新田塚

福井市街の芦原街道を北上すると「新田塚」という地名が存在します。
歴史好きの人ならピンと来ると思いますが、南北朝の時代、当時はここは燈明寺畷と呼ばれ、新田義貞の戦没地です。
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新田義貞は鎌倉幕府の本拠地・鎌倉を攻め落とした武将です。太平記などでは足利尊氏のライバルとして描かれ、楠木正成・北畠顕家などの引立て役のように描かれています。しかし鎌倉陥落の功績は足利尊氏の六波羅攻略や楠木正成の千早城防衛戦よりも戦功第一だと思います。なぜ大きく評価されなかったかといえば、武家世界では足利氏の方が家格が上だったことと新政の舞台・京都からは遠い関東の地ということで出遅れたことが挙げられます。足利が六波羅攻略後、京都を掌握し武士階級の人気を集め天皇を取り込んで行政権を握っていますから、後から京に入った義貞に付け入る余地がなかったと思います。占拠した鎌倉を離れたこと、京での論功行賞の不調後の行動には政治力や判断力には欠けたようです。ただ武力や戦闘に関して太平記や神皇正統記では愚将のようにされたのは本人も納得行かないと思います。現実に足利尊氏離反後、何度も五分の戦を演じ、窮地に追いやっていますから。
湊川の戦い・天皇の比叡降下後は北陸に転進し一時衰退しました。その後盛り返し敦賀・越前を掌握しましたが、寝返った平泉寺衆徒の籠った藤島城攻めの際、偵察行動中にこの燈明寺畷で遭遇戦となり戦死しました。建武5年(1338年)、彼が史実に出た期間は7.8年の波乱万丈の短い期間、盛り返しつつあった中での戦死は本人も悔いが残ったと思います。
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江戸時代に入って明暦2年(1656年)、この地で耕作していた百姓が土中から武将の兜を発見して越前松平家に献上しました。当時の藩主・松平光通が軍法学者に鑑定させ、新田義貞の兜として越前松平家の家宝としました。またこの地に「暦応元年閏七月二日 新田義貞戦死此所」と刻んだ石碑を建てたそうです。そこからこの地が「新田塚」と呼ばれるようになり、地名の始まりとなりました。
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明治維新後、福井県知事(越前松平家当主)がここに祠堂を建立して、藤島神社と呼びました。その後遷座して現在の足羽山にあります。もちろん主祭神は新田義貞です。そして社宝は発見された兜です。

兜の真贋については多くの異論がありますが、越前松平家の本家・徳川家康は新田の庄の世良田を祖とする新田源氏の末裔と称していますから、そこを強調したかった面が強いとは思います。ただ、新田義貞がこの地域で亡くなったのは確かな事実です。ちなみに墓所は隣町の坂井市丸岡町の称念寺 にあります。

旅行日 2011.4.9




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