宝乗寺

宝乗寺のある三谷地区は金沢から山越えで越中・福光に抜けられる国道304号線の県境近くの山間になります。金沢から富山方向に走って、古屋谷町の交差点を右折すると、これまた峠越えに医王ダムから流れる森下川伝いに、以前ご紹介した二俣本泉寺に抜けられるのですが(県道211号)。。右折してしばらく行くと山中に入るような車町という住宅団地があります。そして住宅街の一番奥に宝乗寺の駐車場があります。
211号沿いにも入口はあるんですが、長い階段をひたすら登ることになるし、そもそも駐車スペースはあるけど狭く、水汲みの人に邪魔になってしまいます。登り口に七面清水(しちめんしょうず)という洗水と清水があり、けっこう車で水を求める人が多いようです。
画像
画像

正式名は明珍山・宝乗寺。日蓮宗の寺院です。
創建は当寺縁起によれば、真言宗の寺院として創建されたとされます。真言密教に関連する真言宗は北陸には多く観られましたが、そもそもこの辺りは医王山系に当たり、修験者が多く存在したことが覗えます。
永仁2年(1294年)、日蓮宗の北陸本山・妙成寺を開基した日像が京都布教の途次に立ち寄り、法論の末に日蓮宗に転宗させています。日像の足跡は北陸に多く残されていますが、七尾の石動山・天平寺でやはり法論を持ちかけて排斥されていますし、この後京都でも延暦寺・東寺から排斥を受けていますから、その法論の持ちかけはけっこう過激だったようです。ともあれ、1.2度京都から追放処分を受けていますが、赦免後は後醍醐天皇の保護の元に京都に妙顕寺を建立、公的には南北両朝から保護を受けています。
画像
画像

金沢市内には日蓮宗の寺院としては、忍者寺として有名な観光名所・妙立寺、飴買い幽霊の昔話で知られる金沢日蓮宗最古の寺・立像寺(りゅうぞうじ)などが知られていますが、寺域だけならば一番広いかもしれません。
日蓮宗の古刹として加賀藩からの保護の元、江戸期は三谷地区の教育文化の発信地となり、金沢へも大きな影響力を有していました。また、古刹ということで多くの財物を保有していたようです。
しかし明治17年(1884年)に堂宇と共に多くの財物を焼失してしまったそうです。現在は江戸期以前の物としては、日蓮の尊像、法華経一巻、数体の仏像、狛犬一対、また後でご紹介しますが、江戸期初期の釣鐘だけになったそうです。しかし、現在も堂宇や寺門は立派な造りで、人口密度の低い山間に建つ寺院としては明治以降の寺院としては古風で大きな建物です。

画像

実はここを訪れた際には画像を写したし所縁も書かれていたんですが、作者の名を観てもピンとこなかったのです。
美しい口径と上部の龍頭が美しいとは思いましたが、金沢市指定文化財?ふ~ん程度だったんです。
ところが、地元紹介のTV番組(テレ金ちゃんだったかな。それとNHK。。たぶん)を観ていたら、金沢市彦三町の「寒雉庵」と「宮崎彦九郎家」とその工房を紹介する物がありまして、そこでこの梵鐘を思い出したわけです。更に前回の芦城公園で関連も仕入れた次第^^;なにせ、茶道や華道は苦手で無知に近い人間なもので。。。
画像

で、その後、改めて調べたわけです。これがなかなか興味深いものでした。
まずはこの梵鐘から。。梵鐘に刻まれている称名は「元禄第六葵酉歳四月八日治工宮崎寒雉義一

案内板から 金沢市指定文化財 宝乗寺 梵鐘 
         製作者・・・宮崎寒雉義一
         制作年代 元禄六年四月八日(1693年)この梵鐘は現地で鋳造したという伝えがある。
         寒雉晩年の作であり、その技術は熟達の極めを尽くしたと見られる。
                                       昭和五十六年三月 金沢市教育委員会

宮崎家は能登国中居(現・穴水市中居)で代々、鋳物師を生業にしていた家でした。天正9年(1581年)義一の父・義綱が、七尾城に入った前田利家に召し出され、武具や馬具、鳴り物の製作に従事しています。その後、利家が金沢に入城した際には木ノ新保(現・金沢市 金沢駅周辺)に千坪を与えられ、武具・馬具・鳴り物の製作責任者として従事していました。

時は流れて戦国も終わり江戸時代、三代当主・前田利常は多少の反幕思想を持っていたものの、加賀藩を独自文化の府にすることを目指し、金沢・高岡・小松を文化都市にすることに邁進します。このために、細工所を創設し多くの芸術品、工芸品の製作探究に勤めさせます。この指導役として京都を主に全国の文化人を招聘しています。
この細工所に関しては、工芸・芸術・学術多岐にわたっていますが、利常・光高・綱紀と三代を掛けて完成の域に達しています。現在の高岡の銅器、井波の彫刻、金沢・小松の工芸品、更には菓子・日用品まで独自の文化が根ざす基になっています。
画像

この指導役の中で、茶道に関しては芦城公園の茶室で触れた裏千家四代・仙叟宗室(せんそうそうしつ)でした。裏千家が正式に成立したのは仙叟と父・宗旦が今日庵を建てた時になり、これ以降裏千家の家督後継者は宗室を名乗ります。ですから仙叟宗室は、実質的な裏千家の開祖になります。
初め仙叟宗室小松城に屋敷を与えられていましたが、この時に義綱との親交も伝えられています。利常の死後、綱紀の時代には改めて茶頭として味噌蔵町(現・金沢市兼六元町、橋場町、材木町)に屋敷が与えられ茶室臘月庵(金沢市大手町に旧跡碑)があります)を建てています。
宗室としての職務の関係で京都との往復を何度も繰り返していますが、京都から連れてきた土師長左衛門に大樋村(現・金沢市大樋町)で作陶研究をさせ、これが現在の大樋焼にとなっています。

当時、細工所の鋳物奉行となっていた宮崎彦九郎義一を指導して茶釜を製作させています。
薄造り、砂肌、青みを帯びた釜が特徴で、この釜と前述の大樋焼、さらに茶頭としての仙叟宗室の指導によって、茶道具も充実して行き金沢茶道界が充実して行きました。
義一はその後はこの技術を生かし藩御用達釜師となり「寒雉(かんち)」の号を受けています。初代・寒雉彦九郎(義一)は釜以外にも鋳物技術が優れ、梵鐘にも多くの秀作を残しています。今は残っていませんが、富山城の初の自作時鐘も彼の作品だったそうです。
宮崎家は代々、釜師として家が続き当主は寒雉彦九郎を名乗り、現在は14代を数えています。TVでは跡継ぎの15代目が作業場(工房)での工程の紹介をしていました。恥ずかしながら、茶釜や梵鐘は寒雉の名で何となく見てはいましたが、宮崎家にかんしてはこの番組で初めて知りました。。金沢の歴史伝統工芸の継承を知らなかったとは恥ずかしい
画像

この梵鐘は寒雉義一63歳の時の作品です。案内板に晩年の作と書かれていますが、寒雉義一は79歳で亡くなっていますから、晩年というより円熟期といえます。総高123㎝・口径70.7㎝と小振りな部類ですが、竜頭の眼つきや乳の配列も綺麗なものです。音も素晴らしいという話ですが聞いたことがないのであしからず。。初代・寒雉作と伝わる梵鐘は県内外に約20口程あるそうです。

ちなみに梵鐘について、前回の芦城公園の利常銅像が戦時供出に遭ったことを書きましたが、梵鐘は更に厳しい対象になっています。古くは黒船来襲で梵鐘を置いて大砲に似せたという笑い話がありますが、その後も幕府が梵鐘を鋳直して大砲や武器に供出していたことはあまり知られていません。第2次世界大戦の梵鐘の供出は4~5万口以上と云われています。対象外となったのは製作年が慶長末年以前(1615年)の銘の有る物、国宝・重文指定、特別保存許可の出た物だけでした。本来寺社のほとんどが持っていた梵鐘ですが、戦後には製造の難しさから無いお寺も多く存在します。現在の梵鐘製作が限られた企業にとどまり、技術継承者の存在、作製工程の多さによるチーム編成などの問題が大きいそうです。年間200~500口の製作に留まっているそうです。失われた数を取り戻すには2世紀以上の年月を要することになります。特に江戸期の梵鐘の喪失は大きく、もし江戸期の梵鐘を見かけたら相当の銘品と思って、鑑賞、聴音することを心がけましょう。

画像
画像

画像
画像





宝乗寺には「三谷の大杉」と呼ばれる名木があります。本来僕がここを訪れたのはこちらがメインでした。本堂横の地元豪商の車屋庄右衛門の墓の石段を登ると、20数本の巨木が立つ森が迎えてくれます。この森は「いしかわの森50選」に選定されているそうです。駐車場奥から同じ奥御堂(七面堂)に登れる山道の山裾には木々に囲まれた砂防ダムも見られます。
画像
画像

画像
画像

画像


石段を登り切った場所に奥御堂(七面堂)があります。そこに三谷の大杉「御神木大杉」があります。
樹形は真直ぐに天に向かって伸びています。周りの杉の巨木も真直ぐな形態です。
「御神木大杉」は樹高34.4m、7.45m、樹齢800年以上。側の七面堂の古刹な建物と同化して、森厳な雰囲気を醸し出しています。
画像
画像
画像
画像



















旅行日 2013.05.08

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 28

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス ナイス

この記事へのコメント

  • がにちゃん

    雨かい幽霊の話は京都にもあります  どちらが先か判りませんが 話が伝わって行ったのでしょうか  
    2015年01月15日 14:55
  • つとつと

    がにちゃんさん
    飴買い幽霊の話は日本各地にあるようです。
    僕が知ってるだけでも、県内には立像寺の他に大野や能登にも同じ話があるんですよ^^;実は昔だけど、中学の時にこの話を教えてくれた国語の先生が教えてくれたんですが、元の話は中国(南宋)から流れて来たそうです。でも飴じゃなくて餅なんだそうです。で、その元は仏教経典のインドにもあるそうなんです。良い話はあっちこっちに広がるんですねえ^^
    そうそう、こちらでは、生まれた子供は總持寺の貫主になったとなっています^^
    2015年01月15日 16:57

この記事へのトラックバック

  • 末次城 (奥能登の城②)
  • Excerpt: 松波城の支城となるのが末次城です。別名は地名から行延城とも呼ばれています。 築城年代は未詳ですが南北朝になるのではないかと云われています。 位置的には松波城から旧街道と云える国道249号線を4..
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2015-09-06 16:06
  • 長壽寺② 裏千家と宮崎彦九郎義一(寒雉)
  • Excerpt: 長壽寺には、他にも注目に値するものがあります。まずはこの鐘楼堂の梵鐘(釣り鐘)。 以前ご紹介したことが有りますが、加賀藩の鋳物師で宮崎彦九郎儀一(初代寒雉)の作になります。
  • Weblog: つとつとのブログ
  • Tracked: 2018-09-22 21:36

最近のコメント