赤レンガミュージアム 金沢を表す三色


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金沢を代表する色といえば、まず連想するのが金沢箔の金色
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百万石まつりの前田利家の甲冑姿でもお馴染みの金小札白糸素懸威胴丸具足、これに金箔押鯰尾兜・金箔押面貌は金箔工芸の会社では目玉として再現展示しているところが多くあります。現物の具足は天正12年(1584年)佐々成政との攻防戦の末森城合戦に着用したと云われ、末森城主として城を死守した奥村永福(奥村宗家祖)に恩賞として与えたと云われます。その後、奥村宗家から前田家に献上されたものです。
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画像は金箔製造・販売の箔一箔巧館・金箔ミュージアム金箔の間から、黄金の鎧兜を囲む壁面にも1万枚に及ぶ金箔が張られています。プロジェクションマッピングで幻想的な世界観が演出されます。
他にも金箔製作体験や、職人作業も見学できるので、観光の合間にもお薦めかも。。 
⇒ 箔一・箔巧館HP
箔一は昭和50年(1975年)に浅野邦子(現会長)さんが金箔の工芸品販売を目的に創業した会社になります。浅野邦子女史は京都出身で箔製造の箔屋の四男に嫁いだ主婦だったのですが、オイルショック後の不況で低迷する家計の助けのつもりからスタート、、、箔打ち紙から作った油取り紙が大ヒット(特許も箔一)、更に食用金箔の開発など女性感覚の波及品などで金沢箔を材料から主役に押し上げた功労者です。浅野さんのお姿を拝したのは香林坊アトリオに直営店を出して北陸経済同友会員になった頃、北陸経済会主催の研修会(一里野)に行かされた前職時代(僕はペエペエのただの研修生でした^^;)、当時40歳とは思えない(僕は30前後の同年代だとずっと思ってました。)初々しく美しい女性だったなあ。。あっと、今は歳とったけど(失礼)。。今も綺麗ですよ。。
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金箔が有名になりすぎて、まるで箔=金箔の様に思われていますが、あくまで金箔は金属箔の一種になります。金属箔には金・銀箔以外にも真鍮箔、アルミ箔、プラチナ箔、錫箔、金属粉箔などがあります。現代の金沢の金箔生産は全国の99%を占めると云われますが、箔作業を行う石川県箔商工業協同組合所属事業所は81カ所と云われています。
箔一 金箔製作体験教室
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北陸の金箔製造は古くから行われていたのは確かで、能登を中心にしていたとも云われます。江戸時代は幕府の貨幣統制、金座銀座制度により元禄11年(1698年)の各藩での金銀箔使用停止命令によって幕末まで金銀箔製造は途絶えていたと云われます。一部には細工所で隠れて伝承していたと云いますが大きな進化や発展はできず、、文化の大火(1805年)の金沢城二の丸御殿などが焼失した際には京都から職人を呼んだと云われています。
金箔展示 十円玉1/3の金から畳一畳分の金箔になります。一万倍の大きさに広がるのが金箔
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金沢箔の復興の足掛かりは弘化元年(1844年)金沢の能登屋左助(越野左助)が江戸製作の金箔販売の許可を加賀藩・幕府から得たあたりから、この際に不良品や加工の打ち直しが行われるようになり、安政3年(1856年)には正式に金沢に細工場が設けられ箔打ちが盛んになっています(金・銀箔は打ち直し名目)。元治元年(1864年)金沢城修復用・加賀藩御用箔に限定ながら金・銀箔打ちの許可が幕府から左助に下ります。この流れは能登屋左助(越野左助)一代のもので、能登屋左助は金沢金箔再興の祖と云える存在です。
明治2年(1869年)に金座銀座が廃止されて金箔の製造が解禁されて生産が本格化します。石川県の気候風土(気温多湿、水量豊か)は箔打ちに最適だったこともあり一気に一大産地となりますが、質の面では京都や滋賀に後れを取っていました。

大正4年(1915年)には三浦彦太郎によって箔打ち機が開発され、生産量が飛躍的に増産され、金箔打ちの命とも云える箔打ち紙は兵庫・名塩産手漉き和紙を主にしていましたが、昭和7年(1932年)には敦賀の紙漉き技術を導入した能美郡川北町でも生産に成功し、県内に広がり加賀雁皮紙が確立。質の面でも最上格となって行きました。
しかし太平洋戦争で壊滅的な低迷を経て、昭和25年の朝鮮特需、昭和36年浄土真宗親鸞大遠忌での寺院・仏壇・仏具需要で復活を果たしています。金箔は時勢に影響を受けやすく浮き沈みが激しい産業でもありました。

金箔は古代の仏像の腐食防止の素材として漆塗りと共に発達し、寺社仏閣建築、西陣織の金糸・銀糸、沈金・蒔絵、陶磁器の絵付、金屏風・看板、金文字、鍍金他など工芸品に欠かせない重要素材料となりながら、昭和40年代まではあくまで工芸の下請け的存在に甘んじ、金箔自体も知名度は燻ぶっていたわけです。
昭和40年代に伝統的な和紙を箔打ち紙として使用する縁付箔とは別にパルプグラシン紙に炭素溶液を塗布した紙を使用する断切箔が登場し流通が増え、金箔の知名度は徐々に高まってきた中、昭和50年の箔一の登場によって一般女性にも認知され、箔事業者が自身で箔工芸品や一般商材を製作するようになり知名度を高めていったわけです。まさか美容パックや金箔ソフトまで流行るとは思いませんでしたが。。

昭和52年には金沢箔として指定伝統的工芸材料に指定され、平成26年(2014年)には縁付箔文化庁選定保存技術に指定されています。金箔色は昭和末期から平成を経て金沢の代表色に登り詰めたと云えます。
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金沢では高貴の色とされ、高級料亭・茶屋、富貴な旧家などで見られる群青の塗り壁に観られるウルトラマリンブルー(群青)               
このマリンブルー群青)、成巽閣(巽御殿)の中でも最重要な位置とされた階上の群青の間が基礎というか根源になっています。つづきの間となる書見の間と共になるこちらをご覧ください ⇒ 成巽閣 群青の間・書見の間
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兼六園の扁額(石川県伝統工芸館蔵) 文政5年(1822年)松平定信(白河楽翁)が、洛陽名園記・湖園の項を引用して、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六景観を兼ね備えていると命名して贈呈した額になります。

12代藩主・前田斉広は政治改革の挫折後、藩主の座を嫡子・斉泰に譲ると自己の趣味趣向追及の道に踏み出します。瓢池周辺、霞ヶ池の北側に限られていた庭園を大きく広げ、現在の兼六園の規模にしたのも斉広でした。兼六園の名は松平定信から贈呈されたものです。更に金沢城内の二の丸御殿をしのぐ規模(約4千坪)の別邸として竹沢御殿を建築しています。隠居別邸としながら、奥向き・政庁機能まで揃えたもので、その部材や装飾は当時の金沢文化の粋を集めたものだったと云われています。つまり現在の兼六園の主要部分は斉広の隠居所・竹沢御殿の私的庭園だったわけです。わずか2.3年ながら加賀藩の財政を傾けた贅沢品は斉広死後に、幕府の眼を憚って即取り壊され、金沢城・江戸屋敷の部材として転用され、跡地を整備して霞ヶ池を掘り下げ名木を植えて、現在の兼六園の姿になったと云われています。

歴代・加賀藩主は正室を将軍家や他の大名家から輿入れし、正室が亡くなると以降は正室を置かず、側室のみの生活を送っていました。この通例を破ったのも斉広でした。藩主着任の翌年、尾張家の養女(高須松平家娘)を正室・琴姫として迎えますが相性が悪かったのか、病を理由に琴姫が実家に帰ったまま戻らず翌年離婚しています。通例ならこのまま側室のみの生活なのですが、慣例を破って継室を迎えています。しかも、加賀藩主始まって以来、公卿からの正室輿入れとなりました。それが夙姫(真龍院)でした。夙姫の本姓名は鷹司(たかつかさ)隆子で関白・鷹司家の二女になります。五摂家の一つで、長女が仁孝天皇女御(贈皇后)、妹に13代将軍・徳川家定の正室(有名な天璋院は3人目の継室)、古くは徳川家光・綱吉にも正室を輩出している超名門。。

超名門とはいえ藩主の正室は江戸屋敷に常住するのが決まりでした。夙姫が輿入れした翌年(文化5年(1808年))一月金沢城二の丸御殿の火の不始末から二の丸御殿・御殿・広式を全焼、二の丸城壁まで延焼しています。金沢を燃やし尽くした宝暦の大火から半世紀、長い再建の末の復興間近の時の出来事でした。斉広は幕府から3年の参勤交代免除と許可を得て金沢に戻っています。翌年の三月211軒、七月にも城下町の家屋596軒を焼く大火が起こり、更に文化12年には金沢四大大火に数えられる文化の大火(三月2000軒、七月674軒)が発生し、金沢再建に忙殺されます。先に斉広が超浪費家として書きましたが、この時には決して無能ではなく逆に意欲も実行力もある藩主でした。短期間で金沢を復興し、彼が成した中心部の交通網や町割り、消防整備が現代の金沢城下にも受け継がれています。しかし、この復興での借財により経済が疲弊したため、政治改革に着手しますが失敗、元々病弱な体も無理が響き藩政に背を向け、文化趣味の世界にのめり込んでいき、隠居後2年、42歳で亡くなっています。

疲弊した経済と斉広の放蕩を曲がりなりにも支えたたのは、銭屋五兵衛などの北前船主を保護、抜擢し、藩の収入を増やした執政・奥村栄美のおかげと云えますが、加賀藩財政は重い大赤字状態を覆すほどではありませんでした。

病床に就くことが多く、江戸出府も滞り金沢在住が長引き、斉広夙姫との結婚生活は完全な別居婚で二人が一緒に過ごした期間は結婚18年で3年に満たない期間しかなかったと云われます。ちなみに参勤交代の仕組みは2年地元・1年江戸のペースでしたから二人の結婚期間が18年でしたから、本来なら単純計算で6年以上は一緒に過ごせたはずですがその半分以下ですからね。結局二人の間には子供はできず、斉広は金沢で側室の間に多くの子をもうけています。

正室の大きな役目に藩主の子供たちの養育権がありました。つまり側室の子だろうが藩主の子女は実子になるということです。実母よりも実母以上の存在で嫡母と呼ばれる立場になります。夙姫も斉広の子女が成長すると江戸に引き取り、我が子として扱い教育を施し、嫁ぎ先を世話したと云われます。13代藩主・斉泰は次期当主として幼い時から夙姫から愛され教育を施された唯一の男子で、斉泰の思慕も尋常なものではありませんでした。ちなみに斉広死後、真龍院として15年余りを江戸本郷で過ごした後に幕府の許可のもと、金沢にお国入りして生涯を過ごしています。明治3年(1870年)、巽御殿で死去、享年84歳。加賀・金沢藩最後の藩主・正室の葬儀礼・埋葬として詳細な記録が残されており、貴重な資料にもなっています。な

河北潟疑獄事件で銭屋五兵衛・喜太郎親子の受牢に対する喜太郎の娘・千賀女の代牢願などの嘆願奔走に同情し、助言を発し喜太郎を解放させるなど心優しい逸話が残っています。芯の強い女性が目立つ加賀藩の女性史では、異色の優しき女性としても人気のある人です。

13代藩主・前田斉泰は敬愛する嫡母となる真龍院の為に、文久3年(1863年)旧竹沢御殿の謁見の間・鮎の廊下を移築し更に手を加えて兼六園に隣接する巽(たつみ)御殿を建築します。謁見の間は豪華絢爛な装飾で加賀工芸の粋を極めオランダ渡りギヤマンの花鳥、18畳の上段の間の絨毯は北インド産の特注物、鮎の廊下は20m以上に柱を廃した渡り廊下で歩くとキュッキュッとなる鴬張り、庭園を眺める縁側を兼ねていました。竹沢御殿の絢爛さと緻密な造りを伝える物です。 ⇒ 成巽閣 謁見の間 成巽閣 鮎の廊下
巽の由来は真龍院の実家・鷹司家が辰巳殿と呼ばれていたから、金沢城から辰巳(巽)の方角にあることからと云います。明治以降に成巽閣(せいそんかく)と名称を改めています。

建物や室内が撮影禁止で文字ばかりで成巽閣の説明が長くなってしまいましたが、階上で最重要の間とされた群青の間書見の間に用いられた天井・蛇腹・目地に用いられた群青は、当時の西欧(フランス)産のウルトラマリンブルー。天然のラピスラズリ(金目石)から生成された顔料で、当時は西欧でも金よりも高価とされた顔料になります。加賀藩ではこのフランス産の顔料の情報を入手すると、長崎に常駐所を設置して江戸期には独占入手していたと伝わります。このため、この群青は加賀前田家の当主夫妻だけの使用つまり留め色としていました。

明治以降に人工ウルトラマリンがもたらされると、金沢を中心に前述の様に高級料亭・茶屋・茶亭に広まり、富貴な家屋の塗り壁にも用いられるようになり、金沢の伝統的技法「加賀の青漆喰」と云われ、代表色・群青になったわけです。
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そしてもう一色がレンガ色(朱塗、紅柄)、ルーツは二説あります。一説は群青(ウルトラマリン)と同じく成巽閣の群青の間になります。前述の様に天井部に用いられた群青に対して壁面の朱塗り(レンガ色)というもの。

この群青(青漆喰)レンガ(朱塗り・紅柄)二色を用いた建築内、書院造は県外(特に関東)ではなかなか見られないと思いますが、この両方を見られる貴重な存在が熱海にあります。それが熱海の三大別荘の一つ・内田別邸、根津別邸と呼ばれ、戦後に旅館として平成11年(1989年)まで利用された起雲閣になります。起雲閣和館の大広間・麒麟の間青漆喰壁孔雀の間紅柄壁がその二色になります。

起雲閣の三代目の持ち主となった桜井兵五郎は、能登柳田村(現能登町)出身、大正・昭和期の政治家・実業家で、日本タイプライター・日本観光の創業者として、昭和7年(1932年)金沢湯涌温泉にあった東洋一と唄われた白雲楼ホテルを経営していました。ちなみに白雲楼ホテルは戦後に米軍の保養所として接収を受けてしばらくは営業が出来なくなり、昭和22年、起雲閣を買収して旅館として開業しています。旅館として改装を施しており、和館に関しては庭園に面する各部屋に彩色を施していますが、いずれも成巽閣の壁面の色を参考にしていたようです。

桜井兵五郎は昭和26年に亡くなりますが、その後、経営を引き継いだ日本観光・日本タイプはバブル期の放漫経営により多重債務で破たん、日本タイプはキャノンに身売り、日本観光は平成10年自己破産、翌年には裁判所から破産宣告を受けています。これにより白雲楼ホテルは平成10年、起雲閣は翌年に営業を終了しています。

それにしても、白雲楼ホテル起雲閣は同じ道を辿りながら対照的な結末を迎えています。白雲楼ホテルは、競売を経て老朽化と不法侵入で荒廃し倒壊、平成18年解体取り壊しとなっています。起雲閣も多数の債権者が存在したのを、熱海市民の要望によって、県市の努力で問題解決を図り翌年には熱海市が所有権を取得し、文化観光施設として民間管理委託として一般公開しており、年間10万人の来館者を集めています。地元・湯涌温泉や金沢市民から多くの保存要望を受けながら、顔を背けて無視し続け、動き始めた時にはすでに遅く国重要有形文化財だった建物を崩壊へと導いた金沢市・石川県には呆れてものも云えません。。まあ、壇風苑と江戸村の建物を復活できたのがせめてもの救いですが。。 ⇒ 起雲閣HP 壇風苑(現・湯涌創作の森) 湯涌江戸村 
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上:旧四校本校校舎(現・四校記念文化交流館) 右:旧専売公社工場(現・玉川図書館)
レンガ色の起源と云われるもう一つの有力説が、金沢市内に残る明治・大正建築の旧四校校舎本館(現・四高記念文化交流館)・旧石川県庁広坂庁舎(現・しいのき迎賓館)、旧金沢陸軍兵器支廠第5.6.7号兵器庫(現・県立歴史博物館、本多博物館)、旧金沢紡績第1~7倉庫(現・れんが亭・市民芸術村)・旧専売公社工場(現玉川図書館)などの赤レンガ(旧広坂庁舎はスクラッチタイル)を基本色とするものです。PAP_1577.JPG

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上:金沢大学角間キャンパス(理学部棟から自然科学科本館)
中:金沢市役所(21世紀美術館外庭から)
右:金沢新神田合同西庁舎(新神田交通公園から)

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四校記念館・県立歴史博物館のレンガを引き継ぐように現在の金沢大学キャンパスではレンガ色を基調にしていますし、官公庁でも石川県庁・石川県警本部金沢市役所金沢新神田合同西庁舎などが引き継いでいます。近頃は県立中央病院のように薄茶系も増えましたがベースはレンガ色。。
左・石川県庁 右・石川県警本部
真偽はともかく、群青・レンガ・金彩金沢の代表色と云えますねえ^^でも、県民の昔からの認識は群青⇒レンガ⇒金の順ですかねえ、、金などは一般に認識されたのはここ数年じゃないでしょうか。。
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旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫 手前から第一棟(旧第七兵器庫、現・歴史博物館歴史発見館)・第二棟(旧第六兵器庫、現・歴史博物館交流体験館)・第三棟(旧第五兵器庫、現本多博物館)
前回に紹介した本多美術館と県立歴史博物館が入る赤レンガミュージアムの前身は、明治末から大正にかけて建てられた旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫でした。戦後以降は金沢美術工芸大学校舎 として利用されてきました。一棟90mを越える赤レンガ三連建物は内部構造は建築直後から度重なる改造を加えられていますが、外観は建築当時の姿を維持してきた建物です。

文化遺産オンラインより  国指定重要文化財 旧金澤陸軍兵器支廠 
             指定:平成2年(1990年)9月11日
第五號兵器庫 建築年:明治42年(1909年) 建築面積:1243.0㎡ 二階建桟瓦葺 1棟
第六號兵器庫 建築年:大正  2年(1913年) 建築面積:1322.3㎡ 二階建桟瓦葺 1棟
第七號兵器庫 兼築年:大正 3年(1914年) 建築面積:1322.3㎡ 二階建桟瓦葺 1棟
旧金澤陸軍兵器支廠の兵器庫三棟は、いずれも煉瓦造、二階建で、左右対称を基本とした端正な意匠になっている。九〇メートルに及ぶ長大な建物が並ぶ姿は壮観である。それぞれに構造補強に工夫が凝らされて、石川県立歴史博物館として再利用されている点も評価できる。
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案内板より 重要文化財 旧金澤陸軍兵器支廠兵器庫(石川県立歴史博物館・加賀本多博物館)

この赤レンガの建物は、明治末から大正初めにかけて建造された旧陸軍の兵器庫で、戦後は金沢美術工芸大学の校舎に使われていました。同大学移転後、博物館として活用するために改修工事が行われ、1986(昭和61)年10月に石川県立歴史博物館として開館し、広く県民に活用され、参加できる「開かれた博物館」を目指して活動を続けてきました。1990(平成2)年には国の国の重要文化財に指定され、1991(平成3)年には日本建築学会賞も受賞しています。その後、再び建物と展示室の改修工事が行われ、2015(平成27)年2月には、建物の愛称が「いしかわ赤レンガミュージアム」に決定し、同年4月、石川県立歴史博物館・加賀本多博物館(旧藩老本多蔵品館)として開館しました。
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明治42年9月当時の出羽町練兵場と第五兵器庫    県立歴史博物館蔵より

前回ご紹介した県立美術館の周辺は出羽町になりますが、今回の歴史博物館を含め隣の駐車場や通り向かいの護国神社周辺、本多の森ホールなどは出羽殿町と呼ばれていました。十数家の上・中級武士の武家屋敷が並んでいた地でもありました。明治初期に陸軍は金沢城内を軍用地として玉泉院丸を練兵場としていましたが、失火により金沢城を失うと、広大な軍用地として出羽殿町の奥村家下屋敷を替え地に移転させ、明治17年(1886年)には武家屋敷地が取り壊され平坦な更地として整備した5万坪を軍用地・出羽町練兵場としていました。
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出羽町練兵場跡 アップして貰うと解りますが、道路の対面の石塀は護国神社の境内石塀。中央のドーム型建物は本多の森コンサートホール(旧厚生年金会館)。建物は黒川紀章設計で扇型の変形建物、実はその前は県営兼六園野球場で敷地に合わせた形態です。ちなみにこの県営球場では79球の最少完全試合、一人の投手被本塁打8本・失点13点での勝利投手(ちなみに両軍本塁打13本、一投手の打席3本塁打もプロ野球記録) 。捕手ライナー。いまだに破られないプロ野球珍記録だらけの野球場でした。
現在、工芸館として移転改装中の旧第9師団司令部庁舎と旧金沢陸軍偕行社もこの時に護国神社の隣地に建てられたものです。ちなみに護国神社は昭和10年(1935年)に卯辰山の招魂社を出羽町練兵場に遷座したものです。現在の赤レンガの旧金澤陸軍兵器支廠は明治42年に練兵場の南西端に第5号兵器庫が建てられたのが始まりで、大正にその隣に6号、翌年の7号と同型・同平行に三連のレンガ建物が出来ています。
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旧金澤陸軍兵器支廠通用門 建築当時は鉄扉でしたが、昭和期に木製に交換されたそうです。
廠(しょう)というのは訓読みでは「うまや、しごとば」ということで、本来は仮屋・馬屋・工場を指す言葉になり、「兵(工)廠(造兵廠)」の軍隊としては武器・弾薬の設計・製造・修理・保管・配備を担う施設でした。
日本軍の兵廠の始まりは明治12年の東京砲兵工廠・大阪砲兵工廠が始まりとされています。日清戦役(~明治28年)後、軍備の拡充・配備の為に砲兵工廠を廃して、陸軍兵器廠を創設し本廠を東京・大阪・門司・台湾に置き、支廠を各師団司令部・台湾守備司令部・各要塞司令部においていました。ちなみに金沢支廠は金沢城内に建築され大阪管区に属していました。大正7年には火器弾薬から馬具・軍刀・装備品の開発・製造を担う陸軍造兵廠が創設され、保管・配備を担う兵器廠と昭和15年まで並立していました。それ以降は戦時下の中、陸軍兵器本部隷下の兵器廠として統合されています。

前述の様に師団官舎・師団司令部庁舎・偕行社といった建物整備によって練兵場と共に軍都金沢の中核になって行きましたが、県立歴史博物館に残る明治42年の最初の第五號兵器庫が建つ写真画像は周りが広大な草原と化した練兵場だったことが解ります。その後、大正には兵器庫を二棟建造、野村練兵場(現陸上自衛隊金沢駐屯地)・三小牛試射場など郊外に規模を移しながらも軍都金沢の形態を整えて行ったのです。
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金沢美術工芸大学時代の屋根部(金沢美大所蔵より)
戦後は一転して内部改造によって兵器庫は、旧四校校舎(現四校記念館)から金沢美術工芸大学が移転して校舎として使用されてきました。当時は屋根部には明り取りの棟屋が取り付けられていました。昭和61年には金沢美大が小立野新校舎に移転すると、県立郷土資料館を四校校舎から移転改称して県立歴史博物館。文教地区の中心点と変わりました。四校記念館とは同じレンガ造り建物というだけでなく、古くから深い関係にあったわけです。ちなみに四校本校舎建物は明治24年建築で山口半六・久留正道の共同設計になる国重要文化財。赤レンガミュージアム三棟も久留正道の設計で兄弟ともいえる存在です。

県立歴史博物館の移転に際して、昭和58年(1983年)から6年の期間をかけた大規模な耐震・改修工事が施されています。その後も多少の補修改装工事が行われていますが、この時の工事によって今の姿があります。三棟それぞれに違った工法が採用や工夫が施されています。この時の内装工事によって延べ床面積は各々2500~2650㎡を確保しています。それぞれの補修内容は・・・建築年順ならば南側奥からなんですが。石川県では棟番号は入り口側から順にしています。
DSC_5298.JPG下:第一棟(旧第七兵器庫) 
右:第一棟(旧第七兵器庫)独立基礎部DSC_5300.JPG
第一棟(旧第七兵器庫、現歴史博物館歴史発見館)・・・外壁保存内部鉄筋コンクリート造置換工法と工法を文字にするとややこしいですが、要は張りぼて工法。外壁のレンガ壁はそのままにして内部の木造・木骨部を基礎から鉄筋コンクリートに変えています。レンガ外壁とコンクリート内壁の隙間(木造架構)を撤去して、レンガ外壁とコンクリート内壁を密着させています。本当の箱モノといった工法です。東京の現在の国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)もこの工法が採用されています。独立基礎は鉄筋になるので取り除かれ、庭園部に外展示されています。
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第二棟(旧第六兵器庫、現歴史博物館交流体験館)・・・内部木構造残存・構造補強工法。内部の梁や柱などの主要部を極力残し、鉄骨の柱梁組を追加して補強を施しています。外壁と内壁の間には鉄骨骨組を入れて緊結しています。基礎部分は補強され残存させています。
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第三棟(旧第五兵器庫、現本多博物館)・・・三棟の中で一番古く貴重な建物の為に完全復元を目指した建物です。ですから三棟の中では外部・内部共に一番原型に近いものになっています。第一・二棟の工事は第三棟の為の実験的改築だったとも云えます。老朽化や腐食した木造部分は両棟から出た資材を使って交換、一部鉄骨補強を施しています。東妻側、二階中央床面は新築時のままの状態で保存されています。

三棟が歴史博物館だった時代は、第二棟、第三棟の東西両端部や一部中央部で、天井梁部や基礎部が見学展示スペースとしてあったんですが、本多博物館が第三棟に入ったために、第二棟のみになってしまったようです。建築展示もぜひ復活してほしいものです。
今回は時間が無くて、内部画像は撮れなかったので、またの機会に。。


おまけ画像です。
第三棟の裏駐車場部にあった石川橋の高欄(干)
案内板より・・・城下町金沢が近代化する際に、旧城下の中心部を横断する都市計画道路の敷設に際して建設された石川橋の一部である。この「百閒堀開削道路」は、明治44年(1911)6月開通。幅6間、延長317間、路肩部に公園を付随した近代的な道路で、その間に石川門と兼六園を結ぶ幅30尺の陸橋(石川橋)が設けられた。同陸橋は、石川県における鉄筋コンクリート建造物の初期の事例でもあり、街灯の意匠などに明治期の特徴をよく残している。

金沢城に入る際にはほとんどの人が通る石川門。金沢城がまだ金沢大学のキャンパスだった頃は、金沢城の観光客の入り口が正式にはここだけだったのと、石川門・石川櫓と現存していたこともあり昭和期の金沢観光の顔で、現在も地元の人でも金沢城の正門は石川門だと思っている人が多いと思います。
正式には大手堀から大手門(尾坂門、現存せず)を潜り河北門に至るのが大手道で、河北門が正門になります。石川門搦め手口の門だったのです。現代では兼六園から入る人がほとんどですし、明治に兼六園が解放されると市民も園を通り道にしていましたから、その傾向がますます強まっています。更に百万石まつりパレードも広坂交差点から百閒堀道路兼六園下から紺屋坂経由で、石川橋・石川門から入って二の丸広場へと進んでいます。百万石まつりのパレードコースは金沢駅から金沢城に至るメインストリートになるわけです。
このパレードコースの道路は、金沢駅から香林坊の昔ながらの大通りはもちろん、中央に辰巳用水と並木を挟んだ片側3車線ずつの広坂通、前述の百閒堀を整備した百閒堀道路の整備が金沢市街の重要道路ということを物語っています。
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兼六園のある千歳台は金沢城を挟んで小立野台地の西端にあるため、同高度以上に対峙する位置のために金沢城最大の弱点とも云える場所になります。この為に百閒堀と云われる最大の堀を置いて防御していました。明治になって金沢市街地の拡大と河北・金沢東部への連絡路・交通網の整備のために広坂から兼六園下の約1キロちょっとの百閒堀を埋め道路へと変貌させています。それまで大きな堀幅の上に懸っていた石川橋も、明治42年(1909年)にコンクリートの巨大な橋脚を持った現在の形態に架け替えられていました。鉄筋コンクリートの建築物としては全鉄筋コンクリートビルは大正2年(1913年)竣工の三井物産横浜ビル1号館が最初と云われています。大規模・鉄筋コンクリート構造物としては金沢市内はもちろん国内でも最初期のものと言えます。

最初の鉄筋コンクリート橋としては琵琶湖疎水の第一疎水に架かる明治36年(1903年)完成の第10・11号橋になるそうです。天智天皇陵の近くの第一疎水の第二トンネルの入り口が10号、トンネル出口にあるのが11号になります。11号は以前から石碑があり有名で天智天皇陵ついでに観に行った記憶があります。転落防止柵で見辛いし、渡るのが怖いくらいのちゃっちい橋、、そもそも、架けた当人が忘れていたくらいで、「そういえばあの橋が国内初の鉄筋コンクリート橋だったかも」で作られた石碑は昭和10年頃と30年も過ぎた頃、、10号が確認されたのは戦後になってからの関係者の指摘からという曰くつき。。10号は天皇陵から山科豊川稲荷に歩いて向かう近道(黒岩橋)に利用されているそうなので機会があったら見てみたいものです。その前に疎水散策でがにちゃんさんあたりが見せてくれるかも・・(暗にリクエスト♪)
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石川橋の完成が明治42年ですから、わずか5.6年で、琵琶湖疎水の簡易な橋から石川橋のような巨大陸橋を完成させているんですから技術の進歩にはすごいものがありますねえ。本多博物館(第三棟)の裏側駐車場にあるのは、明治42年完成当時に使用されていた石川橋の欄干になります。

旅行日 2018.08.18

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この記事へのコメント

  • まだこもよ

    行ってみたいと思いますが 行けないかも?と 思う場所がありますが 金沢も その一つ? 
    で 「金」が有名だから 「金沢」?
    2019年09月17日 08:26
  • つとつと

    まだこもよさん
    そうなんですよ。僕もそういう場所が多くありますが、それでも行けたらいいなと思う所が多くあります。
    金沢は砂金が採れたところから「金洗沢」来た名前のようです。石川県内には昔話の「芋掘り藤五郎」からとみんなが思っています。https://72469241.at.webry.info/201904/article_1.html
    2019年09月17日 09:58
  • がにちゃん

    行った観光地が出てきました  成巽閣(巽御殿)  
    金沢最後の観光がここなのです
    見ごたえありました

    側室 今の不倫とは意味が違いますからねえ 
    正室を立てて お家大事  
    でも 18年で3年とゆうのは、家同士の結婚とはいえ、寂しかったでしょうね
    旦那だけ側室が居て 奥様に側男がいないのですね(笑)
    不公平やぁ~と今の人から声が上がりそうですわぁ
    時代は変わっていきますね

    金沢城公園 あの石垣がいいですね  結構広いからあちこちうろついている間に時間がァ~~来てしまいます





    2019年09月17日 17:34
  • tor

    こんばんは。
    群青・レンガ・金彩が金沢の代表色なのですね。
    よくわかります。
    以前金沢旅行で兼六園の後に
    金箔のお店に行きました。
    金色の茶釜が有った記憶があります。
    「熊本からと来ました」言うと
    「昭君の間の金箔を手がけましたよ」とおっしゃってました。
    成巽閣は撮影禁止で残念ですね。
    白雲楼ホテルは残念でしたが
    赤レンガの建物多く残っていますね。
    旧四高本校校舎は旧五高校舎と似た感じです。
    旧五校本校校舎についてはブログネタの予定でしたが
    残念ですが震災により現在公開されていません。
    つとつと様のブログを拝見していると
    金沢と熊本って共通点が多いような気がします。
    残念ながら軍の施設は残っていませんが。
    2019年09月17日 21:19
  • つとつと

    がにちゃんさん
    あの時に成巽閣や兼六園、金沢城公園を歩かれたんですか、それはあっという間に時間が過ぎちゃったでしょうね。来年の夏には玉泉院丸と尾山神社が鼠太門と鼠太橋でつながります。ますます広がって行きますねえ。ほんと一日では回り切れなくなってきました。
    たしかに体面もあるんでしょうが、加賀藩前田家は伝統的に継室は向かえない伝統だったんですが、史上初めて斉広が継室を迎えています。でも、お殿様の最大のお仕事は跡継ぎを残すこと、実際、斉広は四男・八女を残しているんですが、成人したのは男は斉泰一人、女の子は3人だけ、、どうも前田家の男子はなかなか残らないようで、女子の方が強く重きをなしたのが現状のようです。そういえば、側室は聞くけど側男は聞きませんねえ^^:そういうことはあってもおかしくないんですが。。
    2019年09月18日 09:38
  • つとつと

    torさん
    昭君の間も金箔が使われていましたねえ。。是非見たいものです。古くから中国でも多くの題材になっていますが、中国四大美女を描いた絵巻は興味津々です。ヤン・ミー(杨幂)主演「王昭君」をCSで見ましたがなかなか良かったですよ。中国ドラマですがなかなか面白かったです。ヤン・ミーはたぶん今の中国では一番の売れっ子というのが解る作品でした。
    黄金茶室を再現したのなら箔座かカタニではないでしょうか@@ 金閣寺の昭和大修復、東照宮、中尊寺など金箔修復には欠かせない素材ですからねえ。。昭君の間の復元、今度調べてみます。
    旧制五校と四校は同じく山口半六・久留正道の共同設計なので本当の兄弟校舎なんです。似てるはずですよね。金沢と熊本は地形的にも雰囲気も似ていると云われています。東西に離れていますが、県庁所在地としては金沢は熊本をいろいろな面で参考にしている部分が多いんです。ですから地震の報を受けた時は他の県よりも大騒ぎになっていました。
    2019年09月18日 10:50
  • 藍上雄

     成巽閣 群青の間、とても鮮やかなブルーですね。(個人的には紺色をイメージしていました。)起雲閣の方が、落ち着いた色に成っていると思います。成巽閣に使われている。レンガ色は、あまり違和感を感じません、鮮やかなブルーとレンガ色の取り合わせの方が違和感を感じます。
     金ですべて作るには、膨大な費用が掛かる事を考えると、金箔の製造はそれなりの付加価値を見出されることになりますね。金閣寺は確かに美しいと思います。
    2019年09月18日 19:39
  • つとつと

    藍上雄さん
    群青の間は天然のラピスラズリ、起雲閣は人工ラピスラズリで、更に紫(藍)を混ぜています。どうしてもその差が出てしまいます。天然のラピスラズリは江戸後期の絵画に少し見られる程度の貴重品。起雲閣の青は金沢の料亭や茶屋にも広がっていますので、個室としては藍を混ぜた方が落ち着きますし、印象的には起雲閣の方が馴染みがあるかもしれません。
    金の費用はとんでもない価格になります。藍上雄さんが言われるように、金箔押しは費用節減の作になるし、仏像のような木製品の防腐処理には必須品でしたから、ちなみに金閣寺や東照宮のような外部建物は剥がれ防止のために接着剤代わりに漆が使われています。金閣寺には金箔にしたとはいえ金箔20万枚・20キロ以上が使われていますから現在価格で10~20億円、近年の研究では新築当時の金閣寺の金箔は剥がれ防止に5倍の厚みを持たせたそうですから5倍の50~100億円、漆は1.5トン、漆の価格は解りませんが、とんでもない価格になるのは確か。。足利義満の権力と財力は物凄かったんですねえ。。
    2019年09月18日 22:12
  • ミクミティ

    金沢という歴史ある街を、三つの素材と色でその特徴を語るスタイルが実に粋でさすがですね。それぞれ個別の歴史を持ち、現代でもビジネスになっているのですね。あらためて金沢の奥深さを感じました。
    自分が訪れたらどこへ行ったらいいのだろうと迷ってしまうくらいです。
    兼六園は、12代藩主前田斉広の頃に形作られたのですね。文化に造形の深いやり手の藩主の力は、後世へ影響を与えますね。
    2019年09月19日 21:57
  • つとつと

    ミクミティさん
    金沢は京文化の影響を強く受けていますが、武家社会というわけでまた違った雰囲気に昇華した感じです。
    12代前田斉広は元々は無能ではなかったのですが、藩主の限界を感じてしまったようで、晩年は気力を失い、趣味の世界に走ってしまいました。それでも金沢文化に残るものを残しています。もちろん後を引き継いだ斉泰が形として兼六園や巽御殿を整備していますが、彼は父の姿から藩主独裁を目指し、8割がた固めながら、方針の一貫性が無く、明治の発言力を失っています。とはいえ、この二人が残した文化面は金沢文化の端々に残されています。 金沢観光では皆さん、金沢城と兼六園、茶屋街で終始してしまいますが、巽御殿だけはベースだと思ってみてみてください。
    2019年09月20日 11:54
  • yasuhiko

    金と群青と紅柄と、金沢の歴史を色から見る発想が
    とても面白いと思いました。後の二色は知ってましたが、
    「群青」が金沢を代表する色だったとは
    全く知らなかったので、ちょっと驚きました。
    「黒漆喰」というのは、川越の蔵店でも見られますが、
    こちらでは「加賀の青漆喰」が料亭や茶屋に使われてるんですね。
    江戸時代、加賀藩が長崎に常駐所を置いて、群青の
    独占を図ったという話も興味深かったです。
    赤レンガ建築群も見事なものですね。
    2019年09月20日 21:56
  • つとつと

    yasuhikoさん
    金沢の茶屋や旅館に使われた群青は明治になってからですが、特別の間になっています。元々は藩主だけのお留色でしたから石川県人にとっては高貴で憧れの象徴の色になるんです。他県ではほとんど見られない壁色なんですけどね。
    石川でしか見られない紅白の鏡餅、五色生菓子なども加賀藩所縁からから広まったものです。なかなか他県の人には理解してもらえない伝統なんですが。。江戸黒と呼ばれた川越の黒漆喰、一見地味に見えますが、重厚感があって、防火に適してると云われますが炭黒は、初めて見ると驚きの世界観ですねえ。昔、邸内の内蔵の扉を見せてもらったんですが、ピッカピカに輝く、黒光りとはまさにあのことですねえ。。
    レンガ建物は新しいものもありますが、明治・大正期のレンガ建物の工場や倉庫が残っていて、まさに金沢の建物の象徴になっています。歴史博物館の三連建物は工芸館の工事が終わったら、綺麗な三連写真を撮りに行きたいと思っています。フェンスが邪魔で治まらないんです。
    2019年09月20日 23:06
  • ゆらり人

    こんにちわ!
    金沢は良いですね、以前に数回行きましたが見るところが多く焼き物も艶やかで気品がありね、こんな赤レンガなどわつぃの所ではほとんど見かけません。
    市場の価格も結構リーズナブルでお店の人も物g氏が柔らかくつい買わされてしまいましたが良い思い出です。両親雄最後の旅行先でもありました。
    また行きたいです。
    2019年09月23日 15:42
  • つとつと

    ゆらり人さん
    金沢もすっかり観光地化されて、観光客の姿が見られない日は亡くなったようです。確かに販売や接客は物腰が柔らかい人が多いのは確かですねえ。。でも嫁さんなどは裏表を感じるなんて言っていますが。。金沢の物品は今日大阪とは違って武家文化の色合いが強いので、好き嫌いははっきりするかもしれません。以前よりも名所めぐりも交通の便が良くなっていますから、是非来てみてください
    先月、逆に湯楽里さんの河内の方に行こうと思っていたんですが、ひどい夏風邪をこじらして断念してしまいました。ゆっくりとめぐりたかったんですが残念です。
    2019年09月24日 14:03
  • 家ニスタ

    ウルトラマリンブルー、フェルメールも絵具として使っていたやつじゃないでしょうか?
    フランスもたしか原料のラピスラズリをアフガニスタンあたりから輸入していたのでは・・・。
    いずれにしろ、大変貴重で高価な顔料ですね。
    日本では、加賀藩が独占入手していたのですね。
    2019年09月28日 08:54
  • つとつと

    家ニスタさん
    そうです。フェルメールが自分の事業に成功し、パトロンを多く持っていた時代、非常に多く使用していたと云われます。その当時もフランス・オランダではラピスラズリと純金以上の価値と云われていたそうです。
    加賀藩では出島の出張所で入港船の情報でラピスラズリの入荷を聞くとすっ飛んで行っていたそうです。それでも一部には流出していて、小布施の岩松院の天井画「八方睨み鳳凰図」、豪農商・高井鴻山の後援を受けて葛飾北斎がこの顔料をふんだんに使っています。
    2019年09月28日 22:51

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