来正寺 旧小松城・鰻(ウナギ)橋門
小松城古絵図 寛永16年(1639年)前田利常の大改修以前は、現本丸部分のみだったと云われています。丹羽長重は現二の丸に河川の水を引き入れて沼地化したと云われています。前田利常は曲輪となる築島と三の丸を増設し堀を張り巡らした水浮城として城郭を広げています。在城20年の間に様々な工夫や施設を創出しています。旧本丸部全体を使用した本丸御殿、霞島にお花畑と云われる花壇庭園・葭島御殿など様々な工夫を凝らしていたようです。地図上の養福院は初期に小松城鬼門の守護神とし祠堂が置かれており、後年に直線上に改めて梯天満宮(小松天満宮)が置かれました。
小松城の始まりは天正4年(1576年)に加賀一向宗の武将・若林長門守が築城と伝わっています。しかし明智軍記の逸話の中に明智光秀が朝倉義景に仕えていた時代、義景から北陸での要害の地は?と尋ねられて光秀が「加賀では小松あたり」。意外に古くから存在していたのかもしれません。加越能軍記集の中の小松軍記でも丹羽長重VS前田利長を例に挙げて「北陸無双の城郭」としています。
小松城・浅井畷戦況天正7年(1579年)に柴田勝家の侵攻後は村上義明(越後村上藩祖)が入り小松城を整備、慶長3年(1598年)に丹羽長重が入城していました。慶長5年(1600年)関ケ原で東軍に加担した前田利長3万弱が丹羽長重3000の小松城を包囲攻撃しています。当時は、江戸期の本丸のみの城と見られていますが、丹羽長重は現在の二の丸に川水を引き入れ沼地として攻城軍を鉄砲で狙い撃ちしたと云われています。結局、犠…
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