石動山 天平寺址

石動山の麓にあったのが「天平寺
石動山頂上の五社権現を中心にして、石動山系には平安期になると多くの山岳修験者が入るようになり、北陸の修験場の中心地となって行きました。さらに仏教とも結びつき真言宗寺となり神仏習合色の強い「石動山 天平寺(てんぴょうじ)」として成立していきました。天皇の御撫物(おんなでもの、天皇や宮家の御召し物、昔は新着の着物は1年間祓いをしてから着用していました。)の勅願所にもなっており朝廷よりの保護も厚かったようです。最盛期には360坊3000衆徒を誇りました。
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比叡山・興福寺などと同じく当時は政教分離には遠く、2度の兵火に遭い2度とも全山焼亡にあっています。一度は南北朝、南朝方の武将を保護した為、北朝方の越中守護に攻められたときに全山焼亡しましたが、朝廷の命を受けた足利尊氏により再興されており、戦国期には能登畠山氏の保護を受けて前記の絶頂期を迎えました。
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2度目が本能寺の変後、上杉軍の後押しを受けた温井・遊佐軍が荒山砦に侵攻した際、これに加担して兵を挙げたため、前田利家軍に攻め込まれました。荒山砦が陥落後、五社権現の本尊・虚空蔵菩薩像を人質として差出し投降を願い出ましたが、利家は許さず荒山砦の射掛山の捕虜50名程を除き、全山焼討ち・衆徒全員なで斬りを行っています。このときの焼討ちは比叡山に匹敵すると云われ、僧兵・僧侶だけでなく稚児にまで及んだと云われています。
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その後、朝廷の命を受けた豊臣秀吉に再興が命じられ、秀吉の命を受け前田利家が復興し江戸期までの間、建物は72坊だったと云われます。、加賀藩の保護を受け続け明治に至りました。しかし、江戸初期は全盛期の興隆は望めず、苦しい台所事情だったようですが、7か国( 越後・越中・飛騨・加賀・越前・佐渡・能登)知識米徴収の勅許が復活、石高4万3千石の徴収が出来るようになってから復興が進んだと云われます。
知識米徴収は「いするぎ法師」と呼ばれる修験者姿で各家を廻り「いするぎほうし!!」の一声と錫杖で戸口で大声で呼ばわったそうです。一戸当たり3升、当時収入源が米の武士階級、税を納める農家などはこの声を聴いた途端、いするぎ法師が来たと恐れ戸口を閉めたり逃げるものも少なくなかったようです。
反面、全国を巡る修験者が各地から集めた野草などから作る秘薬は人気があり、心待ちにしていた者も多かったようです。現在も石動山系には、本来能登には自生していないはずの植物が多くあることで知られています。

明治になり廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた際、神仏集合体を是とする天平寺もモロに風を受け、寺領没収・知識米の禁止となり僧侶全員の還俗となりました。建物や施設も伊須流岐比古神社の一部を除き、一部売却・破却破壊されました。その破壊は墓標にまで及んでいます。
その破壊跡は史跡をまわるとあちこちに見ることができますが、墓地が特に破壊の痕跡が解ります。割られ倒れた墓石の阿闍梨の墓碑銘、横倒しの石仏などは無常観と荒涼感を誘います。

僧侶還俗を受け人も去り一時期打ち捨てられた状態でした。
その後ゆかりの人が戻り、最盛期54戸の集落が形成され昭和へと続きました。しかし、戦後になり過疎化が進み昭和40年代には4戸のみとなり長い問題となっていました。
その後、国史跡指定を受けて道路改善が進み改善方向に進んでいます。
平成10年から資料館ができ発掘・復元調査が開始され現在も続けられています。僕が最後にここを訪れたのが資料館の建築を開始したころでしたが、当時は鬱蒼とした山林の中という感じでしたが、再訪してみると全く変わっていました。
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現在、天平寺の周辺は史跡公園として整備され、散策にうってつけの場所になっています。遺構なども見学しやすく通路が配され緑や紅葉の中を歩けるようになっています。まだまだ認知度は低いですが、それだけに人の少ない穴場になります。ただし携帯電話は圏外になる場所ですので覚悟のほどを^^

天平寺の門前にあった台所門・御成門・書院台所棟などが復元構築されてなかなか見ごたえがあります。ただ現存資料が少なく復元にはまだまだ時間を労すと思いますが期待したいものです。

先に書いたように天平寺跡の発掘や調査は相当進んでいますが、破却の跡の中でも特に寂寥感が漂うのが墓地の跡です。割られた墓標や放置された石像は胸につまされます。
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五重塔は前田利家の焼き討ちの際に焼却され復興を果たせなかったものです。発掘の際、焼けた木材などが多く発見されています。
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旅行日 2011.11.02

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