江馬氏館跡庭園・下館跡

飛騨はまさに山の国で戦国期には目安となる米の石高では一国で5万石に満たない国でした。しかし、山国ならではの豊富な木材と鉱山があり、白川郷の内ケ嶋氏などは豊富な金の産出で室町期の経済・文化を動かしていました。一例では足利義満の金閣寺に使われた金は内ケ嶋氏の供出したものでした。富山の役で佐々成政に味方した飛騨勢力を金森長近に討滅させながら、豊臣秀吉が黄金採掘と財力を見込んで唯一許した一族でした。高原郷の江馬氏もさらに古くから知られた神岡鉱山を持っていて大きな潜在能力を持っていました。しかし前者は、前述の許しを得た祝いの宴会の夜に、天正地震で城も人も痕跡も残さずに一夜で消滅 2010.07.18 幻の帰雲城 帰雲城~長滝後者は戦乱の中で上杉・武田・織田と巨大勢力に翻弄され消えていますが、発掘された屋敷跡が文化的に高度なことから、それなりの実力が見直されてきています。東町城址から北方向の神岡町風景画像をアップして貰うと解り易いですが、中央を流れるのが高原川。中央の西里橋を渡ると現在の神岡町の中心街になります。奥の右側の禿山が神岡鉱山の中心地で神岡鉱業があります。その向こうの水色の船津橋を渡ると国道41号線(飛騨街道)に合流します。飛騨街道は山裾にガードレールが見えますが左が古川・高山、右に富山となります。高原川による河岸段丘が天然の堀と城壁になっているのが解ります。飛騨は国司として派遣された姉小路家(小島家・古川家・向家がそれぞれ宗家を主張、小島姉小路家が本来の本家と云われています。)が土着した国司大名。…

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お礼参りに神岡へ

先々月(9月)の上旬に熊谷まで行ったんですが、車のトラブルで1時間半ほど途中でストップしたんですが、緊急事態も何とか回復して、その後は何事もなく無事に帰って来れました。ストップした原因は未だに解らないんですが、愛車のフィット君もその後も僕の酷使にめげずに走ってくれています。トラブルの時に、エンジンを止めれるようになって20分ほど冷却のつもりで、駐車したまま、真ん前にあった神社に参拝して、まさに神頼みをしたんです。 ご利益があったのか、フィット君のご機嫌も直ってエンジンも元に戻り、無事に動き始め(レッカーと代車手配のキャンセル電話をするのは恥ずかしかった^^;)、その後は新平湯迂回路や安房・上高地を横目に走る梓街道(あずさ、高山ー松本間の野麦街道と並ぶ難コース)、更には碓氷峠越えと起伏の激しい道を走り抜けて、無事熊谷に、そして帰りは雨の信越・北陸の高速道と無事に帰ってこられました。帰ってからディーラーに点検もしてもらいましたが原因も解らないまま、ともあれ神社の参拝のご利益ということで、いつかお礼参りをしたいと思っていたんです。11/3久しぶりに嫁さんを連れて紅葉見ながら、神岡までお礼参りに小矢部川下り線SA 右・芭蕉句碑 手前は安養寺集落、戦国期に西方に一向宗越中西勢力本拠地(勝興寺旧地、旧土山御坊移転地)がありました。山並みの左端が倶利伽羅峠。奥の細道では芭蕉・曾良は江戸千住から奥州・北陸道をなぞるように美濃大垣まで、5カ月で総計2400キロ余りを踏破しています。小矢部では、芭蕉が同じ墓所に眠る…

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野田山④ 加賀藩主墓所 息女たち+六男・利貞

前回は篠原家が多くなってしまいましたが、墓所としては前田利久(利家長兄、真寂院)・前田利家(高徳院)・松(芳春院)夫妻をご紹介しました。今回はこの三人を取り囲むように築かれている墓所群になります。配置図にあるように利家・松夫妻の子供たち、2代前田利長・永姫夫妻、長女・幸姫、四女・豪姫、七女・千世姫・六男・利貞になります。利貞は敷地内かという問題と墓所の規模が小さめですが、他の5人の墓所の敷地面積は地形に影響されて多少の大小はありますが、墳墓の規模や構造は共通の大きさ、高さで構成されています。前田利久・利家兄弟を除く7人の墓所位置は、逝去順もありますが、3代利常の指示によると推測されています。また利家の崖下の九女・保智姫は利長か利常の指示かは微妙な所。。戦国期の子だくさん夫婦、前田利家・松夫妻には二男・九女の実子がありますが、松が閨房を離れた30歳以降は利家は側室との間に多くの子を生しています。ちょっと長いですが、生まれ順に羅列していくと。。生母は割愛。。(他に早世、幼世で代数に入っていない人、養女は含めていません。含めると不明も多いので20~30人になってしまいます。) 続柄 諱名 院号            生年         没年      享年  墓所長女 幸  春桂院 前田長種室  永禄  2年(1559年) 元和  2年(1616年) 58歳 野田山長男 利長 瑞龍院 二代当主   永禄  5年(1562年) 慶長19年(1614年) 50歳 高岡本墓次女 蕭  瑞雲院 中川光重室 …

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野田山③ 前田利久 前田利家夫妻 篠原弥助長重

加賀藩主墓所の初めの埋葬は、家祖・前田利家の長兄・利久からと云われています。天正11年(1583年)に能登に入った前田利久は天正15年(1587年)8月に亡くなり、利久死去の報を聞いて驚き色を成した弟で家祖・利家が自ら「いづみ野迄野おくり」、を行い当時はまだ名前のなかった泉野の山頂に葬っています。慶長4年(1599年)閏3月に前田利家が亡くなると、遺言により野田山の利久墓所の下段に葬らせています。この二人の埋葬と墓所の造営が野田山の藩主墓所及び野田山墓地の始まりになります。この後には3代利常の意向によって7名の墓所を同高所の一角に葬ったのが初期前田家墓所になります。 加賀藩の系譜(過去帳)によれば、草創期の前田一族の野田山被葬者(利久・利家は利家指示、蕭は利長、利長遥拝墓以降が利常指示)を羅列すると名前 読み   院号  続柄   没年年月     西暦    享年 利久 としひさ 真寂院 利家長兄 天正15年 8月 1587年  ?  (生年不詳)利家 としいえ 高徳院 初代家祖 慶長 4年閏3月 1599年 62歳?(生年不詳)蕭  しゅく  瑞雲院 利家次女 慶長 8年11月 1603年 41歳            中川光重正室利長 としなが 瑞龍院 利家嫡男 慶長19年 5月 1614年 50歳  2代拝墓保智 ほち   清妙院 利家九女 慶長19年 8月 1614年 20歳            松平信吉婚約者・篠原貞秀正室幸  こう   春桂院 利家長女 元和 2年 4月 1616…

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野田山② 村井長頼・奥村永福 利家の両輪

野田山加賀藩主墓所から金沢市街 中央の大きなベージュの建物は金沢大学付属病院、その左端裏が菩提寺の宝円寺、右端手前が天徳院になります。その後ろの山稜は卯辰山稜、山稜の左端手前が金沢城になります。前田利家の墓所は金沢城本丸から南東の方角(辰巳の方角)で、鬼門(北東)に次ぐ不吉な方角と重視していた方角です。鬼門には利家の霊を祀った卯辰八幡宮(現宇多須神社)。重要方向に家祖・前田利家を祀っていたわけです。また、裏鬼門(南西)には小松天守台を3代・利常が築いていました。手前の大きなグラウンドは陸上自衛隊金沢駐屯地。今年の2月にはじっこだけの画像に、長々と説明を加えた加賀藩主墓所。今回は初期の主要墓所群を訪れてきました。今回は久しぶりに駐車場まで来ました。墓所までは狭い道を通らねばなりませんが、駐車場は広々としています。いつも平日に来ると寂しいくらいに誰もおらず静かな場所です。駐車場は前田利家の眠る墓所からはちょうど真下の下段に当たり、利家の目線と同じく金沢の城下町が一望に出来る位置になります。2020.01.18撮影 藩主墓所表参道石段 起点江戸時代は前回紹介した表参道入口からひたすら登り続け、最後に長く急な石段を登ることになります。右の画像は表参道の石段となる前田家墓所の玄関口になります。藩祖・前田利家の正室・松(芳春院)は慶長19年(1614年)に長い人質生活から解放され金沢に戻っていますが、晩年には足腰の衰えでこの石段を登ることが出来ず、麓の墓守寺に利家の遥拝墓を建て墓参としていました。その長い石段…

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斉藤実盛伝承地と鏡の池

2020.09.02 聖天山歓喜天境内(埼玉県熊谷市妻沼) 前回、聖天山歓喜天聖天堂について書きましたが、今回はその開創者となった長井の庄の司・斎藤別当実盛が最後の夜に髪と髭を墨で染めたと伝わる伝承地「鏡の池」 2013.04.22 多太神社表参道 斎藤実盛像これまでにも斉藤実盛については悲劇の武将として幾つか旧跡を紹介していましたが、画像を撮ったものの伝承地の弱さと余りに小さな池でアップし損ねていた「鏡の池」を遅ればせながら、5年前のものですが。。やはり斎藤実盛の伝承地としては外せない地ですから 他に斎藤実盛の伝承地は幾つかアップしています。興味のある方はどうぞ・・・2012.04.07 実盛塚・篠原古戦場2012.04.07 首洗い池(手塚山・兜の宮)2013.04.22 多太神社 少し長いですが、平家物語における斎藤別当実盛の篠原合戦の登場部の引用です。源平盛衰記にも同じ場面があり結末も同じですが、だいぶ描写が違っています。できれば両方読んでもらった方がお薦めです。平家物語と源平盛衰記は似た部分が多いのですが、表現や描写・記述が違っています。ご存知のように平家物語は琵琶法師によって語り繋がれてきたものです。それを口述筆記としてまとめられたもので語り物と呼ばれるものです。源平盛衰記は平家物語から派生したと思われますが(源平盛衰記が先という説あり)、改めて読み物・記録として書き直されたものと思われます。共にその後の書写で誤ったり、変更されて別物になってきたようですが。。。古事記と日本書紀の…

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妻沼(めぬま)聖天山・歓喜院(かんぎいん)本坊

葬儀や火葬と大伯母を見送ったのが午後4時過ぎ~~丸二日近く寝てないから途中から瞼が落ちそうに==とろ~~ん従兄弟やその他の顔見知りと少し会話して。。それにしてもみんなマスク姿なので顔が解らなくて、親しげに話しかけられても貴方・貴女はだ~れになっちゃいますねえ^^;なかなか面と向かって「あなたは誰ですか??」とは聞きづらいですもん^^;なかには「つとおじちゃん^^/」と可愛く声を掛けて来てくれた綺麗な女性にドギマギしたら、後から妹に「てるちゃん(従姉)の娘だよ」と教えられ、「え~~」最後にあったのは小学校の2.3年生以来、嫁さんと結婚する挨拶に大伯母の家に行ってあって以来だから、ん?ということは40歳@@「そうだよ、ついこないだ誕生日、私も歳とったあ^^V」 40には、み、見えない、娘より若く見える、、二度ビックリ@@そのお母さんも従兄弟の中では一番年上だけど20は若く見える、大伯母そっくりの性格^^血は争えぬ@@ と、しみじみ。。そうみると我が家系の女性陣はみんなハツラツ、男たちがしょぼくれてみんな頭が上がらないわけだ。。 見送られて会場を出て広い駐車場の片隅で、礼服やシャツネクタイを脱いでドライバーに戻るためにジーパン姿に変身。着替えている間に、みんな帰ってしまった後。。さて僕も帰るか。。とはいえ今からトンボ帰りでも家には午前様。。どうせ午前様なら1時間ほど寄り道してみるかと向かった先は妻沼聖天山。 若かりし頃に一二度見ていましたが、当時は建物も塗装が剥がれ剥げ禿…

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江馬白山神社 (カミオカラボ向かい)

8月末 昨昨年から体調を崩していると聞いていた大伯母が98歳で亡くなりました。僕には数少ない親戚筋の中でも一番頭のあがらない伯母だったのですが、昨年声を聴いたときにも相変わらず明るい声だったんですが。。最後に一目ぐらいということで、葬儀に行くということで、久しぶりに国道41号から飛騨越えで旧中山道経由で熊谷まで行くことにしました。 それなりに余裕をもって出発したのですが、いつもの国道359号からでなく国道8号から国道41号線と迂回して行ったのでいつもより手間取ってしまいました。山岳道路となる越中から飛騨越えの高原川沿いに41号から471号と進むのですが、この辺りから今回の道の選択に少し後悔が、すっかり失念していたのですが、岐阜から長野にかけては今年の梅雨に集中豪雨で崖崩れや道路の崩落が頻発していたために、道路の整備工事が多く片側通行でなんども停車することに。。速度も乗らないために前後にトレーラーに挟まれて走る緊張状態。。神岡町に入って、前の車が居なくなってアクセルを踏み込んだ途端、緊急事態 いきなり警告ランプとエンジンの異音が発生 慌ててハザード点けて道路の端に車を寄せて停車したのですが、後ろのトレーラーも慌てて避けて行きました。。車のトラブルは久しぶりだなあと、まだのんびり気味の僕は車のマニュアルをペラペラ・・排気系の過熱状態の警告で10分ほどエンジンを切って様子を見ろ、それでダメならディーラーまでというマニュア…

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安産(やすまる)日吉神社

安産日吉神社 白山市平加町鎮座、拝殿は平成12年(2000年)に大改築。参道沿いに狛犬が3対、灯篭が多いなど寄進物が多いのが特徴白山市を構成する平成の合併の際の旧市町村(松任市・鶴来町・美川町・河内村・鳥越村・吉野谷村・尾口村・白峰村)の一角を占める美川町。歴史を振り返ると古代には比楽河(ひらか・ひらかわ、手取川の先名称)の河口に比楽湊と呼ばれた港と駅が置かれたとされています。古代から明治にかけて手取川河口は重要港湾として知られた村でした。室町時代に編された廻船式目に記された十大港湾とされた三津七港の一つ・本吉湊を持つ本吉村となっていました。 三津七湊(さんしんななそう・ななみなと)は室町期に十大港湾都市とされた地を云います。三津は湾の交易都市で、安濃津(あのつ・伊勢、津市)・博多津(筑前、福岡市)・堺津(摂津和泉、堺市)、中国(明)書では坊津(薩摩川辺、南さつま市)が加わります。七湊は河口を港とした港湾都市で、三国湊(越前坂井、九頭竜川河口)・本吉湊(比楽湊)(加賀本吉、手取川河口)・輪島湊(能登鳳至、河原田川河口)・岩瀬湊(越中新川、神通川河口)・今町湊(直江津)(越後頚城、関川河口)・土崎湊(秋田湊)(出羽秋田、雄物川河口)・十三湊(陸奥津軽、岩木川河口) 明治2年(1869年)に石川郡本吉町と手取川対岸の能美郡湊村が合併し美川町となりましたが、わずか2年で分離して美川町と湊村に分かれています。明治5年(1872年)に廃藩置県で金沢藩が消滅し、美川町に県庁が置かれ石川郡の名から石川県とな…

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玉泉院丸庭園② 借景の石垣群

色紙短冊積石垣 玉泉院丸庭園北東面の借景。色違い・大きさの異なる石を組合せて積み上げた石垣。色も青・赤戸室石、そして黒は藩主親族のみの使用に限定された坪野石が使われています。綱紀時代に製作されたと予想されていますが、利常が築城した小松城天守台の石垣にも使用されており、鵜川石も使用され5色遣いでした。小松城石垣を手本にしています。段落ちの滝の水源にもなっていました。右上部に水口のような蛇口があり、水を落としていました。滝つぼと呼ばれる水の落ち口には玉石が敷かれていました。残念ながら水源がないために水落の再現はなされていません。惜しい。。元和9年(1623年)玉泉院が逝去し屋敷が撤去され、玉泉院丸と呼称されてから10年ほど後、寛永8年(1631年)加賀藩政期における四大火のひとつ寛永の大火が起きます。金沢城外南西部から出火した火事が強風であっという間に金沢城や金沢市街地を嘗め尽くしました。当時、金沢城内には水の手が少なく、堀も空堀に近いものだったと云われます。金沢城内の本丸の辰巳櫓が類焼、燃えるに任せたまま更に二の丸・三の丸と惨状を拡大して、中心部にかけて石垣も含め家臣屋敷も焼き尽くす大火となっていました。 火事の原因が藩士による色恋沙汰の放火ということも加わって、前田利常は家臣団の組織変更を含め、金沢城や城下町の町割り編成など大胆な修理と変更を加えています。特に本丸に天守替わりだった辰巳櫓を失ったことは大きく、本丸を放棄して政庁を移すために二の丸を拡大、二の丸と三の丸の間を整地して堀を北上させて4…

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玉泉院丸庭園① 玉泉院(永姫)

鼠多門を潜って石段を登ると広がるのが玉泉院丸庭園。江戸期に存在した殿様のプライベート空間の大名庭園を復元再現したものになります。玉泉院丸庭園 北西側遊歩道 右の建物は玉泉庵、中央上部石垣上に見えるのは三十間長屋。ちなみに玉泉庵は緑茶と上生菓子を呈茶(730円)する観光施設で茶室や休憩室から庭園を一望できます。藩政期には露地役所(庭園の整備管理をする役所)が置かれた場所でした。三十間長屋は安政5年(1858年)築造の多門櫓で石川門・鶴丸倉庫と藩政期の建築物として国重文。玉泉院丸案内図(石川県HPより、上が東、下が西、右が南、左が北) 玉泉院丸庭園 北側水路船溜まり 上:紅葉橋址 右:北石垣沿い水路跡様々な古図などによれば、往時の泉水は倍近くの大きさがあり、右の三の島から玉泉院丸口まで東西の谷間を縫うように泉水があり、玉泉院丸を囲むような内堀(宮守(いもり)堀から揚水を行っていました。南側水路を暗渠にしたのは幕末の13代斉泰が唐傘亭を築いた頃と推定されます。逆に北側は象の鼻先のような船着場から北に石垣群に沿うように水路があり橋を潜って船上から石垣群を見られるようにしていました。北水路は前回紹介した丸の内園地の内堀手前までで、そこから内堀に排水していました。 天正11年(1583年)の前田利家の金沢入城から江戸初期にかけては西の丸の一部としての扱いでした。寛永の大火以前は、藩主及び家族は本丸御殿、利長が建てた鶴の丸別邸が藩主の住まい&政庁として使用され、家臣団は本丸以外の城内に住居していたのですが、二…

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金沢城 鼠多門・鼠多門橋

尾山神社がある旧金谷出丸と金沢城の外丸の玉泉院丸を連結していた鼠多門橋。そして出入口となっていた鼠多門の復元が完成しました。鼠多門・鼠多門橋 同じく石垣を復元した北櫓跡から 往時は橋の幅いっぱいに堀となっていました。鼠多門は明治の写真2枚と遺構調査により忠実に再現されています。石垣部も残存石と3D加工石を組合せ、建物も釘を使わない伝統工法と、古式と現代建築の融合物です。橋は明治の老朽撤去の桁礎石を採用しています。当初の計画では年末完成予定でしたが、東京五輪の開催に合わせた完成に修正していましたが、予定通り7月初旬に完成しました。この完成によって金沢の顔となっている尾山神社から金沢城公園へ直接入れるようになりました。新しい観光コースと期待されています。7/18に一般公開と共に尾山神社・金沢城公園の共用が開始されたんですが、もう一つの朗報が外丸となる玉泉院丸庭園が無料開放になったこと^^国立工芸館正門&連結廊下上:旧陸軍金沢偕行社(明治42年(1909)築) 右:旧陸軍第九師団司令部庁舎(明治31年(1898)築)以前までの建物を知るせいで、あまりの綺麗な色目に驚き@@ 移築時の調査で判明した新築時の色に塗り直したそうです。もう一つ目玉となる東京国立近代美術館工芸館が金沢に移転する国立工芸館も、旧第九師団司令部庁舎と旧金沢偕行社の建物を移築改造して昨年秋には完成、建物および館内の完熟期間も終えて展示品が東京から搬入、ただ開館はコロナ対策もあって10月31日に延期となっています。それでも現在は目隠しとな…

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下柏野 楢本神社

加賀国石川郡の式内社10座の中で現在、場所はともかく由緒を伝える確定的な神社(式内社)は6座、幾つかの候補神社がある式内論社(比定論社)3座、行方不明が1座※式内社 ・・・白山比咩神社・本村井神社・額東神社・額西神社・佐奇神社・笠間神社※式内論社・・・御馬神社・楢本神社・神田神社※行方不明・・・味知神社となります。ちなみに行方不明の味知神社は創始の本宮の所在地自体が不明で、由緒や分霊を伝える神社として安江住吉神社・味知郷神社が候補として比定されています。下柏野楢本神社 表参道入口 道路は旧北国街道で左(北東)に200mほどで柏野宿、右(南西)に4.5キロほどで手取渡し場下柏野楢本神社標柱日露戦捷記念の記があるので明治37年(1905年)以降の建立 今回の楢本神社にしても、社殿が洪水で流されて本宮が消滅したと伝わっています。往時は手取川本流はこの辺りを流れていたために幾度も遷座分霊を繰り返したと云われます。また町村の集落にしても離合集散を繰り返したと云われます。このために、柏野・宮丸地区のどこかとされる楢本神社本宮の跡地も後継の所在も明確には解らなくなっています。 楢本神社の分霊遷座を受けた、社殿が流れ着いた地などと伝承する三つの神社(上柏野・下柏野・宮丸)が論社になっています。三社ともに名前は楢本神社なのですが、区別するために地区名を記させてもらっています。ちなみに当ブログではすでに二つの楢本神社を紹介しています。⇒ 2014.08.20 上柏野・宮丸 楢本神社下柏野楢本神社 一の鳥居 昭和3年…

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大日川ダム

大日川ダム周辺略図 道路は略図ではどれも同じ幅ですが、実は起伏はあるは車一台がやっとの道も多くあるのでご注意をダムにある地図看板ですがけっこう古いものです。鳥越高原大日スキー場は平成19年(2007年)に名称変更で鳥越大日スポーツランドになったんですが、平成24年にスキー場が閉鎖・廃業しています。現在は広い駐車場を利用したジムカーナや自動車練習・競技会場、阿手町の催物会場になっています。他はいずれも健在ですが白山スーパー林道は平成27年(2015年)に名称が「白山白川郷ホワイトロード」に変更されています。今年は崩落もあって、岐阜側は無料区間と有料区間の三方岩駐車場まで開通していますが、その先の有料区間および石川側の無料区間は通行止めになっています。来年は開通できるそうです。 赤瀬ダム・赤瀬湖を右に観ながら大杉谷川に沿った道(県道43号)を15~20キロほど進み、牛ヶ首峠(地図では丸山)を左折して大日川に沿って10キロほど進むと大日川ダムになります。野性の証明での車の引き上げシーンは赤瀬ダムと云われていますが、僕には車の走行シーンは大日湖東岸道路、引き上げは日川ダムの西側角地に思えました。大日川ダム湖 東側道路から、この道は車幅が狭いので、映画のように転落注意大日川は総延長34.9キロ、石川・福井の県境付近の大日山(1368m)を源にしています。ちなみに大日山は河南三山(江沼三山、鞍掛山・富士写ヶ岳・大日山)に数えられ修験道のメッカでした。古くから大日如来を祀る山として信奉されてきました。また山稜…

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赤瀬ダム

昭和53年(1978年)公開 野性の証明 監督:佐藤順彌 原作:森村誠一 主演・出演:高倉健・薬師丸ひろ子、中野良子他 音楽:大野雄二主題歌:町田義人「戦士の休息」1970年後半から80年まで、大作を輩出した角川映画の初期に、人間の証明に続く森村誠一原作の第二作として公開された作品になります。 「あらすじ」(Wikより、ねたばれあり)・・・1980年5月のある日、反政府ゲリラの一団がアメリカ大使と家族全員を人質にとって立て籠もり事件を起こした。県警の救出作戦は失敗し、人質の命に危険が迫る中、政府首脳は秘密裏に陸上自衛隊に出動を命じる。味沢岳史一等陸曹(高倉健)を含む突入部隊は犯人たちを全員殺害し、人質を救出した後、素早く現場を立ち去った。 味沢が所属する部隊は、極秘裏に編成された精強の特殊部隊「特殊工作隊」だった。事件後、味沢たちの部隊は訓練の一環として北上山地の原生林の中に一人ずつヘリから下ろされ、目的地まで自力で辿り着くよう命令される。訓練は精神異常をきたす隊員や行方不明者がでるなど過酷を極め、味沢も疲労困憊して登山道に滑落したところを通りかかった女性登山者・越智美佐子(中野良子)に発見される。美佐子は近くの部落(架空・風洞集落)に助けを求めに走ったが、味沢は訓練中民間人との接触を厳禁されていたため、その場を離れた。しかし味沢が向かった先は美佐子が向かった部落だった。部落では、住人の長井孫一(江角英明)が発狂し手斧で次々に村人を殺していた。美佐子も長井に殺されてしまう。長井は最後に自分の娘…

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日用・苔の里②

日用苔の里案内図 ちょっと今回用に地点A~Fと経路を書き込みました。参考にしてください。         A 旧家庭園 西部                                           A 通路途中の灯篭A 旧家庭園 東部訪れたのが真昼間で天気が良すぎて、日差しがまぶしくて苔の緑が白っぽく見える部分もあります。旧家の庭園を観て道路を横断すると、日用神社の参道の入り口になります。B. 日用神社は明治以前まで日用村の産土神となっていましたが、明治末期の神社習合政策で粟津温泉北東部の井ノ口村八幡神社に合祀合併され、長らく神社のない村になっていました。昭和20年(1945年)に独立社として復帰した神社になります。神仏習合政策で神社の合祀合併が多く行われていますが、正式に独立復帰した神社は少なく貴重な存在です。主祭神は、伊弉諾命(いざなぎ)・伊弉冉命(いざなみ)・菊理媛命。本来の祭神は菊理媛ですから白山神社系になりますね。日用神社 上:二の鳥居 左下:一の鳥居 下:狛犬 狛犬は大正15年寄進銘、由来文の通り神社の消滅時代、井ノ口八幡神社時代のものを移したと思われます。 苔も植物ですから光合成のためにも光は必要ですが、直射日光を浴びすぎると乾燥から自身を守るために殻を被ってしまいます。道路側の整備された苔山付近は直射日光が当たるので午前中や雨降り後が合いますねえ。。少し茶色が目立って残念でした。。D眞子内親王歌碑   広がりし 苔の緑の やはらかく 人々のこめし 思ひ伝わる平成27年…

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日用(ひよ)・苔の里①

日用苔の里で買ってきた苔鉢 売店の方から栽培の際に、一度沸騰させた水か、雨の日に外に出して濡れさせてと念押しされていました。2日目に触覚みたいな芽が出て来たと嫁さんが喜んでました^^金1000円也^^V ちなみに水道水にはカルキや塩素があるので厳禁久しぶりに完全休養日が重なった嫁さんと僕。。さてどこか行こうということになったのですが、なかなか場所が思いつきません。なにせ、僕に完全委任するととんでもない山奥や遠くまで連れていかれると警戒する嫁さん。そこで思いついたのが、2.3日前に枯らしてしまったと嘆いていた器に入った苔の置物、あれほど水道水をそのままあげちゃだめだと云ったのに、やっちゃったみたいなんです。。なら、新しいのを仕入れに行こうといったら、えっ?どこどこ。。小松の日用だよ。前(2年前)のもそこで買って来たんだもんバス停「日用苔の里」 循環バス(小松バス)はありますが、土日祝日のみ運行で、小松駅発[粟津温泉経由]10:00(11:00着)、日用苔の里14:55(15:41小松駅)しかないのでご注意をいつも自力で名所や旧跡を探してくる僕なのですが、今回の日用町(ひよまち)の苔の里はご近所ブロガーのgoさんに以前に教えてもらった所なんです。小松でも奥秘境とも云える大杉谷の入り口に当たる場所、山里や草木そして山だけでなく渓流に詳しいgoさんならではの場所なんです。日用町自体は昔から場所は知っていましたが、こんな素晴らしい名所とは知らずに、いつも通り過ぎていた僕の盲点でもありました。 元々、石川県…

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おしらせ

続きを書こうとしたら、PCが壊れて修理依頼をして来ようと思っているんですが、もし駄目だったらまたしてもソフトの入れ替えやインストール、仕事に支障をきたしそうどころかもう支障を来しています。急ぎ仕事が詰まっているのにTT ついつい仕事もバックアップサボってたのが悪かった。。そうなるとまた更新が滞るかも。。 一応この文は物置にしまい込んでいた前の先代ダイナ君で書いてますが、とにかく反応が悪いは遅いわ、皆さんの記事に気持ち玉やコメント書き込みができない、記事を書くと画像挿入も反転するし。。そもそも、一度画面がピンクとグリーンになった前科持ちの先代なので、簡単修理で治まってくれるのを期待しています。。。でも。結局修理できるかもわからずで、メーカー送りで10~14日ほどかかるそうで、しばらくアップや訪問が滞りそうです。 しばらくご迷惑をかけると思います。申し訳ありません。 次回は日用苔の里の予定です。

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金沢南総合運動公園バラ園 雨の残り花

今年はどうも花の盛りに、花の名所を訪れるというのが、なかなかできずに盛りが過ぎてから通るという、どうもタイミング自体にも恵まれていませんでした。しかも、残った花を見ようとすると天候に恵まれないというのが続いています。金沢南総合運動公園 緑地広場バラ園への道金沢のバラの名所と云われるのが、今回の金沢南総合運動公園にあるバラ園になります。今年は残念ながら見頃の4.5月は入園禁止の閉園状態で入れず、解禁となった6/1には、新聞に画像が載って最後の見頃にどっと人が集まっていたようです。どうも人が多いのを避ける僕としては今年は諦めていたのですが、たまたまこの日真ん前を通ったら、雨降りということもあって駐車場もがら空きで、ちょっと寄り道をしてみる気になったんです。駐車場に着いたときには雨が強く降ってきてあちゃ~~~っと思っていたんですが、バラ園に向かう頃には小雨に。。噴水園地ちなみに金沢南総合運動公園は、皇太子(昭和天皇)成婚記念事業として、大正14年(1925年)に完成した400mトラックを持つ多目的(野球・テニス・バスケット)運動場として造られた金沢市公設運動場が創始になります。昭和22年(1947年)第2回国民体育大会(国体)の為に、主会場・陸上競技場に改修。 昭和33年(1958年)サブグラウンド(球技場)・屋内外プール施設(金沢市総合プール)更にバラ園を含めた緑地公園を整備、面積も2倍となって完成させて都市計画金沢総合運動公園となっています。 平成2年(1990年)に金沢北部に城北市民運動公園が…

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犀川・犀川神社

金沢の城下町を形作っているのが、犀川と浅野川になります。この二つの河川に囲まれたのが金沢の城下町になります。対照的な流れとして優美な流れの浅野川は女川(雌川)。雄々しい流れの犀川は男川(雄川)、雅名・菊水川と呼ばれて、金沢の様々な景観や産業、生活に根付いています。水源の両白山地からの雪解け水、いつ開けるか解らない梅雨、「弁当忘れても、傘忘れるな」という言葉があるほど、県庁所在地では高知と全国一位を争うほどの降水量、雨の多い金沢という土地柄から、何時も水量豊かな川と用水路の流れをもたらしてくれています。水不足を知らない土地柄として恵まれています。犀川 犀川緑地から上流方向ところが、今年は暖冬で上流部も雪なし状態で雪解け水が少なく、春は例年の1/3と云われるほど雨が少なかったこともあって、極端に川の水量が少なく、少し寂しいものがありました。ちょうど、今の時期には犀川では鮎が産卵のために溯上を始めているのですが、あまりに川水が少なく川底が浅くなったために上流に遡上できないという異常事態で、ついに水量調整で上流貯水を増やし放流が計画されています。というわけで、普段なら水量豊かな川が流れているのですが、水の少ない画像で申し訳ありません。 北陸特有の高所から低地に流れる短い河川から過去には何度も水害をもたらしてきました。有名なものでは大正11年(1922年)大雨で浅野川・犀川が氾濫、両川の橋が天神橋を除き全て流出、犀川大橋は流木などで危険性を増し、繁華街も浸水し、…

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