本多の森 本多家上屋敷跡

 石川県立美術館前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。 篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。 前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園① …

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津田玄蕃屋敷~陸軍第九師団長官舎

金沢は戦災や大きな災害にあっていないせいか、古い路地や建物や庭園が結構残されています。そんな中には観光名所の中にありながら、歴史的に興味的にも面白いのに、あまり人が訪れないものも結構あります。大体がパンフや観光案内には載っていないんですね。載っていても小さな扱いだったり。。というわけで、今回は兼六園の随身口近くにある二つの建物を。。まずは百万石通りから金澤神社に向かう随身口。左手に見える古風な建物。。現在は兼六園管理事務所となっています。実はこの建物は江戸期の加賀藩重臣だった津田玄蕃屋敷だったものです。江戸期の重臣屋敷で玄関付きで残っている数少ない建物です。 前田利家が初めて領地を得た府中三人衆時代(前田利家・佐々成政・不破光治三人合わせて10万石)から急速な領地の拡大によって、利家・利長時代はスカウトや与力武将の参集によって急速に家臣団は数を増やしていきます。加賀前田家が30~40年程の短期間で3万石から40倍の120万石と領土拡大に成功したのは、利家・利長の才覚はもちろんですが、この家臣団の活躍が大でした。活躍=加増となり、利家・利長時代には1万石を超える家臣が20数家存在していました。当時は城・所領持ちである上に戦国気風を受け継ぐ独立心の強い家臣団で、加賀藩は加賀藩前田家を頂点の象徴に小大名連合国家でもあったのです。 江戸期に入って利常・光高・綱紀時代になると、国内戦闘がなくなり、藩内政治・文化振興や対幕府政策などの行政面が優先されます。そこで安定しない地方は十村や代官に任せ、所領を廃し…

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木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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押野高皇産霊(たかみむすひ)神社

高皇産霊(たかみむすび)神社神社沿革 霊峰白山を源とする手取川の支流・木呂川の清流に恵まれ、周辺の何処よりも早く居住した。そのことは、手取川扇状地では最も古い、今から四千年前の縄文式土器群が大塚遺跡で発見されたことからうかがえる。大塚の地名は、明治初期まで古墳が残っていたことに由来し、古墳時代の押野は、豪族が居住した地でもあった。中世には、押野荘地頭・富樫家善の館が建ち、大野荘湊と白山本宮を結ぶ白山大道が通るなど、押野は、古くから人々の往来が盛んであった。 押野の旧社として中世の押野山王社が知られている。江戸中期には神明社・春日社・観音社の三社が存在し、後期に多聞天社・国常立社・比咩社と改められている。明治期には旧高皇産霊神社と清水神社の二社となり、現在の高皇産霊神社は、神社合祀令によってこれらを合祀して明治四十四年に建立したものである。 旧高皇産霊神社 祭神 高皇産霊尊 押野山王社は当社と伝えられ、押野西部の「宮様跡」と呼ばれる地に鎮座した。江戸期の神明社・多聞天社にあたり、押野南西部鎮座(押野霊園辺り)の国常立社を合祀したとみられる。 清水神社 祭神 天照大神 比咩社とも呼ばれ、前身は江戸中期の観音社とみられる。押野東部に鎮座し、門前の村長が「宮前」姓を名乗る由来になった。 押野居住の十村役後藤太兵衛(一六一四~一六七三)は、野田山麓に泉野村などの新しい村々を開き、長坂用水を開発した。同用水開発には、石川郡内の徒歩通勤圏内から延べ三十六万人が動員された。江戸初期の…

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富樫家俊 館跡~押野後藤家 屋敷跡

平安中後期から戦国後期まで加賀国武士団の有力者の筆頭とされたのが、富樫氏でした。 野々市町小史の略系図によれば、藤原北家・藤原房前の五男・魚名の流れで鎮守府将軍・藤原利仁を祖にすると称しています。藤原利仁の諸流には、各地域で諸説ありますが、北信越の各国の武士団創始の祖とされています。 利仁は長男を越前済藤(斎藤)氏、三男を越中井口氏を起こさせ、次男・叙用が加賀国守となり富樫姓を、それ以降は加賀介を世襲土着、小松国府に四代を住しています。利仁から七代目・富樫家国の代に野々市に富樫館を構え本拠を移し、石川郡・河北郡南部を領有したとされ加賀介から富樫介を名乗ったと云われています。この時に兄が林氏を起こして能美・小松郷を領しています。林・富樫両家は平安中後期から鎌倉初期に至って加賀を主導し両家から後の加賀武士団の各豪族が分家派生したとされています。承久の乱で林氏を含め加賀の多くの豪族が衰弱・没落する中、富樫氏は波乱の中を生き残り、戦国期を生き続け加賀の代表として600年以上に続いた名家でした。 ちなみに富樫氏当主が名乗った富樫「介」について・・・ 古代から中世にかけて、朝廷が派遣した国司(地方行政官)は、国の規模や格によって違いはありますが、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう、丞)、目(さかん)の四等官になります。職務が重なることもありますが原則的には守=地方国行政長官、介=副長官、掾=軍事・警察長官、目=記録・奏上などの書記官と思って頂ければ。。。 これとは別に重要地と見なされた西…

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砂子谷富士社 砂子谷の大杉

金沢の森本ICから富山県・福光に向かう国道304号線で、県境を越えて1キロほどを右折すると砂子谷の集落になります。坂道の途中に土地の産土神と思われる神社があります。 日頃、神社や旧跡を見るのが好きな僕は、標柱や歴史看板などを見るとつい急ブレーキを踏んじゃいますねえ^^;今回も石柱の「巨木」の文字に反応してしまいました。 自分の知らない神社に出会うと、後で神社庁を検索することが多いのですが。。石川の神社庁のHPでは小さな神社でも、それなりの由緒や由来が載せられているんですが、富山の神社庁では名前・住所くらいしか載っていないことが多いんです。いつも四苦八苦^^;今回の砂子谷富士社も例にもれず、境内にも案内板もなく、今のところ不明状態です。 とはいえ、鳥居横の標柱「富士社」の揮毫は衆議院議員・綿貫民輔氏。南砺市出身の代議士で、すでに政界は引退していますが、自民党で入閣、国民新党でも活躍していました。 綿貫民輔氏は28歳で倒産寸前の砺波運輸の社長となって、4年間で立て直して上場、現在のトナミ運輸へとつなげたことで知られています。その後、政界入り、自民党幹事長・建設大臣・衆院議長などを歴任、郵政民営化で小泉首相に反旗を翻して、自民党離党の末に国民新党初代代表など。。。南砺市では名誉市民第一号。。 ちなみに綿貫家は歴代・井波八幡宮の宮司の家柄になります。現在の井波瑞泉寺のお隣りで、大きな境内地を誇っています。境内は元々は瑞泉寺・井波城の跡地でもあって、けっこう…

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松任グリーンパーク

産業道路を小松方向に走っていくと、白山市と川北町の境界て前に大きな公園があります。 それが松任グリーンパークになります。水と緑のふれあい広場・いこいの広場、ラグビー・サッカー・ソフトボール使用のグラウンド、テニスコートのサンスポーツランド松任・ふれあい農場広場・ふれあい体験館など多目的な市民の憩いの場になっています。以前はゴルフの練習場もありましたが今は撤去されています。近年は周辺にIT・軽工業系の工場の進出も観られます。駐車場も広く、内面、外面合わせると360台分の駐車場があります。 冬の降雪時には外面駐車場は白山市近隣の雪捨て場になり、雪の多い年には巨大な雪山がよく観られます。 事務所がこの近くなので、このグリーンパークを横目に通り過ぎたり、御昼時ならお弁当やパンをもって駐車場や水辺でホッとしに立ち寄っています。ただ、駐車場には日影がないので、曇りに来てることが多いかも、、、でも水辺公園には晴れた日に。。。 子どもたちが走り回る傾斜の芝生広場がある「いこいの広場」ですが、子供を遊ばせて、お父さんは芝生の上で大の字というパターンでしたが、娘がでかくなってしまうとなかなか来る機会がなくて、すっかりご無沙汰してたら、60mのパイプスライダーが無くなってました。。いつの間に。。 白山市の南端れの為にバスか車でないと訪れづらいので、、、意外に訪問数が少ない公園なのですが、広い芝生公園があり家族連れ、保育園、小学生には隠れた人気があります。娘が幼かった頃にはよくここにきて遊ばせていま…

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越中国司邸跡 伏木気象資料館

新元号の令和が万葉集からの典拠・引用ということで、万葉集が売れ、梅花の宴が開かれた大伴旅人の邸宅跡とニュースにされた坂本八幡神社は人が押し寄せたそうな。。でも、大伴旅人邸は正式には特定されていなかったと思うんですが。。。僕の記憶では30年程前に「玉石敷きの溝」が発見されたとき、奈良時代の国守邸の庭園発見と騒いでいたはず。。ニュースを見てて???となった僕。。菅原道真の邸跡附近も国守邸候補地と云われて、まだ確定していなかったような。。マスコミは何の根拠で坂本八幡神社としたんだろう。。そういえば世界遺産の推薦が決まった百舌鳥・古市古墳群の仁徳天皇陵も文字が躍っていたけど、近年は大仙陵古墳として、一部では伝仁徳天皇陵と書くくらいで、教科書からも消えていたはず。。まあ、宮内省は相変わらず仁徳天皇陵と治定してるけど。。 父・旅人繋がりで、万葉集の編者の第一候補とされる大伴家持もすっかり名前が売れてしまって、全国の所縁の地が名乗りを上げ、多くの人が訪れています。かく言う僕の石川でも、家持が越中守時代に能登が越中国に属していたこともあって、巡検の際に気多大社で読んだ歌碑と選者の噂の中西進氏の歌碑が並ぶと千里浜海岸が連日賑わしてくれました^^;さすが、何でも打ち出す羽咋市と感心もしましたが。。。 GWには中西氏が館長を務める「高志の国文学館」(富山を題材にした文学資料を収集展示しています。)、家持の万葉歌を研究展示する「高岡市万葉歴史館」、大伴家持の子孫を自称する「放生津八幡宮」もどっと人が押し寄せて…

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土山御坊③ 御峰城 

           御峰山 登山道 御峰城(土山城)は、天正12年(1584年)加賀の前田利家と対立した佐々成政が国境防御の城として築いた城になります。前・前々回でご紹介したように、半世紀以上前には一向宗の土山御坊があり、遺構が重なっています。元々あった杉浦家の屋敷周りにも空堀が掘られ、土塁が施されており、城と御坊の判別が付き難くなっています。また、土山への登山道になる南東面にも大規模で大きな削平や土塁が施されており、現在の家屋や道路は削平や土塁の盛り土面上を縫うように、施されたり建てられたりしています。この為、道が狭く曲がりくねったようになっています。                  御坊碑奥の土山城道標 事前下調べで主格部は御坊から、すぐ西面の山上ということで、嫁さんと娘を庭園において、山を登ることにしたのですが。。。林道の入り口には道標が、ところがこれに従ってひたすら林道を進むと、肝心な主郭には行きつけません。。 林道を進んで、猪・クマ用の罠や祠がありますが、そこまで進むと完全に行き過ぎです。まあ、その辺りも崖面を削った古い形跡は感じられますが。。。僕も完全に騙されて檻の近くまで行って、祠からの道は作業中で、引き返してきました。 御峰城(土山砦)登山口 実は主郭に向かう道の目印は水道メーター、ここになります。まさかと思って進んでみると右に大きな堀切が施された崖路に。。堀切の上面の険しい登りをあがると主郭部と云われる御峰山の頂上部の主郭部に出られます。   …

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土山御坊跡② 庭園「御壺」

蓮乗(蓮如次男)は本泉寺退却時の落馬で負傷を追いながらも一揆衆を指導しましたが、病がちとなり、補佐として蓮悟(蓮如七男)を蓮乗の娘の養子として迎え入れて本泉寺を任せ、実悟(蓮如10男)を蓮悟の養子につけています。 この蓮悟が二股から若松本泉寺(金沢市若松、現・専徳寺)に本拠を移し、加州三箇寺を主導していきます。瑞泉寺は妹(了如、蓮如9女)の婿・蓮欽(勝如の甥)を住職としています。 蓮悟に実子が生まれ、疎まれた実悟は独立して白山麓の鶴来に清沢坊願得寺を創建しています。この実悟が加賀一向一揆を例えた言葉「百姓が持ちたる国」を残した人物です。清沢坊願得寺は後に現在にも続く河内願得寺で、明治まで東本願寺法主を選ぶ5箇寺(勅許院家、別院、一家衆)の一つとなっています。 蓮乗は病を押して越中全土を主導していましたが、蓮如が京都に去って以降、病で父の死に目にも会えず、父・蓮如の死の5年後に逝去しています。 瑞泉寺を起点にして、三人もの息子を瑞泉寺・本泉寺に投入した蓮如が、後の勝興寺となる土山(どやま)御坊を重視したことが窺われます。蓮如の構想には越前・吉崎御坊に三男・蓮綱を中心にした超勝寺・本覚寺と越中の次男・蓮乗を中心にした土山御坊・瑞泉寺・本泉寺の協力で、加賀御堂(金沢御堂)の成立を企図。北陸を真宗布教の王国にしようと企図していたようです。 将来的に京都の本願寺を預かる長男・順如を法主として、真宗の教生と集団を平和的に固めたかったようです。それに応えるように順如は、朝廷・幕府へ…

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土山(どやま)御坊跡① 石楠花の庭園

10連休直前の26日 なんとかぎりぎりに仕事を切りの良いところまでこぎつけて、、、最終日の訪問先3軒。。お昼前に1軒目の国道304号沿いの三谷地区に、、、次の訪問先の野々市市・白山市には時間があったので、県境越えで福光から八重桜の並木がある27号で遠回りの金沢大学経由で戻ろうと思ったのですが、県境で土山の文字に思わず方向転換。。お花見ついでに久しぶりに山城散策をしようと。。しかし、日頃の行いが悪いのか、山間に入ると雨がポツポツ。。 帰り道の金沢井波線・県道27号線の八重桜の並木     一向宗時代は瑞泉寺と本泉寺を繋ぐ連絡路、江戸期には加賀藩主13代・前田斉泰の参勤交代の帰路とされていて、別名「殿様街道」と呼ばれていました。 土山の御峰山の頂上に着く頃には本格的な雨模様。。山の天気は変わり易いとはよく言ったものです。雨が降ってしまうと、山城への道はぬかるみになってしまいます。とても山の中には入れません。。長靴は常備してますが、服は仕事途中のネクタイ・スラックス姿では無理。。今回はあきらめて、、、 またまた変更で土山御坊跡の庭園のお花見に変更。。 土山の石楠花の庭園は土山の村民に大事に手入れをされている庭園。山深く隘路を登るため、真宗関連の人以外にはあまり知られていない存在ですが、隠れた石楠花の名所になります。 石楠花の庭園はちょうど満開でしたが、雨のせいか花が下を向いているのがちょっと残念。。 一週間後に家族を連れて再訪したんですが、晴天に近か…

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今年観た桜 山島の郷

ここに来て、最大の繁忙期を迎えながら、昨年よりは余裕があると、サボり気味に仕事をしていたら、またまた残務が。。営業人間には厳しい10連休が間近に迫って、泡喰っても後の祭りTT 前回の続きの芋掘り藤五郎②を書いていたんですが、調べ物をしてたら実は。。が出てきて、構想が崩れてグダグダに。。。で、半分諦め状態で。。。四苦八苦、、、まだまだ掛かりそう。。 今年も結局は車からの横眼で観る桜に終わってしまいました。連休は八重桜でも見に行こうかなとも思っていたんですが、嫁さんに実家の草刈りを命ぜられ汗流すことになりそうです。。 で、満開のソメイヨシノがあっちこっちで咲いていたのに、桜無し状態のブログは寂しいので。。。 昨年は曇天に最後は土砂降りの桜風景を載せました。。松南小学校 旧剣崎校舎跡(2018.04.06) さて今春の桜は、山島こども園の隣の広場にある桜並木です。昨年と違って晴れていますが、夕方近くで明るさが今一つですが、、、、 今年も結局、桜の下を歩けたのは一度だけになってしまいました。それも、昨年の松南(しょうなん)小学校に関連した場所。。まさか2年続きでお花見の場所が松南小学校・こども園絡みになるとは思いもしませんでした。。こうなったら来年は松南小学校の本校にしようかな^^;でも桜の木なんて在ったかなあ。。。。 この広場は旧山島村を記念した「山島の郷」、旧山島小学校の校庭広場から構成されています。平素は今年から山島こども園と改称した山島保育園の子供たちの遊び場にも…

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芋掘り藤五郎① 金城霊澤 芋掘り藤五郎神社

暖かい陽射しが感じられながら、晴れたと思ったら雪混じりの雨が降るなど、気温変化が激しい先週まで。。風も肌寒かったりして、個人宅の桜は咲いていますが屋外や河岸の桜は今週辺りから咲き始めそうです。こういった肌寒さが残ると、一気に咲いて一気に散ることが多いのですが、今年はどうなんでしょうか。。。今年も残務が押し気味なので、どうせならもっと遅くなって欲しいと内心思っている僕でした。先週金曜日に開花宣言@@雪かぶりの桜なんて何年ぶりだろう。昨日(4/6)標本木も満開に。。来週は各所は花盛りかな。。 先週木曜日、山科の高台に登ったのですが、高台はまだ肌寒く花の気配もありませんでした。久しぶりに芋堀藤五郎神社や大桑化石層に立ち寄ってきました。  石川県立美術館広坂別館 大正11年(1912年)建築。旧陸軍第九師団長官舎として建てられたものです。昭和中期、末、平成27年に改修が加えられていますが、大正期の軍官舎の通例を残す建物です。右側のベージュの建物が増設された県文化財保存修復工房になります。入り口は建物正門からになります。 翌々日の土曜日、午前中の早い時間帯にお仕事終了。。観光客が多くて日中は避けている兼六園周辺ですが、3年前に県立美術館横に移設された県文化財保存修復工房を観てきました。修復センター併設の国立美術館(東京・京都・奈良・福岡大宰府)がありますが、どうしても国宝・重文が優先で、県や市町村の文化財は後回しの傾向があります。これまでも地方自治体の美術館の修復センターは金沢だけでしたが、…

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小松天満宮 浮島・輪中堤 梯川分水路

前回の葭島神社の最後の方に、奥の細道の芭蕉と喧嘩別れした小松天満宮の能順を書きましたが。。。 実はその文章に天満宮の外観の画像を差し込むつもりでした。ところが文章がまとまらず余計なことを書き過ぎて、久しぶりの文字数オーバー><;  葭島神社から小松天満宮 ちょうどこの辺りが葭島神社側の船着き場かと。。右に見える白い建物は社務所会館(梅林院)ですが、その手前の岸が天満宮の船着き場のあった位置でした。 今は葭島側は河岸の急な土手になっています。小松天満宮は急な河岸壁。どちらも船着き場の面影はないですねえ。おかげで、今は鳥の楽園^^; 葭島神社河岸から小松天満宮東方 画像をアップしてもらうと解りますが、真ん中の大きな屋根が天満宮の拝幣本殿屋根、やや右に小さな切妻屋根が山門の屋根です。山門の前には明治初期までは約20m程の岸辺に船着き場がありました。右には小松大橋が掛かっており、そこまで河岸壁が続きます。 江戸時代、小松城の一角になる葭島神社(小松稲荷社五穀寺)の北岸と小松天満宮の南岸に船着き場が設けられ、藩主や城代は参拝時には、船で梯川を往復していました。明治以降は河岸の改修で船着き場は消滅しています。現在は100m東方の小松大橋から回り込まねばなりません。。  小松城側から小松天満宮西端 左の赤い橋は天神水管橋といって、水道水用の配管橋になります。この橋も以前は天満宮の西端の境内地を通していたのですが、今回の浮島工事で護岸が出来たおかげで、橋台が築けるようになったので、天満宮…

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葭島(よしじま)神社

小松城は加賀藩三代藩主・前田利常が自身の隠居城として、金沢城の倍の規模と趣向を凝らした建物や庭園(お花の庭園まで造っていたそうです。)を造作していたと云われます。利常の死後、小松・能美の隠居領(約20万石)は加賀藩に帰属しましたが江戸期を通じて小松城代(主には前田対馬守・土佐守家が多く努めています。)・城番が置かれ、維持されていました。一藩(一国)一城令の中、幕府の許可を得た慮外の城として存続していました。 残念ながら明治の廃城令によって、一部の払い下げと共に、刑務所が置かれ懲役業務が城郭の破却作業となって徹底的に破壊されてしまいました。更に堀を構成していた梯川(かけはしがわ)の度重なる氾濫の対処に明治以降、平成の現在まで、川の流れを変えたりの度重なる改修工事で、小松城の面影を残すのは天守台の石垣と僅かな堀壁の一部くらいになっています。 小松城の古地図を観ると梯川が直角に曲がる角地を利用した水に浮かぶ城だということが解ります。前田利常の改修によって、新設された南面の竹島の裏鬼門には菟橋(うはし、得橋)神社を城外内に移転させています。その他にも城内の一角には幾つかの守護神的存在として、寺社が存在していたようです。琵琶島の北堀対岸の外郭にあった愛宕養福院(鎮座地は現在は梯川に水没)で鬼門の守護神としていました。その後にその延長線上の対岸に創建したのが、小松天満宮になります。  葭島神社 表参道 一の鳥居 同じ鬼門方向のもう一社が古地図上では小松城郭の最外郭の梯川岸辺にある稲荷社にな…

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御誕生寺

毎年この時期は忙しいのですが、その分遠出が出来ず、ストレスをためまくる僕。 そういう時には仕事に眼をつむって、ひたすら遠くに逃避ドライブが発散方法。。ただその分、仕事をためるので後で四苦八苦。。そういう僕を知ってる嫁さんは嫌々ながら助手席にというのがいつものパターン で、二人で久しぶりにやってきたのは越前市。。午後になって出て来たので、訪れたのは一カ所だけ。。もっと早くから来ていればいろいろ回れるんですが、毎度の思い付きでしたので、、、 御誕生寺の猫ハウスの窓辺にいた猫ちゃん   この日は寒いので体調がすぐれなかったり、猫風邪の猫ちゃんはハウスに隔離中。ハウスの猫ちゃんはみんな寝ていたけれど、この子だけは外に行きたくて、窓辺で行きたそうにウズウズ、窓の前を通る人を見つめていました@@眼の鋭さと鼻筋がハッキリしているのはチャトラの特徴 まあ、嫁さんをつきあわせるんですから多少後ろめたい僕は、嫁さんが喜びそうなところにしようというわけで、初訪問の御誕生寺に。。。平成生まれの寺院ながら大きな敷地と本堂を持つ寺院ですが、巷では知る人ぞ知るの猫寺でもあるのです。 嫁さんの近頃の趣味と言えば、スマフォやタブレットで、日がな猫の動画を観ること^^ 一時期のペットのワンちゃん流行から、数年前からはすっかりニャンコに流行は移っていますが、そこは御多分に漏れず我が家の嫁さんと娘も猫にはハマりまくっています。実家の頃は母親が猫好きで、僕も好きな部類。。元々、キティちゃんグッズに嵌る嫁さん。そこへ…

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木製笠塔婆 金沢市埋蔵文化財センター

今月14日、北金沢の千田町から画期的な発見がなされたことが発表されました。 木製の笠塔婆が発見されたのは国内2例目。ところが今回の発見が画期的なのは、梵字が金箔で描かれており、その金箔が残っていたことにあります。そもそも木製品が腐らずに残るのも奇跡的ですが、漆や金箔が残されているというのは、画期的というよりもう奇跡としか言いようがありません。 ちなみに木製笠塔婆の国内初の発見は、平成19年(2007年)奥能登の野々江本江寺跡遺跡で、平安末期の物とされています。ちなみに本江寺は小さな寺院ながら明治まであった寺院でした。珠洲市の飯田高校から東に2キロ弱の金川という河川の段丘上にありました。古くは平安末期から室町にかけては真言宗寺院と江戸期には伝わっていました。(石川県文化財、笠塔婆の竿(支柱)2・笠塔婆の額・板碑) ⇒ 野々江本江寺遺跡出土品(石川県HP) リンクを見て貰えば分かりますが、非常に簡素なもので笠塔婆と言っても、板棒に近い造りです。それでも竿丈は2mの長さがある大きなもの。 千田町で発見された笠塔婆はTVの映像を見ると、額がはっきりある様子。。これは見たい^^/しかも公開場所は、車で15分くらい。。 しかも日曜だけど午前中は仕事で、津幡に用事があるから千田町にも寄って行けるし、公開時間にもバッチリ^^V 発見された場所は全くの偶然の産物。。白山市から金沢の西側(海側)を縦貫する海側バイパス道路。片側2車線化を施しながら浅野川の手前・大河端まで延伸しています。県や金…

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和倉温泉駅周辺

和倉温泉駅は名前の通り観光地・和倉温泉の玄関口になります。北にまっすぐ1キロほど進むと七尾西湾になり、左手に石川でも一番元気な温泉地・和倉温泉、右手に行けば能登島大橋を渡って能登島に行けます。駅から東に行くと古くからの漁師町の石崎漁港になります。和倉温泉駅の近辺も町名は同じ石崎(いっさき)町で漁師の町として繁栄してきた町です。 8月の第一土曜日には石崎奉燈祭といって、高さ12~15m、重量2トン、担ぎ手100人に及ぶ大奉燈七基を含む14基が担がれて練り歩く勇壮な夏祭りが行われています。能登のキリコ祭りでも最大規模の一つになります。元々は石崎八幡神社の夏祭りで京都祇園社の流れに沿った山車がメインだったのですが、明治22年(1889年)、度重なる大火の被害を受けて、輪島の古い奉燈を移入して奉燈祭となって数と大きさを増して最大規模の祭りになったものです。見所は直角路での角曲がりと乱舞狂演。。日本最大(体積・重量)の曳山の青柏祭・花火が海面を照らし出す七尾港まつりと並んで七尾三大祭りとされています。 夏に嫁さんと行った輪島からの帰り道。。輪島の朝市通りをお昼に出て、七尾の山の寺寺院群に向かう途中、さすがにお腹が減って、立ち寄ったのが和倉駅前の喫茶レスト「はいだるい」外観は喫茶店ですが、カレーはもちろん丼物・うどんまで、ついでにコロッケや大きなエビ天までメニューだけ見たら、食堂そのもの。。 ちなみに「はいだるい」は能登の方言で「体がだるい。つまらない。しょうもない。」といった意味。汽車…

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野間神社

金沢の北東部にある野間神社。現在は金沢市ですが、旧小坂村一帯の惣社として河北(加賀)13座に数えられる式内論社としても古い歴史を持つ神社です。小坂村は長く河北郡でしたが昭和11年(1936年)に金沢市に編入されています。 一応、式内社・野間神社に関しては金沢市玉鉾(たまぼこ)の野間神社も論社として主張しています。ただ玉鉾野間神社の主祭神は豊宇賀能売命(とようけび、豊受大神、稲荷神)にしています。豊宇賀能売命は伊勢神宮の外宮の主祭神と知られた食物・穀物を司る女神で、天照大神の相棒的存在で大和系ともみられます。 野間神社御由緒 金沢市小坂町東一番地鎮座 一.御祭神 草野(かやの)比賣大神    配祀   武甕槌(たけみかづち)命 経津主(ふつぬし)命 天児屋根(あまのこやね)命 比咩(ひめ)大神 一.境内地 壱千八百拾四坪 一.由緒    本神社は延喜式内の名社であり、古来小坂地区の総鎮守神として仰がれて来た。    その創建は悠久の大古にさかのぼるが、文献に現れたのは、斉明天皇二年(西暦六五六年)二月を始めとする。以来、歴代天皇、国守、介、守護等の崇敬極めて厚く、神階を授け給い、神領を寄進し、社殿の造営や幣帛の供進などしばしばであった。藩政期には河北郡一郡の総社と称せられ、明治三十八年石川県より郷社に列せられて今日に至った。  表参道石段下の狛犬像  平成8年(1996年)奉納と新しいものです。平成生まれの加賀の狛犬にはこのような迫力系が多いです。 …

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本行寺② 隠れキリシタンの寺

昨昨年(H29)2月、高山右近の列福式が大阪で行われ、福者の宣言がされた際に長々と3部作を書きました。 高山右近記念公園①  ②高山右近 前田利長時代 高山右近の碑③  高山右近像と本行寺堂宇 高山右近像はレプリカだそうですが、作者は大正から昭和中期にかけて彫刻界の重鎮として活躍した彫刻家・吉田三郎。吉田三郎の作品としては長く金沢駅に飾られた杜若(かきつばた)像、台湾の烏頭ダムの八田与一像などが知られています。 ジュスト・高山右近は戦国武将として、清廉潔白で人徳に優れた賢者、戦略・戦術に優れた武将、教えのために大名としての地位や所領を返上するなど献身的な殉教者、更には利休七哲に挙げられる芸術性にも優れていたと云われ、現在でも人気の高い戦国武将です。 キリスト教に殉じて大名の地位・所領の返上、国外追放によるマニラ客死などはよく知られています。この大名返上の際の年齢が33歳。マニラで客死が63歳。この間の30年は、3年間の細川・有馬氏などの庇護を受けた逃亡生活を経て、豊臣秀吉の特赦で前田利家の客将として迎えられて26年間の長きを加賀藩で過ごしていました。 利家在世中は、金沢・大坂間の往復と軍務に忙殺されていたようですが、利長の代には緊急時や高岡城の築城などの他は、家督を長子・長房に預けて半隠居として、文化面や自身の信仰に費やしていたようです。その中で右近は金沢・志雄・七尾に教会を建設したと云われます。 ちなみに志雄町(現・宝達志水町)は、羽咋郡と河北郡の境界に当た…

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