加茂遺跡 国内最古のお触書高札

加賀平野の北部に河北潟と呼ばれる大きな湖がありました。この湖は昭和の大干拓以前は白山麓や医王山山系からの河川からの水と、海岸の砂丘帯に阻まれて海が堰き止められて造られた湖といわれています。 古代には北金沢から河北郡の津幡・宇ノ気地区まで、現在の国道8号線・国道159号線・県道59号近辺まで湖だったと云われ、幾本もの大河によって運ばれた土砂により長い歳月で体積され扇状地の平野を広げて河北潟を自然に狭めたと云われています。 このために河北潟に近い場所は扇状地の構成がまだ新しく、泥濘地や水分の多い軟弱地帯が多くなっています。このような土壌によって宅地・商業施設・工場更には大規模道路が進出・転用ができず、湿地を利用する水田・蓮根畑が多く、広い湿原となっていました。縄文中期までは湖が山際に迫り山上から山裾にかけて遺跡があり、縄文末期・弥生期・古代期さらに中世へとなって扇状地による平野部が構成されるごとに山裾から平野部へと人や村が進出して行ったことが窺われます。しかし縄文末期、それ以降も湿地帯ということで前述の国道・県道の西側には古代の重要遺跡がないと思われていました。 大規模な道路の敷設も、平野部土壌の安定化と建設技術の向上で近年になってからになります。当然ながら大規模道路の整備に対しては事前の発掘調査が行われます。それまでにも工場や商業地となった遺跡調査によって金沢南の犀川下流部のチカモリ・御経塚といった縄文遺跡が現れ、更に北側の上安原や中屋サワのような場所から運河を利用していた遺跡が発見されて行きま…

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金名橋(旧手取川橋梁・御影大橋) 手取自転車道橋

現在、キャニオンロードと呼ばれるサイクリングロードはそのほとんどが金名鉄道と呼ばれた白山麓を走る鉄道路線跡になります。金名鉄道(旧北陸鉄道金名線)については始終着駅だった加賀一の宮駅でご紹介しています。 ⇒ 2019.09.01 加賀一の宮駅舎 以前のブログから抜粋・・・金名鉄道は、鶴来の運送業者・小堀定信(こぼりていしん)が出資して、大正14年(1925年)に設立された鉄道会社でした。白山麓に鉄道をの情熱で白山下駅(旧鳥越村・河原山)を起点に創業したものの、白山下駅着工前には資金切れだったものの協力者・出資者を求めながら見切り発車で着工したといういわくつきの鉄道でした。 協力者・出資者募集にぶち上げた構想は、金沢から名古屋までを鉄道で繋ごうという壮大なものでした。もちろん単独路線ではなく、岐阜の越美南線・白鳥駅への鉄道接続、北陸線の金沢までの敷設という構想でした。とはいえ、計画は現在の中宮・白川郷のホワイトロードといった2000m越えの難関が待ち受け、前述の様に着工段階で資金ショートする個人レベルでは難しい路線構想で机上の構想、あくまで出資者・協力者集めだったとも云われています。とはいえ、その構想から金名鉄道と名付けられたわけです。 とはいえ、破産寸前まで追い込まれながら小堀定信の情熱によって、昭和2年(1927年)には神社前駅(加賀一の宮駅)・中鶴来駅に延伸、石川電気軌道の鶴来駅に到達しています。しかし、累積赤字に苦しんだ金名鉄道は、わずか2年で神社前駅・鶴来駅間(約2キロ)を石川電気軌…

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霊寶山 善性寺

山側環状道路を能登方向から加賀方向に向かって、四十万町東の交差点を左折してすぐの場所にある寺院が善性寺になります。浄土真宗の真宗大谷派(東本願寺)の寺院になります。善性寺のある場所は金沢市四十万町にあります。 四十万(しじま)の町名の由来は解らないのですが、中世には富樫の庄・額(ぬか)七か村(大額・額谷・額乙丸・額新保・額三十苅(現・三十苅町)・額助九(現・四十万?)・額栗林(現・馬替?)、明治22年(1889年)に合併・額村、昭和29年(1954年)に金沢市編入村の一つだったと云われています。善性寺のある場所は加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親が最後の牙城とした高尾城から同じ峰筋の南2キロほどになります。 平安期から戦国末期まで、加賀に古く根付いていた富樫氏ですが、その基盤となっていたのが富樫の庄と呼ばれる地盤でした。本拠の富樫館のあった野々市を中心に、白山市の一部(郷村など)、明治以降昭和にかけて編入された金沢の前述の額村・富樫村・押野村・三馬村辺りが中心的な主要基盤の地だったと云われています。富樫の名を引き継ぐ富樫村、12代・泰家(加賀守護初代)の弟・家忠・景家からの額田・額氏を引き継ぐ額村などは、以前にご紹介した芋堀等五郎伝承などが残るように発祥地的な存在と見られ、高尾城が示すように最終防衛地でもあった富樫家の重要地だったと思われます。善性寺 本堂大屋根善性寺は明応8年(1499年)に前述の富樫政親を滅ぼした富樫泰高によって寺地と寺院寄進により法慶(ほうきょう)によって開基されたものです…

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波自加彌(はじかみ)神社

神社に行くと、神社の奥山に先座地や奥宮がある場合があります。今回の波自加彌(はじかみ)神社も、だいぶ前になりますが奥宮の方をアップしていました。 ⇒ 2017.05.10四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)  今回は改めて本社の方に伺いました。神社の駐車場は山上になるため表参道を右折して山道を登ると便利ですが、なにせ参道は長い石段に急な傾斜。。一応、山上から一往復しましたが、きつかったあ。。冬の間にすっかり運動不足のつけがたまってますねえ。。というわけで進行(撮影)方向とは逆になりますが、表参道入口というより時間が無くて立ち寄れなかった遥拝所付近からスタート。。 波自加彌神社標柱 花園小学校から100m程北に進んだ旧北国街道沿いの三叉路に建っています。標柱の方向に進むのが波自加彌神社の本宮への表参道になります。北国街道をここから、更に北に7,80m進んだ右に遥拝所兼神主さんの自宅があります。御札やお守り、御朱印帳は遥拝所で授与して貰えます。ナビに頼るとこの標柱に案内されてしまいますが、この標柱から500m程、IR七尾線の踏切、国道8号の二日市交差点を越えて行った山の突き当りにあるのが波自加彌神社の本宮になります。表参道入口には河原市用水に立派な神橋が掛かっていていますから、それが良い目印になります。波自加彌神社 神橋 河原市用水(浅田用水)河原市用水(浅田用水)は医王山を源にする森下川の不動寺町から取水して山裾を縫うように流れ、更に旧国道8号に沿うように10.2キロを流れて津幡町の加賀…

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野田山墓地

今冬は雪が降らない降らないと云っていたら、ここ3.4日雪が降って、うっすらと積雪が道に積もって久しぶりに、雪道を車で走りました。。久しぶり過ぎて怖々ハンドルを握っていました。さすがに朝は凍結で、雪に慣れてる石川県人もそこここでスリップ事故や立ち往生があったみたいです。(2/10)しかし、その後は温かくすぐ溶けちゃいましたが。。。 コロナウィルス騒ぎも収まりませんねえ。。今週風邪をぶり返した嫁さんが医者に行ったら軽い肺炎で、一週間の絶対安静でドクターストップ、家でどんよりテレビ三昧の日々を送っています。時期が時期だけにインフルやいろんな検査をやられて、落ちこんどりました。。(風邪をこじらしたで、チョン)。。クルーズ客船も日増しに陽性患者が増えてて心配ですねえ、、足留めを喰らったみなさんには頑張って欲しいものです。ダイヤモンド・プリンセスは昨昨年寄港した「MSCスプレディダ」が寄港するまで、金沢港の最大のクルーズ客船の記録を持っていた船で、僕も眼の前で見て思入れがあるんで、早く収束することを願っています。 2014.07.20 無量寺埠頭 護衛艦ちくま加賀藩主墓所本参道 ここから長い石段を登ると前田利家夫妻の墓所正面に直接向かえます。僕は車を左に進めて墓所手前から歩いてみました。1.2月は雪がないとはいえ氷雨や冷たい雨降りが多く、遠出をほとんどしないのですが、この日も冷たい雨降りでしたが河北からの帰り道、久しぶりに野田山墓地に立ち寄ってみました。一応目的地は加賀藩主墓所のつもりだったのですが。。右の…

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雑話 日本の仏教①

名所・旧跡に触れて歴史を振り返るものを書いていると、頭が痛くなるのが宗教がまとわりついてくることです。けっこう宗教施設と言える神社・仏閣で考察的に歴史を振り返る僕ですが、訳が解らなくなる時はしょっちゅうあります。神道にしても仏教にしても、更に修験道まで加えると浅学な僕でも書き始めれば、誤字脱字、意味や筋を誤ったりしても良ければ、本が何冊も書けるんじゃないかと思いますが・・・これからも、出掛けるたびに寺社仏閣が出るために、まずは簡単?な仏教の流れをば。。。大安禅寺(大安寺)大日如来坐像 平安末期作大安禅寺は万治2年(1658年)創建の越前松平藩(福井藩)歴代藩主の墓所・菩提寺になります。戦災や地震で古い建物類が残っていない福井市内で江戸初期の建築を残す貴重な寺院、臨済宗妙心寺派(2012.09.18撮影)世界には様々な宗教が存在しますが、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など数え上げれば切りがないくらい。。誤解されやすいものではインドやネパールのヒンズー教もありますが、日本ではヒンズー教=インドの国教と思われていますが、実はインドには国教というものはありません。ヒンズー教というのは欧米から見た名称で、中国や韓国では印度教とも云うそうですが、南アジア諸国でのイスラム教とそれ以外の宗教とを分けるために出来た造語になります。現在はシヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーを信奉する種々雑多のインドの有神型の民族宗教をまとめて指す言葉になっています。バラモン・ヴェーダの流れを持つものもあり様々な形態があります。仏教とも密…

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内灘海岸② 米軍試射場 射撃指揮所跡

米軍試射場 射撃指揮所一九五三年(昭和二八年)内灘砂丘は、米軍が日本の工場に発注した砲弾の試射場として接収され、この「射撃指揮所」を含め、周辺には兵舎、砲座、弾薬庫等が建てられた。当時、村民の生活を支えてきた地引網の漁場が奪われたこと、日本の各地で起きていた基地問題が心配されることなどから村民たちは、反対運動に立ちあがった。全国的な支援のもとで「金は一年、土地は万年」のムシロ旗を掲げて、デモや試射場入口と場内の権現森での座り込みを続けるなど、わが国での初の軍事基地反対闘争を展開した。こうして日本海沿岸の一漁村は「世界のウチナダ」として脚光を浴びた。一九五七年(昭和三ニ年)米軍の使用が打ち切られ、美しい砂丘は、再び静けさを取り戻した。 内灘町 昭和25年(1950年)6月25日に北朝鮮軍の電撃作戦で勃発した朝鮮戦争。GHQ統治下だった日本では、翌月にはマッカーサーは独断で在日米軍一個師団を投入、更なる米軍の朝鮮投入を予測して、翌月には国家警察予備隊(後の自衛隊)創設と海上保安庁拡充を指令し備えていました。しかし、日本の防衛・安全保障体制は不安定なままで、マッカーサーが望む在日米軍の追加投入の許可は大統領トルーマンからは下りていませんでした。昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結、この際に対日平和条約と共に(旧)日米安全保障条約が結ばれています。この安保条約には、日本の主権回復後に、全ての占領軍は講和成立により速やかに撤退する、二国間協定により引き続き駐留を容認される国も存在出来るという…

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内灘海岸① 内灘海水浴場

内灘のお客さんの自宅で待ち合わせをしたのですが、お客さんも仕事から家に向かうということで、約束時間より少し遅らせることに。。。40分以上早く近くまで来てしまったので、どこかで時間つぶしをしようというので海岸に行くことに。。。内灘町は金沢港を構成する大野川と河北潟に囲まれた海辺の町になりますが、金沢港から、かほく市までの内灘砂丘上にある町でもあります。内灘海水浴場入口 画像中央のゲートが砂浜への出入り口になります。ゲートの上部はのと里山海道(旧能登有料道路)。鉄板道路内灘海岸への入口となる海浜千鳥台交差点からここまでの道路は、昭和27年(1952年)から31年まで米軍試射場となっていた際には、鉄板道路が北陸鉄道・内灘駅まで敷設され、試射発射地への輸送路となっていました。ゲートをくぐって右の方に行くと、砂に埋もれた浜茶屋の向こう側に旧試射場指揮所の建築物があります。内灘海岸内灘砂丘は青森の猿ヶ森砂丘・鳥取砂丘に次ぐ国内三位の規模の砂丘になります。ところがこの砂丘の定義がはっきりしないためにこの順位も実は正式ではないのです、、、同じように見える砂漠の方は定義が決まっていて「降雨が極度に少なく砂や岩石の多い土地。 年間降雨量が250mm以下の地域または降雨量よりも蒸発量の方が多い地域」とされています。つまり、砂の漠となっていますが、岩や小石(礫)、砂、涸れ湖や川、塩湖など様々な地形がありますが、降水量の多い日本では砂漠はあり得ないことになります。内灘海岸  奥に見えるのは浜茶屋群、夏場は掘り起こして使用さ…

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若宮八幡宮②

文中の補足・・・森林研究家が縄文期の面影を残すと比較に上げている森林        気多(けた)大社「入(い)らずの森)」・・・能登一宮・気多大社の奥宮がある1万坪に及ぶ原生林。住民の立入りが禁じられていて、通常12月の例祭で神主一人だけが奥宮に赴く人跡未踏の森でした。昨年12月、天皇の即位記念として、歴代天皇(昭和、平成)が入った場所までの参拝が公開されて話題になりました。国指定天然記念物。志雄路(しおじ)から 直(ただ)越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫(ふなかじ)もがも 大伴家持・赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首        吉崎御坊「鹿島の森」・・・石川と福井の県境の福井側にある浄土真宗8代法主・蓮如が開創した北陸の拠点・吉崎御坊(越前御坊)の近くに、大聖寺川と北潟湖に囲まれた陸続きの小島の名です。ちなみに鹿島の森は石川県になります。加賀唯一の暖地性の原生林。滋賀近江八幡から金沢までに分布する絶滅危惧種の大型のカタツムリのツルガマイマイが生息し、アカテガニの産卵地となっています。国指定天然記念物。よもすがら たたく船ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき 蓮如上人 吉崎退去時の作 横浜国立大学名誉教授・宮脇昭(1928年生)氏は、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長。土地本来の植生の自然林が自然災害に耐える。土地の植生は鎮守の森にあると主張しています。植生の確認から「混植・密植型植樹」を提唱・実施しています。横浜国立大学キャンパスの森の設計実施、マレーシアの熱帯雨林再生の成功、…

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松任 若宮八幡宮①

遅れましたが、明けましておめでとうございます。小難しいブログに毎度ご訪問頂いて恐縮ですが、本年もよろしくお願いいたします。松任 若宮八幡宮 表参道日頃、神社仏閣をちょこちょこ見て歩いているというのに、ここ2.3年初詣に出かけていなかった僕なのです。昨年は大晦日寸前に眼鏡を壊して、修理に2週間、、新品を購入しようとしたら、カラーや乱視を入れるとやっぱり2週間かかると云われ、度の合わない眼鏡とサングラスしかなかった僕は遠出が出来ずに、年末年始は家に籠っていました。昨昨年、昨昨昨年は年末年始に風邪ひいて完全な寝正月で、嫁さんも仕事というわけで一人布団の中から駅伝を見ながら寝ておりました。若宮八幡宮 表参道 一の鳥居(明治33年建立)そして今年こそはどこかへ行こうと思っていたのですが、今冬は雪も降らずに肌寒いけど天気の良い日が続いています。年中花粉症の嫁さんにとっては唯一の元気な時期のはずなのに、こう穏やかな日が続くと早くも何かが飛んでいるとグズグズ言っています。当然、出掛けたがらないのですが、休みのあった1/4、近くに初詣に行こうというわけで、近くの神社で済ますことに。。。表参道 門柱20数年前、滋賀に引っ越す前に3年程、旧松任の布市町にいたんですが、娘も幼い頃で近くにあった若宮八幡宮に初詣に行っていました。滋賀から戻った場所は東一番町で少し離れましたが、祭礼などでは役をやらされて何度か行っていました。。ところが、氏子地区ではない現在地に引っ越してからは、近くて遠い神社になってしまい、すっかりご無沙汰し…

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河北潟野鳥観察舎

石川県運転免許センター先月のお話になりますが、嫁さんの免許更新があって免許センターまで送り迎えすることに、、嫁さん、近場の買い物とかは車も運転するのですが、石川の道は狭いし解り難いからヤダ、キライといって片道5キロ圏内しか運転しない。おかげで遠出の買い物なんかは僕がお抱え運転手。おかげで金沢の北端にある運転免許センターには毎度、僕が送り迎えしているのです。 まあ、おかげで僕とは大違いで、ゴールド免許で小一時間の免許更新で済むのですが、、、どうせ僕なんて、半日かかる青い免許ですからね。来月、また来ます。。あ~~あ、あの時、覆面さえ抜かなければ。。🚓 その小一時間の待ち時間、免許センターにも食堂はあるんですが、どうも落ち着かないんですね、、その辺はブルーのトラウマですかねパンと飲み物買ってどこかで食べようかなと。。周辺をうろうろ。。駐車場も味気ないしなあ。。思いついたのは野鳥観察舎、、河北潟を眺めながらもいいなあと。。しばらくぶりに天気もいいし。。このあたりは河北潟の半島のような場所で水辺もばっちり 河北潟野鳥観察舎 石川県には県営野鳥観察舎としては、舳倉島(へぐらじま)・珠洲市三崎・七尾西湾・河北潟・県民海浜公園・ノミレイク河内(手取川第三ダム)・加賀市鴨池と大小の観察小屋を持つ施設があります。そういえば、いずれも何度か立ち寄…

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味知郷神社

久しぶりに町の神社です。白山市の福留地区の鎮守社で味知郷(みちごう)神社。   味知郷神社南脇参道・社標 石川県神社庁案内 味知郷神社(みちごうじんじゃ)御祭神 経津主(ふつぬし)神・天児屋根(あめのこやね)命・比咩(ひめ、比売)大神・白山比咩(はくさんひめ)神・天照(あまてらす)皇大神・武甕槌(たけみかづち)神鎮座地 白山市福留町1 氏子区域 白山市福新町・福留町・福留南 由緒 創立の年代不詳 初め福留白山神社と号したが明治40年神明社、春日社、白山社を合祀し味知郷神社と改める。境内地は843坪周囲小高く中央が低く稀なる地形をなしている。       上:表参道 右表参道 鳥居扁額歴史や由緒を細々と書く石川県の神社庁ですが、いたって簡略な案内文です。味知郷神社の氏子区域となる福新町・福留町・福留町は旧松任市の南の国道8号線沿い、平野部のど真ん中になります。神社の西にある南北の道は松任宿から水島の手取川の渡し場に向かう北国街道になります。往時は田園と平坦な交通路になっていました。北土塁上の旧神明社跡碑創基は不明ながら江戸期以前から存在したようで、江戸期には手取川北岸の平野部の味知郷・山島組42村の総鎮守だったと地元には伝わっています。明治以降は福留地区の産土神として福留白山神社(白山比咩神)。明治40年(1907年)に近在の春日社(経津主神・天児屋根命・比咩(比売)大神・武甕槌神)、北土塁上の神明社(天照皇大神)を合祀して味知郷神社と改めています。上:北脇参道 神橋 左右に土塁が見られます。…

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小舞子海岸

以前に歴史の道百選で批判的な記事を書いてしまいましたが、国内には多くの百選が存在しています。国・県・協議会・業界団体・選定委員会・組合・個人様々な百選が存在していて、有名・無名を含めて100や200では効かないかもしれません。とはいえ、この百選は各地から選定されていて、観光はもちろん僕のようなスポットマニアには目安の一つになっています。ただその後の開発や荒廃で首を傾げるものも出てきてしまいますが。。 今回、ご紹介するのは「日本の渚百選」。海の日(7月第三月曜)の祭日制定を記念して選定されたもので、平成8年(1996年)に農林省・自治体関連の選定委員会の選定したものです。日本は島国のおかげで多くの海岸線や渚が存在します。また狭い国土に水を生成する山々を抱え河川や湖も多く存在し、滋賀県や長野県からも選定されています。百選には地元以外には知られていないものも多くあり、再発見・評価には寄与しています。 ⇒ 日本の渚百選(日本の森・滝・渚全国協議会HP) 石川県は西側に長い海岸線と、日本海に突き出した能登半島、富山湾の西側を構成するように海に囲まれた県になります。おかげで越前海岸から続く奇岩や断崖と合間の砂浜が点在すると長い松林と砂浜の加賀海岸、きめの細かい砂浜、リアス式海岸の能登の海岸、七尾湾のような静かな海辺、富山湾の西海辺と様々な海岸線があります。海岸線の特徴的な種類の多さは国内でも突出すると思います。ところが昭和・平成初期の観光誘致の下手な石川県はあまり海岸線を発信していないせいか、お隣り福井県…

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金谷出丸 南面

尾山神社は金沢城の金谷出丸の地に創建されたものです。 金沢城は北の浅野川、南の犀川に囲まれ、東の小立野台地と自然の要害地に囲まれた城郭でした。特に搦め手の東は小立野台地の東端の千歳台(現・兼六園)とは大きな段丘の落差に百万石掘(白鳥堀)という最大幅・深度の堀が配されていました。南は台地の断崖に石垣と宮守堀(いもりぼり、復元堀は往時の半分幅)と二重の大障碍を設けていました。また大手(尾坂口)となる北側は城外よりも城の方が高台になり大手堀と百万石堀に匹敵する堀及び三の丸・二の丸と幾重の障碍が配されていました。尾山神社西神門よりところが堀は配されているものの西側は高低差が少なく、攻城軍の主力が配されるであろう平地が多い西側は、金沢城最大の弱点地とも云えました。城方の前線基地となる出丸が必要となり設けられたのが金谷出丸でした。江戸初期には金谷出丸の南(現在の広坂合同庁舎)にも外出丸があったと云われています。 延宝年間(1673~1681年)の詳細な金沢城図が残されています。              ⇒ 金沢城図(奥村家鎧袋内・箱入)(玉川図書館蔵)上が南、下が北、左が東で右が西になります。是非クリックしてみてください金沢城図は城構造や建造物を詳細記入、彩色した精緻な図絵で建物名称・主要室名も記し、辰巳用水から城内への通水水樋の埋設経路更に幹支線に渡り書かれたものです。ここまでの詳細図は珍しく、本来藩主格の持ち物で機密重要書類と想像されます。初期の金谷御殿が描かれているために加筆あるいは18世紀半ばと…

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尾山神社遥拝所と雑話

実は前回のブログに続け書きをしてたんですが、あまりに長く煩雑なものになったので、別枠の雑話ということで。。。 気分が悪くなるような宗教話や批判ばかりが目立つと思うんで、、、、ご容赦を。。。 右:遥拝所入り口石段横 関口光生記念標 従三位神田孝一謹書 とありますが、僕には不明。。横に顕彰碑がありましたが、時間もなく、摩耗で真剣に読めませんでした。。下:遥拝所入り口 ここから神苑の背景の裏山を巡れます。 次回に回そうかとも考えていたんですが、神苑の背景となる出丸南面の山林の山は明治以降には通路が造られて、歩けるようになっています。南西面にある神輿庫前にある顕彰碑横の石段から登れます。入り口に遥拝所の標柱があり、それが目印。遥拝所 伊勢神宮の方向に向けています。尾山神社では春分・秋分の日をメインに遥拝所での遥拝が行われているそうです。 ここからの文章は個人的意見ですから、宗教話や神道支持派など反発を感じる方はパスしてください。。 遥拝所は山岳信仰として山を神体として拝む場所になるものと、今回のような伊勢神宮などを拝むものがあります。神社や仏閣を巡ることが多い僕は、たまにこういう遥拝所を観ることが有るんですが、前者の山岳信仰の遥拝所は良しとして、伊勢神宮に向けた遥拝所は存在自体が国家神道の押しつけのようであまり好きではありません。 そもそも今回の尾山神社にしても、先に何度も書いたように尾山神社創建時の神様は加賀藩祖・前田利家個人だと理解されていると思います。ところがそんな個人の神社で伊勢神宮…

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尾山神社④ 神苑

神苑東側から 手前の飛び石が沢渡り、女性が渡っているのが八ッ橋、右手には水上に藤棚が配され、左手は琵琶島で奥に図月橋、図月橋の向こう岸は鳥兜島 尾山神社の南面に広がるのが神苑になります。10年程前は神仙苑と呼んでいたのですが、今は神苑と統一したようです。別名は和楽器の庭。明治になって尾山神社が創建されると、それまで荒廃した庭園に大きく手を入れて整備し直しています。⇒ 2009.07.29 尾山神社 神仙苑上:西丘陵から 右:南丘陵から神仙苑は元々は金谷御殿庭園となっていました。その創始ははっきりしませんが、以前までは池泉の存在と小堀遠州作と伝わったことから1620年頃と推定されていました。ただこの推定の問題点はまだ戦国の風が残った時代に出丸の地に御殿はまだなく、庭園だけを造るかという疑問が湧いてしまいます。18世紀初頭には庭園が作庭されたのは確かでしょうが、個人的には現在の泉水を配した庭園は前田斉泰が金谷御殿を大きく増築したころ文化15年(1844年)以降に整備したのではと思っています。辰巳用水導水管現在の神苑の池水は地下水を利用していますが、金谷御殿庭園時代は金沢城から辰巳用水の水を通水していました。この通水には兼六園霞ヶ池から金沢城内に通水した方式と同じ逆サイフォンが採用されていました。文化15年(1844年)に導水管が木管から、庄川上流の金屋石の石管に変えられています。この時に泉水や滝が配されたと思われます。神苑 響遠瀑 水が勢いよく流されてる時もあるらしいんですが、僕は未体験、観られたらラ…

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尾山神社③ 本殿・金谷神社・東神門

尾山神社の本殿は明治6年(1873年)建立。古式に則ったという三間社流造・銅板葺屋根、拝殿と本殿の高さを合わせ間の低い位置に幣殿代わりの庭面(石の間)が置かれた権現造の様式になっています。本殿は拝殿との高さを合わせるために底部を懸け造の木組みで支えています。今年9月、以前までは緑青などで緑がかった屋根色でしたが、真新しい明茶色屋根に変わりました。20X36.5㎝の銅板4000枚を使用し、屋根面だけでなく鬼瓦・千木・鰹木にも銅板を巻いたり覆ったりで処理が施されています。本殿前の守護神? 遠目には狛犬?龍?身体は蛙? ピンボケで申し訳ありません。。本殿は尾山神社境内でも一番の神域で、勝手に中に入れないのと、観ようと思うと最奥の東出口に向かうため、金谷神社と木々に隠れて暗がりで観光客もほとんど居ない場所ですが、注目に値するものが一つ。本殿を囲む塀垣で、神社などでは玉垣と云います。拝殿・石の間と金谷神社の境界には銅板葺柵塀垣ですが、本殿南面には銅板葺レンガ塀が玉垣として重厚な守りとなっています。等間隔で梅鉢紋透かしを施されています。神社でこれはなかなか見られない代物です。ちなみにこのレンガ塀は、金沢で最初のレンガ建築になります。以前、金沢の代表色の一色としてレンガ色を紹介しましたが、代表となるのが赤レンガミュージアム(旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫)としましたが、それよりも40年近く古い建築物で、金沢の代表色の原点と云える建築です。金谷神社 上:拝殿      中:拝殿・幣殿・神殿      右:金谷神社境内尾…

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尾山神社②神門・狛犬・拝殿・菊桜

尾山神社と云えば、人気を集めるのは西の表参道石段上にある尾山神社神門 右:西表面 下:東裏面明治8年(1875年)11年、長谷川準也(金沢製糸場創業者、第2代金沢市長(M30~金沢区を含むと8代目))・大塚志良(長谷川準也の弟、江沼郡長)兄弟が願主となり、金沢大工・津田吉之助が設計・施工したものです。ちなみに津田吉之助は北陸のダヴィンチと呼ばれた大野弁吉の藩校や家にも通う弟子筋でもありました。石川製糸場の織機も富岡製糸場派遣で学び製作しており、吉之助の子・米次郎と甥・駒次郎は明治33年国内初の動力式絹織機を作製、明治42年に駒次郎が金沢で個人経営の「津田駒次郎工業」を開業、現代の高速自動織機で世界トップシェアの津田駒工業となっています。神門中央 透彫り 上:西表面 下:東裏面上画像中央門の床面の円盤は、後で紹介しますが神苑の大型灯篭の天板だと云われています。灯篭の崩落で人身死亡事故によって、天板に神罰の意味で人に踏まれる通路に埋め込んだと云われています。家紋の透かし彫りも撮影したんですが画像が消えていました。家紋透彫りに興味のある方はこちらをどうぞ⇒2009.7.29尾山神社神門は和漢洋の銅板四柱造三層建物になります。その異様な造りが徐々に人気を集め、金沢のシンボル的存在になっています。高さ18m、避雷針は8メートルになります。 基部にはレンガ積みが施され、全体を木造架橋で支持しています。門となる第一層は神苑の渡月橋をモデルにしたと見られ、戸室石が使用され、木製門扉には加賀梅鉢紋や透かし彫りが施…

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尾山神社①

金沢観光でシンボル的存在と云えば尾山神社・西神門が挙げられます。尾山神社の地は、金沢城の金谷出丸と呼ばれた堀に囲まれた出丸でした。金沢城が攻められた際には最激戦の地となる場所のはずでした。しかし250年に渡る江戸の太平期ではそういった戦闘もなく、藩主の別邸と馬場が置かれていました。明治4年(1871年)廃藩置県により藩主が東京に去った後、とはいえ全国的に長い藩政を懐かしむ風潮から、士族会を中心に全国的に藩祖を祀る神社の造営が行われていました。尾山神社もその一つと云えるものでした。明治政府も慰撫政策から容認していたようです。 幕藩体制の時代には公に藩祖を神として祀ることは幕府への遠慮から大名家では忌避されていました。ところが加賀藩では、慶長4年(1599年)藩祖・前田利家が没した際、浅野川から引き揚げられた卯辰の鏡を神体に、式内社・物部神社(現・富山県高岡市東海老坂)の八幡神、榊葉神明宮(現・榊葉乎布(さかきばおふ)神社、富山県氷見市阿尾)を勧請して卯辰八幡宮(現・宇多須神社、金沢市東山)を創建して利家の神像を祀っていました。物部神社・榊葉神明宮ともに2代前田利長の守山城時代所縁の神社です。このことは幕府に隠れての公然の秘密とされ、加賀藩と東山の武家屋敷の住人の位別の拠出金で運営されていました。しかし幕末期の藩財政の逼迫と混乱により荒廃が目立ち、神像は卯辰山三社の卯辰山天神社(現・卯辰神社)に仮遷座していました。 ちなみにこの卯辰山天神社は江戸後期に造営された竹沢御殿の部材で建てられた表向きは撫…

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医王権現社

国見ヒュッテから少し南に向かうと小さなお社があります。医王権現社。        医王権現堂標柱 養老3年(719年)泰澄(法澄)が開山した医王仙ですが、その名を高めたのは養老6年の元明天皇の大病快癒に貢献した泰澄の薬剤と祈祷でした。この業績によって元明天皇から泰澄は神融禅師の称号、薬剤の産地となった医王仙の山名も医王山と授けられています。 薬剤の元となった薬草ですがその効用から薬師如来薬草と呼ばれ薬師如来(大医王仏)を祀ることになったとされます。医王山中でも白兀山(しろはげやま)周辺が薬草が多く山頂に奥宮を置いたと思われます。加賀では医王山と云えば白兀山を指すのはこのことからではないかと云われています。泰澄が開いた加賀・能登を代表する白山・石動山と並んで医王山は加賀三権現として山岳修験道の一大霊場となり長く栄えたと云われます。 加賀側では白兀山を奥宮としてキゴ山・戸室山または二俣を登山口として、登山口周辺に寺院群が創建されたようですが、越中側では白兀山と奥医王山を頂点に国見から祖谷の斜面、前医王山を胎蔵界の中心にした香城寺にかけての斜面に天台系の四八寺三千坊が立ち並び栄えたと云われています。大池平に四八寺を取り纏めた大寺院・惣海寺が建てられたとも云われますが、今のところ所在地も詳細も真偽不明中世以降の神仏混交、明治の神仏分離によって、祭神や本尊仏がややこしく感じると思います。神仏混交時代、神道と仏教の神仏を同神として、神道側では仏の姿で神が降臨する、仏教では仏が神の姿でという一種の融合説で…

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