白山神社 (旧・仏が原金剣宮)

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小松市原町は世帯数134戸、人口391名。山間ののどかな町ですが、ここの鎮守の杜といえる白山神社は規模も大きく整備も行き届いて立派なものです。特に斜面に拝殿があるのですが、参道は美しい石畳みと石段が綺麗で、町の方の信心深さが垣間見られるようです。



社歴によれば創建は弘仁14年(823年)。
加賀の国が出来た年ですね。当時は新田・農地開発を目指した三世一身法(723年)や墾田永年私財令(743年)などにより公地公民制が崩れ墾田が増えた時期です。当然ながら個人の私有地を持つことは、生産物・土地の管理・警備・保全は重要案件になります。
平安時代は軍隊を放棄していた時代で(東北の蝦夷討伐も、行軍途中で寡兵して軍隊を構成しています。)簡易な警察機能程度しかありませんでした。このため、自分の土地を守ったり、運送の護衛などには自警団や自衛団を持つ必要がありました。
こういう集団を保有できたのは、村や部落単位では難しく、有力貴族や大寺院となってしまうわけです。大貴族は、地元領主を武装した管理者にして代行させていました。これが侍・武士へとなって行きました。大寺院は自前の武装集団を寺院に置きます、これが僧兵になって行きます。個人や小さな村落では寄進という形で土地名義を差し出し、一定の年貢を納めることで土地の安全を図り、自分たちは生産管理を行うという形態をとりました。これによって、貴族や大寺院の荘園化が進んで行きました。

私有財産となる土地とはいえ、国の課税は存在しており、これを管理徴収していたのが国司が派遣された国府だったのですが、課税されないものもありました。それが山間地の開墾した農地でした。
原村を訪れると解りますが、三坂峠越えで鳥越・白山に向かう白山道の国道360号線が澤上川に沿うように進み、南に田園地帯と山が迫る辺りに集落が集まっており、山のかしこに畑地が散在しています。
原村では狭い耕地を補うために山間部の墾田が進められていましたが、前述のとおり村単独での土地や収穫物の管理・運送の警備には大きな不安がありました。
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原村が選んだ相手は金剣宮(きんけんぐう・かなつるぎのみや)でした。白山神社の総鎮守・白山比咩神社がある鶴来町の名の由来になった神社です。

本宮四社(本宮(白山比咩神社・現古宮公園)・金剣宮・三ノ宮(現・本宮地)・岩本宮(現・岩本神社))のひとつです。この四社とは別に白山の麓に当たる中宮三社(中宮(現・笥笠中宮神社)・佐羅宮(現・佐良早松神社)・別宮(現・白山別宮神社))があり、合せて白山七社と呼ばれていました。
地理的に原村に関係する寺社としては、加賀市大聖寺の石部神社から派生したと思われる石部神社(いそべじんじゃ、現・小松市古府町)。国府の側にあり、加賀国が立国した弘仁14年(823年)に加賀の総社とされていました。

なぜ原村金剣宮を選択したのかは不明です。加賀国が越前国から分離独立したのが弘仁14年(823年)ですが、原村金剣宮に勧請して主祭神・天津彦穂瓊々杵尊(あまつひこほににぎのみこと・神仏混合では白山皇子)を分霊して神社を建立したのも同年になります。
国府が出来たてのホヤホヤで石部神社に馴染がなく、白山麓として古くから馴染があり白山信仰で勢いのある白山七社から選択するのは解るとして、地理的に同じ街道にある中宮三社の佐羅宮・別宮ではなく金剣宮というのは不明。ともかく「(仏が原)金剣宮」として創始された古い歴史を持っています。
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創建と寺院領の関係から白山七社との係わりは深く。安元3年(1177年)に起った安元事件では、京に向かう佐羅宮の神輿が三坂峠・中の峠越えで到り、この神社で5日間逗留したと記録されています。

安元事件に関しては以前のブログ(笥笠中宮神社)(ほうらい祭り)などにも書いていますが。原村から山一つ越えた涌泉寺(ゆうせんじ)で起こったもので、加賀国府の目代・藤原師経が、馬匹禁止の境内に乗馬で侵入して神水で馬を洗うという暴挙に対して、涌泉寺側が怒って藤原師経一行を叩き出したことに端を発しています。これに対して師経の兄で国守・藤原師高は報復として、涌泉寺に焼討を掛けています。国府としては近隣の有力な白山社への脅しと挑発だったと思います。しかし、これに黙っていなかったのが前述の白山七社です。
涌泉寺は中宮三社に属した寺院の中でも中宮八院の一つとされる有力寺院。佐羅宮が後援者だったと云われています。白山七社が協力して国府に押し掛けたわけです。これに対して、藤原師高・師経兄弟は危険を感じて京に退避します。しかし、白山七社では前述の佐羅宮の神輿に加え本宮・金剣宮の神輿を押し立てて、京に強訴に押し掛け、比叡山まで押し出し後白河法皇に兄弟の引渡と断罪を掛け合ったわけです。
藤原師高・師経兄弟の父親・西光(俗名・藤原師光)は後白河にとっては最側近の参謀格で反・平清盛の先鋒格でもあり、簡単には譲れず交渉は長引いてしまいます。痺れを切らした白山衆徒の神輿は都の市中に押し出したのですが、これに対して後白河の護衛に当っていた清盛の長男・平重盛の軍勢が、弓矢を神輿に射込んで、死人まで出して撃退しています。この際に打ち捨てられた神輿が(佐羅宮の物と云われています。)、京都の白山神社の発祥の起源になっています。
この一件により、藤原師高・師経は流罪、西光は謹慎、神仏の神輿に矢を射込んだ平重盛も謹慎となり、後白河院の権力が一気に落ち、対抗馬と院との仲介を図っていた長男が居なくなったことで、歯止めが無くなった平清盛の権力が急上昇、同年の鹿ケ谷事件で西光を捕縛斬首、完全に天下掌握を果たします。
加賀国府は事件により衰弱して歴史に埋没してしまい、所在地も不明状態になっています。白山七社もこの事件で目的は果たせたものの、平家の力に敗れた後遺症で力を失って行ったと云われています。
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その後、鎌倉・南北朝・室町・戦国と時代は移りますが、戦国期には一向宗の最盛地となっていましたが、織田勢力の侵攻が進み、一向宗勢力も白山麓に追い詰められていきます。仏が原金剣宮が歴史に出てくるのはこの時です。

一向宗門徒が篭る最後の牙城・岩倉城・鳥越城二曲城(ふとげじょう)に対する織田軍の侵攻ルートは、三坂峠越えの原村を通る街道になります。
天正8年(1580年)織田軍の主将・柴田勝家が仏が原金剣宮に立ち寄り戦勝祈願を行ったと伝わっています。
この時の侵攻では中の峠の手前の岩倉城を陥落させていますが、鳥越城・二曲城攻略は失敗しており、同年松任城での和議交渉での騙し討ちで勢力を弱らせて陥落しています。
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江戸時代中期までは、現在の一の鳥居に社があったようですが、宝暦年間(1751年~)に現在の高台に位置を移したと云われ、それから長い参道になったといえます。

現在の神社の建物は、拝殿は明治30年(1897年)に建てられたもので、後方の本殿・幣殿は昭和9年(1934年)に増築されたものです。鳥居も前述の一の鳥居に加え、二の鳥居も重厚さがあります。
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明治39年(1906年)、白山麓側の原町の入り口にある番谷地区にあった白山社豆丸さまを合祀して、現在の「白山神社」と名称を改めています。祭神もこの時から伊弉諾(いざなぎ)、伊弉冉(いざなみ)、比咩大神(ひめのおおかみ)、天津彦穂瓊々杵(あまつひこににぎ)を祭神と改めています。



ちなみに前述の番谷に在った豆丸さまですが、現在の小松市沖町に「沖太郎丸神社」というのがあるのですが、、社歴には、、太郎丸さまと称せられる。往古二人の公達が都より落ちのびてきて、ここで敵に謀殺され、夜毎に金火がでたので、その御霊を祀ったのが太郎丸・次郎丸の宮であるという。他に姉丸宮もあった。後厳之御魂社と称したが更に今の社名に改称。昭和44年沖町イ一番地甲より、今の社地に移転と同時に社殿改築。

この太郎丸と共に殺されたと云われる弟が次郎丸と言います。更にこの二人の下に居た弟を豆丸と言いました。元は沖太郎丸神社から派生したものと思われます。原町の白山神社では、野町太郎丸神社、小寺町次郎丸神社の兄弟神としていますが、野町、小寺町の神社は僕は聞いたことがないので、解ったら詳しく再UPするつもりです。ただ、沖太郎丸神社の社歴文中の姉丸宮は、小松市御宮町近くにある「相の宮白山神社」の別名が姉丸宮だと近所のお客さんに教えて貰ったことがあります。沖、相の宮から探れば案外簡単に解るかも。。甘いかな
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原町白山神社は4/15に春祭り、9/15に秋祭り、10/16に神明祭りが行われていますが、秋祭りの翌日には、前回ブログの原町のスター・仏御前の仏御前祭りが行われます。両日は賑やかで、白拍子に扮した女性陣の舞が観られます。白山神社の前は公民館広場になっていて広い駐車場広場なんですが、一年で一番原町が賑わう2日間です。

旅行日 2015.12.24



この記事へのコメント

  • がにちゃん

    小松・・・金沢へ行く通過点の様に思っていましたが つとつとさんのブログ観ていたら 意外に見る所があるので 北陸の旅はこの辺りもありかなぁと思っています
     
    2016年01月30日 11:38
  • つとつと

    がにちゃんさん
    新幹線のおかげで、金沢が注目されてしまうけれど、歴史だけを観ると金沢は加賀百万石の江戸期以降の中心で、もちろん県都だから華やかなんですが、江戸期以前の中心は小松・加賀飛ばして能登が中心だったんですよ。
    だから、歴史好きの人はついつい南加賀に行っちゃいます。僕もついついその傾向が強いかも、それと車人間は金沢を避けちゃうんですよ^^;混むし止めれないしで
    2016年01月30日 16:00
  • minoc

    こんにちは。
    加賀前田百万石の大藩。
    いろんな歴史物語に登場して、少年のころ興味を持ちました。
    北陸に文化・芸術の華開かせ、いくたの学者、芸術家を育てたところでもありましたね。
    安元事件など興味深く拝見しました。
    2016年02月01日 12:53
  • go

    こんにちは、小松市の原街には現役時代にお得意さんが有って足しげく通っていた所です、つとつとさんの先の記事野もあった様に、仏御前の出身地だと御客さんから聞いていましたが、その他にも歴史的に興味が湧く所の様ですね、プライベートで手前の古墳の近くの芝桜を見に行ったことが有ります、今度原町の歴史探訪をして見たいものです。
    2016年02月01日 18:43
  • つとつと

    minocさん
    加賀藩の印象が強く、昨年からの新幹線で金沢ばかりが目立っていますが、金沢が中心になったのは本願寺が金沢御堂を置いてからと云われています。
    室町中期以前の中心は小松だと云われています。江戸初期にも前田利常が小松に隠居城を築いたおかげで、伝統的な物が多く残る町になっています。
    よく比べられてしまうんですが京都は王朝文化ですが、加賀は日本でも最後に出来た国で思ったよりも貴族文化が短く薄く、民衆・宗教・武家の独特なものがあります。
    2016年02月01日 19:43
  • つとつと

    goさん
    原町は松任からは行きづらい場所ですが、ご存知とはさすがです。
    しかも白山麓と小松を繋ぐ貴重な道ですから、この辺りは古代から歴史に関連する場所が点在していて興味深いです。埋蔵物センターも2月末からイベントがあるそうですし、土器や須恵器の復元作業が間近で観られてお奨めです。goさんも絶対興味津々で観られると思いますよ
    山一つ越えた涌泉寺も、コマツの発祥の地で、炉の跡とかが観られる遊歩道がありますから、お奨めですよ^^
    しかも白山麓と小松を繋ぐ貴重な道ですからねえ
    2016年02月01日 20:23

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