つとつとのブログ

アクセスカウンタ

zoom RSS 津幡城址 為広塚 清水八幡神社

<<   作成日時 : 2014/11/21 21:35   >>

ナイス ブログ気持玉 19 / トラックバック 2 / コメント 9

金沢市の北隣にある津幡町。現在は金沢市の衛星都市的な存在です。近年になって国道8号線・159号線のバイパス化で、主幹線道路が変わって西側を回るようになり、旧国道から商業地や住宅地が西方や北方の郊外に移り、元々の中央銀座商店街や津幡宿があったおやど商店街も少し寂しくなってきました。

この中央銀座商店街とおやど商店街が交差する四ツ角という交差点を北に真直ぐ行って、急な坂道を登った大西山と呼ばれた丘陵に津幡城がありました。城址の痕跡はほとんど見られませんが城址碑がある高台からは津幡の街並みがきれいに見渡せる場所です。
画像
画像

画像
画像





この丘陵には平成23年3月まで津幡小学校の校舎がありました。現在は新校舎が完成して東の麓に移り、現在は小学校グラウンドと記念庭園となっています。
画像
画像

何を隠そうこの津幡小学校は僕の母校になります。家庭的にはその後の人生を左右する良いことも悪いこともありました。校舎はなくなりましたが、それでも懐かしい母校に変わりはありません。
僕の小学2年の時に旧校舎が建ったのですが、県内初の4階建て鉄筋コンクリート造・床総アスタイル張りという近代型校舎でした。当然ながら田舎者だらけの子供達で、初めてのアスタイルにツルツル滑り、掃除には今まで見たこともなかったモップにワックスで大騒ぎになっていました。掃除のときはアステアやジーンケリー、ポパイとかの感じで遊んどりました^^
旧校舎が新築された際には大幅な改修工事が施され、城の痕跡はほぼ無くなってしまいましたが、地中から人骨が発掘されたりで、その頭蓋骨が理科室に置かれていて、みんな理科室の準備室に入りたがらなかったなあ。。古くは数度の合戦もあったし、墓地にもなっていたそうですから。。そりゃ出てきても不思議じゃないけど小学校の怪談話にはもってこいかも
画像

話が横道に逸れちゃいました。。
津幡小学校の校歌、今でも2題目の頭までは歌えますが。。津幡城の情景が少し入っています。

古城址に 河北の花と 大西山の 丘辺に立てば 山はみどりに 潟ひらけたり わが学び舎 ここに立てり
(窪田敏夫作詞 石本一雄作曲)

津幡宿は加賀・能登・越中への分岐点・中継点の要衝になり、平安末期から戦国時代は重要拠点にも位置づけられていました。

津幡城の始まりは源平の倶利伽羅合戦にむかう前に、平維盛軍が大西山に前哨基地としての砦を置いたのが始まりと云われています。
その後、建久元年(1190年)に津幡町の東部にある井上の庄の地頭・津幡(津旗)隆家が築城し居城にしたと云われています。町の名前にもなっている津幡氏ですがあまり詳しいことは解っていません。加賀武士団として義仲軍に従って上京しますが義経軍に敗れ地元に戻っており、鎌倉幕府成立時には地頭職になっていますが、後鳥羽院の西面の武士団に名が散見されます。ただそれ以降、史上からは消えています。承久の乱では多くの加賀武士団は上皇方に味方しており、幕府軍に粛清されたのではないかと云われています。ちなみに安宅関で有名な守護・富樫泰家の富樫氏もこの承久の乱によって処分を受け、鎌倉時代は史上から名前が消えており、守護復活は建武の親政以降です。この時代の加賀武士団で復活を果たしたのはこの富樫氏だけと云われています。

津幡城は鎌倉時代には史上に現れませんが、南北朝時代・正平10年(文和4年、1355年)に、足利直義・直冬(ただふゆ、尊氏の庶子、直義の養子)に属した桃井直常が越中から京洛に向かった際に、加賀守護の富樫氏春が砦に籠って戦ったという記述があります。勝敗の有無は不明ですが、この時には桃井直常は一時的に京都占拠に成功していますから、加賀を突破したのは確実です。その後も桃井直常は越中・信濃に戻って直義・直冬復活のために戦っています。

その後もしばらく史上には出てきませんが、富樫氏、一向一揆の持ち城と変わっていたようですが、脚光を浴びだすのは戦国末期になってから天正4年(1576年)、越中から能登に侵攻した上杉謙信が本陣を置き、七尾城攻略の拠点にしたと云われています。

天正11年(1583年)、加賀支配となった前田利家が越中・佐々成政に対抗するために、本格的に改修築城を施し、末弟の前田秀継を7000石で城主とします。この石高は前田家中では最大分限になっており、この秀継によって津幡宿は大きく整備されたと云われています。今でも津幡・小矢部では前田秀継の人気は利家よりも強いものがあります。秀継は佐々との抗争時には対越中の最前線司令官の立場で末森城救援の前田利家軍の前進基地ともなっていました。
前田家による能登・加賀・越中の三国支配が固まり、秀継が木舟城に移ると防御施設としての役目を終え、廃城となっています。
画像

城としての痕跡は観られませんが、北にある緑ヶ丘に向かう山麓から観ると丘陵を利用した大規模な城域になっていたことが伺われます。
画像
画像

津幡小学校の記念庭園を歩いて行くと、敷地の東南の片隅に句碑と墓標があります。
この墓標は冷泉為広の塚になります。冷泉為広は冷泉家11代当主(上冷泉家6代)・正二位、権大納言。
定家流の書と歌の大家と云われ、「為広卿集」「為広詠草」などの歌集を残しています。
画像

冷泉家(上冷泉家)はご存知の方もおられると思いますが、藤原定家(為家)の三男・為相を開祖にして、定家流の歌道を代々伝え現代に繋がる家系です。明治以降も京都に屋敷を置き続けたこともあり、古来からの歌集や書籍を伝えることでも知られています。何年かに一度、いまだに重要発見が出て新聞やマスコミをにぎわしています。
画像

南北朝の争乱、応仁の乱と打ち続く戦災で京都は焼け野原となり、朝廷の権威は失墜し、後土御門天皇は朝議も儀礼も行えず死後には葬礼も出来ずに遺体を1か月以上放置されています。その跡を継いだ後柏原天皇は在位22年目に本願寺と幕府の献金で即位の礼を行っています。天皇でさえこの状態ですから、公家の生活はもっと悲惨でした。公家の娘や官女が夜鷹に立ったのもこの時代です。
有力公家や地方豪族に伝手を持つ者は、地方に下向して自分の領地や有力豪族を頼った者も多く出現しました。冷泉為広もその一人でした。
画像

為広は11代将軍・足利義澄の相伴衆を努めていましたが、義澄が大内義興に近江に追放されると、京都から退避して能登国守・畠山義総を頼っています。能登畠山氏の初代・満慶は畠山本家の当主を努めた経歴の持ち主で、当時の義総の時代には全盛期を迎えていたこともあり、歌道・書道など貴族文化にも理解を持っていたようです。為広は畠山氏の庇護の元、大永6年(1526年)77歳で七尾城の義総の屋敷で能登生活18年の生涯を閉じています。
画像

それから2世紀の年月が過ぎた江戸時代・寛延年間(1750年頃)に俳人・河合見風が津幡城の隣の清水八幡神社にあった塚を調査、文書・伝承などを精査して為広の墓と断定します。当時、この塚には五層石塔や塔守屋敷と呼ばれる小屋があったそうです。里人には広塚・塔屋敷と呼んでいたそうです。
この結果を加賀藩家老・前田土佐守直躬(なおみ)と冷泉家に報告しました。これによって河合見風・前田土佐守・冷泉為村(冷泉家11代当主)によって、画像右側の墓標が建立されたそうです。碑文は為村・為泰・為章の冷泉家三代によるものです。左側の墓標は明治8年(1875年)、冷泉為理(ためただ、20代当主)により再建されたものです。以前はもっと神社寄りにあったのですが、地形変化や風化が激しく昭和43年(1968年)にこの場所に移設されたものです。

前述の三人を一応ご紹介すると。。。
河合見風(かわいけんぷう)・・・江戸時代の俳人。本名は河合屋理右衛門。津幡の加賀爪村で旅籠と米屋を営んでおり、加賀藩の十村役を務めていました。十村役は加賀藩特有の制度ですが、大庄屋であり町長のような役目と思ってもらえば解り易いと思います。金沢市の並木町(浅野川の梅の橋と天神橋の南岸)に別邸を持っており、このことから藩重役の前田土佐守家との交流があったようです。
俳人として加賀芭蕉門下の末流として名が通っており、全国の俳人と文通で交流していました。県内では加賀の千代女とも親密な付き合いをしていたようです。和歌もたしなみ、前述の冷泉為泰に師事していました。
末流とはいえ芭蕉を崇敬していたようで、倶利伽羅古戦場の猿が馬場にあった芭蕉の「寝覚めの句碑」の再建や、有磯海の句碑の建立を行っています。

前田土佐守直躬・・・前田利家の次男で、能登国守で関ヶ原不参加を咎められて改易・浪人となった前田利政の息子・直之を開祖にした家柄で、加賀藩八家老の筆頭扱いの前田土佐守家の五代当主です。(一応、土佐守家では利政を開祖にしています。)
加賀騒動で大槻伝蔵らの藩改革派を弾圧した守旧派のリーダー的存在でした。伝蔵の流刑、真如院の排斥はこの人の陰謀だと云われています。
とかく頑固頑迷で杓子定規な人という風に言われていますが、文学芸術に秀でており河合見風など一般人の歌人・学者とも交流を深めています。また、料理や菓子作りにも凝って料理本やレシピを残しています。昨年ですが直躬が残したレシピから蒸し羊羹が再現されて話題になりました。

冷泉為村・・・上冷泉家15代当主。元服後、異例の累進を重ねて27歳で公卿になっています。また歌人としては人の和歌の添削や指導に秀でていたと云われ、性格も温和で丁寧だったと云われています。このため、和歌の門人が急増したと云われています。ちなみに跡を継いだ息子・為泰は添削・指導は才を受け継いでいますが父とは違い厳しい指導で知られています。
霊元法皇から古今伝授を受けています。霊元法皇は和歌・絵画・能書に突出した才能があり、天皇家でも1.2を争う芸術家と云われた人物です。また、天皇儀礼の復活を図り幕府を無視して院政を行ない親幕派の貴族を排斥しています。為村は和歌の門人として幕府の御家人・幕臣を多く抱え、親しく交流しています。険悪化した朝廷幕府間の渡し役として重宝された存在でした。このためもあり、冷泉家中興の祖と呼ばれています。
画像

為広塚の側には河合見風の句碑があります。 はつなすび それから花の さかりかな

冷泉為広の墓があった清水八幡神社は戦国から江戸時代は「清水八幡宮」と呼ばれていました。現在も神社としての社域は大きいですが、当時は神社管理の宝蔵院があり大きな社域と参道がありました。
僕の小学生時代には現在の津幡中央銀座商店街通り(旧北陸道)のたかもり呉服店の横道入り口に赤戸室石の鳥居がありました。これを潜って小学校に行っていました。現在は道路拡幅で鳥居は神社に移されていますが社号標は現在も同じ場所にあります。
画像
画像

赤戸室石は柔らかい素材で加工しやすく、江戸期には鳥居や石灯籠・狛犬などに多く使用されていました。現在は産出されておらず、柔らかい分風化が早いため金沢近郊の寺社で見かけるものが減ってきています。戸室石は赤と青があって、青は赤より重く固いので石垣などに使われています。兼六園の雁行橋が赤戸室、黄門橋は青戸室ですから機会が在ったら見比べて観て下さい。戸室石は加賀藩特有の石として、武家には上級武士にしか使用は許されていませんでした。
画像
画像

冷泉為広の墓発見と墓標建立の御礼に冷泉為村自筆の和歌を奉納しており神社に保管されています。
     かわらしな 八幡の宮の 石清水 こゝも清水の 清きみつかき (冷泉為村奉納)
     なをいくよ なくさんが 広塚のあと うごきなく たつるいしぶみ (冷泉為村 為広塚碑文)
画像
画像

画像
画像


この日の帰り道、津幡駅に立ち寄りまして、家への御土産にこれを買いました。庭田商店の「きびあんころ
画像
加賀ではお馴染みのあんころ餅ですが、僕が一番美味しく馴染み深く感じているのがこのきびあんころです。
画像
画像

きび粉を練り込んだ餅を餡で練り包んだものですが、更に竹の皮で包んで十字に結ばれた形も昔ながらのものです。100年以上の歴史がある現在のあんころも当時のままの製法で作られています。
うろ覚えですが、僕の祖父が数十年前に、庭田商店の杵の修理をしたことがあるんですが、じいちゃん子だった小学生の僕も一緒に連れて行って貰ったことがあります。石臼に木の杵(機械仕立てですが)で餅を突いていました。今も変わっていないと聞いています。
画像
画像

津幡駅の開業は明治31年(1898年)ですが、庭田商店がこのきびあんころを駅で販売を始めたのが開駅の5年後の明治36年(1903年)からになります。つまり販売110年以上の歴史を持っています。あんころと云えば、僕の住む松任の円八のあんころが全国的に知られていますが、個人的意見ですが津幡のきびあんころの方が風味も味も好きですねえ。。機会が在ったら、騙されたと思って是非お試しあれ。。まあ、なかなか津幡駅に降りる機会はないと思いますが。。
画像
画像

昭和50年代までは駅のホームで汽車が停車するごとに、「あんころ〜〜あんころ〜〜」という売り子のおじさんのかん高い声は、津幡駅の名物になっていました。時代と共に汽車の停車時間の短縮や汽車の窓が開かなくなって、昭和後半にはホームに販売所が置かれ、平成になって特急・急行が増えて、今では改札口前のキオスクに置かれるだけになってしまいました。寂しいものはありますが、でも美味しさは変わりません。

旅行日 2012.09.26

 

  

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 19
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス
なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
かわいい

トラックバック(2件)

タイトル (本文) ブログ名/日時
倶利伽羅公園A 篠島清了の墓所
前のブログを書いていた際に、画像を大きめで挿入したために、容量オーバーで入りきらなかった続きです。 ついでに悪い癖ですが、加筆しています。。。 ...続きを見る
つとつとのブログ
2017/05/23 20:49
倶利伽羅 猿ケ馬場
倶利伽羅公園側の山塊が平家軍撤退戦の最激戦地で、源平両兵士の巨大な供養塔(昭和49年建立)や奮戦した平為盛の墓(源平盛衰記では戦死、平家物語では生存。平清盛の弟・頼盛の次男)など、顕彰碑や歌碑が点在します。 ...続きを見る
つとつとのブログ
2017/05/29 03:15

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(9件)

内 容 ニックネーム/日時
津幡城、小学校の建設で消滅してしまったとは残念ですね。
僕の地元の近くでは龍ヶ崎城。
現在龍ヶ崎2高の敷地になっていますが、ほぼ女子高なので、敷地内でカメラを構えたりしたらとたんに変態に間違われそうで、おいそれと見学にも行けません。
史跡の上に学校を建てるのは、やめてもらいたいですね。
城跡から出土した人骨が理科室にかざられていたというのは、おもしろいですね。
家ニスタ
2014/11/21 22:21
家ニスタさん
(笑)そりゃそうです。女子高でカメラ持ってウロウロしてたら、下手すりゃ捕まっても文句言えません。。小中学校や女子高に史跡があると確かに入りづらいですからねえ。僕も小学校がある間は行きづらかったですもん。。
今は、たまにしかいかない町なんですが懐かしい町です。
つとつと
2014/11/22 20:28
きびあんころ、見るからに美味しそうですね。
津幡駅に寄ることがあればいいのですが・・・
流布院
2014/11/22 22:01
建った当初は自慢の学校だったのでしょうね 余計に愛着がわきますね
冷泉家 こちらの出だったのですか  今でもいろいろな行事をし続けてられますね  
がにちゃん
2014/11/22 23:19
流布院さん
きびあんころ、とっても美味しいし、笹の葉の包も懐かしい感じ
なにせ、ナイロンとかに包まれてないのが最高です。
ただ、改札まで出なきゃいけないんで、汽車一本乗り越す覚悟がいるのが玉に傷。。

がにちゃんさん
建った時はとにかく県内では最新型だったんですよ^^;防音の放送室、校内TV放送システム、音楽室の机は全員一人一台のオルガン、、、ただ木の香りがないのが少し残念でした。。新校舎は2階建て木造のめるへんチックな建物になってました^^;
冷泉為広は能登に疎開してきただけなんですよ^^;京都に屋敷が江戸期以降は焼けずにあって文書の写筆を繰り返すごとに、新発見が出るそうです。
つとつと
2014/11/23 11:35
つとつとさん こんばんは〜

つとつとさんの故郷は由緒ある土地柄なんですね〜
津幡城などたる凄い歴史ある土地
そして現代的建物の学校歴史 鼻高々でしたよね。

歴史は・・・ 良き想い出ですね。
イータン
2014/11/23 18:55
イータンさん
中学高校の頃は単なる中継点の町としか思っていなかったんですが、長く離れて大人になってみると、故郷は懐かしく、歴史を改めてみると良い点ばかりが思い出されます。
たまに訪れると懐かしい場所や親しんだ所をウロウロしちゃいます^^
つとつと
2014/11/24 00:40
おはようございます。
解説が非常にわかりやすく、
まるでそこに訪れているような
内容が非常に参考になりました。

わたしは、城めぐりの初心者なので、
もしよければ、今までに行かれた
城や城址の中で印象に残っている
場所を教えていただけますでしょうか?

今後の参考にしたいと思います。

おじゃましました。
ながたけ
2014/11/25 05:31
ながたけさん
こんばんは^^コメントありがとうございます^^
今の仕事になってから、あまり県外に出られなくなって、城巡りはあまり多くないのですが、石川県内なら七尾城が一番にあがります。山城ですが石を使っている部分が多く特に5段石垣は壮観です。それから白山市鳥越の鳥越城、加賀一向一揆の最後の城ですが、近年発掘復元が進んで戦闘的な城としては秀逸です。僕を城好きにした山城です。
復元と云えば金沢城も年々復元が進んで整備されています。来春、橋爪門と玉泉院丸が公開されます。石垣の博物館と云われるくらい石積が多種になっていて興味深い城です。
天守閣は城の花ですが、松本城、熊本城、岡山城が好きですねえ^^
県外の城で一番の印象に残っているのは小谷城が一番です。やはりてんけいてきな戦国の城という印象が強いですねえ。違う意味で先進な城域の造りの安土城も印象的でした。
日本国内には城跡がうじゃうじゃありますが、時代や地域で大きく違ってきます。小さなものや無名の城も興味深いですよ。
つとつと
2014/11/25 19:13

コメントする help

ニックネーム
本 文
津幡城址 為広塚 清水八幡神社 つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる