木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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御誕生寺

毎年この時期は忙しいのですが、その分遠出が出来ず、ストレスをためまくる僕。 そういう時には仕事に眼をつむって、ひたすら遠くに逃避ドライブが発散方法。。ただその分、仕事をためるので後で四苦八苦。。そういう僕を知ってる嫁さんは嫌々ながら助手席にというのがいつものパターン で、二人で久しぶりにやってきたのは越前市。。午後になって出て来たので、訪れたのは一カ所だけ。。もっと早くから来ていればいろいろ回れるんですが、毎度の思い付きでしたので、、、 御誕生寺の猫ハウスの窓辺にいた猫ちゃん   この日は寒いので体調がすぐれなかったり、猫風邪の猫ちゃんはハウスに隔離中。ハウスの猫ちゃんはみんな寝ていたけれど、この子だけは外に行きたくて、窓辺で行きたそうにウズウズ、窓の前を通る人を見つめていました@@眼の鋭さと鼻筋がハッキリしているのはチャトラの特徴 まあ、嫁さんをつきあわせるんですから多少後ろめたい僕は、嫁さんが喜びそうなところにしようというわけで、初訪問の御誕生寺に。。。平成生まれの寺院ながら大きな敷地と本堂を持つ寺院ですが、巷では知る人ぞ知るの猫寺でもあるのです。 嫁さんの近頃の趣味と言えば、スマフォやタブレットで、日がな猫の動画を観ること^^ 一時期のペットのワンちゃん流行から、数年前からはすっかりニャンコに流行は移っていますが、そこは御多分に漏れず我が家の嫁さんと娘も猫にはハマりまくっています。実家の頃は母親が猫好きで、僕も好きな部類。。元々、キティちゃんグッズに嵌る嫁さん。そこへ…

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本行寺② 隠れキリシタンの寺

昨昨年(H29)2月、高山右近の列福式が大阪で行われ、福者の宣言がされた際に長々と3部作を書きました。 高山右近記念公園①  ②高山右近 前田利長時代 高山右近の碑③  高山右近像と本行寺堂宇 高山右近像はレプリカだそうですが、作者は大正から昭和中期にかけて彫刻界の重鎮として活躍した彫刻家・吉田三郎。吉田三郎の作品としては長く金沢駅に飾られた杜若(かきつばた)像、台湾の烏頭ダムの八田与一像などが知られています。 ジュスト・高山右近は戦国武将として、清廉潔白で人徳に優れた賢者、戦略・戦術に優れた武将、教えのために大名としての地位や所領を返上するなど献身的な殉教者、更には利休七哲に挙げられる芸術性にも優れていたと云われ、現在でも人気の高い戦国武将です。 キリスト教に殉じて大名の地位・所領の返上、国外追放によるマニラ客死などはよく知られています。この大名返上の際の年齢が33歳。マニラで客死が63歳。この間の30年は、3年間の細川・有馬氏などの庇護を受けた逃亡生活を経て、豊臣秀吉の特赦で前田利家の客将として迎えられて26年間の長きを加賀藩で過ごしていました。 利家在世中は、金沢・大坂間の往復と軍務に忙殺されていたようですが、利長の代には緊急時や高岡城の築城などの他は、家督を長子・長房に預けて半隠居として、文化面や自身の信仰に費やしていたようです。その中で右近は金沢・志雄・七尾に教会を建設したと云われます。 ちなみに志雄町(現・宝達志水町)は、羽咋郡と河北郡の境界に当た…

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本行寺① 丸山(円山)梅雪

実を言えば、山の寺寺院群に訪れた本来の目的地はこの本行寺でした。ところが勇んで来てみれば、住職は裏山の作業中で不在で、用事の人は携帯までの残し紙が玄関に・・・どうもこういうのに電話するのは苦手なんですよね。。勝手に不法侵入するわけにもいかず。。しかも嫁さんが一緒だと尚更。。。というわけで、外回りだけになってしまいました。 また機会があれば、ゼウスの像を始め茶室・きく亭やキリシタンの観音像やマリヤ像、高山右近の書状の草稿などはまたの機会に、、、出来れば5月のデウス祭に来れると最高なんですが。。。  本行寺 山門 本行寺門前 案内文より 本門法華宗 京都妙蓮寺末 揚柳山 本行寺 我国茶湯(殿中)の祖 「円山梅雪」創建(文明年間) 梅雪由来 前田家茶室「きく亭」 皇室より「法華経八巻」奉経 永代聖号寺院 七尾城三面大黒天安置 「ぽぷら(かぼちゃ)御講」 隠れキリシタンの寺 高山右近とゼウスの塔 全山紅葉 一名もみじ寺  畠山文化の重鎮 円山梅雪 草創の寺 本行寺の始まりは丸山(円山)梅雪という人物から始まります。出自には諸説あって判然としませんが(没年1542年、1558年?70歳没)。主要諸説としては・・・ 河内畠山家(畠山本家)の一門衆・遊佐(ゆさ)家に生まれたと云われています。姓は不明ですが(遊佐?)清三郎家長。ただ病弱なため出仕は短期間で出家。丸山梅雪を名乗ったと云われます。正室は泉州堺の有力商家・柳屋から迎えており、分限者として知られ丸山長者とも呼…

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馬坂

前々回にも書きましたが、ご紹介した椿原天満宮を巻くような天神坂は、田井・旭町などの旧街や越中・福光などから金沢城下町への往来の本道でした。 天神坂を登り切った小立野台地は砂岩層を覆う岩盤層がある台地で、水の手が少ないために農地としてはむかない場所でした。この為小立野台地上の住民は、農地を求める住人は浅野川沿いや犀川沿いの低地に畑地を求めることになります。この為浅野川に向かう台地には天神坂の他に三つの坂道がありました。それが、馬坂・鶴間坂・牛坂の三本の坂道でした。馬や牛が示すように農耕用の牛馬を使った名のように小立野の住民の生活道路となっていました。牛坂は整備が進んで面影がなく、鶴間坂・馬坂は車の通行禁止。。 とはいえ、車人間の僕としては、なかなか訪れにくい場所なんですが、お客さんの家に訪問後に宝町に来たついでに立ち寄ってみることに。。というわけで今回は馬坂の紹介です。 坂道は舗装されていますが、道幅は当時より少し拡張していると思われます。なかなかの急勾配で途中には別名・六曲坂と呼ばれるように、大きなカーブがあります。 馬坂(途中の坂標碑より)・・・昔、田井村の農民が小立野へ草刈りに行くため、馬をひいて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた  馬坂 扇町口 大曲 馬坂は現在は上部の宝町と扇町を繋ぐ坂でした。前述したように小立野台地の崖面を登る三つの坂は住民の生活道路であり、鶴間・牛坂は小立野から浅野川沿いに降りる坂でしたが、この馬坂の上部の宝町は、前田利家を始…

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長壽寺③ 八百屋お七の供養塔

長壽寺の見所も三作目、、、、境内には立派な供養塔がありますが、なんと八百屋お七の供養塔と伝わっています。 長壽寺の案内板・・・当山八百屋お七縁起 合掌 八百屋お七の父親は七尾出身で、加賀藩の足軽・山瀬三郎兵衛といい参勤交代の折に江戸に出る。元々、侍奉公を嫌っていた三郎兵衛は脱藩し、本郷駒込追分町に八百屋を開業、相当の財を成した。一六八二年二月二十八日、江戸市外駒込の大円寺から出た火事は、おりからの強風にあおられて南の市内に向かい、本郷・上田・神田日本橋を襲い、隅田川を越えて本所・深川まで延焼、夜になってようやく鎮火した。延焼家屋は大名屋敷七十五、旗本屋敷百六十六、寺社九十五、町屋五万二千余、焼死者三千五百人。世にいわれている八百屋お七の「お七火事」とは、この日起こった火事をさしている。 だがこの火事はお七の仕業ではない。実は、この大火では、お七一家も収容者だったのだ。家を失ったお七一家は菩提寺である円乗寺に仮住まい、ここでお七は寺小姓の吉三郎と運命的な出会いをする。店が再建され、連れ戻されたお七の思いはつのるばかり 「また火事があれば・・・」 そこでお七は翌年三月二日、新築まもない我が家に火を放つ。江戸市中を火の海に埋めたお七はつかまり、火あぶりの極刑にあった。この話は、やがて浄瑠璃や歌舞伎に脚色され、お七と吉三郎の恋物語は語り継がれてきた。 だが、娘を非業の死で失ったお七の母親の子を思う心はいかばかりか計りしれない。お七の母と称する者が娘の菩提を弔いたいと、供養塔を建…

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長壽寺② 裏千家と宮崎彦九郎義一(寒雉)

長壽寺には、他にも注目に値するものがあります。まずはこの鐘楼堂の梵鐘(釣り鐘)。 以前ご紹介したことが有りますが、加賀藩の鋳物師で宮崎彦九郎儀一(初代寒雉)の作になります。 以前に宮崎彦九郎儀一(寒雉)を書いた記事 ⇒ 2013.05.08 宝乗寺 宮崎彦九郎家は金沢で代々寒雉の名を受け継いで現在14代続く茶釜鋳物師で、大樋焼とともに金沢茶道界の一翼を担ってきた伝統工芸の名家と云えます。その宮崎寒雉・初代の梵鐘になります。 初代・宮崎寒雉こと宮崎彦九郎義一 祖先は七尾北湾の海辺の能登・中居村(現・鳳珠郡穴水町中居)で代々鋳物師を営んでいました。中居村は近くに原料産地もあり、古くから鋳物の産地として知られていたようです。現在は左官業の町になっているそうですが、七尾湾に沿って走る国道249号線を奥能登に向かうと入江に古代猟法のボラ待ち櫓が見られる中居ふれあいパークがありますが、その近くに能登中居鋳物館があり、往古の能登鋳物の歴史が解ります。 天正9年(1581年)前田利家が能登を領有した際に召し出されたのが中居村の宮崎彦九郎吉綱(義一の祖父?)。小丸山城の普請にも係わったと云われますが、主には武具・馬具・鳴り物(鉦鼓,銅鑼など)などの製造に係わっていたようです。天正11年前田利家が金沢に入城すると、木の新保(現金沢駅・駅周辺)に千坪の土地を授けられて武具・馬具の生産工場を任されていました。 江戸時代に入り状況が落ち着いてくると、武具・馬具の製造はある程度落ち着…

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長壽寺① 能登長谷川家菩提寺 長谷川等伯

天正9年(1581年)前田利家が織田信長から能登23万石の領有を許されて、能登に入部すると政務をとるために山城で不便な七尾城から平地で東西にある御祓川と北の七尾湾に囲まれた小丸山城を翌年に築城しています。交通要路・攻め口になる南には今は掘削されて線路になっていますが、大念寺山砦が置かれ、更にその先に加賀・奥能登からの侵攻に対する出城替わりに、低山で緊急時の防御陣地として29の寺院を集積します。現在、山の寺寺院群と呼ばれる地区です。元々、武生府中から呼び寄せた小丸山城内にあった宝円寺をこの地に移したのが始まりで、その後既存の七尾の寺院を集めたものです。ちなみに宝円寺は本拠地を金沢に移した前田利家と共に金沢の現在地に。。寺院は名を長齢寺と改めて、前田利家の父母の菩提寺として存続しています。 後の加賀藩も人心安定政策・防御陣地を目的に前進基地となる寺院集積を行っており、金沢の寺町・東山、富山の梅沢町、大聖寺の山の下寺院群など寺院の密集地帯が要所に配置されています。 寺院群は能登畠山氏の七尾城時代は七尾城周辺に点在していたものが多かったと云われます。現在は16か寺残っていますが、宗派の内訳は浄土宗3・曹洞宗4・日蓮宗6・法華宗1・本門法華宗1・真言宗1になります。金沢・大聖寺・富山の寺院群にも言えるのですが最大人口を誇る真宗寺院が含まれないのは、実質的な加賀前田家の前の実質支配者・旧敵対勢力であり、宗教政策上は平等な扱いですが、講を教義の基本にして地域に密着しており、防衛上には問題があり地域に点在…

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永安寺② 

前回は開山堂と由来記で終わってしまったので、その続きです。今回は永安寺が真言宗寺院であることと、真言宗について取り留めなく。。。 開山堂入り口から本堂の風景 山岳修験道は国家神道に対抗するものとして、自然崇拝に八百万の神や古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げて来たともいえます。純粋に山岳修業を通して自己研鑽を目的にする者もいましたが、山の民や口減らしの対象としての側面も強く持っていました。インチキ祈祷や護符を売り歩く輩の温床にもなっていました。とはいえ、山岳修験者の数は、正式な申請修験者・はぐれ修験者合わせて江戸期には17万人以上いたとも云われています。当時の人口からすれば200~250人に一人の割合になります。その半数以上がいかがわしい行者や浮浪者ともみられていました。 明治5年(1872年)政府は廃仏毀釈の前段階として、天台宗・真言宗の一部を除く山岳修験道の禁止令を出しています。国家神道を是とする国としては、怪しげな自称修験行者の排除はもちろんですが、古代神道・仏教が混在して独自の進化を遂げた山岳修験道は危険な存在であり大きな障害でもありました。 更に段階的に一般への売薬・護符の販売禁止、一般への祈祷行為の禁止など締め付けを強くし、山岳修験者の収入源を断ち、廃仏毀釈によってとどめを刺したと云えます。石川県内では能登の石動山・天平寺の破却が典型的な事例です。 永安寺 本堂 古来から中央政府から虐げ続けられた存在、国家神道(中臣神道)に反抗し続けた歴史を持つ山岳修験道。…

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護国山 宝円寺

お客さんの自宅に伺うことになって、待ち合わせ時間に3.40分あったので時間調整に久しぶりに立ち寄ったのが宝円寺でした。あまり時間がないので、境内だけを少し歩いてきました。 10年ほど前に一度簡単にUPしていますが、合わせて観て頂けましたら幸いです。⇒ H20.11.28 宝円寺 今回は時間があまりなかったので境内をちょこっと歩くだけで、あまり前回と変わり映えしませんがご容赦ください。。新緑や紅葉の時期に本堂内からの濡れ縁から大正時代に建てられた対青軒と庭園の眺めが美しい寺院です。 曹洞宗・宝円寺の開基は天正3年(1575年)以降、前田利家が府中三人衆の一人として初めて領地を持った際に寺院を建立して父母の供養塔を置いたのが始まりとされています。一説には古くから宝円寺という寺院は古くからあったものを住職・大透圭徐(だいとうけいじょ)との出会いから自身の父母の菩提寺にしたとも云われています。その後、天正9年(1571年)利家が能登を領国とすると、七尾に圭徐を招いて同名の宝円寺を建立しています。更に天正11年(1583年)金沢入城の際にやはり圭徐を招いて千歳台(現在の兼六園蓮池の東端に同名の寺院を建立して加賀前田家の菩提寺としていました。ちなみに表門となる山門は石川門の正対にありました。寺院の南隣に前回の記事で触れた白山信仰の波着寺が置かれ祈祷所となっていました。前田利家の葬儀もこの千歳台にあった頃の宝円寺で行われ菩提寺となっています。 宝円寺が現在地に移ったのは元和9年(1620…

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養老山 大王寺

祈りの小径からの終点が粟津白山神社と大王寺になります。 さてどちらから書こうかと迷いつつ、どちらも由来や縁起を読めば、泰澄上人の開湯から始まりますし、元は一体の寺院だったと思われます。まあ、祠が先か寺院が先かという余地はありますが、地形は山裾に張り付くように敷地が重なっていますから、共存していたと思われます。 西国三十三カ所 第一番 如意輪観世音菩薩 大王寺・白山神社の中間点 泰澄上人坐像の前にあります  祈りの小径の始点で考えれば、、やはり大王寺からになると思うのでそちらから。。大王寺はのとやの脇を通って80段の石段を登ったところにあります。 大王寺の縁起を撮影して、後で転写・参考にと思ったんですが、見事なピンボケで判読不能状態。。まずは大王寺のHPからご住職のご案内を転写でお許しを。。 養老山 大王寺 HP 当寺は約1300年前の養老二年(718年)に泰澄大師(泰澄神融禅師)によって開かれた「高野山真言宗」の寺院です。 泰澄大師は、聖域として禁則の地であった霊峰白山を白山神(白山妙理大権現)に導かれて開山された高僧です。 白山の山頂で修行中の泰澄大師の元に再び白山神が十一面観世音菩薩のお姿で現れ、「この白山のふもとから山川を越えて五、六里行ったところに粟津という村があり、そこには薬師如来の慈悲による霊験あらたかな温泉がある。しかしながら、まだ、だれ一人として地中深くに隠れたその霊泉のことを知らぬ。お前は、ご苦労ではあるが山を下りて粟…

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月照寺 玉泉寺

以前ご紹介した加賀八家・前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺。金沢に多くの寺院が林立する寺町に隣接する野町にあり、周囲に多くの寺院が林立します。加賀藩三代・前田利常を養育した前田長種を祖にしています。 尾張時代を遡ればこの前田対馬守家は、加賀前田家の本家筋に当たります。本家から二・三代前に分家した荒子前田家の前田利家が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)の前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地・海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)に寄っていました。。最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となっており、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となっていました。 天正12年(1584年)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城。この落城で前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首。本城・下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家を頼って能登に単身落ち延びています。前田利家は本家の御曹司・長種を迎え入…

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実性院②

実性院は江戸期の建物ですが、内外部共に補修や改造の痕が多く観られますが、曹洞宗特有の屋根付通路の伽藍配置、本殿内の正側三方丈・広縁(大廊下)・露地(土間)は基本的な配置と景観を保っています。曹洞宗寺院は仏間・正方丈が派手なものが多いのですが、思ったよりも簡素な造りです。ただし、正方丈を仕切る柱、仏間の装飾柱は立派な木柱で側方丈、広縁から隔絶した雰囲気を感じます。 曹洞宗は臨済宗・黄檗(おうばく)宗と並ぶ禅宗の一派ですが、禅宗は武家階層に広く広まっており大名家の菩提寺に広く広がっています。密教系の天台宗・真言宗や浄土系の法華宗・浄土宗・浄土真宗の内陣・外陣に比べるとはっきりと広間が区別されたものが多いのが特徴です。特に大名家が訪れる菩提寺には、この区割りが更にはっきりしてきます。法要や葬式では座る位置は身分や序列がはっきりしますから、正側三方丈の他に広縁・露地は更にこれを助長していると云われます。 また、九谷焼の本家ともいえる大聖寺藩の菩提寺ですから、再興九谷・現代九谷の良品も展示されています。 上:実性院門前 九谷絵皿参勤道中一里塚碑 中:再興九谷 赤絵大皿 下:実性院 九谷焼コレクション 上:海部公子作 色絵水注ぎ 以前、ご紹介した洋画・陶芸家、硲伊之助(はざまいのすけ)氏の弟子に当たり、硲伊之助氏が作陶した吸坂窯を継いで、ご夫婦で製作活動を行っています。まだ嫁さんを連れて行っていないなあ。。あの美術館。 中:下:現代九谷 コーヒーカップ 古九谷が廃された原…

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実性院①

昨昨年、訪れるのが遅れて白い花を見られなかった実性院でしたが、昨年は予定が狂ってこられず、今年は大丈夫と思って伺いましたが、今度は逆に1.2週早すぎた1分咲きといった感じです。花の時季に合わせるのは本当に難しいですね。 実性院は大聖寺藩主・前田家の菩提寺になります。本堂横には御霊屋に歴代当主(初代~14代)の位牌が納められ、左手の参道から裏山に登ると山頂付近に、歴代藩主の墓所があります。大聖寺藩は加賀藩主三代・前田利常が三男・前田利治を7万石で分藩したことから誕生したものです。 大聖寺藩は廃城だった大聖寺城を本城としては使用せず、麓の大聖寺川沿いに陣屋を構えて政庁としていました。 文政4年(1821年)10万石に高直しを行い大聖寺10万石となり、陣屋持ち大名としては最大級になっています。ただ、高直しというのは、実質石高はそのままで表高を引き上げたもので、最後までこのギャップに苦しんだ藩でもありました。前回、実性院を紹介した時に大聖寺藩の歴代藩主を簡単に紹介していますので、興味のある方はどうぞ・・・ 山ノ下寺院群② 実性院(H27.11.03) 実性院の前身は宗英寺という大聖寺家臣・玉井市正が建てた寺院でした。万治3年(1660年)初代藩主・前田利治が江戸屋敷で亡くなった際に遺体を大聖寺まで運んで荼毘に付したのですが、発足間もない大聖寺藩(寛永16年(1639年))では、まだ菩提寺がなく新しい曹洞宗寺院は宗英寺(正保元年(1644年))しかなく、仮安置という体裁をとっていました…

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林西寺

白峰関連が続いています。。たった一日に廻ったのに、いったい何話書くんだと云われそうですが、笑っておつきあいください。 白山山頂の管理権問題が三番場で争われている最中、天文12年(1543年)牛首・風嵐(平泉寺後援)VS尾添(白山寺後援)の杣取権(木材の伐採・加工権)がこじれ、江戸期に入っても越前松平藩VS加賀前田家の領土係争地になっていました。明暦元年(1655年)に前田利常が尾添に杣取を命じたことから急速に悪化。両地の抗争が両藩の領地抗争に発展します。そして加賀藩が訴える形で幕府裁定に持ち込まれます。 しかし、この領地争いは前々ブログで書いたように。元は加賀領とはいえ柴田勝家時代に白山麓16か村は越前領になっており、その後一向宗討伐の流れで加賀領になっていた経緯、室堂の社屋建築の実績なども牛首・風祭にあり、尾口・尾添は別にして、白峰・西谷は越前平泉寺に親密感を持っていたようです。これに加えて親藩VS外様では加賀藩は不利な立場と言えました。 ちなみに白山麓16か村の内訳は牛首・風嵐(かざらし)・島(桑島)・下田原の白峰四村、深瀬(ふかぜ)・鴇ヶ谷(とがたに)・釜谷(かまたに)・五味島・二口・女原(おなはら)・瀬戸の尾口七村、大日川上流部の新保・須納谷(すのだに)・丸山・杖・小原(おはら)の現小松市の西谷五村。今訪れても山深い山村で多くが過疎やダムの影響で無人村ですが、瀬戸・女原・二口の様に伝統的行事が受け継がれ集落が残る村もあります。 ところが歴史の機微と云いますか、抗争が激化…

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倶利伽羅 山頂本堂

長々と倶利伽羅峠の周辺を書いてきましたが、最後は倶利伽羅不動寺・山頂本堂です。 一番最後にしたのは、前に書きましたが撮ったはずの奥の院が消えていたせい。。5/26に改めて撮り直してきたので。。 倶利伽羅不動寺の入り口は二つありまして、倶利伽羅トンネルの手前・九折(つづらお)口から右折して天田峠越えで登って、倶利伽羅古戦場展望台近くから長い階段を登る倶利伽羅不動寺の表参道。国道がバイパス化される前は、ここがメインの登山道でしたから、僕の子供時代はここからがほとんどでした。途中には棚田の風景も見られる道です。急激な坂道でカーブだらけ、帰り道は要注意。倶利伽羅トンネルが開通する以前はこの道が富山に抜ける唯一の道路でした。下り坂で崖に落ちる車の多い難所でした。 もう一つは、手向神社で紹介しましたが、倶利伽羅駅の東口から出た坂戸口から登る手向神社の表参道から入る道。以前はとんでもない狭い道でしたが、現在は整備されて、桜並木が見られるのでこちらが主なメインの道になっています。 倶利伽羅不動尊に参拝するなら、まず最初に訪れて欲しい場所があります。手向神社の参道前駐車場の奥に、それはあります。この駐車場、そもそもが舗装処理されていないので、みなさん入り口付近に停めてしまうので、ほとんどの人が気づかずに山頂本堂に向かうか帰ってしまうんですね。 西之坊鳳凰堂のブログにも書きましたが、倶利伽羅不動尊の起源は。。倶利伽羅不動は縁起によれば、善無畏三蔵がこの地の不動池で感得して彫った彫像を養老2年(7…

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倶利伽羅(くりから)不動寺 西之坊鳳凰殿

一応、左腕が完治して仕事復帰した嫁さんですが、あんまり外に行かなかったおかげか、今年はいつもより花粉症も重症ではなかったようです。この日久しぶりの完全休日が重なった二人^^ 久しぶりに二人でお花見に行こうということで、倶利伽羅峠の八重桜に行こうということに、、、今年は満開が遅れて4月末に満開情報が。。ところが、倶利伽羅に近づくと道端の八重桜はほとんどが散っているじゃないなですか。。月頭の風雨で散ってしまったようです。道端にはピンクの花が散っています。八重桜は花が散ると、葉も赤茶けますから鑑賞には向きませんねえ。。ということで、急遽の予定変更で倶利伽羅峠の手前の道の駅を右折して、倶利伽羅不動寺の西之坊鳳凰殿に躑躅を観に行くことに、うまくしたら牡丹も観れるかもと。。 倶利伽羅峠の八重桜はだいぶ古くなりますが、以前簡単にアップしています                2012.04.30 倶利伽羅山 八重桜                2011.5.4 倶利伽羅山 八重桜 倶利伽羅不動は縁起によれば、善無畏三蔵がこの地の不動池で感得して彫った彫像を養老2年(718年)元正天皇の奉安で開基されたと云われています。弘仁3年(812年)、弘法大師(空海)が全国巡礼の際に立ち寄り、彫像に感激して同体の不動明王像を作って前立てとして、善無畏の彫像を秘仏として封印。長楽寺を開創したのが始まりとされています。 善無畏(ぜんむい)三蔵は、真言宗では真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史…

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境関所③ 境神社~護国寺

境関所跡があった境小学校跡のグラウンドの東端参道を進んで、急な長い階段を登った裏山の中腹にあるのが境神社になります。拝殿前には境関所跡を広く見渡せる好眺望の展望台があります。 展望台になるところに枝を広げた木が邪魔をしていますが、春には美しい花を見せてくれる桜の大木だそうです。 社歴碑がないので詳しいことが解りませんが、江戸時代の境関所の絵図面にはこの神社は描かれていません。 このことから、江戸末期から明治期の創建ではないかと思われます。ただ高台にあるために海風を受けることから拝殿は風化が窺われ、古い造りのようにも見えますが、拝殿規模が大きくやはり明治以降の建立だと思われます。予想ですが、お隣の真言宗仁王山・護国寺から神仏分離で独立したのではないかと思います。 拝殿右横には海辺の町に多く見られますが、大正11年(1922年)建立の金毘羅大神の石塔が鳥居と共に建てられています。ちなみに、金毘羅(こんぴら)は水運の神様として認知されることが多く、琴平の金刀比羅宮(ことひらぐう)は総本宮として知られています。また薬師如来を祀る寺院では、如来を守る十二神将の筆頭・宮比羅(くびら)と同神としても知られています。 同じ敷地越しで、お隣の護国寺に行けますが、改めて表参道から登り直してみました。 小さな軽自動車がやっとな参道沿いには、小川に沿って地蔵尊が在ったり、綺麗な花を見れたり、山頂に近づくと無骨ですが…

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滝寺不動 吉祥寺跡

上越のヒーロー・上杉謙信は、自身を毘沙門天の転生・化身として深く信仰していたことで知られています。主城・春日山城の山頂に護摩堂や毘沙門堂を建てて、平素・出陣前にも籠っていたと云われています。 日本では毘沙門天は、天部の御法神・四天王神の一神、北部を守護する多聞天として知られています。つまり、四天王の一神として呼ぶときは多聞天、独尊とした時には毘沙門天と呼ばれています。夜叉・羅刹を率いるところから夜叉王・羅刹王と荒ぶる神として呼ばれるときもあります。 また、神仏混交では恵比寿の本地仏にされますが、七福神では別々になっていますね。日本では甲冑姿で現わされるので勝負事や守護神の要素が強調されていますが、元々の発祥とされるインドではクベーラ、ヴァイシュラヴァナ(神の息子の意)と呼ばれ北の守護神ですが、武装はなく財宝の神とされています。中国を経由して日本に伝わるまでに財宝神としての恵比寿が分離して北面の守護神・多聞天・毘沙門天が強調されたと思われます。 上杉謙信が深く信仰し春日山城に建てて籠ったとされる毘沙門堂、堂内に安置して拝んだとされる毘沙門天像は泥足毘沙門天と呼ばれていました。謙信の死後は遺骸を収めた甕と共に安置され、上杉家が米沢に移った後も江戸期を通じて謙信の遺骸の甕と善光寺如来像と共に城内の謙信霊柩(御堂)に収められていました。明治維新後、米沢城の破却で現在の上杉家廟所に廟所を移された際に上杉謙信の位階を上げて神式に変えたために、泥足毘沙門天像は上杉家菩提寺の法音寺に安置されてい…

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玉龍寺 (前田対馬守家菩提寺・墓所)

加賀藩では人持組頭として1万石以上の所領を受け、家老として藩政に常時参画する資格を持つ一門衆・重臣の家系を別名で加賀八家と呼んでいました。他藩の年寄役に当りますが、所領を見ても解るように、外様陪臣とはいえ小大名以上で幕府でも別格扱いを受けており、明治には全家が男爵号を受けています。加賀八家の成立時期ははっきりしませんが、三代・利常から五代・綱紀にかけて成立して行ったようです 軍制面では、約68家と云われる人持組(上士身分、1000石以上)からなる7組をそれぞれの組頭(軍団長)として率い、また藩主不在時や緊急時の金沢城代、平時・緊急時の小松城代として努めています。行政面では幕府交渉、藩内人事、財政管理、藩校運営などがありますが、月番で行政担当を努め、残りの組頭(年寄)が加判と呼ばれ承認・非承認の判断役となり、重要事項の全員連署で決定していました。つまり、加賀八家の八人が加賀藩の最高首脳部になります。 加賀八家をあげると(所領は時期で分家・返上や相続・恩賞・昇給で変動があります。) 本多家   ・・・筆頭家老5万石 家祖・本多政重 徳川家康の最側近で某臣と呼ばれた本多正信の次男         本多政重の波瀾万丈の人生は以前(松風閣庭園)で書いていますが、紆余曲折(七家を渡り歩いています)の末で前田利常に2万石で帰参、対幕府交渉に当り、特に幕府からの越中国返上の強要を撤回させた功績で3万石を加増されてます。また利常・光高・綱紀と三代の藩主の補佐をしています。 長家…

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黒壁山薬王寺 九萬坊権現

ずいぶん前になりますが、金沢に伝わる天狗伝説を紹介しています。その天狗というのが九萬坊大権現。額団地の頂上にある満願寺山にある九萬坊権現が著名です。 他にも前田利家の墓守寺・桃雲寺。三代藩主・前田利常の正室・珠姫の菩提寺・天徳院。他にも利家の六女・菊姫の肖像画を伝える寺町の西方寺など、前田家所縁の寺院に伝えるものが多くあります。その主人公が九萬坊大権現という存在になります。 九萬坊には幾つか逸話があるのですが加賀藩絡みでは、九萬坊は金沢城の本丸の森に住んで、辺り一帯に勢力を誇っていたと云われています。前田利家が金沢に入城した際に、九萬坊を追い出して金沢でも山間地の一つ黒壁山の奥地に封じ込めたと云われています。 九萬坊を追い出した利家は跡地を切り開いて、本丸御殿・天守台を築いたと云われています。ところが、九萬坊の怨念か、主には度重なる落雷によって天守・御殿は幾度も焼け落ちています。金沢城公園に訪れたことがある人には解ると思いますが、現在の金沢城の本丸は広い城域の中でも南面の高台で城内を見渡せる好位置に在りながら、何にもない場所で観光客の人もあまり滞留しない裏寂しい場所になっています。 五層の天守が慶長7年(1602年)慶長の大火で焼け落ち、跡地に三階櫓が天守替わりに建てられたのですが、寛永8年(1631年)寛永の大火で三階櫓・殿様屋敷が焼失、ついにこの時で本丸が放置されて二の丸に御殿が移されています。以降、本丸には目立った建物は建てられず庭園となっていた時期もあったようですが、江戸期…

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戸室山 医王山寺~

暖冬だなあ、もう雪は無しかなあと思っていた年初め、ところが10日過ぎくらいから急激に寒くなって雪が降り始めました。その降り始めの12日、でも市街はチラつくくらいで積雪もなかったんですが、仕事で金沢大学の角間キャンパスに行ったんですが、案外に早く終了しちゃって手持無沙汰の時間が。。 というわけで、足を延ばしてキゴ山の方に行って観ることに。。 さて山の方に向かってみると、積雪はたいしたことはないけれど、さすがに寒いと思っていたら。。 昼過ぎだというのに山の木々には雪の華や氷樹の華が咲いてるじゃないですか。。 金沢中心街から10キロ弱と車で30分ほどで行けることと、キゴ山には自然観察やキャンプなどの屋内外施設やプラネタリウム(銀河の里キゴ山)など子供に人気のある場所で、家族連れが多く集まってきます。 冬季間もプラネタリウムはもちろんですが、スキー場もあって一年を通して人気がある場所です。 今冬は雪が降らなくて、スキー場や雪まつりが出来なくて心配されていましたが、この日の後からの一気の積雪で解消されたようです。よかったよかった。 キゴ山(標高546m)の斜面を利用する医王山スキー場の向かいにあるのが戸室山(548m)になります。 戸室山と言えば戸室石。金沢城の石垣の95%がこの石を使用しており、重要神社の石垣・鳥居・狛犬、上級武家屋敷の塀石垣基礎、石橋の用材、用水道の導管などに使用されていた加賀を代表する名石です。金沢城建築時はこの戸室山を中心にキゴ山を含む半径1.5キ…

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山ノ下寺院群③ 正覚寺・宗壽寺・本光寺

全昌寺に入って墓地を抜けて、奥の細道で芭蕉と曽良が風の音で明け方まで眠れなかったという裏山を登って抜けて来たのですが、そのおかげで全昌寺の本堂内や展示室をすっかり見逃してしまった。。 裏山も古くからの墓地になっており、江戸初期のものが多くあり、興味深かったのですが。。抜けてみるとまたまた多くの墓が並ぶ墓地に出て最後には寺院の裏庭に抜けていました。 当初は全昌寺の裏庭だと思っていたんですが、表に戻るとお隣の正覚寺(しょうがくじ)と宗壽寺(そうじゅじ)の墓地を抜けて来てしまったようです。 今更、表の受付に行くのもなんだし、また長い道のりの墓地を歩くのも嫌だったので、そのまま近接している寺院群を駆け足で回ってきました。 山ノ下寺院群の各寺院には、いろいろ特色があって興味をそそられたので、三か寺ですが簡単にご紹介します。 まずは全昌寺のお隣の正覚寺(しょうがくじ)。浄土宗の寺院で正式名は「幽谷山正覚寺」。 天正元年(1572年)に、現在の大聖寺法華坊町に庵が結ばれたのが始まりと云われ、元和年間(1615~1624年)に現在地に移されたと云われています。 この正覚寺には「履行(くつばき)阿弥陀如来像」という変わった仏像があります。 平家物語の巻一に出てくる「祇王」の中の仏御前に所縁があるとされています。平家物語では祇王・祇女姉妹、姉妹の母親・刀自と、四人で出家して嵯峨野の祇王寺の庵で生涯を過ごしたとされています。 しかし、祇王寺には祇王・祇女・刀自の墓はありますが、仏御前の墓は…

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山ノ下寺院群② 実性院

前回ご紹介した山ノ下寺院群の一番南端に在るのが実性院になります。 この実性院が大聖寺藩主の歴代の菩提寺になります。実性院は前の庭園に萩の花が咲くことでも知られています。9月初旬には白い花が咲き乱れて美しい姿を見せてくれます。 残念ながら訪れたのが10月で遅れてしまったので花は観られずでした。来年は9月にこちらに来る予定なんで、忘れずに寄るつもりです。今回は駆け足ということもありましたが、けっこう撮ったはずの画像が抜け落ちているんで、リベンジも含めて。。。。というわけで、画像は少ないですが、ご容赦ください。。 寛永16年(1639年)加賀藩3代藩主・前田利常は隠居して相続分けの形で、次男・利次に富山10万石、三男・前田利治に7万石を分藩しています。加賀藩の東西を扼するもので支藩としての防衛拠点を造るのが主眼となっていました。前田利治は21歳と若く、隣の小松20万石には隠居領として父・利常が入っており、当初は利常が利治を後見指導する腹積もりだったようです。藩主が若く、菩提寺や墓所は当然ながら当初は存在しておらず準備もされていませんでした。 正保2年(1645年)に加賀藩主・前田光高が急死したため、3歳の綱紀の養育と後見に復帰していた前田利常が万治元年(1658年)に亡くなり小松は加賀藩領に復しましたが、その翌々年に大聖寺藩初代の前田利治が江戸屋敷で43歳の若さで亡くなっています。利治には出羽米沢藩上杉家から徳姫が正妻として入っていましたが子供がなく、異母弟・利明(22歳)が前年に養子となっ…

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山ノ下寺院群① 全昌寺

寛永16年(1639年)加賀藩から分藩されて大聖寺藩が誕生した際に、藩祖・前田利治に従って多くの家臣が加賀藩から移籍したのですが、同時に寺院もこの際に移されています。 これらの寺院の多くは、大聖寺の南端の山裾に集められ山ノ下寺院群と呼ばれていますが、南端の大聖寺藩主の菩提寺・実性院から神明宮までの約1キロ弱の山裾に沿って各宗派の寺院が並んでいます。その数は大きい物で7寺院・1神社。宗派がバラバラなのが大きな特徴です。 南から順番に云うと。。。     ☆実性院・・・曹洞宗・大聖寺藩主菩提寺   ☆久法寺・・・法華宗   ☆蓮光寺・・・日蓮宗     ☆全昌寺・・・曹洞宗・山口宗永菩提寺     ☆正覚寺・・・浄土宗   ☆宗寿寺・・・日蓮宗     ☆本光寺・・・法華宗                 ☆神明宮・・・藩政期は真言宗・慈光院        大聖寺藩の創立目的の一つには、徳川親藩で越前松平家の福井藩に対する最前線防波堤の役目を担っていました。このため旧来の敵対勢力でまだまだ監視体制に在った浄土真宗の寺院だけは除かれていました。 山ノ下寺院群の中に全昌寺という寺院があります。正式には「熊谷山・全昌寺」と云い曹洞宗の寺院です。 天正4年(1576年)に創建された曹洞宗寺院ですが、元は山代(加賀市山代温泉)に在ったと云われています。慶長2年(1598年)に大聖寺城主となった山口宗永の信仰を受けて大聖寺に移されたと伝わっています。この為、山口宗永・修弘親子の菩提寺…

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瓶割坂③ 雨宝院

前回の神明宮の境内を遊び場にしていた室生犀星が幼少・少年期を過ごしたのが「雨宝院」です。正式名は「千日山 雨宝院」。真言宗の寺院です。 創建は天平7年(737年)。北陸の寺社仏閣・神社には必ずといって良いくらい顔や名前が出てくる泰澄上人。この雨宝院も縁起によれば、泰澄が大日如来を本尊として秘法道場として精舎を建てたのが始まりとされています。 中世になって神仏習合が主流になると、大日如来=天照大神となって天照の十六歳像が本尊に加えられています。現在もこの像は本堂内に安置されており、院内を見学すると観られます。 同じ天照大神を信奉する神明宮とは親交が深かったと云われ、室生犀星が境内を遊び場に出来たのも寺院と神社の親交が深かったためではないかと云われています。 長い年月に荒廃衰退していたようですが、安土桃山期の文禄2年(1593年)、大和出身の修験僧・雄勢が伊勢神宮での千日参籠・修業を修めてこの地に来訪、再興を果たして現在に至っているそうです。 雄勢は参籠末期に天啓を受けてこの地にやって来たそうですが、その際に金毘羅十一面観音、三種の神器、白狐二匹を供奉して来たと云われ、現在にも伝えられ本堂内に安置されています。 現在でも千日回峰や千日参籠の達成はニュースになるほどの快挙ですが、当時は尚更に成就者には尊敬と崇敬が集められていました。雄勢も地元から「千日和尚」と呼ばれ尊敬と崇敬を集めたようです。雨宝院の山号もこの千日和尚から来ているそうですが、雨宝院のある千日町もこの名から来て…

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瓶割坂(かめわりざか)① 大蓮寺(だいれんじ)

国道157号線を野町広小路から犀川大橋に向かうなだらかな坂道があります。この坂は別名「瓶割り坂」と云います。古くから北国街道の主要道で、尾山(金沢市街)に入る入口になっていたようです。 瓶割坂の名の由来ですが、奥州逃避行中の源義経一向がこの坂に差し掛かった際、同行していた義経の妻が産気づき、慌てた一行が瓶に入れていた衣服を取り出そうとして、大事な瓶を割ってしまった所から来ていると云われています。 余談ですが30年近く前、転勤で新潟に移った際、国道8号線沿いの米山IC近くの峠越えの道路沿い(たしか米山トンネルを抜けてすぐだったかな)にある胞姫(よなひめ)神社に立ち寄ったんですが、地元では安産の神様として信心されているんですが、ここにも同じ逸話が伝わっていて驚いた記憶があります。ちなみに柏崎の上輪の峠の坂道は漢字違いの亀割坂と云うんだそうです。 この瓶割坂は幹線道路の一部で観光客も犀川沿いに行きますし、寺町や片町に向かうために通り過ぎる人が多いんですが、江戸期から重要視された寺社があります。入口が狭くて通り過ぎることが多いんですが、一度くらいは中に入ってほしい寺と神社があります。それが「大蓮寺」「神明宮」「雨宝院」 と。云うわけで今回は3部作になります。たぶん。。。。 まずは「大蓮寺」 「宝池山 大蓮寺」は浄土宗の寺院で、開山は天正11年(1583年)に前田利家の金沢入城に伴って、荒子七人衆の一人・小塚淡路守秀正が七尾の西光寺の広誉怒白上人を勧請して創建したのが始まりです。…

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宝乗寺

宝乗寺のある三谷地区は金沢から山越えで越中・福光に抜けられる国道304号線の県境近くの山間になります。金沢から富山方向に走って、古屋谷町の交差点を右折すると、これまた峠越えに医王ダムから流れる森下川伝いに、以前ご紹介した二俣本泉寺に抜けられるのですが(県道211号)。。右折してしばらく行くと山中に入るような車町という住宅団地があります。そして住宅街の一番奥に宝乗寺の駐車場があります。 211号沿いにも入口はあるんですが、長い階段をひたすら登ることになるし、そもそも駐車スペースはあるけど狭く、水汲みの人に邪魔になってしまいます。登り口に七面清水(しちめんしょうず)という洗水と清水があり、けっこう車で水を求める人が多いようです。 正式名は明珍山・宝乗寺。日蓮宗の寺院です。 創建は当寺縁起によれば、真言宗の寺院として創建されたとされます。真言密教に関連する真言宗は北陸には多く観られましたが、そもそもこの辺りは医王山系に当たり、修験者が多く存在したことが覗えます。 永仁2年(1294年)、日蓮宗の北陸本山・妙成寺を開基した日像が京都布教の途次に立ち寄り、法論の末に日蓮宗に転宗させています。日像の足跡は北陸に多く残されていますが、七尾の石動山・天平寺でやはり法論を持ちかけて排斥されていますし、この後京都でも延暦寺・東寺から排斥を受けていますから、その法論の持ちかけはけっこう過激だったようです。ともあれ、1.2度京都から追放処分を受けていますが、赦免後は後醍醐天皇の保護の元に京都に妙顕寺を建立、公…

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桃雲寺(とううんじ) 前田利家の墓守寺

金沢市の野田山は加賀藩主・前田家墓所を頂点にして、総面積43万㎡以上(東京ドーム敷地面積の10倍以上)・総墳墓数1万~2万と国内でも最大級の墓地となっています。 野田山墓地の始まりは、天正15年(1587年)前田利家の兄・利久を埋葬したのが始まりと云われていますが、やはり前田利家を埋葬したのが始まりと云って良いと思われます。その後、江戸期を通じて家臣団、武家、戦没者、一般民衆と裾野を広げ、現在の一大集合墓地となっています。現在も無縁墓の整理整備、新墓地の整備でさらに巨大化して行っています。 前田利家を始めとする前田家墓所の墓守であり、江戸期を通じて野田山墓地全体のの管理を行っていたのが、この桃雲寺(とううんじ)です。巨大な墓域の為、野田村の住民の多くが墓守となり現在も存在しますが、その一括管理を行ったのが桃雲寺でした。 慶長4年(1599年)3月に前田利家は京都で亡くなっていますが、跡を継いだ利長は金沢の宝円寺(現金沢市宝町)で葬儀を行い菩提寺としています。また利家を野田山の現在地に埋葬しています。 翌年の一周忌に併せて野田山の麓に寺を創建して、利家の墓守としての菩提寺を創建します。それが桃雲寺であり、創建時は「野田宝円寺」と呼ばれていたようです。 後に前田利家の戒名から名をとって「高徳山 桃雲寺」と改めています。その時期は定かではありませんが、三代藩主・利常が就任して、江戸屋敷に居た利家の正室・芳春院(於松)と利常の母・寿福院(千代、千代保)が交代して、芳春院が金沢に戻り野…

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西尾十二ヶ滝 ~ 松岡寺跡

小松市の東方の大倉岳高原スキー場に向かう国道416号線を走ると、西尾の里の入り口の県道167号線の手前、郷谷川の流れの途中に「十二ヶ滝」はあります。 小松市街を流れる梯川(かけはしがわ、下流では安宅川ともいいます。)がありますが、郷谷川はこの梯川の上流域の支流の一つになり、さらに上流で西俣川と三つに分かれ、鳥越と大倉岳に更に枝分かれしますが大日山・大倉岳山系を源にしています。 大倉岳の麓には昭和46年(1971年)まで大規模鉱山の尾小屋鉱山があるように、この辺りには固い岩盤があちこちに存在します。西尾の里にも多くの奇岩や岩盤の滝が多くあります。町興しに西尾八景(十二ヶ滝.・象岩.・観音山・烏帽子岩・鱒留の滝.・鷹落山・大滝.・大倉岳)が制定されていますが、岩盤で構成されたものが多くあります。大滝と鷹落山以外は観て来ていますから、一部ですが。。。。残りは機会が在ったらまた。。(2012.09.01撮影) 郷谷川は流れは緩やかですが水量が豊富な川です。明治以降に尾小屋の銅山からの廃水のために汚染問題がありましたが、長年の地元・小松市の努力で改善が施され、現在はまったくそういうことは感じさせない清い流れと田園・森林風景が豊かな世界になっています。 ちなみに閉山した尾小屋鉱山には鉱山博物館と尾小屋マインロードと呼ばれる鉱山通路を回れるようになっています。山奥深いですが、なかなか面白い場所です。 小松市街から尾小屋に向かう国道416号を進むと、加賀三カ寺の一つ・松岡寺の前身の庵が…

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