日用(ひよ)・苔の里①

日用苔の里で買ってきた苔鉢 売店の方から栽培の際に、一度沸騰させた水か、雨の日に外に出して濡れさせてと念押しされていました。2日目に触覚みたいな芽が出て来たと嫁さんが喜んでました^^金1000円也^^V ちなみに水道水にはカルキや塩素があるので厳禁久しぶりに完全休養日が重なった嫁さんと僕。。さてどこか行こうということになったのですが、なかなか場所が思いつきません。なにせ、僕に完全委任するととんでもない山奥や遠くまで連れていかれると警戒する嫁さん。そこで思いついたのが、2.3日前に枯らしてしまったと嘆いていた器に入った苔の置物、あれほど水道水をそのままあげちゃだめだと云ったのに、やっちゃったみたいなんです。。なら、新しいのを仕入れに行こうといったら、えっ?どこどこ。。小松の日用だよ。前(2年前)のもそこで買って来たんだもんバス停「日用苔の里」 循環バス(小松バス)はありますが、土日祝日のみ運行で、小松駅発[粟津温泉経由]10:00(11:00着)、日用苔の里14:55(15:41小松駅)しかないのでご注意をいつも自力で名所や旧跡を探してくる僕なのですが、今回の日用町(ひよまち)の苔の里はご近所ブロガーのgoさんに以前に教えてもらった所なんです。小松でも奥秘境とも云える大杉谷の入り口に当たる場所、山里や草木そして山だけでなく渓流に詳しいgoさんならではの場所なんです。日用町自体は昔から場所は知っていましたが、こんな素晴らしい名所とは知らずに、いつも通り過ぎていた僕の盲点でもありました。 元々、石川県…

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おしらせ

続きを書こうとしたら、PCが壊れて修理依頼をして来ようと思っているんですが、もし駄目だったらまたしてもソフトの入れ替えやインストール、仕事に支障をきたしそうどころかもう支障を来しています。急ぎ仕事が詰まっているのにTT ついつい仕事もバックアップサボってたのが悪かった。。そうなるとまた更新が滞るかも。。 一応この文は物置にしまい込んでいた前の先代ダイナ君で書いてますが、とにかく反応が悪いは遅いわ、皆さんの記事に気持ち玉やコメント書き込みができない、記事を書くと画像挿入も反転するし。。そもそも、一度画面がピンクとグリーンになった前科持ちの先代なので、簡単修理で治まってくれるのを期待しています。。。でも。結局修理できるかもわからずで、メーカー送りで10~14日ほどかかるそうで、しばらくアップや訪問が滞りそうです。 しばらくご迷惑をかけると思います。申し訳ありません。 次回は日用苔の里の予定です。

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金沢南総合運動公園バラ園 雨の残り花

今年はどうも花の盛りに、花の名所を訪れるというのが、なかなかできずに盛りが過ぎてから通るという、どうもタイミング自体にも恵まれていませんでした。しかも、残った花を見ようとすると天候に恵まれないというのが続いています。金沢南総合運動公園 緑地広場バラ園への道金沢のバラの名所と云われるのが、今回の金沢南総合運動公園にあるバラ園になります。今年は残念ながら見頃の4.5月は入園禁止の閉園状態で入れず、解禁となった6/1には、新聞に画像が載って最後の見頃にどっと人が集まっていたようです。どうも人が多いのを避ける僕としては今年は諦めていたのですが、たまたまこの日真ん前を通ったら、雨降りということもあって駐車場もがら空きで、ちょっと寄り道をしてみる気になったんです。駐車場に着いたときには雨が強く降ってきてあちゃ~~~っと思っていたんですが、バラ園に向かう頃には小雨に。。噴水園地ちなみに金沢南総合運動公園は、皇太子(昭和天皇)成婚記念事業として、大正14年(1925年)に完成した400mトラックを持つ多目的(野球・テニス・バスケット)運動場として造られた金沢市公設運動場が創始になります。昭和22年(1947年)第2回国民体育大会(国体)の為に、主会場・陸上競技場に改修。 昭和33年(1958年)サブグラウンド(球技場)・屋内外プール施設(金沢市総合プール)更にバラ園を含めた緑地公園を整備、面積も2倍となって完成させて都市計画金沢総合運動公園となっています。 平成2年(1990年)に金沢北部に城北市民運動公園が…

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犀川・犀川神社

金沢の城下町を形作っているのが、犀川と浅野川になります。この二つの河川に囲まれたのが金沢の城下町になります。対照的な流れとして優美な流れの浅野川は女川(雌川)。雄々しい流れの犀川は男川(雄川)、雅名・菊水川と呼ばれて、金沢の様々な景観や産業、生活に根付いています。水源の両白山地からの雪解け水、いつ開けるか解らない梅雨、「弁当忘れても、傘忘れるな」という言葉があるほど、県庁所在地では高知と全国一位を争うほどの降水量、雨の多い金沢という土地柄から、何時も水量豊かな川と用水路の流れをもたらしてくれています。水不足を知らない土地柄として恵まれています。犀川 犀川緑地から上流方向ところが、今年は暖冬で上流部も雪なし状態で雪解け水が少なく、春は例年の1/3と云われるほど雨が少なかったこともあって、極端に川の水量が少なく、少し寂しいものがありました。ちょうど、今の時期には犀川では鮎が産卵のために溯上を始めているのですが、あまりに川水が少なく川底が浅くなったために上流に遡上できないという異常事態で、ついに水量調整で上流貯水を増やし放流が計画されています。というわけで、普段なら水量豊かな川が流れているのですが、水の少ない画像で申し訳ありません。 北陸特有の高所から低地に流れる短い河川から過去には何度も水害をもたらしてきました。有名なものでは大正11年(1922年)大雨で浅野川・犀川が氾濫、両川の橋が天神橋を除き全て流出、犀川大橋は流木などで危険性を増し、繁華街も浸水し、…

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式内論社 神田神社

式内論社 神田神社 表参道東向きに神社の本殿が建っています。古くは拝殿・本殿裏に参道があり、南向きになっていたようです。右の道は安吉に向かう道路。前回も少し触れましたが神田神社は白山市吉田町にある神社になります。旧松任市の中でも最大の田園地帯の山島郷(林郷)にある集落の神社になります。 山島郷は手取川の北岸に位置して能美市と並ぶ手取川によって出来た扇状地の広い平原地帯で、古くから屈指の広さを誇る加賀平野の穀倉地帯として加賀を支えてきた地になります。手取川の氾濫によるために高台になる島の名を持つ町名が多い場所で、七ヶ用水路によって区域が分けられ、島ごとに独自の村落が発展していました。吉田町も昭和32年(1957年)までは東南の隣の漆島と合わせて「吉田漆島」と呼ばれていました。吉田漆島は七ヶ用水の大慶寺用水の南岸に沿って、白山麓から山島郷の中心地・安吉に向かう手前にある集落になります。前回ご紹介した加賀国石川郡式内社の神田神社の比定地の最有力の論社になります。まずは、吉田町の神田神社の由緒書から。。神田神社社記御祭神 饒速日(にぎはやひ)命天児屋根(あまのこやね)命武甕槌(たけみかづち)命経準主(ふつぬし)命 八幡大神末社  高良社の御祭神 武内宿祢命 当社は、第十二代景行天皇の御代、武内宿祢が北陸及び東方諸国の風土観察の為、下向のおり、北陸守護の為、吉ヶ中と称する地に饒速日命を勧請し、其の際、地名を神田村と命名しました。延喜式(九〇五~九二七)に加賀国石川郡神田神社とあるのは、当神社であり、延喜…

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延喜式神名帳

久しぶりに式内論社の神社を書こうと思ったのですが、そういえば、ここのところ一般神社ばかり書いていたのと、現代(戦後)は伊勢神宮を除いてすべての神社は同格として、神社庁が一部を特別な存在として別表神社としているくらいです。式内論社と云われても、一般人には縁が薄いというより、何のことともいえます。式内論社 神田神社 標柱には「式内郷社神田神社」 白山市吉田町 2020.3.25撮影画像をよく見ると郷社は後で書き直しているのが解ります。元は小社或いは論社となっていたと思われます。たぶん論社が有力だと思います。神田神社は位置的にも式内社・神田神社の有力地なのに、神田神社の歴史を綴る宮司家の資料の年号誤りなど確実性を疑問視され、他の候補神社も名乗りを上げていて論社に甘んじているという思いの強い神社です。どうにも論社という文字が我慢できなかったようです。郷社は明治の近代社格制度の一環で定められたもので、府県社>郷社>村社という諸社の分類によるものです。ちなみに府社は東京・大阪・京都。北海道は県社になります。神社によってはこの諸社下位の村社を削ったり、書き直しているものもいます。それほど神社にとっては表札以上の意味が込められています。あまりに久しぶりなので、まずは復習の意味でご説明を。。古い由緒ある神社に行くと、古い標柱や案内板に誇るように旧位階の他に、式内・式内社・式内論社・論社・式外社・国史見在社(国史現在社)・国幣大(小)社・官幣大(小)社などと表記しているものがあります。明治の近代社格も同じ名称(国幣・…

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河北潟干拓地② メタセコイア並木

非常に広い河北潟干拓地には農園地や直売所や牧地が広がりますが、だだっ広い平地ということで防風林として植林が施されています。その中で、人気を集めるのが河北潟との堤防伝いに、内灘町から津幡町にかけて干拓地の南面と東面にかけて約9キロ・1550本の桜並木。そしてもうひとつが、今回のメタセコイアの並木道になります。韓流ドラマの火付け役となったドラマ「冬のソナタ」 平成15年(2003年)BS、16年NHK地上波 日本初放映ペ・ヨンジュンの微笑み、泣きのチェ・ジウ、一途で報われないパク・ヨンハと一大ブームを起こしたドラマでした。当時、日本のドラマにはこんな心情的なものが減っていた時代、ちょっと首を傾げる場面転換や時間変換はありましたが、音楽も景色もどこか懐かしさを感じさせるものがありました。おかげさまで、我が家でも嫁さんがすっかり嵌って観ていました。僕も時間が合えばご相伴させられました。以来、今でも韓流ドラマはよく見ている嫁さん曰く・・「冬ソナ」と「パスタ」それと「主君の太陽」は傑作だとのたまっております。 冬ソナの中でも、印象に残るのが整然と並ぶメタセコイアの並木道、二人の出会いから重要シーンとしてロケ地になっていました。韓国のナミソム(南怡島)という北漢江の清平(ピョンチョン)ダムによって出来た島周6キロほどの島にあるそうです。四季それぞれに美しいロマンの島だそうですが、印象的だった冬はマイナス20度にもなる寒い所だそうですが。。河北潟干拓地 メタセコイアの並木道実は河北潟のメタセコイアの並木は昭和6…

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河北潟干拓地 だいこんの花

今年はゆっくりと花見が出来なかったので、ずっと残念に思っていました。ゴールデンウィークも外出自粛で、人が集う花の名所にもいかずじまい、、今年の春はお花見なんて無理だなと思っていたのですが、ゴールデンウィークはせめて2.3度でも実家の草刈りをせねばならないし、ここ何年か夏になってからだったので草というより草叢・草木になっていましたから・・今年は少し心を入れ替えて、頑張ってみようと思ったんです。 今年のコロナ騒ぎでは各種のイベントが中止されていますが、河北潟の干拓地でも平成7年(1995年)から続けられてきた35万本の向日葵が咲き、大きな迷路を作る「ひまわり村」の種植えが今年はまだ行えずにいます。毎年、保育園児や小学生が種植えに多く参加しているのですが、なにせ今年のコロナ騒動では感染率の高い石川県では、現在のところ様々なイベントが中止・順延となっています。今回の危険宣言も延長になったことで、ひまわり村も難しくなったと云わざる負えません。 草刈りの帰り道、嫁さんとドライブがてら河北潟の干拓地を通って自宅に戻ることにしたんですが、そこで思い出したのが花畑。今年は春になってから、前述のように梅も桜も、そして藤も牡丹も観ていないんです。我が家では嫁さんが喘息持ちということもあって、例年花粉症もあって外出は避け気味ですが、今年は完全に人混みは避けていましたから^^;でも僕の知る干拓地の一隅なら、そもそも人がいるのはまれな場所^^と、いうわけで少し寄り道してみました。河北潟干拓地 津幡町 小麦畑河北潟は昭和3…

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六郎塚(六郎杉) 伝・林六郎光明墓所

日御子神社から西に500mほど行くと、六郎杉と呼ばれる大きな杉の木の繁茂するところがあります。谷崎潤一郎賞を受賞した高樹のぶ子の小説「透光の樹」、秋吉久美子主演で映画化もされていますが、この六郎杉が透光の樹のモデルで、鶴来の町が舞台になっています。まあ谷崎賞ですから、四十路男女の恋愛を官能的に描いていますが、高樹のぶ子特有の流れるような旅情感が冒頭に書かれています。映画の方は一部映像賞や音楽賞を獲得していますが、萩原健一の途中降板や裁判沙汰でスキャンダルが表立って残念な結果でしたが。。 そしてこの六郎杉のある場所は、古くから六郎塚とも呼ばれ、林六郎光明という平安末期から鎌倉初期にかけての武士の墓所跡と伝承され、地元の保護や崇敬を受けて来た土地になります。義経記 巻第七 五 平泉寺御見物の事から引用判官其日篠原に泊り給ひけり。明けければ齋藤別当実盛が手塚太郎光盛に討たれける、あいの池を見て、安宅の渡を越えて、根上の松に著き給ふ。是は白山〔の〕権現に、法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜あり。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み奉らせて、其日は劔の権現の御前に参り給ひて、御通夜ありて、終夜御神楽参らせて、明くれば林六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀國富樫と云ふ所も近くなり、富樫介と申すは当國の大名なり。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して、判官殿を待ち奉るとぞ聞えける。2008.03.02撮影 金剣宮境内 義経腰掛石短いくだりですが、この中に出てくる場所は僕のブ…

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日御子(ひのみこ)神社

北陸鉄道石川線の現在の終点・鶴来駅の一つ手前に日御子(ひのみこ)駅があります。鶴来駅との中間に鶴来高校があるので通学、ガステーブルの点火装置では全国シェアの7割を誇り、現在では浴室テレビ・浴室照明を製造するRBC鶴来工場、陶器のニッコー鶴来工場などがあり貴重な地域の足場になっています。駅名の日御子は、西に少し行ったところにある日御子神社に由来する村名からになります。元は火御子社と呼ばれ、古代には太陽信仰も行われたと伝わりますが、詳しくは解らなかったのでいつもの加能郷土辞彙から抜粋すると・・・日ノ御子・・・石川郡林郷に属する部落。邑名は白山の御子神なる火ノ御子神が鎮座するから起ったのである。大永神書に日御子宮とあるから、火御子を日御子と書いたことも古いことであらう。郷村名義抄に、日御子村の宮神体日天子の由と書いたのは誤である。加越能当跡緒に、『日御子領の内、六郎畠と申所有。林六郎館跡之内。塚も有。』と記する。補足:石川郡林郷は江戸期以降の呼称でお隣の旧松任市の林中地区を指しますが、ここでは後文にある、この一帯を領した林氏の領地を指しています。鎌倉中期以前の林郷を指し、野々市南部(現在の上林・中林・下林など)を中心に旧松任市・旧鶴来町・能美市・金沢港・金沢西南部と広範囲に及ぶと云われています。 六郎畠は現在の六郎塚のことになります。林六郎の正名は林氏全盛時の林六郎光明を指しています。この林氏は能美・石川郡の名家として通っていて富樫氏とは同族になり鎌倉期に没落しています。家系を辿ると富樫氏の本家的存在…

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加茂遺跡 国内最古のお触書高札

加賀平野の北部に河北潟と呼ばれる大きな湖がありました。この湖は昭和の大干拓以前は白山麓や医王山山系からの河川からの水と、海岸の砂丘帯に阻まれて海が堰き止められて造られた湖といわれています。 古代には北金沢から河北郡の津幡・宇ノ気地区まで、現在の国道8号線・国道159号線・県道59号近辺まで湖だったと云われ、幾本もの大河によって運ばれた土砂により長い歳月で体積され扇状地の平野を広げて河北潟を自然に狭めたと云われています。 このために河北潟に近い場所は扇状地の構成がまだ新しく、泥濘地や水分の多い軟弱地帯が多くなっています。このような土壌によって宅地・商業施設・工場更には大規模道路が進出・転用ができず、湿地を利用する水田・蓮根畑が多く、広い湿原となっていました。縄文中期までは湖が山際に迫り山上から山裾にかけて遺跡があり、縄文末期・弥生期・古代期さらに中世へとなって扇状地による平野部が構成されるごとに山裾から平野部へと人や村が進出して行ったことが窺われます。しかし縄文末期、それ以降も湿地帯ということで前述の国道・県道の西側には古代の重要遺跡がないと思われていました。 大規模な道路の敷設も、平野部土壌の安定化と建設技術の向上で近年になってからになります。当然ながら大規模道路の整備に対しては事前の発掘調査が行われます。それまでにも工場や商業地となった遺跡調査によって金沢南の犀川下流部のチカモリ・御経塚といった縄文遺跡が現れ、更に北側の上安原や中屋サワのような場所から運河を利用していた遺跡が発見されて行きま…

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金名橋(旧手取川橋梁・御影大橋) 手取自転車道橋

現在、キャニオンロードと呼ばれるサイクリングロードはそのほとんどが金名鉄道と呼ばれた白山麓を走る鉄道路線跡になります。金名鉄道(旧北陸鉄道金名線)については始終着駅だった加賀一の宮駅でご紹介しています。 ⇒ 2019.09.01 加賀一の宮駅舎 以前のブログから抜粋・・・金名鉄道は、鶴来の運送業者・小堀定信(こぼりていしん)が出資して、大正14年(1925年)に設立された鉄道会社でした。白山麓に鉄道をの情熱で白山下駅(旧鳥越村・河原山)を起点に創業したものの、白山下駅着工前には資金切れだったものの協力者・出資者を求めながら見切り発車で着工したといういわくつきの鉄道でした。 協力者・出資者募集にぶち上げた構想は、金沢から名古屋までを鉄道で繋ごうという壮大なものでした。もちろん単独路線ではなく、岐阜の越美南線・白鳥駅への鉄道接続、北陸線の金沢までの敷設という構想でした。とはいえ、計画は現在の中宮・白川郷のホワイトロードといった2000m越えの難関が待ち受け、前述の様に着工段階で資金ショートする個人レベルでは難しい路線構想で机上の構想、あくまで出資者・協力者集めだったとも云われています。とはいえ、その構想から金名鉄道と名付けられたわけです。 とはいえ、破産寸前まで追い込まれながら小堀定信の情熱によって、昭和2年(1927年)には神社前駅(加賀一の宮駅)・中鶴来駅に延伸、石川電気軌道の鶴来駅に到達しています。しかし、累積赤字に苦しんだ金名鉄道は、わずか2年で神社前駅・鶴来駅間(約2キロ)を石川電気軌…

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霊寶山 善性寺

山側環状道路を能登方向から加賀方向に向かって、四十万町東の交差点を左折してすぐの場所にある寺院が善性寺になります。浄土真宗の真宗大谷派(東本願寺)の寺院になります。善性寺のある場所は金沢市四十万町にあります。 四十万(しじま)の町名の由来は解らないのですが、中世には富樫の庄・額(ぬか)七か村(大額・額谷・額乙丸・額新保・額三十苅(現・三十苅町)・額助九(現・四十万?)・額栗林(現・馬替?)、明治22年(1889年)に合併・額村、昭和29年(1954年)に金沢市編入村の一つだったと云われています。善性寺のある場所は加賀一向一揆に滅ぼされた富樫政親が最後の牙城とした高尾城から同じ峰筋の南2キロほどになります。 平安期から戦国末期まで、加賀に古く根付いていた富樫氏ですが、その基盤となっていたのが富樫の庄と呼ばれる地盤でした。本拠の富樫館のあった野々市を中心に、白山市の一部(郷村など)、明治以降昭和にかけて編入された金沢の前述の額村・富樫村・押野村・三馬村辺りが中心的な主要基盤の地だったと云われています。富樫の名を引き継ぐ富樫村、12代・泰家(加賀守護初代)の弟・家忠・景家からの額田・額氏を引き継ぐ額村などは、以前にご紹介した芋堀等五郎伝承などが残るように発祥地的な存在と見られ、高尾城が示すように最終防衛地でもあった富樫家の重要地だったと思われます。善性寺 本堂大屋根善性寺は明応8年(1499年)に前述の富樫政親を滅ぼした富樫泰高によって寺地と寺院寄進により法慶(ほうきょう)によって開基されたものです…

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波自加彌(はじかみ)神社

神社に行くと、神社の奥山に先座地や奥宮がある場合があります。今回の波自加彌(はじかみ)神社も、だいぶ前になりますが奥宮の方をアップしていました。 ⇒ 2017.05.10四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院)  今回は改めて本社の方に伺いました。神社の駐車場は山上になるため表参道を右折して山道を登ると便利ですが、なにせ参道は長い石段に急な傾斜。。一応、山上から一往復しましたが、きつかったあ。。冬の間にすっかり運動不足のつけがたまってますねえ。。というわけで進行(撮影)方向とは逆になりますが、表参道入口というより時間が無くて立ち寄れなかった遥拝所付近からスタート。。 波自加彌神社標柱 花園小学校から100m程北に進んだ旧北国街道沿いの三叉路に建っています。標柱の方向に進むのが波自加彌神社の本宮への表参道になります。北国街道をここから、更に北に7,80m進んだ右に遥拝所兼神主さんの自宅があります。御札やお守り、御朱印帳は遥拝所で授与して貰えます。ナビに頼るとこの標柱に案内されてしまいますが、この標柱から500m程、IR七尾線の踏切、国道8号の二日市交差点を越えて行った山の突き当りにあるのが波自加彌神社の本宮になります。表参道入口には河原市用水に立派な神橋が掛かっていていますから、それが良い目印になります。波自加彌神社 神橋 河原市用水(浅田用水)河原市用水(浅田用水)は医王山を源にする森下川の不動寺町から取水して山裾を縫うように流れ、更に旧国道8号に沿うように10.2キロを流れて津幡町の加賀…

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野田山墓地

今冬は雪が降らない降らないと云っていたら、ここ3.4日雪が降って、うっすらと積雪が道に積もって久しぶりに、雪道を車で走りました。。久しぶり過ぎて怖々ハンドルを握っていました。さすがに朝は凍結で、雪に慣れてる石川県人もそこここでスリップ事故や立ち往生があったみたいです。(2/10)しかし、その後は温かくすぐ溶けちゃいましたが。。。 コロナウィルス騒ぎも収まりませんねえ。。今週風邪をぶり返した嫁さんが医者に行ったら軽い肺炎で、一週間の絶対安静でドクターストップ、家でどんよりテレビ三昧の日々を送っています。時期が時期だけにインフルやいろんな検査をやられて、落ちこんどりました。。(風邪をこじらしたで、チョン)。。クルーズ客船も日増しに陽性患者が増えてて心配ですねえ、、足留めを喰らったみなさんには頑張って欲しいものです。ダイヤモンド・プリンセスは昨昨年寄港した「MSCスプレディダ」が寄港するまで、金沢港の最大のクルーズ客船の記録を持っていた船で、僕も眼の前で見て思入れがあるんで、早く収束することを願っています。 2014.07.20 無量寺埠頭 護衛艦ちくま加賀藩主墓所本参道 ここから長い石段を登ると前田利家夫妻の墓所正面に直接向かえます。僕は車を左に進めて墓所手前から歩いてみました。1.2月は雪がないとはいえ氷雨や冷たい雨降りが多く、遠出をほとんどしないのですが、この日も冷たい雨降りでしたが河北からの帰り道、久しぶりに野田山墓地に立ち寄ってみました。一応目的地は加賀藩主墓所のつもりだったのですが。。右の…

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雑話 日本の仏教①

名所・旧跡に触れて歴史を振り返るものを書いていると、頭が痛くなるのが宗教がまとわりついてくることです。けっこう宗教施設と言える神社・仏閣で考察的に歴史を振り返る僕ですが、訳が解らなくなる時はしょっちゅうあります。神道にしても仏教にしても、更に修験道まで加えると浅学な僕でも書き始めれば、誤字脱字、意味や筋を誤ったりしても良ければ、本が何冊も書けるんじゃないかと思いますが・・・これからも、出掛けるたびに寺社仏閣が出るために、まずは簡単?な仏教の流れをば。。。大安禅寺(大安寺)大日如来坐像 平安末期作大安禅寺は万治2年(1658年)創建の越前松平藩(福井藩)歴代藩主の墓所・菩提寺になります。戦災や地震で古い建物類が残っていない福井市内で江戸初期の建築を残す貴重な寺院、臨済宗妙心寺派(2012.09.18撮影)世界には様々な宗教が存在しますが、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など数え上げれば切りがないくらい。。誤解されやすいものではインドやネパールのヒンズー教もありますが、日本ではヒンズー教=インドの国教と思われていますが、実はインドには国教というものはありません。ヒンズー教というのは欧米から見た名称で、中国や韓国では印度教とも云うそうですが、南アジア諸国でのイスラム教とそれ以外の宗教とを分けるために出来た造語になります。現在はシヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマーを信奉する種々雑多のインドの有神型の民族宗教をまとめて指す言葉になっています。バラモン・ヴェーダの流れを持つものもあり様々な形態があります。仏教とも密…

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内灘海岸② 米軍試射場 射撃指揮所跡

米軍試射場 射撃指揮所一九五三年(昭和二八年)内灘砂丘は、米軍が日本の工場に発注した砲弾の試射場として接収され、この「射撃指揮所」を含め、周辺には兵舎、砲座、弾薬庫等が建てられた。当時、村民の生活を支えてきた地引網の漁場が奪われたこと、日本の各地で起きていた基地問題が心配されることなどから村民たちは、反対運動に立ちあがった。全国的な支援のもとで「金は一年、土地は万年」のムシロ旗を掲げて、デモや試射場入口と場内の権現森での座り込みを続けるなど、わが国での初の軍事基地反対闘争を展開した。こうして日本海沿岸の一漁村は「世界のウチナダ」として脚光を浴びた。一九五七年(昭和三ニ年)米軍の使用が打ち切られ、美しい砂丘は、再び静けさを取り戻した。 内灘町 昭和25年(1950年)6月25日に北朝鮮軍の電撃作戦で勃発した朝鮮戦争。GHQ統治下だった日本では、翌月にはマッカーサーは独断で在日米軍一個師団を投入、更なる米軍の朝鮮投入を予測して、翌月には国家警察予備隊(後の自衛隊)創設と海上保安庁拡充を指令し備えていました。しかし、日本の防衛・安全保障体制は不安定なままで、マッカーサーが望む在日米軍の追加投入の許可は大統領トルーマンからは下りていませんでした。昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結、この際に対日平和条約と共に(旧)日米安全保障条約が結ばれています。この安保条約には、日本の主権回復後に、全ての占領軍は講和成立により速やかに撤退する、二国間協定により引き続き駐留を容認される国も存在出来るという…

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内灘海岸① 内灘海水浴場

内灘のお客さんの自宅で待ち合わせをしたのですが、お客さんも仕事から家に向かうということで、約束時間より少し遅らせることに。。。40分以上早く近くまで来てしまったので、どこかで時間つぶしをしようというので海岸に行くことに。。。内灘町は金沢港を構成する大野川と河北潟に囲まれた海辺の町になりますが、金沢港から、かほく市までの内灘砂丘上にある町でもあります。内灘海水浴場入口 画像中央のゲートが砂浜への出入り口になります。ゲートの上部はのと里山海道(旧能登有料道路)。鉄板道路内灘海岸への入口となる海浜千鳥台交差点からここまでの道路は、昭和27年(1952年)から31年まで米軍試射場となっていた際には、鉄板道路が北陸鉄道・内灘駅まで敷設され、試射発射地への輸送路となっていました。ゲートをくぐって右の方に行くと、砂に埋もれた浜茶屋の向こう側に旧試射場指揮所の建築物があります。内灘海岸内灘砂丘は青森の猿ヶ森砂丘・鳥取砂丘に次ぐ国内三位の規模の砂丘になります。ところがこの砂丘の定義がはっきりしないためにこの順位も実は正式ではないのです、、、同じように見える砂漠の方は定義が決まっていて「降雨が極度に少なく砂や岩石の多い土地。 年間降雨量が250mm以下の地域または降雨量よりも蒸発量の方が多い地域」とされています。つまり、砂の漠となっていますが、岩や小石(礫)、砂、涸れ湖や川、塩湖など様々な地形がありますが、降水量の多い日本では砂漠はあり得ないことになります。内灘海岸  奥に見えるのは浜茶屋群、夏場は掘り起こして使用さ…

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若宮八幡宮②

文中の補足・・・森林研究家が縄文期の面影を残すと比較に上げている森林        気多(けた)大社「入(い)らずの森)」・・・能登一宮・気多大社の奥宮がある1万坪に及ぶ原生林。住民の立入りが禁じられていて、通常12月の例祭で神主一人だけが奥宮に赴く人跡未踏の森でした。昨年12月、天皇の即位記念として、歴代天皇(昭和、平成)が入った場所までの参拝が公開されて話題になりました。国指定天然記念物。志雄路(しおじ)から 直(ただ)越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 船楫(ふなかじ)もがも 大伴家持・赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首        吉崎御坊「鹿島の森」・・・石川と福井の県境の福井側にある浄土真宗8代法主・蓮如が開創した北陸の拠点・吉崎御坊(越前御坊)の近くに、大聖寺川と北潟湖に囲まれた陸続きの小島の名です。ちなみに鹿島の森は石川県になります。加賀唯一の暖地性の原生林。滋賀近江八幡から金沢までに分布する絶滅危惧種の大型のカタツムリのツルガマイマイが生息し、アカテガニの産卵地となっています。国指定天然記念物。よもすがら たたく船ばた 吉崎の 鹿島つづきの 山ぞ恋しき 蓮如上人 吉崎退去時の作 横浜国立大学名誉教授・宮脇昭(1928年生)氏は、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長。土地本来の植生の自然林が自然災害に耐える。土地の植生は鎮守の森にあると主張しています。植生の確認から「混植・密植型植樹」を提唱・実施しています。横浜国立大学キャンパスの森の設計実施、マレーシアの熱帯雨林再生の成功、…

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松任 若宮八幡宮①

遅れましたが、明けましておめでとうございます。小難しいブログに毎度ご訪問頂いて恐縮ですが、本年もよろしくお願いいたします。松任 若宮八幡宮 表参道日頃、神社仏閣をちょこちょこ見て歩いているというのに、ここ2.3年初詣に出かけていなかった僕なのです。昨年は大晦日寸前に眼鏡を壊して、修理に2週間、、新品を購入しようとしたら、カラーや乱視を入れるとやっぱり2週間かかると云われ、度の合わない眼鏡とサングラスしかなかった僕は遠出が出来ずに、年末年始は家に籠っていました。昨昨年、昨昨昨年は年末年始に風邪ひいて完全な寝正月で、嫁さんも仕事というわけで一人布団の中から駅伝を見ながら寝ておりました。若宮八幡宮 表参道 一の鳥居(明治33年建立)そして今年こそはどこかへ行こうと思っていたのですが、今冬は雪も降らずに肌寒いけど天気の良い日が続いています。年中花粉症の嫁さんにとっては唯一の元気な時期のはずなのに、こう穏やかな日が続くと早くも何かが飛んでいるとグズグズ言っています。当然、出掛けたがらないのですが、休みのあった1/4、近くに初詣に行こうというわけで、近くの神社で済ますことに。。。表参道 門柱20数年前、滋賀に引っ越す前に3年程、旧松任の布市町にいたんですが、娘も幼い頃で近くにあった若宮八幡宮に初詣に行っていました。滋賀から戻った場所は東一番町で少し離れましたが、祭礼などでは役をやらされて何度か行っていました。。ところが、氏子地区ではない現在地に引っ越してからは、近くて遠い神社になってしまい、すっかりご無沙汰し…

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