斐太(ひだ)神社・雁田神社

昨年、上越に行った際に家族でドライブがてら鮫ヶ尾城に登ろうと思って妙高の方に行ったんですが、山裾を車で登っていくと公園の入り口にはパトカーが二台がトウセンボ><前日の大雨で崖崩れでもあったのかと引き返したんですが。。。家に帰ってネットを見るとお城のお祭りだったんですねえ。大失敗でした。。滅多にない好機だったのに。。歩いて登ってみるべきでした家族が一緒だとこれがあるんですね。。 みょうこう景虎物語~山城の陣~

鮫ヶ尾城は上越でも信州との北国街道における国境警備の城で、春日山城直近の最前線基地に当たりました。
上杉謙信死後の家督争いに端を発した上杉景勝上杉景虎が戦った御館の乱の決着地です。
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画像:上越埋蔵文化財センター前 上杉謙信公像

上杉謙信は御存じのように戦国時代、軍神・越後の虎など軍事では戦国最強とも云われていましたが、その信仰から女犯をしない聖将としても知られるように実子はいませんでした。長尾守護代家の生まれとはいえ四男坊主、栃尾城という中越の一角から台頭して越後を統一、31歳で上杉姓を譲られ関東管領・北国探題の名のもとに勢力を広げていました。
国が広がるごとに人質となる子を受け入れていますが、養育と教育に熱心で気に入った人物は自身の養子や側近としたものが多く存在しました。
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画像:上越埋蔵文化財センター 謙信公と春日山城展 ドラマ天地人使用甲冑 左・上杉景勝 右・直江兼続

名前の知られたところでは、七尾の畠山義春(上条政繁、七尾城主・畠山義読の次男)、村上国清(山浦景国、信濃葛尾城主・村上義清の五男)、長尾顕景(上杉景勝、上田坂戸城主・長尾政景の次男)、北条氏秀?(上杉景虎、小田原城主・北条氏康七男)など、、謙信は女性を近づけなかった分、優れた知性や養子の若者を薫陶教育するのが大好きで、これらの養子とは別に小姓や近習として樋口与六(後の直江兼続)、樋口与七(後の大国実頼)などが知られています。前述の畠山義春は上条家、村上国清は山浦上杉家と上杉一門衆分家に改めて養子縁組されて外戚となっています。謙信自身も後継者は残る景勝・景虎に絞っていたと思われます。

ところが謙信の死は突然でしたが、自身も前年まで能登侵攻を行い、関東出兵の直前でもあり、まだまだ後継者を定めていなかったために、景勝・景虎の間に当主争いが生じます。景虎が北条家からの養子で景勝は謙信の血筋に当たるために、終始景勝優位に進んだと見る人が多いですが実はそうでもないのです。この時点で景虎は景勝の実姉(謙信養女)を妻としており、二人は同列の義兄弟、景虎が兄ともいえるのです。また景虎の名は謙信の初名ですからそのお気に入りが偲ばれます。ちなみに景勝の名は2年前の改名で、後継候補として役職を得たと同時のものです。
この時、謙信は景勝に弾正少弼を譲って家臣に謙信(御実城)に次ぐ御中城と呼ばせていますし、景虎には軍役を課さない特別待遇で、上杉一門をバックに北条との緩衝材にしていたことが窺われます。弾正少弼の官位は越後守護代職の官位、、歴史家には否定意見が多いのですが、謙信の構想では関東進出・北信、飛騨制覇・京都到達の後には、自分を頂点に越後・北陸守護を景勝に、関東管領を景虎にと考えていたと思われます。
また景勝・景虎個人の関係も良好でここまでこじれるとは当人同士も思っていなかったかもしれません。

しかし謙信が病に倒れた時から多少の衝突はありましたが、死後に先手を打ったのが景勝で、春日山城本丸および政庁・武器庫・兵糧倉を抑えたのです。この速攻は側近の直江兼続の進言とも云われています。対して景虎は二の丸と自邸に立てこもって対抗、序盤は春日山城内戦だったわけです。越後守護の政庁をおさえたことにより、景勝は有力豪族への印状が出せ、協力要請や命令が出せることになったわけです。この時点で謙信側近衆の多くが景勝方についています。

ただ、ここでも異説はありまして、跡目をすんなりと景勝が継いで本丸を住まい・政庁としたというものです。景虎もこの時点では協力的だったというものです。その後、芦名氏が下越に侵攻する気配があり三条城の神余親綱は独断で下越の軍備を強化、三条城周辺住民からも人質を取ります。謀反と疑う景勝は詰問使を送り、相当難詰したようです。景虎の仲介もあり落ち着きかけたところに本当に芦名氏が侵攻。。準備行動のおかげで事なきを得ますが、当然、神余親綱は不処分になりますが、中・下越の豪族連は不満を持つことになります。謙信時代、謙信は豪族連にはある程度の独断行動を許しており、住民人質も多く観られる行為です。この景勝の行為に「このくそ若造。先代とは偉い違いだ。」というわけで、、、神余親綱は景勝と手切れ、豪族連の多くが仲介した景虎を持ち上げ、景虎も景勝の体たらくにその気になって御館に移って立ち上がったというものです。つまり、春日山抗争はなく、景虎が御館に移ってからが「御館の乱」というものです。
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画像:春日山城 東城砦 復元土塁&堀

ただ形勢的に不利になった景虎は春日山城を放棄して御館に入ります。御館は現在の直江津駅近く、関東管領職の政庁となっており、謙信に上杉姓と管領職を譲った上杉憲政の屋敷であり管領職の政庁にもなっていました。越後守護の政庁は春日山、関東管領の政庁は御館で、謙信は両職の執務を使い分けていたわけです。御館の乱の名は景虎が籠ったこの地から発しています。それにしても春日山と御館は意外に近い場所になります。敵味方の本拠が間近で局地戦になるはずなのに広い越後全域に内乱が広がったのですから、謙信の豪族連合に対する求心性が窺われます。

ちなみに、憲政の本拠といえる山内上杉家(上杉宗家)は景勝側についていますが、上杉憲政が景虎を支持したことにより上杉一門衆の多くは景虎支持に回っています。また、謙信が越後統一するまで最後の最後まで抵抗したのは景勝の父・長尾政景の上田長尾家でした。このため、謙信の実家・古志長尾家など有力一門衆も景虎方についています。また北条・武田・伊達などの他国勢力も景虎支持になっており、景勝は本拠の魚沼や中越の後方を守らねばならず、下越・中越の北部、柿崎・柏崎勢力は景虎支持で、春日山と上田の本拠・坂戸山城の連携を遮断されていました。序盤戦から中盤にかけて越後を二分した内乱は景虎有利で進んでいました。
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画像:春日山城 史跡広場 復元土塁・堀

この状況を覆したのは武田勝頼の去就でした。元々、武田家は北条家と同盟を結んでいたため、佐竹・宇都宮攻略で動けない北条勢の代わりに景虎助勢に動いていました。ところが、景勝側からの北信割譲の条件に心変わり、方針転換で甲越同盟に、武田勝頼は景勝側にまわり、北条との同盟を解消しています。目先の欲に転んだ、この行為は後に武田家滅亡を早めたと云われます。結局、景勝・景虎の和睦の仲介を名目に春日山城下に兵を入れた勝頼ですが、徳川の侵攻に慌てて兵を引き上げ駿河・遠江からの防衛に専念して越後介入を放棄、後顧の憂いをなくした景勝は巻き返しに転じて、春日山・坂戸山の連携に成功し、北条の前進基地・樺沢城を奪還、この勢いに景虎方の豪族も寝がえり、逆に景虎勢力を分断して御館を包囲します。

窮地に陥った景虎は降伏も覚悟して和睦交渉に活路をみますが、和睦交渉に派遣した上杉憲政・道満丸(景虎長子)が春日山に向かう道中(四ツ屋峠付近)に景勝方の軍勢に包囲され殺害されています。この事件は景勝の謀略・突発事故両面の要素があり、場所も春日山とは反対方向の景虎勢力圏、いまだ不明の多い事件です。景虎はこの事件で覚悟を決め御館を脱出、北国街道を南下して信州経由で関東逃亡に出て鮫ヶ尾城に立ち寄ります。景虎を本丸に迎えた城主・堀江宗親は寝返り工作にのって二の丸に火を放って本丸を残して開城、景勝軍の降伏勧告を拒否した景虎は自刃。この時、正室・子も後を追ったとも、御館で弟・景勝の降伏勧告を拒否して自刃したとも云われます。景虎の死後も三条城・神余親綱、栃尾城・本庄秀綱が連携して抵抗、乱の終息は謙信の死から3年余りを要したことになります。

この越後の争乱は互いに大きな傷を残し、更に戦後の景勝の上田衆重視の恩賞問題で離反や相克が相次ぎます。この為に強大だった軍事力も減退し、織田方の柴田勝家に能登・越中を占領され、離反した新発田重家の攻略も単独では為しえない状態に陥っています。
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画像:斐太神社 表参道 一の鳥居 
右の神社名の揮毫は海軍大将・上村参之丞、薩摩出身で日露戦役では蔚山沖海戦・日本海海戦で第二艦隊司令官として活躍、日本海海戦では独断専行でロシア艦隊を追撃、近接攻撃で勝利に導いています。


上杉景虎が最期を終えた鮫ヶ尾城の鬼門鎮護の守として存在したのが斐太(ひだ)神社でした。現在も鮫ヶ尾城址のある城山への唯一の登山口に当たります。
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画像:表参道 陰陽柱 
右が太陽、左が月(陰)になります。古くはこの二柱の上部に注連縄や縄を張っていました。鳥居の原型ともいえる古い形式です。


上杉氏(長尾氏?)が鮫ヶ尾城を築城した際に鎮護の神社として城山上に建てたのが始まりと云われ、天正2年(1574年)上杉謙信が現在の三神を祀って現在地に定めたと云われています。御館の乱時の鮫ヶ尾城落城の兵火、明暦2年(1656年)の大火で古文書類を失っているために詳しい伝承は解っていませんが、江戸期は高田藩榊原家の参拝保護を受けていたと云われます。高田市内寺町にある神宮寺はこの神社の神宮寺が明治に移転したものと云われています。

斐太神社の拝殿上部の説明文を転記すると…一部下段が隠れているので判読できない部分もありますが・・

折(おりしも)此の大神の御鎮座座せる其の源は、遠き神代にして大国主命、我が越の国に行幸座して、この辺を國中の日高見(ひだかみ)なりと詔(みことのり)給ひて御滞当座まして沼河姫命娶りまして、健御名方命を居多の浜の西なる躬輪山(みわやま、今は岩戸山といふ)に生めへり、大国主命は田畑、山野、道路を墾き給し、土人に田畑を作るを教へ大御功績を竟(お、修)へまして出雲の国へ帰らるる時に形見を民に衣を脱ぎ捨て與へ(あたえ)給へり、土民は之(これ)を御魂(みたま)として鎮め奉りて、大御・功績・御徳を慕ひ奉りたり、即ち(すなわち)斐太神社之なり。

事代主命(矢代大明神)は川沼の鎮護として矢代村岡澤山に座ましたるを、天正二年四月三日御遷座なし奉りたり故に之を流るる川を矢代川と云う。又四月三日は里人、矢代祭としてなり(現在五月三日は例祭日なり)。

諏訪大明神(健御名方命)は南葉山絶頂に鎮座ありけるを、この時御遷座ありしと口碑に傳う(伝う)。

延長五年十二月二十六日勅撰により左大臣正二位兼行、左衛大将・皇太子傳臣・藤原朝臣忠平が作った延喜格式・巻第十神祗十といふ本に登録されてゐる延喜式内社である。

上杉氏の時代、当所、鮫が尾城(当斐太神社の後山)の築城の際、百弐拾八ヶ村の総社と定め幣帛(へいはく)し常に崇敬せられたり。

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北陸は古代は越の国と呼ばれていました。出雲の王とされる大国主は幾つもの名を持っていますが、その事蹟はとても一代とは思えない伝承も持っています。スサノオの跡を継いだ何代かや後継者をまとめたものだと思われます。北陸では神道の影響で大己貴(おおなむち)神気多(けた)神とあらわされることが多いようです。
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越(高志)の女王・沼河姫(奴奈川(ぬなかわ)姫)に妻問い(求婚)を行って娶ったと云われています。これは出雲神の大国主勢力が越の国に侵攻・服属させたと思われます。沼河姫は白山の菊理姫・比咩神に比定されますが、越後ではその本拠は糸魚川の姫川上流の翡翠の産地と云われています。
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これは古事記や日本書紀ではなく先代旧事本紀に載っているものですが、健御名方(たけみなかた)の母・奴奈川姫(新潟では黒姫とも云われています)に関する記述は本記だけで謎の神人ともいえます。
右画像:道の駅・親不知ピアパーク内 翡翠ふるさと館
青海川上流の青海川翡翠峡で産出された世界最大級の翡翠原石(102トン・国指定天然記念物)
他にも寺地遺跡の翡翠巨木柱なども展示されています。


斐太神社居多(こた)神社の伝承では、糸魚川から長い海岸線と山を越えた居多浜の岩戸山で二人の間に健御名方が誕生したとしています。ちなみに居多浜は鎌倉時代初期に流罪となった親鸞の初上陸地としても知られており、居多神社は親鸞が最初に訪れ、参拝した場所と云われています。
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また事代主(矢代神)も登場しますが、ご存知のように大国主の跡継ぎにして大和の大神神社の主・三輪神です。事代主を兄神、健御名方を弟神とする向きもありますが、古代においては末子継承が主ですから健御名方が兄になると思われますし異母兄弟、斐太神社では古来は北信濃の荒人命が祭神という説もあるので事代主とは別人が矢代神・荒人神として比定されると思います。ちなみに居多浜にある居多神社は越後一の宮の一つに挙げられる神社ですが、斐太神社と非常に似た祭祀の形態をとっています。どちらが先に出来たかは不明ですが、境内社に陰陽神を祀る雁田(かりた)神社があるところまでそっくりです。違った部分はどちらも大国主・健御名方・矢代神(事代主)を祭神にしていますが、居多神社は奴奈川姫を祭神に加えているところでしょうか。。
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斐太神社のある地は、古代から北信濃との交易路の分岐点にあたり重要地点であったと思われ、古くから栄えた地と思われます。構成する斐太遺跡群は弥生末期から古墳紀初期の遺跡群で山上の斐太、平野部の吹上・窯蓋遺跡から構成されますが、山上の斐太から矢代川・関川によって生成された扇状地の平野の吹上・窯蓋に広がって行ったと思われます。斐太は防御性の高い高地性環濠集落で200基以上の住居跡を持つ東日本最大級の弥生終末遺跡であり、吹上は糸魚川の翡翠を加工する玉造工房を持つ遺跡で翡翠勾玉の発見は日本最大級、窯蓋は河川を利用した大規模環濠集落で、近畿の土器類や銅鐸・鉾型の土製品が多く出土して、河川物流拠点と推測されています。斐太神社の南北の山稜にある天神堂・観音平古墳群は古墳紀最初期3世紀からの古墳群と云われています。
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画像:斐太神社 狛犬 
斐太神社の狛犬は二対ありますが、表参道の最後の石段・石垣脇にあるものが古そうです。ただ奉納年は確認し忘れました。左右共に獅子像になります。


頚城(くびき)三山(焼山・火打山・妙高山)の成層活火山の焼山、同じく成層火山の妙高山によって生成された火山帯の北西端に当たります。大規模な弥生終末期遺跡を考えると更に山岳地には弥生中期・縄文の大規模遺跡が眠っていると思いますが、3000年前まで噴火を繰り返した妙高山、跡を継ぐように活動を開始した焼山によって現在の地形が構成されたことを考えると弥生中期以前から縄文期の状況を知るのは非常に困難かもしれません。
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説明文中の矢代神が鎮座した岡澤山は詳しい場所を知りませんが、矢代川上流部起点となる妙高市関山と上越市岡沢の境界部分と思われます。諏訪神(健御名方)南葉山(難波山)斐太神社の西方にある尾根筋ですが、各山頂には青田・猿掛・籠町・五日市・猪野山南葉山というように、猿掛を除いて旧新井市・旧斐太村の地名が冠されています。地名の配置と尾根の山頂名の位置は相関関係にあるので五山の内の猿掛南葉山(901m)が諏訪神鎮座地と思われます。気多神(大国主)は斐太神社として鮫ヶ尾城山頂に祀られていたようです。
天正2年(1574年)、上杉謙信がこれら三神を合祀して、現在地に創建したのが正式な斐太神社の始まりと思われます。
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御館の乱・鮫ヶ尾城の落城と共に兵火に焼かれ、再建後、明暦2年(1656年)の火災で社殿・古文書を焼失、その後、除地(よせち)として寺社領を有し、越後高田藩・榊原家の崇敬を受けて再建、保護を受けていました。
昭和33年(1958年)に火災で社殿を焼失、現在の社殿は同年に再建されたものです。本殿・拝殿共に切り妻造り・屋根銅板張で豪奢な格式を感じられます。

新潟県は神社の数が登録神社だけで4749社。単立神社や無登録神社を含めると更に多くなると思いますが、この数は断トツで日本一。斐太神社はその数多い新潟の神社の中でも古い歴史と格式を供えた新潟を代表する神社のひとつです。一度は来訪してみて欲しい神社の一つです。
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ちなみに何故、新潟に神社が多いかですが、いろいろな諸説はありますが、明治の廃仏毀釈を逃れて排斥や合祀された数が少なかったとも云われますが、それ以上に元の数が多かったというのが本当のところです。ご存知のように神社というのは集落に密着した存在で、村・部落・集落に一つは信奉される神社が存在しています。つまり村・部落といった集落が新潟には多かったことを示しています。

江戸時代から明治中期にかけて、日本で一番の人口数を争った都道府県は新潟県と大阪府、東京・埼玉の武蔵でした。北陸、特に新潟は古代(縄文期~)から各地の中継点であり、重要な装飾品の原料となる翡翠の原産地になりますから、北国道・北陸道・交易湊といった交通動態が発達していました。この為広い地域の中で特殊で異なった文化の集落が多く存在し共存していました。更に積雪も多いかわりに豊富で良質な水の宝庫で、ふるくから農業の先進国でもありました。これが人口集中の大きな要因だったと思われます。
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画像:斐太神社 拝殿・幣殿内
毎年5/3は春季例大祭が古式に則って行われ、5/4にはH24に新調された神輿渡御が町内を独り獅子舞と共に練り歩きます。


現在の人口は近年減少傾向で226万ですが、江戸時代1700年頃には有籍者だけで越後・佐渡で100万人を超えていたと云われています。当時大阪は120万ほど、江戸を抱える武蔵は170万、ただ無籍者を考えると拮抗していたと思われます。
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ちなみに戸籍法と都道府県が整備された明治では大阪が明治20年まで160万ほどでトップ、明治21年に新潟が逆転トップで以降5年間170万前後で全国一でした。その後、東京が飛躍的に人口が増加して現在までトップです。(ちなみに明治期は多摩地区は神奈川ですから細かく計算しないと解りませんが。。)

話が変な方向に行ってしまいました。。斐太神社境内や参道には稲荷社八幡社の石祠堂が祀られています。けっこう古い形式の祠堂です。
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高台に雁田神社の境内社が建てられています。雁田神社は上越地方に観られる神社で国生みの謂れから伊弉諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)神が主祭神になります。斐太神社と比定される居多神社にも存在しますが、祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)になっています。
上越には他にも、名立の山間の雁田神社、高田市街・大町通の五ノ辻稲荷神社の境内社があります。火焔式縄文土器が発掘された塔ケ崎遺跡の側にもあるそうですが、そちらはまだ未訪。。
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ご神体は男根と女陰の陰陽石になります。民間宗教の流れを受けているため地域民衆だけの神社と云えます。子授け(子宝)、安産、子育ての神ついでに泌尿器や性病にもご利益があるとして近在に信奉されているものです。ついでに神社内には奉納された折り鶴や成長した子供の写真など、民間の信仰を受けているのがよく解ります。表から見るとそれほど大きく見えないのですが、堂内に入ると大きく、人の手がこまめに入っているようでよく整備されています。上越では祠堂のような小振りなものが多いのですが、この神社は大掛かりで立派な造りで、これまで見たことのある雁田神社では最大級です。
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雁田神社の起源は長野市の北部にある蚊里田八幡宮と云われています。八幡太郎と呼ばれた源義家の七男・義隆によって創建、文治元年(1185年)子の頼隆によって建立されたもので、ご神体は義家から継承した鎮懐石といわれる霊石(陰石)になります。ちなみにこの石は応神天皇(八幡神)生誕地の候補地・筑前国怡土(いと)郡長野村蚊田(現・福岡県糸島市長野)の地から義家が、神功皇后が腹に石を抱いて出産を遅らせた古事から受け継いだと云われています。
しかし雁田神社は民間信仰の独自の進化を遂げたようで、応神天皇の影は他の神社では見られませんが。。この雁田神社には外に八幡社の石祠堂が建てられています。

3/3に火祭(鎮火祭)が行われています。水・水草・土・竹で作った杓と桶を奉納し、一年の無火災を幣殿に祈願、供物を三方にのせ、近くの川まで運んで川の神々に棒げ、無火災を祈るという神事ですが、、この祭礼の最後の直会(なおらい)で踊られる春駒踊りに人気があります。近在近郷・果ては県外からもこの踊りを見に来るそうです。
春駒踊りと聞けば、僕なんかは徹夜踊りの郡上踊りや、白川郷の元日や祝い事で演じられる七福神に扮装した笑い余興を思い浮かべるのですが、、、こちらもなかなかのものです^^;

雁田神社の春駒踊りは、男根石を持った男物丹前を着た女性と、女陰石と赤布・鈴を持った長襦袢姿の男性が頬被りをして踊って、陽気に頬を擦り合わせるという踊り。。人気があって近在近郷、果ては県外からも見に来るそうな^^;人のことは言えない昔見たなあ^^; 堂内には写真とかありましたが、今もやってるのかなあ^^;

旅行日 2017.07.16



この記事へのコメント

  • うるだん

    歴史大好きなおっちゃんとしては大いに興味ある地域です。
    いつのことになるかは分かりませんが一度は訪れたい古戦場の一つです。
    2018年02月14日 13:39
  • tor

    後継者問題はいつの世も大変ですね。今ちょうど、佐賀龍造寺家のごたごたを読んでいたので…。龍造寺家は鍋島直茂との力の差が有り過ぎましたが…。互角の後継者なら国を割っての争いになりますね。斐太神社も見所が多いですね。それと陰陽柱は太陽と三日月が彫られているのですね。初めて見ました。
    2018年02月14日 21:11
  • つとつと

    うるだんさん
    コメントありがとうございます。
    今は雪が深い地域ですが、春夏になるととても緑が綺麗な所です。
    上越といえば、やはり上杉謙信の人気が高いですが、御館の乱の詳細に関しては、上杉家が合図や米沢に転封しているので詳細が不明な部分も多いですが、非常に興味深い地域です。ぜひ、機会があれば訪れてみてください^^
    2018年02月15日 10:19
  • つとつと

    torさん
    互角というより、どちらも欠けた部分が多すぎたのがネックだったようです。敗北したために影が薄いですが、器量では景虎の方が上回っていたようですが、側近に直江兼続などがいたのが大きかったようです。とにかく、先代が偉大過ぎたのが越後の後継には荷が重すぎたんでしょうね。
    竜造寺・鍋島の関係性には興味深いですが、乗り替わりを決断した後の直茂の行動ははっきりしていますねえ。ただ、その後の竜造寺家の衰退は眼を覆うような悲劇です。直茂・勝茂が藩を維持するため家臣団を抑えるのに苦労するのもわかります。。そうそう化け猫騒動の話の元祖は鍋島家と竜造寺家が端を発しているそうです。 僕も陰陽柱は知っていましたが、こうやって実物を見たのはこの時が久しぶりでした。石川の方では月と太陽の印を見るのは、拝殿を構えるような建物以前の姿の石祠堂でしかなかなか見られませんから。。
    2018年02月15日 10:36
  • がにちゃん

    お祭り  残念でしたね  知らない土地でふと出会ったお祭り
    何か得した気分になります
    親が大過ぎると子供も大変ですね 特に家を背負った時代には・・・
    2018年02月15日 23:50
  • yasuhiko

    謙信亡き後の上杉家には、そうした
    跡目相続の争いがあったんですか。
    それを思うと、家康のように、
    長生きするのも才能の一つなんでしょう。
    信玄、謙信など、存在感が大き過ぎると、
    その跡を継ぐのは難しいようですね。
    2018年02月16日 21:43
  • つとつと

    がにちゃんさん
    僧なんですよ、滅多に行くことのない町でしたから。。嫁さんも僕も新井の町の中を巡ったのは30年ぶりでしたから。。本当にもったいなかったです。
    でも、代わりと云っては何ですが、美味しいラーメンのお店を見つけたんですよ。平日限定のラーメンがあるみたいなんで次回行ってみようと思っています。

    親がカリスマともいえる人ですから、どちらが当主になっても苦労したでしょうね。景勝がその後は余程のことがない限り、エミヤ言葉を発しなくなった気持ちは解るような気がします。
    2018年02月17日 16:36
  • つとつと

    yasuhikoさん
    やはり、トップに立つ場合、健康問題は重要だったと思います。謙信の場合は、以前は卒中と云われていましたが、酒の飲み過ぎで肝臓が行かれていたんじゃないかと云われています。景勝も景虎も敵対勢力からの養子で、似た経歴の持ち主で仲も良かったと云われますが、結局、血で血を争う戦いになってしまいました。
    謙信も若い頃に苦労した領主的豪族の連合、謙信はカリスマ性で治めましたが、二代目はそのために余計苦労をしてしまいました。せめて、後継がはっきりしていればと悔やまれますねえ。。
    2018年02月17日 16:47
  • 家ニスタ

    鮫ヶ尾城は僕も以前行ったことがあるのですが、お城の祭りがあるとは知りませんでした。
    謙信がどちらを後継に考えていたかは謎ですが、景虎の名を与えているところからすると、やはり景虎を後継に考えていたように見えますね・・・。
    どうしてもこの問題は武田の視点に立って見てしまうのですが、勝頼は結局金で買われたわけですが、最大の失態でしたね。
    景勝側についたことで北条との間が決裂し、自らの滅亡を早めてしまったのですから。
    まあ、越後に救援に行けなかった氏政の失態という部分もありますけれど。
    2018年02月20日 23:53
  • つとつと

    家ニスタさん
    お~~ さすが鮫ヶ尾城は訪れてらっしゃいましたか^^
    後継問題ははっきりしませんが、政治上の関東管領は景虎、軍事と北陸を景勝というのが理想だったんでしょうね。できれば、両輪が理想ですが、当主となった景勝は乱の前後共に失策続きで、豪族をまとめきれなかったのが最大の原因です。乱の戦後処理も最悪状態でした。越後の最強伝説は謙信の死と共に本当に伝説で終わってしまいました。
    勝頼の最大の失策が越後介入は確かです。徳川・北条との対外和平をもって、越後介入の長期の展望があればともかく、虻蜂取らずですから、甲越同盟と云っても弱体した越後勢が戦力になるわけでもなく、自分の首を絞めちゃいましたねえ。本来なら北条にとっては絶好のチャンスだったんですが、結局何もできない遅い動きで本当に失策だと思います。
    2018年02月23日 20:52

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