二曲城(ふとげじょう)

加賀一向一揆の最後の牙城として有名なのが「鳥越城」ですが、この鳥越城と連携して最後まで抵抗した城が「二曲城(ふとげじょう)」です。
鳥越城の規模が大きく有名すぎて支城扱いということもあり、更に発掘調査の開始が平成16年と近年になってからということもあり、影に隠れたように意外に知られていませんが、一向一揆の城としては最後まで抵抗した城として同等の評価があっても良いように思われる城です。
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鳥越城の発掘物などを展示している「鳥越一向一揆歴史館」「道の駅・一向一揆の里」がある場所は、間に大日川が流れ、別宮から三坂峠まで南北を山岳に囲まれた盆地帯ですが、白山麓の一向宗徒の本拠地になっていました。
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この地には鳥越・二曲城主で白山麓門徒(山内衆)の指揮官の鈴木出羽守の屋敷もあったそうです。
鈴木出羽守の屋敷があったとされる場所は、二曲城の登り口の左手に鳥越一向一揆の慰霊碑の横に建つ平吉庵がある場所だそうです。
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現在は出合町となっていますが、応時は一向一揆館二曲城の麓の上出合は二曲(ふとげ)とも呼ばれていました。
ちなみに「二曲」の由来は、美貌と優雅さで知られた鈴木出羽守の娘が立ち上がった際、長い髪が背を伝って下に降り、更に二曲り(ふたまがり)も溜まったということから来ているそうです。これは江戸期の十村役の書上げ帳に書かれているそうです。

鈴木出羽守に関しては資料が少なく詳細は多くありませんが、二曲が本貫とも本願寺が依頼して紀伊雑賀衆門徒から派遣されたとも言われています。現在は雑賀説の方が有力視されています。
天正6年(1578年)、本願寺門主・顕如が白山麓門徒に督戦と援助を頼む書状が白峰の林西寺に残されています。その宛名が「山内惣庄中 鈴木出羽守」とあり、白山麓(山内)門徒の指揮官ということが証明されています。惣庄とは地域の本願寺の門徒組織の名称です。

加賀一向一揆の時代の加賀(賀州)は、本願寺からの独立採算組織・加賀支店に当たる金沢御堂(享禄の錯乱(大小一揆)以前は賀州三か寺(本泉寺・山田光教寺・波佐谷松岡寺)の合議制)を頂点にして、河北・石川・能美・江沼という四つの郡に分かれ、各郡の有力寺社が郡内各地にあった門徒組織・惣庄を取り纏めていました。
この惣庄は各地域の領主・庄屋などの有力者が地域の代表として構成されていました。
白山麓は別名として山内(やまのうち)と呼ばれ、その範囲は時代によって変遷はありますが、白山市合併前の野々市を除く旧石川郡6町村と思って頂ければよいと思われます。

現代は金沢という地名が突出していますが、金沢は加賀藩以降に発展したもので、一向宗以前は中心地は分散していたようです。特に野々市・能美・小松が発展していたようです。ちなみに加賀四郡の範囲も近世とは違い範囲も少し異なります。当時は河北郡は金沢市内を流れる浅野川以北で現在のかほく市の北限まで、浅野川以南・手取川以北が石川郡で現在の金沢市の多くは石川郡になります。白山麓も地域的には石川郡ですが、一向宗時代は松岡寺の関係や北国脇街道の道筋の関係で能美郡に所属していたようです。手取川の南岸から現在の小松市域が能美郡。それ以南の現在の大聖寺・加賀市が江沼郡となります。

白山麓の山内衆は三か寺時代は先述の波佐谷松岡寺との関係から能美に組み込まれていましたが、元々本願寺・蓮如への信仰心が非常に熱く、享禄の錯乱の際には加賀の多くが三か寺の小一揆側につく中、大一揆側につき、波佐谷松岡寺・清沢坊願得寺(鶴来)とは敵対し、大一揆勝利に貢献しています。
ちなみに乱後、松岡寺の蓮綱・蓮慶親子が幽閉されたのも二曲の地と云われています。
当時から熱心な信徒と精強な軍事力を併せ持っていたようです。
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その二曲を治めていた鈴木出羽守は平時は麓に屋敷を持って政務を執行し、緊急時に二曲城を本城として籠ったそうです。しかし、それほど大規模な郭や本丸を持つ城ではない為、織田信長の侵攻が現実性を持ってきた中で築かれたのが鳥越城でした。当然ながら1~3の丸と曲輪を備えた鳥越城が本城として機能し、南の二曲城が支城として盆地から攻める攻城軍を挟撃する態勢になっていました。
基本的に鳥越・二曲城共に攻城ルートは盆地内からになるため、大軍の使用が限定されてしまいます。その上に鈴木出羽守をはじめとする山内衆の高い戦闘能力と指導力が特筆されていました。事実、天正8年(1580年)3月に石山本願寺退去、4月金沢御堂落城後、柴田勝家軍が侵攻した際には、山内衆の鶴来の舟岡山城は陥落しましたが、この両城の連繋防御を崩せずに敗退を繰り返しています。
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結局、正攻法の武力攻勢を得意とする柴田勝家が、彼らしからぬ非常手段をとる破目になっています。
まず講和交渉を持ちかけ、松任城で講和締結を行うとして、鈴木出羽守を含む山内衆幹部を呼び寄せ、騙し討ちにして全員を討ち取ってしまいます。
11月、幹部の大半を失った山内衆は抵抗する力が半減、鳥越城・二曲城共に落城します。その後、鈴木出羽守とその息子3人の首が織田信長に届けられ、安土で晒されたと記録に残っています。

しかし、それで終わるほどの山内衆ではなく天正10年(1582年)には再蜂起して鳥越・二曲城を奪還しています。
しかし、金沢を領していた佐久間盛政軍によって鎮圧されています。その際に佐久間盛政は山内衆の多くを落城時に殺戮しており、鳥越城に残る首切谷・自害谷の名に残されています。また徹底した残党狩りを行い手取川河畔での300人に上る門徒が磔刑に処されています。この残党狩りは3か月に渡り徹底的に行われ、白山麓から人影が消えたと云われています。この残党狩りの終焉は6月の本能寺の変によるものです。山内衆にとっては無念の出来事でした。

余談ですが、佐久間盛政二曲姫の伝承が残っています。鈴木出羽守が松任城で謀殺され鳥越城落城の際、二曲姫は捕らわれましたが、それを保護・監視したのが佐久間盛政でした。
その後、盛政は加賀の領主となりますが、人となりを認め合った二人となっていきます。更に盛政は駄目もとで求婚するまでになります。しかし、は丁重に申し出を断り髪をおろして二曲の地に出家し寺に入り、父や兄弟・山内衆の菩提を弔う生活に入ります。盛政の意を汲み、当初は金沢御堂の破却と有力寺社への侵攻はしましたが、一向門徒には懐柔策で当たって行きました。
しかし、山内衆が再蜂起し鳥越・二曲両城を奪還するに及び、加賀領主となった盛政が鎮圧軍を編成して進軍する報に接したは、双方の板挟みと盛政の徹底した性格を知っており自害してしまいます。愛するを失った盛政の怒りは強く、徹底した殺戮・残党狩りに繋がったというものです。
意外なことですが加賀や白山麓では、織田信長・柴田勝家・前田利家などへの一向門徒の怒りや怨恨は根深いのですが、当事者ともいえる佐久間盛政に対するものは前者に比べ存外に低いものがあります。というものです。

鳥越一向一揆館の東側道を南に山の方に進んで、任誓墓地公園・出合ふれあい公園を進むと、左手に慰霊碑がある二曲城の登り口があります。現在、城への道や途中には整備工事のため、登り口には重機用鉄板が敷かれ、工事用モノレールのレールがあったりして、入り口にも工事中の看板があります。それでも何人も見学に訪れているようです。平日の昼間でしたが3組の人とすれ違いました。
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二曲城は標高286メートルの独立峰の頂上部に築かれています。なかなか急峻な峰山になっています。ただ規模は大きくなく砦という印象です。
ハイキングコースに沿ってしまうと急峻さを感じられないと思います。お奨めはコースとは逆進行で、三の郭を経由する本来の城道を進んだ方が城の形態が解ると思います。ハードな経路なので気をつけてください。また三の郭手前には1.6メール程の土橋も確認されています。
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攻城軍を誘導するように林道があり空堀までは平坦で楽に進めます。
先には石積の空堀の防壁が発見されており、その先に進んだ場合、城郭の一番急峻な南面斜面の行き止まりとなっています。攻城軍としてはこの斜面を登るのが常道になりそうで、本郭南面に土塁が配されていたようです。
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平成16年からの発掘調査でいくつかの発見がなされています。本郭には二つの建物遺構跡があり、建物下に地下炉があったことが確認されており、井戸もあったようです。また通路には石を撒いた石撒道になっていたようです。この石撒道は鳥越城にも見られるものです。
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以前は、登り口に発掘状況が貼付されていたのですが今は無くなっていました。事前に「鳥越一向一揆館」の発掘状況詳細を確認してから登ると、見た目にも理解しやすいと思います。






登り口にある湧水は「お仏供水(おぶくみず)」という湧水がありますが、この水は江戸期の僧侶・任誓がこの地に過ごした際に、毎日米を洗ったり、飲料に汲んだりしたと伝えられているものです。古くから大雨の日でも濁ることがなかったと云われ、名水として鳥越村の人達に大事にされてきたものです。写真はかたがってますが、実際は真直ぐです^^;
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二曲城への登山口の真ん前にある公園の真ん中に立つ慰霊碑の主・任誓は浄土真宗の僧侶です。白山麓で人気を博し、講話に依って多くの住民から尊信された人物です。任誓がなしたご講帳「十一カ村御講」として白山麓に受け継がれています。加賀(主に白山麓・小松・河北)では江戸期の傑僧として名高い人物です。ただ詳しい資料が少なく、謎が多い人物でもあります。
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母親が二曲の十村役の娘でしたが、加賀藩重役・玄蕃(加賀藩重臣12家の一つ・津田玄蕃1万石?)の屋敷の奥女中に入った際に御手つきとなり、里に戻って産んだのが任誓と云われています。ちなみに津田玄蕃邸は大手町にあったものが兼六園の金城霊沢の向かいに移築され、兼六園管理事務所となっています。加賀藩重臣の邸宅として様式がそのままの姿で残っており、歴史的建築物として貴重な存在になっています。

御手付きの里帰りですが、早く言えば父親不明の私生児(明暦2年頃(1656年)誕生)として育ちます。封建時代の当時はそんな子供は、厄介者の居候的存在として扱われています。
しばらくは農民として生活しますが農業の合間に独学し、改めて京に登って東本願寺の学寮に入って修学に努めます。一農民が学寮に入るのは異例と云えます。
本願寺での就学後、元和年間(1681~)、地元・二曲に戻り、住民を家に集めては講話として独自の教えを広めていきます。人柄や教えが解り易く農業技術にも詳しい。評判が評判を呼び、瞬く間に任誓の周りに白山麓住民が集まって行きました。更に農民出身で農業や農業技術にも明るく、「農民鏡」という農民の心得を著述・農業指導のために地域に出向くことになり、農民の心と農業生産の両面に係って行きます。これで人気が上るのは当たり前で、白山麓以外の小松・能美などからも声が掛かってきます。

任誓は浄土真宗の僧侶とはいえ、自分の寺を持っているわけではく、有力寺院にも所属せず、独自の道を進んでいました。そんな個人活動家に多くの住民・檀家が流れて行くわけですから、既存寺院や一向宗時代から住民との強い結びつきの有力寺院からは疎ましい存在となって来ます。浄土真宗末寺から東本願寺に「任誓の教えは邪教、民衆を惑わす」と上訴されます。これに対して東本願寺16代法主・一如から任誓に真宗教義の質問状が出され、任誓の回答を観た一如はかえって感銘を受け、逆に布教の許可ともいえる御書を与えています。
法主からの正式な認可を受けた任誓は活動を広めていきます。
しかし、亨保6年(1721年)、今度は小松末寺から加賀藩に訴状が出されます。加賀藩にとっては白山麓は一向一揆の最後の抵抗地というトラウマがあり、危険人物として任誓に対して謹慎・禁足の命令が出されます。これを無視した任誓は享保8年、能登への布教に旅立ちます。これにより旅の途中の河北郡内で任誓は加賀藩によって捕縛され、能瀬村(現・津幡町能瀬)に幽閉します。それから約10か月後、任誓は幽閉死します。

地元白山麓では任誓は今でも人気があり、その名は尊敬の的を集めています。

旅行日 2014.09.04








この記事へのコメント

  • がにちゃん

    二曲姫の長ぁ~い髪  美人の象徴ですね  
    信仰の強さ 一向一揆  今でも世界では振興のための戦いが・・・
    2014年09月12日 15:35
  • つとつと

    長い黒髪は美の象徴 昔は長さが美の元だったですからねえ
    白山麓の場合、少ない農作物に対する不満を最初は宗教が抑えたんですが、何時しか外敵に対しての団結力を強くしたみたいです。排他的になれば、防衛本能が強くなり争いになってしまいます。難しいですね。
    宗教と政治が分離しているのは現代でも日本だけ。。どの国にも宗教と政治が絡み合ってますから日本人には理解できない部分も多いですね~~
    2014年09月12日 20:24
  • go

    つとつとさんこんにちは、
    鳥越城は何回か行っておおよその様子を記事にした事もありますが、二曲城の存在は知っていたのですが未だ行ったことがありません、つとつとさんの記事を読ませていただいたら行ってみたくなりました、この手の遺跡を見るのが好きなんです。
    2014年09月13日 10:37
  • つとつと

    goさん
    鳥越城と共に国の史跡指定を受けながら、なかなか整備が進んでいなかった二曲城も発掘調査も進んで、やっと整備工事に掛かってきました。
    整備工事が進み過ぎると、綺麗になりすぎるきらいがありますが、城の構造が見やすくなるのも確かです。それでも以前の状態と見比べると解り易いし現在が一番良い時と思って寄ってみました。眺望の良さも抜群で、お奨めですよ^^
    そうそう、石川と富山(304と359の間)の県境の松根城もお奨めです。桜のトンネルもあるんで、春がお奨めです。
    2014年09月14日 00:50
  • 家ニスタ

    以前鳥越城には行ったことがあったんですが、二曲城の存在には気づかず、通り過ぎてしまいました。
    一向一揆歴史館も行っていないし、もう一度行ってこないといけませんね。
    それに雑賀から派遣された将の名前が鈴木氏だなんて、なんだかロマンがありますよね。
    2014年09月18日 22:28
  • つとつと

    家ニスタさん
    久しぶりに登ったんですが孤峰なので廻りの田園地帯が見渡せる景色は良かったです。以前登った時は山頂の木が繁茂していて周りが見難かったんですが、現在は整備が進捗して山頂は広場化しています。規模はそれほど大きくありませんが、なかなかの山城でだいぶ整備が進んでいました。
    歴史館はその都度、特別展を開いています。今回は荒谷出身の江沼赤尾城主・藤丸勝俊でした。加賀一向一揆の一将で越前浄応寺の流れなんですが、最後は魚津城在番十三将の一人になっていたそうです。十三将の内5人が一向宗の将というのは知りませんでした。
    2014年09月20日 08:10

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