松波城址 (奥能登の城①)

毎夏、仕事の関係で輪島まで行くんですが、お仕事は午前中のみ。で、毎回、その後に能登観光をしています。
今夏は新幹線効果とまれ効果もあり、石川に来る人が多いようで海浜道路(のと里山海道)も車が多くて、いつもより時間が掛かっちゃいました。最初、仕事でつきあえないと同行を拒否していた嫁さんは、休みが取れたと云って一緒に来てくれたから、1人よりはおとなしい運転ということもあったみたい

お天気は家を出るときは良かったんですが、能登に北上するごとに曇天にそしてポツポツ
天気予報は豪雨注意だったけど、そこは出かけると晴れ男の僕車を降りると雨がやむ僕輪島はず~~ッと曇天、ときおり太陽が観れました
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のと里山海道の高松SAで一休み ここまでは最高に良い天気・・・出がけに何も食べてなかったんで、おにぎりとお客さんにお土産
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相変わらずですが、お客さんの家は朝市通りなので、海側の駐車場に車を停めて朝市通りを少し通るんですが、盆後ということで昨年よりお客さんは多く感じませんでしたが(いつもは盆前や祭りの前くらい)、僕が御客さんの家にいる間、朝市をウロウロしていた嫁さんが言うには、去年より賑わってるよ。石川の方言じゃない人の声が多かった。やはり観光の人が多かったみたい。お客さんの奥さんも、朝市はよく売れたよ。今年は輪島のホテルや旅館が満杯で大変みたいと言っていました。
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お昼過ぎにお客さんの家から出て、お客さんに貰った輪島サイダーで嫁さんと乾杯して、更に奥能登へと向かいます。そうそう、キリコ会館が場所を変えて新しい建物が朝市の駐車場近くに出来ていました。次回は久しぶりに寄ってみたいと思います。前のキリコ会館は古くて暗い感じでしたが、キリコの灯りが逆に浮かび上がって神秘的な感じでした。どう変わったかまた見てみたい気がします。今年の4月にリニューアルオープンしたようです。以前より基数は減ったようですが。。 輪島キリコ会館のHP

金沢近郊の河北郡に生まれ育った僕には「キリコ」というと、お墓に供えるというか側に掲げる提灯替わりのような灯籠の「キリコ(箱キリコ)」をどうしても思い浮かべるんですが。。。新潟出身の嫁さんにはこのキリコはどうしても理解できないと云って、僕が買おうとすると嫌な顔をしますねえ。
金沢近郊の「キリコ」の起源は藩政時代の浄土真宗のようですが、起源は諸説あってはっきりしていません。有力な説としては、盆の迎え火に関する物。先祖の迎え火の炎を風などから保護し、提灯として先祖が迷わないようにするものだというものです。そうすると能登のキリコの起源も同じですから共通することになります。ただ、能登では迎え火は天に近いほど良いということで、地域で人が集まって大型化して行き、金沢近郊では一家庭で使用して風除けが優先して小型化したようです。大小の違いがありますが同じものだというのが主流の考察となっています。
ところが嫁さんに言わせれば、迎え火は家でするもので墓場でするものじゃないし、あぶないしゴミになるだけという考え。。能登のキリコは地域で使い回すけど、加賀では後の墓参りで回収したり捨てたりしますねえ。。墓から離れた所や県外・市外の家庭が増えるとこれが出来ないので、近頃は板に文字を書いた板キリコというのが増えていますが、あれは個人的には、表札や名札、墓参に来た証明書みたいで、それに味気なくて好きじゃないですねえ。。


前置きが長くなりました。今回は久しぶりのお城巡りです。お城ファンにも登場頻度の少ない奥能登のお城です。
能登を代表するお城と云えば、日本五大山城や山岳城に数えられる七尾城が知られています。
この七尾城を築いて能登を治めていたのが畠山氏です。この能登(七尾)畠山氏の始祖は畠山満慶になります。

足利一門でもある畠山氏は室町幕府の中で斯波氏・細川氏と共に三管領になる名門で能登・越中・紀伊・河内などの守護も兼ねていました。畠山本家では第9代の当主になっていたのが満慶でした。当時は足利義満の時代で室町幕府全盛の時代でもありました。満慶には兄・満家がいたのですが、足利義満の不興をかって満家が失脚していたため、弟が家督を継いでいたわけです。
将軍・義満の死後、満慶は謹慎を解かれた満家に家督を返上して譲っています。当時、この位譲は.天下の美挙と称えられています。この行為から能登を分国されて守護となり、七尾畠山氏の始祖となった人物です。
ちなみに兄・満家は足利義満時代の初期には父・基国と共に幕府の一軍を担っており、応永の乱では敵主将・大内義弘を討ち取る武功を挙げています。元々、畠山本家では将来を嘱望された存在でした。
しかし足利義満には排斥され不遇を囲ったわけですが、満慶からの位譲後は管領及び重臣として足利将軍・義持・義量・義教の三代に仕え手腕を振るっています。前代未聞の6代将軍決定の籤引きを提案したのはこの満家でした。織田信長が全国平定の手本とし暴君と云われた足利義教が頭が上がらなかった唯一の人物です。
しかし、美談が伝わる畠山本家も、その後は家督争いが原因で分裂して応仁の乱の要因を作り、奥州二本松家、尾張畠山家などに散らばり、本拠地の河内を去る破目になるんですから、歴史は皮肉な面があります。
とはいえ、管領の畠山本家の当主という地位経験者であり、京文化を吸収した畠山満慶の血を継いだ七尾畠山氏は大きな力と文化を能登に花開かせたわけです。

満慶の後、三代・義統の三男・義智が奥能登・松波(現・鳳珠郡能登町松波)に所領を受けて、松波畠山家として奥能登を統治することになります。ちなみに、義智の兄の義元(4・6代)、慶致(5代)は七尾本家の当主となっています。更に松波畠山家の5代・義龍の代に有力国人・松波氏の名跡を継いで松浪氏を名乗り、奥能登での統治基盤を固めています。松浪氏は都の日野家に家人を派遣しており、それなりの家格を持って地元では最有力国人で、その名跡は奥能登統治には有用だったと思われます。更に6代目には七尾畠山家9代・義綱の三男・義親が養子となって入り、改めて能登畠山一門衆として列しています。
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さて、この松浪畠山家の本拠となったのが、松波城になります。別名、聴鶴山緑ヶ城。
松波城は鳳珠郡(ほうすぐん)能登町松波にあります。聞きなれない地名だと思いますが、平成の合併前は珠洲郡(すずぐん)内浦町と呼ばれていました。ちなみに鳳珠郡は鳳至郡(ふげしぐん)と珠洲郡(すずぐん)の境界が合併で無くなった為に新設された郡の名称です。鳳珠郡は能登町と冬牡蠣やボラ待ち櫓で知られる穴水町の二町になります。
九十九湾(つくもわん)と富山湾の入り口に当たることから近海魚やイカや蟹の漁港として古くから発達しており、海岸近く迫る山並と海の小島や港の眺望は眼を見張るものがあります。山間部では畜産業もあり、能登牛の産地として隠れた人気があります。また海沿い道路に出れば恋路海岸や風光明媚な海辺が近く、現在はのどかな里山の町になります。
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松波城址は内浦港から少し山側に向かった山間地の入り口にあります。地形を利用した平山城の形態です。
地形と云っても海岸から500mほどしか離れておらず平地が少なく、土壌は砂が多く軟弱で徒歩では登りづらく、南側を流れる松浪川を外堀代わりにしていたようで、背後は峻険な山間部、攻城側にとっては大軍を配置しづらく観た眼よりも攻めづらい物になっていました。防御上も海岸沿いの東側及び南面が重視されており、ほとんどの曲輪や防御遺構もそちらに集中しています。

昭和46年の城址碑によれば、築城面積は尾根を利用して配置を施し3万3千坪に及ぶとされています。老松天と呼ばれる丘陵の中央に本丸、東北部の院の山に御殿・旭鶴館、西北部に長局、北部に嘉尚閣、東南部に景勝台と鳳祥斉を建て、大手付近に庭園(雁鯉ヶ池)と茶寮(一竿亭)を置いていたとなっています。
形態も尾根を利用することから七尾城に似た要素が見受けられます。ただ、遺構の発掘調査は東南部中心で全容は明らかではありません。国史跡指定を受けたため、城址公園として遊歩道がありますので散策には打ってつけでのんびり歩いて回れます。また車で訪れるには搦め手から本丸横の旧武道館まで直接乗りつけるのが便利です。
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僕がこの城に初めて訪れたのは10代の頃の中学・高校の合宿のときで、散策の際に登った記憶でしたが、整備がほとんどなされておらず遊歩道があるだけでしたが、武道館の在った本丸跡を除いて堀切や曲輪跡が何となく解る程度だったのですが、なかなか厳しい城跡という印象の記憶がありました。ところがウン十年ぶりに訪れて観ると、結構整備が進んで見やすくなった分、それ程の堅固さや重厚さが減った感じに受けました。
特に現在も発掘調査や保存整備が行われていて、庭園跡や建物跡の曲輪にはブルーシートが敷かれていて、今一つと云った感じ。。
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昭和37年(1962年)に前述の雁鯉ヶ池と一竿亭の存在が確認されていたのですが、昭和55年に続く平成19年の発掘調査で、大手門の側に枯山水使用の庭園、建物跡、天目茶碗等が発見されています。この庭園と建物(規模から草庵のようです。)・天目茶碗は室町時代(15世紀後半から16世紀前半)のものでした。年代的には畠山義智松浪城を築城したのが文明6年(1474年)と云われており、庭園と草庵も築城と同時期あるいは数年で作庭されたと予想されます。
現存する室町期の枯山水庭園は県内にはなく、唯一のものとして脚光を浴びています。平成3年に県指定文化財となり、平成19年の本格調査を経て平成24年に「旧松波城庭園」として国名勝に指定を受けています。

指定理由は、前述の室町期の枯山水庭園としては北陸でも数少ないというものですが、特に水の流れを大小の平石を用いて組み合わせて表すという小端立(こばだて)という技法が使われていることにあります。室町期のこの技法の遺構残存は全国的にも類例がないことが大きかったようです。
ブルーシートでこの画像が撮れなかったので、詳しく観たい方はこちらをどうぞ ⇒ 文化遺産オンライン
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天正5年(1577年)、上杉謙信の能登侵攻により七尾城が陥落して守護・畠山家が滅びるわけですが、上杉軍は堅城の七尾城攻略のために能登の支城を攻め落として、能登の軍兵を集中した七尾城の孤立を図っています。七尾城の敗因は、畠山軍が能登各地の軍勢及び民衆を七尾城に集めたことにより、支城が手薄になったことと、七尾城内の糞尿処理の限界を越した人員の入城で疫病が発生、これにより城主・春王丸の病死、戦意喪失による重臣の離反が主要因でした。
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七尾城陥落後も手薄になった能登の各城に上杉軍は軍勢を派遣してつぶしていきます。6代・松波義親も七尾城に参戦していましたが、落城と共に逃れて松浪城に再起を期していましたが、松浪城も謙信に派遣された越中の武将・長沢光国によって攻城を受け、寡兵で抵抗しましたが義親は自害して落城しています。その後、松波城は史上に上がらず歴史に埋もれた存在となっていました。
城郭の名残は本丸横の土塁、本丸から大手門の間の堀切や大手門下の大規模な堀切に城としての模様が観られます。
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ちなみに松波義親の家族は落城時は越後にいたと云われています。これは、上杉謙信が能登攻略の口実にした畠山家の総領にしようとした養子の畠山義春に随従していたのではないかと予想されますが、詳細は分かっていません。
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その後、義親の室は能登に入部した前田利家の妻・芳春院の侍女に入り、長男は長家に婿として入り長連親となって前田八家老の長家の家臣団の一人になっています。次男・義直は松波姓で長家の一族衆に、三男は松波姓で前田利政の家臣団に入っています。
ちなみに次男・義直の血筋は独立して加賀藩士歩組になり、「うずまきポンプ」の発明者で荏原製作所の創始者・畠山一清を輩出しています。暦年、石川県人会の会長を務め県にも大きく貢献していました。なお、七尾城址資料館は、彼が建物とともに展示品の多くを寄贈したものです。
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長らく城主無き城として放置されていましたが、城内や山間を歩くと多くの蟹に出会います。大きい物では5センチほどの大きさがありますが、堀切の土壁や坂の途中などに巣穴を作っているようです。海岸側や川側だけでなく、城全体に生息しているようです。本丸で待っていた嫁さんも蟹を見つけてカメラで撮ろうと、あっちウロウロこっちウロウロで追いかけていたようですが、、、現在の城の主はこの蟹さんということになります。

松波城には当時の建物は何も残っていませんが、松波義親が葬られた曹洞宗の万福寺(能登町役場内浦庁舎の近く)の山門が松浪城の搦め手門を移築したものだそうです。また、旧松波駅舎を利用したトリビア館に松波城の簡単な説明案内や発掘品の一部が展示されています。

ちなみに鉄道ファンはもっと詳しく知っていると思いますが、平成17年(2005年)に廃線となった能登線があったのですが、、、海沿いを走る路線は結構人気があったんですが、やはり鉄道離れで赤字が続き廃線になったのですが、、、この路線で特に人気のあったのが「恋路駅」でした。恋路という名に人気が集まって、北海道広尾線の幸福駅と共に人気があり、恋路・幸福の切符を手にしたいという人が多かったんですね。ところが恋路駅は急行も停車する駅だったんですが無人駅でして、入場券や切符が手に入らなかったんです。そこで当時は隣駅になる松波駅で恋路駅の入場券や恋路行きの切符が入手できたんです。おかげで小さな駅ですが松波駅の乗降数もけっこう多数でした。
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またこの能登線は松波城址の中を通っていました。現在、発掘調査が進む本丸及び大手側と景勝台を含む出丸の間に橋が架かっていますが、そこが能登線の跡になります。山を削って幅を広げていますが空堀を利用していたようです。

旅行日 2015.08.22

松波城
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この記事へのコメント

  • いくこあら

    ご来訪ありがとうございました。
    とてもきれいな青空、青い海。気持ちがいいです。
    歴史に疎くて、なかなか難しいのですがすみません。。
    でも蟹がいっぱいの自然豊かなところなのですね。
    城跡の中の線路なんてちょっと格好いいですね。廃線になったのが惜しいです。
    2015年09月04日 21:09
  • go

    松波城址は能登の歴史的遺産が今後も末永く保存作業が進められて保存してほしいものです。
    七尾城が陥落要因となった記事を興味深く読ませて頂きました、大勢の兵が籠城すると食料や水、そして排泄物の処理などの問題が出るのですね、西洋の戦でも籠城中に疫病が流行して自滅した話を聞いていますが日本でも同じような事が起こった事を知りますた。
    主題からそれますが、私も現役時代に能登の営業を担当した時代が有りました、つとつとさん程広範囲ではなかったのですが、遠いところでは町野や内浦方面でした、能登は広いですね、出掛ける時には弁当と水筒はしっかり持って出かけましたが、夏の暑い時には弁当を食べる日陰を探すのに苦労しました、目当ての木の下は先客でがっかりしたことなど、今となっては思い出として残っています、つとつとさんも能登営業で御苦労さんです。
    2015年09月05日 06:42
  • つとつと

    いくこあらさん
    コメントありがとうございます。
    ただでさえ小難しい歴史での上に、地元中心で歴史本にも登場しないようなところが多いので、ちょっと気が引けちゃいます^^;
    奥能登はまれのおかげで、輪島方面が脚光を浴びますが、反対側のこの辺りは内海の入り口で波が静かで小木港の近辺などは海産物の宝庫になっています。能登の素朴さを求めるならこの辺りが最高のスポットと推奨します。
    いくこあらさんの住む大阪もしばらく行ってないなあ。。ウン十年前ですが、学生時代は南河内に居まして、河内・葛城や山越えた当麻には愛着があって、また機会があればと願っているんです。
    2015年09月05日 11:35
  • つとつと

    goさん
    七尾城の最大の失敗は戦力以外の女子供を含む民衆まで籠城に駆り出してしまったことです。兵糧や水は十分にあったのですが、排水能力が貧弱なことを計算しなかったようです。疫病発生で城主が亡くなるなんて前代未聞だったと思います。
    僕の仕事関係は金沢・白山が中心で能登にはそれ程顧客が多いわけではないので、年に数度しか行けず、しかも同じ時期ばかりというのがネックになっています。
    そうですねえ、能登の道を走ると主要道路沿いに木影がないですからねえ。場所の取り合いになっちゃいますねえ。でも内浦から宇出津・穴水は本当に波が静かで海岸伝いに車で走ると気持ちが良いですねえ^^今度は涼しい時に行ってみたいです。
    2015年09月05日 11:56
  • メミコ

    輪島は1度しか行ってませんが 今や人気スポットですね

    みなさんのように 歴史に詳しくないので ブログを拝読させていただくのが めいっぱいです

    今回は キリコを始めて知りました  後半の歴史ブログは いつも 勉強させていただいてます
    2015年09月05日 13:14
  • つとつと

    メミコさん
    輪島は以前までは朝市と千枚田だけが突出して有名で、他は一部の人しか知らないものばかり。。キリコ会館は県内の人より外人さんに知られていました(ミシュランの観光スポットで星マークが付いていました。)まれのおかげで、間垣や鳴き砂の琴ヶ浜なども知られるようになりました。まだイマイチなのが輪島塗。。最大手の稲中が民事再生停止で縮小営業となって、大きな販売店や作業工程が観られる場所が減ってしまったこと。。輪島塗の先はまだまだ厳しいようです。
    2015年09月05日 17:02
  • イータン

    こんばんは~

    お2人で旅できて良かったですね

    輪島サイダー 見ているだけで喉がシュワ~となりました(笑)
    輪島の朝市は日本三大朝市の一つだったかしら?
    岐阜の高山 千葉の勝浦 でしたよね 
    輪島の朝市だけお邪魔していません。

    松波城址の後を通っての帰宅でしたか
    前の説明を思い出しながら拝読しました。
    2015年09月05日 19:18
  • つとつと

    イータンさん
    やはり、遠出するには一人は寂しいですからねえ^^
    最初、一人のつもりだったんで、お城巡りを計画してたんでそのまま実行しちゃいました。本丸に一人取り残されてた嫁さんはつまんなかったかも^^;

    輪島サイダーは青い方は、能登から更に沖にある舳倉島の塩を使った塩サイダー。ゴールドっぽいのは千枚田の米エキスを使用してます。ちょっと変わったお味ですよ^^
    そうそう、三大朝市の一つなんですよ^^僕はまだ勝浦を観たことがないんですが、、、輪島の朝市は販売するのは女の人だけ、だからきつい方言でも柔らかく温かみを感じます。今回は嫁さんは自家製梅干しと佃煮を買ってました。ついでに僕の好物のえがら饅頭も^O^ ここのところ、お客さんの家の中にいるんで僕はなかなか市を観れないんですけどね^^;
    朝市も面白いけど、撤去後の通りは商店街なんで、これまた面白い店が多いんですよ^^
    2015年09月06日 04:17
  • がにちゃん

    何か懐かしい 奥能登の記事 私が行ったのは多分 旧キリコ会館なのでしょうね 雰囲気のある会館でしたよ  皆 このお祭りが見てみたいとゆう気持ちになりましたもの  恋路海岸 行った行ったと思いながら読んでいます
    千枚田のサイダー 知らなかった 飲んでみたかったなぁ
    2015年09月06日 16:08
  • つとつと

    がにちゃんさん
    地元に居ながら、キリコ会館がリニューアルしたのは全く知らなかったんで、建物を観てビックリ@@そのおかげか、朝市の駐車場は満車で入れなくって、裏口から入っちゃいました^^;
    キリコの祭りは能登の各地で8月にあっちこっちで行われています。輪島、宇出津、内浦などは勇壮ですよ^^次回は真夏の祭りの時期もお奨めですよ^^
    そうそう、がにちゃんさん珠洲神社や恋路海岸観てましたもんね^^
    2015年09月06日 18:56
  • 家ニスタ

    松浪城、行ってみたいですねえ。
    保存と活用の両立はむずかしい問題で、たしかに公園として整備されたために、堅固さがうすれて見えるような場合も多くありますね。
    ひどいものは土塁をコンクリートで固めてしまったり・・・。
    整備もほどほどにしてもらいたいものですよね。
    2015年09月15日 12:21
  • つとつと

    家ニスタさん
    久しぶりに訪れたのですが、正直こんなものだったかなあというのが僕の意見。
    国史跡として調査保存が行われているので、極端な手を加えられていないのが救いです。奥能登の城はあまり名を知られるものはないのですが、戦国の枯山水庭園で類例がない庭園が奥能登の地から出るんですから、解らないものですね。
    それにしても、城址の中はどこを歩いても蟹さんがウロウロ@@;
    2015年09月15日 18:49

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