金沢城 河北門 菱櫓

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延宝年間(1673~1681年)の金沢城図(下が北・上が南)
寛永の大火後、本丸・東丸から拡張した二の丸にある二の丸御殿の表向加賀藩の政庁になります。現在発掘・資料調査が行われ、次回の復元はここに決定しています。二の丸御殿表向に家臣団・使節が向かうのが尾坂口から新丸を経由する大手道、石川門橋を渡ってくるのが搦手道。この二筋の道が合流するのが三の丸の中心部で堀際を右に五十間長屋に見下ろされながら、渡し橋を渡って二の丸に至ります。
この間には多くの門がありますが、その中で枡形を設けた門(河北門・石川門・橋爪門)を、金沢三門と呼んでいます。この三門の内、河北門と石川門が金沢城内への正式な入口になっていました。橋爪門は政庁でもあり殿様御殿への式台門の役割を果たしていました。
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金沢城 河北門 一の御門 
石川門をご紹介した時にも書きましたが、河北門も石川門と同じく表門+枡形+櫓門の順で通行するもので、周囲を櫓・長屋・石垣で構成されています。この為に河北門の名もこれらの総称となります。

新丸が造成されて大手堀が外堀となったために、石垣下は第二の外堀兼内堀となっていました。明治の埋立でお堀通りやいもり堀という水源を失ったために荒れ地でしたが、発掘調査後に湿性池として往時の半分ほどですが湿性池として堀を復元しています。新丸側は往時の護岸を復元したそうです。
本来は二の丸は現在の三分の一にも満たない広さで北側の多くは三の丸でした。本来はこの石垣は三の丸下石垣だったわけです。3代藩主・前田利常が二の丸御殿増設のために二の丸を広げたために三の丸は西半分は二の丸に組み込まれています。二の丸を守るために二の丸の西面・北面に石垣と堀を新設して僅かに残った部分は通路兼高石垣上の防衛地になっています。更に新丸を増設して大手堀を増設しています。おかげで本来は低地続きのだだっ広い平地が三重の堀と距離を持つ強固なものに変わっています。

アップすると解りますが、北面の高石垣に作業の人が二人へばりついています。高度があることが解ります。作業員のお二人は石垣の強度調査を行っていたそうです。帰り道にちょこっと覗いたら高かったあ、調査も命がけですねえ^^;
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延宝年間金沢城図(1674年~) 地図は北が下・南が上・東が左・西が右になっています。黄色が長屋や御殿などの建築物、茶色は櫓になります。グレーが土蔵。紺は導水路。濃灰線は土塁・土居になります。黒点は井戸。
アップすると今回紹介した場所を書き込んでおきました。見ると解りますが、歩いてきたのはこれでも半分ほど。。広いですねえ^^;機会があったら、次回は白鳥堀・大手堀・新丸・北丸を。。。
金沢城図を見れば大手口に大手門がありながら、河北門を正門、石川門を搦手門としているように、金沢城は三の丸より南を本城として、玉泉院丸・金谷出丸(中後期は庭園・隠居所)といった西面、北面の新丸・北丸(同じく細工所・算用場、御宮広場・畑地)を出丸的存在とみていたようです。
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河北門 二の城門 左奥に観えるのが五十間長屋。左端の案内板が石川門からの通路との合流点で、三の丸広場を左に見ながら五十間長屋の手前を沿うように進むと、二の丸への渡し橋があります。二の城門右横の木組み櫓は城門の渡り櫓への登り口で、櫓内を見学できるようになっています。今回は密で退散。。
長々と書いてきた金沢城シリーズもやっと終了の回になりました。。よくぞこれだけ引っ張ったものです。我ながら。。
今回は金沢城の正門とされた河北門になります。石川門とは表裏の関係で、共に三の丸から二の丸への正面入り口の門となっていました。表門は北向きで、河北郡方向にむいていることからこの名を冠したようです。

河北門がいつ創始されたかは、はっきりしていません。前田利家の金沢入城時には河北門という名が既に存在していたことが窺われます。
史上最初に名が見られるのは、天正11年(1583年)金沢城入城を果たした前田利家は、翌年、佐々成政に末森城を急襲されますが、その際に末森城救援の軍を自ら率いて河北門から出撃したというもの。この際には現在の大手道はなく西丁口から一路、能登・越中の中継点の津幡城に向かったと云われています。このことから、佐久間盛政時代にはすでに簡易ながら河北門が存在したのではないかと推測されます。
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新丸広場 中央の道路が大手道になります。慶長期の造成後は兵の集合地として、重臣の屋敷が置かれていました。寛永の大火後の金沢城整備で屋敷地が城外に出ると、各役所や藩財政管理や文書管理を行う御算用場、細工所が設置され鎧甲冑、武器・武具の製造・修理の集積地としていました。その後は藩内外から技術者を集め藩士取立て、給金を発給し、様々な工芸品・装飾品などの研究・開発・製造を行い、加賀藩文化の発信源となっていました。加賀藩初中期、政務を司る重臣は二の丸御殿表向に、職分を持つ藩士の殆どはこの新丸広場に通勤し働いていたわけです。宝暦の大火後の再建はなされず、幕末までの約一世紀は広い敷地広場となっていました。算用場は北の丸城外地(尾崎神社周辺)に移り、役所関係や細工所は堂形(椎の木迎賓館周辺)に仮屋が置かれていました。

今年は中止されましたが、1月に毎年開催される金沢市消防出初式。金沢市消防局、金沢市各町消防団49団体1300人以上が参加し、百万石まつり以上の梯子が揃う加賀鳶、49団体の垂直一斉放水が見られる金沢市文化財になっている出初式もこの広場で行われます。
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河北門 一の御門 表門の形式は石川門と同じく高麗門となっていました。
正式に河北門が認識されたのは、前田利長が徳川との和戦双方に対するために、高山右近に縄張りを命じた頃に枡形門として現在の形態になったと思われます。この際に正式に河北門を正門としたと伝わっています。
篠原一孝が正門の石垣に用いる石材で、高山右近にクレームを入れたのもこの門に用いる石(大手口とも云われています)だと見られています。この河北門建造の際に大手口として大手堀を掘り、尾坂口(大手口)を建設、新丸の造成と共に大手道を整備しています。
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河北門 一の御門 二の城門脇から。。太鼓塀・表門・ニラミ台矢倉、奥に聳えるのは菱櫓。宝暦の大火まではニラミ台石垣上には二層の櫓が建てられていたそうです。新の丸から大手道は登坂になっており、高石垣に施された河北門は登攀者に威圧感を与える効果をもたらしています。
石垣の補修の記述はあるものの門自体は長く維持されていたようですが、宝暦9年(1759年)宝暦の大火で金沢城が全焼し、宝暦12年(1762年)には石川門に先駆けて石垣が補修されましたが、櫓などは再建できず10年後の安永元年(1772年)に渡り櫓などを再建完成しています。正面右側のニラミ櫓台には二層の櫓が建っていたのを廃し、土塀に出窓を取り付けるという簡素化で再建しているそうです。平成の再建復元では宝暦後の簡略化型を採用したそうです。
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金沢城北面高石垣 寛永期(1631年頃)の石垣とみられていますが、北面にあり金沢城でも一番風雨にさらされる石垣の為に苔むし、風化の激しい石垣です。この為に補修や点検が繰り返される石垣ですが、左から手前は寛政11年(1799年)補修の角石垣、中央上部は平成19年(2007年)河北門再建のために再生されたニラミ台石垣。同じ赤戸室石を使用していますが、年代で石垣の色が変わるのが解ります。
ちなみに、金沢城三門では宝暦12年(1762年)に橋爪門が最初に再建されています。優先度が橋爪門・河北門・石川門の順だったのが解ります。
不明なのが尾坂口(大手口)にあったであろう大手門の存在です。大手口の石垣は城内でも最大の石材が使用されており、三門と同じく枡形が施され、囲む櫓台も最大規模になります。ところが上記の絵図もですが、初中期の古絵図に櫓門や櫓の形跡が不鮮明にしか残されていません。
石垣や枡形から建造物の存在が窺われるのですが、いまだに橋爪門・河北門・石川門のような櫓門や櫓の存在の記録や絵図は確認されていません。城にとって城門は出入口であり、防御の最大関門で機密となり、他の城門や城戸もその姿の外観絵図、記録も限られたものなのが実情で、最大の謎になっています。記録も前述の再建や補修があったというくらいで、そもそも城門に関しては詳細記録が不足しています。
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河北門 西側外殻部 仕上げ段階 2010.03.14撮影
左石垣上には宝暦9年(1759年)までニラミ櫓が建っていました。安永元年(1772年)の再建では矢倉塀に出窓を設け、内側に門屋根を設ける簡略型になっています。右の土砂斜面と上部瓦屋根の土塀(石垣内蔵)は石垣と同高度で枡形を囲んでいます。
堅固さの面では橋爪門・石川門のように渡り櫓を配して、敵を囲い込むような威圧する堅固さは一歩譲ります。特に南面と西側は枡形を囲む土塀を配していて、櫓門ニラミ櫓台上からの枡形内外双方に二方向からの防衛攻撃を可能にしています。コの字攻撃の他の二門より見劣りを感じるかもしれません。
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河北門 一の城門 枡形内側 高麗門形式ですが重厚な造りです。
とはいえ、総延長30mに及ぶ枡形土塀はそれなりの高さを有していますし、金沢城内の数々の土塀の中で唯一の仕掛けが施されていました。外観は鉛瓦葺・白漆喰塗りといたって普通の土塀に見え、簡単に打ち破れると思えるのですが、それはまさに外観だけ。。実は中味は石垣積みになっています。要は外観は土塀ですが中身は石垣という代物。ついでに外側には守備側が登れるように斜面の土盛りで覆っています。実際には打ち破るどころではなく、石川門・橋爪門を上回る四方向防御を実現しています。
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河北門 二の城門 枡形内側 城門には鉄板や鉄鋲が施されて強化しています。右の一見変哲のない白漆喰土塀は、内部は丸石積みの石垣になっています。外側には土砂の斜面が施され、上部からの防衛行動を可能にしています。
安永元年(1772年)の再建以来、老朽や災害(寛政の大地震など)により補修が加えられながらも明治に入っても威容を誇っていました。明治14年(1881年)陸軍の火の不始末からの明治の大火で多くの金沢城の施設が焼失したのですが、僕もこの時の大火で河北門は焼失したと思っていました。実は河北門は焼失を免れ、大火からも残っていたそうです。城内整備のために河北門は翌年撤去されていたということです。もったいない話。。しかし、この撤去の際に礎石が残され建物の位置関係が判明したことと、明治の二の城門の外観の写真画像が残されていたことで、金沢城公園の五十間長屋・菱櫓に次ぐ再建着工が行われ、3年の歳月をかけて復元が果たされています。
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河北門 二の城門 出入口 渡り櫓の内部は木組みで内部は広い空間となって、兵士が走り回れるようになっています。
実を云うと僕は、金沢城公園は幾度か来ているんですが、端っこばかりで。。河北門はすっかりご無沙汰していました。最初に観たのは工事完成前の突貫工事の真最中、完成が遅れて関係者がやきもきしていたのを覚えています。河北門の裏側工事途中、戌亥櫓跡から撮った画像には橋爪門もなくて、今見るとなかなか貴重な画像です。 ⇒ 2010.03.14 金沢城 河北門
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河北門 二の城門・枡形仕上げ工事 2010.3.14撮影
関係者がやきもきしたように、工事が遅れたのにはその複雑な構造もありました。それまでにも五十間長屋や菱櫓の再建復元、石川門の補修などはあったものの、石垣から丸ごとの枡形門の製作には、試行錯誤と建設文書の研究で色々な苦労があったようです。金沢城公園のHPによれば、石垣工事では櫓門の石垣の切込み接ぎ(キリコミハギ)積では、積む際に石が欠けないように接合面は奥10㎝に設定、表には3㎜の隙間を設けるという精緻さ。木工事に使用された一の門や櫓その他などの木材は400㎥、木組み工法は石川門を参考にした伝統工法。櫓や土塀などの左官工事でも現場工程として「竹小舞掻き」「荒打」「大直し」「斑直し」「中塗り」「漆喰塗り」が五重の塗装が施されていますが、その塗装工程ごとに十分な乾燥が必要で、春から秋の長期間を要しています。そして金沢城の特徴ともいえる屋根瓦、実際には河北門では瓦状板を作製・さらに鉛板を合わせて板金加工で大工と板金の合作品を採用しています。。まさに試行錯誤と苦労の連続。。河北門での実績と技術の改善点が生かされ、更に高度で大掛かりの橋爪門は期間短縮で完成しています。 ⇒ 石川城公園HP・河北門
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左:平成22年3月 橋爪門 一の城門のみ
右:令和2年11月橋爪門枡形・二の城門復元後 
右奥に観えるのは石川門、河北門は続櫓の影
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金沢城 菱櫓 金沢城の二の丸内で一番高い建物。五十間長屋と繋がる続櫓になります。本丸の天守閣、本丸外郭の戌亥櫓を失った後は、天守閣のない金沢城にとっては、同型の石川門の石川櫓と共にシンボル的な存在になっています。
左に進むと橋爪門、右手に真っすぐ進むと数寄屋敷・北の丸の分岐点(切手門)になります。右手の道には両側、二の丸の石垣上と桜の木が植樹されていて、道と内堀を包み込む桜のトンネルの名所で、金沢城内屈指の桜の名所になっています。今年も素晴らしい花を咲かせていました。行きたかったな~~
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三の丸の中央北側で石川門からの搦手道と河北門の大手道が合流した後に、登城道を進むと最初に突き当たるのが三層三階の菱櫓になります。
名前の通り、五十間(約90m)に及ぶ国内最大の五十間長屋(多聞櫓)に繋がる続き櫓として、訪れたものに威圧感と美しさを誇っています。海鼠壁・白漆喰・鉛瓦の長屋との統一感を保ちながら、本来は防衛上、壁内に隠す隅柱を前面に出して黒く塗り、白漆喰・海鼠壁を際立たせています。また石落し鉄砲狭間を施した格子窓とは別に大きな千鳥破風を設けて美しさを強調しています。

高さ11.7m土台石垣高さ17mの三層三階の天守閣のようなを置いて、トータル30m近くに及ぶ高さで堅固さを強調しています。まさに巨大長大な壁の端に当たる菱櫓は、石川門の石川櫓(菱櫓)と共に金沢城守備の要であり、美しさのシンボルでもあるわけです。
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菱櫓 迫り出した格子窓には上部は鉄砲狭間、下部は穴あきで石落としになっています。
菱櫓の名称が示すように、よく見ないと解りづらいですが形状が菱形になっています。南北の長辺が少し長く、内角も北東部・南西部角が100度、北西部・南東部角は80度になっています。この為に構造的にも特徴的な技法で立てられています。櫓は長さ14m・幅33㎝の桧材四本の通し柱を主柱としていますが、その四本も同じ角度の菱形に加工されています。また100本に及ぶ横柱などの柱材も全て菱形に加工されています。当然ながら柱による空間も菱形になっています。内部の全てが菱形になっており、ここから菱櫓と名づけられています。

平成8年(1996年)石川県が国から金沢城を取得して、金沢城内の金沢大学が角間キャンパスに移転すると、金沢城公園として内堀や石垣の修復を始めとした公園化整備が進められます。更に石川県は百年後の国宝・世界遺産を目指すことを表明。文書・古絵図が比較的多い江戸期後半の金沢城復元を目指しています。
平成11年(1999年)金沢城の建築物として最初に復元着工を手掛けたのが、五十間長屋そして両翼となる続櫓(橋爪櫓)・菱櫓で、現代の金沢城、最初の復元建築として平成13年(2002年)に完成しています。
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金沢城 内堀 内堀は金沢城公園化とともに再建されたものです。内堀沿いの通路を歩くと堀越しに石垣が巡らされており、水と石垣の美しさを感じられます。
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内堀と三の丸を囲む石垣群 手前の窪んだ部分が菱櫓下石垣、櫓が菱形で斜めに立地していることが解ります。迫り出した部分が五十間長屋下の石垣で多聞櫓上から通路に対する監視・防御攻撃を優先しています。突き当りの櫓は五十間長屋・橋爪櫓門に接続する続櫓(橋爪櫓)。間に渡り橋と橋爪門一の城門を挟んで、横に伸びるのが鶴丸土塀と石垣になります。

内堀に面した石垣群は寛永8年(1631年)に組み上げられたもので、その後に何度か手を加えられているものの、三の丸側の石垣は激しい歪みが生じていました。その高低差は最大30㎝を超していたそうです。何度も浴びた大火の炎と経年劣化が原因とみられていました。金沢城公園HPによれば、不適切部分は1200㎡・総石数3766個に及び、五十間長屋・菱櫓再建時に不適切部分を一度取り崩し、再使用石3108個・新石638個を使用して同工法(打込みハギ積)で積み直しているそうです。また菱櫓北面下の石垣は切込みハギ積になっています。つまり東面と北面では積み方が変わっています。これは文化5年(1808年)の二の丸火災による火災被害で、石垣修復の際に西側の石垣に合わせて全面を揃えたためのようです。

ついでながら、内堀に沿った鶴丸土塀沿いの石垣は、明治に底部を除いて取り払われていました。この為に五十間長屋下の石垣を参考に上部の石垣を積み上げているそうです。水面下の石垣は寛永期のものになるそうですが、なかなか僕たちの眼には触れないそうです。
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二の丸下石垣(二の丸舞台下石垣) 二の丸下の内堀沿いの石垣も寛永8年(1631年)に築かれ、寛文8年(1668年)に修築されています。(一部(画像手前部分)文化5年(1808年)修築)
菱櫓から西に内堀に沿って築かれているのが、二の丸舞台下石垣と呼ばれています。
二の丸御殿は政庁として公務・公式行事の行われた表向、藩主が過ごした御居間廻、側室群や生母などが過ごした奥向に分けられていました。能楽・謡曲・狂言を振興していた加賀藩では、二の丸御殿内に2~3の能舞台が設置されていました。二の丸御殿を築いた3代利常・5代綱紀は御居間廻や奥向にも自分専用の能舞台を設けていたとも云われます。宝暦以降の二の丸内部をみると私的な能舞台は御居間廻と奥向きの境界に設けられています。そして公式行事に用いられる大型舞台の能舞台が置かれたのが、この石垣の上部だったと云われています。このためこの石垣の名称が「二の丸舞台下石垣」と呼ばれることになったと云われています。

舞台下石垣は石の大きさを切り揃え、石の向きも揃えて積み上げる寛永当時としては高度な積み方「半鶴目半切合積」で築かれています。金沢城の石垣修復の責任者ともいえる後藤家6代彦三郎は、石川門の枡形内の左右の石垣積みを変えていることを後藤家文書内で批判した辛口者ですが、逆に「金沢城内指折りの石垣」と褒め称えているのが、この舞台下石垣になります。

金沢城の石垣は様々な積み方で、石垣の博物館とも呼ばれています。また機会がありましたら、ご紹介したいと思います。
今回ご紹介できなかったもので、金沢城に来られたら捜して欲しいものには、土橋門にある金沢城唯一の亀甲石。金沢城最大の石を使った尾坂口。二の丸裏口門の真四角な石を積んだ四方切合積などは是非探してみてください。なかなか他の石垣では観られないものです。

旅行日 2020.11.18





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この記事へのコメント

  • tor

    広くて見どころ満載ですね。
    整備も続いているようで
    新たな観光地になりますね。
    じっくりと見てまわりたいです。
    ツアーで行くとどこを案内してくれるのでしょう。
    熊本城もツアーだと
    二の丸から宇土櫓を見ながら天守へ。
    時間があれば本丸御殿と城彩苑でお土産でしょうね。
    本日熊本城天守復旧工事完了で
    報道機関に内部公開されたようです。
    2021年04月06日 19:02
  • yasuhiko

    河北門の高石垣にへばりつくような二人の人物、
    どの写真にも写ってますね。強度の調査中ですか。
    まるでロッククライミングを思わせるような
    危険な作業にびっくりしました。
    逆に言うと、それだけ本来の役目を、古い石垣が
    今も忠実に果たしているという訳ですね。
    土塀に見せかけて、実際は石垣と同じという
    巧みな門の仕掛けにも驚きました。
    2021年04月06日 23:00
  • つとつと

    torさん
    さっきニュースを見ました。4/26に一般公開が始まるようですね。きっと多くの人が訪れるんでしょうね^^
    まだまだ完全復興には遠い道のりですが、まずはシンボルの大小天守が完成したのは、うれしい第一歩ですね。

    そうですねえ金沢城では石川門・河北門・橋爪門・五十間長屋がコースのようです。僕の様に本丸をツアーで回ることはないようです。それもあって、県も次の復興は二の丸御殿・表向と定めたようです。
    2021年04月07日 15:17
  • つとつと

    yasuhikoさん
    まったく、高石垣調査は、みていても、まさにロッククライミング@@ 石垣に関しては、金沢城では破損や崩壊記録、その修理記録が残されていて、古くから点検や補修は欠かさなかったようです。今も昔も長い期間、城を支えるには影の力がこうやって払われているんですねえ。
    見た目には他の土塀と変わらないんですが、河北門や菱櫓には再建者たちも見えない箇所にも、こだわっているところがたまらない魅力で、この建築群が将来、古風を持つ姿を後世に伝えてくれるのが魅力です。
    2021年04月07日 15:37
  • がにちゃん

    すべて完成したら どんなお城になるんだろう(ワクワク)
    私が生きているうちに 復元完了するのかなぁ
    又コロナが・・・早く収まって 観に行きたいものですわぁ
    2021年04月07日 17:31
  • y&m

    つとつとさん ご無沙汰してます。
    石垣の調査、高所恐怖症の私には無理ですねぇ。
    特にこの時期は石垣の穴の数だけ、蛇さんが暮らしている
    と思うと尚更です(笑)。

    2021年04月08日 00:27
  • つとつと

    がにちゃんさん
    今度は二の丸の御殿の政庁や公式行事の行われた表向が復元されるようです。まあ先はまだまだ遠くて、僕たちが生きてる間の完成は無理でしょうねえ^^;きっと、復元に凝り出したらきりのないほどの規模ですから。。
    本当に、マスクなしで心置きなくお出かけしたいもんです
    僕も近畿圏行きたいです。ここ2.3年大阪河内を狙ってたんですが、挫折状態ですから^^;
    2021年04月08日 10:50
  • つとつと

    y&mさん
    こちらこそ、すっかりご無沙汰しています。春はどうしても訪問が滞ってしまっています。コメント下さったということは体の方もだいぶ回復されたんですか。。また寄らさせていただきます。
    僕、意外と高い所を苦にしないんですが、上からのぞいたらやはり高かったです。一個ずつ見ていましたから一体どのくらいの時間や日が掛かるんだろうと思ってしまいます。
    たしかに、石垣には蛇がいたりしますねえ^^;僕も足のないのと以上に多いのは苦手ですTT
    金沢城の伝承には、蛇攻めなんていう話が幾つかあるから、いても全然おかしくないんですが、出来れば逢いたくないですね。
    2021年04月08日 10:56
  • ゆらり人

    良い角度から撮影されていますね。
    とても私にとっては参考になります。
    屋根の傾きなどは仰ぎ見る角度が多くてね。
    この金沢城はいつ見ても他と異なる様式や作り簡素で有りながら金はかかっているのが良く分かりますよ。
    見た目は金が掛かっていないようにように見え実は莫大な資材を使っての建築、他のお城は初見した時から豪華さを感じますがどこも同じ。
    豪華さを隠し本当の財力のあるお城ですね。
    そんな風に感じました。
    2021年04月11日 10:26
  • ミクミティ

    金沢城だけでこれだけの長編シリーズを書き上げられて、本当に感心してしまいます。ブログとしては壮大な記録ですね。本にしてもいいでしょう。
    今回は、河北門ですか。その見る角度によって、味わいや歴史を感じさせてくれますね。菱櫓も端正な姿がカッコいいです。
    金沢市は、金沢城を長期的に復元し江戸時代の姿に近づけようという意気込みがあるのがいいですね。将来的にも夢がありますね。
    2021年04月11日 14:17
  • つとつと

    ゆらり人さん
    ありがとうございます。ただ、肝心の新丸の大手道からの画像が無かったのが心残りなんですよ^^;まさに見上げた先に立ちはだかるという姿なんですが。。
    金沢城も遠目では白の目立つ城郭なんですが、近づくと石垣の種類の多さや裏面を見ると本当に贅沢な造りです。戦国の城ではなく、細かな仕組みを使って見せる城になっていると思います。次に作られる二の丸御殿はまさに芸術面が勝る造りで期待しています。
    2021年04月11日 15:41
  • つとつと

    ミクミティさん
    昨年の11月に行ったものをここまで引っ張ったんですから、我ながら良く書いたものと思います。それでも敷地にすると約半分、金沢城は歩いてみると本当に広いですねえ^^;
    石川県や金沢市の計画では、まだまだ復元は続くと思います。ただ、資料の多い幕末に合わせていますから、ブログに使った全盛期の姿にはならないようで、少し寂しい気もします。また機会があったら、北側の新丸や公園地化している白鳥堀などを廻ってみたいと思っています。
    独りだと寂しいので嫁さんを誘ってるんですが、まだ花粉が飛んでいると拒否権を発動されています。
    2021年04月11日 15:55
  • 家ニスタ

    高石垣の調査・・・僕には怖くて絶対できません。
    しかし、調査しないと修復もできないですからね。
    金沢城の復元はまだまだ続くのですね。
    個人的には、あまり復元しすぎてぴかぴかになってしまうのは、好きではないのですが・・・。
    まあ、ちゃんと考証にもとづいて復元されるのなら、良いですけれど。
    2021年05月03日 22:50
  • つとつと

    家ニスタさん
    高石垣は城の防御上も威圧感も花形ですが、上部の土壌や建物を支えます。この高石垣は北側で、金沢城内でも一番風を浴びる場所で消耗の激しい石垣です。やはり、こういった調査と補修は絶対条件ですね。。
    時代考証や文献の考証は、相当頑張っているようですが、一番難しいのが二の丸御殿のような内部装飾になりそうです。
    外部や部屋区割りは、図面はあるものの、内部装飾は文書ばかりで再現には相当苦労するのではないかと思われます。金沢城のような広すぎる城は、建物の再建がないと、ただのだだっ広い広場でしかないので多少の復元があった方がと僕は思っちゃいます。もちろん考証に基づいていないと意味がありません。個人的には全盛期の華やかで戦闘的な延元頃の再現がして欲しいのですが、資料面で幕末頃になってしまうようです。
    2021年05月04日 20:24

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