内灘海岸② 米軍試射場 射撃指揮所跡

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米軍試射場 射撃指揮所
一九五三年(昭和二八年)内灘砂丘は、米軍が日本の工場に発注した砲弾の試射場として接収され、この「射撃指揮所」を含め、周辺には兵舎、砲座、弾薬庫等が建てられた。
当時、村民の生活を支えてきた地引網の漁場が奪われたこと、日本の各地で起きていた基地問題が心配されることなどから村民たちは、反対運動に立ちあがった。全国的な支援のもとで「金は一年、土地は万年」のムシロ旗を掲げて、デモや試射場入口と場内の権現森での座り込みを続けるなど、わが国での初の軍事基地反対闘争を展開した。こうして日本海沿岸の一漁村は「世界のウチナダ」として脚光を浴びた。
一九五七年(昭和三ニ年)米軍の使用が打ち切られ、美しい砂丘は、再び静けさを取り戻した。 内灘町

昭和25年(1950年)6月25日に北朝鮮軍の電撃作戦で勃発した朝鮮戦争。
GHQ統治下だった日本では、翌月にはマッカーサーは独断で在日米軍一個師団を投入、更なる米軍の朝鮮投入を予測して、翌月には国家警察予備隊(後の自衛隊)創設と海上保安庁拡充を指令し備えていました。しかし、日本の防衛・安全保障体制は不安定なままで、マッカーサーが望む在日米軍の追加投入の許可は大統領トルーマンからは下りていませんでした。
昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結、この際に対日平和条約と共に(旧)日米安全保障条約が結ばれています。
この安保条約には、日本の主権回復後に、全ての占領軍は講和成立により速やかに撤退する、二国間協定により引き続き駐留を容認される国も存在出来るという但書き条項が刻まれました。この条項によって、米国は日本国内に望む数の兵力を望む場所に望む期間だけ駐留させる権利を確保したわけです。後々これが米軍基地問題として、内灘闘争・妙義山接収問題、砂川闘争など住民との軋轢頻発に繋がるわけです。

激化する朝鮮戦争への米軍・国連軍にとって日本は発進基地・兵站基地と言える状態になります。皮肉な話ですが、復興にあえぐ日本にとっては経済特需がもたらされます。
しかし米軍にとっては大事な武器となる弾薬類を復興途上である日本の製造に頼るのは多少の不安がありました。砲弾の性能や良否を知るためには、試射場が必要となったわけです。前回の猿ヶ森砂丘全体が防衛庁の試射場になっているように、長い砂浜と砂丘帯は試射場としては打ってつけの場になります。このため米軍は日本国内を調査し、静岡御前崎と内灘海岸を候補地とし、日本海側ということ、砲弾製造を行う小松製作所が近いということで、
昭和27年9月6日、内灘海岸に決定し4か月間として接収を内灘村に通告したわけです。
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内灘闘争で村民が使用したムシロ旗
当時の内灘村は日本海沿岸と河北潟に挟まれた砂丘地の寒村でした。男は遠洋漁業の出稼ぎ、女は沿岸や潟で獲れた魚介を金沢に売り歩くという静かな寒村でした。突然の沿岸接収と試射場の設置、しかもそれがアメリカ軍という外国軍隊、戦中は鬼畜米英、進駐軍としての圧政・乱暴行為が叫ばれ続けたために拒否感は高いものがありました。

内灘村議会では米軍進駐による風紀問題、試射による轟音と振動による土地環境・漁業への影響、接収期間の半永久化への危惧から接収反対を決議します。轟音と振動に関しては、試し打ちの段階で着弾音の激しさに学校や周辺地域から非難が出ていたそうです。更に内灘村民ムシロ旗を立てて県庁に押しかけシュプレヒコール、北陸鉄道の労組はストライキで浅野川線での資材搬入を阻止支援、新聞マスコミも住民の反対を大きく報道しています。これらの運動に押され石川県議会も反対決議を議決します。
政府(第三次吉田内閣、自由党)は地元選出の参議院議員・林屋亀次郎接収担当国務大臣として地元説得に当たらせるのみで、総選挙を控えたためにこの時点では静観しています。

近年では沖縄の辺野古基地移転の決定が行われましたが、地元沖縄では選挙は与党が負けたものの、全国では大勝して政府はその勢いで基地移転を強行で決議しています。その時と似たような状態が内灘村でも起こったのです。米軍試射場の様子 ドーム型格納庫もコンクリート製
右は鉄板道路
DSC_5930.JPG翌月行われた総選挙では自由党が過半数を獲得、米軍の要請を受けた第四次吉田内閣はその勢いで接収決議案を強行成立、4カ月の期限付接収を決定して、鉄板道路・コンクリート施設・発射場が建てられ、敷地は立ち入り禁止となったのです。昭和28年3月、試射が開始されてしまいました。しかし、反対運動は修まるどころか、ますます激しくなり、地元だけでなく県の産業界・経済界を真っ二つにした対立に発展していました。更に池田勇人の「多少の中小企業の倒産やむなし、平民は麦を食え」発言もあいまって、政府不信が高まり、全国から反対運動支援や学生が集結して内灘闘争は過熱していきます。

政界も大混乱時代で試射が開始された同月、有名なバカヤロー解散によってまたまた総選挙。更に5日違いで参院選挙も行われたのです。
この時の選挙は内灘試射場の取扱いが大きな争点となりました。
この時の第三回参院選では、前述の接収担当国務大臣・林屋亀次郎(自由党)内灘試射場反対派の井村徳二(改進党)が立ち、白熱の選挙戦が行われました。ちなみに二人は金沢の二大百貨店の経営者でした。林家は武蔵が辻の丸越百貨店(現めいてつエムザ)、井村は片町の大和百貨店(現香林坊、大和(だいわ)アトリオ)になります。このため、武蔵・大和の艦隊決戦・内灘沖海戦とも揶揄されていました。
結果は19万対21万票(16000余差)で反対派の井村が勝ち、現職大臣が落選という結果で、試射場反対の民意が鮮明になった結果でした。また全国的にも自由党は鳩山分党の離脱もあって40議席以上を落とす過半数割れの大敗を喫します。ちなみに参院で勝利した井村の属した改進党(後の日本民主党)は76議席(衆院)で第二党となります。
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鉄板道路の部材
この選挙結果によって、自由党は改進党との連携に踏み切ります。これがまたとんでもない事態を呼んでしまいます。改進党は地元利益誘導へと舵を変えてしまったのです。ここで連携政府は改めて、内灘地区の漁業補償措置と試射場用地無期限使用を閣議決定します。
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現在の鉄板道路
それでも内灘村民試射中止と土地返還を求めて反対運動を激化していきました。6月には鉄板道路、権現森着弾地での座り込みが行われています。更に学生デモ、北鉄労組の物資輸送ストライキが繰り返されています。
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しかし長引く闘争の激化と疲労、全国的な朝鮮特需により経済界や産業界からの説得などにより、反対闘争内からも条件闘争へと分裂が進んでしまいます。
徐々に体制は妥協論が浸透し村内でも意見の相違が戦わされました。勢いを伸ばした愛村同志会の地域利益優先の条件闘争へと移行、内灘村は3年間の試射場使用を認めることで妥結、基地反対闘争は終息しました。その結果の見返りとして漁業及び公共事業(農地利用の河北潟の干拓、学校・医療病院などの諸施設、上下水道の整備、道路の改修、防風林など)の保障要求が認めら、国からの保証金・見舞金22億4000万円、当時の内灘村予算が2000万円ですから、莫大な費用と事業がこの試射場の為に投下され、その後の内灘町を発展させたのです。しかし、特筆すべきは条件闘争に変化したものは職業優先の男衆、試射中止運動を一貫したのが女性陣という家庭内の溝。地域や隣家で意見が別れ争ったために、住民には大きな禍根が長く続いてしまいました。
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昭和28年9月から改めて米軍の試射が開始され、3年余りの使用後に米軍が撤退、昭和32年1月に政府から試射場土地が内灘村に総返還されました。
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米軍試射場 射撃指揮所
この3年余りの内灘闘争とその後の余韻は、様々な題材として発表されています。
有名なものでは、日活映画「歩行少女」(昭和38年公開)、五木寛之作「内灘夫人」(昭和43年)、内田康夫「砂冥宮」(平成23年)、芝豪「朝鮮戦争  慟哭の曠野」(平成26年)などがあります。
内灘闘争の資料や実物が内灘民俗資料館・風と砂の資料館が詳しく展示しています。展示数はそれ程でもないですが、館内ガイドも行ってくれますから合わせて見学すると、なかなかの良質な資料館です。2月には河北潟・大野川などの往時の再現地図が完成したそうです。以前紹介した木谷藤右衛門宅や港も出ているということなので、僕も再訪しようと思っています。
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2011.05.26撮影 着弾地観測塔
内灘試射場の名残の残るものが、今回の米軍試射場指揮所跡になります。
また着弾地となった権現浜には着弾地観測棟があります。ちょっと古いですが、以前にアップしています。 ⇒ 2011.5.26着弾地観測棟遺跡
他には粟ヶ崎のブッシュ内にトーチカがありましたが、長く見ていないので残存は不明です。はっきりしているのはこの二つで内灘町文化財に指定されています。
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米軍試射場 射撃指揮所
射撃指揮所は2階建コンクリート造で頑丈な造りで、60年以上の歳月を海風や砂丘の中で過ごしながら、形状を保ち続けてきました。さすが防弾としての機能を兼ね備えた建物です。


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逆に近年までは戦争とはまるっきり正反対ともいえる内灘海水浴場の遊泳監視所として使用されていました。
静かな内灘の浜を内灘闘争という大混乱に陥れた元凶ともいえる遺物ですが、今はそんなことを感じさせないように砂丘の中で佇んでいます。
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旅行日 2020.01.21

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