には満開が観られそうです。丸い花が咲きそろう姿、また訪れてみたいと思います。 国内には幾…

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国泰寺 高峰譲吉の菩提寺

金沢の広小路を東に登った蛤坂の交差点を南に入る旧北国街道の通り。 ここには金沢の人気観光スポットのひとつの妙立寺(忍者寺)がありますが、妙立寺を通り過ぎ更に100メートルほど進むと、左手に国泰寺という寺院があります。 この国泰寺が「タカジアスターゼ(消化薬)」の発明で有名な高峰譲吉の菩提寺です。高峰博士の墓所はアメリカのウッドローン墓地と東京の青山墓地にあります。臨済宗国泰寺派の寺院です。 本山の国泰寺は富山県高岡市にあります。元々高峰譲吉は高岡の生まれで、父親は高岡の町医者で高峰精一といって、譲吉が1歳の時金沢に転居して加賀藩の御典医になったという経緯もあり、菩提寺の国泰寺も高岡から分派したもののようです。 境内には高さ16メートルのイチョウや楓の木があり、秋に訪れると紅葉の美しいお寺です。 高峰譲吉はアメリカに長く過ごした間、アドレナリンの結晶抽出による止血剤販売・日本初のアメリカ特許取得など多くの業績と財を残しています。 アメリカとの友好にも尽力して、当時の東京市長・尾崎行雄と共にワシントンD・Cのポトマック河畔の桜並木の寄贈などでも知られています。 今年、この桜寄贈100周年ということで、高岡や金沢ではいろいろな記念行事などが考案計画されているそうです。また映画もこれを狙ってか、平成20年、昨年と「サクラサクラ」「TAKAMINE」と公開されました。映画の方はいまいちパッとしませんでしたが、話題性には貢献したかも^^; 「サクラサクラ」 http://sak…

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鶴来別院

石川県は浄土真宗が多いこともあり浄土真宗系の寺院が多く存在します。 白山市の鶴来町にも大きな本堂を持つ寺院が存在します。真宗大谷派(東本願寺)の鶴来別院として明治32年(1899年)に建立されたものです。 鶴来駅から右に本町通りを進むと日本酒の「萬歳楽」の醸造元「小堀酒造」を過ぎて、SCのマルエーを左折すると遠目にも立派な屋根瓦の本堂建物が観られます。 鶴来別院の前身は惣道場(民衆が集まって話す場・念仏講からなる念仏道場)が元と言われています。元々は金沢別院の管轄でしたが、独立する形になり寺院が建築されました。近くに観れば解りますが屋根や破風・梁など当時の最高技術を施されています。 写真にはありませんが、加賀百万石筆頭家老本多家の門を移築した「御殿門」。明治12年句佛(大谷光演) の句碑。 大谷光演は東本願寺23代法主で俳壇で句佛上人と呼ばれ多くの句を残しています。 いろいろ見るべきものがある寺院です。 降雪の多い地域のため、これだけ大きな屋根になると落雪も多く境内の雪も尋常じゃないのでご注意を、雪のないときに行くととても趣のある寺院です。 別院では毎月7日間、報恩講が開かれています。 旅行日 2012.02.24

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