河合谷 大滝

お盆の時季となって、我が家も復活した嫁さんと僕の休日が合うということで、早めにお墓参りに行くことに。。 早くいくということは、他の家族より早いということで、墓掃除は今回は僕たちのお仕事に。。 お盆と言えば、新盆と旧盆がありますが、子供の頃不思議に思っていたのが、石川だと金沢市は新盆の7/15を中心にしていますが、その他は8/15を中心にした旧盆になっています。なんで金沢だけ7月なんだろうと思っていました。まあ、その後も気にはなっても何にも考えない僕は、前職ではお盆休みなど関係なく逆に忙しくお仕事をしていたので、気にもしていませんでした。ところが今の仕事になるとお盆は意外に暇になっているんで、ふと気になって調べたことがありました。 江戸期以前までは、ご存知のように太陰暦を採用していました。ただ、日本では純粋なイスラム世界で使用する月の運行のみで数える純粋なものではなくて、太陽の運行にも合わせた閏月を入れる正確には太陰太陽暦と呼ばれるものを飛鳥時代(554年)に導入して以来、中国の暦を和暦として使い続けていました。江戸初期にズレを修正する日本独自の貞享暦・宝暦暦・寛政暦・天保暦と改変を加えながら運用していたわけです。今でもたまに見ることがあると思いますが、伊勢神宮が発行している神宮暦の略本などは(子供の頃はなんのこっちゃとみるだけでしたが。。)、この天保歴に沿った作製ですが、修正を加えないので、真実とはあてにはならないのですが。。 旧暦(太陰太陽暦)の良い所は、お月さまを見ればだい…

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倶利伽羅 山頂本堂

長々と倶利伽羅峠の周辺を書いてきましたが、最後は倶利伽羅不動寺・山頂本堂です。 一番最後にしたのは、前に書きましたが撮ったはずの奥の院が消えていたせい。。5/26に改めて撮り直してきたので。。 倶利伽羅不動寺の入り口は二つありまして、倶利伽羅トンネルの手前・九折(つづらお)口から右折して天田峠越えで登って、倶利伽羅古戦場展望台近くから長い階段を登る倶利伽羅不動寺の表参道。国道がバイパス化される前は、ここがメインの登山道でしたから、僕の子供時代はここからがほとんどでした。途中には棚田の風景も見られる道です。急激な坂道でカーブだらけ、帰り道は要注意。倶利伽羅トンネルが開通する以前はこの道が富山に抜ける唯一の道路でした。下り坂で崖に落ちる車の多い難所でした。 もう一つは、手向神社で紹介しましたが、倶利伽羅駅の東口から出た坂戸口から登る手向神社の表参道から入る道。以前はとんでもない狭い道でしたが、現在は整備されて、桜並木が見られるのでこちらが主なメインの道になっています。 倶利伽羅不動尊に参拝するなら、まず最初に訪れて欲しい場所があります。手向神社の参道前駐車場の奥に、それはあります。この駐車場、そもそもが舗装処理されていないので、みなさん入り口付近に停めてしまうので、ほとんどの人が気づかずに山頂本堂に向かうか帰ってしまうんですね。 西之坊鳳凰堂のブログにも書きましたが、倶利伽羅不動尊の起源は。。倶利伽羅不動は縁起によれば、善無畏三蔵がこの地の不動池で感得して彫った彫像を養老2年(7…

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倶利伽羅峠 手向神社 倶利伽羅公園①

前々回の記事では、倶利伽羅不動尊の西之坊・鳳凰殿をご紹介しました。 僕の子供時代と云えば、山頂本堂に初詣でに行くのが、当たり前になっていました。倶利伽羅駅から反対方向に父方の本家があって、年始がてら伺って、軽トラで乗せてって貰うか、坂戸口や九折(つづらお)から、てくてくと登って行ったのを覚えています。その頃は、そんなにきつい印象の記憶がなかったんですが、改めて車で登ると結構どちらの道も険しく厳しい道のりです。若かったのかなあ。そういえば、小中学高校の頃、歩くことには全然苦にしてなかったなあ。。今はちょっとの坂道でぜーぜー 当時は裏駐車場から参拝してたんで、ほとんど手向神社の印象はなかったんですが、大人になって自分の運転で登るとなると坂戸口からの距離が長く感じるけれど、子供の頃は観ることのなかった場所を再確認することが出来て、思わぬ発見や位置関係が解るようになって、この辺りに来ることを楽しみにするようになっています。 実は、山頂本堂に行って奥の院の撮影をしたはずなのに消えておりまして、また行ったときに奥の院を撮影して記事を書こうと思っていました。ところがそう思っている時に限って機会がないんですね。で、奥の院はまたの機会ということで。。倶利伽羅不動寺を書き始めて方針転換。。僕が、倶利伽羅では倶利伽羅不動明王以上に重要と感じる神様について、先に書くことに。。 鳳凰殿のブログで書いたように、倶利伽羅不動尊は長楽寺としての歴史は長いのですが、江戸末期の門前店の火災の延焼で荒廃した後は、再…

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倶利伽羅(くりから)不動寺 西之坊鳳凰殿

一応、左腕が完治して仕事復帰した嫁さんですが、あんまり外に行かなかったおかげか、今年はいつもより花粉症も重症ではなかったようです。この日久しぶりの完全休日が重なった二人^^ 久しぶりに二人でお花見に行こうということで、倶利伽羅峠の八重桜に行こうということに、、、今年は満開が遅れて4月末に満開情報が。。ところが、倶利伽羅に近づくと道端の八重桜はほとんどが散っているじゃないなですか。。月頭の風雨で散ってしまったようです。道端にはピンクの花が散っています。八重桜は花が散ると、葉も赤茶けますから鑑賞には向きませんねえ。。ということで、急遽の予定変更で倶利伽羅峠の手前の道の駅を右折して、倶利伽羅不動寺の西之坊鳳凰殿に躑躅を観に行くことに、うまくしたら牡丹も観れるかもと。。 倶利伽羅峠の八重桜はだいぶ古くなりますが、以前簡単にアップしています                2012.04.30 倶利伽羅山 八重桜                2011.5.4 倶利伽羅山 八重桜 倶利伽羅不動は縁起によれば、善無畏三蔵がこの地の不動池で感得して彫った彫像を養老2年(718年)元正天皇の奉安で開基されたと云われています。弘仁3年(812年)、弘法大師(空海)が全国巡礼の際に立ち寄り、彫像に感激して同体の不動明王像を作って前立てとして、善無畏の彫像を秘仏として封印。長楽寺を開創したのが始まりとされています。 善無畏(ぜんむい)三蔵は、真言宗では真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史…

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新幹線の見える丘公園

先週、金沢市街・北部に行ったついでに、少し足を延ばして津幡まで行ってきました。 土曜で予定も多くなかったんで、少し気分転換でドライブがてらといった感じ。。 3/14に北陸新幹線が開業して、金沢市街は大賑わい。。新幹線だけでなく県外ナンバーも目立って、土日は渋滞も多くて金沢市街は避けていたんですが、そういう時に限って行くことになったりして。。。もうたいへん 新幹線を撮影しようと、あちこちのスポットにはカメラをぶら下げたり、三脚担いだ老若男女も良く見かけます。 そんな、撮影スポットの一つで人気があるのが、津幡町が造ったその名もずばり「新幹線の見える丘公園」 TV番組やニュースでは何度も放映されていましたが、今一つ場所が解らなかったんですが、そこは地元出身者の僕。映像風景で見当をつけて行ってみることに、やっぱりちょっとしたミーハー気分ですね 旧国道8号線から石川高専を過ぎて、津幡高校側の陸橋側の交差点を過ぎて右折した道路沿いの旭山工業団地の入り口にありました。この道は国道359号線の上平や朝日といった内山峠に抜ける道です。 ちなみに上平や朝日は金沢市になりますが、僕の中学時代は交通・環境の関係で中学生は津幡中学に通っていました。当時も何人か同級生がいました。当時は舗装も…

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鳥越の雪 ~ 秋浜海岸の夕陽

すっかりご無沙汰しています 毎年のことながら、この時期は仕事の繁忙期で只でさえ、更新や訪問が滞ってしまいます 今年は更に仕事の商品改定や帳票や支払方法の変更で、繁忙に輪を掛けて苦しんでいます 更に、年末にひいた咳風邪が治らず、、、、まあ治りかけに嫁さんがインフルになって、、、うつされて悪化したんですが、、、幸い、僕のはインフルではなく風邪だったみたい、、、でもしゃべってると咳が止まらない。。 ついでに時間のある時に記事UPをしようとしたら、PCの不調か、、、途中で消えちゃったり、、、 マア、二重どころか四重苦。。。。と云ったところ。。。 4月半ば過ぎには完全復帰予定(大丈夫かなあ。。) 忙しいとは言っても、サボろうと思えばサボれる営業仕事。。写真だけは溜まっています。まだ、前のも残っているのに。。 ちまたでは、桜の開花や満開情報が聞こえてきます。僕の近所でも早咲きの桜が観られたりします。春ももうすぐ本番。スタッドレス…

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津幡城址 為広塚 清水八幡神社

金沢市の北隣にある津幡町。現在は金沢市の衛星都市的な存在です。近年になって国道8号線・159号線のバイパス化で、主幹線道路が変わって西側を回るようになり、旧国道から商業地や住宅地が西方や北方の郊外に移り、元々の中央銀座商店街や津幡宿があったおやど商店街も少し寂しくなってきました。 この中央銀座商店街とおやど商店街が交差する四ツ角という交差点を北に真直ぐ行って、急な坂道を登った大西山と呼ばれた丘陵に津幡城がありました。城址の痕跡はほとんど見られませんが城址碑がある高台からは津幡の街並みがきれいに見渡せる場所です。 この丘陵には平成23年3月まで津幡小学校の校舎がありました。現在は新校舎が完成して東の麓に移り、現在は小学校グラウンドと記念庭園となっています。 何を隠そうこの津幡小学校は僕の母校になります。家庭的にはその後の人生を左右する良いことも悪いこともありました。校舎はなくなりましたが、それでも懐かしい母校に変わりはありません。 僕の小学2年の時に旧校舎が建ったのですが、県内初の4階建て鉄筋コンクリート造・床総アスタイル張りという近代型校舎でした。当然ながら田舎者だらけの子供達で、初めてのアスタイルにツルツル滑り、掃除には今まで見たこともなかったモップにワックスで大騒ぎになっていました。掃除のときはアステアやジーンケリー、ポパイとかの感じで遊んどりました^^ 旧校舎が新築された際には大幅な改修工事が施され、城の痕跡はほぼ無くなってしまいましたが、地中から人…

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峨山禅師生誕地 棚田の風景

前回の日記は3部作になってしまいましたが、その中に峨山禅師のことを書きました。峨山禅師は永光寺(ようこうじ)の南の山岳地帯の宝達山の南麓の羽咋郡瓜生田(現在の河北郡津幡町瓜生)で生まれています。 ちなみに能登は山が意外に多いのですが、高山と呼ばれるような山はなく、この宝達山が能登で一番高い山になります(637.1メートル)。ただ丘陵面積が広く、県内の宝達志水町・かほく市・津幡町さらに富山の氷見市・高岡市に跨っています。名前の由来は江戸期に金脈が出たからと聞いたことがありますが、詳細は不明。 昨年のお盆に足を延ばして、この瓜生まで来て峨山禅師の生誕碑も観てきていたので、この機会に改めてアップすることにしました。実はその時は棚田の風景を観に来ていたんで、峨山禅師はついでだったもんで、あまり写真は撮っていなかったんです。「ついで」なんて書いたら峨山禅師に怒られそうですけど。。 津幡町でも山間の里と云われる河合谷地区。その河合谷でも一番奥にあるのが瓜生です。昨年(H24)の春に豪雨で崖崩れが起こり、唯一の生活道路が埋まって部落が孤立したのは記憶に新しい出来事でした。宝達山側にも道はあるんですが、とても普通車が通れるものではないそうです。災害の際もこの裏道を通って緊急を知らせたそうですが、相当苦労したそうです。 八の谷・池が原の吉倉地区からこの瓜生の辺りは良質米が採れることで知られていて、美しい棚田の風景が見られます。 江戸期までは氷見からの街道があり、中継に宿場になっていたそうですが…

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かほく市の桜

H23年は雪が多かったせいか、例年より桜は遅れ気味でしたが、また美しい花が観られました 市街の満開は15日でしたが、寒い風と雨で少し盛りが過ぎてしまいました。それでもこの日曜日(17日)久しぶりに家族で桜を観に行こうということで 金沢市内も桜のピークで、人気スポットは人人人。。兼六園や犀川の河川敷にもたくさんの人がいました。車から走りながら撮ったので金沢城を入れれませんでしたが百間掘の桜です。 どうも人混みが苦手な我が家族。。穴場をということで今年はかほく市まで遠征することにしました。やって来たのはまずは宇ノ気にある「喜多家の枝垂桜」 喜多家は加賀藩の十村役の大庄屋の家柄だったお家で、明治二十八年に兼六園から桜の種を持ってきて植えたものだそうです。家の庭に咲く桜を観に多くの人が集まってきます。この時期は喜多さんの家の人もたいへんです。 道路にはあちこちから集まる人を目当てにしてか和菓子の屋台も出店しています。僕の物欲しそうな顔を観たのか、桜をゆっくり見ている間に嫁さんが買ってくれてました。むふっ、嬉しい 同じかほく市の高松町にある「神保」 御餅系の多い人気のある和菓子屋さんです。 今回のは「あやめもち」「桜いがら饅頭」三食団子もあったけど娘に食べられちゃいました。 宇ノ気にはもう一か所桜の名所がありま…

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携帯とラーメン

昨年(H21)の10月にオープンしていた近所のラーメンのお店。 前々からこの目立つ看板が気になっていて、一度入ろうと思いつつ未達成でした。この日、14:00過ぎに仕事終了のつもりで前を通り、ついに入って見る事にしました。店名は「ラーメン龍のひげ」 目立つ看板でしょ 場所は以前に紹介した「笹寿司 合掌店」の隣りです。ちと、停めにくい場所ですが、我が家からは車で5~10分くらい 今回は「ねぎ味噌らーめん+ぎょーざごはん」を注文 店名はラーメンだけど、デザートや1品料理も充実しているみたい。 時間的にお昼ご飯の時間はすぎている感じだったけど、店内にはカップルが多かった一人なのは僕だけ店員さんも若いせいか、若いお客さんが多いみたい なかなか美味しそうでしょ。「いっただきま~す」一口目を口に入れると、すこしぴり辛だけど口当たりは悪くない。 ところが、ここで携帯が鳴り出すじゃないですか 大事なお客さんからの電話。出ないわけにも行きません。店の外に出て用件を聞いて返事をして、戻ろうとしたらまたしても鳴り出す携帯電話 別のお…

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サンセットブリッジ(内灘大橋)

11/2 石川県には「恋人の聖地」に認定されている場/所が2箇所あります。(その後、白山温泉郷と曽々木海岸の接吻トンネルが増えて、4箇所になっています。 ひとつは、加賀温泉のひとつ「粟津温泉」 そしてもうひとつが、内灘町にある「LOVE&BEACH/サンセットブリッジ」です。LOVE&BEACHは「内灘海岸」リンクは2月で寂しい風景ですが、夏になるとハマナスや昼顔が咲いていて美しいビーチです。海岸まで車でも入れますし、トイレ 「サンセットブリッジ」の正式な名前は「内灘大橋」というんですが、東側から海に向かってみると、夕陽が橋に沈んでいくように見えるのでこの名がつけられています。 写真は土砂降りの雨の日に撮ったので、サンセットどころじゃないんですけどね 元々、内灘町は鳥取砂丘に次ぐ広さの内灘砂丘の上の町だったのですが、河北潟の干拓事業のために砂丘を分断する放水路が作られ、町は南北に分かれてしまいました。長年砂丘の下東側にしか橋がなかったんですが、町の中心街がある砂丘上を南北に繋ぐ橋の要望が強かったのですが、8年前(H13)にこの橋が完成しました。 形は斜張橋、河北潟に飛来する白鳥と、石川名物の雪釣りをイメージしています。夜間は季節ごとに色を変えたライトアップがなされ、美しい姿が映し出されます。時報時にも色が1分間変化します。 10/23に夜景を久しぶりに撮ったのでこんな感じ夜も恋人の聖地なんですけ…

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内灘海岸 ~ ヴィテン金沢

この日、ひさしぶりに内灘に仕事があって、海風の吹く町に居りました。 内灘での仕事も早めに終わりまして、休憩がてら内灘海岸によって行くことにしました。 内灘町は、砂丘の上にある町です。 この内灘砂丘は、鳥取砂丘についで全国2位の規模の砂丘帯です。 ですから、土地もみ〜んな砂地です。 内灘の粟崎園地に車を停めて、のんびりと遊歩道を歩いて海岸に向かいます。 内灘には、昔、大正末から昭和の戦前まで、「粟崎遊園」というのがありました。当時の浅野川電鉄の創始者が、第二の宝塚を目指して作ったものです遊園地・動物園・野球場・劇場そして歌劇学校と宝塚そのものでした。 しかし、戦争で閉園。戦後は米軍の射撃場にされ、五木寛之の「内灘夫人」で有名な内灘闘争の舞台にもなった場所です。そうそう、今月(H21.3)発売の内田康夫の浅見シリーズ「砂冥宮」の舞台も此処ですねぇ。 しかし、今ではそんな跡は一切なく、住宅と防砂林代わりの林があるだけです。そんな遊歩道の回りも冬枯れで寂しい雰囲気です。歩いている間、誰とも出会いませんでした。駐車場には、結構車があったんですけどね。 春夏には、緑の濃い緑地なんですけどね。 遊歩道を抜けると目の前に海が開けます。防波堤の道路のところに結構人がいます。 よくみると、営業マン風の人が多いんですよ。みんな、ぼーっと海の波や海岸で遊んでいる家族連れなんかを眺めています。僕もそうなんですが、営業マンは人と接するのが仕事なんですが、その分精神的…

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祐閑寺名月~大滝

今年のお盆は仕事が入っていて、開いていたのはこの日だけだったのです。 そこで、早めに墓参りに行ってくることにしました。 僕の里は金沢の北隣の津幡町にあります。 そうそう、石川県内では金沢は旧盆の7月に盆を迎えていますが、その他の地区は8月です。 津幡は我家からで約40分位のところです。 我家のお墓は3.4箇所に分かれてあるので、順番に御参りすることに、 13日という事で、親戚連中もまだ来ていないため、我が家族がトップバッターでした。 その3.4箇所がみんな山の中の林の中なんですよね。坂を登ったり山の細道を歩いたり日頃運動不足の僕たちには良い運動になってしまいました 鬱蒼とした木々の森や林の中なので、墓や周りに落ち葉や木の枝が積もっていて、一つ一つ大掃除になっちゃいましたそれでも、地元は落ち着きますねぇ お寺も行ってきたんですが、住職さんが出掛けていて不在だったので、お経は翌々日来ると言っていた妹夫婦に任せることに、 このお寺は祐閑寺というんですが、なかなか趣きのあるお寺です。 早咲きの椿で「祐閑寺名月」と呼ばれる樹齢150年の中秋の頃に咲く、一重咲きの白椿が地元では有名です。 …

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倶利伽羅不動尊 鳳凰殿

倶利伽羅不動尊から出て、このまま帰るのもなんなので、源平合戦で有名な合戦跡を通って小矢部に行ってみようかなと ところが雪のせいですねぇ。な、なんと通行止 ちょうど、平氏の陣地跡の「猿が馬場」でSTOPです。 倶利伽羅合戦の場所は、ここから2〜3km程、小矢部寄りにあるんです。 また、合戦跡地には源義仲(木曾義仲)の奥さん二人の墓もあります。巴塚と葵塚です。 巴御前は有名なので知ってる人も多いと思いますが、葵御前も義仲の愛妾で巴と同じく合戦に参加奮闘しましたが、ここで戦死したそうです。巴御前とは仲が良かったようで、巴が93歳で亡くなった際、遺言で葵の側に墓を指定したそうです。 そこから先の小矢部の埴生には義仲の戦勝祈願をした神社もあります。埴生護国八幡宮ですが、ここから倶利伽羅峠を越えた竹橋口までが「歴史国道」として整備されています。小矢部市と津幡町で整備したり行事を行ったりしています。 通行止なら仕方ないので、駐車場に車を停めて、を2.3枚 「猿が馬場」のブナ林と本陣に使ったとされる平たい岩です。 松尾芭蕉の句碑     「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」 芭蕉は、よっぽど義仲が好きだったみたいで、芭蕉の墓は滋賀・大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)の義仲の墓の側にあります。 倶利伽羅は昔から人気…

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倶利伽羅不動尊 山頂堂

本当は4日に行くつもりだったんですが、仕事が入っちゃって1日延期しました。 行った先は、倶利伽羅不動尊です。 倶利伽羅不動尊は石川と富山の県境にあります。 千葉の成田山・神奈川の大山と並んで三不動尊と呼ばれています。。 「倶利伽羅」はサンスクリット語で「剣に黒龍の巻きついた不動尊像(姿)」。つまり剣に巻きついた黒龍の姿が本体で、よく人間のような姿で表現される神様たちとは一風違った存在です。ただ黒龍は北の守護神ともされていて玄武になぞらえる説もあります。サンスクリット語はインドの古代言語で、現代でも公用語になってるらしいですよ。あまり使う人はいないらしいけど。。。此処の不動明王は「倶利伽羅紋々」といって、その筋の人の刺青などでも有名です。 不動尊山頂堂下の駐車道路から撮りました。ちなみに、この道路から東が富山県です。 今回はカメラと携帯両方で撮ったので、アップすると解り易いですが、緑色の屋根下が石階段になってます。 登った上にあるのが本堂山頂堂です。こちらが表口だと思ってる人が多いですが、実は裏口なんですよ ついでに、赤いダツフルと黒いコートが、我家の娘と嫁さん。一応初公開 階段の途中には、弘法大師一行像や水掛不動なんかもあります。 長い階段を登ったところが、本堂の山頂堂。煙で本堂が煙っちゃってます 本堂内では護摩を焚いてくれるので、護摩…

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河北潟ひまわり村

仕事を早く切り上げまして(別名 サボったとも言います) それでも、時間は4:00過ぎ。。。。ノンビリするつもりでしたが、 テレビをつけたら夏の花の特集  日曜日に自堕落やってしまって、行けなかったひまわり村へ     そろそろ良い時期のはず、6/30の日記で         満開になったらUPするとJunさんに約束してたんで、            気にしてたんですよね Let's Goだ 嫁さんも乗り気です。 5時過ぎに帰ってきた娘も乗せて(1人で留守番させるとから) 河北潟までひとっ走り   いつもの如く「ホリ牧場の夢ミルク館」でソフトを舐め舐め動物見学に、 でも暑かったせいか、みんなへばってまし…

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河北潟ホリ牧場

Junさんやマリちゃんママさんが、牧場行ってソフトやアイス・牛乳を見せびらかすから、どうしてもソフトが食べたくなりまして機会を狙っておりました そして今日、内灘町のお客さんまで行く用事が出来たので、近場の牧場まで足を伸ばすことに 内灘町の市街を抜けると、内灘大橋(サンセットブリッヂ)を渡ります。 横浜ベイブリッヂを真似したといわれていますが、この橋の下を走るもう一本の旧道から夕陽を見ると凄く良いんです。7.8月が見頃です。 夜はライトアップされるのですが、何色(10色以上だと思うけど)にも変わるので橋の両サイドはデートスポットです  内灘大橋・サンセットブリッヂ  この橋を渡ると、日本海が一望できるサンセットパークがあるのですが、今回は渡ったらすぐに右折して河北潟干拓地へ 河北潟は全国では20番目ぐらいの大きさの湖だったんですが、35年前に湖の2/3を埋め立てて作られた干拓地があるのです。当初は水田の予定だったんですが、減反政策で畑地転用に変更されていますが、これだけ大きいと自然の宝庫に成っています。河北潟 内灘大橋から約10分でホリ牧場に到着{%車webr…

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倶利伽羅山 八重桜

倶利伽羅峠は昔は北国街道の難所ではありましたが、街道のおかげもあり、倶利伽羅不動尊や長楽寺の寺社・宿場もあり栄えた場所でした。 しかし、明治初頭の竹橋宿の大火、更には廃仏毀釈による長楽寺の廃棄、国道8号線・北陸本線の敷設により、倶利伽羅越えの北国街道の役目は無くなり衰退して行きました。 それでも津幡・小矢部の住民や一部の人にとっての生活道路として倶利伽羅峠や天田峠越えの道は難路ながら残っていました。昭和末期まで倶利伽羅越えの峠には茶店が現存営業していました。 昭和9年、射水郡大島町(現在の射水市)に高木勝己さんという運送業の人物がいました。彼が助手と共に仕事帰り、天田峠越えの途中で30メートルの崖下に転落しました。車は大破しましたが二人は無傷という幸運な事故でした。それから20数年後、彼が眠っていた際に夢枕に倶利伽羅不動明王が出てきてこう言ったそうです。 「倶利伽羅山が荒れ果てて寂しいものだ。」 ここで高木氏はあの事故での無事は倶利伽羅不動のご加護だったんだと一念発起。倶利伽羅を吉野山のように桜の名所にして人が来るようにしよう。昭和34年から19年間、奥さんと一緒に私費で毎年500本近くの桜の苗木を津幡町坂戸口から小矢部市蓮沼までの倶利伽羅峠の街道沿いに自力で植えて行きました。徐々に桜並木は花をつけ約4000本の名所として知られるようになりました。 高木氏は平成2年に85歳で逝去されましたが、その業績は津幡町・小矢部市が引き継ぎ現在は約6500本の八重桜が咲き誇る桜の名所に…

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旧吉倉小学校校舎

津幡町は金沢に負けない面積を誇りますが、その中で笠谷から八ノ谷のある池が原にかけては、河合谷・瓜生にならんで山深い地区です。 八ノ谷から笠谷に向かって車を走らせると右手に古く大きな木造建築が現れます。 これが旧・町立吉倉小学校です。昭和58年に笠野小学校と統合されて廃校となりましたが、少し改修されて現在は津幡町歴史民俗資料収蔵庫となっています。館内の収蔵品を見学することはできますが、事前に町役場に申請をしなければなりませんし、これがなかなか面倒なんだそうです>< 津幡町歴史民俗資料収蔵庫  http://www.town.tsubata.ishikawa.jp/shuuzouko/ 現代は一部で木造の見直しも見られますが、耐震などや気密性を重視して鉄筋コンクリート造の校舎が主流になってしまいました。石川県内でも僕の知る限りでは、昔からの木造校舎を使用しているのは金沢の北陸学院付属小学校の教員室くらいしか思い当りません。 北陸学院  http://www.hokurikugakuin.ac.jp/primary/hokusyou.htm 50代以上の人の多くは木造校舎に通った記憶持つ人が多いと思います。僕も小2.3の時に校舎の建て替えで鉄筋4階建てになるまで通った記憶があります。確かに木造校舎は隙間風が入ったり、床が割れたり抜けたりしましたが、緑の中に建つ木造校舎は郷愁と温かみを今更ながら感じますし懐かしく思います。 この吉倉小学校の跡地に立つと校舎はも…

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縁結びの杉 津幡町八ノ谷

津幡町の鳥越・笠谷地区を更に山間部を行くと八ノ谷という地区があります。この辺りは山が深く、棚田や山肌に畑があるような原風景が観られます。 その集落の家屋の間を登る道の奥に八幡神社があり、長い石段を登った境内脇に大きな杉があります。 この杉は樹齢450年程、江戸時代から大正期にかけて「縁結びの杉」として八幡神社と共に地元民に信仰されてきたものです。夫婦の仲や男女の仲を取り持つ木として県内でも知る人ぞ知るの存在でカップルで訪れる人が多くいます。 「縁結びの杉」の由来伝承は神社の入り口に由来が書かれています。 その抜粋脚色ですが。。 およそ400年程前、この部落に住む庄助という若者がいました。この庄助、働き者で正直で理知的と村内でも評判でしたが、嫁に恵まれず独り身のまま孤独な一人暮らしを続けていました。ある日の晩、寝ている庄助の枕元に白髪の老婆が立ち「おまえの誠実さを愛でて良い嫁を娶らせてあげよう。明晩の子の刻に八幡様の杉の根元に行くように。。。」と云うと、フッと消えてしまいました。 翌日の晩、半信半疑の庄助でしたが、云われた通り八幡神社の杉の前に行くと、村一番の美女と言われるお春さんが立っていました。聞けばお春さんも同じ夢のお告げを受けたという話。その後、二人は夫婦となり人が羨むほど仲睦まじく末永く生涯を共にしたそうです。 てな具合でよくある話ではありますが、杉の神様が男女の縁結びをしてくれるということで、長く地元では信仰されたそうです。 棚田の風景を観がてらド…

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七塚中央公園

「かほく市」は、平成16年に河北郡の宇ノ気町・七塚町・高松町が合併して誕生した町です。 その中でも七塚町は海に面した町として、海水浴場としての外日角海岸があり、金沢近郊や河北郡内から一番行き易い海水浴場として人気があります。子供の頃、夏の海水浴にはここによく連れて来てもらいました^^V この日、仕事で午前中ここまで来まして、一仕事終わったのがちょうどお昼。ファミマでパスタとチキン買いまして^^; コンビニの駐車場で食べるのも侘しいので、などと思って思い出したのがこの公園。 旧七塚町役場(現かほく市役所七塚支所)を海に向かって降りていくと、この公園があります。海岸へ向かう斜面を利用した公園で、園内からは海が観られ景色も満点に観られます。また少年野球やサッカーなら4面獲れるグラウンドも併設されており県内の公園施設としては有数の広さを誇っています。 園内には松林に作られた散策コースや東屋の見晴台。 グラウンドゴルフのできる芝生広場。アスレチックコース。子供たちに人気の遊具広場。手入れや清掃も行き届いていて園内も景色も良く、子供と遊ぶにも最高のロケーションです。 ところが、意外に国道や県道から奥まっているせいか、県内の人にあまり知られていない穴場のひとつでもあります。 ここにはパイプスライダーの長い滑り台があるんですが、長さ83メートルで県内では一番長い滑り台と言われています。危険防止のために軽くブレーキ仕様になっているので、スピードはあまり出ないのが玉に疵ですが、スター…

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小濱神社

小濱神社は内灘町で一番大きな神社です。 毎年行われる秋季例祭では獅子舞が町内を練り歩いていますし、多くの人々が集まっています。伝統に根付いた盛大な祭礼がおこなわれています。 創建時期は不明ですが、元々はお隣りの宇ノ気町(現、かほく市)の小四角数字0磯崎(現、大崎海岸)に鎮座していました。当時から加賀二宮加賀郷総鎮守と呼ばれていたようです。 養老2年(718年) 黒津浜の松林内に朝廷により変遷させられ、何度も勅使を受けていたようです。ちなみにこの年に能登国が立国されており、能登への中継点の役割もあったようです。この場所は以前紹介した「着弾地観測棟遺跡」の側にあり、町の立札と整地の中に礎石跡が確認できます。。当時は松林の並木があったようですが、現在はニセアカシアの林というより藪の中という感じです。 「着弾地観測棟遺跡」 http://72469241.at.webry.info/201209/article_75.html 戦国期には守護・富樫家に肩入れした為、一向一揆による焼き討ちなどを受けています。その後天正年間、羽柴秀吉が柴田勝家攻めの際、戦勝祈願に立ち寄り兵を宿泊させたという社伝が残っています。 加賀藩になり初代前田利家の寄進から始まり、歴代藩主の崇敬を受け続け、廃藩まで社殿造営・神具調達等を前田家から受け続けました。前田家は毎年春秋に1度ずつ社殿などの修復・修築を恒例にし、これが現在の例祭に繋がっているようです。加賀前田家の崇敬所としての小濱神社の社紋は巴紋ですが、拝殿の社頭…

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内灘海岸 着弾地観測棟遺跡

内灘砂丘は鳥取砂丘に次ぐ距離・面積を誇る砂丘地帯です。 そんな砂丘地の町(当時は内灘村)で起こった「内灘闘争」をご存知でしょうか? 昭和25年に起こった朝鮮戦争により参戦した米軍は軍需物資・砲弾の補充に迫られ、日本国内で製造した特需砲弾使用の実験試射場が必要になり、当時の吉田内閣に対して日米安保条約を盾に演習場の接収を要求しました。候補は静岡の御前崎・石川の内灘でした。 昭和27年9月、政府は内灘に決定発表しました。地元村民が猛反発で県庁に押し掛ける騒動となりました。 12月に政府は4か月の期間限定を条件に接収を開始、28年3月に試射が開始されました。ところが例のバカヤロウ解散後、県選挙では反対派が勝利しましたが、政府は漁業補償を条件に永久使用を閣議決定・使用強行を発表しました。 これを機に反対住民が試射場での座込み・学生デモ・北鉄労組の軍需物資輸送拒否ストと反対運動は過激化しました。全国からも応援が駆け付けたそうです。 しかし地元利益を主張する条件闘争の支持グループも多く出て、闘争は住民を2分した形になって複雑化していきました。 当時は朝鮮特需の成長期で、政府の説得(試射場が景気を支えている。)や条件闘争派(愛村同志会)の地元利益優先活動により、最終的には内灘村は3年間の使用認可で妥結し反対闘争は終結しました。 ちなみに条件となった町村事業の保証金・見舞金総額は22億4千万円。当時の内灘村の予算が2千万円ですからその代償は大きい物でした。 この数字をどう見るかは見解が分か…

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河北潟堀牧場 夢ミルク館

河北潟はかつては23平方キロメートルで全国でも20位くらいの広さの湖でしたが、埋立と干拓が行われ現在の湖は5分の1の4.13平方キロメートルです。 埋立と干拓が行われた干拓地のど真ん中にあり、干拓地面積の8分の1を占めるのが、「堀牧場」です。 その一画に堀牧場直営のミルク製品の販売店「夢ミルク館」があります。 夢ミルク館には堀牧場で生産した生乳を低温殺菌した牛乳や乳製品が販売されています。ここの一番人気はやっぱりソフトクリーム。濃厚ミルクに乳化剤や凝固剤は一切使用していない自然食品。ただし凝固剤がないのですぐ溶けてくるので素早く食べないとポタポタ状態になっちゃいます。 夢ミルク館の後方には緑の牧草地が広がります。ベンチもあるんで、のんびり腰かけて舐めて食べるソフトは最高です。 少し奥に行くと動物とのふれあいも楽しめます。 どんどん数を増すウサギたち。囲いや小屋にはウサギの出入り口があるんで天気の良い日は外に出て遊んでいます。 いつも一緒にくっついているミニチュアホースの「ベッカム」とポニーの「メイ」はここの人気者です。どこかで聞いたことのある名前ですが、、、、もちイギリスのご夫婦から拝借したようです。そこはご愛嬌^^ 他にも、白い木曽馬の「白嶺」。羊の「はなこ」。たまに出てくる子牛。 どの動物達とも触ったり、乗ったり(子供だけ)、ふれあいは自由です。 夏には背の高いトウモロコシを使った大迷路も登場します。余りの難しさに半泣きになる子供もいるそうです。僕も…

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倶利伽羅駅

津幡町には国鉄・JRを通じて津幡・中津幡・本津幡・能瀬そして倶利伽羅と5つの駅があります。昭和においては、一町村に存在する駅数では国内でも最多の数だったそうです。しかし、津幡を除く4駅は無人駅になっています。 倶利伽羅駅は津幡町の東部の刈安にあります。 山に囲まれた場所にあり、駅舎ものどかで乗降客も少ない駅です。お店も駅前に一軒あるのみです。 昔は倶利伽羅紋々の倶利伽羅不動寺、源平合戦の倶利伽羅古戦場に向かう駅として、観光の出入り口として重宝されましたが、現在は利用するのは地元の方がほとんどです。 北陸本線は貨物列車の往行が多く、この倶利伽羅駅は倶利伽羅峠越え・七尾線との調整駅としての要素の方が強かったようです。 のどかな駅舎とは裏腹にプラットホームは島式2面の長いホームがあり、直線が長いため、鉄道ファンが訪れカメラ撮影をしている姿が観かけられます。 僕がこの駅が好きなのは、周りに木々が多いこと、地元の方に綺麗に清掃整備され花も見られること。列車が通る姿が綺麗に見られることもありますが、電車到着や通過案内の際に流れる放送なんです。 アナウンスと共に流れるのが「アニーローリー」の曲。北陸本線ではどの駅でも聴けるんですが、倶利伽羅駅ののどかさの中で、このロマンチックな曲は聴いていると甘酸っぱい気分を感じるんですよね。 旅行日 2011.5.4

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倶利伽羅山 八重桜

小矢部の巴塚のある堤池から津幡町の坂戸口までの約10キロ強の歴史国道には6000本の八重桜が植えられています。毎年GWには満開の花が観られます。この期間は「くりからさん八重桜祭り」として多くの人が訪れています。 4/28.29には倶利伽羅不動尊の山頂本堂の境内で、念仏赤餅の餅つきが行われ参加者にはその場で振る舞われ、住職のお話と共に食べる習わしになっています。もちろん、持ち帰り用にも販売されています。すぐ売り切れてしまうので、早めに行かないといけません。 倶利伽羅の八重桜のビュースポットは、倶利伽羅合戦の際に平氏が本陣にしたという「猿ケ馬場」、為盛塚の近くの「倶利伽羅公園」、手向神社参道から坂戸口の坂道の道路脇がお奨めスポットです。 ソメイヨシノに比べぼってりとして大振りの八重桜は満開になると華やかさがあります。 散策スポットとしても最高の時期がこの桜の咲くころだと思います。 昨年は坂戸口の桜しか見られず残念な思いをしましたが、今年はちゃんと山頂に咲く花が観られちょっと感激^^V 4/28.29は不動尊の祭礼もあって交通規制がありますから、埴生口か天田峠から倶利伽羅峠へ向かうのをお奨めします。 くりからさん八重桜祭り(倶利伽羅不動尊)  http://www.kurikara.jp/?eid=288423 旅行日 2011.5.4

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もう一つの鳥越城

以前紹介した加賀一向一揆の最後の牙城となった「鳥越城」現在の白山市鳥越地区にあり全国的にも名前が売れています。http://72469241.at.webry.info/201208/article_36.html ところが石川県内には、もうひとつ「鳥越城」という城がありました。 金沢市の北隣、津幡町の七黒にありました。最初は一向宗の防御施設に始まり、前田利家の金沢入部後は東方の防衛拠点の一つになっていました。ここは越中との県境近くに当たり、末森城と並んで対佐々の重要拠点でした。ちょうど末森城から始まって連なる宝達山の稜線の最南端になり、金沢城からは直線で約15キロ。この城を越すと平坦な地形が金沢に続くため、街道にある津幡城の付城として、東方防御の最終ラインになっていました。 1584年末森城の戦いの際、前田軍の善戦で佐々軍は撤退したのですが、佐々成政は撤退時にこの鳥越城を手に入れています。 実は末森城の戦いが前田軍の敗退という誤報が鳥越城兵に流れ、城主が城を放棄してしまい、労せず佐々軍が手に入れたというものです。 前田利家がこの事実を聴いて驚愕。城主だった目賀田又右衛門を永久追放にしています。その後、自ら軍を率い激戦を繰り返し取り戻しています。 前田利家が能登・加賀・越中の3国領有後、防御地の役目を終え廃城となっています。 城のあった山は標高60m程ですが、斜度がきつくなっています。 現在は登り口に案内板。小さな本丸跡に標柱があるだけで、激戦地の面影はありませんが…

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白鳥神社

白鳥神社は金沢市の北隣にある津幡町の加賀爪(つばたまち・かがつめ)にある神社です。創建は仲哀天皇の頃と言われています。 仲哀天皇は日本武尊の息子で、死後白鳥になって飛び去ったといわれる父を偲んで、全国に白鳥を献上させたと言われていますが、この神社の地にあった池で休んでいた白鳥を献じたと伝えられています。 当時、北陸は越の国だと言われています。越の国からは4羽献上したといわれています。この白鳥献上は兄弟誅殺事件に発展していますが、もしかしたら問題の白鳥だったのかもしれません。 ともかく、大和から北に向かったという父の白鳥に思い入れの強かった天皇が、捕らえた場所に神社を建立するように伝えたそうです。もちろん、祭神は日本武尊です。 神社の境内は、地元の信仰が厚く、綺麗に整備されています。 私事ですが、僕はこの近所で生まれました。そして小学校までここで育ちました。当時は、もっと草木が多い境内でよく忍者ごっこしたりして遊んだものです。木に登ったり、狛犬の上に跨ったりしてましたね^^; 今改めて見ても、けっこう高さのある立派なものですが、よく登れたなぁ。 この神社は雨乞いの神社としても有名で、雨乞い行事の文献が保存されています。そういうのは、なかなか珍しいそうです。 嘉永6年(1853年)の御礼絵馬が本殿にありますし、明治初期の文献も残っているそうです。 僕にとっては、一番なじみのある神社です。 久しぶりに訪れましたが、昔の象の鼻みたいな神木は落雷で立ち枯れしたようですが、…

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西田幾多郎記念哲学館

西田幾多郎は受験のときの問題に「善の研究」の作者としてよく出てきます。だけど読んだ人となると少ないと思います。読んでみるとなかなか面白いんですが、我が嫁さんや娘などは哲学と聴いただけで、頭が痛くなるなどといっています。読んでない人は試しにチャレンジしてみてください。頭が痛くなっても責任は持ちませんが、意外に読みやすいですよ。 京都に「哲学の道」と呼ばれる小道がありますが、この道は西田幾多郎が京都大学の教授時代に哲学の思索をしながら散歩をしていた道のことです。禅をベースに東洋と西洋の融合した哲学理論を確立し「哲学の祖」と言われています。 そんな西田幾多郎の故郷は、旧宇ノ気(うのけ)町の森、現在のかほく市です。 加賀藩では十村役と呼ばれた大庄屋の家に生まれましたが、小さい頃から勉学好きでやんちゃ坊主という2面性を持った人だったようです。 旧制四校(金沢大学)帝大と進み、多くの学校教師となっています。 記念館にあった言葉ですが、 「私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向かって一回転をなしたと云へば、それで私の伝記は尽きるのである」 記念館は海辺近くの高台にある立派な建物です。 中の展示室は、幾何学的でアミダ状みに巡るようになっていますが、自筆文献や書など多数に渡っていて、興味深いなかなかの展示館です。訪れる価値はありますよ。 ただし、市内からの案内表示が少ないので、記念館を探すのに苦労するかも、意外に訪れ…

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サンセットブリッジ内灘 (夜)

内灘町は内灘砂丘と呼ばれる日本で2番目の面積を誇る砂丘地帯の上にある町です。そして側には河北潟と呼ばれるかつては全国でも20番目くらいの面積の湖がありました。その河北潟の干拓を始めたのが、江戸時代の豪商「銭屋五兵衛」。その後紆余曲折はありましたが、1985年に湖の3分の2を埋め立てる干拓事業が完成しました。 1968年に湖の水を放水する放水路が作られ、町は南北に分断されました。その南北をつなぐ橋の一つとして2001年に開通した斜張橋がこの橋です。正式名は「内灘大橋」です。 橋の東側からは夕方に、この橋の間を夕陽が沈むように見えるので、「サンセットブリッジ」のニックネームで呼ばれています。 形は、河北潟に飛来する白鳥と、石川名物の雪釣りをイメージしています。夜間は季節ごとに色を変えたライトアップがなされ、美しい姿が映し出されます。時報時にも色が1分間変化します。 南側に橋を展望できる本来のサンセットパークがありますが、北側にも暗いですが小さい駐車場があり、こちらからの眺めのほうが僕のお勧めです。夜にはアベックの車がチラホラと停車して愛の語らいが。。。^^ 今年4月に「恋人の聖地」として、認定されました。 恋人の聖地 ⇒  http://www.seichi.net/gotoseichi/detail.php?l_id=86 旅行日 2009.10.24

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