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zoom RSS 境関@ 境一里塚

<<   作成日時 : 2016/12/05 23:17   >>

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以前、加賀藩の関所跡として一番西に当たる大聖寺関をご紹介しましたが、今回は一番東に当たる境関をご紹介しましょう。
は越中・越後の国境で今ものどかな風景があります。富山県内でもまっすぐな海岸線・国道・北陸本線が観られる数少ない地点でもあります。
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石川・上越間を国道8号線を走っていると、石川からだと富山を過ぎた片貝川の手前で二股に分かれて新設された山側周りの道が本道で、旧国道がバイパスになっています。その時の気分で走るんですが、正直どちらも単調な道で片側一車線が多く、低速の先行車がいると辛いはイライラするはですが、再合流して入善・朝日を抜けて城山トンネルを抜けると、一気に視界が広がり、市振への峠越えは親不知前の最期の登坂2車線、親不知に入る前に1台でも前に出たいと、アクセルを踏み込むドライバーが多い場所です。
この登坂車線の始まる境交差点を左折した道が旧街道になります。久しぶりに左折して立ち寄ることに。
江戸期当時は当然ながら国道8号は存在せず深く急激な尾根になっていました。この海沿いの街道が越中と越後をつなぐ唯一の通行・交易路でした。
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この旧街道に加賀藩の最東端になる境関所があったんですが、この旧街道には現在は道に沿って住宅や商店が道路に沿って家屋が立ち並んでいますが、一旦通り越して国道8号線に再合流する一角に一旦立ち寄ることに。。境関も市振関という関所は存在しませんが、ここに江戸初期の一里塚が残っています。

越中・越後の国境は古くから北アルプスの北端の一つ・犬ヶ岳を源にする境川になっていました。この境川は古来は神済(かんのわたり)と呼ばれています。古来からこの国境は重要な軍事拠点となり、源義仲・北陸宮、上杉謙信の越中侵攻、佐々成政の対上杉防衛など時代ごとに攻防が繰り返されています。また越後の親不知を出た市振、朝日の城山を越えた境はこういった軍事拠点であり緩衝地でもありました。

越中国はすんなり読める人は少ないと思うけど、礪波(砺波・となみ)郡・射水(いみず)郡・婦負(ねい)郡・新川(にいかわ)郡からなりますが、歴史の変遷で多少の異動はありますが、現在の県の中央である富山市内を流れる神通川を境にして前三郡の西半部と東半部の新川郡に分かれます。ちなみに新川は常願寺川の古名になります。

戦国末期、越中は佐々成政が領有して反秀吉として孤高を保っていましたが、豊臣秀吉が前田利家を支援した越中の役(佐々討伐)によって佐々成政が降伏すると、越中西部の三郡が前田利家の領有となり、新川郡22万石は佐々成政が許されて領有します。天正15年(1587年)に佐々成政が肥後に転封になると秀吉の直轄領になり、後に前田利長に与えられ越中一国は加賀藩領となります。慶長10年(1605年)利長が家督を弟・利常に譲って隠居、隠居領として新川郡をもって富山城に入城しています。ちなみに前々月に徳川家康が秀忠に将軍職を譲っていて、病中というのもありましたが、それに倣ったともいえます。

前田利長が在世中は境関には口留番所が置かれていたのですが、利長晩年になって持ち上がった幕府からの新川郡返上問題で、関所など問題外で、境関所の成立は新川郡の加賀藩領有確定後、利長の死の翌年、慶長19年(1615年)大阪夏の陣後になります。
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徳川秀忠は大御所・家康の陰に隠れた面が多く目立たない存在ですが、政策や立案・実行の力は結構あったようです。
秀忠時代は多くの大名家の統廃合が行われていますが、特筆すべき事業としては駅伝馬制の整備によって道路交通の整備が挙げられます。東海道の五十三次の宿場が整備されたのがこの時代です。江戸への経済流通の迅速化、防衛化を目的にしたという名目です。もちろん一代でできる事業ではありませんでしたが、五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の整備事業は、一部には家康の政策といわれますが、秀忠の将軍就任以降でありその政策の立案発信は江戸から発していますから秀忠の業績だと云えるでしょう。

五街道の道幅の拡幅、宿駅(宿場)と伝馬の設置整備の強制、一里塚の設置・再整備を行って伝令・交通網の整備を行ったわけです。全国統治を行うには正確な情報の迅速集中化が必須であり、物流の中央集中化は必須でした。この交通網の整備は各地方大名にも通達され、道路整備・伝馬整備、一里塚の設置を義務付けています。国内の流通・情報伝達システムの統一は幕府が全国統治を図る上には必須の課題だったわけです。逆に整備しすぎると幕府防衛には支障をきたしますから、この五街道プラス要所に53カ所の関所を設置していました。

もちろん戦国時代の各大名も自領の宿駅・伝馬・関所などは設けていましたが、軍事的要素が強く、伝馬などは城下町に置くことが多かったようです。城下町だった都市に伝馬町という地名が残っていますが、その名残りといえます。ただ独自色が強く、安定国家を目指す上には支障をきたすので、標準化と義務化を図っていったわけです。秀忠の政策は、武家・禁中並公家諸法度などの法律制定や旧来の大名の配置転換や取り潰しが目立ち、暗い印象を与えるものが多いですが、伝馬制度も強制施行(設置維持に反する者はその場でぶち殺せと定書を自身の名で発行しています。)していますが、一里塚を含む道路整備は秀忠の第一の功績と云えるでしょう。五街道の一里塚の始点となる基準点は江戸日本橋になります。現在各地に残る一里塚は江戸期のものですが、そのほとんどがこの五街道の基準点に合わせて造られたものです。日本の中心はこれからは江戸幕府の江戸だと主張したわけです。ところが加賀藩の一里塚は少し様相が違います。
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一里塚に関しては、奥州藤原家初代・藤原清衡が白川から外ヶ浜に卒塔婆を一里ごとに建てた里程標が始まりとされています。室町中期には一休宗純が「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」という有名な句を残しているように、全国に広がっていたようです。ただ清衡が建てた卒倒婆の一里は500mなのか655m、4キロなのかは勉強不足で不明。。。
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一里という距離は中国古代王朝の周代(西周、BC1046頃〜)に300歩四方の面積としたのが始まりで、尺貫法は人間の体格や生活によって多少変わっていくものです。周・秦・漢と経て、距離として360歩(1800尺)に規定されたのですが時代や地域一尺基準がバラバラで、清の時代1915年に一尺32pに定義され一里576mとされ、1929年に一里=1500尺に改められて500mに固定しています。ちなみに現在の中国のややこしいのはkmを里と表記するんですね。尺貫法の里は市里、kmは公里としています。
ついでに同じ漢字圏の朝鮮では朝鮮併合まで一里=420mでしたが、日本の一里=朝鮮の十里と改められ、現在は滅多に使いませんが約400mとしています。
日本には律令制度導入に伝来したと思われ、当初は大宝律令では300歩で規定されていました。当時は約533.5m。大宝律令では各国郡村庁の重りや物差しが配られたのですが、朝廷の権威が衰退、同じく律令の衰退とともに地域間でこの長さがばらけていきます。戦国期までには、ある程度一尺は定まりましたが、一里が5町(一町=60歩)又は6町となって約545.5〜655m、更には約一時間歩いた距離ということで36,40,48町里などというものまで、、、これをまとめようとしたのが織田信長で、その跡を継いだ豊臣秀吉が36町=1里と定めています。ただし、この時は基準の尺・間が微妙に違っていて一里=約4.255m。秀忠がこの尺・間を変更して現在とは微妙に違うけど約4kmに、明治に改めて基準が確定して一里=3.927mになっています。
江戸時代も地方によっては変わらず一里を6町で換算した地域もありますが、この時代ごとの里・町里・町を理解すると、古文書や古文の距離感が理解できるかも。
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ちょっと、頭が痛くなる文になりましたが、徳川秀忠が全国に道路整備と共に一里塚の設置を指示したわけですが、前述のように江戸日本橋を基準点にして一里ごとの距離に全国の一里塚を統一させようと図ったわけです。ところが、加賀藩ではこれを無視した形になっています。実はこの一里塚の場所には、それ以前から一里塚が在った場所なのです。この場所は国境から僅か100mほどの地点、領内の距離基準としては絶好の位置にあったわけです。加賀藩領内の一里塚はこの境一里塚基準点にして、北陸道・上使道・参勤交代の経路に一里塚を作っていました。どちらが古来からの元の塚かは不明ですが、旧街道の両側に北塚と南塚の二つの一里塚が築かれていたそうです。残念ながら、明治に国道8号線の整備によって南塚は破壊され北塚だけが残っています。

徳川幕府が指示した一里塚の形態は小山のような塚に榎などの木を植林したものでした。榎は地中に頑強な根を張ることで知られており、塚山の崩壊防止と旅人の木陰を提供する目的があったようです。一里塚の植林に関しては、桜や栗・松なども使用されていますが、榎が約7割を占めたと云われています。
境一里塚もこの幕府指示の形態を踏襲しており、小山を築いた上に榎が植えられています。江戸期の一里塚の考察や研究対象としては貴重な存在です。

慶長14年(1609年)加賀藩主・前田利常が付近住民を使って築かせたと云われており、富山県内の一里塚跡としては、初期からの原形を留めているのは、境一里塚だけだそうです。
越中国には七大河川(黒部川、片貝川、早月川、常願寺川、神通川、庄川、小矢部川)や多くの河川によって扇状地が形成されているために、北陸道は海岸線を通る部分が多く、大河の氾濫や海岸の浸食によって、一里塚が流されたりして、江戸時代にも幾つかは消滅していたと云われます。明治以降の道路整備や拡張、市街地や住宅地の整備で取り壊されたものも多いそうです。それでも長く参勤交代・物流・旅人に多大の貢献を果たしていました。
金沢市街で観光客で賑わう橋場交差点に石川県里程元標。白山市の美川南町の藤家神社の側に石川県道路
元標があるように、明治に入って政府が県庁に基準点を変更して、メートル法加入で役割を終えたと云えます。
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越後側から来ると境の関所はすぐ目の前、ここで休憩しながら関所通過の覚悟を決め、関所を通過した者はホッと安堵の息を吐いたと思われます。

次回は加賀藩最大の関所跡だった境関所跡をご紹介します。

旅行日 2016.10.24



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境関所A 境関所跡
現在は主要道路になる国道8号線は当然ながら江戸時代には存在せず、前回紹介した境一里塚横の海沿いの街道を500m程進んだ先に、境関所が明治2年(1869年)までありました。 ...続きを見る
つとつとのブログ
2016/12/15 12:39

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コメント(5件)

内 容 ニックネーム/日時
  こんにちは。

 未だ、風邪も抜けきらず、大変です。
今年の風は高熱と喉に来ました。
味が変わって、美味しく食べられません。

 早く治したいものです。
amefurashi 2899
2016/12/07 15:05
1里もいろいろな長さをたどってきたのですね いまだに尺貫法を使用の西陣 1丈1尺1寸  先日特注で4寸長めに 4寸??? マツコかって主人が言ってました  昔の旅人にとって1里塚は本当に大切なものだったのでしょうね     
がにちゃん
2016/12/07 16:51
amefurashi2899さん
この時機というより、いつでも風邪をひいてしまうと、辛いですね。
おいしくはないと思うけど、少しでも食べて体を休めながら、しっかり睡眠をとるのが大事です。早く治して好きなことができるといいですね^^ファイト^^

がにちゃんさん
旧街道沿いに歩くと、一里塚の碑が時たま見かけられます。今みたいに目印が多くなかった時代には貴重な存在だったと思います。
そうか^^着物はそうですねえ^^身の丈なんて言葉もありますもんね
こと着物のことになると、全くわかってないんですが、マツコかって@@思わずブッと笑っちゃいました。嫁さんに4寸変わるとそんなに変わるのって言ったら、そんな人もいるよ。きっと。わたしゃ既成の帯だと太鼓が作れないと嘆いていました^^;
つとつと
2016/12/08 10:16
6月頃、西ヶ原の一里塚跡を
見学する機会がありました。
東京は道路拡張工事などのため、
昔の面影を残す江戸の一里塚跡は、
西ヶ原を含めて二か所しか残ってません。
車の通行が多くて、江戸を偲ぶ雰囲気では
なかったのですが、それでも、
一対になる一里塚跡に挟まれた道路の幅から、
当時の街道の様子を想像する事が出来ました。
…という事があったので、秀忠が
道路交通の整備に功績のあったお話は、
大変興味深く思われました。
yasuhiko
2016/12/10 11:49
yasuhikoさん
一里塚のあった街道は、今ではほとんどが幹線道路ですから、拡幅工事で破壊されていますから、、、しかも都内で左右二基が残るというのは貴重な存在だと思います。地元の保護と理解がないとなかなか難しいと思います。
五街道の一里塚は立派なものが多かったと聞きますが、車人間の僕としてはなかなか見る機会がないとも言えます。ただ以前に中山道の垂井宿近くの垂井一里塚は観ましたが、一基だけとはいえ、まるで古墳のような形でその大きさに魅入ってしまいました。
つとつと
2016/12/10 20:12

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