神社に行くと、神社の奥山に先座地や奥宮がある場合があります。
今回の波自加彌(はじかみ)神社も、だいぶ前になりますが奥宮の方をアップしていました。 ⇒ 2017.05.10四坊高坂八幡神社(波自加弥神社奥の院) 今回は改めて本社の方に伺いました。
神社の駐車場は山上になるため表参道を右折して山道を登ると便利ですが、なにせ参道は長い石段に急な傾斜。。一応、山上から一往復しましたが、きつかったあ。。冬の間にすっかり運動不足のつけがたまってますねえ。。
というわけで進行(撮影)方向とは逆になりますが、表参道入口というより時間が無くて立ち寄れなかった遥拝所付近からスタート。。
波自加彌神社標柱 花園小学校から100m程北に進んだ旧北国街道沿いの三叉路に建っています。標柱の方向に進むのが波自加彌神社の本宮への表参道になります。北国街道をここから、更に北に7,80m進んだ右に遥拝所兼神主さんの自宅があります。御札やお守り、御朱印帳は遥拝所で授与して貰えます。
ナビに頼るとこの標柱に案内されてしまいますが、この標柱から500m程、IR七尾線の踏切、国道8号の二日市交差点を越えて行った山の突き当りにあるのが波自加彌神社の本宮になります。
表参道入口には河原市用水に立派な神橋が掛かっていていますから、それが良い目印になります。
波自加彌神社 神橋 河原市用水(浅田用水)
河原市用水(浅田用水)は医王山を源にする森下川の不動寺町から取水して山裾を縫うように流れ、更に旧国道8号に沿うように10.2キロを流れて津幡町の加賀爪から津幡川で排出されています。津幡町の人には浅田用水の名の方が知られています。
北金沢・津幡南という農業用水の枯渇しやすい地を潤す重要用水路にもなっています。私的な話ですが、津幡出身の僕も浅田用水の名の方が馴染みがあり、この用水の最後に流れ込む津幡川の手前の滝のような排水路が好きで、中学の頃は僕はわざわざ回り道になる用水路を通学の帰り道にしていました。
波自加彌神社 境内社・八幡山稲荷社
河原市用水の守り神になります。
河原市用水の守り神ともなっている神社は二社あるのですが、上流部の金沢地区(当時は同じ河北郡)では波自加彌神社になります。
ちなみにもう一社は下流部の津幡町で石川高専から1キロほど富山寄りの旧浅田村内(現津幡町浅田)の井上三輪神社になります。
井上三輪神社には中橋久左衛門の用水起工碑があります。浅田村は中橋久左衛門が生まれ、村を離れて県内を巡り、晩年に戻って生涯を終えた地と云われてます。
河原市用水 神橋
前述のように加賀と越中の国境は幾つもの山が重なって峻険なものがあり、このため僅かな谷川の水に頼ることになり、作物を育てる農民の苦労が絶えないものでした。この為に田畑を潤す用水路が望まれていました。
神社の社記によれば、河原市用水の開削工事の開始は貞亨2年(1685年)となっています。前述の農民たちの要望に応えるように用水路開削に立ちあがったのが、浅田村在住で笠野十村役の息子・久左衛門でした。
河原市用水

奥に見えるのが花園八幡の旧集落、手前の橋を左折して進むと神社の山上駐車場に行けます。
久左衛門は加賀藩に用水開削の許可を得て作事を開始したのですが、水路の線引きに悩んで神社に祈願をしたと云われます。その後の雪の朝、白狐の足跡が神社から山麓を迂回して隣の村へと残されていました。その跡に従って水路を掘り進めよという神のお告げとして、開削奉行の許しを得て用水路を掘り上げたと云われています。用水の完成は30年の歳月を要したと云われています。その後も改修工事が寛政4年(1792年)から文化3年(1806年)にかけて行われた記録があり、昭和中期(34~41年)に堤防・漏水対策が施されたそうです。
用水路開削の功績を称賛された久左衛門は加賀藩から中橋姓を授かり、廻り口扶持人十村(十村棟取、十村役の指導監督者)として羽咋郡に派遣され、藩金で灌漑溜池の造成を進め干害地区を脱却、1万3千石の増加を果たしています。羽咋郡菅原村・杉野屋村(現宝達志水町)では神社に顕彰され祭事が行われています。後年には経済通として上方御用として藩財政に関わっていたようです。
表参道
用水路開削の功績を称賛された久左衛門は加賀藩から中橋姓を授かり、廻り口扶持人十村(十村棟取、十村役の指導監督者)として羽咋郡に派遣され、藩金で灌漑溜池の造成を進め干害地区を脱却、1万3千石の増加を果たしています。羽咋郡菅原村・杉野屋村(現宝達志水町)では神社に顕彰され祭事が行われています。後年には経済通として上方御用として藩財政に関わっていたようです。
下:表参道 一の鳥居から二の鳥居への石段
一の鳥居は奉納年を見逃しましたが、灯籠は昭和16年(1941年)寄進
波自加彌神社の本殿は山頂にあるために、石段はけっこう急勾配で長いのが特徴
一の鳥居をくぐると長い石段が長々として見えて、ひょえ~~っとしてしまいます。今年は雪がないとは言っても、ついつい出不精で、あまり山道や石段を登っていなかったので結構きついものがあります。
表参道 二の鳥居から一の鳥居方向
二の鳥居は昭和11年(1936年)奉納、鳥居脇に献納碑(同年)があり揮毫は犀東とありますから国府犀東(こくぶさいとう、東圃)と思われます。 献納碑
国府犀東は金沢の犀川東畔(現・金沢市竪町)に生まれ、竪町小学校時代には上級生に金沢三文豪の泉鏡花・徳田秋声、金沢三太郎(西田幾多郎・鈴木大拙(貞太郎))の一人・国文学者・藤岡作太郎、住友総理事・国務・大蔵大臣を務めた小倉正恒、東京知事・地方改良を推進した内務官僚の井上友一、法学者・枢密院議長・清水澄という錚々たる人物と親交がありました。小倉と清水は開戦時の内閣の大臣のため、この神社にこの時期の奉納が多いようです。

二の鳥居から三の鳥居への石段 先は長い
犀東は錚々たる先輩たちの指導と後援を得て、四高・東京帝大を卒業後、新聞記者・内務官僚として地方改良運動に尽力しています。有識故実に造詣が深く、官僚として昭和天皇の大喪の礼・平成天皇の即位・今上天皇即位が参考にした明治から大正の大喪の礼・即位の礼・詔勅の実施の中心人物で、神社の社格・位階・叙階にも深く関わっています。
その傍ら文学・史学・詩文・漢文にも造詣が深く多くの作品を残しています。犀川の畔に生まれた金沢三文豪のもう一人・室生犀星はこの犀東を目指して俳句・文学を志して、名前を対抗するように犀川の西、犀西をもじって室生犀星として目標にした人物です。
三の鳥居 昭和5年(1930年)奉納銘
波自加彌神社の社豪は約400本の木で構成されているそうです。冬でこの緑の濃さですから6月からの若葉や夏の緑の濃さは鬱蒼とした雰囲気を感じさせます。金沢市の指定保護樹林に指定されています。

この神社には、調味料の神様(波自加彌神・歯でかんで辛いものの神=生姜、山椒の神)が祀られている。境内林に山椒が多く自生している点が特徴である。
若葉が繁った六月十五日には、生姜祭りが行わる。 「かけがえのない貴重な森を大切に」

奉納灯籠
大正15年(1926年)寄進銘 神社巡りをしていると、多くの寄進灯籠に出会いますが、この笠が大きめでスマートな灯明タイプは好きですねえ^^100年近いのに、苔むしながら溶けたり摩耗していない形状を保っていて感心しきり
奥宮にある巨樹に似た欅の異形の形状にも見劣りしない姿が良いでねえ。久しぶりに見た好きな灯籠
昭和初期の構築物や寄進物の多い中で幣拝殿はコンクリート造りの重厚なものになります。ちょっと違和感はありますが、祭事の頻度が高い神社ですから、使用頻度を考えればこれはこれでよいのかも、神殿は木造の簡素な造りですが、石段や石垣が整備された権現造
波自加彌神社 神殿
波自加彌神社 拝殿案内板から
波自加彌(はじかみ)神社 金沢市二日市町・花園八幡町入会地鎮座
日本唯一香辛料の神 生姜の古名を名乗る神社 はじかみの神に参れば料理の腕はあがり薬効もある
■八幡山(やわたやま)という小高い山の頂に鎮座する当社は、波自加彌神、一国一社護国正八幡神を主祭神とする、一千三百年の歴史を誇る延喜式内の古社で、旧社格は郷社であります。
また、神社下の旧北国街道が連なる街中には、里宮揺拝殿があります。
■「はじかみ」とは「薑」「椒」とも書き、生姜(しょうが)や山椒(さんしょう)、山葵(わさび)などのように、歯で噛んで辛いもののことを指します。
生姜は香辛料や薬味として広く用いられるほか、様々な薬効があるため、当社も調味・医薬・健康の神とされ、遠く江戸時代には加越能の料理屋や医師、薬屋などが多く参詣したといいます。
■毎年若葉の繁る六月十五日には、はじかみ大祭(通称・しょうが祭り)がおこなわれ、多くの参拝者に清められた生姜湯が振舞われます。
宮司連絡先 電話〇七六(二五八)〇三四六
狛犬 苔むして古そうに見えますが、奉納年は平成10年(1998年)と新しいもの。平成生まれとしては珍しい短足・どっしりの造形
補足:入会地(いりあいち)というのは元々は、村落の共有共同体として総有する土地を言います。主には薪・炭・用部材・木の実・肥料用落葉の採集を行う入会山と、牧草や屋根材や肥料となるの萱・茅(かや)などを刈る草刈場があります。
神社地では隣村が境界地に土地を出し合って村落や両村の鎮守として共有する地を言います。明治に多く見られ、市町村合併やそれに伴う神社の統合により、多くの町や村で見られます。
社伝によれば、波自加彌神社の創建は養老2年(718年)と云われ、八幡山(やわたやま)の更に東奥地の四方高坂の黄金清水と云われる池側に社地があったと云われています。加賀郡(後の河北郡)13座の延喜式内社の一つとして伝わる神社です。
ちなみに延喜式内社は延長5年(927年)に纏められた延喜式神名帳に載せられた神社を言います。神名帳は神祇官が纏めた全国の宮社の一覧表で、延喜式が一番古く延長5年に存在した神社になります。現在も存続して確定しているのが式内社、遷座や消滅からの復帰などで確定できないものの式内社を継ぐ後裔神社と主張・推定公認されたものを(式内)論社・比定社と云います。式内社は少なくとも延長5年には成立していた国公認の神社となります。歴史の古さの証明のようなものですね。
神社にはそれを示すように金沢最古の獅子頭と云われる鎌倉時代作「麦喰獅子」、能登の仏師・春日が石清水八幡宮奉納品として搬送中、凪の解消祈願に納めたという鎌倉時代作「木造髄神像」共に金沢市文化財指定を含む60点以上の遺物・資料が宝物殿に納められています。
波自加彌神社 山頂駐車場から 建前が社務所、奥が幣拝殿、右崖上が神殿になります。
寿永年間の源平の争乱に巻き込まれて社殿を焼失、現在地に在った田鹿(たじか)八幡宮に合祀遷座されています。旧社地の田近山(田近村)や現神主の田近(たぢか)姓はこの田鹿から由来していると思われます。
遷座後は社殿が両並びで、総称は田鹿(田近)八幡宮と呼ばれていたようですが、社殿が一社殿になった頃から波自加彌神社が田鹿八幡宮の社格(位)が上位ということで神社名が逆転したようです。元禄7年(1694年)が初見で波自加彌神社に統一、主祭神は波自加彌神と護国正八幡神が並列されています。
ちなみに聞きなれない護国正八幡神は、宇佐神宮の泉水池での最初の顕現伝承や民間顕現の翁や幼児の姿で名乗った護国霊験威力神通大自在王菩薩(八幡大菩薩)に由来する神仏習合の名残を残すものではないかと思われます。
一国一社の八幡宮というのは、国府を守護する神社として、国府・国分八幡宮として総社に準えたものだと考えられます。しかし成立年もはっきりせず、越中にはそのものずばりに一国一社八幡宮という神社がありますが、他国を見ても田鹿八幡宮を含め国分八幡宮を称するものの多くは国府から離れすぎており確証は持てません。
摂社 諶兵堂(じんべえどう)
生姜を始めて朝鮮から伝来した竹内宿祢 山野の神・大山咋神を祀っています。
波自加彌神社が際立って特徴的で、面白いのは波自加彌神を祀っていることにあります。
国内でも珍しい香辛料の神(波自加彌神)を祀っていて、毎年6/15にはじかみ大祭が開催され、金沢の料理店や食品メーカーから奉納品が納められ、参列者に生姜湯が振舞われています。以前は奇祭扱いでしたが、後述の「生姜の日」制定以来、金沢の風物詩としてすっかり認知されています。
一年366日、毎日が〇〇の日というのがありますが、あまりの乱発に現在は日本記念日協会なるものが公認・管理しているそうです。⇒日本記念日協会HP
前回ブログから引用・・・6月15日は「生姜の日」。実はこれはお茶漬けの素やふりかけなどで知られる永谷園が、日本記念日協会に登録申請して制定されたものなんです。H19(2007年)に冷え知らず・生姜シリーズのヒットで、気を良くした永谷園は生姜部という部署を造るほどの力の入れよう
H21(2009年)に前述のように日本記念日協会に申請して6月15日が「生姜の日」になったのですが、波自加弥神社のはじかみ大祭の開催日でして、永谷園はこの祭礼の日に因んで申請したそうです。
はじかみ大祭の由来(波自加彌神社パンフより)
奈良時代に加賀国で数ヶ月間降雨がなく、草木はことごとく枯れ、人にいたっても多くが渇死するという事態が起こりました。国造(くにのみやつこ)が雨乞いをするため波自加彌神社に参拝し、身を清め断食して祈願すること三十七日目の満願日、神社近くより霊水がこんこんと湧き出たことにより人々はすくわれました。
人々は神恩に報いるために供え物を求めましたが、長く続いた干ばつの為にめぼしいものがなく困っていた所、たまたま干天下に自生する生姜があったので、これを献じて感謝の祭りを行いました。この日が六月十五日であった為に、毎年この日にははじかみ大祭が行われるようになりました。
摂社 八幡山稲荷社
食物神の宇迦之御魂神と使い神・白狐を祀っています。
生姜・山椒・山葵などの香辛料を司る波自加彌神を主祭神として祀ることから、摂社にもその関連神が祀られています。
摂社には諶兵堂(じんべえどう)。竹内宿祢を祀ったものになります。神功皇后の三韓征伐の際に朝鮮半島から薬として生姜を日本に初めて持ち帰った朝臣が竹内宿祢という伝承に由来しています。また、山野の神として大山咋神が合祀されています。ちなみになぜに諶兵堂なのかは解りませんが、諶(本来はシン)は「真実の、真の」という意味ですから、やはり忠実なる臣・朝臣になるんでしょうか。。
隣は八幡山稲荷社で、前述のように河原市用水(浅田用水)の守り神としての白狐、その主となる食物神の宇迦之御魂神を祀っています。
旅行日 2020.02.14
この記事へのコメント
tor
河原市用水は中橋久左衛門が中心となって造られたのですね。
通水石橋の通潤橋を建造した布田保之助の話と似ていますね。
当時は領主が開発するのではなく
民間主導だったのですね。
熊本市内を流れる用水路は加藤清正が造ったと言われています。
波自加彌神社も歴史ある立派な神社ですね。
生姜などの香辛料なのですね。
灯籠もなかなか良いですね。
室生犀星の名前の由来も分かりました。
相変わらずの情報量ですね。
藍上雄
農業用水路の整備に生涯を費やした久左衛門氏、中橋の姓を授かっただけあって立派な仕事を残しましたね。この方身分的には「工」だったのでしょうか・・・。白狐のお告げと言っても、それなりに合理的な知識持っていたのかもしれませんね。
波自加彌神社の灯篭苔が生えていますね。新しい物も苔が生えていて、境内全体に湿気が多い場所なのかも・・・。波自加彌神は香辛料の神さまと八幡山稲荷社に祀られている神様、此処は土地柄、生姜の生産も為されている場所なんですか・・・。
つとつと
加賀藩では十村役の存在は大きいものがありました。税制が定免制いう制度があって、税が十村ごとに設定され、税を払った後の残りは十村役の総取りになっていました。もちろん十村には治安維持から農業土木開発まで大きな権限があったのですが、この為に十村役は必死に自分の土地の収穫高を挙げるために血道をあげていました。もちろん藩からは作事奉行が派遣されますが、土地開発や用水整備は十村役の大きな課題だったんです。金沢の都市開発や大型土木工事を除けば、加賀藩の地方はほとんどは民間事業と云えますね。
香辛料の神を祀るはじかみ大祭では食品・美容品など様々な奉納品が並びます。とても珍しい神社になります。
犀東は町家から武家の養子となり恵まれた地位と才覚、文学上での評価も高く、文壇では金沢でも最高格でした。恵まれぬ再生にとっては犀川の対岸同士に生まれ境遇も正反対。嫉妬と憧れの存在が名前を犀星(西)にした由縁と云われています。今では三文豪でも一番名を知られると存在に成れたのは、犀東に憧れ乗り越えようとした負けん気の結果だと思います。
つとつと
珍しいどころか、日本では唯一の神社だと誇っています。今年は一度しか積雪が余りませんでしたが、雨降りの多い冬です。金沢は県庁所在地の降水量・雨が降る天候では高知とトップ争いを演じるほど雨が多い土地柄です。「弁当忘れても傘忘れるな」という言葉が金沢にはあるくらいです。それだけ湿気も高いお国柄、おかげで木陰の多い神社にも苔が多く繁茂するところが多いんです。
中橋久左衛門はこの用水の後には中能登で十村役の教官として溜池作りでも功績をあげて、中能登では水の神様のような扱いで今でも祭礼が行われています。僕はこの用水の終点近くの出身で、浅田の地名と共にこの人の業績は津幡のヒーローの一人とし教わってきました。
江戸期までは生姜栽培が盛んだったのですが一時期途絶えていましたが、近年になって復活を目指して栽培が増えてきているそうです。こちらでは根生姜がメインですが、藍上雄さんが言われるはじかみは矢生姜になります。いわれて、「はじかみ」の名は矢生姜に残っていることに気づきました。根生姜は高知、矢生姜は愛知が特産だそうですが、神社があるんですからぜひ復活を果たして欲しいものです。
y&m
八百万の神様がいる国だとは分かっていても、
香辛料の神様が居るとは知りませんでした。(^^♪
生姜に山椒に山葵、日本人の好きな物ばかりですね。
「生姜の日」制定に永谷園か絡んでいるのは面白い
エピソードだと思います。奉納石灯籠、このタイプは
関西でも珍しい気がしますね。
つとつと
なかなか面白い神社でしょ^^
最初は生姜・山椒・山葵から始まって、香辛料・スパイスと広がって行ったようです。
国内にはいろいろな記念日がありますが、生姜の日は永谷園さんが提出したものですが、元となったはじかみ大祭には、農家・料理店・食品会社だけでなく化粧品や美容用品まで@@香辛料は様々な所に使われているんだと思わされます。
灯籠の笠は昔の方が大きかったのですが、こちらではこういった灯台型の灯篭が意外に多いようです。昔小高い場所にあった神社の灯りは灯台代わりにされていましたから、その名残だと思います。この神社にも凪で止まった船から奉納された隋神像の由来もこの一説になります。
yasuhiko
名前になってるので驚きました。
「はじかみ」はショウガの意味でも使われますが、
本来は記紀歌謡(久米歌)にも詠われたように、
ピリリと辛い山椒のことですよね。
それが神様として祀られてることに感動を
覚えます。これもいにしえの信仰のあり方ですね。
本殿に続く石段に風情を感じました。
つとつと
そうでした、古事記に出てくる久米歌に、出ていましたねえ^^;すっかり度忘れしていました。
この神社の山を巻くように流れる用水のおかげで、自分の町とも関係が深い神社として子供のころから存在を知っていたんですが、香辛料の神様を祀っているというのを知ったのは何年も経ってからでした。
石段の整備は昭和初期だと思われますが、森の木が深くて、長い石段は真言さを伝えてくれます。
本当は雪が積もったり、緑がまぶしい5月くらいが訪れるには良い神社なんですよ。。
毎年、はじかみ大祭には一度くらい行きたいと思いながら、行けずじまいなのが心残りの神社です。
ミクミティ
その「はじかみ」という難しい名前は、古来の山椒や生姜のことだったのですね。当時、神聖な食材でもあったのでしょうね。
やはり薬としての価値がそういう信仰へと結びついたのでしょう。
現代では、こちらにお参りすると料理の腕が上がるというのは、微笑ましいですね。永谷園の後押しで生姜の日ができたり。ちょっと生姜の位置づけは変わったと思いますが、今でもこの神社が地元の方々に大切にされているんだなと感じました。
つとつと
神社の創健年というのはあまり宛にならないのですが、波自加彌神社は延喜式内社に明記された由緒は平安初期には存在されていたことが証明されていますから、古い神社というのは確かです。それにしても山椒や山葵・胡椒を祀るというのは珍しいと思います。
yasuhikoさんが言っていた久米歌(古事記)では齧るとヒリヒリするものとなっています。やはり薬草的な扱いだったと思われます。本来なら、少彦名神などと結びつくのに八幡神と結びつというのは不思議です。
一時期は北金沢や津幡町以外では無名に近かったんですが、現在の神主さんは精力的な人で、神社庁金沢支部の支部長さんで金沢・河北・白山市の43社を兼務していて、名前が近在に広まったようです。6/15の祭礼では奉納品の多さには驚きますよ^^
がにちゃん
次 楽しみにしています
つとつと
ついつい長くなっちゃってますからね^^;
無理せず、ゆっくり過ごしてくださいね。。肩痛や首痛はPCやスマフォは厳禁ものですからね。
仕事が混んでいて、ちょっとずつ書いてるので、、更新がいつも春には遅れちゃっています^^;
ごめんねえ^^;
ゆらり人
今朝早く大きな地震が有りましたが大丈夫ですか、ご心配でしょうが
確かこのお近くだったはずですね。
どうぞお気を付けてお過ごしください。
お見舞い申し上げます。
つとつと
ありがとうございます。真夜中でしたが、TVから緊急速報と思ったらすぐにグラグラ@@そういえばいつもうるさい携帯が鳴らなかったなあ。。
それにしても、大きな地震は10年程前の能登沖地震以来、あの時は大きな被害が出ましたが、今回は一部の道路ののり面の崩落があったくらいで、まだ被害はほとんどなかったようでホッとしています。それにしても災害は忘れた頃に。。と言いますが気をつけないとダメですね。