金沢城② 極楽橋~三十間長屋

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二の丸御殿跡から本丸付け段 
左端がニの丸と本丸を繋ぐ極楽橋、右上に見えるのが三十間長屋
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極楽橋 尾山御坊時代の施設で唯一名を遺すと云われています。現在の極楽橋は平成3年(1991年)に改修工事をされたアーチ橋です。冬場には筵が敷かれ歩行者の滑止となっています。
DSC_7424.JPGDSC_7423.JPG極楽橋 本丸付け段の石段から、観光客の多い日でもこの辺りは意外に人が少なく静かな場所です。
二の丸御殿の御居間廻と奥向の境(台所)から南に極楽橋があります。極楽橋は切通(涸堀)を渡る橋ですが、加賀藩以前の尾山御坊時代から存在した名だと伝えられています。加賀一向宗の本拠・尾山御坊(金沢御堂)は現在の金沢城内に存在したと云われていますが、天正8年(1580年)に柴田勝家が攻略し、城主として佐久間盛政が入城しています。佐久間盛政は尾山御坊の施設を御堂及び周辺を徹底的に破壊し、名前さえも消し去って、加賀一向宗を排除して金沢城を築いています。このために、金沢御堂の所在地も不明状態になっていました。涸堀の発掘で極楽橋下に一向宗時代の遺構があることが発見され、城の形態の研究からも、、現在の金沢城の本丸から御宮広場・藤右衛門丸(北の丸)にかけての金沢城西側が尾山御坊の城塁になると推測されてきています。しかし石川門橋には一向宗時代から御坊の土橋があったといわれ、正式な位置は不明です。
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涸れ堀(かれほり) 極楽橋上から、上が西方向(玉泉院丸・いもり坂)、右:東方向(橋爪御門)、右が本丸石垣上に長屋、左の石垣上には門まで土居が積まれていました。
極楽橋は東西を見通せるようになっており、尾山御坊時代、本丸にあった御堂に参拝する民衆・坊官は毎朝、朝日を浴びながら極楽橋を念仏を唱えながら渡り、夕方には西の日本海に沈む夕陽を見ながら極楽浄土を願ったと云われています。
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金沢城石垣図    尾山御坊・佐久間時代の金沢城    前田利家時代尾山城改修部    前田利長改修範囲(いずれも推定・想像図です。)金沢城が全焼した寛永の大火後に城内の家臣団を城外に出し、政庁を本丸から拡張した二の丸に移し、現在の縄張りに大改修したのが3代・前田利常になります。

金沢城(尾山城)の創始は前述のように尾山御坊(金沢御堂)になります。これまでは尾山御坊を徹底的に破壊した佐久間盛政金沢城を一から築城したと伝えられてきました。しかしその後の資料研究や実地調査によって、佐久間盛政は尾山御坊の建物や施設は徹底的に破壊したものの、御坊の地形をそのまま利用して金沢城の施設を建てただけだとする方向に進んでいます。石垣などの防御や拡張は前田利家の金沢入城以降で、前田利家は京都・大坂にほとんど滞在していましたから、工事監督は当初の前田利長、京都から派遣された篠原一孝などに任されていました。慶長の危機における前田利長・篠原一孝・高山右近縄張り、寛永の大火後の再整備の前田利常と三代をかけて石垣や拡張がおこなれて来たといえます。
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ちなみに以前に尾山御坊時代の名を遺すのはここだけとしていましたが、もう一つあることを忘れていました。それが甚右衛門坂になります。現在は、尾崎神社と丸の内園地の間から金沢城内に登る坂道になります。金沢城関係者の通用口になっていて御宮広場横に登るようになっています。残念ながら現在はガードマンが立っていてゲートによって通行止になっています。尾山御坊本丸にあったとすれば、尾山御坊時代の大手門・大手道口になっていたと思われます。佐久間盛政の時代にもすぐ側の西町口(黒門)が大手道になっており、御堂を破壊し尽くしたものの、地形はそのまま利用していたようです。
甚右衛門坂 (石柱標識) 天正八年佐久間盛政の攻撃を受けたとき,本願寺方の浪士,平野甚右衛門が奮戦,討死した坂なのでこの名がついた。 昭和五十五年三月  金沢市

甚右衛門坂 (加賀郷土辞嚢) 金澤城西北隅の入口なる坂路をいふ。古へ美濃の浪士平野甚右衛門が金澤御坊に寄宿して居たが、天正八年佐久間盛政に攻められ、この坂で戦死したとも、又一説には、前田利長の頃この坂の上に禄二百石を受けた篠塚甚右衛門が居り、後乞骸して奥州に去ったともいひ、その名称の起る所以明らかでない。
補足:天正八年(1580年) 乞骸(きつがい):辞職を願い出ること。「―の書を置く」と同意

甚右衛門坂門 (加賀郷土辞嚢) 金澤城甚右衛門坂口の城門で、時鐘楼の傍に在り、足軽番所が置かれであつた。寶永頃の達書に『甚右衛門坂御門際まで乗物・乗馬にて、而罷出人々有之、向後 坂下に而 下馬 下乗有之様、諸頭中へ可申談 。』とある。
補足:寶永(宝永、1704年~1711年) 達書:御触書と同意。お達しとお触れがあった。 金沢城の玄関門とされた河北・石川門から20間先(36m)に下乗所があったのですが、二の丸御殿まではまだまだ残りの距離がありました。甚右衛門坂は斜度(距離100メートル)はあるものの、二の丸裏門まですぐなので、上司と連れが乗馬・乗籠で門まで来てしまう不心得者がいたことを示しています。

平野甚右衛門 (加賀郷土辞嚢) 美濃の浪士。金沢御坊に寄宿して腐たが、天正八年佐久間盛政の攻撃を受けた時、坂中にて数度奮戦して討死した。因ってその地を甚右衛門坂といふと伝える。この甚右衛門坂に就いては異説もあるが、不破彦三直光に仕へた不破斎宮が、平野茜右衛門の弟であるといふから、甚右衛門は実在した人物に相違あるまい。天正四年石川郡鷹巣城主であった平野甚右衛門も亦同人であらうといふ。
補足:不破彦三直光は府中三人衆(不破光治・前田利家・佐々成政)の一人・不破光治の嫡子。賤ケ岳では佐久間盛政軍に属して奮戦、戦後23000石で前田利家に仕えています。対佐々戦では末森城救援の先陣、松根城に対する増山城主として活躍しています。近江町市場の斜め向かいの彦三町は不破彦三家の屋敷地から由来しています。不破斎宮(いつき)は、前半生の姓名不詳、直光に仕えてから姓を与えられ不破斎宮を名乗っています。斎宮の子・光永は不破大学家を起こして、前田利家、不破彦三家双方に仕えています。鷹巣城は犀川上流(現金沢市西市瀬町)の辰巳用水取水口近くの小山にある山城です(空堀と土塁残)、尾山御坊陥落後に佐久間盛政の家臣が入っています。

甚右衛門坂は柴田勝家による尾山御坊攻略時に一向宗側としてこの坂道で奮戦、討死したという人物の名がつけられています。その奮戦は織田軍にも強い印象を残したようで、坂の名として佐久間・前田時代と受け継がれています。ちょっと横道に逸れてしまいますが、甚右衛門は戦国マニアにはちょっと知られた、そして謎の人物にもなります。
江戸初期には坂の近くに高山右近邸(現大谷廟所)があり、坂の入口には伴天連屋敷が建てられ、宣教師や内藤ジョアンなどが出入りしていたそうです。今回は画像がありませんが、またの機会に。。
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本丸南面の森 尾山御坊の御堂があったとされる第一候補がこの地点。金沢城内の中で一番自然が溢れるのが、本丸から東の丸にかけての森になります。加賀藩では寛永までは本丸を使用していましたが、二の丸に政庁や御殿を移したために、本丸・東の丸は武器庫や兵糧倉が置かれた程度で、ほとんど手付かずの状態になったと云われています。現代でも多種な樹木と1500以上と云われる動物や昆虫類が生息していると云われます。昭和期はウサギやリスが多く、平成の1.2年位はなんと熊までいました。現在は狸がお殿様のようです。また夕方を過ぎると市街地の烏が帰って来て賑やかです。
甚右衛門とは平野甚右衛門のこと。諱名は不明です。ちょっぽり甚右衛門・津島小法師といえば、織田信長・上杉謙信・景勝ファンの中には知っている方が何人か出て来るかも。。

平野甚右衛門は津島湊(現愛知県津島市)の豪商族出身と云われています。津島湊は往時(鎌倉期以降)には天王川舟運で栄えた川湊で、往時には川幅300mの橋が架けられ交通の要衝として栄え、戦国期には一種の自治都市だったと云われています。ここに織田弾正忠家の織田信定(信貞)が進出して支配下に置き自治権を認めるとともに、大きな財源として尾張国内の地位を高め、子の信秀の尾張での勢力拡大、孫・信長の尾張統一・天下布武の勢力拡大の原動力になっていました。平野甚右衛門はこの津島に屋敷を構えていたことが解っており、稲生の戦いで兄が討死していることから信長の初期には仕官していたと見られています(数年前に放映された歴史ヒストリアでは仕官を直訴したとされています。)。

家臣にあだ名をつけることで知られる織田信長平野甚右衛門に付けたあだ名「ちょっぽり、津島小法師」になります。甚右衛門は背が非常に低く、尾張弁で小さいというちょっぽり(ちょっぴり)、津島出身でたぶん同じ意味と負けず嫌いを含めて起き上がりこぼしから津島小法師としたと思われます。
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本丸付段から本丸への遊歩道
甚右衛門は小柄ながら無手勝流で自分本位な面が強く、当時、犬槍と蔑まれた槍を相手に投げるというのを得意にして、槍を手放した後の手裏剣術も独自に工夫していたと云います。とはいえ、猛者揃いの家臣団の中でも武芸に優れ信長の馬廻衆(赤母衣衆)に抜擢され、金松覚書には「前田・佐々を抑え一番の侍」と記されているそうです。つまり信長馬廻りの武芸番付のトップだったわけです。とはいえ武家事紀では「匹夫ノ魁殿ヲトクル勇士」ともあるそうです。猪武者が禍して長篠の合戦で軍律違反をとがめられ改易放逐を受けています。
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本丸から東の丸への遊歩道
赤母衣衆だった前田利家(四男)・佐脇良之(五男)兄弟なども同じ目に遭っていますが、利家は桶狭間後で復帰していますが、良之は徳川家康を頼って従軍し、三方ヶ原で討死しています。
ちなみに佐脇良之は織田信長から兄・前田利家よりもある意味で期待された人材で、信長が清州城時代には小姓衆として岩室重休・長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎と共に桶狭間に向かって飛び出した信長に付き従った最初の5人となり、永禄12年(1569年)伊勢・大河内城攻めでも信長の側近衆((尺限廻番衆(さくきわまわり)として前述の長谷川・山口・加藤(岩室は桶狭間翌年に討死)らと努めています。
ところが理由は不明ながら、その後に三人と共に信長の不興を受けて放逐され、徳川家康を頼り従軍、三方ヶ原で全員討死しています。尺限廻番衆はただの側近衆ではなく、信長の替りに書や印を発給する権限も持っていました。信長の元では多くの家臣や側近が、謹慎・改易・放逐の処分を受けているのですが、その多くは前田利家のように殊勲や功績を挙げて復帰するものも多くいました。彼らも信長への帰参を考えて盟友の徳川家康に頼ったのだと思われます。

ところが、改易・放逐された平野甚右衛門は余程、信長を恨んだようで見返すように、敵対する加賀一向一揆に一部将として参加。一向宗では越中戦役などで活躍して地位を挙げ、天正4年(1576年)には鷹巣城主として名が挙がり、尾山御坊の大手口(甚右衛門坂)では御坊内寺の広済寺(現金沢市扇町)・本源寺(尾山御坊の本元・現本願寺金沢別院)勢力を指揮して佐久間軍を三度も押し返す奮戦。その奮戦は後世に名を遺すほど印象的だったようで、金沢では平野甚右衛門もここで討ち死にしたと伝えられ、坂の名もいつしか甚右衛門坂と語り継がれてきました。
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現在の金沢城の城主様・狸君 ピンボケで申し訳ありません。観光客に慣れているのか食事に夢中、本丸傍の木の洞が巣のようです。
しかし、平野甚右衛門はしっかり生き残っていました。時期は不明ながら、織田信長の敵対勢力の越後上杉家に仕官しています。上杉軍への従軍活躍の記述もあり上杉謙信時代とも云いますが、越後ではちょっとは名の通った存在、そうなると金沢城との重なりが出来てしまいます。本願寺と謙信が和睦していたこともあり、加賀失陥後には多くの真宗武将が越後に流入していたのは確かでその頃に移ったと思われます。
上杉謙信死後の御盾の乱では上杉景虎方に加わり、鮫が尾城で討死という話もありますが、上杉景勝に許されて家臣団で活躍したと云われ、その関係で前述の手裏剣術を後藤家に伝授したと伝わります。
更に伝承は続いて上杉景勝と豊臣秀吉の和睦後には豊臣秀吉配下の御側衆に移り、引退後は商人となって大阪で水飴を考案して、元和年中に江戸浅草で千歳飴を考案して販売したとも伝わっています。どこまでが真実かは不明ですが、ひたすら一匹狼の武将と名をなし、千歳飴の考案者と全く違った道にも名が出てくる人物です。
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三十間長屋 北面(二の丸御殿から)
大きく横道に逸れてしまいました。極楽橋を渡って本丸への付け段にあるのが三十間長屋
金沢城内の建物は明治14年(1881年)の陸軍の火の不始末によってほとんどが全焼していますが、類焼を免れた建物が三カ所あります。石川門8棟(天明8年(1788年)築)・鶴丸倉庫(嘉永元年(1848年))そして三十間長屋(安政5年(1858年))になります。いずれも城周りの建物で国重文になります。昔から公園の表門としての石川門を除けば、城内の端になることと、五十間長屋が復元されて、ますます三十間長屋や鶴丸倉庫は人が訪れないですが、貴重な存在になります。
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三十間長屋は一般的には多門櫓と呼ばれる長屋造りの櫓になります。創始的には守備側が高所の犬走や走り矢倉が発展したものと思われます。
多門櫓の創始は松永久秀が築いた多聞山城に用いたのが始まりになります。名前に関しては松永久秀の多聞山城と、楠木正成が千早城や赤坂城の櫓に自分の幼名(多聞丸)に因む多聞天を祀ったところからの二説があるそうです。
多くの城では多門櫓の名称を使っていますが、熊本城の十四間櫓や十八間北櫓のような長さ表示名の違った読み方もあります。金沢城も長さと長屋名で三十間長屋という呼び名になります。金沢城内には近年再建された五十間長屋も含め、14の長屋が張り巡らされていたと伝わります。
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三十間長屋の創始がいつなのかははっきりとはしません。現在の三十間長屋は安政5年(1858年)に再建されたものですが、先代の三十間長屋は宝暦9年(1759年)の宝暦の大火で全焼し、土台の石垣が100年近く放置されていたと云われています。三十間長屋の下位置になるいもり坂を歩くと石垣に白い付着物が目に付きますが、宝暦の大火時に焼けて溶け落ちた三十間長屋の鉛瓦の付着になります。
長屋は戦時は守備側戦闘の防御施設として兵士が走り回る構造ですが、平時は倉庫として使用されていたと云われます。記録上では宝暦までの長屋には干飯や食器類が納められていたと云われ、後期には鉄砲蔵と云われて兵器や弾薬倉庫となっていたようです。金沢大学時代には日の当たらぬ倉庫的な構造から図書館として利用されていました。年に一二度内部公開が為されています。

寛永の大火(寛永8年(1631年))で前田利常が本丸の戌亥櫓や本丸・東の丸の殿様御殿を放棄したわけですが、、寛永の大火は金沢城南西の宝船寺門前の放火から、南西の強風で燃え広がって、金沢城を含む市街地の殆どを焼いたものです。この時、金沢城の類焼の最大要因が薪の丸の燃料庫、本丸台所から弾薬庫に燃え広がって大爆発を引き起こしたと云われ、爆風によって吹き飛ばされた数人の遺体が三階櫓の戌亥櫓の屋根に引っ掛かった悲惨な惨状だったと伝わります。当時は城内で火薬を製造していたとはいえ、火薬の保管庫の弾薬庫はこの三十間長屋だったのではないかと推測されています。
寛永の大火後に、防御地として本丸の建物群のいくつかは再建されたものの、本丸が政庁としては放棄されたために整備の手が入らず、雑木林が森となって、建物群の多くは倉庫や貯蔵庫となって、消えて行ったようです。
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玉泉院丸からは東の借景となっており、倉庫としては本丸御殿からは鉄門からすぐ正面を向いています。正式には玉泉院丸側が正面になり、本丸側が裏面になります。但し出入り口は本丸側のみで東西に二か所配しています。正面には基礎土台の上に出窓が三カ所。中央は入母屋造屋根の出窓、唐破風屋根の出窓が二窓があるのみです。今回は撮った画像が無かったのでまたの機会に。。

一世紀近く土台だけだった三十間長屋を造ったのは安政5年(1858年)13代前田斉泰、前回ご紹介した文化の浪費家・斉広の息子になります。彼も又建物や庭園趣味は一家言持っていた藩主で、金沢城内のみならず、正室・溶姫を迎えるにあたって江戸屋敷に豪華な現在の東京大学の赤門を建造したり、父・斉広の竹沢御殿は撤去したものの、跡地を兼六園として現在の姿に大改修しています。更には養母の真龍院を迎えるために巽御殿、息子に代を譲る際には金谷御殿を大増築しています。そんな彼ですから、玉泉院丸の改修と共に借景として、100年近く不要としていた三十間長屋も再建しています。江戸末期の大事な時に勘定方の反対を押し切って大出費を重ねています。一例としては金谷御殿増築では、勘定方の試算では5000両が限界と弾き出していましたが、そんなものは無視して借財してまで1万両をかけています。

そんな前田斉泰ですから防御目的の三十間長屋にも本来ならば必要ない入母屋・唐破風屋根の出窓、一階部に黒海鼠塀、二階腰部に軒瓦を設けただけでなく、石垣にも鶴目積を施しています。鶴目積は前回の切手門脇でも書きましたが、石垣の石の繋ぎ目に沿って鑿や鉋で鑿分の化粧を施し、石の表面は自然のままに残すという見せる積み方になります。意匠にこだわった造りになっています。
そこまで凝りながら幅は三間(5.4m)、長さは三十間と云いながら正確には二十六間半(約47.7m)となっています。足りない分は南側にあった続櫓を再建しなかったためで、おかげで両端の衣装が全く違います。なぜ再建しなかったかは不明ですが、延宝年間と云われる金沢城図では続櫓は元々は北側で南の櫓は別位置になっていますから、元をなぞったのかも。。
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鉄門跡石垣
左が本丸の鉄門の石垣、左端の凹みが鉄門になり、右は木々で見えないですが、左右に長屋が建てられていました。右の石垣は薪の丸や外縁部からの虎口用石垣になります。 ここにも火災時の鉛瓦が付着しています。
三十間長屋の南側に対する位置の石垣は強固な切石積になっています。案内板や通路に騙されて鉄門跡地が通路沿いと思う人が多いのですが、実際には三十間長屋の南端の正面に、金沢城内で一番頑丈な門と云われた鉄門が存在しました。鉄門の両石垣上に長屋が作られていたことから、往時は高さもあった本丸の正門だったと思われます。現在の本丸入口は通用口の林間を通って本丸跡に入るようになっています。

旅行日 2020.11.18

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この記事へのコメント

  • がにちゃん

    可なり広い金沢城
    石垣廻廊コースだけで1日掛かりそうですね
    つとつとさんのブログをしっかり読んで コロナ収束したら 
    金沢城へ 行くぞぉ~と思っています
    佐脇良之 あまり聞いた事の無い方です
    利家の弟さんなのですね
    現城主 おたぬき様
    貫禄ありそうですね(笑)
    2021年01月22日 18:16
  • tor

    雪は大丈夫でしたか?
    心配していました。

    「旅の手帳」2月号は金沢特集でした。
    ブログで拝見しているので、かなり既視感がありました。
    海鼠漆喰の「鼠多門」と同じような長屋ですね。
    こちらでは見かけないので
    とても斬新だと思います。
    平野甚右衛門
    また知識が増えました。
    2021年01月22日 19:17
  • ミクミティ

    金沢城の詳細なレポート、今回も興味深かったです。
    その土台は、一向宗時代の尾山御坊にあるのですね。それを徹底的に破壊し、新たな建造物を作ることが、政治的に大きな意味があったと思います。
    平野甚右衛門のことも知りませんでした。数奇な運命を辿って名を残している武将もいるのですね。ちょっと伝説的です。
    それにしても、三十間長屋は魅力的な建築ですね。13代前田斉泰は、金遣いが荒く、当時の家臣や領民には評判が悪かったかもしれませんが、今の観光地・金沢のベースを作ったといえるお殿様ですね。
    2021年01月22日 22:17
  • yasuhiko

    金沢城の石垣図が興味深く思われました。
    石垣の変遷は、そのまま金沢の歴史の変遷を
    視覚的に物語るようで、面白いものですね。
    皇居東御苑にも、富士見櫓と呼ばれる
    長屋倉庫があって、復元公開されてますが、この
    三十間長屋の姿は、その富士見櫓を思わせるものがあります。
    2021年01月23日 15:38
  • ゆらり人

    あっ!極楽橋だ!と思ったら金沢の極楽橋でした。
    私の方の高野山の最終駅の極楽橋かと勘違いしました。
    同じようないわれがあるのでしょうか。
    兼六園とは隣のようですね、今そこの夕顔亭の茶室の模型を作ろうと資料を集めていてふと気になりました。。
    それにしても広い敷地ですね、金沢は緊迫、金細工も多いですから財政的には潤っていたのでしょうかね何もかも豪華だし兼六園も茶室がたくさん集められそれぞれが裕福な気配が感じるのですが。
    夜には花灯篭に火が入るのですか。
    気興味深いです。
    2021年01月23日 20:35
  • アルクノ

    金沢城は過去に旅行で訪れた事があり、
    忘れていた様々が、これらの写真で蘇りました。
    極楽橋、ありました。
    涸れ堀は、水を抜いたのではなく、昔から水無し堀でしたか?
    三十軒長屋も印象深いですが、五十間長屋もあるそうで、
    長さを競っていたんでしょうか?^^;
    でも正確には二十六間半とか
    石垣回廊コース、また巡ってみたいです
    2021年01月24日 09:48
  • つとつと

    がにちゃんさん
    金沢城を真剣に石垣巡りをしようとすると、とても一日では回り切れないでしょうね^^;今度は是非、尾山神社側から入ってみてください^^
    若くして亡くなっていますから、佐脇良之は知らない人の方が多いと思います。大河で竹野内豊が演じて、やはり人気俳優が演じると違いますねえ^^;それで我が家では嫁さんがやっとこ理解していました。
    東の丸に向かって歩いていたら、道の真ん中でじっとこっちを見ていましたが、しばらくしたら飽きたみたいで、お食事に夢中になって無視されました^^;
    2021年01月24日 17:07
  • つとつと

    torさん
    ところ変われば品変わるで、多聞櫓もながかわって、金沢城では長さ+長屋になっています。熊本城では十四間櫓のように長さ櫓で変わった呼び名はこの二城が代表のようです。
    ちょっぽり腎右衛門、マイナーな武将で、信長初期に大活躍。その後は逆らい続けた男一匹の面白い人物です。
    2021年01月25日 17:21
  • 家ニスタ

    佐久間玄蕃、実は好きなのですよね。
    一般には猪突猛進型の武将として認知されていると思いますが、それだけではないかと。
    勝家自身、佐久間信盛や林通勝らの老臣が放逐されていく中、信長に北陸方面を任されているのですから、ただ者ではないと思います。
    その勝家に信任されていたのですから、玄蕃の能力はもっと高く評価されるべきだと思うのですよね。
    賤ヶ岳では秀吉が一枚上だったのは認めますが、相手が悪いですよね・・・。
    建物は破壊しても、地形まで改変するのはたいへんですから、もとの尾山御坊の地形を利用したのは十分ある得ることだと思います。
    2021年01月25日 22:56
  • つとつと

    ミクミティさん
    なんといっても加賀は一向宗門徒が人口の8割を占めたと云われています。新しい支配者として佐久間盛政や前田利家にとっては、そこで権威の象徴は消さねばならなかったと思います。金沢城を後世に残したのは佐久間盛政・前田利長・利常・綱紀が草創期と云えるのですが、加賀藩主の権威を盛り返そうとした前田斉広・斉泰親子は、歴史的には評価は厳しいですが、特有の武家文化の金沢を後世に残した功績は大きいと思います。
    金沢御堂は失ったものの、一向宗も浄土真宗として大きな基盤は整っていて、金沢を除く加賀・越中の多くを藩に替わって運営していた十村役の多くは一向宗指導者が多いことでも窺えます。
    2021年01月25日 23:30
  • つとつと

    ゆらり人さん
    そうそう、高野山の極楽橋駅が綺麗になって、極楽橋も塗り替えられたそうですね。高野山は真言宗なんですが、合わせて阿弥陀信仰も併設しているんです。真言宗の寺院に行くと、別個に阿弥陀堂を置いているところが多くあります。阿弥陀信仰も重要な一つだったわけで、赤の橋は黒(末法現世)から極楽浄土(赤、明るい未来)の境を表すそうです。金沢城の極楽橋も本来は赤い欄干橋だったと考えられています。一向宗(浄土真宗)は阿弥陀信仰から発展したもので、極楽往生を目指したもので、西方浄土を最終地にしています。
    利常や綱紀は、武力制覇を諦めた段階で文化や民度の口上を求めたようで、城内に細工所を造って、装飾には特に凝ったようです。
    兼六園や金沢城内は広くていいんですが、夜は真っ暗なためにライトアップやこういう花行灯や行われています。よるは幻想的ですが、本丸は何も見えなくて怖くて入れないですねえ^^;
    2021年01月26日 19:56
  • つとつと

    yasuhikoさん
    金沢城の石垣の詳細を書き残してくれた後藤家のおかげで、結構詳細が解ってきているんです。当初は石も安山岩や川原石でしたが、寛永頃から戸室石に替わって、河口を施したものが増えたようです。金沢城の工事後や江戸期に、城づくりの専門家が金沢城から大阪城や江戸城に移っていますから、江戸城の造りも金沢城の進化版になっているようです。
    2021年01月27日 10:19
  • つとつと

    アルクノさん
    寛永以前には地形的にも水を入れていた思われますが、寛永の大改修で本丸を放棄した時点で、二の丸拡張によって意味をなさないので抜いたのではないかと思われます。城内の石垣や土井の規模は大掛かりで見所の多い場所です。多門櫓は直線的な櫓で防衛の主目的です。金沢城内の各丸の防壁として櫓建物が張り巡らされていました。再建された五十間長屋などは本当に長いものです。本来は両端に物見や監視の続き櫓がある物なのですが、三十間長屋は玉泉院丸からの景観を考えたのか続き櫓を廃したので、まま干支本当の長さが変わってしまったようです。
    金沢城の石垣を巡ってみると本当に広いですねえ^^また機会があったら歩いてみてください。僕も、しばらく歩いていない白鳥路・尾坂門などの外堀をぐるっと歩いてみたいと思っています。
    2021年01月27日 14:50
  • つとつと

    家ニスタさん
    真宗が多い加賀なんで前田利家や織田信長を嫌う人も意外に多いんですが、佐久間盛政にはロマンスまで伝承があって破壊者・支配者としてのイメージが意外に薄いんです。滅亡してしまった影が薄いというのもあるんでしょうが。。僕も個人的には好きな武将です。賤ケ岳での敗戦で猪武者の印象がありますが、けっして無能ではありません^^ 難しい加賀をそれなりに支配統一しているし、能登で逆に苦労してる前田利家が天平寺攻めでは盛政が助けてもらっているんです。決断果断が真骨頂ですが、賤ケ岳も前田利家が彼を後詰していれば、それなりの戦果と進出を挙げられていたと思います。兵数の差では、あの作戦しかなかったと思います。賤ケ岳の利家のせいだと云って良いと思います。
    2021年01月27日 20:44
  • y&m

    つとつとさん 遅くなりましたが本年も宜しくです。
    当方、足の方は随分と楽に成りましたが、両手が
    その日暮らし?というか、イマイチ安定しませんで
    調子のよい時だけ、書かせてい頂きますのでご容赦下さいませ。(^^♪
    2021年01月29日 15:42
  • つとつと

    y&mさん
    良好に進んでいるようで、良かったですねえ^^やはり、お風呂の温熱療法が良い方向にむいたんでしょうか?
    まだまだ、冬の寒さで手足には良くないですが、少しずつ暖かくなってますます良い方向に向かうといいですねえ^^
    まだ外歩きは季節的にも、コロナ騒ぎで難しいでしょうが徐々に体慣らしも励まれて、是非快癒されることを願っています。まだまだ、歯がゆいでしょうが、お体と相談しながら体慣らしをしてください^^/
    2021年01月30日 15:32

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