医王山 国見ヒュッテ

富山県立医王山自然公園 モニュメント医王山(いおうぜん)は金沢市と南砺市の境界上にまたがる山稜になります。加賀では白山と並ぶ霊峰とされていますが、これは越中側からも言えることで砺波平野からも霊峰とされています。ナナカマドの紅葉と実開山は養老3年(719年)白山開山で知られる泰澄(法澄)に依ります。泰澄は前々年に白山を開山し越前の豊原寺を基盤に白山妙理権現の信仰拡大に白山周辺路を広めていました。養老3年に白山平泉寺を創建して後は全国の山岳開山と布教活動を本格化させています。その足慣らしの地として修行地としたのが医王山系だとされています。泰澄は医王山を開山すると、山系に生える薬草の多さから唐の育王寺(阿育王寺)にちなんで医王仙と名付けたのが始まりと云われています。ちなみに阿育王寺は中国晋代(280~289年頃)インドのアショーカ王(阿育王)の舎利をもって建立した古塔の発見から創建された寺院で、宋代には禅宗五山に数えられていました。中国で唯一のアショーカ王の名を冠した寺院です。 養老6年(722年)元正天皇の病気平癒に対して泰澄が祈祷と薬剤を献上したのですが、この薬剤が医王山で採集された薬草類だったとされています。天皇の平癒によって、元正天皇から泰澄は神融禅師の称号を受け、山名を医王山と受けています。この故事から薬師如来(医王権現)が祀られたと伝わっています。 ちなみにこの伝承にも面白いお話が伝わっています。7世紀末山城・丹波に跨る愛宕山を開山したのは山岳修験道の祖とされる役小角70歳と法澄(泰澄)…

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歴史の道百選 田近越・小原越・二俣越

10/30 先記事の殿様街道、別名・二俣越えを含む全国36件が文化庁から「歴史の道百選」が追加選定されました。今回、砂子坂(二俣越)を書いていて、このニュースが入ってきて、えっ@@ でもね。。 文化庁は29日、歴史的・文化的な由緒を持つ「歴史の道百選」に全国36件の街道や運河を追加選定した。平成8年(1996年)に78件を選んで以来23年ぶりの選定で、石川県関係では石川と富山を結ぶ「田近越・小原越・二俣越」が選ばれた。石川県内の歴史の道百選は計5件、全国で114件となった。歴史の道百選は都道府県教育委員会の推薦に基づき、選定委員会が「当時の道筋良好な状態で残る」「複数の地域にまたがる」「明治時代以前に活用されていた」などを基準に選定。指定されると補修や説明板設置を国が補助する。石川県内では平成8年に北陸道ー倶利伽羅峠越、白ヶ峰往来、石動山道、白山禅定道の4件が選ばれた。今回選ばれた田近越・小原越・二俣越は戦国時代以前の成立とされ、北国街道(北陸道)よりも加賀と越中間を早く往来でき、盛んに利用された。道筋には中世の山城が国境でにらみ合うように築かれ、その城跡が戦国末期の前田利家と佐々成政の攻防の緊張を伝える。百選には三つの道筋をまとめて1件として選定された。小矢部市から津幡町を通り、金沢北部の森下川右岸に出る田近越は、道筋に一乗寺城跡と朝日山城跡がある。小原越は小矢部市から森下川沿いの谷に出て金沢に向かう道で、道筋に松根城跡と切山城跡があり、一部は国史跡「加越国境城跡群及び道」に指定。南砺市から山…

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砂子坂道場跡(光徳寺跡・善徳寺跡)

金沢大学のキャンパスを巻くように迂回して、富山県の福光駅まで行く県道27号線。金沢から向かうと県境の地、右手に殿様街道直売所があります。地元砂子坂だけでなく土山など近在の金沢・南砺の農家から作物や加工品が集まっています。殿様街道の謂れは、加賀藩13代藩主・前田斉泰が参勤交代に使用した道という所から。。加賀藩主の参勤交代の経路は当時の状況によって、いろいろと経路を変更していました。この県道27号は越中から加賀に入る道としては古くから使用されていたようで、現在では整備も進んで通りやすく、福光・城端・井波そして五箇山に向かうには便利な道路になっています。しかし、殿様街道は正確に言うと医王ダムを過ぎたあたりから山中に入り、直売所の南の山中の砂子坂集落を通って100m程先の坂道から県道に戻る経路でした。 しかし、この街道も古代には山間の険しい山間地で、相当の山道だったと云われています。この街道が整備されたのは浄土真宗本願寺派(東西分裂以前)法主5世・綽如が北陸下向後ですから至徳元年(1384年、南朝・元中元年)以降になると思われます。綽如は明徳元年(1390年)越中の本山として瑞泉寺(杉谷山)を開基していますが、越中に入る前には加賀二俣(二俣本泉寺)に仮寓居として庵を置いて越中への足掛かりとしていました。優れた先人とはいえ、まだまだ北陸では新興宗教の時代で次代で二俣本泉寺を開基した如乗もしくは土山御坊に入った蓮如・蓮乗の時代、15世紀中~16世紀初頭ではないかとも思われます。戦国から江戸期にかけては浄土真…

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七ヶ用水大水門

前回の加賀一の宮駅舎から、金名鉄道線路だった真新しいサイクリングロードを二人で歩いて、古宮公園の方に以前は、大回りしないと古宮公園の奥に行けなかったんですが、整備されたおかげで目的地には一直線。。 ちょうど曲がろうとしたところで、嫁さんが@@「ねえねえ、あのガラスのピラミッドみたいのは、な~~に?」「えっ、あ~前に来た時、教えてあげたじゃん・・」「覚えてない。。わたし見てくる~~」嫁さんが見に行ったのはこれです。古宮公園 瓦笥発見保存地 2017.04.14撮影白山本宮(白山比咩神社)が、この地にあった時代の1700に及ぶ大量の瓦笥(かわらけ、土師皿)が発掘されたもので、そのほとんどが神事に使用されたもの。まあ、白山本宮のゴミ捨て場。 白山本宮がこの安久濤(あくど)の森に文明12年(1480年)まで、長い期間あった伝承が証明されたものです。白山本宮はこの年に火災で焼失、白山三の宮(現在地)に仮遷座していましたが、世紀を跨いだ前田利家の修復で現在地に固定されました。おかげで本来の三の宮が消失、白山比咩神社の町名・三宮町としてだけが残っています。後で思い出しましたが、昨昨年、家族で来た時に何があるとは教えたけど、あっちウロウロこっちウロウロで佇むお父さんを無視して二人はそそくさと先を歩いていて、その時は見なかったようです。 曲がった先にある建物は「手取川七ヶ用水土地改良区白山管理セン…

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加賀一の宮駅舎

白山比咩神社 表参道一の鳥居(R1.8.13撮影)パーク獅子吼からの帰り道、娘にお土産をということで白山比咩神社の表口に立ち寄ることに。。 白山麓のど真ん中、旧の吉野谷村にある吉野工芸の里の入り口にある大判焼のお店「山法師」 このブログサイトの最初のアップでも紹介しています。⇒ 最初のUP 日本最大級の石ころこのブログの画像はこの時のアップの2.3年前のものですからもう10年も前になるんでしょうか。。最後のおまけ画像としてアップしたものです。 皮ばかり厚く、くどい甘味の多い大判焼ですが、山法師の餡は甘いのはもちろん、変なくどさが無く誰でもペロリ ^O^しかも餡は通常の3倍のボリューム満点。日頃、大判焼はどこで買っても同じとのたまう嫁さんもここだけは特別というほど、、とにかく我が家でも全員大好きな逸品ですアップ当時から全国一の甘党とされる石川県の人には知る人ぞ知るの人気店でした。 吉野工芸の里の入り口にある茅葺屋根が目印の山法師は、白山麓のスキー場関係者が、冬以外の営業として始めたお店で、冬期間は本業のスキー場で休業しています。しかも時間的にも長時間開いているお店でもありませんでした。しかし、白山麓の吉野谷はやはり遠い、ゆっくり走ると自宅からでも車で1時間弱はかかってしまいます。というわけで、白山麓に仕事で行って昼間に通るときに、タイミングが合えば、お土産で買っていたんです。ところが人気が出ると大変な事態…

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獅子ワールド館

全国には春祭り・夏祭り・秋祭り、更には越後獅子、角館ささら舞、長崎袴獅子のご当地舞や正月舞、宴会獅子、演舞劇など様々な獅子舞が四季を通して演じられています。一人立ち・二人立ち・ムカデ獅子・大幌(胴・胴幕・伽耶・萱胴他)、神楽・伎楽、更には獅子頭も様々なものがあります。悪魔・厄払い、豊年祈願・御礼、祝祭、奉納祈願、宴会芸、劇芸など目的も千差万別。各都道府県、各地域でみても一つとして同じものが無いと云われるほどで、国内の民俗芸能では最多と云われるのが獅子舞だと云われる由縁です。能の鏡獅子、伎楽の獅子もありますから、その幅広さは計り知れません。。 獅子ワールド館   これだけ全国に民俗芸能として広がる獅子舞ですが、個別の獅子舞を紹介展示はあるもの、他県や海外を一堂に獅子頭や獅子舞を紹介する資料館はほとんどありません。。僕の知る限りでも獅子博物館(埼玉県白岡市)・ひみ獅子舞ミュージアム(富山県氷見市)くらいです。地元獅子をメインにしますから、規模としては、どちらもそう多くないのですが。。この辺りが全国でも同じものは一つもないと云われる獅子舞・獅子頭の課題にもなります。 白山市でも加賀獅子頭の里として獅子の展示館「獅子ワールド館」があります。やはり大規模なものではありませんが海外の獅子、江戸期の獅子、県外各地の獅子、鶴来町の現役獅子頭などいろいろな獅子が見られます。入場料無料。 ******************************************そもそも獅子の起源・源流はといえば、獅子…

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獅子吼高原 パーク獅子吼

9/1 獅子吼高原のパーク獅子吼で第6回OTSUITCHIマーケットというイベントが開かれていました。俗にいうテント市なんですが、昨年までは旧鶴来町役場(現・白山市役所鶴来支所)の駐車場で年2回ほど開催していたのですが、スペースも狭く、こじんまりとしたイベントになっていました。今回は獅子吼高原の山裾のパーク獅子吼のふるさと館を中心に林間の広い一帯に80店舗のテント市と30店舗のフリーマーケットを開催するという大掛かりなイベントが開催されました。ついでに奥獅子吼登山ハイキングも開催。それまでは商店街や鶴来支所が開催する小規模なものでしたが、今回は若い集団の実行委員会が合体して大きなイベントに仕上がりました。たまたま、仕事の関係のお客さんから紹介されて実行委員会から声が掛かり、ちょこっと関わることになったのです。今までのテント市にはあまり縁がなかったこともあって、以前に観た道の駅の2.3台のテント市かと思って伺うと話が全く違う。。 実行委員会の委員長さんもこれだけの大規模イベントは初めてということで、まあそんなに人は来ないだろうとタカを括っていたんですが、参加入場客は8000人が目標。。。次回もあるかもしれないし、やはり気になるんで嫁さんを誘って久しぶりにパーク獅子吼まで行ってきたんです。 白山市は全体で見れば人口はここ10年程は横ばい微増の状況ですが、やはり地域の差があり人口の増えているのは旧松任市街地で、白山麓の入り口の鶴来地区は微減、また高齢化による問題がやはり顕在化してきています。当然なが…

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赤レンガミュージアム 金沢を表す三色

******************************************金沢を代表する色といえば、まず連想するのが金沢箔の金色百万石まつりの前田利家の甲冑姿でもお馴染みの金小札白糸素懸威胴丸具足、これに金箔押鯰尾兜・金箔押面貌は金箔工芸の会社では目玉として再現展示しているところが多くあります。現物の具足は天正12年(1584年)佐々成政との攻防戦の末森城合戦に着用したと云われ、末森城主として城を死守した奥村永福(奥村宗家祖)に恩賞として与えたと云われます。その後、奥村宗家から前田家に献上されたものです。画像は金箔製造・販売の箔一の箔巧館・金箔ミュージアムの金箔の間から、黄金の鎧兜を囲む壁面にも1万枚に及ぶ金箔が張られています。プロジェクションマッピングで幻想的な世界観が演出されます。他にも金箔製作体験や、職人作業も見学できるので、観光の合間にもお薦めかも。。  ⇒ 箔一・箔巧館HP箔一は昭和50年(1975年)に浅野邦子(現会長)さんが金箔の工芸品販売を目的に創業した会社になります。浅野邦子女史は京都出身で箔製造の箔屋の四男に嫁いだ主婦だったのですが、オイルショック後の不況で低迷する家計の助けのつもりからスタート、、、箔打ち紙から作った油取り紙が大ヒット(特許も箔一)、更に食用金箔の開発など女性感覚の波及品などで金沢箔を材料から主役に押し上げた功労者です。浅野さんのお姿を拝したのは香林坊アトリオに直営店を出して北陸経済同友会員になった頃、北陸経済会主催の研修会(一里野)に行かされ…

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加賀本多博物館

旧本多蔵品館跡地 現在は国立近代美術館工芸館の移築改装工事中R1秋完成予定 本多家の上屋敷地には平成27年(2015年)まで県立美術館と藩老本多蔵品館が建っていました。昭和48年(1973年)本多蔵品館は加賀八家で最大禄高5万石を誇った本多家と石川県が共同出資で財団法人を設立、旧金沢美工大の図書館建物を利用して、収蔵品2000点(内、初代政重・二代政長関連100点+当主夫妻火事装束2点が県文化財)は調度品や収集品は武家文化を伝える物から、北斎漫画や紀行文の庶民文化まで幅広いものがありました。上:県立歴史博物館・本多博物館共通入口 左二棟が県立歴史博物館、右一棟が本多博物館中:入口前の辰巳用水導水管の復元モニュメント 午前10時から午後4時まで10分間隔で水が噴き出るようになっています。今回は4時過ぎで見られず。。下:本多博物館入口藩老本多蔵品館時代の馬具一式展示(二代・本多政長使用)初代・本多政重画像 讃・沢庵宗彭(たくあんそうほう)筆 平成27年(2015年)東京国立近代美術館工芸館(今秋完成予定)の移設工事で、赤レンガミュージアムに引っ越しています。それまでの手狭な展示スペースが広くなったおかげで常設展示はそれまでのまとまった一斉展示から個別展示が増えています。僕としては、2代政長所用の馬に合わせての馬具一式の展示は気に入ってたんですけどねえ。。それと、単独展示になった当主や当主夫人の火消装束は間近で見られるようになりましたが、周りが無地でイマイチ華やかさに落ちる展示になってしまったかも。。…

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本多の森 本多家上屋敷跡

 石川県立美術館前回ご紹介した県立美術館の地は江戸期には、八家家老で最大所領(5万石)を誇った本多家の上屋敷があった地になります。石川県立美術館最西部 左の建物は文化財修復センター町名となっている出羽町の由来ですが、金沢城・河北門石垣・外総構濠を整備した篠原出羽守一孝の屋敷があったことに由来しています。 篠原一孝は、前田利家の遺言にも「出羽は子供の時から召し仕え、心はよく解っている。片口なる(口が堅い)律儀者だから城を預けても心配はいらない。その上、末森の合戦では若年ながらよく働いてくれたので、弟・良之(佐脇良之)の娘を養女として嫁がせ、姪婿とした。関東陣では八王子でよく働いた。しかし、姪が早死にしたので青山佐渡(守)吉次を聟にしたら良いと女どもも言っているから後で取り計らったらよかろう。」と、家臣団でも第一番に名を上げられています。利長時代には横山長知・奥村栄明(永福長子)と共に執政となっていました。また、ライバルとも云われ、関係がイマイチと云われた高山右近の金沢退去時には、「もし幕府に糾明されたら、自分が勝手にやったんだから責任を取って腹を切る」と、右近への感謝と共にこまごまとした計らいを見せ、金沢随一の武士・武家の鏡と尊敬を集めています。元和2年(1616年)死去、享年65歳。その後、相続した次男・孫が早世したために篠原出羽家は断絶しています。芳春院の実家筋となる篠原本家は次弟・長次が継承しています。 前田利家の遺言や篠原一孝・佐脇良之などの略歴はこちらをどうぞ ⇒ 高山右近記念公園① …

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津田玄蕃屋敷~陸軍第九師団長官舎

金沢は戦災や大きな災害にあっていないせいか、古い路地や建物や庭園が結構残されています。そんな中には観光名所の中にありながら、歴史的に興味的にも面白いのに、あまり人が訪れないものも結構あります。大体がパンフや観光案内には載っていないんですね。載っていても小さな扱いだったり。。というわけで、今回は兼六園の随身口近くにある二つの建物を。。まずは百万石通りから金澤神社に向かう随身口。左手に見える古風な建物。。現在は兼六園管理事務所となっています。実はこの建物は江戸期の加賀藩重臣だった津田玄蕃屋敷だったものです。江戸期の重臣屋敷で玄関付きで残っている数少ない建物です。 前田利家が初めて領地を得た府中三人衆時代(前田利家・佐々成政・不破光治三人合わせて10万石)から急速な領地の拡大によって、利家・利長時代はスカウトや与力武将の参集によって急速に家臣団は数を増やしていきます。加賀前田家が30~40年程の短期間で3万石から40倍の120万石と領土拡大に成功したのは、利家・利長の才覚はもちろんですが、この家臣団の活躍が大でした。活躍=加増となり、利家・利長時代には1万石を超える家臣が20数家存在していました。当時は城・所領持ちである上に戦国気風を受け継ぐ独立心の強い家臣団で、加賀藩は加賀藩前田家を頂点の象徴に小大名連合国家でもあったのです。 江戸期に入って利常・光高・綱紀時代になると、国内戦闘がなくなり、藩内政治・文化振興や対幕府政策などの行政面が優先されます。そこで安定しない地方は十村や代官に任せ、所領を廃し…

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木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。 山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。木越山 光徳寺跡 開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。 2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地 天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆…

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押野高皇産霊(たかみむすひ)神社

高皇産霊(たかみむすび)神社神社沿革 霊峰白山を源とする手取川の支流・木呂川の清流に恵まれ、周辺の何処よりも早く居住した。そのことは、手取川扇状地では最も古い、今から四千年前の縄文式土器群が大塚遺跡で発見されたことからうかがえる。大塚の地名は、明治初期まで古墳が残っていたことに由来し、古墳時代の押野は、豪族が居住した地でもあった。中世には、押野荘地頭・富樫家善の館が建ち、大野荘湊と白山本宮を結ぶ白山大道が通るなど、押野は、古くから人々の往来が盛んであった。 押野の旧社として中世の押野山王社が知られている。江戸中期には神明社・春日社・観音社の三社が存在し、後期に多聞天社・国常立社・比咩社と改められている。明治期には旧高皇産霊神社と清水神社の二社となり、現在の高皇産霊神社は、神社合祀令によってこれらを合祀して明治四十四年に建立したものである。 旧高皇産霊神社 祭神 高皇産霊尊 押野山王社は当社と伝えられ、押野西部の「宮様跡」と呼ばれる地に鎮座した。江戸期の神明社・多聞天社にあたり、押野南西部鎮座(押野霊園辺り)の国常立社を合祀したとみられる。 清水神社 祭神 天照大神 比咩社とも呼ばれ、前身は江戸中期の観音社とみられる。押野東部に鎮座し、門前の村長が「宮前」姓を名乗る由来になった。 押野居住の十村役後藤太兵衛(一六一四~一六七三)は、野田山麓に泉野村などの新しい村々を開き、長坂用水を開発した。同用水開発には、石川郡内の徒歩通勤圏内から延べ三十六万人が動員された。江戸初期の…

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富樫家俊 館跡~押野後藤家 屋敷跡

平安中後期から戦国後期まで加賀国武士団の有力者の筆頭とされたのが、富樫氏でした。 野々市町小史の略系図によれば、藤原北家・藤原房前の五男・魚名の流れで鎮守府将軍・藤原利仁を祖にすると称しています。藤原利仁の諸流には、各地域で諸説ありますが、北信越の各国の武士団創始の祖とされています。 利仁は長男を越前済藤(斎藤)氏、三男を越中井口氏を起こさせ、次男・叙用が加賀国守となり富樫姓を、それ以降は加賀介を世襲土着、小松国府に四代を住しています。利仁から七代目・富樫家国の代に野々市に富樫館を構え本拠を移し、石川郡・河北郡南部を領有したとされ加賀介から富樫介を名乗ったと云われています。この時に兄が林氏を起こして能美・小松郷を領しています。林・富樫両家は平安中後期から鎌倉初期に至って加賀を主導し両家から後の加賀武士団の各豪族が分家派生したとされています。承久の乱で林氏を含め加賀の多くの豪族が衰弱・没落する中、富樫氏は波乱の中を生き残り、戦国期を生き続け加賀の代表として600年以上に続いた名家でした。 ちなみに富樫氏当主が名乗った富樫「介」について・・・ 古代から中世にかけて、朝廷が派遣した国司(地方行政官)は、国の規模や格によって違いはありますが、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう、丞)、目(さかん)の四等官になります。職務が重なることもありますが原則的には守=地方国行政長官、介=副長官、掾=軍事・警察長官、目=記録・奏上などの書記官と思って頂ければ。。。 これとは別に重要地と見なされた西…

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砂子谷富士社 砂子谷の大杉

金沢の森本ICから富山県・福光に向かう国道304号線で、県境を越えて1キロほどを右折すると砂子谷の集落になります。坂道の途中に土地の産土神と思われる神社があります。 日頃、神社や旧跡を見るのが好きな僕は、標柱や歴史看板などを見るとつい急ブレーキを踏んじゃいますねえ^^;今回も石柱の「巨木」の文字に反応してしまいました。 自分の知らない神社に出会うと、後で神社庁を検索することが多いのですが。。石川の神社庁のHPでは小さな神社でも、それなりの由緒や由来が載せられているんですが、富山の神社庁では名前・住所くらいしか載っていないことが多いんです。いつも四苦八苦^^;今回の砂子谷富士社も例にもれず、境内にも案内板もなく、今のところ不明状態です。 とはいえ、鳥居横の標柱「富士社」の揮毫は衆議院議員・綿貫民輔氏。南砺市出身の代議士で、すでに政界は引退していますが、自民党で入閣、国民新党でも活躍していました。 綿貫民輔氏は28歳で倒産寸前の砺波運輸の社長となって、4年間で立て直して上場、現在のトナミ運輸へとつなげたことで知られています。その後、政界入り、自民党幹事長・建設大臣・衆院議長などを歴任、郵政民営化で小泉首相に反旗を翻して、自民党離党の末に国民新党初代代表など。。。南砺市では名誉市民第一号。。 ちなみに綿貫家は歴代・井波八幡宮の宮司の家柄になります。現在の井波瑞泉寺のお隣りで、大きな境内地を誇っています。境内は元々は瑞泉寺・井波城の跡地でもあって、けっこう…

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松任グリーンパーク

産業道路を小松方向に走っていくと、白山市と川北町の境界て前に大きな公園があります。 それが松任グリーンパークになります。水と緑のふれあい広場・いこいの広場、ラグビー・サッカー・ソフトボール使用のグラウンド、テニスコートのサンスポーツランド松任・ふれあい農場広場・ふれあい体験館など多目的な市民の憩いの場になっています。以前はゴルフの練習場もありましたが今は撤去されています。近年は周辺にIT・軽工業系の工場の進出も観られます。駐車場も広く、内面、外面合わせると360台分の駐車場があります。 冬の降雪時には外面駐車場は白山市近隣の雪捨て場になり、雪の多い年には巨大な雪山がよく観られます。 事務所がこの近くなので、このグリーンパークを横目に通り過ぎたり、御昼時ならお弁当やパンをもって駐車場や水辺でホッとしに立ち寄っています。ただ、駐車場には日影がないので、曇りに来てることが多いかも、、、でも水辺公園には晴れた日に。。。 子どもたちが走り回る傾斜の芝生広場がある「いこいの広場」ですが、子供を遊ばせて、お父さんは芝生の上で大の字というパターンでしたが、娘がでかくなってしまうとなかなか来る機会がなくて、すっかりご無沙汰してたら、60mのパイプスライダーが無くなってました。。いつの間に。。 白山市の南端れの為にバスか車でないと訪れづらいので、、、意外に訪問数が少ない公園なのですが、広い芝生公園があり家族連れ、保育園、小学生には隠れた人気があります。娘が幼かった頃にはよくここにきて遊ばせていま…

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越中国司邸跡 伏木気象資料館

新元号の令和が万葉集からの典拠・引用ということで、万葉集が売れ、梅花の宴が開かれた大伴旅人の邸宅跡とニュースにされた坂本八幡神社は人が押し寄せたそうな。。でも、大伴旅人邸は正式には特定されていなかったと思うんですが。。。僕の記憶では30年程前に「玉石敷きの溝」が発見されたとき、奈良時代の国守邸の庭園発見と騒いでいたはず。。ニュースを見てて???となった僕。。菅原道真の邸跡附近も国守邸候補地と云われて、まだ確定していなかったような。。マスコミは何の根拠で坂本八幡神社としたんだろう。。そういえば世界遺産の推薦が決まった百舌鳥・古市古墳群の仁徳天皇陵も文字が躍っていたけど、近年は大仙陵古墳として、一部では伝仁徳天皇陵と書くくらいで、教科書からも消えていたはず。。まあ、宮内省は相変わらず仁徳天皇陵と治定してるけど。。 父・旅人繋がりで、万葉集の編者の第一候補とされる大伴家持もすっかり名前が売れてしまって、全国の所縁の地が名乗りを上げ、多くの人が訪れています。かく言う僕の石川でも、家持が越中守時代に能登が越中国に属していたこともあって、巡検の際に気多大社で読んだ歌碑と選者の噂の中西進氏の歌碑が並ぶと千里浜海岸が連日賑わしてくれました^^;さすが、何でも打ち出す羽咋市と感心もしましたが。。。 GWには中西氏が館長を務める「高志の国文学館」(富山を題材にした文学資料を収集展示しています。)、家持の万葉歌を研究展示する「高岡市万葉歴史館」、大伴家持の子孫を自称する「放生津八幡宮」もどっと人が押し寄せて…

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土山御坊③ 御峰城 

           御峰山 登山道 御峰城(土山城)は、天正12年(1584年)加賀の前田利家と対立した佐々成政が国境防御の城として築いた城になります。前・前々回でご紹介したように、半世紀以上前には一向宗の土山御坊があり、遺構が重なっています。元々あった杉浦家の屋敷周りにも空堀が掘られ、土塁が施されており、城と御坊の判別が付き難くなっています。また、土山への登山道になる南東面にも大規模で大きな削平や土塁が施されており、現在の家屋や道路は削平や土塁の盛り土面上を縫うように、施されたり建てられたりしています。この為、道が狭く曲がりくねったようになっています。                  御坊碑奥の土山城道標 事前下調べで主格部は御坊から、すぐ西面の山上ということで、嫁さんと娘を庭園において、山を登ることにしたのですが。。。林道の入り口には道標が、ところがこれに従ってひたすら林道を進むと、肝心な主郭には行きつけません。。 林道を進んで、猪・クマ用の罠や祠がありますが、そこまで進むと完全に行き過ぎです。まあ、その辺りも崖面を削った古い形跡は感じられますが。。。僕も完全に騙されて檻の近くまで行って、祠からの道は作業中で、引き返してきました。 御峰城(土山砦)登山口 実は主郭に向かう道の目印は水道メーター、ここになります。まさかと思って進んでみると右に大きな堀切が施された崖路に。。堀切の上面の険しい登りをあがると主郭部と云われる御峰山の頂上部の主郭部に出られます。   …

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土山御坊跡② 庭園「御壺」

蓮乗(蓮如次男)は本泉寺退却時の落馬で負傷を追いながらも一揆衆を指導しましたが、病がちとなり、補佐として蓮悟(蓮如七男)を蓮乗の娘の養子として迎え入れて本泉寺を任せ、実悟(蓮如10男)を蓮悟の養子につけています。 この蓮悟が二股から若松本泉寺(金沢市若松、現・専徳寺)に本拠を移し、加州三箇寺を主導していきます。瑞泉寺は妹(了如、蓮如9女)の婿・蓮欽(勝如の甥)を住職としています。 蓮悟に実子が生まれ、疎まれた実悟は独立して白山麓の鶴来に清沢坊願得寺を創建しています。この実悟が加賀一向一揆を例えた言葉「百姓が持ちたる国」を残した人物です。清沢坊願得寺は後に現在にも続く河内願得寺で、明治まで東本願寺法主を選ぶ5箇寺(勅許院家、別院、一家衆)の一つとなっています。 蓮乗は病を押して越中全土を主導していましたが、蓮如が京都に去って以降、病で父の死に目にも会えず、父・蓮如の死の5年後に逝去しています。 瑞泉寺を起点にして、三人もの息子を瑞泉寺・本泉寺に投入した蓮如が、後の勝興寺となる土山(どやま)御坊を重視したことが窺われます。蓮如の構想には越前・吉崎御坊に三男・蓮綱を中心にした超勝寺・本覚寺と越中の次男・蓮乗を中心にした土山御坊・瑞泉寺・本泉寺の協力で、加賀御堂(金沢御堂)の成立を企図。北陸を真宗布教の王国にしようと企図していたようです。 将来的に京都の本願寺を預かる長男・順如を法主として、真宗の教生と集団を平和的に固めたかったようです。それに応えるように順如は、朝廷・幕府へ…

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土山(どやま)御坊跡① 石楠花の庭園

10連休直前の26日 なんとかぎりぎりに仕事を切りの良いところまでこぎつけて、、、最終日の訪問先3軒。。お昼前に1軒目の国道304号沿いの三谷地区に、、、次の訪問先の野々市市・白山市には時間があったので、県境越えで福光から八重桜の並木がある27号で遠回りの金沢大学経由で戻ろうと思ったのですが、県境で土山の文字に思わず方向転換。。お花見ついでに久しぶりに山城散策をしようと。。しかし、日頃の行いが悪いのか、山間に入ると雨がポツポツ。。 帰り道の金沢井波線・県道27号線の八重桜の並木     一向宗時代は瑞泉寺と本泉寺を繋ぐ連絡路、江戸期には加賀藩主13代・前田斉泰の参勤交代の帰路とされていて、別名「殿様街道」と呼ばれていました。 土山の御峰山の頂上に着く頃には本格的な雨模様。。山の天気は変わり易いとはよく言ったものです。雨が降ってしまうと、山城への道はぬかるみになってしまいます。とても山の中には入れません。。長靴は常備してますが、服は仕事途中のネクタイ・スラックス姿では無理。。今回はあきらめて、、、 またまた変更で土山御坊跡の庭園のお花見に変更。。 土山の石楠花の庭園は土山の村民に大事に手入れをされている庭園。山深く隘路を登るため、真宗関連の人以外にはあまり知られていない存在ですが、隠れた石楠花の名所になります。 石楠花の庭園はちょうど満開でしたが、雨のせいか花が下を向いているのがちょっと残念。。 一週間後に家族を連れて再訪したんですが、晴天に近か…

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