護国山 宝円寺

お客さんの自宅に伺うことになって、待ち合わせ時間に3.40分あったので時間調整に久しぶりに立ち寄ったのが宝円寺でした。あまり時間がないので、境内だけを少し歩いてきました。

10年ほど前に一度簡単にUPしていますが、合わせて観て頂けましたら幸いです。⇒ H20.11.28 宝円寺

今回は時間があまりなかったので境内をちょこっと歩くだけで、あまり前回と変わり映えしませんがご容赦ください。。新緑や紅葉の時期に本堂内からの濡れ縁から大正時代に建てられた対青軒と庭園の眺めが美しい寺院です。
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曹洞宗・宝円寺の開基は天正3年(1575年)以降、前田利家が府中三人衆の一人として初めて領地を持った際に寺院を建立して父母の供養塔を置いたのが始まりとされています。一説には古くから宝円寺という寺院は古くからあったものを住職・大透圭徐(だいとうけいじょ)との出会いから自身の父母の菩提寺にしたとも云われています。その後、天正9年(1571年)利家が能登を領国とすると、七尾に圭徐を招いて同名の宝円寺を建立しています。更に天正11年(1583年)金沢入城の際にやはり圭徐を招いて千歳台(現在の兼六園蓮池の東端に同名の寺院を建立して加賀前田家の菩提寺としていました。ちなみに表門となる山門は石川門の正対にありました。寺院の南隣に前回の記事で触れた白山信仰の波着寺が置かれ祈祷所となっていました。前田利家の葬儀もこの千歳台にあった頃の宝円寺で行われ菩提寺となっています。

宝円寺が現在地に移ったのは元和9年(1620年)替え地を受け移転しています。
この頃から金沢城内に住居していた家臣団が城外に住居するように進められており、金沢の町割が固められる途上といえました。宝円寺の跡地には奥村宗家の屋敷が築かれています。その後、寛永8年(1631年)金沢城・金沢市街を焼いた寛永の大火によって、辰巳用水の整備などによってそのスピードは加速したと云えます。

ちなみに武生・七尾の宝円寺は健在で、武生は広い敷地を有する寺院で利家の父母の供養塔もあります。ちょっとユニークな石像・構築物が多いことでも知られています。七尾は母親の戒名から長齢寺と名が変わっていますが、利家の父母(利春(利昌?・長齢院)、三兄・安勝、次男・利政の画像があることで知られ、父母の墳墓(供養塔)や利家の供養塔もあります。また機会があればご紹介します。

加賀前田家の歴代藩主の墓所は野田山墓所(2代利長の本墓は高岡)になりますが、加賀藩内の菩提寺は三カ所になります。歴代藩主と菩提寺の関係は。。。
宝円寺・・・前田利家(初代)・利常(3代)・吉徳(6代)・重熙(8代)・重教(10代)・治脩(11代)
瑞龍寺・・・前田利長(2代) ・
天徳院・・・前田光高(4代) ・綱紀(5代)・宗辰(7代)・重靖(9代)・斉泰(12代)

ちなみに、歴代藩主の菩提寺の関係性ですが。。。(一部、僕の推測も入りますが。。)
藩祖・利家は自身が開基し、父母の供養菩提寺として、自身の葬儀も執り行われた宝円寺が菩提寺になるのは当然と云えます。2代の利長については、3代利常にとっては実父より尊敬する実兄・養父となる人物で、利長が一から開発した町であり没した地に大規模な墓地領と大伽藍の瑞龍寺を建てたために、唯一独立しています。
天徳院は徳川家から嫁いできた利常の正室・天徳院(秀忠次女・珠姫)の菩提寺として建立された寺院です。元々、利常は自分が死んだら天徳院に正室と並んで葬られることを望んでいたようです。その後は宝円寺と天徳院を歴代藩主の菩提寺として歴代を交互の菩提寺にするつもりでした。自分自身、加賀藩を確立したのは自分だという自負があったと思います。また、野田山墓地にしても今のような歴代藩主の墓所ではなく野田山と天徳院に墓所を設けて分けるつもりでいました。

ところが狂いが生じたのは、4代を継いだ長子・光高が利常より先に急死したことにあります。利常は正室・珠姫を溺愛しており、その忘れ形見として同じく溺愛した跡継ぎを失ったわけです。自分が入る予定地に愛する我が子を母親と共になるように天徳院の墓所(現在の小立野小のプールあたり)に葬り、菩提寺としたわけです。そのため譲ったことになった利常が宝円寺が菩提寺になったわけで、その後は藩主が交互に菩提寺とすることになったのです。そのおかげで、光高を父とする5代・綱紀が同じ天徳院に墓所・菩提寺を持っていました。ちなみに50回忌をもって天徳院(珠姫)は野田山の利常の側に改葬。綱紀・宗辰・斉泰の改葬については勉強不足で不明ですが、光高・重靖については昭和27年(1952年)に改葬されています。ですから野田山に歴代藩主が完全にそろったのは昭和になってからということになります。

ついでと云っては当人には失礼ですが、、、宝円寺に10・11代が重なるのは、前回の加賀騒動で少し書きましたが11代・治脩の後継者として10代・重教の長男・斉敬が養子となって、将軍御目見えも行い、藩主就任直前でしたが若くして病死。藩主扱いとして天徳院に光高と並ぶ位置に墓所が設けられていました。この為に順番がずれたと云えます。ちなみに斉敬も光高と同じ時期に野田山に改葬されています。 この辺りは以前書いています⇒ H26.05.04 如来寺① 前田光高と天徳院墓所
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宝円寺は3代・利常の移転時から大伽藍を誇ったようですが、5代・綱紀の時代に改築が行われ、その絢爛豪華さから「北陸の日光東照宮」と呼ばれたと云われます。この時に山門・裏門が入れ替わって、現在の形態が出来上がったと云われます。宝暦9年(17599年)、宝暦の大火で全焼、再建されましたが、明治元年(1868年)に、またまた失火で全焼。現在の本堂・庫裏や山門・築地塀はその際に再建されたものです。(重文指定)
明治期に前田家が神仏分離の影響で神道に変わったために離脱したこともあり大きく衰退しましたが、家臣団の子孫や有志が構成する宝円寺を守る会によって整備され、東京の前田家の援助もあって現在に至っています。

大火に見舞わられたために宝円寺では創建時を伝えるものは少ないのですが、元々は山門に置かれていたであろう仁王像がその威容を伝えています。今回は内部を拝観しなかったので画像などはありませんが、本堂の室内に置かれているために威圧感満点です。残念ながら明治の火災で吽形は焼失しましたが、阿形像は燃える寸前に相撲取りの馬鹿力で運び出されたという伝説が残っています。
像高1丈2尺(4.54m)の巨体。扁額には天正11年(1583年)宝円寺建立時、前田利家からの寄進で運慶末葉の彫製となっています。寄木造で鎌倉中期の作と云われています。
燃えた吽形も後年再建されており幕末から明治にかけて活躍した高岡・本保喜作が作製したそうです。大型の神像製作を得意にしていて越中国泰寺の金剛力士像もこの人の作品です。
入り口は何となく入りづらい寺院ですが、本堂内部は必見です。
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山門から入ると左手に目につくのが地蔵堂。元は境内に配されていたと思われる西国三十三観音と、少林寺(現・野町、臨済宗)と三洞庵(現・小立野一閑院、曹洞宗)の地蔵尊からなります。左手にある供養塔は地蔵尊より新しく見えますが側面の銘文に嘉永(1844~1855年)年間の表記があります。


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外参道の一角に千歳台からこの地に移転した起因となったものがあります。
前田利家の遺髪と自画像を埋めたと云われる「遺髪堂」「御影堂」になります。
慶長3年(1598年)8月豊臣秀吉の死により、翌年1月伏見城から豊臣秀頼が大阪城に移り、後見として前田利家が大老として入城します。替わって大阪城から徳川家康が伏見城に入って政務をみることになります。いわゆる二頭政治で政情・政治共に二大派閥に分かれた形になり非常に無理がありました。実際この時に大阪・伏見に分かれた主要大名が関ケ原で東西に分かれて衝突しています。この時から徳川家康が天下取りに出たのは明白で、勝手な婚姻活動や独断の裁断に露骨に出ています。家康に対して危惧を持っていた利家は、五奉行の弾劾を受けて詰問使を送って誓書を出させています。五奉行の家康襲撃を察知した利家は病身を押して伏見に訪問して家康と直に会合・和解を行っています。この会合は細川忠興の仲介で実現し、加藤清正の利家への警護・仲介によって和解へとつながったと云われています。翌月、家康が答礼として大阪の前田邸に訪問、その3週間後に利家は病死しています。
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政治形態が二派に分かれ、その両巨頭の前田利家と徳川家康が相手の家に訪問するというのは、非常に危険な行為になりました。敵対勢力を手っ取り早く叩くには頭を潰すのが一番です。実際に、利家の訪問時には徳川家臣団のほとんどが利家を斬れと主張しています。あの冷静沈着を絵に描いたような本多正信さえも主張、家康に進言までしています。また答礼として家康が利家邸を訪問した際には、利家は布団の下に抜き身を隠しおいていたと云われます。後世の我々は結果を知っていますから、悪名を残す天下取りを避けたなどいろいろ言いますが、過去に悪名などと言ったら、両名共にこのような行為は平然と行っています。またなんとでも理由づけもできます。まあ、利家の訪問には加藤清正がずっと側に張り付いていたせいとも云われますが。。
逆に利家は遺言状には利長に徳川と対決するように書いているくせに、最後の機会を見送っています。。。
病気療養中の姿の利家を見て寿命を見たのか、後の混乱を避けたのか、両名がなぜ絶好の機会を見逃したのか、両名の話し合いがどのようなものだったのか、、、、は不明ですが


ともあれ、前田利家は伏見訪問に際しては死を覚悟していました。遺髪として髪を切り、自身の姿を描いて、宝円寺住職・象山除芸に託して金沢の地に埋めさせていました。それがこの地になります。小立野台地の突端の崖上にあって見晴らしがよく、金沢城本丸から石川門、宝円寺の直線上の東南の位置に当たりました。
利常の時代に移転となった際に替え地にこの地が選ばれたのも、利家の遺髪と自画像の埋伏地というのが要因になったと思われます。
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近頃の国宝や日本画のブームですっかり一般にも認知されるようになった琳派。その創始者と云われる俵屋宗達。風神雷神図屏風が有名です。その俵屋宗達を後援したスポンサーともいえる存在が三代・前田利常でした。
このため、俵屋宗達は京都と金沢に工房をもって制作に励んでいました。ちなみにもう一人の琳派の創始者・本阿弥光悦の本阿弥家も前田利家から光悦の父・光二は二百石の知行を受けており光悦の孫の代あたりに二家(300石、150石)に分かれ、江戸在住でしたが金沢にも屋敷があり幕末に両家は金沢に戻っています。ちなみに金沢の本阿弥家の墓所は前回の加賀騒動でご紹介した経王寺にあります。

俵屋宗達は有名作品が多い割には不明な人物で生没年は不詳となっています。活躍した当時、厳島神社の平家納経の修繕、本阿弥光悦との共作などで画人・京都町衆として名が売れていましたし、寛永7年(1630年)に絵師としては最高峰の法橋(ほっきょう)位を与えられています。法橋というのは僧の位で上人位の第三位で、僧官位では同じく三位の律師に当たります。ちなみに僧位の上人号は法印・法眼(ほうげん)・法橋。僧官位は僧正・僧都(そうず)・律師(各位には大僧正のように大・中・権(ごん、少)の3.4段階があります。)。また宗達の法橋号は直弟子・宗雪が寛永19年に継いでいます。
寛永8年には国宝・源氏物語関屋及び澪標図を書いていますが、その後の消息がはっきりしません。画家としては全く行方不明です。京都有力町衆として過ごしたとも、利常に招かれて金沢で画業の後進の育成に励んだとも云われていました。

俵屋宗達の晩年や没年がはっきりしないのは、最終的には町絵師からは大きく逸脱しなかったことと、江戸期後期から明治までは、後進の尾形光琳がもてはやされ、宗達の画風は光琳よりも地味で古臭いと見られたことにあります。実際、この為に宗達の絵が明治期に数多く国外に流出しています。加賀に関係する絵師としては葛飾北斎の娘・応為も信州・岩松院の天井絵の修正を完成してから金沢に住み終生を終えたという伝承がありますが、全く不明状態。。
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大正2年(1913年)、宝円寺で倒壊していた五輪塔が発見されました。五輪塔には俵屋宗達の「泰嶺院宗眞劉達居士 寛永二十年八月十二日」と刻まれていました。宝円寺の過去帳に記されていた俵屋(田原屋)宗達の記載と合致したということです。ただし、京都の頂妙寺にも墓があると云われており、本墓としての確定は為されていません。。ちなみに頂妙寺の三代住職・日珖は織田信長の安土争論に出席させられ負けて詫び状を書かされた人物で、法華宗の重要寺の一つです。
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この墓の調査は俵屋宗達記念会の開催に合わせて金沢市に調査依頼がされて行われたもので、あまりにタイミングが良すぎるという話もありますが、、、この年から画集や関係書籍が出版され、一躍宗達の画業が見直され、作品も三点が国宝指定を受けて復活した経緯があります。
金沢では宗達死後、宗達門下の画人が活躍していますし、金沢工房の門人によって建立されたと思われます。
この墓の発見によって金沢での宗達人気は一気に広がり宗達の号・対青軒からとった対青庵という茶室で金沢との繋がりを意識しています。毎年9月に法要茶会が開催されています。




法要茶会といえば、もう一人、宝円寺では営まれています。それが前田家13代・前田斉泰。幕末間際に藩主の座を嫡男・慶寧に譲っていますが、慶寧が禁門の変で敗退した時に謹慎させて実権を取っていますから、実質の加賀藩最後の藩主と言えます。東京大学の赤門は斉泰が将軍家の溶姫を正室として迎える際に建てた御守殿門になります。
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ただ、加賀では評判はいまいちの人物です。機を見るに敏ともいえますが、独占欲が強く、富山・大聖寺の支藩や加賀八家に養子を送り込んで、加賀藩主の独裁権を強めています。方針がコロコロ変わって勤皇・佐幕を行ったり来たり、留めに尊皇派を弾圧しすぎたために大藩として期待されながら、新政府軍に乗り換えたものの新政権への参画には乗れなかったことが大きく影響しています。明治以降、石川や北陸がマイナーになってしまった要因はこの人にあります。

とはいえ、新種の気もあったようで、アメリカから入った食用リンゴの栽培を江戸屋敷で行って、日本初のアップルジャムを作ったとも云われます。また加賀藩主として文化にも精通していて、特に茶の湯では当代一流と云われていました。それもあって、この対青庵では斉泰の法要茶会、境内には顕彰碑が置かれています。



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上:寿清院(園田夏子)の墓所 中:宝円寺墓地 前田家墓所 下:6代前田吉徳の九男・10代重教の嗣子、前田利実の墓所
宝円寺の墓地は結構広いものがありますが、藩主・正室の墓所は野田山になります。このため、境内墓地にある前田家墓所は側室や親族の墓所になります。その中でも一番大きなものとしては11代・前田治脩の生母・寿清院(園田夏子)のものになります。加賀藩主一族の墓所形式が解りやすいものです。
前田家の墓所は土饅頭型で野田山と同じ形式になっていますが、元々は仏教式に墓碑や墓塔が土饅頭の上に建てられていました。しかし、明治になって前田家は神道に改宗していますので、その時にこれらが取り除かれ墓前に鳥居を建て、墓名標を建てる形式に変えられています。やはり土饅頭では少し寂しさを感じます。
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囲むように家臣団の家の墓所があり、違いが分かりやすいと思います。特に寺西家の墓所が際立って見られます。本来は前田家墓所では墓同士がこんなには接近していませんがこれに近い墓石だったと思われます。
ちなみに寺西家宝円寺に隣接する同じ曹洞宗・瑞雲寺が菩提寺になります。瑞雲寺は元は野田山の大乗寺近くにあったのですが明治にこの地に移転したものです。建立は人持組・寺西家始祖・寺西秀則(宗与)、元は近江石部城主として織田信長に仕えていましたが、石山合戦での佐久間信盛の追放に連座して追放処分を受け、佐渡に向かう途上、能登の前田利家の勧誘で家臣になった人物です。その後、賤ケ岳・末森合戦で活躍、松任城代も経験しています。人持組・寺西要人家7千石
ちなみに瑞雲寺には日露戦役で捕虜となって異国の地で亡くなった10人のロシア人兵士の菩提寺になっています。ダモイ観音という像が10人のために作られ安置されて毎年8月に法要が行われています。ロシア人兵士の墓所は野田山の藩主墓所に向かう東口にあります。以前、ブロ友のgoさんがUPしていました。 ⇒ 野田山のロシア人墓地

旅行日 2017.12.25

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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    先日TVで前田家 利家 利長 利常のそれぞれの家を守っていく様子が放送されていました 津突戸さんのブログでいろいろ読んでいたので そうだそうだと思うことも多くありました  前田家存続には本当にいろいろあったのですね  でも皆さんすごかったのだと思いました  前田家は女性も活躍されていますね
    2018年01月28日 17:30
  • yasuhiko

    菩提寺が二つある場合は多かったんでしょうか。
    確か、萩の毛利家も、奇数と偶数で歴代藩主のお墓が
    分れていたように思います。徳川将軍家の場合も、
    上野・寛永寺と芝・増上寺と、二つの菩提寺がありますね。
    その由緒ある宝円寺で、俵屋宗達の墓かも知れない
    五輪塔が発見されたという話には驚きました。
    三代藩主、前田利常が有力なパトロンだったという事で、
    宗達と金沢の縁の深さに、想像の翼が拡がる気がします。
    2018年01月28日 18:05
  • tor

    前田家の菩提寺は交互にという原則なのですね。複数の菩提寺が存在する場合、どういう基準なのか不思議に思っていました。歴史には転機があるのですが家康と利家はどう考えていたか興味深いですね。それと俵屋宗達と本阿弥光悦は前田家がバックアップしていたのですね。
    2018年01月28日 21:05
  • つとつと

    がにちゃんさん
    個人的には天下を狙ってほしかったけれど、組織や実力はまだまだ発展途上で仕方なかったかなとも思いますねえ。三人それぞれ、困難が多かったですがよく乗り切れたと思います。日本史では女性の名前が公に出るというのは少ないんですが、これだけ名前が表に出てくるのも珍しいくらい活躍しています。まあ、おかげで今でも女性陣の方が強いですけど^^;
    2018年01月29日 20:09
  • つとつと

    yasuhikoさん
    萩藩は東光寺と大照院で奇数・偶数で綺麗に分かれていますねえ。
    徳川将軍家は家康と家光が別格の神様で日光東照宮と輪王寺ですが、残りは慶喜を除けば寛永寺と増上寺ですねえ。徳川将軍家は元々は増上寺が菩提寺で寛永寺が祈祷所だったんですが家光の信任を受けた天海のおかげで寛永寺が格上げで4.5代が寛永寺に、これに増上寺が猛反発で6代以降が交互になっています。天台宗の寛永寺、浄土宗の増上寺、どちらも立てなきゃならない幕府もつらい所だったようです。
    加賀藩もこれに近い考えで利長が別格で、後を交互にしたということです。ただ、両菩提寺は同じ曹洞宗ですが。。。でも後世まで1~4代は後世まで別格扱いの存在としていました。
    他藩にもこの傾向があって、自藩統治の関係で自家の宗派と有力宗派に菩提寺を分けています。また、途中で宗旨替えした家もありますから。。それから、当主が自分の親・先主を特別扱いで菩提寺を建てて跡が続いたのもあります。それから、違法の藩主はその土地に墓所を作る決まりがあったので、他国にあるなんてのもあります。

    2018年01月29日 20:44
  • つとつと

    torさん
    特に有力寺院が複数ある場合は、平等に交互というのは多いですねえ。
    家康は神様として久能山、日光に葬られましたが、利家は遺言で野田山の兄・利久の一段下に葬られています。この辺りが二人の大きな違いだったんでしょうね。人物的にはどちらも細かい性格ですが、一位狙いとあくまで他者をたてるを優先するところが、二人の大きな違いですね。
    光悦に関しては家康の影響も大きいのですが、どちらも加賀藩に深く係わっている人物です。ただ加賀藩の悪い所はトップの名は出るんですが、絵師や焼き物師などの名が思ったより軽く扱われてしまう所です。
    2018年01月29日 21:12
  • 家ニスタ

    菩提寺が3つもあるとは意外でした。
    藩主を交互に葬るとかしていると、なんだか混乱してきそうで大変そうですね。
    利家と家康はけっこう一触即発だったのですね。
    われわれが動かないものと思っている史実も、ちょっとした拍子でどう変わっていたかわからないと思うと、興味ぶかいですね。
    2018年01月29日 23:10
  • つとつと

    家ニスタさん
    利長は別格として、墓所は野田山ですから菩提寺は葬儀所・位牌所ですから、ただ、親族の墓所は藩主関連で同地に葬られています。今は住宅や学校があるので解り難いですが敷地としては広大なものがあります。藩政を見ると藩主の祥月命日、更に将軍の祥月命日は裁判・訴訟・取調(拷問)は停止されていました。ただ、さすがに人数が増えると政務に支障をきたすので加賀藩では治脩の時代に大幅な見直しが掛けられています。ことほどに菩提寺・宗派・幕府の対応に苦労していたようです。
    僕たちは結果を知っていますか、固定観念に捕らわれていますが、その場ではいろいろなことが裏に隠れているのだと思います。利家にもう少し寿命があれば、徳川幕府の成立はそれだけ遅れたのは確かでしょうし、政治形態も変わっていたでしょうねえ。もしどちらかが激発してればと思ってしまいますねえ。
    2018年01月30日 16:09

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