桃雲寺(とううんじ) 前田利家の墓守寺

金沢市の野田山加賀藩主・前田家墓所を頂点にして、総面積43万㎡以上(東京ドーム敷地面積の10倍以上)・総墳墓数1万~2万と国内でも最大級の墓地となっています。

野田山墓地の始まりは、天正15年(1587年)前田利家の兄・利久を埋葬したのが始まりと云われていますが、やはり前田利家を埋葬したのが始まりと云って良いと思われます。その後、江戸期を通じて家臣団、武家、戦没者、一般民衆と裾野を広げ、現在の一大集合墓地となっています。現在も無縁墓の整理整備、新墓地の整備でさらに巨大化して行っています。

前田利家を始めとする前田家墓所の墓守であり、江戸期を通じて野田山墓地全体のの管理を行っていたのが、この桃雲寺(とううんじ)です。巨大な墓域の為、野田村の住民の多くが墓守となり現在も存在しますが、その一括管理を行ったのが桃雲寺でした。
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慶長4年(1599年)3月に前田利家は京都で亡くなっていますが、跡を継いだ利長は金沢の宝円寺(現金沢市宝町)で葬儀を行い菩提寺としています。また利家を野田山の現在地に埋葬しています。
翌年の一周忌に併せて野田山の麓に寺を創建して、利家の墓守としての菩提寺を創建します。それが桃雲寺であり、創建時は「野田宝円寺」と呼ばれていたようです。
後に前田利家の戒名から名をとって「高徳山 桃雲寺」と改めています。その時期は定かではありませんが、三代藩主・利常が就任して、江戸屋敷に居た利家の正室・芳春院(於松)と利常の母・寿福院(千代、千代保)が交代して、芳春院が金沢に戻り野田宝円寺に利家の遥拝墓を建てた頃と思われます。(慶長19年(1614年)~か)。ちなみに前田利家の戒名は「高徳院殿桃雲浄見大居士」。
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ちなみに前述の宝町の宝円寺天徳院>と共に前田家の菩提寺になっていますが(前田利長は高岡の瑞龍寺)、興味深いのは歴代藩主の菩提寺には法則があります。3代・利常が早世した4代・光高を母・珠姫の菩提寺・天徳院に葬り菩提寺にしましたが、利常本人は菩提寺は宝円寺と定め野田山に葬らせています。
その後は逝去順に菩提寺は5代・綱紀が天徳院、6代・吉徳が宝円寺と11代に内定しながら早世した斉敬を含12代斉広までこの二つの寺を交互に菩提寺にしています。この理由は明確になっていません。
また藩主墓所は現在歴代藩主全員が揃っていますが、以前、如来寺のブログに書きましたが、昭和になっての改葬で揃ったもので、必ずしも前田家ではここが歴代藩主の王者の山とは考えていなかったようです。
また前田家子女の墓も多くは江戸期に移ったものもありますが明治以降に改葬されたものがほとんどです。

野田山墓地はいろいろな人が研究したり、墓地整理のために県や市が調査しています。現在の形態になったのはやはり長い期間が掛かったようです。17世紀前半に藩主が構成され、中期に妻女が追加され(代表的なものでは3代・利常の正室・珠姫は50回忌を期に改葬されたものです。)
後期に八家老の内の6家が藩主を囲むように配置され、更に家臣団はその下方に建てられています。18世紀になって一般庶民にも許可を持って広がったようです。墓標年代の古いものは他所から移されたものではないかと云われています。更に加賀には浄土真宗の信者が多いのですが、真宗門徒が墓所を設けるのは禁止されていましたが、18世紀後半で文献に許可が出たことが記されているそうです。
明治になると武家が散逸・金沢から退去して墓地の切り売りがあり、中腹から裾野にかけて武家と庶民が混在した現在の形態の要因になっています。

明治になるまで、墓地への立墓は桃雲寺の許可状と管理が施されていました。
明治に入ると、墓地の管轄・所有権は石川県から金沢市と移り、墓守と山林管理を生業としていた野田村住人との野田山の所属訴訟などもありました。これは長く係争問題として残り近年まで問題になっていました。解決を観たのは昭和41年(1966年)の裁判所による和解で、所有権は和解金180万円の支払いで正式に石川県・金沢市となりましたが、条例の許す範囲で山林管理や墓所の清掃管理は野田村に許されています。この和解で全国でも珍しい地元住民の墓守が続くことになったわけです。

明治33年(1900年)前田家墓所は前田家に返還寄贈され、天徳院その他に散らばっていた藩主墓や子女墓が明治から昭和にかけて移葬されています。
平成21年に高岡の利長墓と併せて国指定史蹟となっていますが、加賀藩家老の墓域や室生犀星、鈴木大拙・ベアトリス夫妻など著名人の物もあり興味深い都市型墓地になっています。
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桃雲寺は江戸期を通じて前田利家の墓所の墓守であり、野田山の管理者として大きな伽藍と寺域を誇っていましたが、明治3年(1870年)の上知令により寺領が官有地となり影を落としたところに、明治6年には大火で焼失して再建はされましたが盛時とは比べようもなく縮小した物に成ってしまいました。
追い打ちをかけるように2年後には、太政官令により野田山の管理も石川県に移され衰退します。このことが原因で前述の野田村の訴えになり、県が門前払いにしたことで長い訴訟問題となっていました。

改めて肝心の桃雲寺の歴史を振り返れば、慶長5年(1600年)に前田利家墓所の墓守寺として創建されたのですが、元和2年(1616年)に焼失しています。その前々年に金沢に戻っていた芳春院によって再建されています。その際に利家の遥拝墓が建てられています。これは身体が弱り野田山山頂への登山が出来なくなった芳春院の為に作られたと云われています。芳春院は翌年亡くなり、野田山の利家の隣に葬られています。
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その後は前述のとおり、野田山全体が寺領になっていたわけで、墓地使用料も面積で決められていたようで、文政年間(1818年~)に商家に対して9尺四方で1年・銀19匁強(現在値約10~20万円?)という契約文書が残っているそうですから、相当の収入だったはずです。
明治以降はこれが激減消滅して衰退したわけですが、それでも古風な雰囲気を醸しています。
境内には多くの古風な狛犬や地蔵尊などが点在しています。
墓域内に利家の遥拝墓があるそうですが、今回は観ていないので次回のお楽しみにしておきます。
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拝殿の手前の左横には九萬坊尊を祀った建物があります。九萬坊は近くにある満願寺山の斜面にある窪団地の頂上部にある神社に祀られている烏天狗です。奥の院は更に山を越した三小牛の薬王寺の更に奥の黒壁山にあります。金沢の最高一番の魔所と呼ばれています。またの機会にブログで御紹介します。
この九萬坊は元々、金沢城の本丸に住んでいたそうですが、それを前田利家が黒壁山に無理やり押し込め移して天守を築いたと云われています。御存じのように金沢城の天守は落雷で焼け築かれることはありませんでした。殿様御殿や政庁も二の丸に置かれ、本丸は木々の中に裏寂しくなっています。訪れた人はみんな、これが本丸???と不思議に不気味に思われるほど金沢城内でも顧みられなかった場所です。
前田家では、九萬坊を怖れたのか、はたまた尊宗したのか、この九萬坊が大事にされています。天徳院の拝殿横にも祈祷所があり祀られています。天徳院の人形劇の間を通り過ぎて中に入ると巨大な天狗の面を観られた人もいると思います。
ところが、この謂れを知らない金沢市民が多いのですが、なぜか九萬坊は隠れた人気があります。この桃雲寺も本来は前田利家の墓守寺として他県の方には知られていますが、地元ではこの九萬坊のおかげで、利家を押しのけて、「くまんぼうさん」と呼ばれて親しまれています。災厄除け、病気平癒に御利益があると云われています。
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桃雲寺門前の道路から進んですぐ右折して進むと、同じ曹洞宗の覚尊院を右に観て(現在は山側環状に分断されていますが)、野田山墓地に入るのが野田口と呼ばれ、前田家墓所に向かう正式な参道になります。
ほとんどの人が平栗線から戦没者墓地の方から向かいますが、この参道も一度は歩いてみることをお勧めします。結構しんどい行程ですが。。。

旅行日 2012.03.19








この記事へのコメント

  • がにちゃん

    流石 前田家の墓地 広さが違いますね  高岡の方は言ったことがあります りっぱな寺院でした  
    2014年11月29日 16:29
  • つとつと

    がにちゃんさん
    前田家の墓所も江戸時代は仏式で廟堂が在ったりしたようですが、明治に神式になったので鳥居が経っています。国史蹟になったので、整備も進められて散策し易くなっています。機会が在ったら廻って観て下さい。
    利長の瑞龍寺の建物は北陸でも珍しい国宝指定の建物で重厚ですねえ。門前の道が八丁道と云われて利長の墓所の参道になっています。昔からの灯篭や面白いモニュメントがあって飽きない道ですねえ。
    2014年11月29日 21:45
  • イータン

    こんにちは~
    前田家の墓地 東京ドーム 10以上とは凄い土地ですね。
    そうでしたか 利家は京都で亡くなったのですね。
    代々の家系図で追ってみたくなります。
    貴重な資料 ありがとうございます。
    2014年11月30日 17:02
  • go

    つとつとさん、おばんです~
    前田家とのつながりの天徳院のことは時々聞いて知っていましたが、桃雲寺や宝円寺のことはあまり知りませんでした、たいへん勉強になりました。
    先日、長町の前田土佐守資料館に行って来ました、たいへん興味のある文物が展示されていて面白かったです。
    ところで今日は友人と能登に用事があって出掛けました、その友人は宝円寺に縁があって出入りして方で、帰りの車の中で話していたのですが、興味がある話で宝円寺に俵屋宗達の墓があると言っていました、文献では俵屋宗達は生誕没年、出身地は不明とされていますが?、それと宝円寺には前田家の側室の土饅頭の墓があるそうです。
    歴史って聞けば聞くほどミステリーで面白いですね。
    2014年11月30日 21:33
  • つとつと

    イータンさん
    加賀は良きにつけ悪しきにつけ、前田家の影響が色濃く残っています。
    ちょうど大河で長政が徳川に肩入れしていますが、おおきな原因となった石田光成を七将が襲ったのが利家の死が原因でした。それまで抑えた利家がいなくなったのが原因でした。

    goさん
    土佐守資料館に行かれたんですか、意外に訪れる人が多くないみたいですが、芳春院の手紙や前田直躬の加賀騒動の弾劾状など興味深い資料が多いですね。
    宝円寺の墓地は建物から住宅街を西に少し行った所にあるんですが、なかなか興味深いものがあります。俵屋宗達は数年前に本堂の位牌が先に見つかって、墓も特定されたそうです。以前は崩れていたそうですが今は修復されています。
    宗達のスポンサーは加賀藩というのは知られていましたが、名前から飴の俵屋と関係があるんでしょうかね。。そうそう、宗達の墓の画像がありますよ
    http://72469241.at.webry.info/201208/article_29.html
    2014年12月01日 10:16

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