前田利常~5代綱紀・6代吉徳

加賀藩主墓所案内図 この真鍮製の案内板は5代綱紀墓所横にあります。昭和後期頃の物と思われます。アップすると解りますが、右上に豪姫・千世姫・幸姫・利貞が表示が無く、利貞は分家筋ですが、豪姫は宇喜多家・千世姫は村井家に嫁いだこともあり、藩主墓所に含めないという考えが主流だったようです。当時は藩主墓地として初期墓を藩祖・利家夫妻、2代利長夫妻としていたのが解ります。5代前田綱紀墓所 綱紀は利家一族の野田山山頂部の一段下を整地して、万治元年(1658年)3代利常、寛文2年(1662年)叔母・富姫(八条院正室)を築墓、寛文11年(1671年)祖母・珠姫(利常正室)を50周忌に天徳院から移築。早世した創業一族とは別格として利常一族を志向したと考えられます。5代前田綱紀は80年に及ぶ治世によって、江戸幕府からの信頼感を勝ちとり加賀藩の地位を準御三家待遇にまで引き上げ、内政面でも利常・光高の残した諸問題解決や政策を整備し、寛文の飢饉時には辛口で有名な荻生徂徠をして「加賀侯非人小屋を設けしを以て加賀に乞食なし。真に仁政と云ふべし」と言わしめています。また文化面でも書籍の蒐集・文化事業から新井白石から「加賀藩は天下の書府」と評価をえています。 5代前田綱紀が父・光高の急死により藩主となったのは僅か3歳。このため、小松城に隠棲していた3代・利常が自発的ですが幕命の形で藩政復帰で後見として藩政改革に着手しています。戦国生き残りとして加賀藩の基盤を整備していた利常でしたが、戦国期を過ごし日陰の身から兄弟との確執を潜り抜け…

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今年歩いた桜道 手取川霞堤

毎年のことながら2月から4月いっぱいは、バタバタして、桜は車窓から横眼で見るだけになってしまいました。今年はコロナのオミクロンとかいうのが大流行。。しかもよりによって、石川県では低年齢から派生して大変なことに。。3.4月の契約更新先にぶち当たってしまいました。おかげでアポや契約更新ではなかなか施設にも入りづらく大苦戦。。長く今の仕事をしてきましたが、或るこども園では雪のチラつく中、屋外の園庭の真ん中にテーブルとイス置いて、事務長さんと二人でしこしこ^^;窓から園児たちの注目「おじさん二人で何してる@@(笑)、中には手を振る子まで、何回笑顔で手を振り返したことか^^公園のベンチというのはあったけど、園庭やグラウンドの真ん中なんて初めての経験でした。川北町桜堤 堤防道路(河岸道路)上に植樹された桜並木になります。天気の良い日には桜の樹幹から手取川越に白山の姿が見られます。  毎年、車で通るだけだったのですが、或るお宅に伺うのに一時間半ほど時間が空いてしまって、時間調整をすることに。。なら桜の下を一時間程、歩いてみようと思い立ったわけです。日暮れ時で、桜も散って逆五分咲きでしたが、かわりに桜の絨毯の上も歩けました^^今更、桜を載せるのは気が引けますが、、懐かしい風景とでも思っていただければ。。川北町桜堤 第三堤防上から桜堤(第ニ堤防)、雪を冠した白い山が霊峰白山になります。今回は画像中心です。場所は石川県能美郡川北町の手取川河岸道路(霞堤)の川北町桜堤。川北町役場前を手取川方向に曲がった先にあります。ち…

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野田山藩主墓所 野田山藩主墓所にいない人物と3代・前田利常~

昨昨年、野田山の藩主墓所を訪れて、長いシリーズみたいに藩主墓所を一つずつ書くつもりだったんですが、金沢城を書くうちに石川門で10・11代の前田重教(しげみち)・治脩(はるなが)兄弟を書いた時点で、飛ばしたり中断したりで肝心な人物(前田利常・綱紀)を掲載し損ねていました。先日、画像整理をしていたら、出て来たので今回は久しぶりに野田山墓所の画像です。もう2年も経っていたんですねえ^^; シリーズ書きにしようとUPしたのは・・・※ 2020.01.18 野田山墓地 ※ 2020.10.02/11 野田山② 村井長頼・奥村永福 利家の両輪※ 2020.10.02/11 野田山③ 前田利久 前田利家夫妻 篠原弥助長重※ 2020.10.02/11 野田山④ 加賀藩主墓所 息女たち+六男・利貞 加賀藩主前田家墓所被葬者図手書のA~Fが各墳墓の築造期別になります。一部移葬で混在もあるので年は享年で表示A.最初期・・・天正15年(1587年)⑮前田利久(利家長兄)~寛永18年(1641年)⑲千世(利家七女)B.第二期・・・万治元年(1658年)©前田利常(3代)~延享2年(1745年)Ⓕ前田吉徳(6代)C.第三期・・・延享3年(1746年)Ⓖ前田宗辰(7代)~天明6年(1786年)Ⓙ前田重教(10代)D.第四期・・・文化2年(1805年)㉑前田利命(治脩(11代)長子)~明治3年(1870年)⑩隆子(12代正室)E.薄墓令・・・明治7年(1874年)Ⓜ前田慶寧(14代)~昭和24年(1949年)⑭朗子(15代…

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金沢市民芸術村

以前、金沢市のイメージカラーにレンガ色をあげたことがあります。その後には県庁の庁舎、各市町村にも波及して教育施設(保育園・小学校など)などにもこのレンガ色が広がっています。実はベンガラや巽御殿の室内壁面に始まり、石川県歴史博物館・四高記念館・尾山神社玉垣など元になったものもあるのですが、大きく波及するきっかけとなったのが、旧専売公社の工場群(昭和53年(1978年)、現玉川図書館)と現代建築(谷口吉生・吉郎親子の協作)との活用と、今回の金沢市民芸術村の大和紡績倉庫のレンガ建築の保全と活用になります。金沢市民芸術村 案内図円形広場から大駐車場方向平成9年(1997年)から随時整備されてきた広場の敷地面積は約10ha、この広い敷地にかつて大和紡績の金沢工場が立ち並んでいました。北の中央口には防災時の備蓄倉庫、防災時の避難集合場所であり、中央の大和町広場にはヘリポートが整備されています。平時は憩いの広場となっている広大な芝生広場。新緑の頃には芝生も緑になって眩しいほどになります。南には黒ベース建築の金沢職人大学校。一般市民や僕も含めて外来者は総称して芸術村と呼んでいますが、正式には平成8年(1996年)に東側の倉庫群を改造保存したところが金沢市民芸術村になります。金沢市民芸術村 赤レンガ倉庫群芸術村の建物の歴史は大正8年(1919年)に金沢紡績の綿糸製造として開業に始まり、大正15年(1926年)に浪速紡績を吸収合併して織機約500台のフル稼働工場として錦華紡績と改称してしています。レンガ倉庫群はこの期…

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金沢城 玉泉院丸外石垣

辰巳櫓石垣から続く南面高石垣は以前ご紹介したので今回は割愛ということで・・・興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 2021.02.07 金沢城 辰巳櫓跡・丑寅櫓跡金沢城 南面高石垣 2021.02.07撮影 玉泉院丸は金沢城初期には西の丸の一部として出丸的存在でした。前田利長時代には平地で敵軍の集合地になりそうな西面の金沢城防衛の強化で、金谷出丸(後金谷御殿、現尾山神社)や内惣構が構築されるとそのまま西の丸の一部、第二の出丸となっていました。その後は家臣団の住居群が置かれていました。 慶長19年(1614年)前田利長が高岡城で死去し、正室の玉泉院(永姫)が金沢に戻った際、3代藩主・前田利常はこの地に屋敷を建て彼女の終の棲家としています。利常は養母の玉泉院には強い孝養を示し、彼女が父・織田信長、夫・前田利長の菩提を弔い、後に彼女の菩提寺となる当時金沢城下最大規模の玉泉寺や、母親の菩提寺としての高岡鶴林寺を金沢に移しています。ちなみに未見ですが本藩御譜に元和4年(1618年)に永姫の母が死去して鶴林寺に埋葬・位牌をおさめたとされているそうです。遷座した現在の金沢の鶴林寺には墓所や位牌が残っていません。江戸後期に前田家の祈願所になっていますが母親の墓所・位牌は不明になっています。母親の法名・春誉妙澄大姉のみが伝わっています。玉泉院は別に生駒吉乃(信忠・信雄・徳姫の母親)の菩提寺・久昌(禅)寺を自費で堀川新町に建立しています。信雄の娘二人を養女としていたことから吉乃母親説も根強く残ります。彼女の母親が誰な…

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金沢城 辰巳・丑寅櫓下東石垣

石川門下石垣 石川櫓からこちら側の高石垣は、正確に言えば右上が内堀、手前は鶴の丸の外壁・太鼓塀になります。宝暦の大火前まではこの太鼓塀の段さに櫓があったと推測されます。現在は開かずというか単なる向背付の飾り門が内側で観られます。百閒堀の平均水深は2.4mと云われていますから、江戸期には満水時の百間堀の堀水が1/4~1/3近くまであって、壁石垣に覆っていたと思われます。 鶴の丸東側石垣は高石垣で構築されていますが、南東の丑寅櫓下には大きいな曲輪があり、城側の出撃口になっていました。寛永以降には櫓も置かれたようですが、宝暦以降現在は水の手門がありますが、そこが城内からの馬出し口になって東高石垣前を犬走のように、南高石垣前の集合地となる南石垣下の御花畑や鯉喉櫓台に出撃できるようにしていました。古地図の黒線は土塀や土塁を表す物で、城内外に張り巡らされており、金沢城の主防衛拠点が南東に重視されていたことが解ります。 明治の南高石垣の崩落事故により、陸軍により堀側の一段目石垣が重視されて南側や上部に補修が加えられ、一段目堀側の車橋付近の石垣には寛永の切石積と明治の谷積とが混在しています。現在通行できるのは一段目堀石垣下を歩くことになります。犬走のような2段目の通路には植栽がおこなわれ大木による強化が施され立入が出来ませんが、整備用の石段部が中途にあり金網前から南北の様子が見られます。上:水の手門城外 右:鶴の丸内部・水の手門慶長・寛永期には大概防備重視で東側及び南東面防備に城方の出撃口になっていました。寛…

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石川門下 沈床園

前田利家像(白鳥路) 竹下慶一作 広坂のカトリック金沢教会の高山右近像も竹下慶一の作品、厳つい人物像や置物に定評があります。 白鳥路を抜けると待っているのがこの人。金沢城と言えばこの人、前田利家公です。なかなか立派な前田利家像でしょ^^;しかも金沢城の顔ともいえる石川門の石川櫓と共に並ぶようなアングルになる逸品です。尾山神社 前田利家像 2019.11.23撮影ところが意外なことにこの像の存在を知らない人のなんと多いことか。。金沢に来た観光客や城マニアでよくブログをアップして、前田利家というと尾山神社の騎馬像を紹介しています。でも、この像をアップしてる人はほとんどいないんじゃないでしょうか。。 下手をすると石川県民でも知らない人が多いかも^^;かくいう我が家の女性陣もこの地に立ったこともないはずです。前田利家像が怒っているように見えるのもそのせいかも^^;みんな自分を無視して頭の上を通り過ぎていくんですから。。 なにせ金沢観光をすると、みんな兼六園に行くんですが、そこから金沢城公園に行こうとすると、10人が10人、石川橋を渡って石川門を潜って行くわけです。そうなると、その足元の橋の下の広場に前田利家像があるなんて、誰も知らずに上を歩いて行ってしまうわけです。橋の下を気にするのは余程の城好きか、欄干に身を乗り出して高い所から下を覗くのが好きな人(たぶん、いないと思う)くらいかも。 かといって、前田利家像の前に立とうと思ったら、僕のように通常の逆方向に白鳥路を歩く人間くらい…

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白鳥路(外濠公園)

尾坂口に登る際に右手に大手堀がありましたが、反対の左手には白鳥堀と呼ばれる外堀がありました。白鳥堀は石川橋下から三の丸を巻くように河北門坂までの新の丸南堀と新の丸の外殻を巻くように尾坂口までの外堀になっていました。石川門下の兼六園下バス停側の池は白鳥堀の名残になります。明治初中期にに金沢城の堀は大手堀・白鳥堀を除いて埋立てられ、その多くが車道や市内電車道にと変貌したのですが、、白鳥堀は南側の石川門下が埋められ、百閒堀(蓮池堀)から続く百万石通りとなったものの、堀の名残を残していました。新の丸外殻の外堀部分が埋められたのは明治末期から大正期と云われています。埋立後は白鳥路ホテル(現・山楽)に伝わる話では、昭和5年(1930年)頃に裁判所裏の鬱蒼とした森と通路になっていました。白鳥路の名が呼ばれるようになったのは、この頃からと云われています。昭和59年(1984年)に再整備されて、たしか「水と緑と…(??忘)の道」としてその後は兼六園下に前田利家像、外濠公園の入口の白鳥像、通路内の彫像群などすっかり様変わりしています。この整備期間は僕は県外に出ていて、戻ってきたときに余りの変わりようにビックラコ@@現在は兼六園下から続く緑地の散策路として尾坂口の外濠公園に繋がっています。外濠公園 尾坂口(大手門口)の東側の一角、白鳥堀の新丸北東石垣の一角が園地になっています。昭和期には大手堀から白鳥路や沈床園までの石川門下の百閒堀の金沢城側も含んだようですが、金沢市民には、大手堀、白鳥路、兼六園下、沈床園という個別の…

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金沢城 新丸広場

尾坂口にあったであろう大手門を抜けて立つと広大な広場が広がります。広という字を三回も使いたくなるほどの広場になっています。本来は右手中央に堀が、広場を新丸と北の丸に分割していましたが、明治に堀が埋め立てられて広大な敷地になっています。新丸広場 西側 中央の少し土色に変わって見えるのが堀跡、冬場だけに積雪や雨で、渇きの差で判別できる今だけの現象。江戸期には堀向が北の丸でこちらが新の丸でした。右に見えるビルは金沢エムザビル、昭和48年(1973年)に建てられたもので当時は金沢で一番高い建物でした。新丸広場 東側 ここから右に進むのが大手道になります。奥の左トイレと通路、芝生広場に越後屋敷がありました。新丸広場 中央奥 中央に建つのが菱櫓、手前の高石垣下は新丸南堀の一部を再現した湿生園になっています。元は新丸と三の丸の間には堀と高い石垣が阻んでいました。三の丸への通路は堀の上を通る河北門への大手道の坂だけでした。堀に近づくと絶壁のように見上げる者に感じさせました。新丸案内板より 天保元年(1831年)製作? 御城中壱分碁絵図(横山家蔵)この絵図は金沢城公園の復元の重要資料の中心になっています。新丸 ~城内の官庁街~二代藩主前田利長が跡を継いで間もない慶長四年(1599)頃に、新たに拡張された郭が新丸であるといわれている。新丸の東側は越後屋敷と呼ばれ、もともとは剣術の達人で重臣であった冨田越後守重政の邸宅があったことが名前の由来になっている。江戸中期以降、参勤交代で江戸に滞在する藩主に代わって重臣たちが政…

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大手堀

奥村家所蔵金沢城絵図(延宝年間1673~)玉川図書館所蔵 施設名を記載しました。前回の御算用場が金沢城をグルッと一周(新堂形・金谷出丸橋門外・黒門前緑地)して移転したというのが解ります。黒門前緑地から西町口の先にお堀が続きます。江戸時代往時、金沢城は四面を堀に囲まれ、その中にも大小の堀や、城下町には土塁と用水堀を組み合わせた内外惣構堀など、城下町事態を要塞化した二重・三重の堀・土塁に囲まれた城でした。明治以降にそれらの土塁が削られ、堀・用水路は埋め立てられたり暗渠となって、その多くが姿を消してしまいました。近年、規模は縮小しましたが宮守(いもり)堀が復元されて、観光客が多く訪れる南面で堀を見られるようになりました。堀のない現代の金沢城ですが、唯一残されたお堀が大手堀でした。金沢城の外堀の姿を見られる唯一のお堀になります。現在の新丸はだだっ広い広場になっていますが、往時は中央に堀を配して東西に二分していたのが解ります。明治に陸軍が入った時に埋められて改修されたようです。寛永の大火による金沢城の再整備を行うまでは、家臣団は城内に居住していましたが、その多くは新丸だったと思われます。その名残をとどめるのが冨田越後守重政の邸宅のあった越後屋敷、荒子七人衆の一人・小塚藤右衛門の邸宅があった藤右衛門丸。ちなみに寛永後は越後屋敷は藩主の江戸在住時に留守居の重臣の政庁となっていました。藤右衛門丸は畑地となっていたと伝わります。大手堀 右の雪のある部分が明治の埋立部?尾坂側から石垣が配され、左奥の大木からこの切れ目…

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金沢城 黒門前緑地 ~ 黒門口 高峰精一(元稑)

尾﨑神社の北参道を出て右に行くと、会計事務所のビルと白い明治・大正期と思われる古民家などがあります。江戸時代、この地には御算用場がありました。その敷地は大きなもので現在の尾﨑神社から会計事務所や住宅を挟んだ豪姫の邸宅があった黒門前緑地までの範囲にありました。御算用場跡地 案内板加賀藩御算用場跡地加賀藩における財務を司る機関を御算用場といい、創立時の新堂形の地から、金谷門外を経て、寛文十二年(一六七二)よりこの地に置かれた。御算用場では御算用場奉行以下、算用者と呼ばれる実務を担当する役人が約百五十名勤務していた。算用者には職務上、筆算の才能が必要とされた。施設は本棟の他に土蔵三棟からなり、建物の規模は三百五十坪に及ぶ。御算用場内には御預地方御用・改作奉行・定検地奉行・御郡奉行など、御算用場奉行管下諸種の役所が併置されており、財政や会計のみならず、領内の民政も管轄していた。その後、明治二年(一八六九)、御算用場は廃止され、その任務は会計寮と民政寮とに二分された。  金沢市 補足:御算用場は加賀藩の財政および会計を司る部門でした。藩財政の予算作成・収支決算業務を主にしていました。しかし、御算用奉行はその他に、御預地方御用という天領の代行業務の奉行、農業政策担当の改作奉行、検地基準を決めて実行する定検地奉行、領国の郡代官を統治する御郡奉行を同じ敷地内で配下として統括していました。まさに加賀藩領内の財政と農務行政・民政を一身に担っていた加賀藩の心臓部だったのです。 加賀藩内の天領というのは、能登の黒島や…

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金沢城 甚右衛門坂~尾﨑神社

尾山町の住宅街の路地で観た玄関注連縄昨昨年の秋から昨年1.2月にかけて金沢城の長いシリーズを書きましたが、今回は久しぶりに金沢城の北側を歩いてきました。本来金沢城の大手門及び大手道は北側の百閒堀と大手堀の間からとなっていました。 今年のお正月に入ってから大荒れの天気予報でしたが、実際問題、北陸・滋賀・岐阜、東北・北海道更には関東でも大雪@@ところが山沿いではけっこう積もったのですが、金沢や白山市の平野部では、まるでエアスポットに入ってしまったように、積雪も少なく青空が広がる日が続くなどいつにない日が過ぎていました。天気が良ければ呼び出しもかかるで正月早々のお仕事は尾山町から始まりました。で、天気の良さに釣られて、前回は行かなかった大手堀から白鳥路(百閒堀跡)を廻ってみようという気になりました。 尾山神社と尾崎神社の中間くらいにある有料駐車場に車を停めたまま、金沢城の方へ。。路地から抜けると 最初に眼に留まるのが甚右衛門坂甚右衛門坂については前回(金沢城②極楽橋~三十間長屋)に詳しく触れています。金沢城の前身・尾山御坊(金沢御堂)・佐久間盛政時代には黒門口もしくはこの坂道が大手道・大参道だったと考えられています。構造上やその後の大谷廟所や本源寺(金沢別院)の伝承からも、最初期の大手道と考えられています。通常この坂道はゲートで閉められており、土日祭日の障害者用の予約時や作業用人員の進入口で旧北の丸(御宮広場)の駐車場に繋がっています。坂道の名の甚右衛門ですが、尾山御坊が織田軍との最期の交戦時、こ…

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雑記 神通川の舟橋

天正13年(1585年)8月、豊臣秀吉の破却命令で富山城は廃城となっていました。文禄4年(1595年)前田利長が新川郡を領有して越中一国が加賀藩領となると、防衛の重視地区は越後国境に移り、その役割はますます希薄となっていました。慶長10年(1605年)前田利長は家督を養子としていた弟・利常に譲ると、新川郡22万石を隠居領としています。これにより、隠居城として富山城を再築城することになります。当初は利常が若いということもあり、即日移動可能な金沢城鶴丸御殿を拠点に高岡を新拠点にしようとした形跡がありますが、やはり防衛拠点として越後・飛騨を扼する富山が重視されたようです。富山城移住ははっきりしませんが、富山城・城下町整備途上時には移住していたようです。正保年間(1645~1648年)富山城図 寛文7年(1667年)成立江戸期富山藩初期の富山城図になります。    北国街道     越中・飛騨街道前田利長の整備の富山城詳細は不明ですが、利長時代に海岸線を通っていた北国街道を富山城を経由するように変更しています。神通川の舟橋も利長時代に整備されたものです。神通川の巨大さが解ると思います。川幅は300~400mあったそうです。利長の舟橋は当初は神通川といたち川の合流点でしたが、富山藩成立時に地図上に移り、承応3年(1654年)の洪水で富山城の北岸壁が崩れて川幅が広がったために、100m程西に舟橋を移動して、城西側の街道は真っすぐに南北に延びるように変更されています。急流のために弓型になった舟橋は往時の最長時で…

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雑記 神保長織(じんぼながもと) ~ 佐々成政

富山城博物館展示室 安田城址安田城址は婦中町の呉羽丘陵南東の井田川沿いにある白鳥城支城の城址で、築城および使用期間が短く、遺構が良好に残っています。築城時期が富山城と同じ時期とみられており、掘り下げている本丸の増築も富山城と同時期とみられています。規模は全く違いますが、形状は富山城の古地図にそっくり。。違いとしては富山城は本丸が右、奥に西の丸を増設していますが、安田城は左右が逆になります。これは河川の位置によると思われます。富山城は北に神通川を掘替りにしていますが、安田城は東に井田川が流れていました。安田城址は国史跡に指定されて美しく復元されています。機会があればまた紹介しますね。 前説に長い雑記を書きましたが、もうちょっとおつきあいください。それでも、やっと富山城築城に辿り着きました。 富山城は天文12年(1543年)に射水・婦負郡の守護代・神保長織(じんぼながもと、生没年不詳)が、水越勝重に命じて築城させたのが始まりと言われています。その立地(新川郡側)から越中争乱の中心地となり、神保氏、一向宗、上杉氏それに続く佐々成政と幾度も兵乱の地になっており、豊臣秀吉による破却、江戸期の再建以降も前田利長築城、富山藩改築後も火災を繰り返し、更に明治の改変、昭和の空襲の被害の中心地になるなど、歴史的な事象や規模・形状なども謎の多い城になっています。 そもそも最初の築城地も、現在の富山城の1キロほど南の星井町の丘上だと云われていましたが、平成14年(2002年)からの城址公園発掘調査によって、戦国後期…

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付録 各氏族関係図

前ブログ(越中の争乱)はあまりに文字だらけ、しかも名前が似たような羅列書いた自分も時々混乱することに。。。で、関係系図。一部省略しています。 「 関東八平氏 」 平高望―国香―貞盛   ―惟将・・・北条氏・熊谷氏      ―大掾繁盛    ・・・大掾氏・・・多気氏・真壁氏   ―良兼   ―良将―将門   ―春姫              | ・・・千葉氏・上総氏・秩父氏・河越氏・江戸氏・渋谷氏   ―良文―      忠頼       ―忠光       ・・・三浦氏・梶原氏・長江氏・鎌倉氏 「 畠山氏 」 秩父氏・・・畠山重能―重忠―娘(重忠未亡人、北条時政娘説あり)              |―泰国―時国―高国―国氏―国詮・・・本家・奥州二本松氏                  足利義兼―   畠山義純       ―貞国―家国―義深―基国―満家・・・河内守護家                                 ―満慶・・・能登守護家「 畠山宗家(河内守護家) 」畠山満家―持国―義就 ・・・総州家    ―持永    ―持富―弥三郎       ―政長 ・・・尾州家(越中守護)「 畠山尾州家(越中守護) 」畠山政長―尚頼―稙長       ―長経(越中守護喪失)       ―政国・・・子孫は幕末まで徳川旗本 「 足利将軍家 」1.足利尊氏―2.義詮―3.義満―4.義持―5.義量                    ―6.義教―7.義勝            …

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雑記 越中の争乱

前回は足利義稙のことを長々と書きすぎてしまい越中から離れすぎてしまいました。 守護の畠山氏について・・・畠山氏のルーツは坂東八平氏にまで遡ります。更に遡ると宇多天皇の時代に臣籍降下した平高望が上総介として子の国香・良兼・良将を伴って下向したところから始まります。高望は任期と共に都に戻りましたが、三人の息子たちはそれぞれに坂東に土着、国香は常陸大掾・源護の婿として常陸大掾を継いで実質常陸を支配、国香が継いだ家から派生するのが大掾氏になります。良兼は父の上総介を継ぐとともに下総にも地盤を広げています。良将は二人の兄に従うように下総豊田郷の未開地を墾田して私営田を経営し、晩年には鎮守府将軍にも任官されていたと伝わります。三人によって坂東が開拓され、武門の多くが派生していったわけです。しかし子の代になると血で血を洗う戦から大乱へと発展していきます。 詳細を書くととんでもないことになるので多くは省略しますが、平良将の嫡子が平将門でした。前述の源護・平国香・良兼を倒して関東を席巻し親皇国を打ち立てようとした平将門の乱の主役です。最終的には国香の嫡子・平貞盛、次男・平繁盛が藤原秀郷(田原藤太、下野掾)の助力を得て将門を討ち、貞盛は平将軍、秀郷は伝説の武人となって、その後裔となる氏族が派生していきます。戦乱の中で亡くなった良兼・将門の血筋を伝える氏族は僅かですが、、最終的に勝ち残った国香・貞盛、藤原秀郷から多くの氏族が派生しています。 平貞盛はその後は帰京し、諸役に赴任して子孫の血筋が各地に広まっています。…

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荒俣峡

例年の如く季節の変わり目で体調崩し気味でしたが、10月には腰痛に苦しみ鎮痛剤のお世話に、マアおかげでと言っては何ですがワクチン2回目は鎮痛剤に紛れたのか痛みも何にもなしに終わりました。それで、気を抜いたためか、11月に入ったとたん、1年半ぶりに久しぶりに風邪をひいてしまいました。油断禁物ですねえ。。おかげで嫁さんと娘からは仕事以外は外出禁止令を喰らってしまいました。保名(やすな)橋 荒俣峡は保名橋の下に流れる大杉谷川が蛇行する部分を云います。一部上流側の河鹿橋の上からの眺望も含みます。保名橋上流側から 大杉谷川は橋の手前上流から二・三筋の流れに分流していて中州を構成しています。中州には保名橋の中央右から降りられます。左端の白いのが中州に降りる途中階段風邪気味ながら仕事がらみで粟津温泉まで行ったのですが、いつもバタバタするのに、、今回は気抜けするほどスムーズに終了してしまいました。時間がかかると思っていて、この後に何も入れてなかったので、、こんな時しか寄り道する時はない。。今年はこの調子だと紅葉は見れないかもというわけで、小雨の中でしたが、小松では紅葉の隠れた名所と言われる荒俣峡に寄ってみることに。。しかし、紅葉真っ盛りにはちょっと早かったようです。しかも遊歩道は落石の危険で通行止めに。。仕方がないので保名橋から中州に降りて散策することに保名橋上から上流方向の中州と左側河川― 荒俣峡 ―静かな流れの大杉谷川も 赤瀬のあたりでは蛇行し 美しい渓谷となります。ここ 荒俣峡は「やすな橋」を中心とした一帯で…

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雑記 応仁の乱と足利義視・義稙親子

南北朝の時代から室町時代初期にかけて、畠山(はたけやま)・桃井(もものい)・斯波(しば)の三つ巴の争いの中、畠山氏が勝ち残り、越中は畠山氏が越中守護となっていました。ここでいう畠山氏は河内畠山氏になります。しかし畠山氏は在京守護として幕府・河内に在国で、応仁の乱では畠山政長(尾州家)・畠山義就(総州家)が東西に分かれて争い、応仁の乱後も世代を越えてお家騒動を繰り返しています。一時期、河内で畠山義就が圧倒する中、畠山政長の尾州家が唯一となる越中守護を確保していました。ちなみに応仁の乱は足利将軍家の家督争いが表看板になっていますが、発端は畠山宗家の家督争いが始まりで、畠山義就の台頭に際して、政長が上御霊神社で挙兵したのが発端になっています。 前述のように畠山氏が在京守護のために、越中には守護代が置かれていました。その守護代が畠山家臣の神保氏で、礪波(となみ)郡・射水(いみず)郡・婦負(ねい)郡の三郡を支配し、分国支配の守護代として新川郡を地元国衆・椎名氏が越後長尾氏の後援を得て支配していました。ちなみに三郡と新川郡の境界は神通川になっており、神通川の蛇行する東岸の中州にあった富山城の地は新川郡に属していました。 前述のように畠山宗家の分国ではありましたが、畠山宗家の家督争いによる守護不在の越中国では、守護代の権力が強くなっていくのは必然でした。畠山政長の尾州家の家臣だった神保長誠(ながのぶ)は、応仁の乱では畠山義就に圧倒される政長派の中で唯一河内で奮戦、更には義就に依頼を受けた能登の畠山義統、椎名…

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富山城址① 荒城の月

荒城の月 春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいずこ 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ いま荒城のよわの月 替わらぬ光たがためぞ垣に残るはただかつら 松に歌うはただあらし 天上影は替わらねど 栄枯は移る世の姿写さんとてか今もなお 嗚呼荒城のよわの月富山城模擬天守(富山市郷土博物館) 富山城は明治の廃城、第二次大戦の空襲で富山城及び市街地が灰燼と帰して、元々天守は建てられなかったとも云われており、その詳細もほとんど解らなくなっていました。この模擬天守は昭和29年(1954年)富山産業大博覧会のランドマークとして本丸鉄門の石垣上に建造されたもので、犬山城・彦根城をモチーフにした慶長仕様としたものです。城郭ファンには模擬天守は嫌われていますが、模擬天守の先駆け的存在、戦後の罹災復興の象徴的建物として長く富山市の顔として馴染みこんでいることから、模擬天守としては珍しい国有形登録文化財に指定されています。実際、堀越の建物は美しい存在です。 タイトルが富山城址なのに、荒城の月に仙台城かいという突込みが聴こえてきそうですが、土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲「荒城の月」 この荒城の月のモデルとなった地がどこかというのは多くの話が伝わっています。実際に土井晩翠はこの作詞のために多くの城を訪れたと云われています。そのほとんどの城が戦いに敗れ去っていった城でした。これらの城で作曲の瀧廉太郎が訪れた城が富山城になり、作詞作曲の二人…

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鳥越の蕎麦畑

9月9日にgoさんが鳥越の三ツ屋野の蕎麦畑をアップされていて、9月後半なら今年は見られるなと密かに期待していたのですが、なかなか機会が得られずどんどん日が過ぎてしまいました。そしてモタモタしているうちに10月に入ってしまいました。巷では新蕎麦の声もちらほら聞こえ始め刈り入れの季節になっています。 10月6日、鳥越に行く機会が出来て、蕎麦畑のメッカの三ツ屋野に行ってみましたが、すでに茶色になって黒い実粒が見られるばかり。たまたま、とりごえ保育園(上野)の側にある蕎麦畑に白い花が見られたので、画像を修めてきました。この場所は陽当たりが良い場所なので、これなら日陰ならまだ見られるかもと帰り道に瀬木野によってみたら、広い蕎麦畑を見ることができました^^V 画像ばかりですが、久しぶりに観られた蕎麦の花畑をご覧ください。まずは、とりごえ保育園前の蕎麦畑 遠くに見える建物はバードハミング鳥越、弘法の湯の温泉施設とバーベキュー場やテニスコートなどのレジャー施設。 美しい白い蕎麦の花畑が観られたのですが、同じ隣の畑や道路を挟んだ畑はすでに茶色に変わっていました。もうすぐにも刈り入れできる状態になっていました。もう2週ほど早く来れれば、一面の花畑が観られたんだろうなあと。。とはいえ、この色になって、黒い蕎麦の実が、あの美味しい蕎麦になるんですから、、茶色の風景もご覧下さい。刈り入れ寸前の蕎麦畑。遠くに見えるのは鳥越小学校。 ちなみに、黒い蕎麦の実を挽いて蕎麦粉を作るのですが、蕎麦を弾いた際に出る粉によって…

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