山口玄蕃宗永 首塚跡

「全昌寺」が菩提寺となっている旧大聖寺城城主・山口宗永の首塚が移設されているとなっていたので、改めて宗永の首塚の在った地にやって来ました。
宗永の首塚があったのは大聖寺城の東北東に6,700m程行った旧大聖寺川に架かる福田橋の対岸になります。
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大聖寺の町には大聖寺川・熊坂川が市街を流れていました。市内を蛇行して流れるために、江戸期には氾濫が何度も繰り返されていました。上流に昭和39年(1964年)我谷ダムが造られ本流も市街を巻くように外周の直線化が図られて、洪水対策がなされています。
現在、福田橋が架かり、江沼神社の側を流れる本来の本流は「旧大聖寺川」と呼ばれる大聖寺川の支流となっており、現在の本流は2.300mほど北を流れています。
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福田橋は小松から大聖寺に入る貴重な橋で、古くから戦乱の地となって何度も落とされていたと伝わります。
江戸期にも小松・橋立と大聖寺を結ぶ街道の橋として貴重な存在になっていたようです。大聖寺市内でも有力商家が多かった新町と武家屋敷の耳聞山を結ぶ道の架け橋として近年まで栄えていました。
大聖寺一番の豪商で、古九谷の吉田窯の開業・販売、橋立漁港の運送に係り、全昌寺の五百羅漢の世話方になった吉田屋も新町に居を構えていました。
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加賀藩資料「聖藩文庫-山口文庫」によれば、山口宗永、修弘親子大聖寺城の攻防戦で善戦しますが、多勢に無勢で最後は追い詰められ、城内戦の混乱の中、山口修弘は前田軍先方の山﨑長徳の家臣・木崎長左衛門を呼び出し名を名乗った後、一太刀も交えずに「功名にせよ。」とその場で自刃、その奥室にいた宗永も自刃。大聖寺城は8/3に落城。福田橋袂に首実検の後、親子を葬ったとなっています。

ところが、福田橋のある新町では古くから少し違った形で伝わっています。大聖寺城攻防戦の混乱の中、辛くも落ち延びた山口親子はこの福田橋の袂まで落ち延びますが(小松城を目指したと思われます。)、前田軍の包囲を抜け出せず、この地で自刃したと伝わっています。宗永はこの碑のある場所に、修弘はもう少し東に行った場所に葬られたそうですが、その後、全昌寺に移されたそうです。となると、全昌寺の首塚修弘の物だと思われます。宗永の首塚を動かしたという話題は長らく聴いていませんから。。ただ、ここに来たのはウン十年ぶりで記憶が定かではありませんが。。

僅かの期間の悲劇の領主でしたが、新町の住民には長年大事にされており、毎年命日とされる8/8に慰霊の法要が行われています。ちなみに、大聖寺城落城は8/3ですから5日間の逃亡生活だったようです。
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慰霊碑の正面には「山口玄蕃宗永公御堂」が建てられており、山口宗永・修弘・宗春の連名の位牌と、山口宗永の木像が置かれています。慰霊を込めて、お線香と掌を合わせてきました。




山口宗永の略歴・・・
天文14年(1545年)、宇治田原城主・山口光広の子として生誕。
       ・山口光広は信楽の名門・多羅尾家の三男から養子で入った人物で、本能寺の変では堺見物の徳       川家康が本国へ戻ろうとした際に、一番最初に頼ったのがこの光広の宇治田原城でした。光広は本家      の多羅尾家に通報、多羅尾家・山口家の150名で伊賀越えの護衛を行っています。
豊臣秀吉に仕え検地奉行の一員になっています。この間に近江大津の大石淀城を築き居城としています。主家の多羅尾家は関白秀次事件で没落しています(江戸期になって家康によって復活)。
慶長2年(1597年)、小早川家に養子として入った秀秋の付家老として筑前に派遣。
慶長3年(1598年)、慶長の役では秀秋の補佐とされていましたが、実戦は小早川軍の指揮権を持ち、第一次蔚山の戦で援軍の二番隊隊長として兵3000を率いて活躍。
              小早川秀秋の越前移封で、独立大名として江沼・大聖寺城に入りました。秀秋の移封が、              すぐ取消になりましたが、そのまま大聖寺に留まり、完全独立します。

長男:修弘(ながひろ)、江沼1万三千石所領、長刀(なぎなた)の名手で、乳母も豪力で、大聖寺城内での戦いではこの二人の戦い方は後世の語り草として、加賀藩資料に残っています。

次男:弘定(ひろさだ)、豊臣秀頼に仕え、木村重成の妹婿として家臣になります。大坂夏の陣、若江の戦いで討死。
弘定には娘があり、徳川家康・秀忠・家光と三代に仕え勘定方の重鎮で家康の葬儀・遺産管理・東照宮の責任者にもなった松平正綱の正室になっています。ちなみに松平正綱は幕末まで続く大河内松平宗家の初代で、ここから大名家が三家も出ています。知恵伊豆で有名な松平伊豆守信綱は正綱の養子です。

長女         池田忠利に嫁いでいます。池田忠利は旧姓を下間頼広(しもづまらいこう)といって、本願寺の坊官出身(財政・訴訟の長官)で、本願寺陥落後は東本願寺に転身、教如と相性が悪かったようで出奔、還俗して母方の叔父・池田輝政に仕えています。その後、池田姓を与えられて重臣となり、大坂の陣の戦功で大名となり播磨新宮藩の初代藩主となっています。 

略歴ですが、徳川家康とはけっこう深い関係にあります。と、いうよりは徳川家康にとっては伊賀越えの恩人に当たります。豊臣家に殉じた生涯ですが、徳川との関係性は濃い物があったんですね。
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この首塚の通りは江戸期から昭和にかけて、大聖寺町の主要路線になっていましたが、現在は道路幅も狭く昭和初期に架けられた鉄骨橋も大型車は擦れ違いも出来ない幅です。主要道路が東の県道16・145号に移って閑静な住宅地になっています。旧大聖寺川に沿って遊歩道もあり、静かでのどかな風景になっています。
賑やかな町家時代、閑静な住宅地の現在も地元の手厚い供養を受けて、御堂まで建てられている人物像は興味深い物があります。戦国史では目立たない存在ですが、わずか2年の治世でここまで地元に根づいた人物像には興味を惹かれます。

             山口玄蕃宗永公御堂にあった「玄蕃哀歌」
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旅行日 2015.11.20









この記事へのコメント

  • がにちゃん

    戦いに敗れたとはいえ 自刃切腹 「手柄に・・・」  武士ですね
    平和平和の日本ですが このような時代を通り越しているのですね
    今のイスラエル国も通り過ぎなければならない時代なのかも でもテロや戦争は絶対に反対ですが
    2015年11月30日 11:41
  • つとつと

    がにちゃんさん
    戦国時代は本当に武士の時代でしたねえ。これ程、日本人が自己主張が強かった時代はないかも。北陸ではこの大聖寺城の戦いと浅井畷の戦いが、最後の戦国の戦いでした。良し悪しは別にして会話で済む時代になってほしい物です。
    2015年11月30日 19:56
  • まだこもよ

    「昭和初期に作られた鉄骨の橋」…うちの近くには「昭和初期に作られた鉄筋コンクリートの橋」…」がありますが…どっちが凄い?
    2015年12月02日 18:21
  • つとつと

    昭和初期の橋は鉄筋も鉄骨も味わいがあると思いますよ。金沢の入り口に当る南北の橋が両極の鉄筋コンクリートと鉄骨ですが、どちらも人気があります。
    自分の身近の橋は思い入れがあって、僕も地元のおやど橋(コンクリート橋)が好きですもん
    2015年12月02日 18:36

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