歌占の滝

能楽というのは明治以降の言葉で、能・狂言・式三番を合わせたものになります。能楽で声楽(台詞・言葉)を指すのが謡曲で能楽の台本ともいえます。江戸期以前は謡(うたい)と呼ばれていました。 謡は声楽と呼ばれるように台詞と地の文(語り手、語り部)で構成されますが、そのほとんどが古文・古歌・古詩から引用され、修辞法を繰り返す和文体で表現され、抑揚をつけた独特の謡になっています。。現在受け継がれている謡は、発祥は飛鳥の伎楽とも奈良の散楽とも云われますが、そのほとんどが江戸期以前のものになります。その数は廃版・不明を合わせて2千以上になるとも云われ、作者まで解っているのはその2.3割に満たないと云われています。当初の謡は自作自演が本筋とされていましたが、芸術にまで引き上げたのが、その2.3割に当たる観阿弥(清次)・世阿弥(元清)・観世元雅の三代と、世阿弥を看取ったと云われる娘婿の金春禅竹(竹田氏信、金春大夫)。観世大夫(三代目)を継いだ音阿弥(観世元重、世阿弥の甥、養子)が金春禅竹・金春流と共に幕府と結びついて芸術として観世流を大成したと云えます。これらの作品群が安土桃山時代から江戸期にかけて多くの謡を修めた謡本が発表されて受け継がれてきました。 「歌占(うたうら)」は、観世元雅の作と云われています。観世元雅は世阿弥の長男で20代で二代目・観世大夫を譲られています。世阿弥をして「子ながらも類なき達人」「祖父(観阿弥)にも越えたる堪能」と絶賛されています。彼が長生きしていれば、能は違った発展を遂げただろうと云…

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白山市河内町(旧石川郡河内村)の風景 

日頃、だらだらして過ごしているのに、2~4月だけは別、毎年のことながら、相変わらずバタバタした日を過ごしていたんですが、部屋に籠って書類を作ったり、外回りなんてやってるうちにあっという間に桜の季節が終わってしまいました。それにしても今年は春があっという間に通り過ぎて、部屋の中や車の中ばかり、たまに車を降りても住宅地で、春を感じないうちに初夏を迎えたような気がします。ふと気づけば、季節感が早く感じていて気が付けば、田圃にも水を張ったところが増えています。 毎年桜の咲くのは遅くなってくれと願ってる僕なんですが、今年の桜の花は例年の2週間以上早く咲き、あっという間に終わってしまいました。。例年なら、今からでも白山麓や南砺との境界の山間の方に行けば遅い桜が見られたんですが、今年は山間でも道路沿いの山桜やソメイヨシノなどは全くダメで、可憐な桜の下に立つことなく終わってしまいました。 前回の金沢城シリーズの後、簡単なモノを書くつもりで10年ぶりに観た絵画のことを書いていたんですが、短い時間をつぎはぎで自分の覚えていたことや調べたことを書いていたら、まったくまとまらず。。支離滅裂で修復不能の状態に。。修復に係わることをかきながら、自分が修復不能になってしまいました。改めてチャレンジするつもりで、書き直していたんですが、ますます深みに嵌ってしまいました。。もう少しお時間をください。。一応、チャレンジ中なのはこのフレスコ画になります。聖十字架物語の第四場面になります。**********************…

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金沢城 河北門 菱櫓

延宝年間(1673~1681年)の金沢城図(下が北・上が南)寛永の大火後、本丸・東丸から拡張した二の丸にある二の丸御殿の表向が加賀藩の政庁になります。現在発掘・資料調査が行われ、次回の復元はここに決定しています。二の丸御殿表向に家臣団・使節が向かうのが尾坂口から新丸を経由する大手道、石川門橋を渡ってくるのが搦手道。この二筋の道が合流するのが三の丸の中心部で堀際を右に五十間長屋に見下ろされながら、渡し橋を渡って二の丸に至ります。この間には多くの門がありますが、その中で枡形を設けた門(河北門・石川門・橋爪門)を、金沢三門と呼んでいます。この三門の内、河北門と石川門が金沢城内への正式な入口になっていました。橋爪門は政庁でもあり殿様御殿への式台門の役割を果たしていました。金沢城 河北門 一の御門 石川門をご紹介した時にも書きましたが、河北門も石川門と同じく表門+枡形+櫓門の順で通行するもので、周囲を櫓・長屋・石垣で構成されています。この為に河北門の名もこれらの総称となります。 新丸が造成されて大手堀が外堀となったために、石垣下は第二の外堀兼内堀となっていました。明治の埋立でお堀通りやいもり堀という水源を失ったために荒れ地でしたが、発掘調査後に湿性池として往時の半分ほどですが湿性池として堀を復元しています。新丸側は往時の護岸を復元したそうです。本来は二の丸は現在の三分の一にも満たない広さで北側の多くは三の丸でした。本来はこの石垣は三の丸下石垣だったわけです。3代藩主・前田利常が二の丸御殿増設のために二の丸…

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10代前田重教(七男)~11代前田治脩(十男)

石川門 表門・続櫓 宝暦9年(1759年)宝暦の大火によって石川門も焼失していました。再建は案内では天明8年(1788年)となっています。しかし、正確には明和2年(1765年)の石垣の修復が手掛けられ、櫓などの構築物が天明8年に完成しています。金沢の城下町の9割を焼いた大火からの復興は限られた予算によって30年近い歳月が掛かっています。これには二人の兄弟藩主の地と涙の努力が表されています。 宝暦9年(1759年)宝暦の大火で金沢城が全焼した際に石川門も焼失し、明和2年(1765年)に10代藩主・前田重教(しげみち)によって石垣が補修されています。予算の調達や城下町や産業の復興が優先されたこともあり、櫓などの建物は天明8年(1788年)11代藩主・前田治脩(はるなが)によって再建されています。ちなみに加賀藩主の7代から11代は兄弟が藩主を繋いできましたが、治脩はその最後の兄弟藩主になります。ここからは、本来ならば家臣の婿養子になったり、仏門で人生を過ごすはずだったのに、運命の変転で、苦労に苦労を重ねて石川門を再建した二人の兄弟藩主について。。六代藩主・前田吉徳の野田山墓所 加賀騒動の主役・大槻伝蔵を抜擢して藩主独裁による急進改革・経済改革に着手しました。それなりの成果を挙げつつあった中で逝去。彼の死と共に守旧派の巻き返しによって政策は頓挫しています。死後に、藩主独裁が頓挫するかもとは予測できても、自分の後継が長男から十男まで続くなどとは想像もつかなかったでしょう。大槻伝蔵朝元の墓所(妙成寺)200…

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金沢城 石川門・石川櫓

金沢城 石川門 表門(高麗門)・太鼓塀 石川門は金沢城の搦手門として江戸期は金沢城の第二の門でした。明治以降、そして金沢大学時代、そして現在は兼六園側からの入口として、誰にも金沢城の正門として認識されてきました。この日もここだけは観光客が多く、密になるので早々に退却。。画像が少なくて申し訳ありません。石川門は表門・多聞櫓・渡り櫓・続櫓・菱櫓・太鼓塀から構成された枡形門の総称になります。画像の門は表門で高麗門の形式で、左右(南北)に太鼓塀を有しています。 金沢城石川門 表門・表門北方太鼓塀・表門南方太鼓塀・櫓門・続櫓・櫓・附属左方太鼓塀・附属右方太鼓塀(8棟)天明8年(1788年)再建 重要文化財 昭和25年(1950年)8月29日指定 金沢城公園の入口となっている石川門は、金沢城の時代は搦手の門で、石川郡の方を向いていたので「石川門」と称した。型式的には桝型門で、表門・多聞櫓・渡り櫓・菱櫓・太鼓塀から構成され、その全体を石川門といっている。石垣の上の、腰に海鼠壁を付けた白壁に、鉛瓦のにぶく光るその姿は、周辺の樹木と相映じて四季を通じて美しい。前田利家の入城以来整えられた金沢城は、宝暦9年(1759)の大火で全焼し、その後、天明8年(1788)に至って、ようやく再建された。寛政11年(1799)の大地震で損傷を受けており、文化11年(1814)に櫓を解体修理している。その後も修理を重ねながら、昭和28年(1953)から同34年(1959)にかけて大修理が行われ、現在の姿となった。 (石川県HPよ…

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金沢城 鶴の丸 +三十間長屋

鶴の丸跡 左の建物は平成29年(2017年)に新設された鶴の丸休憩館。以前にも簡易な休憩所があったのですが老朽化で建て直されました。東側が入口になりますが西側は全面ガラス張りで、橋爪門・続櫓から五十間長屋・菱櫓を一望できます。館内には金沢城の発掘調査結果の展示、カフェレスト「豆皿茶屋」で九谷焼や山中塗りの器や皿で食事やお茶が楽しめます。館外には石垣や土塀の構造展示などが見られます。鶴の丸広場(鶴の丸休憩館からの眺望) 復元された橋爪門・続櫓・五十間長屋・菱櫓が一望できる絶好スポット。鶴丸御殿はこの広場になるのではないかと考察されます。以前は近代に造られた泉水の庭園になっていましたが、休憩館が出来てイベント広場に替わっています。延宝年間(1673~1681年)の金沢城図(下が北・上が南) 濃紺の丸点は井戸で鶴の丸には五カ所もあり、これは他の丸や郭よりも非常に多いものです。三の丸は新丸から河北門を抜けて来る大手道、石川門からの搦手道が合流する処で、三の丸から内堀の橋を渡って橋爪門から入城するのが正式な経路でした。 東の丸・本丸から下りて来た広場が鶴の丸になります。金沢城初期には三の丸の一部もしくは丘陵の一部だったと思われます。内堀が整備されてからは隔絶した広場として、庭園の要素が強く歴代藩主が植えたと伝わる各種の木々が植樹されています。 鶴の丸から東の丸  於松の方は築城当時から江戸に行くまで東の丸に在住でした 鶴の丸の名の由来は、芳春院(利家正室・於松)が東の丸在住中に、東の丸直下の郭に鶴が舞…

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金沢城 鶴丸倉庫

東の丸北石垣(丑寅櫓下高石垣) 金沢城内で現存する最も古い技法・野面積による石垣になります。ちなみに野面積みは自然石その物や荒削りの石を組み上げたものです。右は東の丸附け段の石垣で上部に鶴丸倉庫があります。前回の丑寅櫓を紹介した時に北側の石垣画像を載せましたが、実は全体画像があったはずなのに見つからず、鶴丸倉庫での画像を載せて誤魔化していました。見つけたので、まずはその画像を。。金沢城絵図(延宝年間(1673~1681年) 金沢市立玉川図書館近世資料館蔵今回はこの絵図を多く使わせて頂きましたが、一目でわかるのが石垣ですが、オレンジ色は建物を表しています。L字、細長いものは長屋(多聞櫓)になります。(一部、門もあり)東の丸御門から本丸裏手門への遊歩道 虎口のような導線に、往時には正面石垣は本丸の一体の本丸高石垣でした。本丸石垣の右端に沿うように本丸裏手門があり、右石垣下には大きな枡形でそこに鶴丸倉庫があります。鶴丸倉庫 本来は東の丸附段にあるのですが、鶴の丸に隣接することから明治頃から呼称されてきたようです。本丸・東の丸から藩主の政庁・御殿が二の丸に移り、半分放棄状態されてから呼称されたと思われます。金沢城内には多数の倉庫・土蔵がありましたが、防衛施設の長屋(多聞櫓)も平時は倉庫として使用されていました。全国の城郭内の土蔵としては最大級(延べ床面積636㎡)と云われていますが、古絵図には鶴丸倉庫より数倍規模の土蔵が幾つも描かれています。金沢城は倉庫・蔵だらけの城でもあったわけです。鶴丸倉庫 右の石垣…

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金沢城 辰巳櫓跡・丑寅櫓跡

本丸・東の丸北側の遊歩道の森東の丸跡 辰巳櫓台の木々 丑寅櫓と辰巳櫓の間には今は鬱蒼とした森になっています。上の遊歩道北面(本丸・東の丸)は自然林が多く城壁側は明治の植林と自然林が混在しているそうです。 本丸の森 本丸・東の丸の南面の森の遊歩道を東に進むと、辰巳・丑寅櫓跡に抜けられます。金沢城絵図(延宝年間(1673~1681年) 金沢市立玉川図書館近世資料館蔵 一段目の高石垣は埋めてなだらかな斜面地の土台にしていたようです。明治の災害はこの平地部の土砂を掘り起こし、高石垣を壊したのが原因ではないかと考えらます。小立野台地の最西端になる金沢城では防衛の最重要地と見なされていたのが、同じ台地上(兼六園など)となる東側及び東南部が重視されていました。この為に東面に百閒堀(長さ270m・幅68.4m・水深2.4m)、南面に宮守堀(いもりぼり、最大幅40m・最大水深10m)の直線的な外堀が配され、城壁も20m以上に及ぶ高石垣を巡らしていました。この石垣上に配されたのが角地の隅櫓となる辰巳櫓と丑寅櫓でした。古絵図などから両櫓は石垣からはみ出すような造りで石落としも備えられ、間には鉄砲狭間を備えた土塀・矢倉塀・長屋が配されていました。特に辰巳櫓は角にあることから、金沢城でも一番目立つ建物だったと云われています。上:辰巳櫓跡 明治の改編で敷地は狭くなっています。金沢城から城外眺望を見るには最高の場所右:下:辰巳櫓下石垣 2021.2.7撮影金沢に訪れて中心通りとなる金沢市役所やしいのき迎賓館のある広坂通から兼…

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金沢城 戌亥櫓跡

金沢城本丸西端 戌亥櫓跡 左奥にあるのが戌亥櫓跡の土台石垣になります。本丸の森に入って最初の三叉路を左に行くと本丸の西側部広場にでます。江戸初期、寛永8年(1631年)の寛永の大火によって、城下町の殆どと金沢城が全焼した際に3代藩主・前田利常は金沢城再建・改造だけでなく金沢城下町の縄張り・区割りを再整備しています。この時の大改修が現在の金沢城の縄張り、城下町の区割・道路などの基礎が出来たと云えます。大きな事業として辰巳用水の開削による大量の堀や導水路による防火・生活水の導入。それまでも多少の浅野川・犀川の直接導水はあったものの、金沢城内の水堀が整備強化されたのもこの頃だと云われています。それまで城内に居住していた家臣団を城外に出し、城下町の区割を確定しています。金沢が武家の都市となったのもこの時からが正式なものと言えました。政庁の機能を有していた本丸を放棄し、二の丸と三の丸の境目を開削して二の丸を大拡張し、政庁と殿様御殿を合わせた二の丸御殿を造営して、金沢城の政庁機能・防衛力を増強したわけです。本丸(戌亥櫓)からの金沢城 正面に金沢城三門の橋爪門、後方は橋爪門続櫓、後方に長く伸びるのが五十間長屋になります。橋爪門は石川門(搦手門)・河北門(正門)と合わせて金沢城三門と呼ばれますが、格式が一番高く枡形も金沢城最大の広さを誇ります。橋爪門の右が三の丸、左が二の丸になります。金沢城橋爪門戦国気風が残る江戸初期とはいえ、城下町の整備や城の改築増強は幕府の監視に引っ掛かる重要案件でした。大火災による惨状は、…

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金沢城② 極楽橋~三十間長屋

二の丸御殿跡から本丸付け段 左端がニの丸と本丸を繋ぐ極楽橋、右上に見えるのが三十間長屋極楽橋 尾山御坊時代の施設で唯一名を遺すと云われています。現在の極楽橋は平成3年(1991年)に改修工事をされたアーチ橋です。冬場には筵が敷かれ歩行者の滑止となっています。極楽橋 本丸付け段の石段から、観光客の多い日でもこの辺りは意外に人が少なく静かな場所です。二の丸御殿の御居間廻と奥向の境(台所)から南に極楽橋があります。極楽橋は切通(涸堀)を渡る橋ですが、加賀藩以前の尾山御坊時代から存在した名だと伝えられています。加賀一向宗の本拠・尾山御坊(金沢御堂)は現在の金沢城内に存在したと云われていますが、天正8年(1580年)に柴田勝家が攻略し、城主として佐久間盛政が入城しています。佐久間盛政は尾山御坊の施設を御堂及び周辺を徹底的に破壊し、名前さえも消し去って、加賀一向宗を排除して金沢城を築いています。このために、金沢御堂の所在地も不明状態になっていました。涸堀の発掘で極楽橋下に一向宗時代の遺構があることが発見され、城の形態の研究からも、、現在の金沢城の本丸から御宮広場・藤右衛門丸(北の丸)にかけての金沢城西側が尾山御坊の城塁になると推測されてきています。しかし石川門橋には一向宗時代から御坊の土橋があったといわれ、正式な位置は不明です。涸れ堀(かれほり) 極楽橋上から、上が西方向(玉泉院丸・いもり坂)、右:東方向(橋爪御門)、右が本丸石垣上に長屋、左の石垣上には門まで土居が積まれていました。極楽橋は東西を見通せるよう…

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金沢城① 玉泉院丸~数寄屋敷跡

今更ですが、新年明けましておめでとうございます。相変わらず時季外れや拙いブログですが、本年もよろしくお願いします。今回も前回の続きですがおつきあいください鼠多門橋と鼠多門 鼠多門は創建は不明(推測では寛永初期)ながら、金谷出丸(現・尾山神社)と金沢城・玉泉院丸を繋ぐ門として江戸期を通じて使用され明治まで残存していた門になります。金沢城を全焼させた宝暦の大火(宝暦9年(1759年))、陸軍の不始末による大火(明治14年(1881年)にも類焼を免れた金沢城最古の建造物の一つでしたが、明治17年(1884年)に火災で全焼していました。昨年(2020年)7月に復元が完成して御目見えした門になります。 前回詳細 ⇒ 2020.07.27 金沢城 鼠多門・鼠多門橋鼠多門橋は門と同時期の創建と云われていましたが、江戸期には少なくとも3度以上の架け替えの記録が残っているそうです。明治10年(1878年)に老朽化により撤去されて以来、金谷出丸と玉泉院丸を隔てた堀が道路となったこともあり、142年間姿を消していました。鼠多門と共に今年7月に復元が完了。これまでは東の石川門が主要観光路でしたが、武家屋敷・近江町市場・尾山神社からの新たな観光連絡として期待されています。元々、玉泉院丸を囲む南西石垣は美しさで人気がありましたが、木々で覆われていた西側石垣も再整備されて上部石垣が組み直されています。もう少し歳月を経れば、右の南西石垣と馴染んでくると思われます。玉泉院丸庭園 泉水部嫁さんは登り降りは…

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尾山神社

11月18日、営業仕事が一軒+訪問一軒だけ、しかもサインをもらうだけ。。そして場所は尾山神社の門前横丁(尾山町商店街)。ちなみに尾山町商店街は戦後の引揚者のために造られた四軒の長屋風建物が始まりで、尾山神社門前の左手には当時の建物が残っていて、独特の雰囲気があります。天気も上々だし、少しは気晴らしに金沢城内を歩いてみようかと、まだ鼠多門どころか玉泉院丸も観ていない嫁さんを連れ出して、金沢城内を散策しようということに。。嫁さんは河北門が復元工事の際に来て以来ですから、12年ぶりに城内に入るかも。。尾山神社の門前のコインパークに車を駐めて、40分後に尾山神社の境内で落ち合うことに。。 前回一人で訪れたのは7月末の雨の日で、緑の濃い時期でしたが、今回は紅葉混じりで一部散ってしまった木も多いですが、見比べると景色の違いも感じられるかも。。 尾山神社神門 上:門扉・梅鉢紋透かし彫り 右:中央欄間透かし彫り尾山神社は明治となって藩祖・前田利家を卯辰八幡宮(現宇多須神社)から遷座するために旧加賀藩家臣団が建立したものです。明治となったこともあって、レンガやステンドグラスと云った新しい洋風を取り入れながら、加賀藩時代に培った彫刻技術が織り込んでいます。神門も和洋折衷ながら、門塀・扉・桟の欄間などには細かな意匠の伝統工芸の透かし彫りが見られます。尾山神社拝殿前境内 神社の境内は結構広いのですが嫁さんはすぐに発見@@ 真剣に物を観る時は、後ろに手を組むのが癖ですぐ分かる@@上:尾山神社拝殿 中:拝殿内 右:拝殿横…

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日本自動車博物館 名車・歴史車

日本自動車博物館には多くの国内外の有名車や歴史的な車が並んでいます。歴史的な車には技術の創始的なモノはもちろん、映画やドラマに登場したり、有名人が使用して話題になった車。。挙げればきりがないほどです。それでも、あちこちで名車と呼ばれるものも多いですが、名車の基準てなんだろうと思えば、個人的意見ですが、やはり個人々々の思い入れになるんだろうかとも思います。初めて乗った車、初めて運転した車、いつかは運転したり持ち主になって見たい車、思い入れの愛車、人それぞれで違ってくると思います。とはいっても消耗品の自動車は手放したり廃車にしてしまうと、なかなか見られなくなってしまいます。この博物館を作った石黒産業は自動車を扱うことが多く、またそういう会社ですから社員も凝った車を好む傾向があって、初期にはそういう会社や社員の車で譲渡・廃車寸前の物をメンテして蒐集したことから始まっていますから、希少なものを含め、大衆車も観られます。博物館や展示館に訪れて、昔の愛車や憧れた車に再会できる可能性も高くて、ついつい見入ってしまいます。というわけで、今回は歴史的な車や、僕の懐かしい思いが乗る名車で締めくくるということで。。近年、環境回復・対策のためにソーラー自動車・電気自動車・水素自動車(自動車博物館にも展示されています)が話題になって来ていますが、歴史を辿ると自力で発動して自走運転する自動車の創始は1769年フランスのニコラ・ジョゼフ・キュニョーの砲台運送の蒸気自動車とされています。ちなみにこの車は時速10km満たずでしたが…

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日本自動車博物館 外展示物

日本自動車博物館を運営するのは石黒産業という富山県小矢部市の石動駅近くに本社を置く会社になります。自動車博物館の広い駐車場の外辺には、小矢部市石動に関連する大きな鬼瓦や美しい疑洋風の建物、石黒産業が係わった遺物や日本庭園があります。画像は天気の良かった昨年のものです。旧聖泉寺御所瓦(大鬼瓦) 鬼瓦としては非常に大きく巨大なものです。左文面 仏陀の道(鬼瓦の由緒)この御所瓦(大鬼瓦)は、もと富山県小矢部市の名刹真宗大谷派の三笠山聖泉寺の本堂の棟の両端にあったものであります。平成七年(一九九五年)に日本自動車博物館が小矢部市よりこの地に移るにあたり、二十七世住職小塩誠師の御厚志により、寄贈されました。小塩師は、本館に隣接する大領村の勝円寺のご出身でありますが、さらに仏陀の道を極めんがため聖泉寺に入られました。この度、師のふるさと近くに移転することになった。その宿縁を慶ばれ本館発展の一助にもなれかしと下賜されることを思い立たれたのであります。かつては、そびえ立つ甍(いらか)の両端より天地万物を見据えていた貴重なる記念物を、特に本館のために提供された師のご高徳に感謝し館員一同、崇敬の念をもってこれを、永久に保存すべくここに建立した次第であります。 平成七丙子年夏 日本自動車博物館 館長 前田彰三 右文面 製作の由来この御所瓦(大鬼瓦)は、明治四十四年(一九一一年)九月、越中石動町笹川瓦工場で製作されたものであります。笹川瓦工場の初代笹川竹次郎翁は、万延元年(一八六〇年)石動町(現在の小矢部市観音町)に生…

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日本自動車博物館

日本自動車博物館 創業明治26年創業の石黒産業(いしくろ、開業時は石黒商店、セメント・レンガ製造販売から始まってハウス建材・GS他の多角化経営で富山では知られた会社)の三代目社長・前田彰三氏が昭和53年(1978年)に富山県小矢部市芹川のブロック工場の旧社屋を利用して開館。僕が知ったのは昭和60年頃の新潟在住の頃で国道8号線の往復の際に立ち寄ってから、、R8の路線変更・拡幅と能越道への乗り入れで立ち退きを機に、平成7年(1995年)小松市の現在地に新しい博物館となっています。展示台数約500台、バックヤードの保管数を含めると800台以上を保有する日本最大級の私設自動車博物館です。ちなみに、保有車両の95%以上が稼働可能状態なんだそうです。 毎年11月に粟津のお客さんからの帰り道に前を通ることにしています。長らく、ご無沙汰していたのですが、久しぶりに入ろうと昨年も建物廻りを巡って、いざ入ろうとしたらお客さんにTELで呼び戻されて、断念していました。その後も何度か前を通りながら、入れずにいたので今度こそはと立ち寄りました。自動車の愛好者とトイレ便器の好事家?には、いくら長くいても飽きない世界があります。 前にゆらり人さんのブログでミゼットシリーズの作品を見て、これは今年は行かねばならないということで。。そういったら、ゆらりさんに「僕が初めて買ってもらったダットサン・サニー1000があったら撮って来て♪」と頼まれていましたから尚更。。残念ながら、ダットサンサニーは114型しかなかった上に、撮ったはず…

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東町城(神岡城) 高原郷土館

高原郷土館入口 日当たりが良いせいか、城周りの紅葉は高木は散っていましたが外堀はきれいな紅葉でした。永禄7年(1564年)武田軍の支配下に置かれた江馬氏では、降伏した江馬輝盛は当主・時盛に替わって、越中松倉城攻めや高原郷の支城整備に東奔西走しています。北信・飛騨を任された山県昌景に防御能力の弱い江馬氏館を放棄させられ、越中・高山方向からの敵に対応するために将来の統治の本拠となる東町城の築城を命ぜられています。上宝道を見下ろすようにある東町城は小高い北面と西面を断崖とした要地になります。東町城址 外堀の紅葉天正13年(1585年)飛騨を攻略した金森長近によって、小山田小十郎なる人物が城代として入って高原郷を統治したと伝わります。元和元年(1615年)一国一城令により廃城破却されています。長らく農地として荒廃していましたが遺構の空堀・石垣・曲輪跡が地表に見られたと云われますが、昭和33年(1958年)も史跡指定を受けていましたが、昭和45年(1970年)に三井金属鉱業が神岡鉱山100周年として公園化して、模擬天守・模擬城門塀を建てています。高原郷土館(城が丘公園)は東町城址の敷地上に、二の丸に鉱山資料館・旧松葉家住宅(民俗資料館)、本丸最奥の石垣基壇上に神岡城模擬天守を建てて構成されています。整備事業を受けたものの遺構は以前のまま、空堀や石垣などは以前のまま残されていたそうです。上:東町城址 外堀東側中:右:外堀西側 外堀は土橋の両側と城寄りの土壁に20~30mほどまで石垣が施され、奥に見える住宅地の…

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江馬氏館跡庭園・下館跡

飛騨はまさに山の国で戦国期には目安となる米の石高では一国で5万石に満たない国でした。しかし、山国ならではの豊富な木材と鉱山があり、白川郷の内ケ嶋氏などは豊富な金の産出で室町期の経済・文化を動かしていました。一例では足利義満の金閣寺に使われた金は内ケ嶋氏の供出したものでした。富山の役で佐々成政に味方した飛騨勢力を金森長近に討滅させながら、豊臣秀吉が黄金採掘と財力を見込んで唯一許した一族でした。高原郷の江馬氏もさらに古くから知られた神岡鉱山を持っていて大きな潜在能力を持っていました。しかし前者は、前述の許しを得た祝いの宴会の夜に、天正地震で城も人も痕跡も残さずに一夜で消滅 2010.07.18 幻の帰雲城 帰雲城~長滝後者は戦乱の中で上杉・武田・織田と巨大勢力に翻弄され消えていますが、発掘された屋敷跡が文化的に高度なことから、それなりの実力が見直されてきています。東町城址から北方向の神岡町風景画像をアップして貰うと解り易いですが、中央を流れるのが高原川。中央の西里橋を渡ると現在の神岡町の中心街になります。奥の右側の禿山が神岡鉱山の中心地で神岡鉱業があります。その向こうの水色の船津橋を渡ると国道41号線(飛騨街道)に合流します。飛騨街道は山裾にガードレールが見えますが左が古川・高山、右に富山となります。高原川による河岸段丘が天然の堀と城壁になっているのが解ります。飛騨は国司として派遣された姉小路家(小島家・古川家・向家がそれぞれ宗家を主張、小島姉小路家が本来の本家と云われています。)が土着した国司大名。…

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お礼参りに神岡へ

先々月(9月)の上旬に熊谷まで行ったんですが、車のトラブルで1時間半ほど途中でストップしたんですが、緊急事態も何とか回復して、その後は何事もなく無事に帰って来れました。ストップした原因は未だに解らないんですが、愛車のフィット君もその後も僕の酷使にめげずに走ってくれています。トラブルの時に、エンジンを止めれるようになって20分ほど冷却のつもりで、駐車したまま、真ん前にあった神社に参拝して、まさに神頼みをしたんです。 ご利益があったのか、フィット君のご機嫌も直ってエンジンも元に戻り、無事に動き始め(レッカーと代車手配のキャンセル電話をするのは恥ずかしかった^^;)、その後は新平湯迂回路や安房・上高地を横目に走る梓街道(あずさ、高山ー松本間の野麦街道と並ぶ難コース)、更には碓氷峠越えと起伏の激しい道を走り抜けて、無事熊谷に、そして帰りは雨の信越・北陸の高速道と無事に帰ってこられました。帰ってからディーラーに点検もしてもらいましたが原因も解らないまま、ともあれ神社の参拝のご利益ということで、いつかお礼参りをしたいと思っていたんです。11/3久しぶりに嫁さんを連れて紅葉見ながら、神岡までお礼参りに小矢部川下り線SA 右・芭蕉句碑 手前は安養寺集落、戦国期に西方に一向宗越中西勢力本拠地(勝興寺旧地、旧土山御坊移転地)がありました。山並みの左端が倶利伽羅峠。奥の細道では芭蕉・曾良は江戸千住から奥州・北陸道をなぞるように美濃大垣まで、5カ月で総計2400キロ余りを踏破しています。小矢部では、芭蕉が同じ墓所に眠る…

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野田山④ 加賀藩主墓所 息女たち+六男・利貞

前回は篠原家が多くなってしまいましたが、墓所としては前田利久(利家長兄、真寂院)・前田利家(高徳院)・松(芳春院)夫妻をご紹介しました。今回はこの三人を取り囲むように築かれている墓所群になります。配置図にあるように利家・松夫妻の子供たち、2代前田利長・永姫夫妻、長女・幸姫、四女・豪姫、七女・千世姫・六男・利貞になります。利貞は敷地内かという問題と墓所の規模が小さめですが、他の5人の墓所の敷地面積は地形に影響されて多少の大小はありますが、墳墓の規模や構造は共通の大きさ、高さで構成されています。前田利久・利家兄弟を除く7人の墓所位置は、逝去順もありますが、3代利常の指示によると推測されています。また利家の崖下の九女・保智姫は利長か利常の指示かは微妙な所。。戦国期の子だくさん夫婦、前田利家・松夫妻には二男・九女の実子がありますが、松が閨房を離れた30歳以降は利家は側室との間に多くの子を生しています。ちょっと長いですが、生まれ順に羅列していくと。。生母は割愛。。(他に早世、幼世で代数に入っていない人、養女は含めていません。含めると不明も多いので20~30人になってしまいます。) 続柄 諱名 院号            生年         没年      享年  墓所長女 幸  春桂院 前田長種室  永禄  2年(1559年) 元和  2年(1616年) 58歳 野田山長男 利長 瑞龍院 二代当主   永禄  5年(1562年) 慶長19年(1614年) 50歳 高岡本墓次女 蕭  瑞雲院 中川光重室 …

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野田山③ 前田利久 前田利家夫妻 篠原弥助長重

加賀藩主墓所の初めの埋葬は、家祖・前田利家の長兄・利久からと云われています。天正11年(1583年)に能登に入った前田利久は天正15年(1587年)8月に亡くなり、利久死去の報を聞いて驚き色を成した弟で家祖・利家が自ら「いづみ野迄野おくり」、を行い当時はまだ名前のなかった泉野の山頂に葬っています。慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が亡くなると、遺言により野田山の利久墓所の下段に葬らせています。この二人の埋葬と墓所の造営が野田山の藩主墓所及び野田山墓地の始まりになります。この後には3代利常の意向によって7名の墓所を同高所の一角に葬ったのが初期前田家墓所になります。 加賀藩の系譜(過去帳)によれば、草創期の前田一族の野田山被葬者(利久・利家は利家指示、蕭は利長、利長遥拝墓以降が利常指示)を羅列すると名前 読み   院号  続柄   没年年月     西暦    享年 利久 としひさ 真寂院 利家長兄 天正15年 8月 1587年  ?  (生年不詳)利家 としいえ 高徳院 初代家祖 慶長 4年閏3月 1599年 62歳?(生年不詳)蕭  しゅく  瑞雲院 利家次女 慶長 8年11月 1603年 41歳            中川光重正室利長 としなが 瑞龍院 利家嫡男 慶長19年 5月 1614年 50歳  2代拝墓保智 ほち   清妙院 利家九女 慶長19年 8月 1614年 20歳            松平信吉婚約者・篠原貞秀正室幸  こう   春桂院 利家長女 元和 2年 4月 1616…

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