金谷出丸 南面

尾山神社金沢城の金谷出丸の地に創建されたものです。

金沢城は北の浅野川、南の犀川に囲まれ、東の小立野台地と自然の要害地に囲まれた城郭でした。特に搦め手の東は小立野台地の東端の千歳台(現・兼六園)とは大きな段丘の落差に百万石掘(白鳥堀)という最大幅・深度の堀が配されていました。南は台地の断崖に石垣と宮守堀(いもりぼり、復元堀は往時の半分幅)と二重の大障碍を設けていました。また大手(尾坂口)となる北側は城外よりも城の方が高台になり大手堀と百万石堀に匹敵する堀及び三の丸・二の丸と幾重の障碍が配されていました。
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尾山神社西神門より
ところが堀は配されているものの西側は高低差が少なく、攻城軍の主力が配されるであろう平地が多い西側は、金沢城最大の弱点地とも云えました。城方の前線基地となる出丸が必要となり設けられたのが金谷出丸でした。江戸初期には金谷出丸の南(現在の広坂合同庁舎)にも外出丸があったと云われています。

延宝年間(1673~1681年)の詳細な金沢城図が残されています。
              ⇒ 金沢城図(奥村家鎧袋内・箱入)(玉川図書館蔵)
上が南、下が北、左が東で右が西になります。是非クリックしてみてください
金沢城図は城構造や建造物を詳細記入、彩色した精緻な図絵で建物名称・主要室名も記し、辰巳用水から城内への通水水樋の埋設経路更に幹支線に渡り書かれたものです。ここまでの詳細図は珍しく、本来藩主格の持ち物で機密重要書類と想像されます。初期の金谷御殿が描かれているために加筆あるいは18世紀半ばとの疑問もありますが貴重な絵図面です。八家老家とはいえ、藩主以外の家臣が持つ代物としては重要過ぎるもので、執政を努めた奥村宗家の初期であることは間違いないと思います。

奥村家奥村宗家・奥村分家と加賀八家(加賀藩家老職・人持組頭家)の内、二家を占めていた加賀藩では重要な家柄です。前田利家の両腕(奥村永福(助右衛門家福)・村井長頼)と云われる能登以来の重臣になります。尾張荒子城時代には代々、城代を努めていた家柄になります。
特に利家・利長死後の混乱期には、永福(ながとみ)が大老として復帰、加賀藩草創期を纏め上げた功績大の家です。また利常・綱紀時代には歴代の加賀藩執政(大老職)で、延宝年間は綱紀時代で5代・時成の時代に当たります。時成も加賀藩執政(14500石)を努めており、加賀藩の藩主と共に最高責任者の位置にありました。

下:延宝年間金沢城下図(玉川図書館蔵) 製作は大正2年(1912年) オープンデータから
金沢城内は空白で堀も多少省略されています。金沢城の下の四角い空白地が金谷出丸です。
こちらは上が東、下が西、左が北、右が南になります。町割り配置から宝暦の大火(1759年)前の宝暦年間ではないかとも思われます。
屋敷地には個人名、家紋が朱筆されています。金沢が武家の町というのがよく解ります。
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黒線で描かれているのが、内側が高山右近が造った内惣構え堀、外側が篠原一孝が造ったとされる外惣構え堀になります。

内惣構は慶長4年(1599年)、徳川との緊張状態の中、謀反嫌疑を受けた前田利長は家老の横山長知(ながちか)・高山右近を弁明の使者として大阪に派遣します。しかし、徳川家康は横山長知との会見は了承しますが高山右近とは拒否します。このため、前田利長は横山長知に弁明交渉の継続を指示、最悪の金沢決戦の為に高山右近内惣構堀の建造、篠原一孝金沢城石垣の整備と硬軟両策を命じています。結果的には御存じのように、利家の正室・芳春院の決断で江戸屋敷に行くという決着になっています。
江戸幕府になると戦国遺風を残す前田利常は、利長の遺風を継ぐように硬軟両策を取ります。慶長15年、内惣構の外周に外惣構の構築を篠原一孝に命じています。

惣構堀は河岸段丘を多く利用して、堀を掘り下げた土砂を城側(内側)に積み上げて土塁(土居)としていました。更に土塁上に植林が施されていました。詳細に関しては調査中の段階ですが、土塁の高さは3~5m・最大9m以上、堀も同規模の幅・深度と見られています。堀には浅野川などから通水していました。江戸期には惣構肝入・惣構橋番人などが配置され、土塁の木の無断伐採や崩れの点検に当たり、堀へのごみ捨ても厳禁とされていました。また各橋に設けられた木戸番所で通行確認も行っていました。その後、辰巳用水・鞍月用水などの導入によって、用水路として再利用されて金沢市街の生活・防火用水とされていました。

現在は市街地化のために土塁が崩され、堀幅も狭められ、更に暗渠となって形跡が解らないのがほとんどですが、坂道下の水路など部分的に形跡が見られます。また、金沢駅から向かう武蔵が辻の入口に桝形が確認され土塁の復元が展示されています。この大規模な土塁と堀が、内惣構堀2.9キロ外惣構堀4.2キロが張り巡らされ、金沢城周りの堀・内外惣構堀・浅野川、犀川と自然と人工の防御が三重に張り巡らされていました。

余談ですが、寛永の大火(寛永8年(1631年)までは藩主が本丸屋敷で家臣団は二の丸以下の金沢城内に居住していました。大火による金沢城及び城下町の町割りを見直すにあたって、前田利常は本丸の天守及び本丸御殿の再建を諦め、二の丸に政庁及び藩主御殿を移しています。このために家臣団を城外に出し屋敷地を与えています。この時からが正式な武家文化の中心地・金沢が正式に発足したと云えます。この際に金沢城を中心に内惣構・外惣構・浅野川、犀川・対岸と区割りして一門衆などの格式・地位などで住む場所や面積が決められていました。

当然ながら金沢城周りが一等地で一門衆や重臣クラス、敷地の地形にも影響されますが、、その中でも正門となる金沢城大手門(尾坂口)が最上等で広い敷地を占めているのが前田対馬守家(前田与十郎家)になり、加賀前田家の本来の本家として重用されていたことが窺えます。例外的なのが加賀八家老家の長家(長九郎左衛門家)で、西方向の外惣構の外になっています。実は長家は能登でも古い国人領主で、前田利家には与力大名という立場で家臣になっており、加賀藩では唯一の所領持ち(33000石)の家臣になっていました。寛文7年(1667年)浦野騒動によって5代藩主・前田綱紀の裁定で領地没収(鹿島半国・田鶴浜・穴水)で知行米配給(33000石)に切り替えられ、当地に屋敷地を与えられていました。見合う面積地が無くこの地になった事情がありました。ちなみに、宝暦の大火(1759年)では臨時の藩庁となり、明治に金沢県の県庁が置かれたのがこの長家屋敷で、現在は金沢城図がある玉川図書館や玉川公園になっています。画像アップで試しに探してみると面白いですよ^^
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上:仙石通りから合同庁舎前交差点 左の石垣が金谷出丸、道路の右が宮守堀、左がお堀通りで道路部は堀になっていました。
右:お堀通り 復元中の鼠多門と鼠多橋

高山右近が造成した内惣構堀の起点となったのが、この金谷出丸南面になりました。
前述の二図を見ると二本の橋があることが解ります。東の橋は堀(現・お堀通り道路)の上を金沢城内の玉泉院丸を繋ぐ鼠多橋。
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上:金谷御門口跡 右:金谷御門通用口 南面に石垣が配され、上部に土塁があったのが解ります。石垣の年代は不明です。
そして南にあったのが金谷御門橋と云われた木戸の橋で、金谷出丸の通用門・橋となっていました。この橋が内惣構堀の起点になったと云われています。
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金谷出丸南面 土塁跡
それまでは宮守堀(いもりぼり)から玉泉院丸を巻くように直角にお堀通り金谷出丸を隔てていたのですが、更に宮守堀から真っ直ぐに開削して堀を通して惣構堀金谷出丸の南面・西面に施し、更に北面には支堀を施して平時の仮橋・幸橋を架け、四面に堀を配した独立出丸を構成させています。
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金谷出丸南面 土塁・石垣
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上:金谷出丸南面石垣
右:尾山神社西面斜面
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尾山神社正門前 用水路
金谷出丸の北面は住宅や店舗で往時の姿は解り難いですが、西面・南面には往時の姿が多く垣間見えます。尾山神社の正門は石段で分かりにくいですが、石段前には用水の暗渠がありますが、堀を用水路に転用したもので名残りを残しています。

旅行日 2019.11.12




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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    何処のお城を見ても建築当時の時代にどうしてこれほど立派なものが立てられたのかと思います
    時代をさかのぼって、そびえたつお城を一度見てみたいものですね
    タイムマシーンで・・・
    2019年12月08日 15:01
  • tor

    数日前に本屋さんで金沢城下絵図見ました。
    熊本城下絵図も欲しいとずっと前から思っています。
    金沢とは離れていて一度しか行ったことはないのですが
    つとつと様のブログで金沢の歴史や建造物について
    詳しくなってきたなあと思っています。
    実際に見てみたいですね。
    2019年12月08日 17:10
  • 藍上雄

     金谷出丸は簡単に言うと前線基地の様な物でしょうか・・・?
     前田家は外様ですが、関ヶ原後も依然と力を維持していたので、幕府から色々と意地悪されていて、厭わぬ喧嘩を仕掛けられるかもしれないので、しっかりとしたお堀を作って対処したのですね。武家社会では、殆どが、パワハラの世界に思えてなりません。
     
    2019年12月08日 21:03
  • つとつと

    がにちゃんさん
    戦国期以降の城郭の多くは建築期間が現代の感覚からは考えられない程短期間で施工・完工しています。金沢城にしても佐久間盛政は金沢御堂を徹底的に痕跡も残さず破壊して城郭を築いています。わずか1年余りで越中・能登に侵攻しながら。。高山右近が造成した内惣構堀は1カ月余りと云われています。もちろんその後の補修や改造も行われていますが、信じられないほどのスピード構築です。
    一体どのように建造したか、いろいろ推論されていますが、やはり過程をみたいですねえ^^
    2019年12月08日 21:34
  • つとつと

    torさん
    金沢の城下図は、けっこう多く残されています。
    やはり火災による焼失が多く、土地や敷地管理の為が必要だったようです。ただ、今回のような金沢城内のような詳細図は珍しいと思います。
    僕もtorさんのおかげですっかり熊本周辺が詳しくなってしまったようです。以前から興味があったのも確かですが、画像を含めて観て詳細が見られるのは大きいですねえ。。僕もそちらへ行って廻ってみたいものです。
    2019年12月08日 21:42
  • つとつと

    藍上雄さん
    平城や平山城では1.2面は自然の要害を抱えているのですが機能上や城下町を抱えるために、地続きの場所がどうしても弱点になってしまいます。
    この為に考え出されたのが、出丸という平地に突出した附け城的な存在が出丸になります。大坂冬の陣の真田丸は有名ですね。徳川幕府軍の大軍を相手にこの出丸ひとつの存在が大阪城郭に侵入を許していないのですから。夏の陣では堀の埋め立てが要因とよく言われますが、それ以上に真田丸の消失で大軍を間近に近づけてしまい、大阪方は直接出撃という絶望的な戦いになっています。
    現在の会社組織にあてはめると幕府という大企業本社に対して同系別会社企業が外様大藩だと云えます。幕府はいざとなれば強引に頭を潰して直系企業に吸収合併することも可能と云えます。しかし、どんなに大変な下請け作業もこなし、幕府機構の秩序にも順守するという軟化策、強引な介入を行えば、相当の費用と血を流すことになるぞというの抵抗力を見せることは必須でした。
    幕府もそこは心得ていて、幕府役職には就けないものの官位や序列では加賀藩は御三家と同列扱いのNo4、仙台伊達藩はだNo6、薩摩島津藩はNo7の序列を与えて、災害費用の援助も行っています。このあたりは今の会社組織みたいな面もありますね。
    2019年12月08日 22:16
  • ミクミティ

    色々と忙しくてちょっとご無沙汰しました。
    前回の明治の宗教政策のレポートは本当に力作ですね。大変参考になりました。やはり、紆余曲折の歴史があったのですね。
    今回の金沢城の惣構えの成り立ちのレポートも興味深かったです。内惣構え堀は、高山右近が造ったなんて知りませんでした。やはり江戸時代に初期、前田家は徳川将軍家との距離感を注意深く測りながら、藩の基盤を作っていったのですね。
    2019年12月11日 22:06
  • つとつと

    ミクミティさん
    お忙しいの良いことです。暇を持て余すには逆に良くありませんから。。
    加賀藩は創業者の利家を失って、当時は大混乱の真っ只中、徳川共闘・藩徳川で藩論は真っ二つでした。結束力もなにも吹っ飛んでいました。利長も利家の遺言と家督維持で揺れ動いたのが、硬軟両策の施行になったようです。
    高山右近は利家・利長の客分として26年という長期間を過ごしており、この金沢城・高岡城の縄張り、当然文化面でも大きな影響を及ぼしていたようです。残念なのは右近追放後のキリシタン禁制の中、記録が消されて事蹟が不明になったものが多いことです。
    歴史にもしは禁物と云いますが、加賀藩が徳川に反抗していればと昔から思っています。加賀藩は江戸期には金沢という前田文化を造り上げましたが、その分地方では批判派も多いのが実情です。そんなところが利長に軟化策を取らざる負えない判断になったとも思います。
    2019年12月12日 01:10

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