木越光徳寺跡 八坂神社(貴船神社)天狗の森

七尾の小丸山城を下城して一本杉通りに向かうと、大きな伽藍を有する「木越山 光徳寺」があります。11/3の光徳寺の報恩講では、七尾市街地では人気スポットの一本杉通りでは、露店が立ち並び賑わいます。七尾秋の大市として親しまれています。

山号・寺名が示すように、この光徳寺の発祥地は金沢市木越地区になります。戦国期には河北郡の四大坊主寺院(鳥越・弘願(ごがん)寺、吉藤・専光寺、磯部・勝願寺、木越・光徳寺)の一つとして加賀一向宗を主導した寺院になります。そしてこの寺院も加賀富樫家とは深い繋がりがあります。ちなみに現在の光徳寺住職は代々富樫姓を名乗っています。
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木越山 光徳寺跡

開祖宗性は、第十二代加賀国守護の富樫左衛門尉泰家入道仏誓の孫で、富樫右衛門利信である。
文永十一年(一二七四)比叡山に登り天台宗の僧となり、宗性と名のる。乾元元年(けんげん、一三〇二)宗性七十六歳で浄土真宗本願寺覚如上人に帰依する。
帰国に当たり覚如上人より、恵心僧都<源信>自作の「阿弥陀如来の木造」と覚如上人自筆の「六号名号」一軸を拝受し、加賀国河北郡木越の里に光徳寺を創建する。
戦国騒乱の時代、第七代現道は、加賀一向一揆の大坊主として活躍し、長享二年(一四八八)加賀国守護富樫政親を滅し、「百姓を持ちたる国」を実現させた。
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2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡 
右の白い車の停まっている畑地から薄緑の田園が跡地

天正八年(一五八〇)織田信長から加賀一向一揆平定の命令を受けた越前北ノ庄柴田勝家は二万の大軍を率いて加州に乱入し、一揆軍の奮戦も甲斐なく和議を申込み、鳳至郡黒島村に退避し蹴落山に坊社を建立する。
文禄四年(一五九五)加賀藩主前田利家公より第十二代賢正の時に鹿島郡府中違堀に移転し、坊舎を建てる。
天保十二年(一八四八)再度願い出て現在地に移転する。

真宗本願寺 (石川県七尾市馬出町三十五番地)

実は木越光徳寺の名を伝える寺院はもう一つあります。金沢市玉川町(江戸期、八家老・長家屋敷跡)の北隣の光徳寺ですが、木越光徳寺を伝えることは確かですが、寺伝の木越光徳寺の開創の時期が違っていて、開山も富樫泰家所縁の勧行坊とし明徳3年(1393年)。泰家の代から2世紀も離れ、年齢などと合わないという齟齬があるため、上記の案内板は七尾の光徳寺縁起を基に書かれています。

加賀の富樫家というのは、平安末期から頭角を現し戦後期まで600年以上の期間を加賀を主導した家系ですが、戦国期に一向宗に守護が自刃に追い込まれ、末期には織田信長に加担して孤立し守護家を失ったために、どうしても一般には影が薄く受け取られています。

その富樫家の中での有名人として一人挙げるとなると、文中の12代加賀守護・富樫左衛門尉泰家・入道仏誓になります。歌舞伎の「勧進帳」・能・浄瑠璃の「安宅」での富樫のモデルがこの人物になります。

歌舞伎・能・文楽・浄瑠璃では多少の演出の違いはありますが、安宅関での弁慶と富樫の掛け合い・対決、内心では義経一行と知りながら、武士の情けと黙殺して通過させる富樫。という流れは同じです。江戸期に入ってから成立した歌舞伎・文楽・浄瑠璃に比べ、成立完成の早かった能では、「安宅道行(富樫館・逢坂関~安宅)」「勧進帳読上げ(安宅関)」「義経打擲(安宅関)」「主従の対話(堂林寺跡)」「富樫との酒宴・弁慶の舞(大野湊神社旧地)」と一段五場となっています。

義経記や一部資料によれば、義経一行は安宅(そもそも関所があったか不明)を通過後は白山七社の岩本宮金剣宮に一泊、ここで富樫家の存在を知った義経一行は宮ノ腰湊(真砂山・大野湊神社旧地)に、弁慶が通行許可を貰いに富樫館に単独で乗り込んだと云われています。勧進帳を読み上げるなどすったもんだの末、弁慶は役目を果たし富樫館から義経一行が待つ宮ノ越に向かいます。弁慶の正体を見抜いていた富樫泰家は、酒樽と馬匹を進物として宮ノ越に弁慶に遅れて向かいます。後から富樫一行が宮ノ越に向かっていることを知った弁慶は、義経一行を先に立たせ、富樫一行を待ち受けます。ここで富樫が正体を知りながら、捕縛ではなく宴を持つ歓待を知り、弁慶は富樫に謝辞しつつ、宴を受けて大杯をあおり舞を披露したと伝わります。富樫と再会を誓って送り出された弁慶は義経一行を追います。その後の経路は能登に舟で向かったとも、倶利伽羅越えとも云われていますが、能登が有力と云われています。
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2019.05.02撮影 伏木駅前・如意の渡像

その後、如意(二位)の渡(現・高岡市伏木町、小矢部川・庄川河口)という渡し船に乗り込む際に、渡し守(平権守)に疑われて「白山で合流した新入りのせいでいつも疑われる」と、弁慶が義経を扇で打ち据えて渡し守の疑いを晴らして乗船して射水川を渡り、上陸先で謝罪したと義経記は記しています。鎌倉初期に渡し船があったか平権守がだれかは疑問が残り、安宅説も根強く、諸説は固まっていません。

ちなみに如意の渡しは別名・六渡寺の渡しとも呼ばれ、平成21年(2009年)まで渡船が運航されていました。現在は全長610mの海上にかかる伏木万葉大橋がその役割を果たしています。 ⇒ 富山デジタルライブラリー「如意の渡し」

如意の渡しの伏木待合所にあった弁慶・義経像は昨昨年、伏木駅前の広場に移されています。待合所は万葉大橋が急角度で曲がる下あたりにありました。ついこの間まで待合所がありましたが、今はどうなんだろう。機会があったら寄ってみます。

富樫泰家は後藤家文書によれば、生年は不明ながら安元2年(1176年)、安元事件の発端となった目代・藤原師経に与力した涌泉寺の焼打ちに兄・11代・家直共に参戦した時からになります。焼打ちで反発した白山勢力の都への神輿乗入によって加賀国守・藤原師高、目代・師経が失脚。責任を取った兄に替わって上洛し、後白河法皇から加賀介を拝受して、12代を継いでいます。加賀・越中武士団は源義仲の蜂起に早くから呼応して、越前今庄・燧ヶ城(ひうちがじょう)まで出陣・敗退しています。義仲の上洛戦にも参戦していますが、上洛後には加賀・越中の兵と共に北陸に撤退しています。加賀・越中の武士団は法皇の北面の武士団であり、法王を監禁するなどの義仲の暴虐に反発したためと云われています。逆に後白河法皇の義仲追討令と頼朝の命で、範頼・義経の軍に参陣したとも云われています。この時に義経との交誼を得たと思われます。

この義仲追討の恩賞により加賀国守護に就任、これが加賀守護家・富樫家の始まりでもありました。ところが、義経一行を通過させたことで頼朝の不興を買い守護解任、加賀国外追放処分、長子・13代・家春に当主を譲り、勝九郎重純と変名して家族と共に奥州平泉に赴き弁慶・義経と再会の約束を果たしたと云われています。国外放浪中に次男は出羽、三男は尾張に富樫分家を立てたと云われています。幕府からの許しを得て帰国、入道して仏誓として長寿を全うしたと云われます。

国外放浪中に、長子・家春は承久の乱で上皇方として、北条(名越)朝時(2代執権・北条義時の次男)の大軍を加賀武士団と共に砺波山で阻止。大敗を喫しています。朝時は戦後、能登・加賀・越中・越後守護となっています。この朝時の名越北条家が分国化しながらも北陸守護として鎌倉期を通じて続きます。

理由は解っていませんが加賀武士団の多くが没落する中、富樫家のみが生き残り、泰家の弟筋が新しい武士団(額・額田・山川氏など)として台頭しています。しかし鎌倉期は役職にはついておらず、富樫氏が加賀守護となる建武の親政まで雌伏の時期となっています。
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泰家の庶子(四男)某(名称・詳細不明)の子、つまり泰家の庶孫になるのが富樫右衛門利信。利信が比叡山に入山したのがいつかは解っていませんが、僧名・宗性となって76歳で浄土真宗・覚如に帰依、帰国後に木越光徳寺を創建したとしています。これが事実だとすると、真宗成立後の北陸最初の寺院ということになります。場所に関しては古戦場となった光徳寺跡遺跡千田北遺跡横に発見された大寺跡の二説(正直言って僕は千田北説と思っていますが。。)ありますが、今回は県文化財センターが主張する光徳寺跡遺跡としています。

このブログでは何度も書いたように、開祖・親鸞は宗教集団を否定し、自身の埋葬も墓所も否定しています。とはいえ、残された弟子や親族は法主や開祖の墓を守るのは死活問題です。弟子たちは親鸞の教えを伝える宗派を作り、親族(覚信尼(親鸞の末娘))は親鸞の墓所(大谷廟堂)を建て、覚信尼と善鸞(親鸞の長子?)が留守職となっています。この大谷廟堂を寺院化し、血脈を持って教えを広める本願寺を作ったのが、覚信尼の子・覚如で実質の開祖になるわけです。ちなみに開祖を親鸞とし、二代に如信(善鸞の子)を配置したのも覚如になります。ちなみに如信は大谷廟堂の留守職を覚信尼と善鸞に任せ、東国布教に生涯を捧げており、墓所も大網山法龍寺(現・茨城県)になります。

覚如から贈られた源信自作と伝わる「阿弥陀如来像」は七尾の光徳寺の本尊、覚如自筆(光徳寺では親鸞自筆としています)「六号名号」は寺宝として伝わっています。非公開のため、実物を見たことがないので、詳細は不明。。

ちなみに源信は、浄土真宗七高僧の第六祖に数えられる高僧になります。別名・恵心僧都・横川僧都。逸話の多い人物で、源氏物語で浮舟を救った横川僧都のモデルと云われています。また七高僧(龍樹・天親(以上インド)・曇鸞・道綽・善導(以上中国)・源信・源空(日本))は親鸞が選んだ浄土信仰の先達・師と仰ぐ高僧。第七祖・源空は浄土宗の法然のことです。

源信については近江の浮御堂でUPしています。 ⇒ 平成26年8月31日 浮御堂

加賀に真宗の教生を大幅に広めた本願寺8代法主・蓮如以前から存続していた木越光徳寺。蓮如が法主就任前、父である存如に従って、親鸞の事蹟を巡った北国巡行の際の文安6年(1449年)に蓮如自筆の「三帖和讃」が下付されています。

三帖和讃は、親鸞が自著の「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」をまとめた声明集になります。親鸞は没するまで三帖和讃を著述・添削を繰り返していたと云われ一般に自筆部分は少ないと云われていますが、真宗高田派・専修寺(三重県津市)が伝える三帖和讃が親鸞自筆の多さで国宝指定を受けています。蓮如は文明3年(1471年)に吉崎御坊を創建したころから三帖和讃、同じく親鸞が著した偈文「正信念仏偈」を開版して寺院・惣・講に広く下付し、朝夕の勤行に声明することを義務付けしていました。現在も真宗では「正信念仏偈」「三帖和讃」を勤行時の声明が行われています。

本願寺派が蓮如によって急激かつ広範に広まった要因は、御堂・大坊主寺院・寺院・惣・講という迅速な上意下達のピラミッド組織、「正信念仏偈」「三帖和讃」による寺院・門徒の勤行の統一、要所での蓮如の下文による引き締めが挙げられます。消滅寸前の本願寺を一代で一大宗教集団に伸し上げた中興の祖・蓮如は組織作りと宣伝の天才だったわけです。

浄土真宗では朝夕の勤行に声明される三帖和讃が、一般流布より20年以上も早く木越光徳寺に蓮如から下付されたことは、古くから加賀の大寺として重要視されていたという証明になります。

大小一揆以降の享禄・天文年間に登場してくる真宗有力寺院の光琳寺・光専寺(500m程北の佐川急便の近辺)と共に「木越三光」と称されていました。ちなみに話が後述の敗戦後の話ですが、光徳寺と同じく逃亡した両寺院は、光琳寺は門前町剱地(輪島市)に逃れ、光専寺は転々としながら高松(かほく市)に加賀藩からの許しと共に再興されています。ちなみに金沢に法光寺町がありますが、真宗帰依以前の天台宗時代の光専寺の先名で、江戸期には法光寺町の信徒は光専寺を檀家寺にしていました。

前述のとおり、享禄4年(1531年)大小一揆(享禄の錯乱)以前の加賀一向宗の組織構成は、8世法主・蓮如の息子達の大寺院・加州三箇寺(二股・若松本泉寺、波佐谷松岡寺、山田光教寺)を頂点に四大坊主と呼ばれた外様大坊主寺院(鳥越弘願寺・吉藤専光寺・木越光徳寺・磯部聖安寺)、その組下に惣道場を持つ有力寺院、寺院、地域の惣・講組織とピラミッド式の組織構成でした。この中でも四大坊主は在来の寺院として加賀一向宗を直接主導していました。

応仁の乱に端を発する加賀守護の家督争いにおいて、蓮如は守護の庇護による布教活動を条件に介入して、富樫政親に肩入れして幸千代を破って、政親を24代加賀守護に就任させています。両者の関係は良好だったのですが、真宗の急激な勢力拡大に脅威を感じた政親は一転弾圧へと舵を切り直します。これには加賀一向宗は大反発。

激しい反発の旗頭となったのが、前述の大坊主寺院でした。特に過激に動いたのが木越光徳寺・吉藤専光寺でした。家督返り咲きを狙った反守護派の富樫泰高の野望も合いまったようです。泰高の勢力圏は大坊主寺院と重なっています。

この騒動に困惑した吉崎御坊にいた蓮如は、加賀一向寺院の跳ね返りに、吉崎退去と共に扇動者として下間蓮崇を破門、異例の譴責(御叱りの御文)と取締の命令書を吉藤専光寺・木越光徳寺の寺院名・門徒を名指しで送りつけています。しかし、過激な行動はおさまらず富樫泰高を主将、四大坊主を中心に一向宗主将は洲崎慶覚(泉入道)をもって高尾城に加賀守護・富樫政親を自刃に追い込みました。

大小一揆(享禄の錯乱)では加州三箇寺の側ながら、本願寺の許しを得て戦後も大寺として存続が続き、加賀一向宗を主導したと思われます。
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2019.07.15撮影 木越光徳寺跡遺跡
中央奥の森が八坂神社の森で手前の薄緑の田園が光徳寺跡遺跡
木越光徳寺は加賀での本願寺最初の寺院と思われますが、金沢平野での最大最期の戦いの舞台になったのも木越光徳寺でした。千田北遺跡を紹介したように木越の地は古代は河北潟という湖で多くの河川によって扇状地が作られ、中世では少し掘れば水が出る低湿地帯だったと云われています。現在も広い水田地帯ですが、それ以前の昭和期には沼地を利用した蓮畑が一面に広がる湿地帯でした。木越光徳寺の位置は、この地では唯一の樹木地の八坂神社門前でした。
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2019.7.17撮影 木越コウタイジン遺跡
木越光徳寺は発掘調査によれば約160m四方に幅6m程の堀を施していたと伝わります。又南北に河川を有していました。織田軍との攻防時には更に河北潟の水を引き入れて水城と化していたと伝わり、天正8年(1580年)佐久間盛政主将の2万の軍勢と800艘の舟を用意して攻めたと云われます。光徳寺を破られた一揆軍は東に後退。八坂神社の北東に後退陣を敷いて周囲を掘って砦化して最後の抵抗を示します(木越コウタイジン遺跡)。
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血の川 現在は田園の用水路として田園に張り巡らされて細い水路ですが、光徳寺在寺当時は隣の道路を含めた程の川幅だったようです。
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光徳寺の戦いは加賀平野で行われた織田軍VS一向一揆軍、最大規模の合戦となっています。数カ月前には石山本願寺が事実上の降伏開城しており、追い詰められた北陸一向宗徒が最後の抵抗とも云える戦いを繰り広げていました。凄惨な戦いの末に多くの犠牲者を出し、その数は万余と云われて、側を流れる川が宗徒の犠牲者の血で朱に染まり、後世に「血の川」「金腐川」と呼ばれるようになりました。

この合戦で光徳寺11代・賢明は討ち死に、生き残った残党は後継の2歳児を抱えて逃亡。前田利家に降伏恭順、黒島村(現・輪島市門前町黒島)の蹴落山に坊舎を構えたと云われています。

曹洞宗総持寺派の総本山・総持寺(現・総持寺祖院)から八ツ川を西に4.5キロの河口に湊があり、総持寺の海の玄関口となっていました。また、総持寺お抱えの船大工・船主・船員が住んだのが少し南の黒島村になります。江戸期には加賀藩・石崎藩(土方雄久)・西谷藩・加賀藩預と目まぐるしく変わっています大藩は天領となっていました。北前船の発展と共に回船問屋の大きな屋敷が立ち並んだと云われています。明治以降から昭和40年代が全盛期で、船大工・船員として全国にでており、住民の6割が船舶関係者だったと云われています。また昭和29年(1954年)門前町となるまで、他の市町村とは合併せず一村一字(あざな)を通した村であり、他市町村とは違う独特な雰囲気があり、地元大工の吉田一族が村内の住宅を手掛けたために黒瓦・下見板・格子といった統一感があり、伝統的な家屋148戸や社寺建築などを併せて、平成21年(2009年)国指定伝統的建造物群保存地区となっています。ちなみに光徳寺と同じく逃散した光琳寺は8キロほど南に行った剱地は鳴き砂で知られる琴ヶ浜(NHK朝ドラでまれがオープニングで踊っていた砂浜)の手前、仁岸川の河口北岸になり町内に現存します。

黒島は前述の様に戦国期までは総持寺の出湊的存在でした。
前述の様に、富樫家14代・家尚は、永平寺を離れた徹通義介を保護し野々市の大乗寺を開基させ、菩提寺として多くの寄進と保護を加えていました。徹通義介の後継の瑩山紹瑾が能登布教の足掛かりとした永光寺の本堂は家尚の子・家方が建立し、総持寺創建にも尽力しています。家方は曹洞宗の進出を嫌う石動山と戦い討ち死にしています。総持寺にとっては富樫家は大恩人に当たるわけです。総持寺の勢力圏の黒島に富樫家所縁の光徳寺を受け入れたのはこの辺りの関係とも思われます。黒島湊からは戦国期、大野湊の加賀一向一揆に兵糧を送り出した記録もあるそうです。

光徳寺が逃げ込んだ黒島村の蹴落山がどこかは知りませんが、海沿いだったことから風波によって浸食が激しく荒廃していたようです。天正19年(1591年)豊臣秀吉による本願寺再興許可の影響か、この頃から前田利家の文禄4年(1595年)鹿島郡府中村違堀(現七尾市府中町付近)に移っています。違堀というのは、現在地の一本杉町の東、御祓川を越えた先にある場所で現在の塗師町になります。中世から宿駅が置かれた七尾の中心地で街道の起点とされており、明治には道路元標が置かれた場所です。江戸期は長くそこに存在し、天保12年(1841年)に現在地(馬出町)に移転しています。ちなみに入口(山門)は観光通りの一本杉通りに面しています。

千田北遺跡や先述したように、木越・大浦の地は古代は河北潟で医王山麓や白山麓から流れる幾本の河川によって構成された晩期の扇状地でした。この為に、大木・森・林などが少なく、湿地帯が多く、昭和期には蓮根畑、現在は田園や平坦地が広がっています。戦国末期に激しい攻防戦が行われた木越光徳寺跡遺跡、木越コウタイジン遺跡ともに今は田園が広がって、のどかな平坦地が広がっています。
DSC_5182.JPG2019.07.02撮影 八坂神社の天狗の森
この二つの激しい攻防戦が行われた両遺跡の真ん前に、忽然とあるのが八坂神社(貴船神社合同)の森になります。別名・入らずの森・天狗の森と呼ばれています。平原の中に忽然とある特殊な森の為に、昭和56年(1984年)金沢市自然樹林として保護指定を受けています。
しかし、北側を流れる河川の名「血の川」「金腐川」が示すように金沢史上最大の犠牲者を出した古戦場のど真ん中、また平原地に孤立して人が訪れないために入らずの森となっています。一部からは、天狗の住む森、戦死武者の気配、白装束の女性などと心霊スポットと噂されてもいる場所です。でも実際のところ、僕が知る限りでは天狗はともかく心霊現象は噂だけですが。。。
DSC_4860.JPGこの天狗の森の北西入口には八坂神社の鳥居。北面には貴船神社の鳥居が建てられています。
DSC_4848.JPG上:八坂神社鳥居&表参道 右:貴船神社鳥居&表参道
この天狗の森は便宜上、住所は千田町になっていますが、本来は千田町と今昭町が土地を出し合った合同合併地になります。
千田町・八坂神社(スサノオ)、今昭町・貴船神社(ミヅハノメ)を同格として一宇に祀っています。ですから、どちらの鳥居も同格で、両方が表参道になります。

石川県神社庁より

御祭神 素戔嗚命 少彦名命 罔象女神

由緒  聖武天皇の御宇天平8年4月に神託によりて一宇創建し、現在の今昭町、千田町、荒屋町その他の総社として崇敬され、高桑五郎祈願所たるも、天正年中一揆の兵火に罹りて社頭神宝記録を失う。その後社殿を旧跡に再興し現在に至る。
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この神社には古い伝承があって、ある夜に空から二つの祠と森が降ってきたと云われ「天の宮」と地元では称したと云われます。この二つの祠を素戔嗚(スサノオ)と罔象女神(みつはのめのかみ、ミヅハノメ)として祀り、後にスサノオ(大国主?)の相方として少彦名命を加えたと云われています。天正年中一揆(光徳寺合戦)の後、千田・今昭両町のそれぞれの産土神になっていたものを合祀して一宇に納めたと云われています。この為に両町それぞれの鳥居と参道が出来たというわけです。ちなみに、ミヅハノメという聞きなれない名の女神は、イザナミがカグツチを産んで亡くなった際に、その遺体からのおしっこから生まれ、水の女神とされています。同時に生まれた弟神がワカムスヒで、伊勢神宮外宮に祀られる豊受大神(トヨウケヒメ)の父になります。
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由緒文中の高桑五郎。。父親は一向一揆の一大将・高桑備後(源左衛門茂数)で千田から西方の浅野川の対岸の割出に舘を構えていました。。光徳寺合戦で高桑備後は佐久間盛政に降伏、詳細不明。その子の五郎は森下(現・森本)に逃れて染物工になり、家名を割出の舘から「舘紺屋(森下紺屋)」としています。五郎の子または孫・十郎が金沢に召し出されて、加賀前田家の召し服の染め方を命じられています。舘紺屋が金沢に移って家居を構えたところから、兼六園下から兼六園へ登るメイン道路の紺屋坂の名の由来になっています。

天狗の森が入らずの森になったのには、周りに人家がないことにあります。これには地盤の関係があります。
八坂神社鳥居前から東方向の水田地帯
右の工事は海側バイパスの延伸道路になります。
DSC_4849.JPG住居を建てるにはそれなりの強固な地盤が必要です。近代になって土地改良が進んだとはいえ、軟弱地盤では長い年数を持ち堪えるには問題があります。扇状地にはこういうリスクが非常に多く頻発します。ところが扇状地の石・砂・土砂の堆積具合でその強固さに差が出てくることになります。

解り易い例では富山県砺波地方の散居村。砺波平野も急流によって運ばれた土砂によって出来た扇状地なのですが、地盤が軟弱なものが多く、強固な部分は点在していました。この為に、土壌の強い部分が狭いために集落を構成しにくかったのです。このために硬い土壌を選んで家屋や小屋を建てると集落が構成できずに各家が独立したああいう状態になってしまったのです。集落のように他人を頼れないことから各個人宅で全てをまかなう必要があり、大家族を養うアヅマダチという大きな家屋と納屋・土蔵が必要となったわけです。更に平野部では遮るものがありませんから、集落のように家屋が接近していないために、強風で吹き晒しになってしまいます。植林で防風林を家屋の周りに配することになります。これが散居村の成り立ちになります。
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砺波程ではありませんが、金沢平野の木越・大浦地区も同じことが言えますが、木越・大浦地区では軟弱地も広いですが地盤の安定した場所が結構広く、住宅地や集落が構成しやすかったといえます。砺波もそうですが、木越・大浦地区でも軟弱地は田畑として広大な農業地になっています。そのど真ん中に奇跡のように森が出現したわけで、近在の集落(千田・今昭)から崇敬を受けたのは当然と思われます。その面積は集落を構成するような規模でないために、入植することもなく、戦国末期の凄惨な古戦場の中心ということもあり、崇敬と畏怖の両方を近在集落から受けたのだと思われます。
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八坂神社樹間地
アップすると解りますが、地面が沼地化しています。
森を構成するほどですから地盤が安定しているかと言えばそうでもなく、二つの参道と堂宇の立つ部分以外は草地に乗るとフカフカしていますし、木々の間には水が噴き出している部分もあります。近在の古老によれば、昔は参道以外は沼地も多く存在したようです。このため、普通は神社などは児童の格好の遊び場ですが、ここでは沼に嵌るということで子供の立入りも親が禁じて来たようです。
また地盤の割には木々の繁茂が旺盛で夏場に森に入ると、平地の真ん中過ぎるせいか鳥も寄り付かず鳥の鳴き声もしません。近くに国道8号や内灘へのバイパスと交通量の多い道路がありながら、外界の音が全く入って来ず、全くの無音状態。。社殿が木目むき出しの簡素な造りで、なおさら神厳さと孤独な不気味さを感じさせます。

おかげで一部からは心霊スポットなどとあらぬ噂を立てられた原因のようです。何もないというのは逆にそういう印象を与えてしまうんでしょうね。とはいえ、それだけ、神域としては貴重な存在でもあるということですね。。
この神社の関しては近くに在住の、のっちさん(我が家のお出かけ帳)が毎年初詣に行っているようです。社殿内部の画像も観られます。光徳寺合戦の絵馬があるようです。僕も正月に行ってみよう^^/


旅行日 2019.04.20

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この記事へのコメント

  • tor

    ウエブリブログリニューアル後の大作ですね。
    一向宗の百姓の持ちたる国
    前にもコメントしましたが
    私には人物がゴチャゴチャしていて
    なかなか理解が追いつきません。
    加賀国の守護職富樫氏も
    つとつと様のブログで知った次第です。
    安宅の関だったのですね。
    九州を離れると知らないことばかりです。
    罔象女神はこちらに多い
    水神様に祀られているのでなじみがあります。
    日付から大作を書き上げるご苦労の一端を垣間見ました。
    2019年07月18日 20:23
  • がにちゃん

    八坂神社に貴船神社 読んでるうちに勘違いしそうでした
    本当に、京都の地名が同じところが多いですね
    2019年07月19日 00:55
  • つとつと

    torさん
    リニューアルはこういうブログではたまにあるんですが、ここまですべてが変わるとやり難いったらありゃしません。。いろいろ試行錯誤していたらどんどん日にちが経ってしまいました。文章よりどうすれば前に近づけるかで四苦八苦でした。
    宗教絡みというのは、なかなか覚えられませんし似たような名前が出て混乱しちゃいます。歴史でも、途中で埋没した家系も多いですから、富樫家などは認知度は非常に低くなります。でも石川県内の史跡を歩くとどうしても富樫家の影に行き当たってしまうので、外すわけにはいかないんですよ。。
    今回の光徳寺跡も戦国期の加賀では最大規模の合戦が行われた地になります。でも全国どころか加賀の人でも知らない人が多いようです。
    ミズハノメを祀る神社は少ないのですが、やはり九州にはあるんですねえ@@僕が訪れたことのある神社では楠木正成が氏神にしていた千早赤阪の健水分神社。越前和紙の守り神の越前市の岡太神社。どちらも特殊な社殿で必見の神社ですよ^^
    2019年07月19日 20:09
  • つとつと

    がにちゃんさん
    加賀・能登は中世の京都・大坂の影響を強く受けているせいで、寺院・神社・地名には京都所縁の物が多いんですよ。奥能登には清水(きよみず)寺までありますよ^^;がおかげでと言っては何ですが、京都に行くと地名が他の地区の人より、普通は読めない読み仮名が合っちゃう石川県人が多いようです。嫁さんなどは京都や金沢の地名を観るごとにどうしてそう読むのかとぶつぶつ言ってます。
    2019年07月19日 20:19
  • yasuhiko

    富樫泰家とはそのような人物でしたか。
    一時は義仲軍に味方し、上洛軍に加わった事もあるんですね。
    そして、頼朝に守護職を解かれてからは、故郷を離れ、
    奥州平泉に赴いたとか。まさに、源平争乱の時代を
    急いで駆け抜けたような人物なんだと感心しました。
    歌舞伎の世界が、別の意味で身近になった感じがします。
    2019年07月20日 15:48
  • つとつと

    yasuhikoさん
    富樫泰家は事蹟を観ると百歳に届く人生を過ごしたようです。波乱万丈の人生で、安元事件から承久の変まで大きな事変に係わり、富樫家初の加賀守護職と富樫家を代表する人物ですね。
    それにしても歌舞伎や能で後世まで名を遺すとは思わなかったかもしれませんねえ。。県内では本拠の野々市・金沢より小松での人気が高い人物です。
    2019年07月20日 16:39
  • ミクミティ

    大胆にブログのテンプレートを変更されましたね。私も悪戦苦闘しています。ようやく落ち着いてきましたがまだまだです。
    江戸時代の加賀前田藩以前の加賀の歴史には、富樫家と浄土真宗の興亡の長い年月があったことをあらためて思い起こさせて頂きました。戦国時代からの織田や前田の統治も、その融和の下にようやく成り立ったものなのですね。
    2019年07月20日 21:51
  • つとつと

    ミクミティさん
    大胆というより、僕のは文字が多いので、極力、前に近づけようとしたんです。それでも所々で躓いて悪戦苦闘です。一番痛かったのは、地図リンクが無くなったので、前のブログが捜しにくくなったのと、自分の足跡がなくなったことですね。。前の方がシンプルで優れていたと思いますね。
    富樫家の滅亡の原因は、やはり身内の争いだったと思います。室町前半までは結束していましたが、加賀北部・南部で分裂対立を繰り返しいます。最大の失敗は宗教集団の介入を受け入れた時点で、嫌でも関わらざる負えない立場に追い込まれたことです。宗教と政治が絡むとろくなことにならないという見本ですねえ。
    2019年07月21日 09:22
  • 家ニスタ

    小丸山城には行ったことがあるんですが、光徳寺は行ったことがありませんでした。
    なるほど、富樫氏は勧進帳に出てくる富樫氏ですね。
    しかし弁慶が義経を打ちすえる場面はドラマチックすぎ、フィクションとは思いますが。
    関があったかどうかも不明なんですね。
    それでも義経一行が平泉にいたことは確かなわけで、そこに至る道筋ももっと解明されるといいですね。
    2019年07月24日 19:58
  • つとつと

    家ニスタさん
    小丸山城を降りたところに土俵があったと思いますが、その隣が光徳寺になります。境内を抜けると観光通の一本杉通りで和蝋燭店や花嫁のれん館が見られます。毎年GWには日本一大きい山車「青柏祭のでかやま巡行」「花嫁のれん展」が見られますよ^^とにかく、でかやまの大きさには驚くと思いますよ^^
    安宅関は安宅川を渡るための関所が置かれたと云われているんですが、現在の跡地は推定地で、鎌倉以降に浸食で海の底だとも云われています。義経記では伏木の如意の渡しとも云われていますが、そこは不明です。。ただ、大和・京都経由で義経が平泉に行ったのは確かで、富樫が平泉に行ったという伝承は強く残っています。又、義経を保護した藤原秀衡は白山信仰に傾倒していて白山に仏像を何度も寄進しています。そうそう白峰にその仏像が下山仏として残っています。最後の守護・晴貞の息子は奥州に逃亡の果てに住み着いていますから、富樫と奥州の係わりは強いようです。
    2019年07月25日 02:14
  • まだこもよ

    「00の渡し」って あちらこちらに ありますね!
    2019年07月29日 06:41
  • つとつと

    まだこもよさん
    〇〇の渡し 確かに全国にありますねえーー
    尾曳の渡し 矢切の渡し 歌になっているものもありますねえ♪

    特に川幅の大きく、急流で橋を架けられない所には多く存在したようです。現在も海を介在するものもありますが、まだまだ現役の渡し船があるようです。小矢部川の如意の渡しも3年ほど前まであったんですが、今は車で橋を渡るようになって味気ないものになってしまいました。
    2019年07月29日 17:17
  • 藍上雄

     富樫家と言うのは、時代時代の名脇役のような存在でしょうか…?複雑ですね。最初は義経と親密になり出世、義経が討たれる事を助けて下野ですね。一向一揆の時も敵味方に分かれて生き残った様ですが、最後は、信長の変で、武家としては終わりに成ったのでしょうね。
     八坂神社樹間地は、一揆の古戦場とは場所的に一致するのですか…。夜になると昔の落武者の亡霊が出てくるのではと、言う話頷けますね。地盤的には泥炭地や中層湿原的な物なんでしょうね。
     
    2019年08月04日 19:16
  • つとつと

    藍上雄さん
    確かに富樫家は北陸では大いなる脇役と言えますね。600年以上の長きを加賀で重きをなしたのはまちがいなく、歴史の端々に登場してきます。最後は織田信長に復権を預けましたが、少し早すぎた決断でした。
    八坂神社は光徳寺と川を挟みますが隣になります。当然ながら兵火に罹り多くの資料を失っています。地形は確かにおっしゃるように粘土質の地盤になります。
    2019年08月04日 23:39
  • まだこもよ

    天狗って 本当は なんだったんですかね?
    こっそり 日本に入ってきていた 外人さんって 言われていたりしますが〜(鼻が高いのが あのような姿に見えた? 鬼も 同じ 外人さん?(笑)
    2019年08月05日 05:14
  • つとつと

    まだこもよさん
    天狗もいろんなことを言われていますが、その時代によっていろいろなものがそう呼ばれたんだと思います。それでも一番多いのは山の民というの多く、その次が落ち武者説、世捨て人説、場所や地域でも変わったのかもしれません。
    最初は異形を強調したのが、近世に西洋・インド系にあてはめられたんでしょうね。
    2019年08月07日 07:05
  • 巣鴨介

    こちらに移りましたw
    文章、写真と大変な労力がかかったのではないでしょうか、頭が下がります。
    光徳寺・・・まさか一族を滅ぼす側になろうとは思ってもいなかったでしょうね。大小一揆の後も許されて存続したのは不思議ですが、逆に血族ではなかった故なのかなとも思ったりします。
    私の家は真宗本願寺派なのですが、鹿児島は全国でも門徒の多い地域のようで、本願寺派は「おにっさぁ(お西様))」、大谷派は「おひがっさぁ(お東様)」と呼ばれています。しかしその歴史は明治なって公に開放されたもので、江戸時代藩政期は島津家はキリスト教同様に一向宗禁教令を出し取締を徹底しました。よって、真宗の古刹というのは存在しません。その間、庶民は隠れ門徒として生き延びたことになります。
    寺院一つをとっても興味深い歴史があるのですね。特に真宗寺院は特に。
    2019年09月26日 14:49
  • つとつと

    巣鴨介さん
    一向宗の寺院としては最古の寺院と云われている寺院ですが、その開祖が同じ富樫家が出自というのは歴史の皮肉ともいえますねえ^^高尾城攻めの寺院としては一番過激な存在になっていました。
    大小一揆で敗れた三箇寺側に加担した寺院は加賀・越中ほとんどの寺院です。そうそう全てを処分するわけにはいきません。実際に廃棄されたのは三箇寺と首謀者の肉親の寺院のみに留まっています。加賀・越中を本格的に敵に廻すほどの実力は本願寺にもありませんから。。せいぜい目付け役を送るのみにとどまっています。ちなみに僕の家は東本願寺系ですが、寺院は三箇寺の波佐谷松岡寺を継承していて、住職は松岡姓を名乗っています。僕の祖父は石川に来てからはこの寺に帰依していましたが、元は曹洞宗のようで、葬式の時には両宗の合同葬になっていました^^当時、そして今でもこのような葬儀は見たことが有りませんが。。
    そうでした人吉藩・薩摩藩は浄土真宗を禁じていましたからねえ。。隠れ門徒・隠れ念仏という言葉がありましたねえ。。北陸侵攻時の前田利家は徹底弾圧したために、小丸城跡(越前市)から発掘された瓦の裏に名指しで恨みを書かれているほどです。とはいえ、利家の領地になった能登・加賀・越中は真宗勢力真っ只中、そんな彼も慰撫政策で苦労したようです。能登統治後は人が変わったように保護政策に方針転換しています。
    石川と鹿児島では逆の状態だったんですねえ。。明治以降の鹿児島に真宗がなぜ現代のように広がったのかは知らないので、今度調べてみようと思います。
    2019年09月28日 22:26
  • そうですね。一向宗弾圧・・・逆に本山や加賀のように深く関わりが無かった僻遠の地だからこそ、徹底することが出来たのかと思います。実際、一揆の多発などの情報は入っており、大名として危機感を一向宗に感じてもおかしくないと思われます。
    直接の関係は無いですが、島津家存亡の危機とも言える庄内の乱での首謀者となった都城領主伊集院忠真の父であり、謀叛(独立大名としての自立)を疑われて誅殺された忠棟(幸侃)は熱心な一向門徒であったとも言われています。

    つとつとさんは松任に住まわれているとのこと。以前より気になっていながら、まだ入手していないのが下記の書籍ですが、読まれましたでしょうか?一向宗側と言う事で後回し(?)になっているところです(笑)
    『松任城と一向一揆―一揆の雄城主鏑木氏を探る』
    https://www.amazon.co.jp/%E6%9D%BE%E4%BB%BB%E5%9F%8E%E3%81%A8%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86%E2%80%95%E4%B8%80%E6%8F%86%E3%81%AE%E9%9B%84%E5%9F%8E%E4%B8%BB%E9%8F%91%E6%9C%A8%E6%B0%8F%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E9%8F%91%E6%9C%A8-%E6%82%A0%E7%B4%80%E5%A4%AB/dp/4833006499

    つとつとさんもご多忙かと存じますが、もしお時間がある時でも義綱さんのサイト『能登畠山氏七尾の歴史』のBBSにメッセージ頂ければ幸いです。
    2019年10月01日 16:21
  • 巣鴨介

    ↑ 記名を忘れておりました(汗)

    今、鹿児島は島津義弘公没後400年に関するイベントが行われています。昨年の『西郷どん』が嫌いとかではなく(笑)、島津四兄弟、島津四代などの形で戦国島津に関して取り上げられていたらと思ったりしています。

    それでいけば、来年2020は実質最後の当主(その後、4年間後を継いだ兄・泰俊が最後と言えば最後とはなりますが…)と言える冨樫晴貞公没後450年。
    何か、それに伴うイベントなどあれば良いのですが。。。
    2019年10月01日 16:31
  • つとつと

    巣鴨介さん
    浄土真宗の教義は領主や国守にとってはキリスト教にも近いし、専制君主として容認できない教えになると思います。特に幕府成立後まではまだまだ安定していないので、いつ反乱に結びつくかと恐れにもなると思いますから、真宗が根付いてしまった北陸に比べれば、今のうちとした島津氏の判断も解らなくはないと思います。
    庄内の乱についてはあまり詳しく掘り下げていないので不明で浅学なんですが、正直いって島津忠恒の伊集院忠棟・忠真に対する陰湿さを感じてしまい容認しづらいですねえ。。忠真はともかく忠棟がいなければ、島津家が存続できたか解らない程の功臣ですから独立を認めるほどの度量が欲しかったですねえ。。島津四兄弟の強さや結束力は認めますが、島津家が肝心な時に身内争いで多勢を関ケ原に派遣できず、東西どちらに立つとしても、主導・活躍できなかったのは島津忠恒の度量のなさと陰湿な短慮に尽きたと思います。
    ご指摘の本は僕も知ってはいますが読んでいないんですよ。。松任城を根拠にした鏑木氏は現在でも松任の神社関係に隠然たる存在です。
    富樫政親が衰亡したのも、右腕として活躍していた松任城主の鏑木繁常が、突然蓮如に帰依して吉崎・京へとさり、鏑木一族が一向宗側に廻ったのが最大の要因だと思っています。https://72469241.at.webry.info/201408/article_1.html

    2019年10月02日 10:55
  • 巣鴨介

    その点に関しては、地元人である、自分も家久(忠恒)???ですね。
    元々、兄・久保が巨済島で陣没していなければ、表に出てくることも無かったかもしれない存在。実際の所は歴史の闇として真実はどうだったのかわからないのですが・・・
    戦国で大名の地位を失った冨樫家、幕末までその地位を確保し続けた島津家。いずれにしてもお家騒動その他、様々な問題に苛まれながら時代を生きていた事は変わらないのだなぁと思いました。

    先日、畠山義綱さんとのやり取りができ、以下のメッセージを書かれました。
    >『つとつとのブログ』
    こちらのブログは私にとって初見でした。拝見させて頂きました「富樫家俊館跡~押野後藤家屋敷跡」の項を見ると、非常に詳しい方ですね。私は一向宗の知識に弱く、その辺りは以前は林光明様のご教授を頂いて成り立っていたのですが、ご逝去されて頼れる方がいなくなってしまいました。つとつと様は一向宗にも明るい様子で議論も楽しくなりそうです。

    度々、書くのも失礼かと思いますが、つとつとさんがお時間を取れる時、BBS『七尾城掲示板』にお越し頂ければ幸いです。
    https://531.teacup.com/97e1055/bbs

    鹿児島も随分寒くなりました。石川は更に寒さも厳しいのでしょうね。どうか、お身体ご自愛下さい。
    2019年11月10日 15:57
  • つとつと

    巣鴨介さん
    @@ 林(六郎)光明さん 亡くなられたんですか。。知らなかった。。このサイトを書き始めた頃に、ある意味能美・山吉方面では、富樫家の本家筋ともいえる林家に自分の家系が繋がると、林家や富樫家を詳しく書かれていて、ちょこっとしか林家の存在を知らなかった僕に、認識させたサイトを読ませて頂きました。たしかyahooブログで現在は見られなくなってしまい残念に思っていたんですが、、、
    白山市では歴史好きな人には、知らない人はないと云われる林六郎光明。金剣宮(白山本宮の近く)で、義経に富樫家の存在を教えて助言した人物の名を使われていて、林家に思い入れが強いんだなあと感銘を受けた方でした。ご冥福をお祈りします。
    そうそう、北陸鉄道石川線の終着・鶴来の一つ手前の日御子に六郎塚があり、白山比咩神社宝物館に寄進したと伝わる螺鈿の鞍が重文として展示されています。富樫関連ついでに是非立ち寄ってみてください。
    ここのところ、体調を崩して9.10月と低空飛行をしてしまい、落ち着いたら是非寄らせて頂きます。
    巣鴨介さんも体にはぜひご自愛ください。健康でないと好きなこともできませんからね。。
    2019年11月11日 19:17

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