土山御坊跡② 庭園「御壺」

蓮乗(蓮如次男)は本泉寺退却時の落馬で負傷を追いながらも一揆衆を指導しましたが、病がちとなり、補佐として蓮悟(蓮如七男)を蓮乗の娘の養子として迎え入れて本泉寺を任せ、実悟(蓮如10男)を蓮悟の養子につけています。

この蓮悟が二股から若松本泉寺(金沢市若松、現・専徳寺)に本拠を移し、加州三箇寺を主導していきます。瑞泉寺は妹(了如、蓮如9女)の婿・蓮欽(勝如の甥)を住職としています。

蓮悟に実子が生まれ、疎まれた実悟は独立して白山麓の鶴来に清沢坊願得寺を創建しています。この実悟が加賀一向一揆を例えた言葉「百姓が持ちたる国」を残した人物です。清沢坊願得寺は後に現在にも続く河内願得寺で、明治まで東本願寺法主を選ぶ5箇寺(勅許院家、別院、一家衆)の一つとなっています。

蓮乗は病を押して越中全土を主導していましたが、蓮如が京都に去って以降、病で父の死に目にも会えず、父・蓮如の死の5年後に逝去しています。

瑞泉寺を起点にして、三人もの息子を瑞泉寺・本泉寺に投入した蓮如が、後の勝興寺となる土山(どやま)御坊を重視したことが窺われます。蓮如の構想には越前・吉崎御坊に三男・蓮綱を中心にした超勝寺・本覚寺と越中の次男・蓮乗を中心にした土山御坊・瑞泉寺・本泉寺の協力で、加賀御堂(金沢御堂)の成立を企図。北陸を真宗布教の王国にしようと企図していたようです。

将来的に京都の本願寺を預かる長男・順如を法主として、真宗の教生と集団を平和的に固めたかったようです。それに応えるように順如は、朝廷・幕府への陳情によって近畿の布教許可と寺院の維持拡大許可を得るだけでなく、加賀が守護家と対立、抗争が激化すると吉崎に乗り込んで、蓮如一家を独断で退去させ河内出口に連れ帰っています。帰郷後に首謀者・下間蓮宗を蓮如に破門させています。蓮如以上の力量を示していました。更に本願寺を上回る勢いだった佛光寺派が応仁の乱で混乱すると、本格介入して、佛光寺14世・経豪(蓮教、佛光寺派は14世を新たに立てて、在位を認めていません。)を蓮如に帰依させ佛光寺有力末寺48坊中42坊を合流させています。この仲介は法主以上の存在と自他に認めさせています。しかし、直後に病に倒れ2年後に亡くなっています。これが大きな躓きと誤算になってしまいました。

北陸の企図は前段階の加賀の加州三箇寺として目途がつきながら、九頭竜川合戦で朝倉氏に敗れ、吉崎御坊を失って加賀に逃れた越前信徒と加賀信徒の反目、更に山科本願寺と加州三箇寺の齟齬など、幾つかの内的要因が重なり、派閥が構成され、後の内乱となってしまいます。

当事者の蓮如、長男・順如、次男・蓮乗といった真宗全体から尊敬を集めたカリスマ指導者を同時期に失ったことは大きく、残されたのは纏め切れないほどの肥大化した畿内集団と北陸の先鋭化した集団でした。跡を継いだ9代・実如(蓮如五男)は信徒を増やすことには成功したものの、その強引さで日蓮宗の襲撃を招き山科から石山に移らざる負えず、度重なる内憂外患に武力で対抗・鎮圧し、真宗集団を武装集団へと変えてしまったのです。

ちなみに、長男・次男が早世したように書いてしまいましたが、長男・順如の死去は文明15年(1483年)42歳。父・蓮如は明応8年(1499年)85歳。次男・蓮乗は永正元年(1504年)59歳。当時の寿命を考えれば、順如は少し早いとはいえ、蓮如の長寿が解るというものです。ついでに前回、蓮如の子だくさんについて書きましたが、末子・実従(十三男)は蓮如84歳の時の子供です。もうハッキリ言って化け物です。ちなみに奥さん(5人目、最後の妻)は33歳で実従を産んでいます。能登畠山一族の彼女は蓮如(72歳)に20歳で嫁ぎ、12年の結婚生活で5男2女を産んでいます^^;

画像   土山御坊跡 土塁最高点から

話が後世に飛んでしまいましたが、西越中の教生を図るため次男・蓮乗との連携協議が必須でしたが、更にもう一人、重要な人物がこの地にいました。それが自身を法主に引き上げてくれた如乗の妻・勝如でした。15歳で娘婿となった蓮乗の後見役を約10年間も果たし、中央からの支援もなく単独で、如乗が残した瑞泉寺・本泉寺間の教線を保持した貢献は勝如に多く負うものがありました。

蓮如にとっては、如乗・勝如夫妻は、感謝してもしきれない大恩人だったということです。
画像 勝如尼が隠棲したと伝わる土山の庵跡地

蓮乗が成人し単独でも判断行動がとれるのを見届けた勝如が隠棲したと云われていた地が、瑞泉寺と本泉寺の道中にある土山の山中でした。距離的には本泉寺から近い勢力圏でした。本泉寺に赴いた蓮如が土山に訪れるのは、当然の道筋と云えました。
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画像 上:杉原家住宅跡 下:杉原家 井戸跡

土山に訪れた蓮如は、この地が非常に気に入り、西越中布教の自身の居住地と定め、土地の豪族・杉浦万兵衛の家に投宿したと云われています。

投宿の間に御峰山頂部の削平と御坊伽藍を整備したと伝わります。その期間は約3年間、その間に吉崎・本泉寺・土山御坊を何度も移動していたと云われています。本泉寺と土山御坊の往還道には後に城端・善徳寺、福光・光徳寺といった真宗の大寺院の発祥地・砂子坂道場も蓮如滞在中に築かれたと云われています。
画像 土山御坊跡 復元庭園

ちなみに蓮如には大きな趣味がありました。以前紹介した二俣本泉寺でも紹介していますが、作庭という趣味がありました。 2013.05.08 14 二俣本泉寺
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二俣本泉寺に「九山八海の庭」という蓮如製作の庭園が残されています。この土山御坊でも石材を配置した庭園を作庭していたと伝わっていました。土山御坊での伽藍や作庭には、杉浦万兵衛が資金労力を提供していました。土山勝興寺跡として明治に書かれた越中宝鑑に記や図解が残されていたそうです。

明治21年4月 記 「越中國礪波郡土山村杉浦萬兵衛庭」

柳ト御壺ノ由来ヲ奉寿
慧燈大師 加賀能登越中三ヶ國御巡教ノ砌 此土山村二三ヶ年ノ間御滞留マシマシテ 親シク御化導アラセラレ 其節此庭前ヲ自ラ御作リ有リテ 御壷ト名付玉ヘケリ 是ヲ末世ノ衆生ニ御像見トシテ残シ置セラレ 疾処世代リ星霜積モリテ今ハ苔蒸候得ドモ 御在世ノ樹木及ト懐石等厳然ト残リ候 是レ偏ニ佛法繁昌ノ基(ナ)リト 人々奇瑞ノ思トノ為シツツ 則チ庭面ヲ園ニ寓シ己ナヌ
明治二十一年四月 敬白
画像平成六年八月 庭園復元 福光町教育委員会


現代訳  柳と御壺の由来を記す
慧燈大師(蓮如上人)は 加賀・能登・越中三ヶ國を巡教の砌(みぎり) この土山村に三年間逗留し、村民を集めて御教導を施しました。 逗留時に自ら庭園を造られ「御壷(おんつぼ?)」と名付けました。庭園を後の世にも残したいものと仏像と合わせて残されたのです。時が経つのは速いもので、幾星霜、苔が生すほどになったものの、上人が居られた頃からの樹木や懐石なども残されてきました。人々は上人の奇瑞に思いを馳せ、この庭園を整備、伝えてきました。


この庭園は画像のように、杉浦家に残されていた木版画を基に復元されたものです。この他に明治31年に名古屋で発行された銅板画が「越中宝鑑上巻(旧史)」に載せられており、杉浦家の屋敷や蔵、庭園の様子が解る「蓮如上人及蓮乗僧都の旧跡」として載せられていて、明治期の詳細な様子が解ります。

源平時代、倶梨伽羅合戦で北国街道から攻め登った木曽義仲の先陣・道案内役となって活躍し、源氏太鼓(勝どき太鼓、小矢部市無形文化財)の発祥となった蟹谷次郎の出自の地と云われている蟹谷郷。ちなみに倶利伽羅古戦場・源平兵士慰霊塔の近くに、蟹谷次郎由緒の地碑があります。
画像 杉浦万兵衛 杉浦家歴代墓所

杉浦家は蓮如到来時から蟹谷郷と呼ばれたこの山間地の豪族として知られた存在でしたが、蟹谷次郎との関係は不明ですが、この後も加賀・越中の一向宗の重要支援者として活躍を続けています。

戦国武将として名が知られている一族の人物としては杉浦玄任(げんにん、法橋、壱岐守)。天正元年(1574年)、朝倉氏を滅ぼして織田領となっていた越前の内乱に乗じて、越前一向宗軍団を率いて出陣、土橋(朝倉)景鏡の亥山(いやま、土山、土橋)城を落とし、加賀一向宗と連携して白山平泉寺を壊滅して、越前を占拠。加賀に続く第二の一向宗の国を打ち立てた人物です。その功績で大野郡司となり、大野城・亥山城の城主として事実上の越前トップとなっています。しかし、2年後の織田信長の再侵攻で、一揆軍が裏切りで瓦解、討ち死にしたとも金沢御堂で責任を取らされ斬首されたとも云われています。

亥山城址は越前大野駅から200m程、西の大野城方向に進んだ左手の日吉神社の境内が城跡になります。城主となった杉浦玄任は、防御を考えて城郭を堀で囲もうと考えて、真南1キロ弱にあった湧水から堀を引こうと工事に着手していました。工事は中途で終わっていますが、広げられ延ばされた観音清水はイトヨ(陸封型)の生息地として国の天然記念物指定を受けています。

杉浦家は佐々成政時代には、土山を退去していたものの、加賀藩領になった頃に土山に帰郷して棲みつき直したと云われ、その後に集落を形成したと云われます。越中の浄土真宗界にとって蓮如・蓮乗親子は伝説的存在でその旧跡は憧憬の聖地となっていました。江戸期の勝興寺では住職が新任すると、土山高木場(高窪)を訪れるのが慣習となっており、その際には、土山の杉浦家屋敷に逗留することになっていたそうです。

土山村の記録では、昭和初期に杉浦家は金沢に転居していますが、その際に家材や石材をことごとく持参して移ったとなっています。その後、絵図の木板(明治15年記)が発見され、杉浦家(奥野家?)から石材が地元に返還され、簡易な庭園が復元されたそうです。その他の明治期の屋敷絵図や庭園絵図、更に古塁測量図が残っていたことから、平成6年(1994年)福光町教育委員会によって、図に基づいて石置の庭園「御壺」が正式に復元整備され、現在に至っています。

ちなみに、平成28年(2016年)国登録有形文化財になった石川県河北郡津幡町川尻の「奥野家住宅」が杉浦家の屋敷・門を譲り受けたものだそうです。 ⇒ 文化遺産オンライン「奥野家住宅主屋」 「奥野家住宅門」
この記事を書くために、資料を探していて、たまたま知ったのですが。。。小中学の校区は違いますが、僕が生まれてから小学校まで住んでいた家から、1.5キロ程西の河北潟・津幡川水門・河口近くの集落で、子供の頃、何度か見たことのある家屋ですが、まさか、あれが杉浦家の屋敷だとは思いませんでした。身近に土山御坊を伝えるものが存在していたんですねえ。。。。ただ、移築年は大正12年(1923年)。土山の記録と多少のずれがあって、杉浦家は移転のために家屋・家財全てを売却譲渡していたようです。家屋他全ての運搬契約証(土山村・杉浦家から井上村・奥野家に運搬、運搬費は当時の価格で金500円(内前金が100円)が奥野家に残っているそうです。木版・銅板図では茅葺ですが、僕の記憶でも現在も瓦葺で大きく重厚なアヅマタチ建物です。
画像 蓮如上人歌碑
越路なる 土山の峰に 行き暮れて 足も血潮に 染まるなり 蓮如詠

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土山御坊は、蓮如の吉崎退去後は吉崎にいた四男・蓮誓が移って、兄・蓮乗と連携をとっていましたが、越中一揆後に加賀の山田光教寺に移っています。その後は蓮誓の子・実玄が継いでいます。明応3年(1494年)には4.5キロ北の高木場(現・南砺市高窪)に移っています。蟹谷郷の内ですが、高木場は土山への山間路の北の入口になります。この高木場の時代に、佐渡の順徳天皇御願寺勝興寺(殊勝誓願興行寺)を再興する名目で名跡を継いで「雲龍山・勝興寺」となっています。

永正16年(1519年)城郭を併せ持った安養寺(現・小矢部市末友・小矢部IC近く)に、更に5.6キロ北上し山を降りて、戦国の争乱の中に飛び込んでいます。長く栄えたものの安養寺御坊・勝興寺は天正9年(1581年)石黒成綱によって焼打ちを受け、焼亡します。
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天正12年、越中支配の佐々成政の寄進を受けて、現在の伏木の越中国府の故地である古国府城址に移され現在に至っています。

現在の勝興寺本堂は江戸期に西本願寺を模したもので巨大さには眼を見晴らされます。しかし平成の大修理で唐門・本堂の外観と一部の庫裏内部のみの見学に限定されています。完成は来年の予定ですが、その後も総門の曳家工法修理もあるんでいつ完成することやら。。。戦国期の土塁、寺域の周りに堀が施され、城址だったことが窺われますし、藩主出身の寺院として大伽藍・寺宝を多く持っている魅力いっぱいの寺院です。
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来年か再来年には伽藍全体をご紹介できると思いますし、寺域を囲む古国府城時代の広大な境内を取り囲むような土塁も観られると思います。

旅行日 2019.04.26 05.02

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この記事へのコメント

  • tor

    こんばんは。
    あんまり知識が無くて。
    加賀と言えば一向一揆による
    「一向宗の国」って認識しかなくて…
    恥ずかしいことに顕如と蓮如を混同していたり。
    興味深く読ませていただきました。
    2019年05月08日 21:30
  • がにちゃん

    蓮如さまは、男性憧れの的ですね  信じられない元気さです
    名前が、重なって…???な事も
    しかし 大変な力を持った新興宗教だったのですね
    2019年05月10日 17:15
  • 藍上雄

     真宗とISIL、蓮如とバグダーディー氏どこか重なるものが有りますね。こういう戦いは純粋に宗教的な意味合いだけなのか、指導者の権力欲なのかは、判別できないものですね。でもこうした宗教的指導者が、権力者へと踏み出すきっかけに成った原因は、きっとその時代の権力者にも一因が有るように思えます。
     蓮如、84歳で末子ですか、宗教家なので、神の成せる事とでも言いたかったのかもしれませんね。(神格化されていたのでは…。)
     世界各国の宗教の歴史の中では、似たような事起こっていますね。でも戦いによる宗教的な世直しは、いつの時代も失敗に終わっていますが、権力者への警告には成ったのかもしれません。
    2019年05月10日 21:00
  • つとつと

    torさん
    現代の日本は政教分離が曲がりなりにも進んでいますから、宗教話は避けられたり、理解しにくい物があります。世界では宗教戦争は今でも存在しますが、意外にピンとこないのが宗教ですね。
    その中で戦国時代にもう有為を振るった真宗の法主の名前は、みんな〇如ばっかり^^;訳解らなくなるでしょ。書いてる僕も間違えそうになりますから^^;
    2019年05月17日 17:49
  • つとつと

    がにちゃんさん
    親鸞から数えると100年以上ですから、新興宗教とは言えないかもしれませんが、僕の家も真宗ですが。。好きになれないのは、法主という存在。。仏への道に強力な指導者は立ち上げだけで十分で、蓮如のように強すぎると副作用も大きいですね。真宗の場合蓮如の子供たちが多く、方向は別にして信仰に邁進したおかげで大きな教壇に育ったのは確かですが、、、、蓮如のバイタリティは凄いですね。
    2019年05月17日 17:56
  • つとつと

    藍上雄さん
    日本は曲がりなりにも政教分離が果たされていますから、宗教戦争というものが起こりにくい土壌にあります。また、異教徒は許さないという宗教もそう多くはないようです。
    封建時代の日本では、宗教と政治が密接に関係していたこともあるし、守る存在が無く寺や集団が自衛の戦力を持っていましたから、なにかあれば自衛だけでなく攻撃にも出てしまいます。浄土真宗は妻帯肉欲・肉食を認めていましたから、どうしても相続や血の継承が起こってしまいます。混乱期には強力な指導者は必要ですが、現代の日本のような共存社会ではそんな存在は必要なく、法主でなく阿弥陀如来だけ拝んでてほしいですね。
    イスラム教で特に原理主義のように、千数百年前の原則を現代に押し付けようとすると、ああいう世界になってしまいます。ブッシュが十字軍と叫んで批判を浴びたイラク戦争も似たようなものです。ともかく、政治が宗教に。宗教が政治に絡むとろくなことになりません。
    2019年05月17日 18:13

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