尾山神社遥拝所と雑話

実は前回のブログに続け書きをしてたんですが、あまりに長く煩雑なものになったので、別枠の雑話ということで。。。

気分が悪くなるような宗教話や批判ばかりが目立つと思うんで、、、、ご容赦を。。。


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右:遥拝所入り口石段横 関口光生記念標 従三位神田孝一謹書 とありますが、僕には不明。。横に顕彰碑がありましたが、時間もなく、摩耗で真剣に読めませんでした。。
下:遥拝所入り口 ここから神苑の背景の裏山を巡れます。
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次回に回そうかとも考えていたんですが、神苑の背景となる出丸南面の山林の山は明治以降には通路が造られて、歩けるようになっています。南西面にある神輿庫前にある顕彰碑横の石段から登れます。入り口に遥拝所の標柱があり、それが目印。
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遥拝所 伊勢神宮の方向に向けています。尾山神社では春分・秋分の日をメインに遥拝所での遥拝が行われているそうです。

ここからの文章は個人的意見ですから、宗教話や神道支持派など反発を感じる方はパスしてください。。

遥拝所は山岳信仰として山を神体として拝む場所になるものと、今回のような伊勢神宮などを拝むものがあります。
神社や仏閣を巡ることが多い僕は、たまにこういう遥拝所を観ることが有るんですが、前者の山岳信仰の遥拝所は良しとして、伊勢神宮に向けた遥拝所は存在自体が国家神道の押しつけのようであまり好きではありません。

そもそも今回の尾山神社にしても、先に何度も書いたように尾山神社創建時の神様は加賀藩祖・前田利家個人だと理解されていると思います。ところがそんな個人の神社で伊勢神宮をなんで拝む遥拝所があると思いますか。。これには明治初期の国家の宗教政策に関連します。
明治の始まりは、長い江戸期の幕藩政治から、天皇を中心にした朝廷政治への回帰という思いがありました。そこには原動力となった尊王攘夷の思想が源流にあったと思います。中学高校の歴史の授業などで感じる人もいたと思いますが、江戸末期にあれほど吹き荒れた尊攘思想の嵐が、明治政府になった途端に真反対の否応なしの文明開化はともかく、国体一致、富国強兵に変換されたことに違和感を持って当たり前です。そもそも明治政府の要人たちは10人が10人といってよいほど尊攘思想から始まり、一部で西洋技術や思想に触れて思想変更した者もいますが、それは特別な者たちで一握りの存在でした。

大部分の明治政府の要人には天皇中心の政治回帰という思いが強かったのです。しかしそれでは南北朝の引金となった建武の親政の繰り返しになる公算が高かったのです。そこで制度・組織などあらゆる面を早急緻密に変換する体制統一化を図ろうとしました。その手法は非常に革新的で強引なもので反発を招きながらも、版籍奉還・廃藩置県など奇跡的な成功を収めたものが多く見られます。しかし、中には当然ながら大失敗に終わったものもあります。それが祭政統一事業でした。
DSC_5682.JPG尾山神社 神輿庫
先月まで今上天皇の即位の礼大嘗の儀(大嘗祭)天皇陵への親謁の儀(訪問報告)など、そのほとんどが神道色満載で仏教関連は泉涌寺(せんにゅうじ、旧仙遊寺)訪問くらいでした。泉涌寺には江戸期の歴代天皇陵があるということで即位報告が行われたのですが、天皇陵は寺領ではなく明治の宮内庁管轄の陵墓になっていますから神道扱いです。江戸期には天皇陵の管理と供養を行い天皇家の御寺・香華寺でした。また安政年間には御座所が造営されており平成天皇も休息所として何度か使用しています。

今回の今上天皇の神事色の強い公式行事(国主導の行事としています。)を見て、現代の天皇家が神道をベースにしているのが解ったと思いますが、これは明治から天皇を現人神として強調し、神道・神事のみに特化した明治政府が方針確定したもので、元々の外来の仏教を皇室から排除したものだからです。

本来ならば昭和の戦後、人間宣言・国民の象徴とした時点で神事・典範・宗教問題・予算問題などを再確認・再変更する必要があったのを時の政府は放置したもので当時の三笠宮、昭和天皇の大喪の礼の混乱で平成の際は仕方ないにしても、その後の平成上皇・秋篠宮などの提言も無視、今回のように準備期間もあり、状況が違うのに明治以降をそのまま踏襲、、実質、大正からの行事内容規模を「古くから行われてきた行事内容を踏襲する」などと平然と虚言を吐く始末。。
現在は天皇家は宗教に関わらない建前と云われながらも神事・神道一色の天皇ですが、江戸期以前は多くの天皇は個人は仏教、行事は神事と使い分けていました。この辺りが神仏混交という良い意味での日本の曖昧さ、柔軟さともいえるものでした。
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尾山神社 神苑裏山内
明治政府は明治2年(1869年)に律令時代以来の寺社の祭祀全般を司る神祇官と神道教導と異教阻止(ここではキリスト教)を司る宣教使を復活させ、翌年3月には明治天皇の詔書として出されたのが国家方針「大教宣布(宣布大教詔)」でした・・・天皇に神格を与え(天皇=現人神)、神道を国教と定めて、大日本帝国を祭政一致の国家とする
4月には三條(条)教憲を発布・・・第一条・敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事、第二条・天理人道ヲ明ニスヘキ事、第三条・皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
ちょっと解り難いというより、難解すぎるというか捻り過ぎた表現。要約すると・・・神を敬い国を愛することを第一とし、自然の道理と人として行うべき正義を明確にして、天皇中心の国家秩序や国の定めた法令を遵守するように導きましょう
どこかの現首相が美しい国日本と云いながら、説明じみた似たことを言っていましたね。。

そもそも明治政府は神仏分離ではなく、最初は神仏混交の上を行く神仏合併を狙っていました。修験道を廃した神仏を統一して皇道日本教を狙ったわけです。そのために三條教憲を解り易く説明して浸透させ、国内の思想統一を目指したわけです。各地の有力者他を半官半民で教導師(後の教師の語源とも云われています)として任命し、さらなる教導師育成のために旧紀州藩邸(翌年には芝増上寺に移設)に大教院を設置。各府県を統括する中教院を設置すると共に、各市町村集落単位の寺院に小教院を設置させて方針徹底を図ったわけです。石川県の中教院が置かれたのが尾山神社だったのです。また東京では前田家がそれまでの仏教から神道に転宗し積極的に協力しています。

ところが問題だったのは、長い歴史を経た神道と仏教を一つにするということと、その根底とした抽象的な三條教憲そのものでした。はっきり言ってこの短い各条項を時には解り易く、時には専門詳細に皇道思想を絡めて教えられる人間なんている訳がありません。
結局、肝心な一般民衆に理解を深められず、儒教思想で機能を保った藩組織を受け継いだ各府県が思ったように動かず、内部では地方政権(藩・県)に保護されてきた根本思想が違う仏教界が反発、更には神道内部でも教義や神の名称・詳細など細部で内部論争や抗争に発展してしまいます。結局、明治8年に神仏合同布教禁止令が出され、大教院は廃止されます。
その後、神道は神道、仏教は仏教と区別されて、神道界では教派神道などの発生などすったもんだの末、大教院の当初目的の各地の神社や神職教育の流れを引継いでいるのが、現在の神社庁・神道大教などであり国学院・皇学館大学などになるわけです。
しかし、ここでの大教院・中教院・小教院の解散は、宗教問題という劇薬に手を出した明治政府の思惑違いもありますが、吉田・白川神道などの国家神道をそのまま取り入れたため先鋭化を招き専制国粋主義、仏教・修験道排除を加速させます。後の節操のない廃仏毀釈へと繋がってしまったわけです。

異教排除の面では、江戸末期に発覚した浦上隠れキリシタン発覚で禁令を敷いていた幕府は拷問による転宗の強要を図ったのですが、それを引き継いだ明治政府は幕府以上に強権的で、全員流罪と転宗強要を図っています。浦上四番崩れの信徒弾圧に対して、諸外国からの反発・抗議・更には輸出入規制といった外圧が相継いでいました。全くの内憂外患状態だったのです。
そんな中、明治4年に派遣された欧米視察団(岩倉使節団)ですが、、教科書などでは欧米先進国の組織・経済・文化・教育・産業など多くの分野の吸収に役立ったとされていますが、本来の第一の目的は不平等条約の撤廃交渉にありました。ところがこの浦上事件の日本側の江戸期以上の冷酷対応、輪をかけた大教宣布による長崎での宣教使のキリスト教排斥、更に団長・岩倉具視の傲慢さと丁髷姿で文明を望まぬ野蛮国とみられ、外国政府から法国家にもなっていないと門前払いを喰らい、社会見学だけに終始してしまったのです。しかも期間も半年ほどの予定が2年近くに延長され、錚々たる政府要人が長期間に渡って国を留守にしたわけです。第一目標は交渉すらできず、民衆は外国に遊びに行ったように映ったのです。対応交渉締結(交渉継続手続き)は留守政府がまとめ、宣教使を廃し浦上信徒の開放も留守政府が行っています。当時の狂歌「条約は 結び損い 金は捨て  世間へ大使 何と岩倉

現在の神社を巡ると祭神が首を傾げるように並立されているのが多く見受けられます。由緒を読むと明治に突然、神様の祭祀が変わっていたり。。これもこの時の大教宣布に起因するわけです。
神道と仏教の宗教の統一という壮大な夢の為にいろいろな修正を押しつけた明治政府は、祭神の統一も図ろうとしたのです。まずは造化三神天之御中主神(あめのみなかぬし)・高御産巣日神(たかみむすび)・神産巣日神(かみむすび))と天照大神(あまてらす)をすべての主祭神にしようと図ります。ちなみに造化三神は日本神話の天地開闢で最初に現れた三独神になります。これに天皇家の皇祖神・天照大神を加えた四柱を祀るように全国に奨励したわけです。

神道内の論議により造化三神に続いて現れたとされる別天津神(ことあまつかみ)の後に現れる神代七世の最初の神・国之常立神(くにのとこたち、日本書記では国土の最初の神)、七世最後に現れて国産み・神産みの伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)が追加されて行きます。しかし、古くから素戔嗚(すさのお)・大国主・事代主・恵比寿など出雲神を祀る神社も多く、更には地場の国津神を祀る神社の反発もあって、政府は日本神話の神を祀ると妥協案を押し付けたのです。更に国土開発のために神社の広大な領地収容のために、市町村合併と共に合祀を奨励し、おかげで訳の分からない祭神並立が現代に残ってしまったのです。

更に横道に逸れてしまいますが、即位の礼前に新天皇・皇后が事前報告に帛御袍・十二単姿で宮中三殿に参内していますが、宮中三殿というのは回廊で繋がった皇霊殿・賢所・神殿(旧八神殿)の総称になります。皇霊殿は歴代天皇・皇族が祀られており、賢所は三種の神器の八咫鏡と皇祖神・天照大神が祀られ、神殿には祖神・宮廷の護神とされる八神が祀られています。

歴史を紐解くと皇霊殿は歴代天皇の霊を祀る場所ですが、江戸期までは京都御所内に皇廟(別名・黒戸御所)と呼ばれていました。歴代天皇の位牌・念持仏が納められた持仏堂の形態でした、要は仏教形式で祀られていました。東京遷都後に東京では前述の神祇官創設で皇霊殿として神道形式として新設されたものです。ちなみに黒戸御所は同時期に廃されて、大聖寺を経由して前述の泉涌寺に位牌・念持仏を安置させています。祭祀統一に仏教派が反発したのは、歴代天皇が公式行事が神事、私事ながら仏式に帰依していたことに依ることが一因になります。

賢所(かしこどころ)は、平安期は温明殿(うんめいでん)、鎌倉期は春興殿と呼ばれた時代もありますが、長く内侍所(ないしどころ)と呼ばれ皇祖神・天照大神、八咫鏡を祀る場であり、宮中祭祀の大半が行われる場でもあります。賢所の名も明治からのものです。ちなみに賢所は内内陣・内陣・外陣に分かれ、内内陣皇祖神・八咫鏡の神聖な場であり天皇さえも侵入禁止、内陣天皇・皇后のみ、外陣皇族のみと入室を決められています。平安期高御産巣日神天照大神の神籬(かむろぎ、神奈備)からのお告げで次の八神殿が祀られたのですが、この神籬が賢所の内内陣の由来になると思われます。

ところが古代では崇神天皇(10代)6年に天照神と八咫鏡を朝廷から伊勢神宮に出し、八咫鏡の模造品を皇居に残した、記されています。言い方は悪いですが、天皇家では天照大神を八神にも含めず宮中から追い出しているわけです。その後、天照大神は祟る神(荒魂)として転々と遷座を繰り返し、伊勢に落ち着いた(和魂)のは垂仁天皇(11代)25年ですから100年近く転々と流浪したわけです。
ちなみに崇神天皇草創期に同じ扱いを受けたのが大物主。崇神天皇即位後に病や不作の連続で国がまとまらず占窺には大物主の荒魂と解り、巫女をつけて三輪山に祀って静めたと云われています(三輪神社の創始)。日本最古とされる大神(おおみわ)神社は三輪山の拝殿・遥拝所の位置づけです。大物主は大己貴神(大国主)と同神、大国主の子孫・事代主の同神、大国主の相棒・少彦名神が常世(黄泉?)に去って代わりに現れた別神、様々に伝承されていますが共通するのは出雲神ということ。娘は神武天皇の皇后になったと伝わっており天皇家の外父。更に付け加えると国譲りの際に大国主の和魂の名を大物主に改めて八咫鏡を奉納したという大神神社の伝承、大神神社の摂社・檜原神社は元伊勢と呼ばれる伊勢神宮の最初の地とされています。天照大神の先代の太陽神ともされています。

後述することになりますが、事代主は次の八神殿の第八神として、大国主地祇の筆頭として祀られていましたが、天照は都の圏外の遠く伊勢に置かれたまま、皇居内にも不在でした。その間、伊勢神宮に行幸した天皇は皆無に近いくらいです。僕の記憶では持統天皇くらいかもしれません。
天照大神を正式に皇祖神として皇居で祀り出したのは平安中期以降(9世紀末~10世紀初旬)になります。古代、高御産巣日神を含む造化三神が本来の最高神とする根拠で明治政府もこれを根拠にして造化三神に皇祖神・天照大神を加えて神社祭神の中心にした機来があります。今上天皇は伊勢参拝を行いましたが、天皇自身が伊勢参拝を行うのは異例の出来事で、これまでは使者派遣で済ましていましたから。親謁の儀と云ってますがあくまで国の公的行事扱い、国粋の道にとかく走りそうになる今の政府意向が反映したようです。
神殿は明治4年に神祇省・神祇官を復活させた際に古来の神祇官が司った八神殿に則って神祇省に設置したものです。神祇省廃止後(明治5年)に宮中に移設したものになります。天神地祇、つまり全ての天神(高天原の天津神)・地祇(国津神、地神)を祀るとされますが、神祇官所管の元となった神殿の前身・八神殿(神殿も基本同じ)に祀られている神は・・・神産日神( かみむすび、 神皇産霊神)・ 高御産日神 (たかみむすび、 高皇産霊神 )・ 玉積産日神( たまつめむすび、 魂留産霊)・ 生産日神 (いくむすび、 生産霊)・ 足産日神 (たるむすび、 足産霊)・ 大宮売神 (おおみやのめ、 大宮売神 )・御食津神( みけつ、 御膳神)・事代主神(ことしろぬし)
古来から天皇・朝廷の守護神として祀られてきましたが、正式に神祇官管理となったのは、八神の神位が確定した天安3年(859年)。それまで別格としていた無位の結び神(むすびかみ)の五神を従一位更に正一位と引き上げています。神祇官管理の元、天皇家・朝廷の神として祀られてきたものです。別格の天之御中主神(あめのみなかぬし)・天照大神以外で八神の神位は全国でも最高位で主神の位置に付けられているものが多く見られます。。

宮廷・朝廷では一番重要な位置づけだった八神殿ですが、朝廷権威が衰退し地に落ちた戦国期以降は、朝廷から離れ吉田神道家(現吉田神社)の斎場所と、白川流神道白川家を神祇代として歴代天皇霊・天神地祇と共に移され江戸期を通じて置かれていました。明治5年に遷座して歴代天皇霊は皇霊殿、天神地祇を神殿として遷座しています。

長々と横道の宮中三殿を書きましたが、明治政府は国家の思想統一のために、長い歴史の神仏事に宗教問題に大ナタを振るおうとしたわけです。しかし、政治が宗教に深く関与、もしくは祭政一致を目指そうとすると国粋主義に陥り、他宗教への排他、それに連なる諸外国との交渉・和平・同盟にも支障を来します。これは現在の状況を見ても解るように、キリスト教のカソリック・プロテスタント国家、イスラム教国家・イスラム原理主義国、ユダヤ教国、ヒンズー国家などの現代にも続く抗争・戦争・軋轢を見れば明らかです。東南アジアの仏教国家、中国・朝鮮の儒教・儒教的中華思想、日本の神道も排他的な面が大きく抗争・軋轢の要因と云えます。
明治政府は否応なしの文明開化に即応しようと、国家一致に宗教問題という劇薬に手を出し、拭い去れない後遺症を後世に残してしまったのです。ただ救いといえば、修験道を廃したことで、江戸期の人口の二割を占めたエセ修験者を排除できたことで労働人口の増加。神仏混交によって境目が解り難かった神道から仏教・仏具を排除したことで、神社と仏閣が明確に分けられたこと。明確に分ける際に神社に葬儀権限を許さず、祭祀でも寺社の住み分けられたこと。寺社双方に自衛権や戦力を許さなかったことで宗教勢力の政治介入をぎりぎりで回避したこと。。


明治7年3月に中教院を設置した尾山神社では翌々月に四柱の鎮座式が行われていました。この祭祀一致の行事、教導を行ったのが祭主・前田利鬯(としか、旧大聖寺藩14代藩主・前田斉泰七男)、県令・県下の神職・僧侶参列の上で挙行されています。
この鎮座によって、この伊勢神宮遥拝所が設置されたのです。現在の尾山神社では四柱のことをあまり表に出しませんが、大教宣布に大きく協力した歴史があったのです。この遥拝所はその名残を残すものです。

取り留めのない文だらけになってしまいました。。

旅行日 2019.11.12

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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    伊勢神宮遥拝所 今宮さんの遥拝所は本殿の横 奥に札が立ててあるだけです  あちこちにある遥拝所  あっちの方向がお伊勢さんなんだと思いながら拝んでいます
    2019年12月04日 17:02
  • tor

    こんばんは。
    いままで何かモヤモヤしていたものが見えたような気がしました。
    伊勢神宮遥拝所も祭神と関係ない神社で見かけることがあり
    お伊勢参りか…くらいの気持ちでしたが。
    肥後細川家の菩提寺「龍田山泰勝寺」跡へ行ってきましたよ。
    神仏分離令で廃寺になっています。
    つとつと様のブログを読みながら
    なるほどねと思いました。
    2019年12月04日 19:19
  • つとつと

    がにちゃんさん

    いけね。。前にがにちゃんさんがブログに伊勢神宮の遥拝所をアップしてましたね。我が家でも嫁さんがこういうのがあると手を合わせてます。そんな時はちゃんと黙ってますよ^^;
    まあ、方角を知るにはとっても良いとこですねえ^^;(汗汗)
    2019年12月04日 19:24
  • つとつと

    torさん

    神仏分離令では多くの神社や寺院から貴重なものが消えてしまいましたねえ お殿様の菩提寺まで廃寺になってしまうんですねえ。。
    こちらでも、前田家の墓所では墓標や墓石が取り払われて、替りに鳥居が建っています。ご先祖様がブツブツ言ってそうですねえ。。
    またお邪魔しますね
    2019年12月04日 19:42
  • 藍上雄

    そうですね。維新頃の日本、未だ十分な世界的な知識を持っている人は居なかったのかもしれませんね。「不平等条約」についても、国どおしの力関係で決まってしまいますし、結局は、弱いものいじめなのかもしれません。遥拝所については、イスラム教連想します。この頃の日本、イスラム国と同じような物だったのかもしれません。
    現代は、神道による、葬儀認められていますね。幾多の良く分からない〇〇庁が消え、文部科学省の管轄に成っているので、現在はスッキリした形に成っていますね。
    2019年12月05日 16:33
  • つとつと

    藍上雄さん
    明治初期はまだまだ過渡期で、急激な改革には思想統一による挙国一致が必要で宗教改革に手を染めたんでしょう。遥拝所は山岳信仰では多く存在しましたから、日本でも馴染み深かったと思います。イスラム国と違うのは宗教に武力が付随していなかったのが日本でした。信長・秀吉・家康と段階的な宗教対策のおかげで、宗教の固執性が薄まったおかげです。
    江戸期に結ばれた条約は不平等な条件が多かったのですが、条約の更新期限が迫っていたのが大きな要因でした。文中では悪口だらけですが、使節団に随行した要員や留学生から各分野を推進した大物が出ていますから全て無駄というわけでないんですが。。
    神道の葬儀は戦後からです。いったん合併を策したために神事と風習を分けざる負えなかった妥協策で、当時はこれで良かったと思います。双方に認めたらとんでもないことになっていたと思います。なかなか神道の葬儀や参列には縁がなかったんですが、知人の家で拝んだ時には戸惑ってしまいました^^;悼むどころか作法を合わせるのに精一杯でした。先方の未亡人さんに笑われてしまいました^^; 仏式の結婚式もそうですが、一度は体験した方が良いですねえ^^
    2019年12月05日 17:32
  • 家ニスタ

    まったく同感です。
    現政権やその支持者は、ことあるごとに「昔から決まっていること」「古来のしきたりにのっとり」などといいますが、大嘗祭にしたって純粋な神道形式で行われるようになったのは明治以降のことで、それ以前は仏教の要素がかなり含まれていたんですからね。
    あと気になるのが、現政権の周囲が使う「伝統的家族観」という言葉ですが、それもせいぜい明治以降のものにすぎないのに、大昔から続いてるようにいうのは可笑しいですね。
    2020年01月16日 20:22
  • つとつと

    明治には王政復古やそれまでの政治状況を改めるためにいろいろな政策を断行しています。失敗や取り返しの効かないものも多いですが、よくぞここまで強権的に変えられた思います。実際明治時代を見るとよくぞ江戸時代からあそこまで転換したと、個人的には大きく評価しています。
    どうも、今の政権は明治の長州のご先祖様にかぶれすぎるきらいがあるようです。もちろん機能しない法律や皇族問題は変更する必要がありますが、明治と同じようにすべて変えようというのは現代では無理がある過ぎると思います。代議士も年寄りばかりで、官僚もお公家さんみたいで、振り返るならもっと深い歴史、明治をもう一度見たいのはやめて頂きたものです。
    2020年01月17日 18:07

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