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zoom RSS 高山右近記念公園@

<<   作成日時 : 2017/09/01 18:18   >>

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今年(H29)2月7日 大阪城ホールで戦国武将だった高山右近(洗礼名ジュスト、ユスト)の列福式が行われ、高山右近を福者とするカトリック教会・ローマ教皇庁の宣言がなされました。古くから、高山右近の所縁の地(金沢・高槻・明石など)から日本キリスト教会に聖者・福者の申請が行われており、もっと大きなニュースとして報道されると思っていましたが、意外に小さい見出しで逆に驚いたものです。やはり、キリスト教は名前は知られても、まだまだ日本での地位は小さいものなのか、聖人じゃないとダメなのかと勘繰ってしまいました。

高山右近列福式ニュース ⇒ バチカン放送局

カトリック教会では各教区から推薦された候補者が「神のしもべ」とされて、教皇庁列聖省による列福の審査対象者になります。神のしもべの中から英雄視、福音的な生涯と公認された者が「尊者」と呼ばれます。
更に、尊者の徳ある行為、あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたものであったことを列聖省が証明した者が列福式を経て「福者」になるわけです。「福者」はその上のランクになる「聖人」の候補者になるんです。今回の高山右近の「福者」の列福は「聖人」への道が開かれたことを意味します。一部関係者の間では一気の列聖を期待していた向きがありました。

ちなみに、近年、「聖人」となった有名人は、「神の愛の宣教者会」を設立して貧困者の救済と後継者育成に尽くし聖女と呼ばれたマザー・テレサ(1997年死去、2003年列福、2016年列聖)。歴代2位の教皇在位と宗教の枠を越えて融和を図ろうと「空飛ぶ教皇」と呼ばれた前教皇・ヨハネ・パウロ2世(2005年死去、2011年列福、2014年列聖)。この二人は調査開始などに関しては特例で調査から列聖を早めたと云われています。通常は列聖は50年以上係ると云われています。

日本人の聖人は慶長元年(1597年)、豊臣秀吉の命令で京都・大阪で捕縛されたキリスト教司祭・修道士・信徒が24名と随行者2名が長崎・西坂の丘で十字架の磔刑にかけられた日本最初の殉教者として列聖された「日本26聖人」(列福1627年、列聖1862年)。26聖人の内、日本人は20名・スペイン人4名・メキシコ人1名・ポルトガル人1名でした。元治2年(1865年)建造の日本最古のキリスト教建物・大浦天主堂の正式な名称は日本二十六聖殉教者堂といって、この26聖人に捧げられたものです。

元々、豊臣秀吉はキリシタン禁教令(宣教師追放令)を10年前に発布していましたが、南蛮貿易の重視から宣教師の布教活動やキリシタン棄教の強制は一部に限られ、一種の黙認状態でした。ところが前年に起こったフェリペ号事件のこじれが前述の処刑事件に繋がっており、詳細な事情は解っていませんが、秀吉はスペインの進出に懸念を持っており、フェリペ号を海賊船として扱った節が強く、そのフェリペ号に乗っていた宣教師がフランシスコ会だったのが引き金になっていたようです。布教活動を自粛していたイエズス会(ポルトガル系)に比べ、後発のフランシスコ会(スペイン系)の急激な活動への警戒心は非常に強く、捕縛対象としたリストはフランシスコ会を対象にしていました。

この監視・捕縛リストには、イエズス会系の高山右近他三名(ディエゴ喜斎・パウロ三木・ヨハネ五島)も含まれていました。奉行の石田三成はこの4名の除外を秀吉に嘆願していますが、高山右近の除外は成功しますが、三名は救えず捕縛処刑することになります。ただ、高山右近はこの時には加賀藩預かりとなっており、この逸話はいぶかしいですが、、、三成が三人のイエズス関係者をはずそうと奔走したのは史実のようです。
結局、24人(1名は誤認逮捕のまま)は京都で左耳たぶを切られ(秀吉は鼻耳削ぎを命じたと云われ光成の独断のようです)徒歩で冬の道を長崎まで移送されます。世話係として随従した二人も殉教の為に途中で捕縛。西坂の丘を処刑場に選んだのは殉教者たちでゴルゴダの丘に似ているという理由からといわれ、用意された十字架の磔台に登る際も釘打ちを希望しますが、日本ではそんな風習は無いと役人に断られています。遺骸は殉教者(聖遺物)として集まった群衆によって分けられ世界各地に伝わったと云われます。26名一人一人に説話がありますが、それはまたの機会に。。。1627年列福、1862年列聖。。

徳川幕府がキリシタン禁教令を発し、キリシタン迫害の特に厳しかった時代、寛永10年(1633年)から14年、長崎で処刑された外国人司祭・修道士、更にこれを助けた日本人司祭・トマス西を含めた信徒・トマス西と長崎16聖人。日本9人、スペイン4人、フィリピン、イタリア、フランス各一人。
徳川幕府の行ったキリシタン迫害は残酷そのもので、拷問で棄教を強要し、それでも棄教しなければ逆さ吊りなど、棄教の為に時間をかけたなぶり殺しの刑が横行しました。後述のアンサロネ、トマス西はこの刑で7日逆さづりにされて亡くなっています。

ドミニコ会管区長・ジョルダノ・アンサロネが商人に偽装して日本に潜入、布教支援活動を行っていましたが、長崎で病気となり、同じく潜入布教していた日本人司祭・トマス西に匿われ看病を受けていた際に、密告で発覚捕縛され西坂で処刑されたもの。また同時期に日本潜入を図ったとして琉球で捕縛されたフィリピン初の聖人・ロレンソ・ルイス(修道者)と外国人司祭2名。また同時期に捕縛され処刑された殉教者を含めた16名で長崎16聖人と呼ばれています。1981年列福(フィリピン)、1987年列聖。

ちなみに先述のトマス西の両親・兄は慶長14年(1609年)に密告によって斬首されており、慶長8年(1603年)から寛永16年(1639年)に江戸幕府のキリシタン禁教令で殉死した「ペトロ岐部(きべ)と187殉教者」として2008年列福されています。
この188人の中の代表のペトロ岐部は司祭となるためマンショ小西、ミゲル・ミノエス(美濃出身)と共にマカオからゴアを渡海し、陸路をローマまで一人で徒歩で走破、途中エルサレムにも巡礼しており日本人初の聖地に立った人物。

ゴアから喜望峰経由で渡海の二人とはローマで合流、ローマで司祭として認められ、リスボンで修学。ミゲル・ミノエスは修学中のリスボンで客死していますが、宣教師渡海を禁じている日本に潜入、東北にまで布教・宣撫に努めて仙台で捕縛され、江戸に送られて処刑されています。自分の足で歩いた走破距離は日本人としては最長で「日本のマルコポーロ」と呼ばれています。後輩ともいえるミゲル・ミノエスはリスボンで客死していますが、マンショ小西もペトロ岐部に遅れること7年後に司祭となり、ペトロ岐部を追いかけるように2年後には日本に戻っています。近畿中心に12年に渡って布教活動を行い、ペトロ岐部の死から5年後、茨木で捕縛、茨木もしくは飛騨高山で殉死したと云われています。彼の死で日本人司祭は明治まで存在しなくなります。
また188人の中には、、天正遣欧使節の副使・中浦ジュリアンもいます。
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ここまで長々とカトリック教会の聖人・福者について書いてきましたが、日本人の聖人29名・福者188名いますが、日本での殉教者として団体扱いで個人としては過去になかったわけです。
キリスト教関係者がかけた高山右近の個人としての列福・列聖は、日本のキリスト教会の悲願だったわけです。

戦国から江戸期にかけて日本人司祭・教徒の中には、前述の高山右近・ペトロ岐部・マンショ小西・天正遣欧少年使節の伊東マンショ・原マルティノ・中浦ジュリアン、小西行長の家臣・内藤ジョアンなど日本だけでなく世界に名を知られたキリシタン信徒がいましたが、江戸期を通じて禁教の日本、更に鎖国と、列福申請後の調査資料を入手できない、明治以降になっては資料の散逸・稀少など、日本人聖人には大きな壁が立ちはだかっていたのです。高山右近も死去すぐにローマで福者への動きはあったのですが、この壁に跳ね返されていました。
ちなみにキリスト教のもう一つの本山と言える正教会では福者はなく、聖人のみで日本人聖人は未だにいません。日本関係者では正教会を伝えた初代日本大主教・ニコライ・カサートキン、元京都主教でロシア革命で惨殺された大主教・アンドロニク・ニコリスキイ。

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能登の静かな町、志賀町(しかまち)末吉。ここに小さな公園に高山右近の銅像が立っています。なぜにこんな田舎に右近の銅像がという感じ。。あいにくの雨でちょっと暗い感じですが、高山右近像としては、高槻の高山右近像と同系で一番馴染み深く見えると思います。この志賀町の地は加賀藩在住中の所領地だったと云われています。後年ですが、マニラから帰国した右近の長子・十次郎長房が住み着いた地とされています。右近の息子三人は帰国許可が下りたかは不明ですが、帰国後、十次郎以外に次男・忠右衛門は越前(現・福井市)、三男・亮之進は豊前(現・大分市)と場所は分かれますが子孫が残っています。
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高山右近像は平成11年(1999年)に設置されたもので、、作者は西森正昭(方昭)氏。大阪府出身。金沢美工大・京都教育大の彫刻科卒。現在は77歳で大分・湯布院居住でモニュメント彫刻家・講師として活動しています。滋賀県の草津駅近くにバレリーナの彫像を見た記憶があります。
土台石材は田中石材店。銅像鋳造は高岡市の竹中製作所。現在の竹中製作所の銅器製造は分社化されて竹中銅器となっています。高岡市は全国銅器・銅像製作の全国シェア90%以上を占めますが、その高岡の銅器メーカーの中でも銅器製造を牽引する会社です。亀有の両津勘吉像や京都の黄桜の河童像もこの会社の製作です。検索すると知っている銅像が出てきます。
           竹中銅器の銅像実績 ⇒ 竹中銅器HP
寄贈者はまた後で紹介することになりますが、加賀高山家16代・高山豊次氏。






この高山右近像の同形の銅像は5体あります。いずれも高山右近所縁の地です。
1.最初の原型は昭和47年(1972年)に作製された高槻城址公園にあるもので「国際ロー・タリー366地区年次大会」記念に制作されたもの、当時、作者の西森氏は高槻在住だったそうです。
2.フィリピン・マニラ市・パコ駅前広場 昭和53年(1978年)設置 パコ駅前広場は旧日本人居留地(日本人町)・ディラオが在った地です。高槻市とマニラ市は姉妹都市の関係にあり、その所縁から設置されたものです。
3.高岡古城公園 昭和57年(1982年)に設置 高山右近は築城・修復の巧者と云われていますが、縄張りからの一から築城したのは高岡城のみになります。
4.小豆島 カトリック小豆島教会 平成17年(2007年)設置 元々は高槻市の温泉施設にあったのですが企業倒産で西宮・カトリック大阪大司教館に移設、阪神大震災で司教館移転で大阪・玉造に、拡張工事のために現在地に移設と流々転々とした経緯があります。

戦国武将・大名(6万石)としての高山右近の人気は当時も高かったのですが、現在もその信義と誠実・温厚の行動で人気が高く、特に歴女からの指示が非常に強く、いろんなブログやサイトに登場していますので、人気の前半生は割愛します。豊臣秀吉の禁教令で棄教を拒否して領地没収・追放処分、国外追放でマニラ到着後の客死は誰もが知っています。この棄教勧告に逆らって戦国武将の地位を捨てた行為が34歳、マニラ追放後の死が62歳、それまでには約28年の期間があります。
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高山右近の信義と礼儀は戦国大名間でも知られており、最初の1年余りは秀吉の目を逃れるために、細川忠興・有馬晴信・小西行長などの好意で小豆島・熊本に隠れていました。
ほとぼりが冷め、秀吉も軟化したころ、細川忠興からの依頼を受けた前田利家・徳川家康が、秀吉へのとりなしを行ったと云われています。「右近は武勇だけでなく茶道・連歌・俳諧にも達した得難い人物」が殺し文句と云われています。家康も「右近率いる千人の手兵は、他将の万人の手兵に勝る」と高く評価しています。

これは伝承ですが、この際に秀吉は利家・家康のどちらかが身元引受人になるならばと了承します。二者択一を迫られた右近が選んだのが前田利家でした。利家の長子・利長とは利休門下として仲が良かった関係も大きかったようです。こうして右近は加賀藩預かりとなります。その期間は26年間の長きにわたります。
秀吉への交渉後、当時、伏見在住の右近の居宅にすぐ赴いた前田利家は「金沢に来い。3万石を与えるから」と勧誘したと云われ、対する右近は「禄は少なくて結構です。南蛮寺一ヶ寺でも建てて頂けるなら、参ります。」 利家が了承したために、右近は金沢に行くことになります。これにもおまけの伝承があって、新領国・関東経営に苦心する家康は即勧誘とはいかず、利家に先を越され、後に痛恨事として悔しがったと云われます。

徳川幕府の禁教令により、右近がマニラ退去となり、キリシタンの跡を消そうと躍起になった加賀藩・前田利常の時代以降。。加賀藩では高山右近の詳細はあまり残っておらず、加賀藩のキリシタン事情もほとんど不明状態で、僅かな資料に頼るしかないのですが。。。高山右近の残した足跡は金沢や能登に精神的にも事物としてもいくつか垣間見られます。
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まずは前田利家高山右近を迎えた当初、右近の住まいは現在の21世紀美術館の敷地内だったと云われています。知行に関しては能登七尾・高浜・志賀と飛び地ではありますが2万石で迎え入れています。ただ、利家存命時は大阪・金沢の間を何度も往還しており、金沢はともかく能登にはあまり訪れていないようです。


前田利家の戦陣にも参加しており、小田原征伐では北関東から武蔵野にかけての戦陣に参軍しています。金沢在住中には利家の相談役となり金沢城の修復、町割り、茶道文化、菓子文化など現代に繋がる文化の発露は高山右近の功績と云われています。

前田利家高山右近を信頼し重用していたことは利家が嫡子・利長にあてた遺言状に現れています。慶長4年(1599年)重病中に小康を取り戻した利家は枕辺に正室・松を呼び、口述筆記で11か条の遺戒を利長に残しています。10日後に利家は亡くなっています。ちょっと長いですが。。少し言葉や言い回しは変えた部分もあります。

※1 自分の病は悪くなるばかりで回復がおぼつかない。近々死ぬかも知れない。死んだら女房の長持に入れて金沢へ送り、野田山に墓を造って葬って欲しい。死骸といっしょに女や子供は加賀へ連れていくように。
※2 次男・孫四郎利政を金沢へ帰らせ、金沢城の留守役にせよ。利長、利政兄弟の下に兵力は1万6千ほど有るだろうから、その内の八千は大坂に詰め、後の八千は金沢に居る兵力として利政の命令で動くようにせよ。自然のなりゆきで大坂にいざこざが生じ、秀頼様へ謀叛する者が出たら、利政は国元の八千の兵を連れて上洛し、利長とひとつになって働くように。金沢の留守は篠原出羽(守)一孝と利長の腹心の者一人を添えるように、出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。
※3 利長に子もないことであり、兄弟といっても孫四郎ばかりであるから、義理の悪いことはしないと思うが、念のため孫四郎には大納言つまり自分同様に父とも兄とも思うように誓詞を書かせてあるからご覧にいれる。今後子供とも弟とも思って万事行儀の良くなるように意見するがよい。
※4 自分の隠居料として貰っている加賀石川・河北および越中氷見郡の知行は利長へ差し上げる。能州口郡の1万5千石は利政へ遣わしたがよかろう。
※5 判金千枚、脇差3振、刀5腰に札を付けておいたから利政に遣わしてくれ。そのほかは一々書面に書いてあるから残らず利長へ譲る。
※6 金沢にある金銀諸道具はみな帳面に書いてあるから利長に譲るが、死んでから3年間は加州に帰ってはならない。そのうち家康との対立も解決するであろう。
※7 利長、利政の兄弟に申し付ける。第一は合戦の場合は敵の畔でもいいから踏み込んで戦え。他国からの押し込みは草の根の陰たりとも許してはならない。信長公は少人数でも敵地へ踏み込んで勝利をえられた。
※8 奉公人は20年ほど召し抱えた者は、その家の作法をよく心得ているから本座者、譜代の家臣として扱ってもよい。利家の兵士が佐々内蔵助成政と戦ったとき、または関東松枝八王子の合戦で仲裁に入ったり、または攻めたてた時分も、新参でも過分の知行をやって呼び寄せ家臣としたが、本座者には劣っている。我が家ばかりでなく信長公や尾張一円を手に入れた折り以来、新参者は本座者を越えることなし。万事本座を大切にせよ。人間は生まれつき出来、不出来はあるものだが、利長は加賀・能登・越中3ヵ国の主であるから万事によく気を配るべきだ。近習にえこひいきのしない者4・5人に誓紙を出させた上で召し抱えさせ、外様でも家系のよい者を探して召し抱えることは良いことだ。その上で新参は家の威勢のよいときは奉公するものだが少し傾くと自分の都合のよい方へかたよる者だ。本座者は平常ぶつぶつ言っていてもいざというときは御家を大事に思い逃げるようなことはない。この儀は申すに及ばないことだが申し聞かせておく。信長公死なれしとき、安土から家内を連れて逃げた道々でも本座新参の区別が良くわかったろう。その時の心持を忘れてはならない。
※9 武道ばかりを元とするのはいけない。文武二道の侍はすくないが分別者だ。見聞して探せ、新参にても情をかけて召し抱えさせた方がよい。余も一代を本座のつもりで処置した。合戦のときは先手にさせてもついに落ち度がなかった。諸侍の生活ができるよういたわって使ったら良い。
※10 長九郎佐衛門連竜と、高山南坊は切支丹大名で高槻城主であったが秀吉の忌諱にふれ、茶人として利家の客分になっている高山右近は、他家に目をくれず余一人を守り律儀人であるから隠居しても少しずつ茶代を遣わし情をかけてやってよい。片山伊賀(延高)は身上よりもぜいたく者であるから成り行きでは謀叛することもあろう。甘言に乗ってはいけない。徳山五兵衛(秀現)は目をくれて余にそむき知人になっていると聞いている。しかし余が存命中は叛くこともあるまいが死んだら必ず叛くから左様に処置しておくといい。山崎長門(長徳)は善い者で成政との戦いでも鳥越峠をよく攻めた。しかし、片意地な武者だから侍30・40の頭は務まるが一軍の将には向かない。
※11 村井豊後(長頼)と奥村伊予(永福)は子供に家を渡し楽をさせてある。しかし、余が死んでも一層情をかけられ髪も剃らせるようなことはせず、祝い事などのときはこの両人、家の老(おとな)として取り扱うようにしたらよい。その上大事な合戦すなわち大坂出陣のようなことがあったときには兵士千人ほどあて預けておき身辺を守らせよ。伊予というのは荒子城明け渡しのとき余と仲たがいし浪人であったが敵首を取って帰参した者だ。その上内蔵介との取り合い、末森合戦のとき末森城を預けたがよく持ちこたえて忠節をつくした。関東陣でも先陣として落ち度なく戦った。豊後は江州金ヶ森で佐久間玄蕃(盛政)と一緒に居合わせて一番乗りをやり、その上よき首を取り信長公のお目にかけた。大坂大森口合戦(堺大森?)のときも余の傍に居てかなりの手柄を立てた。長篠合戦のときは余の眼前で太刀打ちをし、名のある者の首をとりおった。このことは常々その方へも話した。越中佐々内蔵助と合戦のとき、末森後巻の先手をさせ、また越中蓮焼き(蓮沼城攻)のときも度々先陣をいたし忠節をつくした。別してこの者に情をかけられるのはもっとものことだ。岡田長右衛門(祐筆)は算用の上手な者で身分不相応とは思うが、なじみ深い者だから隠居料として2千石をやっている。ただし貴殿の考えでいかようにも取り扱ってよかろう。次に青山佐渡に魚津城を預けてあるが、この者は律儀者だから情をかけられてよいと思う。娘を遣わすかどうかと姫が言っているが、貴殿の考えひとつだ。

右の条々心つきたることであるが口上には後先忘れたこともあるから、書きつけにした。余が死んだら心持ちをしっかり持ってくれ。 以上。 慶長4年3月21日 筑前利家 羽柴肥前守殿


遺書を見る限り、親友と云われた豊臣秀吉には才覚で地位を追い越されていますが、老年期には才覚は逆転しています。秀吉は朝鮮出兵中の兵が渡海中なのに遺書は秀頼を頼むの一辺倒。。自分の立場も忘れたとしか思えません。前田利家は自分で藩財政や行政の決済を自身で行っていましたから、ちょっと細かいですが、現状を見る眼はそれほど曇っていなかったことは評価できます。創業者の死は家の浮沈を招きますが、遺書や遺言を見る限り、豊臣が秀吉一代で終焉したことは頷けます。

残念ながら受け取った前田利長は7割ほどは守ったのですが、肝心な現状政策に係わる※2.3.4.6は、果たせずに終わっています。特に※6の3年は帰国してはいけない。は、半年で帰国し、家康に付け込まれて前田家謀反の狡知を与えています。※2の八千騎の駐屯もできず。弟・利政を後継指名せずに能登20万石の太守として独立させています。つまり後継から外したことになります。もし、加賀藩の立場を強化するならば、遺言を守らねばならなかったでしょう。結果としては前田家存亡に係るか、黒田・伊達の第三勢力もあり、戦乱の時代を再び迎えるとは思いますが、、、

しかし、この前述の利長の失策は、ウィリアム・アダムス(イギリス・三浦按針)・ヤン・ヨーステン(オランダ・耶楊子)を家臣にして、海外貿易を旧教国を排除して新教国にシフトする徳川家康の方針を見れば、右近の運命はここで決まったと云っても差し支えなかったかもしれません。

利家が事細かに書き残した人物評は的確で、、、※10で元高槻・船上城主の大名高山右近を高評価しています。右近が利家に仕えて約10年。遺言に名を挙げられるほどに、信用を勝ち得ていたわけです。
もう一人の長連竜は後に加賀八家老の家柄になりますが、当時は利家に仕えているとはいえ、元々は旧能登畠山家の家老・穴水城主として畠山家なきあと前田利家に与力したもので、右近と共に利家と大小はあっても大名として同格になります。ところが、この二人の忠誠は深く前田家への貢献度も抜群で、新参者を信用しない利家の例外に扱われています。

同文にこき下ろすように書かれた片山伊賀守延高は府中からの家臣で、本来なら利家の言う本座者になります。それなりに有能で府中80石から1万石取まで昇進しています。しかし利家死後の七日後、徳川家康との内通を疑われ大坂屋敷で誅殺されています。徳山秀現は元は佐久間守政の家臣で賤ケ岳後に前田家に5千石で仕官していました。利家の死の翌日、前田家を出奔して徳川家に入っています。
山崎長徳も元は朝倉義景・明智光秀・柴田勝家・佐久間安政の家臣として渡り歩き、賤ケ岳後に前田家に仕官しています。戦経験も多いですが猪突猛進の言葉が似あう人物で大聖寺城攻めで山口親子を討ち取り、浅井畷の撤退戦でも活躍して、1万4千石に身代を延ばし加賀藩・大聖寺藩の重鎮として明治まで家を保っています。しかしながら大阪夏の陣で真田隊が徳川本陣に突入した際に、寝返りを進言して利常に怒られ、戦後隠居、3年後に死去しています。合戦での功績は八家老にも引けを取りませんが、政治中枢に加えられなかったのは利家の遺言と夏の陣の一件が響いたと云われています。

ついでなので遺言に挙げられている人物について
※2 篠原出羽守一孝 父親は芳春院(お松の方)の実兄・篠原長重、若年時から利家に従軍して信用があり、数多くの戦場に参加しています。金沢城の初期石垣はこの人が普請奉行になったもの、数年前に復元された河北門も一孝の奉行に寄ります。利家死去後、棺を運ぶ役も務めていたほど前田家での信用は高く、利長時代には彼と横山良知・奥村栄明(奥村永福の長子)の三者が執政になっています。
一孝は一万七千石で一家を構えたため、篠原本家6千石は弟・長次が継いでいます。一孝の篠原出羽守家は三代で無嗣断絶しています。県立美術館や歴史博物館がある出羽町は屋敷地のあった所です。
ちなみにこぼれ話になりますが、、、本家を継いだ弟・長次は、実は前田利家が浮気をして作った実子で、七女・千世姫(細川忠隆室、細川家の忠隆勘当の原因・離縁後、村井長次(村井長頼の長子・加賀八家村井家二代室)とは双子になります。母親は不明ですが、利家・松の方の間で相当もめたようで、篠原長重を含めた三者会談で千世は松の実子とし、長次は篠原長重が自分の実子として引き取った経緯があります。微妙な関係ですが、芳春院が一番可愛がり、最後まで気にかけたのが千世姫で多くの書簡が残っています。篠原本家は明治まで続いています。

※2 佐脇良之 前田利家のすぐ下の実弟、武勇の誉れ高く佐脇家に婿養子として入っています。永禄初期には利家と共に信長の赤母衣衆に選抜され将来を期待されていました。しかし、信長の勘気を受けて勘当、徳川家に寄宿中、三方ヶ原の戦いで戦死。大河ドラマ「利家とまつ」では竹野内豊が演じたので、知ってる人もいるかも。。一男一女で、妻が前田利次(富山藩始祖)の乳母という関係で、息子は富山藩士に、娘は前述の篠原一孝室。

※2.11 青山佐渡守吉次 
織田信長が元服後に那古野城主になった際に、父信秀からつけられた四家老の一人・青山信昌が父親(他の家老は平手政秀、林秀貞、内藤勝介)。父の死後に利家に仕え、府中から頭角を現しています。利家の妹の娘を正室にしています。数々の戦場を巡っていますが、新川郡領有後は魚津城代として1万7千石。魚津城廃城まで青山家が城代を務めています。

※11 村井豊後守長頼 
前田利家には荒子時代から仕え苦楽を共にした仲で股肱之臣。加賀八家・村井家の祖。
数多くの戦場経験は遺言の通り、利家死後に隠居しましたが、反徳川の急先鋒ながら芳春院の江戸入りに付き添って江戸屋敷に住まい、江戸で亡くなっています。墓所は野田山で家臣で唯一、前田利家夫妻と同敷地で守るように建っています。筆頭家老・本多家の伝承では、長頼の遺体は立ったままの形で関東に向かって立ちはだかるように埋葬されたと云われています。

※11 奥村伊予守永福
村井長頼と共に前田利家の両腕と云われた人物。加賀八家・奥村宗家の祖。
正義感と硬骨漢で知られ、利家の兄・利久の家老職だった時代、織田信長の横槍で家督交代を命じられ荒古城受け渡しでは「主君・利久からはまだ聞いていない」と利家の入城を拒否して立て籠っています。利久の命令で事なきを得て開城、そのまま利久と行動を共にして前田家を退出しています。復帰は利家の能登領有時になります。このため、利久の養子・慶次とは漫画「花の慶次」の中で奥村助右衛門として莫逆の友として描かれ、女性陣に熱烈なファンが多い人物。
佐々成政との末森城の合戦では、末森城守将として城を守り切っています。前田家中では清廉潔白で尊敬を集め、家中掌握の要となっていました。
利家の遺言では髪を剃らせるなとなっていますが、利家死後にすぐに出家隠退。しかし利長の度重なる懇請で筆頭年寄として復帰、加賀藩三代に仕えています。墓所も敷地は違いますが、野田山の利家と同高所で、これは家臣としては村井長頼と二人だけ。

※11 岡田長右衛門
あまり詳しくは知らない人物。。利家の祐筆で微禄の側近、算用に詳しい利家に仕えたせいか利長・利常時代には御算用奉行で4千石に加増。文治の人かと思えば、同僚と斬りあって隻眼という逸話があります。

肝心な高山右近の話が少なく、前田利家の遺言で長くなりました。。。次回は、利長時代の高山右近マニラ追放後について改めて。。。ついでに、雨のぬかるみの中、登ってきた山の中の墓所も。。。

旅行日 2017.08.22

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コメント(11件)

内 容 ニックネーム/日時
高山右近列福式福者  殉教者との認識はあっても キリスト教の事はほぼわからないので 福者になる事がどれほどすばらしい事なのか判りました
前田家も生き残りに大変だったのですね  でも 素晴らしい工芸品なども多く残って良かったと思います

がにちゃん
2017/09/01 21:09
高山右近。好きな武将の一人ですね。前田利家も知ってはいますが、さすがに地元ですね。詳しい内容で、家臣の方々についても知ることができました。こちらはキリシタン大名が多かったりで悲惨なものも含め遺産が残っています。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産登録を目指しています。日本26聖人殉教の地も行った事はあるのですが…。今回興味深く拝読させていただきました。
tor
2017/09/01 22:22
がにちゃんさん
殉教者にしても、キリスト教会内では大きく意見が分かれたそうです。近年、教皇庁の解釈が変わって、右近を殉教者とみなしたそうです。昔は殉教者としては、日本人には抵抗感があったようです。僕もそう思います。 かといって奇跡を証明するのは無理も多いですからね。マザーテレサはともかくヨハネパウロ2世の列聖の理由などは眉唾ですから
前田家は利家の死後の処置が、あまりに情けなくて、地元でも批判が大きいのですが、、、初期段階での対処失敗を何度も犯しているので、徳川対抗を諦めた判断は、致し方なしだったと思います。逆によくぞあそこまで徹底できたと思います。

torさん
高山右近は加賀藩の基礎を築いた一人だと僕は思っています。
今回この分を書いてみると、キリシタン関係には九州との関係がはずせませんねえ
高山右近が加賀に来る経緯にも三人の九州大名が大きく係わっています。
加賀藩では高山右近の影響で、江戸初期には3千以上の信徒(内、家臣団は半数以上)。南蛮寺も能登に2カ所、金沢に1カ所あったと云われています。九州では黒田家もそうですが、その痕跡を消し去ったのですから、どういう処置をとったのか興味深く感じます。もちろん、虐殺行為や無謀な弾圧もあまり聞こえてこないし、、、まだまだ解らない部分です。幕末から明治の浦上事件では500名以上が金沢に送られており扱いには大混乱、キリシタンとの関係は石川では多々あります。
つとつと
2017/09/02 09:20
カトリック教会における
「聖人」候補生としての「福者」の存在。
詳しいご説明でよく分かり、勉強になりました。
能登のごく小さな町に、高山右近の
銅像が建っている理由についても。
キリシタン殉教の歴史を拝読しながら、
遠藤周作の『沈黙』の世界が頭に浮んで来ました。
yasuhiko
2017/09/02 17:02
kasuhikoさん
僕としては高山右近は今回の列福の殉教者という結果はいまいち納得できていないのです。長年、ローマの壁に跳ね返された理由は、奇跡と殉教が強調されてきたためです。元々は右近の生き方を列福理由に挙げ続けた日本でしたが、結局殉教を受け入れた形になってしまいました。教皇庁も殉教の協議を広げた妥協の産物になってしまいました。正直、右近に失礼だろうと。。。ともかく、僕は高山右近自体嫌いではなく、半生を過ごした加賀に居て身近な存在として興味を持っていたおかげで詳しくなったという感じです。
沈黙に出てくるフェレイラは、進んで弾圧にに従事した人物ですが史実では、仙台で捕縛されたペトロ岐部と会談しており、棄教を進めた所逆にペトロ岐部に復帰を進められたと云われます。ペトロ岐部は江戸で拷問、逆さづりでは隣の受刑者を励ますので、引き上げられて火炙りにまであっています。正反対のその姿にフェレイラはどう振り返ったのでしょうねえ。。沈黙での言葉を更に言えたとは思えませんが
つとつと
2017/09/02 21:57
遠藤周作原作の映画『沈黙』で、穴吊りというキリシタンへの刑罰が出てきて、かなり残虐な刑と思いました。
高山右近の像は高岡で見ました。
各地に同じ像があるのですね。
僕の好きな三成が右近を救ったのなら嬉しいですが、史実はそうではなかったのですね。
右近が北陸で人気があるのは、ちょっと意外に感じました。
家ニスタ
2017/09/03 09:05
わたしも 大好き右近さまです

こうして ブログで拝見できるとは うれしい〜です

いつだったか 右近まつりみたいな番組をNHKで見たように覚えてますが 番組よりさらに 興味湧く記事ですね

家ニスタさんも書かれているように 映画 沈黙を思い出しました

ドラマなどでクルスを下げた姿が いつも印象的です
メミコ
2017/09/03 09:50
家ニスタさん
幕府も最初は斬刑が主だったようですが、数の多さや見せしめからキリシタンに対する拷問や刑は、棄教・転宗を目的にするために残酷さが増したようです。フェノロサが棄教した穴への逆さづりや、藁みのを着せて火をつける蓑踊りなど、ぞっとするような物ばかりです。
光成が右近をリストから外したのは間違いないようですが、直接かかわったかは不明です。しかしイエズス会を助けようとしたり、耳削ぎ、鼻削ぎの残酷刑を軽減したのは人間としての正義でしょう。役職と人間の狭間で苦しんだようです。
右近は人気が高い割に、北陸に長く滞在したことは意外に知られていないんですね。
つとつと
2017/09/03 19:29
メミコさん
小説は読んだんですが、映画の方は見ていないんですよ^^;お二人が印象に残った作品なら一度見た方が良いかもしれませんねえ。

高槻では仏教関係者には評判が悪いようですが、高槻ではでは英雄ですし、それ以外の地では教会を中心に伝わっているようです。右近祭ですか?右近の生まれ故郷・豊能町や洗礼を受けて10代を過ごした沢城あたりでやってそうですねえ。

右近は戦国ファンには人気が高いので、間違ったり、悪口書くととんでもない目に遭
いそうで怖いですねえ^^;僕は金沢文化の端緒を創成したのは右近だと思っていますから、昔から好きな武将の一人です。
金沢市役所の隣にあるカトリック金沢教会には別の高山右近像(ちょっとオジサン姿です。)と右近のステンドグラスがあります。金沢に来たら是非必見です。
つとつと
2017/09/03 20:23
こんにちは〜

戦国から江戸期にかけてかなりの数の教徒がいらしたのですね。
まして能登の町まで「高山右近」の銅像が立派に佇んでいるなんて。
すみません!
イータンは歴史に疎く 戦国の世は「細川ガラシャ」の存在くらいしか知識がなくて、つとつとさんの熱心な講義で今一つ知識を詰め込めました。
ありがとうございます
イータン
2017/09/09 17:59
イータンさん
加賀藩では江戸期には必死にキリシタンの痕跡を消してしまったので、高山右近が半生を過ごした業績はあまり残っていませんが、人気武将の足跡があるのは自慢しても良いと思います。右近の茶人としての知識は金沢文化を創成した利常に生きていると思います。
キリシタンで有名な人物は多いのです。ガラシャを導いた右近はもちろん、ガラシャに影響を受けた豪姫も後半生を金沢で過ごしていますから。。
戦国でのキリシタンの影響は大きいですが、人物にも見るべき人多いですねえ^^
つとつと
2017/09/09 23:25

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高山右近記念公園@ つとつとのブログ/BIGLOBEウェブリブログ
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