尾山神社④ 神苑

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神苑東側から 手前の飛び石が沢渡り、女性が渡っているのが八ッ橋、右手には水上に藤棚が配され、左手は琵琶島で奥に図月橋、図月橋の向こう岸は鳥兜島 
尾山神社の南面に広がるのが神苑になります。10年程前は神仙苑と呼んでいたのですが、今は神苑と統一したようです。別名は和楽器の庭
明治になって尾山神社が創建されると、それまで荒廃した庭園に大きく手を入れて整備し直しています。⇒ 2009.07.29 尾山神社 神仙苑
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上:西丘陵から 右:南丘陵から
神仙苑は元々は金谷御殿庭園となっていました。その創始ははっきりしませんが、以前までは池泉の存在と小堀遠州作と伝わったことから1620年頃と推定されていました。ただこの推定の問題点はまだ戦国の風が残った時代に出丸の地に御殿はまだなく、庭園だけを造るかという疑問が湧いてしまいます。18世紀初頭には庭園が作庭されたのは確かでしょうが、個人的には現在の泉水を配した庭園は前田斉泰が金谷御殿を大きく増築したころ文化15年(1844年)以降に整備したのではと思っています。
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辰巳用水導水管
現在の神苑の池水は地下水を利用していますが、金谷御殿庭園時代は金沢城から辰巳用水の水を通水していました。この通水には兼六園霞ヶ池から金沢城内に通水した方式と同じ逆サイフォンが採用されていました。文化15年(1844年)に導水管が木管から、庄川上流の金屋石の石管に変えられています。この時に泉水や滝が配されたと思われます。
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神苑 響遠瀑 水が勢いよく流されてる時もあるらしいんですが、僕は未体験、観られたらラッキー-かも
前述の金沢城からの導水管によって引き入れた水を滝から流れ落していました。その激しい水音から響遠瀑と呼ばれていました。今は導水管が断絶して、井戸から地下水を響遠瀑に流しているらしいんですが、この時もちょろちょろで静近坂。。

江戸時代は藩邸の書院庭園としての形式を踏襲していたと云われます。尾山神社創建後に神苑の泉水には中心に笙(しょう)島、背後に鳥兜(とりかぶと)島琵琶(びわ)島を配し、図月橋・琴橋・八ッ橋などが架けられ回遊式となり、背後の大木が茂る山が庭園の背景となっています。DSC_5702.JPG
DSC_5703.JPG上:八ッ橋 中央左は藤棚 右:右が笙島 橋名は不明
前述の島の形は、名前の通り鳥兜島を頭に(鳥兜は舞楽の常衣装の帽子)、笙島(笙(鳳笙)は翼を閉じた鳳凰に見立てた雅楽の管楽器)、琵琶島(琵琶は琵琶法師で知られますが、元は雅楽の撥弦楽器)と、その形を模したものになっています。各島を繋ぐ琴橋・八ッ橋にも雅楽・舞楽に類する名がつけられています。
前述の響遠瀑を含めて、名称と形が和楽器の庭の由縁です。

ちなみに八ッ橋は、中国では悪霊は真っ直ぐしか進めないとされ、悪霊が通れないように屈曲しながら放射状に広がる橋としています。神苑ですからこの意味も多少ありますが、ここでは笙組歌を大成し笙曲の基礎を固めた八橋検校に因んだと推測されます。ちなみに和菓子の八ッ橋の起源も八橋検校が演奏会の後で配った煎餅とも、葬られた聖護院近くの茶店で、遺徳を偲ぶ参拝客に販売されたに似せた干菓子が始まりと云われています。ちなみに八橋検校は三味線・琴の名手としても知られていました。
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鳥兜島の先端に建つ笠灯籠は、境内の北岸からの目線を惹きつける存在ですが、近くで見ると非常に大きなものがあります。現在の傘石は二代目と云われ、初代はもっと大きいものだったと云われています。明治期に流行った広い笠灯籠の笠石は土台の3倍くらいが標準でした。

明治期に灯籠の崩落事故が起こり、人身事故が発生したと云われています。原因その他は不明ですが、二代目は小さくなり人を死なせた初代笠石に神罰を与えるとして、参拝客が多く通る神門の中央口下踏み石として埋め込まれたと云われています。長い年月で多くの人に踏まれ、踏まれ続けた踏み石は擦り減り、平坦な丸い円盤と化しています。真偽は不明。。
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図月橋 右にチラリと見える小さな橋が琴橋
神苑の中で異彩を放つのが図月橋(とげつばし)。薄い石材を白漆喰で塗装や補強として塗り固めて造られています。

僕はこの橋を始めて観た時には斬新な形態に明治期の建立とばかり思ってたんですが、県内の多くの資料や地元では寛永19年(1642年)建造とするものが多く見られます。前述したように金谷御殿庭園辰巳用水の完成や小堀遠州作という話が膨らんだのではないかと思われます。繰り返しになりますが、寛永時代には寛永の危機など加賀藩と幕府にはまだまだ緊張状態が陰に残っていました。そんな時に金沢城内ならば(3代利常が本丸に作庭を行ったという話があります。遠州とは桂離宮・擁翠亭造営など交際は深い。)ともかく、最前線、前進基地の出丸に別邸もないまま庭園を造るというのはちょっと考えにくい部分があります。百歩譲っても金谷御殿が造られた6代吉徳が藩主となった享保8年(1724年)以降になると思われます。

江戸時代に設置されたのは確かのようで古くからあったようですが、石造アーチ橋は石川県や他県でもそのほとんどが明治以降になり、非常に希少なものになります。江戸時代の石造アーチ橋のほとんどが九州地区だけといってよいもので、しかも薄石板を積重ねて白漆喰で塗り固めた工法は北陸では見られず、この工法も迫石の少なさも九州でも異例とされるそうですが、それでも形態から九州からの贈呈品もしくは伝来工法とも考えられます。

そう考えると一番怪しいのは加賀藩最後の藩主・金沢藩知事・14代前田慶寧(よしやす)になります。慶寧の正室は、11代治脩の正姫(大聖寺藩)以来の外様大名から輿入れした有馬崇子筑後久留米藩、1832~1856)が正室でした。大聖寺藩は加賀藩の支藩的存在ですから身内になります。加賀藩始まって以来の外様大名家から迎えた正室でした。
崇子姫の父親は久留米藩9代有馬頼徳(~1844)で当時の大名家の上下格式で当主在世時の輿入れが必須ですから、1840~1844年が輿入れ時期。その引き出物とすれば、九州特有の石造アーチ橋金谷御殿庭園に置かれた理由と年代が推論されます。また回遊式でない眺望を見る書院庭園の時代ならば、この異彩も頷けます。この特徴的な橋の形態は神門の第一層のモデルになったと伝えられています。

旅行日 2019.11.12




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