瓶割坂(かめわりざか)① 大蓮寺(だいれんじ)

国道157号線を野町広小路から犀川大橋に向かうなだらかな坂道があります。この坂は別名「瓶割り坂」と云います。古くから北国街道の主要道で、尾山(金沢市街)に入る入口になっていたようです。
瓶割坂の名の由来ですが、奥州逃避行中の源義経一向がこの坂に差し掛かった際、同行していた義経の妻が産気づき、慌てた一行が瓶に入れていた衣服を取り出そうとして、大事な瓶を割ってしまった所から来ていると云われています。
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余談ですが30年近く前、転勤で新潟に移った際、国道8号線沿いの米山IC近くの峠越えの道路沿い(たしか米山トンネルを抜けてすぐだったかな)にある胞姫(よなひめ)神社に立ち寄ったんですが、地元では安産の神様として信心されているんですが、ここにも同じ逸話が伝わっていて驚いた記憶があります。ちなみに柏崎の上輪の峠の坂道は漢字違いの亀割坂と云うんだそうです。

この瓶割坂は幹線道路の一部で観光客も犀川沿いに行きますし、寺町や片町に向かうために通り過ぎる人が多いんですが、江戸期から重要視された寺社があります。入口が狭くて通り過ぎることが多いんですが、一度くらいは中に入ってほしい寺と神社があります。それが「大蓮寺」「神明宮」「雨宝院
と。云うわけで今回は3部作になります。たぶん。。。。


まずは「大蓮寺
宝池山 大蓮寺」は浄土宗の寺院で、開山は天正11年(1583年)に前田利家の金沢入城に伴って、荒子七人衆の一人・小塚淡路守秀正が七尾の西光寺広誉怒白上人を勧請して創建したのが始まりです。創建時は御馬屋町(現・金沢市木ノ新保、金沢駅になります。)に創建されています。その後、御馬屋町が前田家の御用地となった為、現在地に替え地を与えられて移っています。広誉の跡を継いだ2代目住職は聖誉貞安(定安?せいよていあん)になります。この聖誉貞安は隠れた逸材でした。
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ちなみに、七尾の西光寺は詳細ははっきりしませんが、能登の守護大名・畠山時代には七尾城の古屋敷町にあり厚い信仰を受けていたようです。現在は小丸山城址側に寺院があり、江戸期には能登の浄土宗総触れ頭になったほどの名寺です。また、大相撲6代横綱・阿武松(おうのまつ)緑之助の墓があるなど相撲の盛んな地として愛宕山相撲場にも関わります。
戦国期には上杉謙信の能登侵攻により、安土の田中(現・近江八幡市)に退避移転していました。その時の住職が聖誉貞安で、有名な安土争論(安土宗論・安土問答)で、浄土宗側に立ち法華宗を論破して、法華宗による他宗への法論を吹っ掛けることを止める誓約を取った立役者になっています。つまり当時の学識最高レベルの高僧だったと云えます。ところが、この争論以外にはあまり表だった事績がなく忘れられた存在ですが、当代最高の学僧の人物が能登の西光寺、今回の大蓮寺の住職になっているのは特筆ものです。大蓮寺の寺伝には貞安は織田信長の従兄弟に当たるともなっています。

それが事実なら安土争論は織田信長の仕組んだ法華つぶしの疑いが出るのですが、実際そういう主張が日蓮宗関係から多く出ています。その後の信長の法華宗への仕置き、関係性、法華宗の対応をみるとそうとも言えません。付け加えるなら織田家は法華宗の檀家であり、信長が最後に宿泊した本能寺も法華宗の寺院です。また日本の宗教の中でも過激さではナンバー1の法華宗がおとなしく詫び状を出したのも不思議です。(信長に10年以上戦闘で抵抗した本願寺の山科本願寺を焼討して石山に追いやったのは法華宗徒です。)もし謀略なら、法華の乱・法華一揆が発生してもおかしくありません。とにかく当分は安土争論の真相は闇の中です。
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横道に逸れちゃいましたが、大蓮寺の主役は豪姫豪姫については以前にもUPしていますので、興味のある方は読んでみてください。
※野田山 加賀藩主墓所    ※黒門前緑地
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豪姫は前田利家・於松夫妻の四女として誕生し、幼少期に子供のいなかった羽柴(豊臣)秀吉・寧々夫妻の養女となっています。15歳で同じく将来を嘱望されていた宇喜多秀家に嫁ぎ、2男2女をもうけています。
夫・宇喜多秀家は五大老の一人にまで出世。夫婦仲も良かったとされています。ただ偏重が過ぎて、本国と大坂屋敷の確執で宇喜多騒動を引き起こしてもいます。
しかし関ヶ原戦で西軍副将となった宇喜多秀家は敗退、逃亡後に捕縛され紆余曲折の末、八丈島に遠島されます。二人の息子も秀家と共に遠島になっています。
ちなみに次女・冨利姫は秀家の逃亡中に大坂・備前島屋敷での逢瀬で授かった子とされ、豪姫が金沢に戻ってから誕生した娘です。(別異説ですが生まれた子は男子で、1歳の冨利姫の歳を偽ったというものもあります。ちなみに富山の豪農・浮田家の始祖がその男子だとも云われています。)
冨利姫は伏見宮十代当主妃となり11代邦道親王を生んでいます。夫の死後金沢に戻り50歳過ぎで真宗大谷派(東本願寺)善福寺(現・金沢市橋場町)に再嫁しています。善福寺には冨利姫由来と推測されるキリシタン灯篭があることで知られています。

夫や息子と離れ離れとなった豪姫は現在の黒門前緑地にあった屋敷に住み、30年ほどを過ごして数奇な人生を送っています。
加賀藩に仕えた客将・高山右近の影響でキリスト教に入信(洗礼名マリア)、キリスト教信者の多かった加賀藩士のシンボル的存在となっており、宇喜多家との関係で加賀藩筆頭家老・本多政重、元宇喜多家家老・中村刑部家正など加賀藩首脳部との二重の主従関係があり、大きな存在感を持っていたようです。しかし幕府との関係上、表立っての発言や登場は控えていたようです。
豪姫は生前、八丈島の宇喜多秀家に食料や金を贈り続けていましたが、豪姫死後も加賀藩は八丈島の宇喜多家への援助を明治になるまで続けています。このあたり、豪姫の存在は加賀藩の中でも大きかったことを表しているようです。

この豪姫が亡くなった際に葬儀が行われ、位牌所・菩提寺となったのが大蓮寺です。
幕府への遠慮から加賀藩としての葬儀ではなく、前述の中村刑部家正など有縁の関係者によって行われたそうです。私的葬儀とはいえ、加賀藩は葬儀後に大蓮寺に対して50本の松を寄進しています。加賀藩としても、前田家所縁の寺院として重要視していたことが覗われます。これはあまり関係ないかもしれませんが、大蓮寺の正門門扉の柱の寺名は前田家現当主・前田利祐(まえだとしやす)氏の書になります。
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また、豪姫の本墓は野田山の父母の墓近くに建てられています。前田家の藩主関係者の多くは土饅頭型の古墳形式ですが豪姫は五輪塔になっています。また、前田家墓所の管理は桃雲寺が行っていましたが、豪姫のみは大蓮寺が管理・整備しており、現在に至っています。前田家内での豪姫の立場が微妙なものであったことも表しています。

大蓮寺の右の大ケヤキ(樹高約20m)脇の柵門を入って、本堂裏手の墓地中央に豪姫の供養塔があります。
豪姫の分骨を持って建てられたものですが、右手の傍らには変わった形の五輪塔が並んでいます。
平成6年(1994年)、豪姫360回忌に合わせて、野田山墓所と八丈島の宇喜多秀家の墓所から分骨を受けて建てられたものです。約400年ぶりに金沢と八丈島に生き別れとなった豪姫秀家の夫妻が、この地で再会、今は仲良く肩を並べてこの地に佇んでいます。運命とはいえ、深い思いに心が震えます。
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豪姫の五輪塔の横に一本の椿があります。この椿は「金沢豪姫」という品種で、金沢市の椿の愛育家・千田清司氏 が品種開発・農水省登録したものです。千田氏は椿の交配を重ね、これまでに80種以上の新種の椿を開発・登録していることで知られます。2.3年前ですが特養ホーム「陽風園」の前庭に「金沢豪姫」「金沢珠姫」を寄贈したのを観ていました。しかし、なかなか縁がなくて花を見たことがありませんでした。今回訪れた際に盛りを過ぎていましたが、初めて「金沢豪姫」の花を見ることが出来ました。
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大蓮寺は草創期には前出の小塚淡路守秀正が大檀越として後ろ盾となって隆盛するかに見えていました。
小塚秀正は創建当時の所領7千石、江戸初期の加賀藩成立時には9千石を領しており加賀八家に匹敵もしくは並び立つ家柄になっていました。主に前田利長に仕え、利長隠居時には高岡城に配されています。また利長死去に際して、前田家一門・家臣団合わせて20名に遺言状が送られていますが、その20名の中の一人に数えられています。大坂の陣では金沢城の城代を努めるほど主家の信頼と実力を重ねていました。ところが、子息の討死、早逝が重なり、小塚家の主家・支家が全て断絶してしまいます。(その後は小塚家の組下で、人持ち組1500石の石野家が替わって大檀越となって、大蓮寺を支えて現代に続いています。豪姫の供養塔の背面に大きな墓標が多くありますが、石野家の歴代墓です。)

        ※ちなみに大檀越ですが、大口の檀家が檀越で大檀越は檀家の筆頭総代に当たります。
          また、人持ち組は加賀藩の職制で、藩主を筆頭に、家老の加賀八家、その下部に位置
          し千石以上の家臣で構成されたのが人持ち組です。他藩における上士に当たります。
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そのまま平穏に小塚家が続いていれば大蓮寺は大寺としての道を歩めたのでしょうが、初期には陰りが見られたのです。その後、豪姫の葬儀が行われ、位牌所・菩提寺となって保護の手も加わり持ち直した経緯があります。ちなみに大蓮寺豪姫死去前後は不明ですが、宇喜多家と家臣団の菩提所にもなっていたそうです。僕もまだ見たことはないのですが、豪姫の位牌、豪姫の念持仏の聖観音像ほかの寺宝と共に、本堂の格天井には宇喜多家の家紋と宇喜多家臣団の紋が飾られているそうです。
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文化12年(1815年)に類焼で焼失、現在の本堂はその年に、以前ご紹介した如来寺の入誉上人が住職となって再建したものです。白漆喰の美しい堂宇です。


次回はお隣の神明宮をご紹介します。大蓮寺の大ケヤキは神明宮の大ケヤキと関連した親戚関係だそうです。
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旅行日 2015.04.29




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この記事へのコメント

  • メミコ

    初めまして ガニチャンさんのブログから訪問させていただいています
    金沢は30年以上前 実家の父が単身赴任していました それで時折遊びに行ってましたが 今は旬の人気スポットですね  丁寧なブログで 金沢の思い出がよみがえりました  また時折訪問させていただきたいです
    2015年05月07日 10:14
  • つとつと

    メミコさん
    こちらこそ 初めまして よろしくお願いします。
    ガニチャンさんにはグル旅のumotust名以来のおつきあいで仲良くさせて戴いています。
    金沢も今回の新幹線で旬の町になってきました。このまま人気が続くかはみんな疑心暗鬼ですが、活気が出るのは良いことですねえ^^
    お父さんが転勤で金沢にいらしたんですか、僕も以前は転勤族で長く他県に出ていました^^;逆に今は石川から出られない仕事になってしまいましたが、逆に見直すいい機会と思っています。金沢も幹線道路が発達したり、金沢城から大学が移転して整備復元されて見違える姿になっています。
    つたないブログですが、気が向いたらまた遊びに来てください^^
    2015年05月07日 16:35
  • go

    つとつとさんおはようございます、野町広小路から犀川大橋までの坂が瓶割り坂という名前があった事は知りませんでした、何の気なしに通っていた場所のも歴史があるんですね、初めて知りました。
    豪姫の墓は今年の2月に大乗寺山丘陵公園に行った時に前田家墓所をみてきました、その折に豪姫の墓を見ましたが、藩祖前田利家公や代々の藩主と奥方の墓は柵に囲まれて中には古墳形の土饅頭になっていました、入り口の石の鳥居は其の時は知らなかったのですが明治時代に造られたものと後につとつとさんに教えて頂きました。
    そんな加賀藩の方々とは少し離れた場所に豪姫の墓がありました、柵もなく土饅頭の上に五輪の塔がある墓でした、入り口に朽ちかけた高札があって豪姫の墓である事が記されていたので分かりましたが、柵で囲まれて入り口に被葬者の名前が記された石碑がある加賀藩の方々の墓とは明らかに違っていました、女性は嫁いだり豪姫の様に養女になって家を出た物は其の時からその家の人では無い一線が引かれるのですね、特に豪姫の晩年はつとつとさんの記事の様に恵まれない人生でしたので、その時に白く雪を被った豪姫の墓が寂しそうに見えました。
    2015年05月08日 07:57
  • つとつと

    goさん
    いつも通る坂道なんですが、地元の人ほど何気に通りすぎてしまうサカですから。
    豪姫の生涯は悲しい部分や寂しい部分が強調されてしまいますが、宇喜多家への江戸期を通じての援助などを観ると豪姫の存在感は大きかったんでしょう。
    利長の跡目となる利常への決定には、利長夫人の永姫(信長娘)や豪姫の後押しが大きく影響したそうです。何しろ利家夫人の芳春院と利常の母・寿福院の反目は有名ですから。。特に豪姫が芳春院を影から説得したのが決め手と云われています。
    加賀前田家の女性陣では於松、豪姫、珠姫が突出した人気があります。戦国武将の悲哀を感じますが、後世にまで語られる女性にはやはり魅かれるものがあります。正直、於松は好きじゃないんですが、豪姫についてはいろいろな話が伝承としてあるので興味津々で聞いたり読んだりするたびに好きになる女性です。
    2015年05月08日 19:32
  • 家ニスタ

    宇喜多秀家、世が世なら天下を取っていた人物とも思えるだけに、残念ですね。
    特に関ヶ原は、あとちょっと情勢が変わっていたら、西軍が勝ったと思うだけに。
    立花宗茂を大津城攻撃に回さず、関ヶ原の本戦に参加させていたら、西軍の勝利は確実だったのに・・・と石田三成ファンの僕はいつも夢想してしまいます。
    2015年05月09日 01:24
  • つとつと

    家ニスタさん
    関ヶ原では大垣城中心の籠城迎撃戦にしていたら、立花宗茂の本戦参加、進退不確かな小早川を山上じゃなく中央主戦場に持って行って日和見の機会を与えない、関ヶ原での主将も毛利輝元の参戦、せめて毛利を搦め手にしなければ、中央戦線と主将をはっきりさせるべきだった。どれか一つでも完成していればと、西軍に個性的な武将が多かったですからねえ、ほんのわずかなかけ違いでしたねえ。
    宇喜多秀家がもう少し年齢を重ねて、主将に成れて入ればとホントに思います。八丈で長寿で亡くなった年齢を考えればもったいない人材でした。
    2015年05月09日 08:46
  • がにちゃん

    豪姫と宇喜多秀家はこの時代には珍しく愛情深い夫婦になっていたのでしょね  
    2015年05月09日 14:38
  • つとつと

    がにちゃんさん
    相思相愛はまちがいなかったようです。ちょっと度が過ぎるくらいに^^
    宇喜多騒動というのは、大坂屋敷に配された旧前田家から配された豪姫付き家老・中村刑部家正と本領の家臣団の反目でしたが、秀家が大阪屋敷に肩入れしすぎたのが原因、これがなかったら西軍主力の宇喜多軍はもっと精強な軍団組織が採れたと思います。大坂屋敷の密会や八丈への援助などは豪姫の思いが解るようです。まあ息子二人への思いも強かったと思います。
    2015年05月10日 13:35
  • 家ニスタ

    関ヶ原当時に宇喜多秀家がもっと年上で主将になってたら・・・という意見には同感です。
    その前の宇喜多騒動の影響で、動員兵力が少なかったというのもあるのでしょうか。
    秀家がもう5千人多く連れていたら、軽く西軍が勝ったでしょうね。
    小早川は勝手にさっさと松尾山に布陣してしまったので、平地に布陣させるのはちょっとむずかしいようです。
    しかし事前に東軍に寝返りを確約していながら、当日に西軍の奮戦を見て逡巡していたようですから、宇喜多がもうちょっと押せていれば・・・どうなったかわかりませんよね。
    2015年05月10日 14:24
  • つとつと

    宇喜多騒動では一門、重臣がけっこう他藩に抜けており兵力や武将を多く失っており、騒動が無ければ5千は動員できたかも、、、ただ、朝鮮戦役で本領が疲弊していたから難しかったかも。。騒動の原因が税の値上げという説もありますから
    小早川はさんざん悩んでいますから、宇喜多の善戦は確かに惜しい存在ですねえ。。
    2015年05月11日 20:28

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