玉泉院丸庭園② 借景の石垣群

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色紙短冊積石垣 玉泉院丸庭園北東面の借景。色違い・大きさの異なる石を組合せて積み上げた石垣。色も青・赤戸室石、そして黒は藩主親族のみの使用に限定された坪野石が使われています。綱紀時代に製作されたと予想されていますが、利常が築城した小松城天守台の石垣にも使用されており、鵜川石も使用され5色遣いでした。小松城石垣を手本にしています。段落ちの滝の水源にもなっていました。右上部に水口のような蛇口があり、水を落としていました。滝つぼと呼ばれる水の落ち口には玉石が敷かれていました。残念ながら水源がないために水落の再現はなされていません。惜しい。。
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元和9年(1623年)玉泉院が逝去し屋敷が撤去され、玉泉院丸と呼称されてから10年ほど後、寛永8年(1631年)加賀藩政期における四大火のひとつ寛永の大火が起きます。金沢城外南西部から出火した火事が強風であっという間に金沢城や金沢市街地を嘗め尽くしました。当時、金沢城内には水の手が少なく、堀も空堀に近いものだったと云われます。金沢城内の本丸の辰巳櫓が類焼、燃えるに任せたまま更に二の丸・三の丸と惨状を拡大して、中心部にかけて石垣も含め家臣屋敷も焼き尽くす大火となっていました。

火事の原因が藩士による色恋沙汰の放火ということも加わって、前田利常は家臣団の組織変更を含め、金沢城や城下町の町割り編成など大胆な修理と変更を加えています。特に本丸に天守替わりだった辰巳櫓を失ったことは大きく、本丸を放棄して政庁を移すために二の丸を拡大、二の丸と三の丸の間を整地して堀を北上させて4000坪に及ぶ二の丸を造営しています。五十間長屋を見学したことが有る方は解るでしょうが、長屋の西側の二の丸跡が広大な芝生広場でも解ると思います。二の丸に政庁と殿様の生活する御殿を造営するために、それまで城内に住んでいた家臣団を城外に替え地を与えて町割りを決定しています。結局この時の縄張りで天守閣が置かれることは永遠に無くなったわけです。城下町への家臣団の町割りはその後の武家の都市と云われる金沢の城下町の町割りが出来た端緒になります。

しかし、この急激な金沢城の整備・増強は、この他にも大船の購入、兵力増強などもあり、大御所・徳川秀忠の重病中で幕府の不信をあおり寛永の危機を招いています。この危機に置いては利常・光高親子が江戸に急遽出府して弁明に努めています。この際、執政の横山康玄の奔走もありましたが、上屋敷・下屋敷の防備準備ではなく作庭を行って文化面強調と沈滞化の払拭という施策も功を治めたと云われています。この成功が玉泉院丸庭園の作庭に繋がったと云われています。
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ここからは推測が多く含まれています。個人の推論が多くなっています。
前回ブログに書いたように金沢城内で自分を取り巻いていてくれた女性陣でしたが、慶長19年から10年の間に立て続けに失っています。慶長19年(1614年)以降を見るだけで、慶長19年8月利家九女・保智姫(享年20歳、武田信吉(婚約死別)、篠原貞秀(一由)室(一孝長子))、元和2年(1616年)4月利家長女・幸姫(58歳、前田長種室)、元和3年(1617年)7月利家正室・芳春院(71歳、松)、元和6年(1620年)7月利家八女・福姫(34歳、長好連(死別)・中川光忠(離婚)室)、元和8年(1622年)7月利常正室・珠姫(24歳)、元和9年(1623年)2月利長正室・玉泉院(50歳、永姫)

元々城外の西町(現黒門緑地)に居住していた豪姫千世姫は村井家の母堂として村井家上屋敷(現長町一丁目、中央小学校敷地)と城外に移り住んでいました。わずか10年の間に、愛妻・珠姫を含め藩主就任に絡んだ女性陣が全員、金沢城内から姿を消してしまったのです。
正室・珠姫との仲は非常によく、そのダメージの為か当時28歳と男盛りながら10年近く側室を置いていません。壮年期にいきなり孤独と喪失感を味わうことになり、そして徳川家との仲を繋いでいた愛妻を失った利常には、もともと持っていた反幕の反骨精神が、大胆な言動と、加賀藩増強と云える行動となり、幕府の警戒を招いたとも云われています。

前述の寛永の危機を受けて江戸に出府した利常は奔走したものの、帰国には3年の月日を費やすことになります。出府の翌年には大御所の徳川秀忠が死去。その後も老中などからの追及の槍をかわしながらも豪放な対応もしばしば、そこには戦国気風と反幕府の気がチラついていました。そこを敏感な幕府首脳陣に感づかれていたのかもしれません。寛永11年(1634年)大御所と将軍の二頭政治から独裁となる公方になった徳川家光の供奉として上洛の先導役を務めることになります。上洛後、帰郷を許され京都滞在から大津を経由して金沢に戻っています。大津では留守ながら小堀遠州屋敷を訪問、庭園を見学して激賞。そして金沢にと帰国します。
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色紙短冊積石垣前 周回路 真っ直ぐ登りに進むといもり坂に繋がって庭園を見下ろす周回路になります。登りの手前を石垣の間を進むと数寄屋敷・二の丸の西側の外殻石垣の外郭。 
金沢に戻った利常を待っていたのは重病に陥っていた豪姫でした。豪姫は重病看護で金沢城内に移されていましたが、利常の訪問を受けて数日後に亡くなっています。寛永11年5月23日逝去、利家四女・樹正院(俗名・豪姫、宇喜多秀家室)享年61歳。   
最期を看取った利常には様々の思いを持ったと思われます。藩政期に渡る八丈島の宇喜多家への援助、明治における宇喜多家の東京移住を前田家が援助を行ったのも豪姫の思いを受けた利常の遺風を受け継いだのだとされてます。そして、江戸出府時にはバカ殿さまを演じ始めたのもこの時からでした。              二の丸西外郭への通路DSC_0042_1.JPG 
右に二の丸西外殻の高石垣、左には玉泉院丸北石垣の物見櫓石垣の上部が見られる石垣ファンにはたまらない通路
更に同年には自分だけの庭園となる玉泉院庭園の作庭に掛かっています。後の細工所の創始、文物の収集や京・江戸の文化人の招聘と文化都市を目指しています。物事を極めようとすると行くところまで行こうという性格が現れています。

また政治面でも、寛永16年(1639年)嫡子・光高に家光の養女・大姫(水戸光圀の姉、徳川家光養女)を正室として迎え、次男・利次に富山10万石、三男・利治に大聖寺7万石を分封して加賀藩を縮小。幕府からの慰留を拒否して、光高に藩主を譲り、自身は能美・小松20万石を隠居領として小松城に隠居し、文化復興に専念しています。江戸出府時の言動や行動は弁明だけでなく戦国気風その者の反幕府があったのを内心にしまい込んでしまい、急遽、泰平の文化面で江戸や京都を凌駕してやろうとなったのは、自分を置いて去って行った加賀前田家の女性陣への想いと彼女たちが身を犠牲にした平穏をさらに高めようという心が垣間見られます。

ちなみに最後に残った利家七女・千世姫は寛永18年(1641年)11月逝去、享年62歳。彼女もまた前半生で戦乱に翻弄された一人でした。
後半生は早くに夫を失いましたが、養子の若い当主を後見し、藩主・利常を支え、穏やかに過ごしたと云われます。彼女もまた利常が自ら野田山の豪姫とは区画を離れますが、隣の位置に墓所を定め葬っています。前述の女性陣には九女・保智姫、八女・福姫も数奇な運命(キリシタン信仰)や不審死さらに死後には経歴に複雑な改竄まで行われています。これだけ自分を支えた女性陣の複雑な経歴と終焉をすべて見た利常には、武力より文化で徳川を凌駕すると方針転換したのを感傷的に察せられます。
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寛永9年(1632年)には辰巳用水を完成させ兼六園の霞ヶ池に水を入れ、更に配管で金沢城内に水を引き入れ堀に水を巡らせ、破損した石垣を修理或いは配置換えを行って現在の金沢城の縄張りが完成したと云えます。江戸で危機弁明を行いながら、金沢では部下たちに金沢城・城下町の強化・完成を行わせていたのは、したたかですねえ。。
まだ当時は貯水池としての霞ヶ池が完成したとはいえ、兼六園は迎賓用の観覧施設は紺屋坂を上った茶店街辺りに限定されており、綱紀の時代に瓢(ひさご)池周辺を整備して同じく迎賓用の観覧施設としていました。とはいえ、そこはあくまで迎賓用・外交用でした。
本丸御殿を失ったために私的な殿様個人の庭園が失われていました。後に意匠を凝らした小松築城や桂離宮のスポンサーになったり、芸術文化の担い手となり、細工所を創成した芸術家の一面を持つ利常にとっては我慢のならない事態でした。

金沢城や城下町の整備が落ち着いた寛永11年(1634年)に京都の庭師・剣左衛門を招請、玉泉院丸に私的空間となる庭園の作庭を命じています。
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庭師・剣左衛門の詳細は解っていませんが、小堀遠州の弟子・賢庭ではないかと云われています。失われた本丸御殿の作庭にも小堀遠州と賢庭が作事に係わったと云われています。玉泉院丸作庭直前にも大津の小堀屋敷に立ち寄り、庭園を褒めて帰ったと云われています。

小堀遠州にしても前田利常にしても庭園造りの設計監督として能力は高く評価されていますが、石組みや泉水、更には名木の選定や植樹にしてもそれを実現するには優れた土木技術者が居なければ実現できませんでした。その第一人者で最高責任者が賢庭という存在だったと云われています。賢庭が存在しなければ小堀遠州の名声も後世には残らなかったと云われています。

賢庭が作庭に係わった庭園として著名なものでは・・・円徳院庭園(旧伏見城庭園)・二条城二の丸庭園・醍醐寺三宝寺庭園・南禅寺金地院庭園など国名勝で有名なモノばかり
賢庭を称賛した評価には後陽成天皇から「賢庭ト云天下一ノ上手也」他にも「天下一の石組の名手」そして将軍家御殿造営では最後の「山水河原者」
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数寄屋敷跡 玉泉院丸庭園の借景ではありませんが。。二の丸御殿は東部から政庁・殿様御殿・数寄屋敷となっていました。数寄屋敷は江戸城でいう大奥に当たるもので、多くの側室や女中衆が住まいや従事していました。金沢城の石垣には目印が刻まれているものが多いですが、この石垣では特に多数見ることができます。
いつからと云われると答えるのに難しい問題ですが、習俗風習に祭祀思想・穢れ思想・神道思想・仏教思想・儒教思想が絡まって、一種の職業差別(特に死穢に係わる)と云われるものですが、文化の牽引車となる人材は指導・監督・使用する上位者に対して、製作や演奏といった人材を蔑む面があることです。日本での最たるものでは朝廷・貴族が上位者で、一般庶民、仏道に反する芸能を生業にする者、その最下層には狩人や樵・皮革・食肉業者、特に血を見る戦争や抗争の実行者の武者は最下層というわけです。世界に大なり小なり共通する事項ですが、これが顕著に近代まで持ち越して来たのがインド圏のカーストであり中華・朝鮮と云った儒教国家、影響を受けた日本など周辺国でした。

中華・朝鮮の影響を色濃く受けた日本も例外ではないのですが、平安後期以降に武士が台頭して政務を司るようになって地位を向上させたという特殊事情によって中味が余計に解りづらくなっています。過渡期に生活慣習を変えさせるほどの芸術志向者が登場したことで更に希薄化し、鎖国の自給自足生活が広められて解りづらくしたものです。また日本人特有の自分用に様々なものを改良する能力が長けていたことも大きな要因です。

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とはいえ、中世における散所、江戸期の金沢でいえば藤内町という被差別部落が存在し、穢多・隠亡・非人・河原者などと呼ばれて人別や戸籍にも載せられない住民が存在したのも事実です。歴史の有名人でも善阿弥・運慶などはこれらに組み込まれていたと云われます。今では逆に尊敬される存在の人たちがほとんどで、時代とともに改善されては来ていますが、時として偏見として壁となる場合があり、平成になって世上に上がらなくなってきましたが、同和問題・被差別部落問題として、まだまだ習俗・慣習に係わる部分で課題は残っています。
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数寄屋敷石垣
アップすると解りますが様々な刻印が刻まれています。

時代にもよりますが、現代に残される建造物や作品を実地に製作する土木従事者や石垣積従事者、更には芸能・芸術製作者、楽器製作者・演者、もっと幅を広げれば鎧・甲冑・武器などの製作者は下層民・河原者として観られていました。

賢庭「最後の山水河原者」と呼ばれたように、河原者というのは最下層民を指す言葉になります。利常が小堀屋敷の庭園を見て賢庭を指したと思われる言葉に「跡にも仞(じん、高さ・深さ・長さの意)も和尚に成る者の器量は別の事と御意也」要約すると「名人・天才と呼ばれる者は出自や経歴によるものでは無く、当人の器量・才能によるものだ」と云っています。とはいっても、そんな言葉自体を発するのは、それまでそういう差別が存在していることを認識させるものでした。利常や薫陶を受けた綱紀が創始・運営した御細工所、他国から招聘した文化者・技術者には市井からの庶民だけでなく河原者・賤民が多くいたことが窺われます。時代と共に各種芸術・技術製作者によって価値が一般にまで認められていった過程がありました。賢庭が最後のと呼ばれたように、彼以降の功績によって作庭の技能者の地位が向上したことを表すものでもあります。
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金沢城内 切手門 建築年は不明ながら藩政期の宝暦の大火にも残ったと伝えられています。明治に移築され近年に戻されたそうです。
数寄屋敷の勝手口として番所が置かれ、三の丸からの通いの下働きや女中の出入り口となっていました。
特殊技能者を厚遇したものでは室町幕府の歴代将軍家から顕著になります。これらに取り上げられた人たちも元を辿ると名もなき庶民・河原者や、武家・公家の脱落者など様々で身分不詳の人たちです。この氏素性の解らない人たちに阿弥(阿見)姓を与えて仕えさせたと云われています。有名な所では3代将軍・足利義満が幕府お抱え的存在にした猿楽(能)の観世一座の観阿弥・世阿弥・音阿弥が有名な存在です。義満は特に世阿弥に入れ込んで、北朝4代の摂政・関白を努めた当代最高の歌人・才人とされた二条良基に弟子入りさせています。元々河原者の息子を関白の内弟子にしたんですから当時としては驚天動地の出来事と云われています。最初は怒った良基も、世阿弥の才能にほれ込んですべてを叩き込んだと云われ、後に「風化花伝(花伝書)」といった芸論の名作に繋がっています。これはこぼれ話になりますが、伝承として観阿弥の父は伊賀服部氏・上嶋元成として母は楠木正成の妹としているものがあります。これを使って書かれているのが吉川英治の「私本太平記」で、足利尊氏の法要の等持院から場所を検校屋敷に移し、検校・明石覚一を尊氏の従兄弟として覚一以下の琵琶法師多数と一色馬之助(尊氏の守役・密偵)・父母(元成・卯木)の合奏と共に観世丸の猿楽の舞を最後のシーンにしてます。
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切手門通路前の虎口 左が三の丸、右が二の丸・殿様御殿の門に向かう道で、二の丸・三の丸の唯一の地続きの場所でした。
数寄屋敷跡の庭園跡に咲いていた桔梗?DSC_0053_2.JPG
更に多くの人員を雇入れて才人に阿弥姓を多く与え、身近に置いて同朋衆としたのが8代・足利義政になります。政治音痴で市井を大混乱に落とした史上最悪の施政者の一人ですが、こと文化の振興者・先鞭者としては史上最高の天才です。現在の日本文化の生活様式や基本形はほとんどと云って足利義政から発祥・確立したと云えるものばかり。。慈照寺・慈照寺庭園(銀閣寺)だけでなく、作庭や茶道で能力を発揮した善阿弥、唐物奉行として鑑定を行い室内飾りを担当した能阿弥・芸阿弥・相阿弥の三阿弥。生け花の創始と云える立花を御用とした立阿弥が代表例。。他にも千利休の祖父・千阿弥(茶道)、後に光悦を輩出する本阿弥(刀剣鑑定)も同朋衆と云われて文化発祥の先鞭になっています。

その後の織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と云った天下人と呼ばれた人物たちも阿弥姓の同朋衆を置いて文化振興を行い足利義政ほどではないものの日本国内の生活様式や文化伝統に影響を与えてきました。
前田利常は前言「跡にも仞(じん)も和尚に成る者の器量は別の事と御意也」というように文化の充実は天下人のもう一つの必須と見たのでしょう。。加賀藩初期の3代利常・5代綱紀、江戸後期の12代斉広・13代斉泰などは、施政方針や実施は全く違うものの文化面での金沢への影響力は大きく、現代の金沢文化の源流となっています。
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いもり坂と薪の丸東石垣 玉泉院丸庭園の東側の借景となる三十間長屋南下の最下段の石垣になります。金沢城内でも多種使用の石垣が見られます。

玉泉院丸庭園は寛永11年(1634年)前田利常が作庭してから4年余りと間もなくで、寛永16年利常が隠居して小松城に去り、それからわずか6年後の正保2年(1645年)には4代・光高が急死5代・綱紀が後を継いだものの僅か3歳。この為、祖父・利常が後見と藩政復帰をしますが、小松城を本拠として金沢を往復していたために、綱紀も江戸在住が多く成人・独り立ちするまでの約20~30年間、玉泉院丸庭園は肝心な藩主不在で荒れてしまったと云われています。
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左:二の丸南石垣 右:三十間長屋北石垣の堀跡 中央の橋は極楽橋
極楽橋は金沢御堂時代を伝える唯一の名称になります。金沢御堂は佐久間盛政によって徹底的に破壊され痕跡を失っています。本殿のありかも不明状態のままです。発掘調査で空堀下から御堂時代の橋跡が確認されています。現在の極楽橋は平成3年(1991年)に改修されたもの。
極楽橋・・・二の丸から三十間長屋のある本丸附段へ渡る所にある橋で、昔、金沢御堂に参詣する人は朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと云われている。(石川県HPより)
江戸幕府内での地位確定を目指した綱紀は、延宝4年(1676年)幕府要人や賓客の迎賓館として兼六園の瓢池周辺を整備して蓮池御殿(四亭で構成されたと云われます。夕顔亭・時雨亭はその一部)を造営しています。これが兼六園の正式な創始と云われています。
藩政が落ち着き準御三家待遇も決まりかけた元禄元年(1688年)には、ついに玉泉院丸庭園の改修に乗り出します。茶道茶具奉行の千仙叟宗室(裏千家4世)に作庭を命じています。この際に厩を廃して、亭と露地(茶亭と茶庭)・花壇を造営したとされます。前述の色紙短冊積石垣もこの時に築かれたと云われています。元禄5年(1692年)には詰所の南端に氷室も設置していたと伝わります。夏場には殿様は氷室の削り氷を庭園内で食べていたというわけです。氷室に関しては金沢では湯涌温泉が有名ですが、ここ以外にも二の丸内、兼六園内など数カ所あったと云われ、将軍家や江戸屋敷に氷を献上を始めたのも綱紀の時代だと云われています。江戸への献上は玉泉院丸・二の丸の氷を運んだと云われています。
この作庭で藩政期にわたる玉泉院丸庭園の形態が確定したと云われます。ちなみに幕末まで続く加賀藩前田家の準御三家格の確定も翌年に得ています。
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三十間長屋北石垣 金沢城内を巡っていると石垣に白っぽい塗料のような付着を見ます。これは火災による鉛瓦が溶け落ちて付着したと云われています。この石垣の付着は宝暦の大火(1759年)による三十間長屋が全焼した時の物と思われます。
江戸期後期の13代・前田斉泰は久しぶりに現れた独裁政治と加賀藩強化を目指した藩主でした。前田系列藩だけでなく、有力家臣団の家にも次々と自分の子を養子として送り込み多くを当主として、加賀藩での自分の権力強化を図り成果を収めていました。ただ肝心な所で尊攘・佐幕で揺れ動いて判断を誤って、新政府への影響力を掴めずに終わっています。
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玉泉院丸庭園 唐傘亭 唐傘(案内板より)・・・天保三年(一八三ニ)に十三代前田斉泰(なりやす)が設置を命じた「カラカサ」亭は、明治期の庭園廃絶と共に兼六園瓢池(ひさごいけ)に移設されたといわれています。この唐傘は、金沢城二の丸に置かれた同様の唐傘の資料や兼六園瓢池に設置されていた唐傘の古写真等を参考に再現したものです。
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右:兼六園瓢池2010.03.14撮影
中央にあるのが唐傘。左の滝が翠滝。右の石塔は海石塔で、朝鮮役で加藤清正が持ち帰り前田利家に贈呈したもの。元は二対で小松城天守台に飾られ、明治の売却で能美市寺井の奥野八幡神社に現存しています。

父親の12代斉広は治世に挫折して、金沢文化の粋を極めた竹沢御殿を造営して現在の広大な兼六園を作庭した人物で、野田山墓所も敷地は離れているものの開祖・利家らの中心墓地と同高度の位置に自分の墓所を決めるなど、文化趣味には一家言を持った人物でした。その血を引く斉泰もまた文化面には貪欲強情な人物でした。現在の尾山神社にあった金谷御殿を倍に増築し、明治の金沢藩消滅時もぎりぎりまで居座わるという頑固頑迷さを発揮、金谷出丸(現尾山神社)が軍に接収されずに神社になった切っ掛けを作っています。
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斉泰もまた当然のように、作庭に強い関心を持って玉泉院丸庭園に手を加えています。天保3年(1832年)泉水の南に高台を築き水路を暗渠として、唐笠亭を設置しています。安政3年(1856年)北側の斜面に四段の段落ちの滝を造営しています。復元された玉泉院丸庭園はこの時点での庭園を復元した形になります。それにしても、財政逼迫状態の中でこれだけの個人的事業を行ったのは驚嘆物です。

加賀藩が無くなり金沢藩となると、殿様屋敷は旧本多家上屋敷(現・県立美術館敷地)に、藩庁は旧長家上屋敷(現・玉川図書館・玉川公園敷地)に移され、金沢城兵部省管轄とされ接収されています。
玉泉院丸庭園も同じく接収されていますが

当初は破壊や改変は行われておらず、明治4年(1871年)オランダ軍医・スロイスを招聘した際に鼠多門を潜った先の広場にスロイス御貸家が建てられたそうです。古写真では屋根しか解っていませんが、絵図から規模も判明しているそうで、屋敷は112坪7歩3厘(372.7㎡)・間口14間・奥行8間4尺・柿葺屋根、別棟の厨房が41坪6分6厘(138㎡)、2間四方の井戸があったそうです。スロイスは夫人を同伴して来日、僕が今回通った数寄屋敷から切手門、三の丸を通って黒門から大手堀前にあった金沢医学館(旧津田玄蕃邸・現KKR金沢)に通っていたそうです。午前中は医学生に講義、午後からは病院で診察・治療と精力的に働き、老人を優先したと云われ、金沢医学界の発祥に寄与しています。5年の任期で帰国していますが、大正9年(1920年)滞在中の玉泉丸の御貸家で生まれた長男がオランダ・南洋インド艦隊司令長官として神戸に来航、金沢に来訪して古跡を巡り大歓迎を受けたそうです。
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旧第六旅団司令部 数寄屋敷跡に建つ明治期の建物。明治31年(1898年)建造。木造平屋建て。日露戦争前に創設されたもので、旅団は師団の管轄下で通常2~3旅団が置かれていました。旅団は歩兵連隊の精鋭部隊ですが中間管理職的立場でした。金沢の第九師団には金沢に第六旅団(歩兵第七連隊・歩兵第35連隊編成)・福井敦賀に第十八旅団(歩兵第19連隊・歩兵36連隊編成)がありました。
金沢大学時代は教育開放センターとして使用されていました
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スロイス屋敷がその後どうなったかは不明ですが、明治10年(1877年)鼠多橋が老朽化で撤去。金沢城とは別区画になった明治13年には園内の景石が撤去されて兼六園の明治記念之標の土台石に。明治14年駐屯中の陸軍歩兵第7連隊(後の第六旅団、第九師団)の火の不始末で二の丸御殿を含む金沢城内のほとんどを焼失、鼠多門は火災を免れましたが倉庫として利用されるように、この辺りから庭園は破壊されてきたようで、明治17年に火災で鼠多門が焼失してしまい、大正に入る頃には泉水池は埋め立てられ露天の馬場として練兵訓練場となって見る影もない広場となって戦後を迎えます。

戦後は進駐軍の駐屯があったりしましたが、昭和30年(1955年)県スポーツセンター玉泉院丸内に竣工、昭和40年(1965年)スポーツセンターに変わって県立体育館・武道館が竣工。昭和40年代まだ小学生だった頃、正月に県内の柔道教室の集まった寒稽古で行った記憶があります(床暖で畳が温かかった)。うろ覚えですがお堀通りの現合同庁舎前の交差点から石垣を断ち割った道路で登った先に体育館と武道館が並んであり、建物以外は石垣に囲まれた広い更地という感じでした。昭和53年(1978年)に武道館が小坂町に移転、平成20年(2008年)に県立体育館が取り壊されて、稚日野町北(わかひのまちきた)のいしかわ総合スポーツセンターに移転で、跡地の発掘調査が行われて復元・再現の可能性が出て、翌年に検討委員会が発足、平成27年(2015年)に玉泉丸庭園と玉泉庵が完成しています。

復元に当たっては、発掘調査での遺構の地形と玉泉院丸庭園の最終形態と云える嘉永3年(1850年)「御城分間御絵図(前田育徳会所蔵)」を根拠として再現されています。排水及び以降の保護のために本来の遺構から2m嵩上げの盛り土と防水シートで保護して、その上部に泉水を再現しています。それでも石垣上と泉水部の高低差は最大22mを確保しています。泉水の水源は往古は辰巳用水・宮守堀でしたが、復元には共に水量が足らず宮守堀に深井戸からの補給水も使用しています。
植栽なども松の低木を使用して四季の景観の為に桜・紅葉を増やしています。このような多少の変更点はありますが、藩主のプライベート空間を堪能できる庭園美を再現しています。
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庭園に面する石垣の上がいもり坂の道になります
旅行会社などの東山茶屋街や21世紀美術館がメインの為に観光の導線は兼六園方向からということで、玉泉院丸庭園まで足を延ばせない人が多かったのですが、鼠多門と橋の完成によって金沢城の新しい入口として期待されています。近江町市場・長町武家屋敷を見られたら尾山神社の神門を潜って神社を通り抜けてみてください。。金沢城の違った一面が見られます。
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旅行日 2020.07.27







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この記事へのコメント

  • tor

    前回もコメントしましたが
    金沢城公園整備されましたね。
    玉泉院丸庭園の借景の石垣
    前回少し紹介されてましたが
    こちらなのですね。
    垂直に立ち上がった石垣は
    防御にも強そうですね。
    現代の石垣風でしょうか。
    熊本城の武者がえしを見慣れているので
    新鮮な感じがします。
    2020年08月26日 19:26
  • つとつと

    torさん
    熊本城のような武者返しのような弓のような反りはありませんが、江戸期に入ってからの石垣で事前に接合面を合わせた切石積で隙間のない一番近代的な石組です。金沢城内は戦国後期から江戸期と長期間にに組まれた石垣で色々な石垣があって、荒石積みから切石積、表面加工まで石垣の博物館と呼ばれるほどです。
    陸軍・金沢大学の構内で内部は非公開状態でしたから、城内全域を廻れるようになってこうした復元遺構も観られて、興味は尽きないですが、とにかく広いので、のんびり回ると一日では足りませんねえ^^;
    2020年08月27日 09:53
  • がにちゃん

    素晴らしい石垣ですね 綺麗です
    金沢城 完全復元されたら 素晴らしいお城でしょうね
    いつかしてほしいですね(生きてないかもぉ~(>_<))
    松(芳春院)さんは、この時代に長生きされていますね
    寧々さんも長生きされていられたように思っていますが
    若かりし頃 仲の良かったお二人
    今の時代なら ずぅ~っと仲良しで頻繁に交流されたでしょうね
    京都の大徳寺にある芳春院も素晴らしい建築物です
    そして 高台寺も 圓徳院も素晴らしいです
    玉泉院 是非行かなくてはと・・・益々思ってます
    好きな建物の一つです
    2020年08月27日 16:37
  • つとつと

    がにちゃんさん
    年初、県知事がぶち上げたのが二の丸御殿の復元。発掘調査も開始されてますが、文内にも書きましたが二の丸の広さは4000坪。その内、3800坪が御殿の建物^^;内装や装飾もあるから到底無理。。で、政庁の表向きだけでもで、それでも1000坪。。
    金沢城の完成は半世紀・一世紀では難しいですから、僕も生きてないでしょうね^^;でも順次完成部から公開するようで、少しでも見たいと思ってます。でも城内めぐるだけでも結構面白い発見が多いですよ^^
    寧々さんと松さんは本当に仲が良かったようですね。お隣同士で味噌米の貸し借りだけでなく、娘を養女に三人も出していますからね^^
    松が江戸に行ってからはなかなか会えなかったようですが、金沢に戻る数年前に再会していたようです。豪姫が金沢に戻る前までは寧々さんが保護してましてから、金沢で娘からいっぱい話を聞いたんでしょう^^
    円徳院庭園に倣って作られた芳春院庭園、画像では見てるんですが、まだ未訪、僕も一度は見てみたいです。小堀遠州に依頼したと云いますから、もしかしたら玉泉院庭園と同じく賢庭が係わっていたかも
    2020年08月27日 19:20
  • y&m

    この石垣は本当に見事ですねぇ。
    時間の経過と共に、更に美しさが増すんでしょうね。
    このセンスは17世紀のものじゃないみたいです。(^^♪
    2020年08月28日 13:56
  • 藍上雄

    石垣が綺麗に積まれていて、コンクリートに石のタイルを張り付けたかの様な出来映えですね。こうして、石を擦り合わせて積むのは大変な技術と労力必要でしょうね。色とりどりの石が積まれているので、モダンな印象も有ります。綺麗ですね。
    二の丸西外殻の高石垣、これも見事です、通路に対して面を作っている辺り、とても洒落ていますね。この階段は昔からの物なのですか?
    お城が一度、軍によって壊されているのが、とても残念です。
    2020年08月28日 18:09
  • つとつと

    y&mさん
    色紙短冊積の発祥は利常の築いた小松城天守台が創始だと思われます。小松城はまともに残っているのは天守台の石垣だけですが、初めて見た時は幾何学の様に違った石を組み合わせた彩色には眼を見張りました。金沢城の方には黒石の坪野石が使われて更に雰囲気が面白いですし、石垣から水を落とすという発想も画期的で、利常や綱紀の趣味はなかなかのものだったようです。
    2020年08月29日 09:57
  • つとつと

    藍上雄さん
    色紙短冊積石垣は切り込みハギと呼ばれる石の接合面を整形して積み上げる石垣で江戸期初期以降の石垣に観られるもので強度と密着性と美しさが魅力です。欠点は隙間が無くて水の逃げ道がないので排水溝を設置する必要があることですかね。金沢城では三種の石を使用して配色していますが、黒の坪野石を使用したのには驚きました。今は産出してなくてとんでもない山間の石なんですよ@@
    石垣に色を変えて配色したのは利常が小松城天守石垣が創始で、綱紀がそれに倣ったようです。国内ではこの二つしか見られないようです。守備より見せる石垣ですねえ^^
    高石垣の道の階段は木道になっていますが、さすがにこれは地盤の保護のために設置されたようです。元は山道のような道でした^^;
    明治に軍隊によって庭園は埋められたりしましたが、城内はそのまま使用されていたんですが、火の不始末で火災が発生して建物がほぼ全滅><;悔やんでも悔やみきれない出来事。。
    2020年08月29日 11:49
  • ミクミティ

    色紙短冊積石垣、本当に素晴らしいですね。これを見る為だけでも、玉泉院丸庭園に訪れる価値があると思います。
    更に、様々なタイプの石垣が金沢城にはあって、まさに石垣の展覧会のよう。じっくりと時間をかけて味わないと勿体ないですね。
    それも、前田利常が気概を持って進めた文化振興が一端となっているのですね。
    庭園の説明で、前田家代々の一大ストーリーが展開されているのが、さすがですね。
    2020年08月30日 09:50
  • つとつと

    ミクミティさん
    やはり金沢城の魅力は多種多様の石垣が魅力ですねえ^^その中でも色紙短冊積石垣は復元されたとはいえ、その秀逸さにはほれぼれします。小松城の天守台は今は寂しく野原にあるだけですが、そちらも機会があったら立ち寄ってみてください。お手本になったのがよく解ります。
    金沢城はほんの十数年前までは金沢大学のキャンパスで気軽に城内を歩けませんでしたが、今はけっこう自由に廻って歩けます。石垣を見て歩くだけでも面白いです^^
    2020年08月30日 11:43
  • イータン

    こんにちは〜
    二の丸南垣・三十間長屋来北石垣の堀跡・中央の極楽橋
    いずれにしても風情抜群ですね
    極楽橋渡ってみたいです
    いろんな石垣 特に数寄屋橋石垣は素晴らしく思いました。
    以前 宮崎の飫肥城を訪れた時の飫肥城の石垣にも魅了されたものです。
    そうそう
    関東への旅 気をつけていらして下さい。
    2020年08月31日 13:27
  • つとつと

    イータンさん
    金沢城内は金沢大学のキャンパスがあったために城址公園として城内を自由に歩けるようになったのが20年たたないので金沢市民でも城内を全部見たことある人は少ないと思います。復元整備が進められていますが、昔のままの数寄屋敷の辺りなどは観光客もほとんどいなくて雰囲気の良い所です。
    石垣の博物館と呼ばれるほど多種多様の石垣で、自分の好きな石垣に出会えると思います。
    飫肥城はお城も良いですが、城下町がまた素晴らしいと聞いています。画像で観ただけでも城の城門に続く石垣の通りは美しいですねえ^^
    九州で一番最初に飫肥城下町が重要伝統的建造物群保存地区に選ばれるほどの美しさと聞いていて一度は行ってみたいところの一つです。
    2020年08月31日 20:39
  • yasuhiko

    玉泉院丸庭園の石垣、言葉を失うほど
    素晴らしいですね。五色の石を短冊のように
    使い分けるという美的センスに脱帽です。
    そもそも石垣を庭園の借景にするという発想が
    大胆ですけど、庭園に武家らしさを演出する一方で、
    あくまで文化的な遊びに徹しているのもいいなと思いました。
    出来るならば、水の流れ落ちる姿も見たいものですが、
    現状ではその仕掛けは難しいんでしょうね。
    2020年09月05日 14:01
  • つとつと

    yasuhikoさん
    種類の違う石の大小と色を組み合わせるという発想は、利常が築いた小松城の石垣が創始ですが、それを模範に5代綱紀が玉泉院丸の借景に使ったようです。当時は近くまで水路を配して、船で石垣沿いを拝観することもできたようです。
    金沢は江戸や京都の技術文化を取り入れていますが、城下町のほとんどが一部商家を除けば、ほとんどが武家の屋敷地でまさに武家の町ですから、京都の貴族・寺社文化、江戸の町民文化とはまた違った武家文化が花開いたのですが、利常のこういった発想が原点なんでしょうね。
    滝落ちがあればいうことなしなんですが、現在の地形では水道管を引いて排水も考えねばならないですから、ちょっと難しいようです。さすがにそこまでは味気なく、技術的にも難しいようです。
    2020年09月06日 02:41

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