江馬白山神社 (カミオカラボ向かい)

8月末 昨昨年から体調を崩していると聞いていた大伯母が98歳で亡くなりました。僕には数少ない親戚筋の中でも一番頭のあがらない伯母だったのですが、昨年声を聴いたときにも相変わらず明るい声だったんですが。。最後に一目ぐらいということで、葬儀に行くということで、久しぶりに国道41号から飛騨越えで旧中山道経由で熊谷まで行くことにしました。 それなりに余裕をもって出発したのですが、いつもの国道359号からでなく国道8号から国道41号線と迂回して行ったのでいつもより手間取ってしまいました。山岳道路となる越中から飛騨越えの高原川沿いに41号から471号と進むのですが、この辺りから今回の道の選択に少し後悔が、すっかり失念していたのですが、岐阜から長野にかけては今年の梅雨に集中豪雨で崖崩れや道路の崩落が頻発していたために、道路の整備工事が多く片側通行でなんども停車することに。。速度も乗らないために前後にトレーラーに挟まれて走る緊張状態。。神岡町に入って、前の車が居なくなってアクセルを踏み込んだ途端、緊急事態 いきなり警告ランプとエンジンの異音が発生 慌ててハザード点けて道路の端に車を寄せて停車したのですが、後ろのトレーラーも慌てて避けて行きました。。車のトラブルは久しぶりだなあと、まだのんびり気味の僕は車のマニュアルをペラペラ・・排気系の過熱状態の警告で10分ほどエンジンを切って様子を見ろ、それでダメならディーラーまでというマニュア…

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安産(やすまる)日吉神社

安産日吉神社 白山市平加町鎮座、拝殿は平成12年(2000年)に大改築。参道沿いに狛犬が3対、灯篭が多いなど寄進物が多いのが特徴白山市を構成する平成の合併の際の旧市町村(松任市・鶴来町・美川町・河内村・鳥越村・吉野谷村・尾口村・白峰村)の一角を占める美川町。歴史を振り返ると古代には比楽河(ひらか・ひらかわ、手取川の先名称)の河口に比楽湊と呼ばれた港と駅が置かれたとされています。古代から明治にかけて手取川河口は重要港湾として知られた村でした。室町時代に編された廻船式目に記された十大港湾とされた三津七港の一つ・本吉湊を持つ本吉村となっていました。 三津七湊(さんしんななそう・ななみなと)は室町期に十大港湾都市とされた地を云います。三津は湾の交易都市で、安濃津(あのつ・伊勢、津市)・博多津(筑前、福岡市)・堺津(摂津和泉、堺市)、中国(明)書では坊津(薩摩川辺、南さつま市)が加わります。七湊は河口を港とした港湾都市で、三国湊(越前坂井、九頭竜川河口)・本吉湊(比楽湊)(加賀本吉、手取川河口)・輪島湊(能登鳳至、河原田川河口)・岩瀬湊(越中新川、神通川河口)・今町湊(直江津)(越後頚城、関川河口)・土崎湊(秋田湊)(出羽秋田、雄物川河口)・十三湊(陸奥津軽、岩木川河口) 明治2年(1869年)に石川郡本吉町と手取川対岸の能美郡湊村が合併し美川町となりましたが、わずか2年で分離して美川町と湊村に分かれています。明治5年(1872年)に廃藩置県で金沢藩が消滅し、美川町に県庁が置かれ石川郡の名から石川県とな…

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玉泉院丸庭園② 借景の石垣群

色紙短冊積石垣 玉泉院丸庭園北東面の借景。色違い・大きさの異なる石を組合せて積み上げた石垣。色も青・赤戸室石、そして黒は藩主親族のみの使用に限定された坪野石が使われています。綱紀時代に製作されたと予想されていますが、利常が築城した小松城天守台の石垣にも使用されており、鵜川石も使用され5色遣いでした。小松城石垣を手本にしています。段落ちの滝の水源にもなっていました。右上部に水口のような蛇口があり、水を落としていました。滝つぼと呼ばれる水の落ち口には玉石が敷かれていました。残念ながら水源がないために水落の再現はなされていません。惜しい。。元和9年(1623年)玉泉院が逝去し屋敷が撤去され、玉泉院丸と呼称されてから10年ほど後、寛永8年(1631年)加賀藩政期における四大火のひとつ寛永の大火が起きます。金沢城外南西部から出火した火事が強風であっという間に金沢城や金沢市街地を嘗め尽くしました。当時、金沢城内には水の手が少なく、堀も空堀に近いものだったと云われます。金沢城内の本丸の辰巳櫓が類焼、燃えるに任せたまま更に二の丸・三の丸と惨状を拡大して、中心部にかけて石垣も含め家臣屋敷も焼き尽くす大火となっていました。 火事の原因が藩士による色恋沙汰の放火ということも加わって、前田利常は家臣団の組織変更を含め、金沢城や城下町の町割り編成など大胆な修理と変更を加えています。特に本丸に天守替わりだった辰巳櫓を失ったことは大きく、本丸を放棄して政庁を移すために二の丸を拡大、二の丸と三の丸の間を整地して堀を北上させて4…

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玉泉院丸庭園① 玉泉院(永姫)

鼠多門を潜って石段を登ると広がるのが玉泉院丸庭園。江戸期に存在した殿様のプライベート空間の大名庭園を復元再現したものになります。玉泉院丸庭園 北西側遊歩道 右の建物は玉泉庵、中央上部石垣上に見えるのは三十間長屋。ちなみに玉泉庵は緑茶と上生菓子を呈茶(730円)する観光施設で茶室や休憩室から庭園を一望できます。藩政期には露地役所(庭園の整備管理をする役所)が置かれた場所でした。三十間長屋は安政5年(1858年)築造の多門櫓で石川門・鶴丸倉庫と藩政期の建築物として国重文。玉泉院丸案内図(石川県HPより、上が東、下が西、右が南、左が北) 玉泉院丸庭園 北側水路船溜まり 上:紅葉橋址 右:北石垣沿い水路跡様々な古図などによれば、往時の泉水は倍近くの大きさがあり、右の三の島から玉泉院丸口まで東西の谷間を縫うように泉水があり、玉泉院丸を囲むような内堀(宮守(いもり)堀から揚水を行っていました。南側水路を暗渠にしたのは幕末の13代斉泰が唐傘亭を築いた頃と推定されます。逆に北側は象の鼻先のような船着場から北に石垣群に沿うように水路があり橋を潜って船上から石垣群を見られるようにしていました。北水路は前回紹介した丸の内園地の内堀手前までで、そこから内堀に排水していました。 天正11年(1583年)の前田利家の金沢入城から江戸初期にかけては西の丸の一部としての扱いでした。寛永の大火以前は、藩主及び家族は本丸御殿、利長が建てた鶴の丸別邸が藩主の住まい&政庁として使用され、家臣団は本丸以外の城内に住居していたのですが、二…

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金沢城 鼠多門・鼠多門橋

尾山神社がある旧金谷出丸と金沢城の外丸の玉泉院丸を連結していた鼠多門橋。そして出入口となっていた鼠多門の復元が完成しました。鼠多門・鼠多門橋 同じく石垣を復元した北櫓跡から 往時は橋の幅いっぱいに堀となっていました。鼠多門は明治の写真2枚と遺構調査により忠実に再現されています。石垣部も残存石と3D加工石を組合せ、建物も釘を使わない伝統工法と、古式と現代建築の融合物です。橋は明治の老朽撤去の桁礎石を採用しています。当初の計画では年末完成予定でしたが、東京五輪の開催に合わせた完成に修正していましたが、予定通り7月初旬に完成しました。この完成によって金沢の顔となっている尾山神社から金沢城公園へ直接入れるようになりました。新しい観光コースと期待されています。7/18に一般公開と共に尾山神社・金沢城公園の共用が開始されたんですが、もう一つの朗報が外丸となる玉泉院丸庭園が無料開放になったこと^^国立工芸館正門&連結廊下上:旧陸軍金沢偕行社(明治42年(1909)築) 右:旧陸軍第九師団司令部庁舎(明治31年(1898)築)以前までの建物を知るせいで、あまりの綺麗な色目に驚き@@ 移築時の調査で判明した新築時の色に塗り直したそうです。もう一つ目玉となる東京国立近代美術館工芸館が金沢に移転する国立工芸館も、旧第九師団司令部庁舎と旧金沢偕行社の建物を移築改造して昨年秋には完成、建物および館内の完熟期間も終えて展示品が東京から搬入、ただ開館はコロナ対策もあって10月31日に延期となっています。それでも現在は目隠しとな…

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下柏野 楢本神社

加賀国石川郡の式内社10座の中で現在、場所はともかく由緒を伝える確定的な神社(式内社)は6座、幾つかの候補神社がある式内論社(比定論社)3座、行方不明が1座※式内社 ・・・白山比咩神社・本村井神社・額東神社・額西神社・佐奇神社・笠間神社※式内論社・・・御馬神社・楢本神社・神田神社※行方不明・・・味知神社となります。ちなみに行方不明の味知神社は創始の本宮の所在地自体が不明で、由緒や分霊を伝える神社として安江住吉神社・味知郷神社が候補として比定されています。下柏野楢本神社 表参道入口 道路は旧北国街道で左(北東)に200mほどで柏野宿、右(南西)に4.5キロほどで手取渡し場下柏野楢本神社標柱日露戦捷記念の記があるので明治37年(1905年)以降の建立 今回の楢本神社にしても、社殿が洪水で流されて本宮が消滅したと伝わっています。往時は手取川本流はこの辺りを流れていたために幾度も遷座分霊を繰り返したと云われます。また町村の集落にしても離合集散を繰り返したと云われます。このために、柏野・宮丸地区のどこかとされる楢本神社本宮の跡地も後継の所在も明確には解らなくなっています。 楢本神社の分霊遷座を受けた、社殿が流れ着いた地などと伝承する三つの神社(上柏野・下柏野・宮丸)が論社になっています。三社ともに名前は楢本神社なのですが、区別するために地区名を記させてもらっています。ちなみに当ブログではすでに二つの楢本神社を紹介しています。⇒ 2014.08.20 上柏野・宮丸 楢本神社下柏野楢本神社 一の鳥居 昭和3年…

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大日川ダム

大日川ダム周辺略図 道路は略図ではどれも同じ幅ですが、実は起伏はあるは車一台がやっとの道も多くあるのでご注意をダムにある地図看板ですがけっこう古いものです。鳥越高原大日スキー場は平成19年(2007年)に名称変更で鳥越大日スポーツランドになったんですが、平成24年にスキー場が閉鎖・廃業しています。現在は広い駐車場を利用したジムカーナや自動車練習・競技会場、阿手町の催物会場になっています。他はいずれも健在ですが白山スーパー林道は平成27年(2015年)に名称が「白山白川郷ホワイトロード」に変更されています。今年は崩落もあって、岐阜側は無料区間と有料区間の三方岩駐車場まで開通していますが、その先の有料区間および石川側の無料区間は通行止めになっています。来年は開通できるそうです。 赤瀬ダム・赤瀬湖を右に観ながら大杉谷川に沿った道(県道43号)を15~20キロほど進み、牛ヶ首峠(地図では丸山)を左折して大日川に沿って10キロほど進むと大日川ダムになります。野性の証明での車の引き上げシーンは赤瀬ダムと云われていますが、僕には車の走行シーンは大日湖東岸道路、引き上げは日川ダムの西側角地に思えました。大日川ダム湖 東側道路から、この道は車幅が狭いので、映画のように転落注意大日川は総延長34.9キロ、石川・福井の県境付近の大日山(1368m)を源にしています。ちなみに大日山は河南三山(江沼三山、鞍掛山・富士写ヶ岳・大日山)に数えられ修験道のメッカでした。古くから大日如来を祀る山として信奉されてきました。また山稜…

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赤瀬ダム

昭和53年(1978年)公開 野性の証明 監督:佐藤順彌 原作:森村誠一 主演・出演:高倉健・薬師丸ひろ子、中野良子他 音楽:大野雄二主題歌:町田義人「戦士の休息」1970年後半から80年まで、大作を輩出した角川映画の初期に、人間の証明に続く森村誠一原作の第二作として公開された作品になります。 「あらすじ」(Wikより、ねたばれあり)・・・1980年5月のある日、反政府ゲリラの一団がアメリカ大使と家族全員を人質にとって立て籠もり事件を起こした。県警の救出作戦は失敗し、人質の命に危険が迫る中、政府首脳は秘密裏に陸上自衛隊に出動を命じる。味沢岳史一等陸曹(高倉健)を含む突入部隊は犯人たちを全員殺害し、人質を救出した後、素早く現場を立ち去った。 味沢が所属する部隊は、極秘裏に編成された精強の特殊部隊「特殊工作隊」だった。事件後、味沢たちの部隊は訓練の一環として北上山地の原生林の中に一人ずつヘリから下ろされ、目的地まで自力で辿り着くよう命令される。訓練は精神異常をきたす隊員や行方不明者がでるなど過酷を極め、味沢も疲労困憊して登山道に滑落したところを通りかかった女性登山者・越智美佐子(中野良子)に発見される。美佐子は近くの部落(架空・風洞集落)に助けを求めに走ったが、味沢は訓練中民間人との接触を厳禁されていたため、その場を離れた。しかし味沢が向かった先は美佐子が向かった部落だった。部落では、住人の長井孫一(江角英明)が発狂し手斧で次々に村人を殺していた。美佐子も長井に殺されてしまう。長井は最後に自分の娘…

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日用・苔の里②

日用苔の里案内図 ちょっと今回用に地点A~Fと経路を書き込みました。参考にしてください。         A 旧家庭園 西部                                           A 通路途中の灯篭A 旧家庭園 東部訪れたのが真昼間で天気が良すぎて、日差しがまぶしくて苔の緑が白っぽく見える部分もあります。旧家の庭園を観て道路を横断すると、日用神社の参道の入り口になります。B. 日用神社は明治以前まで日用村の産土神となっていましたが、明治末期の神社習合政策で粟津温泉北東部の井ノ口村八幡神社に合祀合併され、長らく神社のない村になっていました。昭和20年(1945年)に独立社として復帰した神社になります。神仏習合政策で神社の合祀合併が多く行われていますが、正式に独立復帰した神社は少なく貴重な存在です。主祭神は、伊弉諾命(いざなぎ)・伊弉冉命(いざなみ)・菊理媛命。本来の祭神は菊理媛ですから白山神社系になりますね。日用神社 上:二の鳥居 左下:一の鳥居 下:狛犬 狛犬は大正15年寄進銘、由来文の通り神社の消滅時代、井ノ口八幡神社時代のものを移したと思われます。 苔も植物ですから光合成のためにも光は必要ですが、直射日光を浴びすぎると乾燥から自身を守るために殻を被ってしまいます。道路側の整備された苔山付近は直射日光が当たるので午前中や雨降り後が合いますねえ。。少し茶色が目立って残念でした。。D眞子内親王歌碑   広がりし 苔の緑の やはらかく 人々のこめし 思ひ伝わる平成27年…

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日用(ひよ)・苔の里①

日用苔の里で買ってきた苔鉢 売店の方から栽培の際に、一度沸騰させた水か、雨の日に外に出して濡れさせてと念押しされていました。2日目に触覚みたいな芽が出て来たと嫁さんが喜んでました^^金1000円也^^V ちなみに水道水にはカルキや塩素があるので厳禁久しぶりに完全休養日が重なった嫁さんと僕。。さてどこか行こうということになったのですが、なかなか場所が思いつきません。なにせ、僕に完全委任するととんでもない山奥や遠くまで連れていかれると警戒する嫁さん。そこで思いついたのが、2.3日前に枯らしてしまったと嘆いていた器に入った苔の置物、あれほど水道水をそのままあげちゃだめだと云ったのに、やっちゃったみたいなんです。。なら、新しいのを仕入れに行こうといったら、えっ?どこどこ。。小松の日用だよ。前(2年前)のもそこで買って来たんだもんバス停「日用苔の里」 循環バス(小松バス)はありますが、土日祝日のみ運行で、小松駅発[粟津温泉経由]10:00(11:00着)、日用苔の里14:55(15:41小松駅)しかないのでご注意をいつも自力で名所や旧跡を探してくる僕なのですが、今回の日用町(ひよまち)の苔の里はご近所ブロガーのgoさんに以前に教えてもらった所なんです。小松でも奥秘境とも云える大杉谷の入り口に当たる場所、山里や草木そして山だけでなく渓流に詳しいgoさんならではの場所なんです。日用町自体は昔から場所は知っていましたが、こんな素晴らしい名所とは知らずに、いつも通り過ぎていた僕の盲点でもありました。 元々、石川県…

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おしらせ

続きを書こうとしたら、PCが壊れて修理依頼をして来ようと思っているんですが、もし駄目だったらまたしてもソフトの入れ替えやインストール、仕事に支障をきたしそうどころかもう支障を来しています。急ぎ仕事が詰まっているのにTT ついつい仕事もバックアップサボってたのが悪かった。。そうなるとまた更新が滞るかも。。 一応この文は物置にしまい込んでいた前の先代ダイナ君で書いてますが、とにかく反応が悪いは遅いわ、皆さんの記事に気持ち玉やコメント書き込みができない、記事を書くと画像挿入も反転するし。。そもそも、一度画面がピンクとグリーンになった前科持ちの先代なので、簡単修理で治まってくれるのを期待しています。。。でも。結局修理できるかもわからずで、メーカー送りで10~14日ほどかかるそうで、しばらくアップや訪問が滞りそうです。 しばらくご迷惑をかけると思います。申し訳ありません。 次回は日用苔の里の予定です。

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金沢南総合運動公園バラ園 雨の残り花

今年はどうも花の盛りに、花の名所を訪れるというのが、なかなかできずに盛りが過ぎてから通るという、どうもタイミング自体にも恵まれていませんでした。しかも、残った花を見ようとすると天候に恵まれないというのが続いています。金沢南総合運動公園 緑地広場バラ園への道金沢のバラの名所と云われるのが、今回の金沢南総合運動公園にあるバラ園になります。今年は残念ながら見頃の4.5月は入園禁止の閉園状態で入れず、解禁となった6/1には、新聞に画像が載って最後の見頃にどっと人が集まっていたようです。どうも人が多いのを避ける僕としては今年は諦めていたのですが、たまたまこの日真ん前を通ったら、雨降りということもあって駐車場もがら空きで、ちょっと寄り道をしてみる気になったんです。駐車場に着いたときには雨が強く降ってきてあちゃ~~~っと思っていたんですが、バラ園に向かう頃には小雨に。。噴水園地ちなみに金沢南総合運動公園は、皇太子(昭和天皇)成婚記念事業として、大正14年(1925年)に完成した400mトラックを持つ多目的(野球・テニス・バスケット)運動場として造られた金沢市公設運動場が創始になります。昭和22年(1947年)第2回国民体育大会(国体)の為に、主会場・陸上競技場に改修。 昭和33年(1958年)サブグラウンド(球技場)・屋内外プール施設(金沢市総合プール)更にバラ園を含めた緑地公園を整備、面積も2倍となって完成させて都市計画金沢総合運動公園となっています。 平成2年(1990年)に金沢北部に城北市民運動公園が…

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犀川・犀川神社

金沢の城下町を形作っているのが、犀川と浅野川になります。この二つの河川に囲まれたのが金沢の城下町になります。対照的な流れとして優美な流れの浅野川は女川(雌川)。雄々しい流れの犀川は男川(雄川)、雅名・菊水川と呼ばれて、金沢の様々な景観や産業、生活に根付いています。水源の両白山地からの雪解け水、いつ開けるか解らない梅雨、「弁当忘れても、傘忘れるな」という言葉があるほど、県庁所在地では高知と全国一位を争うほどの降水量、雨の多い金沢という土地柄から、何時も水量豊かな川と用水路の流れをもたらしてくれています。水不足を知らない土地柄として恵まれています。犀川 犀川緑地から上流方向ところが、今年は暖冬で上流部も雪なし状態で雪解け水が少なく、春は例年の1/3と云われるほど雨が少なかったこともあって、極端に川の水量が少なく、少し寂しいものがありました。ちょうど、今の時期には犀川では鮎が産卵のために溯上を始めているのですが、あまりに川水が少なく川底が浅くなったために上流に遡上できないという異常事態で、ついに水量調整で上流貯水を増やし放流が計画されています。というわけで、普段なら水量豊かな川が流れているのですが、水の少ない画像で申し訳ありません。 北陸特有の高所から低地に流れる短い河川から過去には何度も水害をもたらしてきました。有名なものでは大正11年(1922年)大雨で浅野川・犀川が氾濫、両川の橋が天神橋を除き全て流出、犀川大橋は流木などで危険性を増し、繁華街も浸水し、…

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式内論社 神田神社

式内論社 神田神社 表参道東向きに神社の本殿が建っています。古くは拝殿・本殿裏に参道があり、南向きになっていたようです。右の道は安吉に向かう道路。前回も少し触れましたが神田神社は白山市吉田町にある神社になります。旧松任市の中でも最大の田園地帯の山島郷(林郷)にある集落の神社になります。 山島郷は手取川の北岸に位置して能美市と並ぶ手取川によって出来た扇状地の広い平原地帯で、古くから屈指の広さを誇る加賀平野の穀倉地帯として加賀を支えてきた地になります。手取川の氾濫によるために高台になる島の名を持つ町名が多い場所で、七ヶ用水路によって区域が分けられ、島ごとに独自の村落が発展していました。吉田町も昭和32年(1957年)までは東南の隣の漆島と合わせて「吉田漆島」と呼ばれていました。吉田漆島は七ヶ用水の大慶寺用水の南岸に沿って、白山麓から山島郷の中心地・安吉に向かう手前にある集落になります。前回ご紹介した加賀国石川郡式内社の神田神社の比定地の最有力の論社になります。まずは、吉田町の神田神社の由緒書から。。神田神社社記御祭神 饒速日(にぎはやひ)命天児屋根(あまのこやね)命武甕槌(たけみかづち)命経準主(ふつぬし)命 八幡大神末社  高良社の御祭神 武内宿祢命 当社は、第十二代景行天皇の御代、武内宿祢が北陸及び東方諸国の風土観察の為、下向のおり、北陸守護の為、吉ヶ中と称する地に饒速日命を勧請し、其の際、地名を神田村と命名しました。延喜式(九〇五~九二七)に加賀国石川郡神田神社とあるのは、当神社であり、延喜…

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延喜式神名帳

久しぶりに式内論社の神社を書こうと思ったのですが、そういえば、ここのところ一般神社ばかり書いていたのと、現代(戦後)は伊勢神宮を除いてすべての神社は同格として、神社庁が一部を特別な存在として別表神社としているくらいです。式内論社と云われても、一般人には縁が薄いというより、何のことともいえます。式内論社 神田神社 標柱には「式内郷社神田神社」 白山市吉田町 2020.3.25撮影画像をよく見ると郷社は後で書き直しているのが解ります。元は小社或いは論社となっていたと思われます。たぶん論社が有力だと思います。神田神社は位置的にも式内社・神田神社の有力地なのに、神田神社の歴史を綴る宮司家の資料の年号誤りなど確実性を疑問視され、他の候補神社も名乗りを上げていて論社に甘んじているという思いの強い神社です。どうにも論社という文字が我慢できなかったようです。郷社は明治の近代社格制度の一環で定められたもので、府県社>郷社>村社という諸社の分類によるものです。ちなみに府社は東京・大阪・京都。北海道は県社になります。神社によってはこの諸社下位の村社を削ったり、書き直しているものもいます。それほど神社にとっては表札以上の意味が込められています。あまりに久しぶりなので、まずは復習の意味でご説明を。。古い由緒ある神社に行くと、古い標柱や案内板に誇るように旧位階の他に、式内・式内社・式内論社・論社・式外社・国史見在社(国史現在社)・国幣大(小)社・官幣大(小)社などと表記しているものがあります。明治の近代社格も同じ名称(国幣・…

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河北潟干拓地② メタセコイア並木

非常に広い河北潟干拓地には農園地や直売所や牧地が広がりますが、だだっ広い平地ということで防風林として植林が施されています。その中で、人気を集めるのが河北潟との堤防伝いに、内灘町から津幡町にかけて干拓地の南面と東面にかけて約9キロ・1550本の桜並木。そしてもうひとつが、今回のメタセコイアの並木道になります。韓流ドラマの火付け役となったドラマ「冬のソナタ」 平成15年(2003年)BS、16年NHK地上波 日本初放映ペ・ヨンジュンの微笑み、泣きのチェ・ジウ、一途で報われないパク・ヨンハと一大ブームを起こしたドラマでした。当時、日本のドラマにはこんな心情的なものが減っていた時代、ちょっと首を傾げる場面転換や時間変換はありましたが、音楽も景色もどこか懐かしさを感じさせるものがありました。おかげさまで、我が家でも嫁さんがすっかり嵌って観ていました。僕も時間が合えばご相伴させられました。以来、今でも韓流ドラマはよく見ている嫁さん曰く・・「冬ソナ」と「パスタ」それと「主君の太陽」は傑作だとのたまっております。 冬ソナの中でも、印象に残るのが整然と並ぶメタセコイアの並木道、二人の出会いから重要シーンとしてロケ地になっていました。韓国のナミソム(南怡島)という北漢江の清平(ピョンチョン)ダムによって出来た島周6キロほどの島にあるそうです。四季それぞれに美しいロマンの島だそうですが、印象的だった冬はマイナス20度にもなる寒い所だそうですが。。河北潟干拓地 メタセコイアの並木道実は河北潟のメタセコイアの並木は昭和6…

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河北潟干拓地 だいこんの花

今年はゆっくりと花見が出来なかったので、ずっと残念に思っていました。ゴールデンウィークも外出自粛で、人が集う花の名所にもいかずじまい、、今年の春はお花見なんて無理だなと思っていたのですが、ゴールデンウィークはせめて2.3度でも実家の草刈りをせねばならないし、ここ何年か夏になってからだったので草というより草叢・草木になっていましたから・・今年は少し心を入れ替えて、頑張ってみようと思ったんです。 今年のコロナ騒ぎでは各種のイベントが中止されていますが、河北潟の干拓地でも平成7年(1995年)から続けられてきた35万本の向日葵が咲き、大きな迷路を作る「ひまわり村」の種植えが今年はまだ行えずにいます。毎年、保育園児や小学生が種植えに多く参加しているのですが、なにせ今年のコロナ騒動では感染率の高い石川県では、現在のところ様々なイベントが中止・順延となっています。今回の危険宣言も延長になったことで、ひまわり村も難しくなったと云わざる負えません。 草刈りの帰り道、嫁さんとドライブがてら河北潟の干拓地を通って自宅に戻ることにしたんですが、そこで思い出したのが花畑。今年は春になってから、前述のように梅も桜も、そして藤も牡丹も観ていないんです。我が家では嫁さんが喘息持ちということもあって、例年花粉症もあって外出は避け気味ですが、今年は完全に人混みは避けていましたから^^;でも僕の知る干拓地の一隅なら、そもそも人がいるのはまれな場所^^と、いうわけで少し寄り道してみました。河北潟干拓地 津幡町 小麦畑河北潟は昭和3…

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六郎塚(六郎杉) 伝・林六郎光明墓所

日御子神社から西に500mほど行くと、六郎杉と呼ばれる大きな杉の木の繁茂するところがあります。谷崎潤一郎賞を受賞した高樹のぶ子の小説「透光の樹」、秋吉久美子主演で映画化もされていますが、この六郎杉が透光の樹のモデルで、鶴来の町が舞台になっています。まあ谷崎賞ですから、四十路男女の恋愛を官能的に描いていますが、高樹のぶ子特有の流れるような旅情感が冒頭に書かれています。映画の方は一部映像賞や音楽賞を獲得していますが、萩原健一の途中降板や裁判沙汰でスキャンダルが表立って残念な結果でしたが。。 そしてこの六郎杉のある場所は、古くから六郎塚とも呼ばれ、林六郎光明という平安末期から鎌倉初期にかけての武士の墓所跡と伝承され、地元の保護や崇敬を受けて来た土地になります。義経記 巻第七 五 平泉寺御見物の事から引用判官其日篠原に泊り給ひけり。明けければ齋藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれける、あいの池を見て、安宅の渡を越えて、根上の松に著き給ふ。是は白山〔の〕権現に、法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜あり。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み奉らせて、其日は劔の権現の御前に参り給ひて、御通夜ありて、終夜御神楽参らせて、明くれば林六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀國富樫と云ふ所も近くなり、富樫介と申すは当國の大名なり。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して、判官殿を待ち奉るとぞ聞えける。2008.03.02撮影 金剣宮境内 義経腰掛石短いくだりですが、この中に出てくる場所は僕のブ…

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日御子(ひのみこ)神社

北陸鉄道石川線の現在の終点・鶴来駅の一つ手前に日御子(ひのみこ)駅があります。鶴来駅との中間に鶴来高校があるので通学、ガステーブルの点火装置では全国シェアの7割を誇り、現在では浴室テレビ・浴室照明を製造するRBC鶴来工場、陶器のニッコー鶴来工場などがあり貴重な地域の足場になっています。駅名の日御子は、西に少し行ったところにある日御子神社に由来する村名からになります。元は火御子社と呼ばれ、古代には太陽信仰も行われたと伝わりますが、詳しくは解らなかったのでいつもの加能郷土辞彙から抜粋すると・・・日ノ御子・・・石川郡林郷に属する部落。邑名は白山の御子神なる火ノ御子神が鎮座するから起ったのである。大永神書に日御子宮とあるから、火御子を日御子と書いたことも古いことであらう。郷村名義抄に、日御子村の宮神体日天子の由と書いたのは誤である。加越能当跡緒に、『日御子領の内、六郎畠と申所有。林六郎館跡之内。塚も有。』と記する。補足:石川郡林郷は江戸期以降の呼称でお隣の旧松任市の林中地区を指しますが、ここでは後文にある、この一帯を領した林氏の領地を指しています。鎌倉中期以前の林郷を指し、野々市南部(現在の上林・中林・下林など)を中心に旧松任市・旧鶴来町・能美市・金沢港・金沢西南部と広範囲に及ぶと云われています。 六郎畠は現在の六郎塚のことになります。林六郎の正名は林氏全盛時の林六郎光明を指しています。この林氏は能美・石川郡の名家として通っていて富樫氏とは同族になり鎌倉期に没落しています。家系を辿ると富樫氏の本家的存在…

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加茂遺跡 国内最古のお触書高札

加賀平野の北部に河北潟と呼ばれる大きな湖がありました。この湖は昭和の大干拓以前は白山麓や医王山山系からの河川からの水と、海岸の砂丘帯に阻まれて海が堰き止められて造られた湖といわれています。 古代には北金沢から河北郡の津幡・宇ノ気地区まで、現在の国道8号線・国道159号線・県道59号近辺まで湖だったと云われ、幾本もの大河によって運ばれた土砂により長い歳月で体積され扇状地の平野を広げて河北潟を自然に狭めたと云われています。 このために河北潟に近い場所は扇状地の構成がまだ新しく、泥濘地や水分の多い軟弱地帯が多くなっています。このような土壌によって宅地・商業施設・工場更には大規模道路が進出・転用ができず、湿地を利用する水田・蓮根畑が多く、広い湿原となっていました。縄文中期までは湖が山際に迫り山上から山裾にかけて遺跡があり、縄文末期・弥生期・古代期さらに中世へとなって扇状地による平野部が構成されるごとに山裾から平野部へと人や村が進出して行ったことが窺われます。しかし縄文末期、それ以降も湿地帯ということで前述の国道・県道の西側には古代の重要遺跡がないと思われていました。 大規模な道路の敷設も、平野部土壌の安定化と建設技術の向上で近年になってからになります。当然ながら大規模道路の整備に対しては事前の発掘調査が行われます。それまでにも工場や商業地となった遺跡調査によって金沢南の犀川下流部のチカモリ・御経塚といった縄文遺跡が現れ、更に北側の上安原や中屋サワのような場所から運河を利用していた遺跡が発見されて行きま…

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