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zoom RSS 大野湊神社

<<   作成日時 : 2018/06/11 22:33   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 32 / トラックバック 0 / コメント 10

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金沢の東西を外環状のバイパス道路が近年、すっかり整備されました。まだ他にも計画道路が多いのですが、今の知事さんはホントに交通網の整備に力を入れますねえ。確かに便利になったけど、景観が変わりすぎてちょっと寂しいものもあります。

金沢の東側を走る通称・山側バイパス。能登方面に向かう北金沢の花園で中央を走る国道8号と分岐、小松の八幡町で合流します。西側を走る通称・海側バイパスは山側バイパスの途中の白山麓に向かう安養寺北交差点から県庁のある大通りまでつながっています。更に現在は浅野川の手前まで延伸しています。

金沢の中心街を通る国道8・157号線の交通緩和が進んで、進行やアクセスが楽になりました。更に能登里山街道や川北大橋の無料化も拍車をかけています。
この恩恵を大きく受けているのが、車を駆使して広範囲に営業・サービス活動に動く僕なんですね。日頃、景観がどうの、地名がどうの、名所旧跡が消えるなどと言っておきながら、大きな寄与を受けているわけです。
僕が住む旧松任地区はこの山側・海側・8・157号といった主要幹線道路の中心経由地、特に乾の交差点は前述の四路線の中継点で我が家からすぐの場所になるんです。おかげで目的地によって進行があっさり決まります。前は地図とにらめっこがよくありましたから。。

しかし交通網が広域化して大忙しなのが、道路公団や警察関係。。特に白山・金沢西部は大変だと思います。まあ、石川県警本部が県庁横、交通機動隊が野々市の二日市に移転しています。まあ、おかげで海側や野々市以南の8号沿いにはパトカー・覆面・白バイ・検問が多くて戦々恐々になりますが。。
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左が金沢西警察署 右が大野湊神社の大鳥居・表参道 どちらも威圧感たっぷり、この鳥居を潜って歩くならともかく車で入ろうという勇気はなかなか出ませんね。交通安全のご利益はバッチリそう^^;

金沢市内を管轄する警察署は金沢の北部・東部を管轄する金沢東警察署、金沢市街地を管轄する金沢中警察署、西部・南部を管轄する金沢西警察署があります。金沢西警察署は金石(かないわ)・大野地区の金沢港線・金石街道の交差点にあるんですが、正面右手にある大鳥居が目印になります。
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上:大野湊神社 表参道 右:大野湊神社 表参道 木曳(きびき)川・宮腰橋 奥に観えるのが寺中の森と二の鳥居

この大鳥居は昭和10年(1935年)に建立されたもので、金沢西警察署より古いもので、金石・大野地区の総鎮守になり寺中(じちゅう)の杜と呼ばれた大野湊神社の表参道になります。ところが警察署の御威光は強いものがありまして、交差点の脇を曲がって警察署の真ん前で右左折するのを避けるドライバーが多くなります。かくいう僕もこれまでにほとんど表参道を通った記憶がありません。参拝者の多くは大野湊公園や海側バイパス・金沢港線の脇参道や裏参道から参拝する人が多いようです。

標柱は陸軍大将・林銑十郎。この2年後に内閣総理大臣になっています。
この人、石川出身ということもあって、県内に標柱が多く見受けられます。以前紹介した白山中宮三社・八院の筆頭・笥笠(けがさ)中宮神社の標柱もこの人の書でした。
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表参道には多くの灯篭が建てられていますが、この灯籠は参道では一番古い明治42年(1909年)寄進のもの

前田利家が金沢に入部以来、犀川河口を中心に外海に面する外交・交易の窓口としての金石湊、浅野川・河北潟・大野川河口を経由する金沢の海運・川運をになった大野湊は金沢を支える重要地でした。余り地理に詳しくない県民などは現在の金沢港はそのものずばり海の港と思っていますが、実際には大野湊の奥の大野川河口を拡大した川の中の港になるんです。

地図を観れば一目ですが、この金沢西警察署の前の幹線道路は昔から金石街道・金石往還と呼ばれますが、金石大野地区から金沢城下に繋がる重要運送路でした。三代藩主・前田利常が元和2年(1616年)に削定したもので、明治以前の道路は防御などの観点から曲がりくねった道路が多かったのですが、江戸時代初期には異例の2里強に渡る直線道路になっていました。明治には馬車道、昭和40年代までは北陸鉄道が敷設されていました。現在、金沢西警察署があること自体、金石・大野は今も昔も金沢では重要地になってきました。
その重要地の守護神と言える金沢西警察署大野湊神社の鳥居が並立しているわけです。

元々、大野湊神社は海上の守護神でしたが、この金沢西警察署が出来たことで交通安全のご利益もあるということで、ドライバー関係、新車のお祓いなどが多くなったそうです。僕も車にお守りがぶら下がってますねえ。
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大野湊神社 隋神門

大野湊神社の由緒

当社の起源は、聖武天皇神亀四年(七ニ七)猿田彦大神を、すでに鎮座されていた神明社(祭神・天照大神)の傍に勧請したのが始まりといわれている。
この神明社の創設は不詳であるが、あらたに猿田彦大神を天照大神と合祀されてより、この社を大野郷(旧宮腰、現金石町)の湊の守護神として、大野湊神社と称されるようになった。
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御深草天皇建長四年(一二五二)社殿炎上により、東八丁を隔てた離宮八幡宮(現在地)に奉遷され今日に至る。
歴代朝廷、武将の尊宗篤く、特に加賀藩主前田利家公は任国の際、本陣となった当社の荒廃を憂い、宮腰をはじめ十五ヶ村にその総社として祭資を供進させて社殿を再興。二代前田利長公は毎年の神事能興行の例をつくり、また三代前田利常公は、寛永十六年(一六三九)社殿を造営し、氏子村を増加させるなど、歴代藩主の崇敬きわめて篤く加賀藩五社の筆頭の位置にあった。
明治十八年県社に、昭和四十一年神社本庁別表神社に指定された。寺中の森として有名な社叢は、昭和五十二年金沢市文化財に、寛永十六年に造営された本殿三棟は、昭和五十七年石川県文化財に指定されている。
毎年八月一日より三日間執り行われる大祭は、五百二十五年間大野郷に鎮座されていた当時を偲び、海岸の仮殿に神輿を奉遷して行われるもので、金石の夏祭りとして有名である。
なお、慶長九年に創始された神事能は、現在も金沢能楽関係者により五月十五日に奉納されている。

昭和六十年五月吉日 大野湊神社宮司 川ア正昭 識  
               題字 石川県知事 中西陽一 謹書

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大野湊神社 外境内 狛犬

大野湊神社は元々は宮腰(金石海岸)の真砂山に神明社として存在していたとされます。
神亀4年(727年)、航海中の陸奥の住人・佐那が海上で猿田彦大神の感化を受け、神明社の傍らに祠堂を造立したのが始まりで大野湊神社となったとされています。延喜式内帳にも記載された古社になります。
大野湊神社 三の鳥居 拝殿参道入り口
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神馬舎 白馬像は実物の馬を写し取ったものだそうです、非常にリアル。。白馬の神馬は末社の白山社への奉納と思われます。

日本神話では、猿田彦神は天孫降臨するニニギの前に最初に現れて道案内した国津神で、鼻長七咫・背長七尺の光り輝く姿から天狗の原型とも云われています。ちなみに七咫(た、あた)というのは八咫鏡(やたのかがみ)・八咫烏(やたがらす)に使われるように長さを表すと云われています。古事記に出てくるんですが、日本書紀では尺に置き換えられることが多いようです。いろいろな諸説がありますが、七咫は約40〜60センチと云われています。尺も当時の長さは諸説ありますが、約164或いは188センチ、差はありますが背長ですから23〜27センチプラスの巨人で異様な鼻を持っていたようです。この為、天狗の原型とも云われています。ちなみに奥さんはアマテラスの岩戸隠れの際に、岩の前で神々に囲まれて踊りを演じたダンスの女神・アメノウズメと云われています。伊勢一宮の椿大神社・都波岐奈加等神社の主祭神。全国に広がる白髭神社の総本社・近江高島の白髭神社(湖上に鳥居があります。)の主祭神。

猿田彦神は天孫降臨の事象から、道案内・道開き・導きの神とされており、湊町であった金石・大野では海上航海の守護神として、元々の天照神(よりも厚く信奉されていました。天平元年(729年)、天(朝廷?)から前述の佐那の名から、佐那武大明神の称号を賜ったと云われます。このため当地では現在でも猿田彦より佐那武(さなたけ)と呼ぶことが多くなります。
                                                摂社 白山社
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平安末期から鎌倉時代にかけては白山社の末社・佐那武社時代もあったようです。特に遷座前の地は別名・佐良(佐羅)嶽と呼ばれていたことが源平盛衰記・平家物語・義経記にみられますし、義経記では同行の姫が同地で出産したことが記され、生まれた男の子を佐羅皇子と呼んだという伝承があります。白山七社ので佐良(佐羅)にある佐羅早松神社との関連も窺われます。
義経記では安宅関の故事はなく、白山社(金剣宮)から弁慶が野々市の富樫館に単独乗り込んで活躍、義経一行は宮腰の大野湊神社で弁慶を待ち、大野湊で富樫左衛門に馬で送って貰った弁慶の二人と再見、会見したと記しています。
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上:大野湊神社 本神殿 手前が佐那武社、同じ常夜燈の門灯が見えるのが神明社、間の奥まった石灯籠と石段があるのが八幡社
右:大野湊神社 幣拝殿 幣殿の先に見えるのが八幡社

源義経が訪れてから後、海岸の浸食によって社地自体が海の底に埋没し、更に再建まもなくの建長4年(1252年)社殿が炎上して、遷座を余儀なくされます。海岸から離れた八幡社のあった現在地に遷座しています。このために現在の大野湊神社の本殿(神殿)は中央に家主の八幡社(護国八幡大神、配神に鎮魂八神)・左に佐那武社(佐那武大神(猿田彦大神))・右に神明社(天照皇御神、配神に瀬織津(せおりつ)姫神)といった具合に三棟に分かれて並列された特殊な形態です。とはいえ、三柱の中では佐那武大神(猿田彦大神)が、一番の人気と信仰を集めていたようです。
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大野湊神社 旧拝殿 江戸初期の建立と云われています。初期は柿葺だったと云われ、後に瓦葺に改築修繕されたようです。本神殿と同じく加賀前田家の梅鉢紋が施されています。古い扁額も健在で大野の「野」が「埜」になっています。以前は日本一大きい源平盛衰記絵巻の大絵馬(幅14.3m)が飾られていました。実は今回久しぶりに観たくて来たんですが、宮司さんが一人きりで忙しそうで、次回にすることに。。

戦国期になると、一向一揆の勢力が拡大して、白山勢力を含む多くの寺社が衰退・荒廃していました。
天正11年(1583年)能登の領主だった前田利家が、加賀二郡を領有して金沢城に入城した際には宮腰から上陸して大野湊神社に本陣を置いて、軍列を整えてから入城しています。その際に大野郷の総社と定めて復興させています。
前田利家以降の加賀藩では、自身が新興勢力であるため、民衆との融和政策を重視して、寺社の保護に努めていますが、加賀では最初の融和政策と言えます。
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大野湊神社 能舞台 現在の能舞台の創建は不明ですが、H21の400回記念神事の際に床面を総檜張りにしたそうです。
慶長9年(1604年)、関ケ原合戦の奉賛として前田利長によって本殿(神殿)の修復、拝殿(旧拝殿)の建立、更に能舞台・楽屋が境内入り口に造営されています。現在の形態はこの利長の時代に基礎が出来たと云えます。
また周辺では舞楽や猿楽が盛んだったのが要因ですが、この能舞台の造営によって「神事能」が成立して、毎年5月15日に開催興行されています。利長の時代から414年・409回を数えています。現在、能興行には神社関係者、金沢能楽会・金石宝生会など金沢能楽の一流どころが参加しています。
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三代・前田利常の時代には宮腰・大野湊が整備され、金石街道が整備されています。この頃から地元は活況を呈し明治にまで続く、銭谷五兵衛を代表する北前船主を多く輩出することになります。
前田利常によって本神殿が新築され、神社も大きく整備されましたが、、宮腰・大野湊が隆盛を極めると加賀藩も船主を抱える氏子村に神社の整備を預けるようになります。江戸初期までは神社の修復や神事の権限は加賀藩が担当していましたが、利常の代から氏子村に任せるようになっています。
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末社 西宮社・狛犬 祭神 事代主神 
金石大野の活況は幕末にピークを迎えますが、末社になる春日社・白山社・西宮社・荒魂社などは祭神を観れば、海運関連の有力氏子村の建立になることが窺われます。有力神社に観られますが、この末社の管理は各氏子町に分かれて管轄していたはずで、今もそれは続いているはずです。

宮腰(金石)を代表する北前船船主として有名なのは、海の百万石と呼ばれた銭屋五兵衛が著名です。一艘の質草だった150石船から初めて、最盛期には千石船20艘以上・総保有数200艘以上、全国支店34点を数え、藩の御用商人として全国各地勝手寄港の権利、名字帯刀、藩黙認の密貿易など後世にまで名を遺した人物です。その生涯はまさに波乱万丈、最期は獄死・家財没収という悲惨なものです。北前船商人としてはイの一番に誰もが挙げる人物です。
彼の足跡は金石の町を歩けば、僅かな痕跡と墓所(本龍寺)が観られますが、神社の裏側にある大野湊公園に「銭五の館」「銭屋五兵衛記念館」に遺品などが展示されています。参拝のついでに是非立ち寄ることをお勧めします。

大野湊神社の拝殿前にも、銭屋五兵衛関連の寄進物があります。拝殿前に寄進された「獻燈燈籠」。刻字には拝殿に向かって右の燈籠には「願主 清水五兵衛 〇男 喜太郎建」。左の燈籠には大きな文字の「獻燈」「〇〇元年甲〇李冬」
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清水五兵衛と喜太郎の刻字がある灯籠
清水五兵衛は銭屋五兵衛の本名になります。また、喜太郎は長男に当たり、当主を継いでいました。ただ実権は五兵衛が持っていました。ちなみに五兵衛の名は銭屋の当主の世襲名で5代目から名乗ったものです。豪商と呼ばれた銭五は七代目に当たります。
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元号と甲の後の文字が掠れて読めませんでした。しかし、元年甲を喜太郎の生年に合わせると、甲寅(安政元年、1854年)・甲辰(弘化元年、1844年)のどちらかになります。銭屋五兵衛の死亡年は嘉永5年 (1852年)ですが、喜太郎が牢から解放されたのは翌年になります。銭屋は家名断絶を受けますが、その後は清水姓を使って本龍寺に同名で五兵衛と千賀の墓を建てています。ですから、前者も捨てがたい所です。
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銭屋五兵衛の一族は、河北潟干拓事業を推進した三男・要蔵をはじめ多くが処刑され、五兵衛・喜太郎親子は受牢・取調べ。喜太郎の娘・千賀の赦免奔走に感動した真龍院(12代藩主・前田斉広の正室、巽御殿(成巽閣)の主)の助言もあって赦免の沙汰がおりますが、時すでに遅く五兵衛は80歳の高齢で獄死、喜太郎はその後に解放されましたが、銭屋は家名断絶(後に、銭屋の家名復活を許可。)・財産没収・喜太郎は加賀追放となります。まもなく千賀も病死。喜太郎は赦免から3年後、越中安居寺に出家を志し向かう道中で自殺しています。

近年、伊豆下田の旧家で発見された大野弁吉と喜太郎が並んで移る写真が発見され、大野からくり記念館に展示されています。喜太郎の優しそうな顔が解りますが、この写真は大野弁吉自作の写真機で撮られたもので、欧州で世界初(1851年)の湿板写真を発明したアーチャーの発明年を2年以上も上回る証明と話題になりました。



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大野湊神社 御神木
大野湊神社の社豪は「寺中の杜」と呼ばれて原生種が多く保たれており、金沢市天然記念物に指定されています。そんな神社の御神木はケヤキの大樹ですが、大部分が空洞と化して枯れ死していますが、横から若木が育って這うように上空に伸びています。
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大野湊神社 左:拝殿扁額・昇殿口 上:拝殿&社務所 下:幣拝殿 
拝殿の全体画像も撮ったはずなんですが、消えていました。。新車と交通安全の祈祷中
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上:大野湊神社 絵馬堂
左:絵馬堂奥の森 句碑

昭和44年(1969年)建立 蔵月明(蔵尚太郎)の作品 「梅が香や 神のこころの ただ素直
蔵月明は俳人・文学者・医師で古文学の収集家として知られていました。以前紹介した銭屋五兵衛の墓所「本龍寺」にある松尾芭蕉の句碑は蔵が設置したもの。

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絵馬堂横 裏参道 奉納錨 港町の神社であることが解ります。

8月第一週に大野湊神社では夏季大祭が行われます。平成24年に金沢市無形文化財指定を受けています。
前述した三柱の祭り神の内、佐那武大神と天照大神の二柱の神が、金石海岸まで二泊三日で里帰りする神事です。金石町の秋葉神社横の日向山と呼ばれる仮殿が設えられて故郷の人々の参拝を受けるものです。
ここ数年で認知度も高まり、賑やかな祭礼になっています。金沢市街を練り歩く百万石まつりにも参加している獅子舞・子供奴・大野・加賀鳶梯子登りや悪魔祓いも参加しています。花火大会も開催され金石・大野が熱く燃える日です。

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大野湊公園 絵馬堂の横の裏参道を抜けると大きな公園に出られます。春秋に訪れると美しい花や紅葉の中を散策することができます。
右の画像の白い蔵のある建物が「銭五の館。銭屋の蔵や屋敷の一部を移築したもので、五兵衛の屋敷を再現しています。橋の右には「銭屋五兵衛記念館」があります。

旅行日 2018.05.26

 


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コメント(10件)

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車で通れる鳥居・・・我が家ん近くの今宮神社も・・・くぐれば交通安全になるんか?(笑) 大野湊神社 雰囲気ばっちりの神社ですね 公園もあって
がにちゃん
2018/06/12 17:02
道路の開通で便利になるのも善し悪しですよねえ。
特に鉄道ファンにとっては、鉄道に乗る人が減るので死活問題です。
景観も壊れますしね。
以前三江線に乗ったときに、高規格道ではないものの脇をりっぱな道路が走っていて、こりゃ廃線になるわけだと思いました。
また静岡で天竜浜名湖鉄道に乗っていたとき、工事中の第2東名の巨大な橋脚が目に入って、景観を壊すなと憤慨したこともあります。
家ニスタ
2018/06/12 18:55
金沢西警察署、大野湊神社、猿田彦神。交通安全のご利益絶大ですね。しかし、表参道正面から車で行くには躊躇しそうです。狛犬も特徴がありますね。
tor
2018/06/12 21:25
がにちゃんさん
鎌倉時代に移転した神社なんですが。海に近い割には鬱蒼とした森がありますし、公園も池を中心に回れるんですよ。おかげでみんな公園から入って参拝してます。
主祭神が海上交通の神様だしプラス警察が万番代わりご利益ありそうでしょ。
今宮神社と言えば、やっぱり玉の輿、良縁に恵まれるんでしょう^^
つとつと
2018/06/13 11:52
家ニスタさん
道路や新幹線は確かに便利なんですが、あのコンクリートの構造物は景観には恵まれませんねえ。やはり車がないとどこにも行けないというのが地方の辛い所、中心街はバスの便も良いのですが、地方に行くとそれもままならずです。
でも高速料金は高いですねえ。昨日、久しぶりに岐阜まで行ったら5000円@@ まだまだ高いですねえ。。。しかも片側工事の連続でしたから。。
つとつと
2018/06/13 11:58
torさん
交通安全のご利益ありそうでしょ。昨日久しぶりに長距離ととんでもない山道を走りましたが、無事帰れたんですから、ご利益はあるみたいです。
さすがに警察が正面にあると入りづらいんで、みんな公園に車を停めて参拝してます。ついでに銭五の館や記念館もなかなか良いものがありますよ^^
つとつと
2018/06/13 12:01
お久しぶりです  また初めて知った金沢情報です
いつもながら狛犬さんが楽しみです
歴史の解説も いつも わかりやすくて ありがとうございます
メミコ
2018/06/14 09:14
メミコさん
大野・金石地区は古くからの湊町なんですが、古い家屋が並んでいたり、観るものが意外に多い町です。観光では金沢市街や温泉の湯涌など中心街から東に多く人が行くんですが、意外に歴史もあるし観るものも多い場所です。
そうそう、しょうゆ製造の町でもあるんですが、しょうゆソフトの発祥みたいな蔵の中の店もあるんですよ^^
つとつと
2018/06/15 06:29
「大野湊神社」の名から想像されるように、
海上交通の守り神だったんですね。
そう思うと、猿田彦を祀っている事も、
北前船商人の信仰が篤かった事も納得です。
神楽や猿楽が盛んだったというのも、
アメノウズメとの関係性を思うと、
なるほどという気がしました。
yasuhiko
2018/06/16 15:09
yasuhikoさん
元々、金沢の表玄関の外港の宮腰にあった神社ですから、海上交通の守り神としての存在でしたし、加賀藩でも初期段階に保護の手を入れた神社です。
アメノウズメの存在のご指摘ありがとうございます。たしかにそうですね。
空から謡が降ってくると呼ばれた金沢芸能ですが、現在は実際には能楽堂を中心に演じられていますが、能舞台が常設されて年一度神社で演じられるのは珍しいと思います。
つとつと
2018/06/16 20:05

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