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zoom RSS 中村神社拝殿 (旧金沢城二の丸舞楽殿・旧卯辰山招魂社拝殿)

<<   作成日時 : 2015/08/15 15:06   >>

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今年の春に金沢城玉泉院丸が復元公開されました。次の復元は玉泉院丸と金谷御殿の間の堀を繋いだ鼠橋や鼠多門ということで計画が進んでいるそうです。そうなると、金沢城尾山神社が繋がることになります。
近年、金沢城の復元計画が進められています。それに合わせて調査や発掘も進められており、今月には本丸南側に庭園があったことが確認されたところです。しかも寛永年間の火災の瓦礫が積み上げられていて、年代も特定されたそうです。

金沢市や石川県では百年後の国宝を目指しているそうですが、金沢城内の建物が無くなったのは明治14年(1881年)の陸軍歩兵第七連隊が基地を置いた際、それも火の不始末による焼失でかえすがえすも残念な出来事になっています。金沢城内の石垣を残して、江戸期の建物は石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫くらいしか残っていません。
石垣に関しては石垣の博物館と云えるほど、多種多様な石組みや技法がありますが、やはり建物がないというのは寂しいものです。

明治期に金沢城が焼失したわけですが、それ以前に移築によって焼失を免れた遺構が幾つかあります。尾山神社の裏口にある東神門二の丸御殿唐門 として使用されていたものです。また以前紹介しましたが尾崎神社は本殿、中門、透塀、拝殿・幣殿は元々は北の丸に東照権現としてあった物です。金沢城内にあった建物としては尾崎神社は現存する最古の遺構になります。
他には玉泉院丸太鼓塀も城外に移されたそうですが、こちらはどこにあるのか復現地に戻したのかは不勉強で僕にはわかりません。玉泉院丸はまだ公開以来、未訪の僕。。そして今回紹介する遺構が中村神社の拝殿として利用されているものです。

慶応4年(1868年)、15代藩主・ 前田慶寧(まえだよしやす、加賀藩最後の藩主)が北越戦争で戦死した加賀藩兵士103名の英霊を祀った顕忠社を卯辰山に建立した際に、金沢城内の二の丸にあった前述の唐門舞楽殿(能舞台)を移築しています。ちなみにこの二つは、宝暦の大火(1759年)にも焼け残ったと伝えられています。金沢の町に安土桃山期・江戸初期以前の建物があまり観られないのは金沢の9割を焼失したという宝暦の大火が大きな要因になっています。明治の金沢城焼失と併せて、二度・三度の危機を乗り越えた前述の尾崎神社尾山神社の東神門中村神社・拝殿は金沢にとっては貴重な存在になります。
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卯辰山の顕忠社は名を招魂社と改め、隣接地に卯辰三社が移転して、卯辰山の行楽地が麓にあり賑わったと云われています。
しかし、その後にも西南の役、日清・日露戦役によって、石川県からの出征戦死者が多く出て、手狭になったことは否めませんでした。このため昭和10年(1935年)、出羽町の小立野練兵隊跡地の一部に石川護国神社が創建されて英霊の移霊が行われています。旧招魂社はそのまま放置された形になっていました。
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昭和初期には麓のにわか行楽地も消え、中心街に護国神社が移ってしまったことで遺族の訪問は護国神社へと移り、招魂社の跡地には訪れる人もいなくなり(現在もそうですが。。)建物は荒廃することになります。

昭和40年(1965年)当時、金沢のシンボル的存在であった石川門と同等の価値があるとして、保存の声が大きくなります。これにより原型を損なわないという条件のもとに、招魂社の正門となっていた二の丸唐門は尾山神社の東神門に、拝殿となっていた二の丸舞楽殿中村神社の拝殿として移築保存されています。もちろん門や拝殿ですから屋外にあったり、入館も出来るわけですが、ほったらかしの荒廃任せにするよりは良いという理由もあったと思われます。

境内と拝殿の外見だけでもと思って訪れたのですが、ラッキーなことに拝殿は公開されておりました。
北陸の神社特有の風雪対策用のガラス防除が施されていますが、拝殿・神殿の姿もはっきり観られます。
外観や壁などは拝殿用の改装が施されていますが、舞楽殿特有の2.3メートル程の高床式の形態は離れて観ても確認できます。建築年ははっきりしませんが桃山様式を感じさせます。このことから伝承を信じれば宝暦の大火(1759年)を生き延びたわけですから。。寛永の大火(1631年)によって本丸にいたお殿様が二の丸に移って、城内に住んでいた家臣が城外に出て二の丸御殿が整備されたことから1631〜1759年、後述しますが欄間を製作したとされる武田友月が加賀藩に登用されたのが文化11年(1814年)。没年は弘化元年(1844年)。幅がありすぎてはっきりしません。平成16年(2004年)国登録有形文化財指定では建築年は1830〜1867年と申請されていますが、はてさて。。。
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拝殿内部に入ると、.色々な物が置かれているので狭く感じます。実際、三間二尺四方の正方形(一辺約6.06m、床面積・約36.4u)と、約11〜12畳ほどの広さです。元は能舞台ですから三方もしくは四方は開いていたはずですから壁が無ければ広く見えるはずですが。。。
更に拝殿内には遥拝所もあり、別に千日町の獅子頭・皮獅子が展示されています。加賀の各町会には必ず獅子頭があり、獅子舞が奉納・練歩きされます。その数、200町会・230頭以上の獅子頭があると云われています。
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特筆すべきは格天井と龍を透かし彫りにした欄間格天井には黒漆塗りの格子と金使用の金具が使われています。さすがに経年で使用されたのと、拝殿として外気に触れている為に色褪せがありますが、全盛時の豪華さが覗われます。
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四方の欄間には龍が埋め尽くすように彫られています。龍の眼が金色に輝いており厳しい顔をしています。表裏共に竜の木彫の透かし彫りになっており、のたうつ胴体部も丸彫りで今にも動き出しそうな躍動感があります。宝暦の大火の後も金沢城は何度も火災で焼失しています。舞楽殿はその都度に類焼を免れていますが、この龍が眼を怒らせ、水を噴出したと伝承されています。江戸時代から火除けの龍・火魔退散の龍として噂されていたようです。
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この欄間の作者は武田秀平(本姓・花井信興)と云われています。武田秀平は元姫路藩士の息子で、京都で彫刻師・陶工として活躍していましたが、加賀八家老筆頭の前田土佐守直方に見出されて、加賀藩御細工所に御細工所小頭並として登用されています。ちなみに彫刻師としての彫号は友月。陶工としての号は民山。芸術家として多種多芸の才覚の人で、盆に石を置いて鑑賞する物から発達し名石の配置・庭園へと進化した盆石では景雲堂と号して一派を開いています。また書画にも通じていたようです。

欄間彫刻、盆石などの才能を認められ、十二代藩主・前田斉広から4000坪に及んだとされる竹沢御殿作事方に任命されています。あまりの贅沢な隠居所で、斉広死後に幕府の眼を怖れて竹沢御殿はすぐに取り壊されていますが、その部材は巽御殿(現・成巽閣)、金谷御殿、江戸屋敷増築に転用されたと云われています。
しかし武田秀平の彫刻作品は現在も金沢の名所にあり、成巽閣の謁見の間の桧の一枚板の透かし彫りの彩色欄間、金城霊澤の扁額彫刻、石浦神社の欄間(弁慶の釣鐘引きずりの図)などがあります。また、獅子頭の製作も行っていて、金沢の獅子頭製作の三名人の一人とされています。

更に陶工としては、再興九谷で最初の窯とされる春日山窯を復活させて民山窯を作り、自宅には錦窯も作っています。特に民山窯は再興九谷の赤絵の先鞭と云われており、宮本窯と並び称される九谷の恩人と云えます。
それまで、初期の古九谷が製造停止となって以来、陶器は他藩からの全品買入れ状態で、財政逼迫の要因の一因だったのです。加賀文化の中で欠落していた陶器に道を開いた人物です。他藩出身者ですが、金沢文化にとっては欠かせない歴代名匠の一人と云えます。
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中村神社は由緒書によれば元々、中村は犀川の対岸にあったと云われています(現在の片町から中央通町の間の辺り)。加賀藩になって金沢城下の整備に当たって対岸の現在地に村落及び神社も移されたとなっています。元の地には地元の要望から別社が建てられ、御影大橋近くの犀川対岸の犀川神社がそれになります。
ちなみに以前UPした室生犀星が育った千日山・雨宝院でも書いていますが、雨宝院の山号から名づけられた千日町の一部に組み込まれたようです。(ちなみに旧千日町は、現在の千日町に野町2丁目・白菊町・中村町を加えた範囲でした。)野町2丁目の西茶屋街や豪姫の菩提寺・大蓮寺神明宮などがあるように古くから栄えた町で、現在も広小路から西ICに向かうインター大通りと犀川、金沢を代表する犀川大橋と御影大橋という立地で、金沢でも人口密集地の一つです。
住民が多く、商業地でもあり有力な氏子が多く、神社境内の敷地も広くなっています。参道も長く取られており、地元に根づいた神社になっています。境内に奉納されている狛犬は大正期のものですが、戦前のものとしては珍しい青銅製のもの。。
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江戸初期には地蔵院の別当、修験者の空峰が入って、薬師如来を本尊として管理したと云われています。その後、春日大社から春日明神を迎えて神仏混淆になり、江戸期には宝久寺と呼ばれたようです。明治の神仏分離により別当が復職して中村春日社として郷社になります。
しかし、すぐ近くに神田神社の論社と云われる同じ春日明神を祀る春日神社があるために、春日の名前を外して中村神社となっています。拝殿内の扁額には春日社と書かれています。
前述の犀川神社も同じですが、祭神は武甕槌命(たけみかづち)・経津主命(ふつぬし)・天児屋根命(あめのこやね)・比淘蜷_(ひめのおおかみ)の春日明神です。一応、武甕槌命・経津主命は春日大社では並立する祭神です。春日社の流れはしっかり引き継いでいます。

春日明神の名前は漢字だと解り難いですが、かなにすると聞いたことがあると思いますが、一応簡単な経歴を
武甕槌命(たけみかづち)・・・イザナギ・イザナミの最後の子供の火神・カグツチをイザナギが十束剣(とつかのつるぎ)で斬った際に生まれた三神の一人。出雲の国譲りでは大国主と交渉。反対のタケミナカタと力比べで勝利しています。国譲り以降は最強の武神とされています。鹿島神宮の主祭神。
経津主命(ふつぬし)・・・タケミカヅチと行動の多くを共にしているので同神という説もありますが、タケミカヅチが東征に出る神武に与えた布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)のモデルとされています。香取神宮の主祭神。
天児屋根命(あめのこやね)・・・天孫降臨でニニギに随伴したとされ、天岩戸隠れでは鏡を持って天照に差し出した神様、中臣氏の祖先とされています。
比淘蜷_(ひめのおおかみ)・・・白山信仰の主祭神。白山信仰の関係からか北陸では比売大神に置き換えた形跡が散見されます。
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ついでとは言ってはなんですが、近くの春日神社にも参拝してきました。
こちらの春日神社は、延喜式に記されている神田神社(白山十社のひとつ)の跡地と主張する式内論社でもあります。以前に書いたことがありますが、式内社は延喜式内帳に記された神社のことです。神社を記載した最古の戸籍名簿のようなもので、ここに記された神社は国に古くからの存在を認められた由緒があると見做されたものです。ところが延喜式が記されて1000年以上を経過すると、天災によって消失したり、事情により移転したり、更に分霊による別社も出てくるわけです。当然、由緒を重要視する神社では歴史的な式内社を主張するのですが、明確でないものや複数の神社も出てくるわけです。この場合、主張する神社は式内論社とされるわけです。
神社の入口に「式内社」「式内論社」「論社」と表記されていますが、そういう区別があるのだと理解すると便利です。
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旧石川郡の式内社は10社あったのですが、四社がハッキリした特定がなされておらず、神田神社の後裔となる式内社を主張する神社も、この春日神社と共に神田神社(白山市吉田町)、神田神社(金沢市神田一丁目)と三社が論社となっています。
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春日神社も市街にある神社と思えないくらい樹木が生い茂って、広い境内が形成されています。祭神は中村神社と同じく春日明神(武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比淘蜷_)の四柱になります。拝殿は老朽化で昭和62年(1987年)に建替えられたものですが、古色な雰囲気が残されています。
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本拝殿の隣には参拝すると出世の御利益があるとされる出世稲荷社があります。元々は天保の飢饉の傷が癒えない天保8年(1837年)、稲作の豊穣を願って造られた祠が始まりなのですが、商業地となったこの辺りの住民や企業の信仰を受けて、商売繁盛・出世の御利益があるとして、立派な拝殿と鳥居の通路など、春日神社本殿に見劣りしないものになっています。
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旅行日 2015.08.08

中村神社

春日神社

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コメント(10件)

内 容 ニックネーム/日時
格天井と欄間の龍 素晴らしいですね  これは見なくては・・・
金沢 ますます行ってみたくなりますね 尾山神社な金沢城は何度か行きましたが
又、新しい建物が仲間入りですね 着々と進んでいる金沢城の復元も楽しみですね
 
がにちゃん
2015/08/15 15:22
こんばんは〜

金沢城の復元 大変な作業だけに楽しみでもありますね。
後世に歴史を受け継ぐ為に、とても大切なことかも知れませんね。

格天井と竜のすかし彫りはみごとですね
日本家屋の欄間はこれらから繁栄したのでしょうか。
一言に九谷といっても古九谷などいろいろあるのですね。
イータン
2015/08/15 23:37
がにちゃんさん
この辺りは金沢アピタなどがあって、金沢の庶民の商業地が多いんで、観光から観ると意外な穴場。この神社にも僕が居る間誰も来なくてゆっくり観られました。広小路から寺町に行く観光客は多いんですが、反対方向はは意外に少ない穴場です。
金沢城公園も玉泉院丸が整備されて観る場所が増えました。尾山神社と金沢城が繋がると樹が多い場所を通れるのと、尾山神社・金沢城・兼六園と云った観光のメインが繋がって便利になりそうです。
つとつと
2015/08/16 09:35
イータンさん
金沢城の最大の欠点は、広さの割に建物遺構が少ないことでした。
ただ復元には時代考証のための書類検証や発掘が欠かせないので時間は相当かかりそうです。本丸の天守、二の丸御殿が完成すればとは思いますが、これが最大の課題になりそうです。後世に歴史的な遺産を残すことは大切だと思います。
金沢欄間の最高傑作が成巽閣の謁見の間の彩色欄間と云われているんですが、その作者がこの神社の欄間を作ったと云われています。加賀藩時代には金沢欄間と井波欄間がありましたが、この技術は家屋はもちろん仏壇などに波及して独自の文化を構成しています。機会が有ったら彫刻なら井波は必見ですよ^^
九谷焼は古九谷の名が知られますが、長く断絶していたんです。加賀藩・大聖寺藩が再興を試みたのが再興九谷なんですが藩としては挫折しています。結局、現在の九谷焼の隆盛と名声はそれを引き継いだ民間の力。加賀・能美・小松・金沢と地域や作陶者の違いで作風に独自の違いがあって、けっこう違ったものが多くあります。
つとつと
2015/08/16 09:59
金沢城の建物の焼失は、陸軍の火の不始末が原因ですか。
なんとも残念ですね。
僕がこの前行った北海道でも、松前城の天守は戦災を生きのびたのに、やはり火の不始末で焼失と、全国には残念な結末をむかえた城は多いですね。
金沢城には以前行ったことがあるのですが、近年復元がすすんでからは行っていないので、ぜひとも再訪したいと思っています。
家ニスタ
2015/08/16 11:28
日本の建造物は木造が多いために火災が一番怖いですね
金沢城は江戸期を通じても、何度も火災に遭っています。ただ、不始末というのは何とも悔いの残る出来事です。金沢城の復元も五十間長屋、井守掘、河北門、橋爪門に続いて玉泉院丸が完成しています。玉泉院丸は練兵隊の馬場として土盛をされていて、その後は武道館や体育館がありましたが、すっかり様変わりしたようです。
毎度、仕事で通ることが多いんですが、堀沿いの石垣としては僕が一番好きな場所です。整備されて観ると城内の広さが再確認されます。来週ですが能登に行く予定です。天気が良かったら以前云っていた松浪城に再訪したいと思っています。
つとつと
2015/08/17 11:41
天井の龍は 自分の住んでいる歴史・文化にはうとい地域でも 古い禅寺にはあるようです  金沢や京都では いろいろ発見できていいですね
メミコ
2015/08/17 18:41
メミコさん
金沢や京都だけでなく、各地域には江戸・名古屋・仙台他、各地域の主要都市は文化の発信源として華やかで各地域や遠隔地にもに波及しているんですが、その他の地域にも波及してもその土地の独自の文化は根強く生きているものです。僕は昔、転勤族であっちこっち行ったんですが、必ず違った文化は根づいています。意外に思うかもしれませんが、同じ石川県内では一部で金沢は嫌われ者なんですよ^^平成の大合併ではあっちこっちに声を掛けたけど、全部蹴られてしまっています。
僕の出身地・津幡は金沢の衛星都市のように思われていますが、富山の小矢部や高岡との関係性の方が高いんです。現在の白山市も位置的に金沢市の衛星都市みたいな立場ですが、白山麓を含めて昔は熱狂的な真宗の地域でした。そういう面で文化は金沢と幾分違っています。独自の文化や歴史はいろいろな面で地域や町ごとで変わってきますから、興味が尽きません。
つとつと
2015/08/17 21:43
金沢城はたび重なる火災に有って貴重な建造物が失われているんですね、場外に移転して難を逃れて建物も現存している事はせめてもの救いでしょうか。
尾崎神社に移転した東照権現と云えば徳川家康を祀ったものですね?、金沢城内にその様な神社の建物が有ったのでね、西方の武将の前田家でしたが徳川の世になってから長かったですから、謀反を取り締まりに気を使って居たのでしょうか。
go
2015/08/19 13:07
goさん
3代利常は多少反幕の気運が強かったのですが、4代光高は徳川家光と親密な関係が構築されていて、一時は家光の養子となって将軍候補にしようという動きまであったそうです。当然、光高も親幕府派の傾向が強かったようです。そこで造ったのが東照権現でした。この建築は利常・利高の親子間でも一悶着あったそうです。
ちなみに光高のお母さんは珠姫で家光のお姉さん、奥さんの大姫は水戸黄門の光圀のお姉さんで家光の養女になっていました。親子関係、夫婦仲も良く、そりゃ、親幕府派になるわけです。
とはいえ、火事が多発した金沢城で江戸初期からの建物が現在まで残っているんですから、徳川家康恐るべしというものですね。
つとつと
2015/08/19 13:42

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中村神社拝殿 (旧金沢城二の丸舞楽殿・旧卯辰山招魂社拝殿) つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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