式内論社 神田神社

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式内論社 神田神社 表参道
東向きに神社の本殿が建っています。古くは拝殿・本殿裏に参道があり、南向きになっていたようです。右の道は安吉に向かう道路。
前回も少し触れましたが神田神社は白山市吉田町にある神社になります。旧松任市の中でも最大の田園地帯の山島郷(林郷)にある集落の神社になります。

山島郷は手取川の北岸に位置して能美市と並ぶ手取川によって出来た扇状地の広い平原地帯で、古くから屈指の広さを誇る加賀平野の穀倉地帯として加賀を支えてきた地になります。手取川の氾濫によるために高台になる島の名を持つ町名が多い場所で、七ヶ用水路によって区域が分けられ、島ごとに独自の村落が発展していました。吉田町も昭和32年(1957年)までは東南の隣の漆島と合わせて「吉田漆島」と呼ばれていました。吉田漆島は七ヶ用水の大慶寺用水の南岸に沿って、白山麓から山島郷の中心地・安吉に向かう手前にある集落になります。
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前回ご紹介した加賀国石川郡式内社の神田神社の比定地の最有力の論社になります。まずは、吉田町の神田神社の由緒書から。。
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神田神社社記
御祭神 饒速日(にぎはやひ)命
天児屋根(あまのこやね)命
武甕槌(たけみかづち)命
経準主(ふつぬし)命 八幡大神
末社  高良社の御祭神 武内宿祢命

当社は、第十二代景行天皇の御代、武内宿祢が北陸及び東方諸国の風土観察の為、下向のおり、北陸守護の為、吉ヶ中と称する地に饒速日命を勧請し、其の際、地名を神田村と命名しました。延喜式(九〇五~九二七)に加賀国石川郡神田神社とあるのは、当神社であり、延喜式内社・神田神社の正社であります。
長文元年、大和国より岡本壮之進が神主として赴任。近郷八十三ヶ村の神社に奉仕しており、前田利家公より二百石を拝領しておりました。
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この岡本家の書によれば
仁明天皇の承和七年(八四一年)勅使下向 文徳天皇の天安元年(八五七年)勅使下向 
醍醐天皇の延喜五年(九〇五年)藤原忠平下向し神田神社と命名
     延長五年(九二七年)本殿建立
御(後?)朱雀天皇の長歴三年(一〇三九年)勅使下向
御(後?)小松天皇の嘉慶三年(一三八九年)藤原元隆勅使として参向し、圭田六千二束之宅田を奉納し、加賀の国の守護職交代の都度、先例により石川郡の総社となることを仰せ渡された。とあります。

明治三十一年郷社に列せられる
明治三十九年神饌幣帛料供進社に指定される
明治四十一年一月十一日神田村の東方にありました無格社八幡社を当神社に合祀する。境内地の常緑の密林が神域をおおっており、特に南隅には欅の巨幹があり、一つは目廻一丈九尺、一つは目廻二丈四尺、幹は空洞をなして優に六、七人中に入って座ることができるほどです。この木は武内宿祢の手植といい伝えがあり、鳥居木とよばれ樹齢千数百年と言われています。

平成二年十月吉日 神田神社 宮司 柏木信勝
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神田神社 末社高良社 狛犬 平成3年(1991年)寄進
平成天皇即位記念 神社社殿の新築記念
社伝中の大型狛犬像は末社・高良社奉納の狛犬で同年寄進
主祭神補足:饒速日(ニギハヤヒ)は日本神話では大和先住の王として謎の神でありながら、大和政権成立の上では重要な神として存在感を放っています。

古事記では神武東征の際に大和で激しく抵抗した那賀須泥毘古(ながすねひこ、長髄彦)が奉じていた国津神(主君)として述べられています。ナガスネヒコの妹を娶って宇摩志麻遅(ウマシマチ)を産んでいます。ウマシマチは物部連・穂積臣・采女臣の祖とされています。ナガスネヒコが神武に敗れると恭順して土蜘蛛一族を討伐し、大和での神武政権の樹立に貢献し娘を神武の正妃としています。
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日本書紀では天津神として扱われ、天照大神から十種(とくさ)の神宝(三種の神器の原型)を賜って天磐船で河内に舞い降りて、後に大和に鎮座したと云われています。神武東征では神武は大和の入口(河内?)で長髄彦に阻まれ、熊野から迂回北上して大和を攻めた際に、大和南部で再び立ちはだかった長髄彦と対峙します。長髄彦は天神の証明として神璽となる饒速日の天羽々矢(あめのはばや)と歩靫(かちゆき)を見せ神武も同じものを見せお互いを天神として認め合います。神武を認めた饒速日は恭順し、長髄彦を説得しますが長髄彦は抵抗をやめず、最終的に饒速日が長髄彦を誅殺しています。
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先代旧事本紀では、饒速日の別名を「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほのあかりくしたまにぎはやひのみこと)」として天火明(ホアカリ、天孫降臨のニニギの兄)、櫛玉命出雲健子命の事で別名・伊勢津彦神大国主になります。櫛玉姫事代主の娘長髄彦の妹(饒速日の后妃)を同神としています。注目すべきは天照国照彦で天照と国照と冠した太陽男神とされています。天津最高神国津最高神の双方に位置と名を冠しています。つまり、正式な名前は天照大神を超える天上・天下双方の最高神と云える名を持っていたことになります。
神武東征ではすでに故人となっており、替わって息子の宇摩志麻遅命(ウマシマヂ)が日本書記と同じく長髄彦を廃して神武に恭順し、神武天皇即位時に十種(とくさ)の神宝を持って、皇城と天皇を守ったとされています。ちなみに饒速日・宇摩志麻遅から物部・穂積・尾張(天香具山神・弥彦神)・海部氏族、熊野国造の祖としています。長髄彦蝦夷として安東・安倍氏の祖とされています。
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神田神社拝殿前 狛犬 明治30年(1897年)寄進 見事な反り返りの逆さ狛犬
饒速日・宇摩志麻遅親子事代主・大物主にも准えられています。大和を治めた磐余彦(イワレヒコ)は樫原宮で初代・神武天皇に即位、正妃として事代主の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃としています。出雲系の饒速日・宇摩志麻遅が外戚・側近(後裔の物部・穂積・采女氏)ということになります。逆に見れば神武は出雲大和政権に婿入りして大和連合政権を建てたのではないかとも考えられてます。神武以降の欠史初期の天皇の皇后は饒速日の系統から排出されています。
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神田神社 表参道 拝殿 社殿は平成3年(1991年)に新調されています。
祭神補足:天児屋根(あめのこやね)命は古事記の日本神話では天の岩戸隠れで岩の隙間が開いたときに鏡を布刀玉命(忌部・意部氏の祖)と共に鏡を指しだして天照に姿を見させた神様。天孫降臨でニニギに随伴したとされています。別名は春日本神中臣氏の祖とされています。中臣氏は後の藤原氏で春日大社や平岡神社は藤原氏の氏神様になります。前述の雨の岩戸伝承から皇室の祭祀を忌部氏と共に受け持ったとされています。
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祭神補足:武甕槌(たけみかづち)命はイザナギがカグツチ(火の神)を剣(アメノオハバリ)で斬った際に剣についた血から生まれた神で、日本神話最強の武力神になります。葦原中国平定では次の経準主(ふつぬし)命と共に派遣され、大国主に談判して国譲りを強要し、タケミナカタとの力比べに勝ち相撲の祖にもなっています。神武東征では熊野で苦戦する神武に布都御魂の剣を送って勝利させています。分身と云える布都御魂は石上神宮の神体として祀られ、朝廷の武器庫とも云われ、古代においては神宮というのは伊勢と石上のみでした。鹿島神に準えられ鹿島神宮の主祭神で、春日大社には勧請されて春日神の一柱となっています。
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神田神社 神殿
更に裏境内地には三基の陰陽の祠堂もしくは石塔と思われる三基の神石塔を納めた小屋があります。
祭神補足:経準主(ふつぬし)命は古事記に記載はなく日本書紀に登場しますが、武甕槌とコンビのように扱われています。生まれにしても前述の武甕槌と同じくカグツチの血が磐石を濡らして生まれた二神(イワサク・ネサク)の孫、葦原中国平定では天孫族最強(大夫)として先に選ばれ、武甕槌が異議を申し入れ同行しており、以降、行を共にしており両雄並び立つ関係。下総の香取神宮の主祭神となって利根川を挟んで武甕槌の鹿島神宮と並立しています。春日大社にも春日神の一柱として勧請されています。

八幡大神は明治に漆島からの合祀で今回は割愛・・
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神田神社 末社 高良社 創建者武内宿祢を祀っています。
補足:末社の武内宿祢は本来の神田神社創建者と伝えられています。年代は不明ながら神田神社拝殿前の境内左に高良神社から勧請されて摂社が建てられています。平成21年(2009年)枯れ死により撤去されたケヤキは武内宿祢の手植えと云い伝えられていました。当時松任市内最大の樹木とされていました。画像を探したんですが見つかりませんでした無念。。
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武内宿祢は8代天皇・孝元天皇の皇子・彦太忍信命を祖父にする系統で、成務天皇と同年月日の生まれとされ景行天皇14年。景行・成務・仲哀・神功皇后・応神・仁徳に、棟梁の臣・大臣・摂政・大臣として仕え没年は不明ながら280~360歳ととんでもない年数を重臣として天皇の側近を努めています。ちなみに古事記・日本書紀・風土記の古代天皇などの年齢表示は長期過ぎ、長い研究の壁になっていますが、2.3倍説、、条件付4倍説など様々ですが、それを当てはめても75~100歳越、90歳代が有力で超高齢。。竹内宿祢の活動期は4世紀初から中後期と見られます。
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後の世に武内宿祢は大臣の理想像とされ、大臣を輩出した紀・蘇我・葛城・平群・巨勢などが祖としており、波多氏など大和を中心に畿内には27氏族の祖とされています。更にこの氏族から全国に広がっており北陸関連では、成務天皇期に越中西部の射水国造、反正天皇期に加賀南部の江沼国造が輩出されたとしています。

補足:長文元年、神主家の初代・岡本壮之進が大和から赴任という一文、長文という元号は実在しません。名前から想像すると、古代の大和で岡本関連と言えば、飛鳥時代の舒明・斉明天皇が皇居とした飛鳥岡本宮の明日香村岡、奈良時代に敏達天皇後裔の秋篠王が臣籍降下した際に名乗った丘基真人が岡本姓の由来と言われています。しかし、壮之進という名は武家を連想させますから中世以降と思わされます。元号で長がつくのは意外に多くて、前田利家生前の元号だけでも、長徳(995年)・長保(999年)・長和(1013年)・長元(1028年)・長暦(1037年)・長久(1040年)・長治(1104年)・長承(1132年)・長寛(1163年)・長禄(1457年)・長享(1487年)、とにかく多いのです。この間違いと岡本家の就任も延喜以降と見られ、比定されなかった主要因になっています。
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式内社・神田神社は由緒書のように、武内宿祢饒速日を勧請して社を置き神田村を開いたとしています。武内宿祢の時代には越の国と呼ばれた時代で、まだ加賀郡も石川郡もない時代。文中の吉ヶ中じたい場所が解っていません。ただ延喜式の書かれた時代には犀川南岸から手取川北岸の石川郡が成立していたので、これは間違いないところ。
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神田神社 幣殿内 神紋は加賀梅鉢紋を使用しています。
古墳期には加賀の中心地は江沼地方及び能美地方だったといわれ、次代の小松になるのには1.2世紀以上掛かっていると思われます。逆に北に眼を向けると文化面は加賀より能登の方が進んでいたと云われています。それでも能登勢力が伸びたとはいえ現在のかほく市南部・津幡町北部までと言った感じで河北潟も現在より範囲が広く金沢は東部の山裾と金沢西南部・松任北部に縄文・弥生遺跡が集中するものの、現在の金沢市街は一種の空白地だったと思われます。これは手取川周辺にも言えることで南岸はさかえても、北岸はまだまだ扇状地の構成段階だったとも思われます。
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石川郡式内社10座の内、本宮を伝える比定社が確定しているのは6社。確定していないのが4社御馬神社・楢本神社・神田神社・味知神社)になります。四社に共通するのが富樫家の中心勢力地或いは真宗の主要勢力地に存在していたというもので、富樫氏の滅亡、真宗勢力による侵攻で神社が衰退したのではという共通点があります。
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御馬神社(みんま、古読:みむま・みま金沢市三馬(みんま)周辺にあったと思われます。この辺りは守護家・富樫家の中心的な勢力圏で富樫郷の一角になります。戦国末期の混乱の中、天正年間(1573年~)に兵火によって本宮は焼亡したと伝わります。長享2年(1488年)富樫政親を滅ぼし四度に渡って加賀守護に就任した富樫泰高が、久安に下屋敷を置いた際に分霊創建したのが久安(ひさやす、富樫郷北西部)の御馬神社になります。江戸初期に富樫家の末裔となる後藤家が開拓した地に建つのが間明(まぎら)町御馬神社で、加賀藩3代・前田利常に保護され古文書や神器を保有していたと伝えています。。この二社が御馬神社の比定の推定神社(論社)となっていますが、戦国末期の兵火、江戸期の火災と二度の火災で資料・神器を失い、確定にはつながっていません。

味知神社(みち)山島郷(石川郷?)・白山山内郷が推定地ですが、どちらも加賀真宗の中心地帯で真宗勢力の進捗で衰退・消滅したと思われます。比定推定の論社・安江住吉神社が唯一後世に伝えていますが、安元年間(1175年)に富樫一族で安江郷の祖・安江次郎盛高が再興したとしていますが、前後の詳細が無く推測の域を出ていません。安江の産土神として密着した大きな神社ですが。。
楢本神社(ならもと)は手取川の氾濫で本宮(跡地不明)が流され、漂着した神体を現地で受け継いだと、上柏野・下柏野・宮丸町の三社が主張しており論社となっています。
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神田神社 向背象嵌 獅子
本宮跡地の不明で混乱しているのが神田神社(かんだ、古読:かむた・かんた)。手取川沿岸の山島郷吉田漆島の神田神社、犀川河畔の御影大橋西岸の江戸期に神田村と呼ばれた地の神田神社。神田神社と街道を挟んだ中村神社の側にある春日神社が式内比定を主張しています。国内神名帳記載の中村神田明神という神名が中村の地を有力にしています。論社ではありませんが、松任の北西部の海岸にある倉部八幡宮も式内社・神田神社の後裔を主張しています。いずれも確定はしていません。またよりややこしくしているのが、お隣りの加賀郡(室町期以降は河北郡)の式内社13座の中に神田神社があるのですが、これまた行方不明になっていることで、この神田神社の比定地が春日神社近くの中村神社とも云われていることです。
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これは僕個人の印象ですが、中村神社と春日神社は今はそれぞれに別地で独立した存在ですが、前田利家が金沢入城時に大和の春日神を勧請し、加賀藩発足時には春日社の神仏混交で春日社と宝久寺という一対の存在で総称が中村神社だったと云われています。江戸初期まで犀川対岸の犀川神社(中村神社旧別社)の地に置いたとされています。ちなみに明和5年(1768年)犀川の氾濫で北岸の多くが流された際に、犀川の氾濫鎮護として創建されたのが現在の犀川神社になります。

遷座後に春日社・宝久寺として続き、江戸中後期に中村神社・春日神社に分かれた社伝が、神田・春日社の比定論社に甘んじる要因でもあるんですが、逆に加賀藩の保護が手厚く施され現在に至っています。とはいえ、この遷座は重要な意味があって対岸で直線距離では僅かとはいえ、そこは旧河北郡(旧加賀郡)になるわけです。となると、中村神社や春日神社は河北郡の式内社・神田神社由縁になるのではないかとも思われます。
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古墳期だと思われる創建の武内宿祢の時代と考えれば、大型古墳の集積地の江沼や能美により近い山島郷が有力なのですが。。
神田(当時はかむた)の読みや漢字の意味は神の田圃御供田神饌田を意味します。そうなると白山本宮の御供田(現在の金沢市御供田町周辺)を抱えていた金沢神田村の神田神社の存在が急浮上してくるわけです。結局は有力な資料や発見が確定しないことには式内社・神田神社は確定しないというわけです。
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山島郷には吉田漆島のように島の名がつく郷村が多く存在し今も地区名として残っています。
現在の白山市・野々市市・川北町を網羅するように流れる七ヶ用水も、古来は手取川扇状地を造成した手取川本流の跡だと云われています。確認されているわけではありませんが、手取川の本流は一番東北寄りの富樫用水に始まり、どんどん流れを南に変更して行ったと思われ、現在の扇状地の平野を構成する長い期間には氾濫を繰り返したと思われます。その氾濫の際に水浸しとなった地の中で島のように残る土地、平時には丘や地盤が固く高まりのような場所があり、それが〇〇島と呼ばれる地区で、その高まりに集落が構成されて独立した村が構成されていったと云われています。決して大規模なものではありませんが、村落が構成されると一村落ごとに産土神・氏神となる神社の祀られて行きました。近代に近づくにつれ、手取川の改修や用水による氾濫対策が施されると、地区の合併や分村が繰り返され村落が大きくなって、合わせるように有力神社が残って行ったと思われます。吉田漆島も分村によって吉田町漆島に分かれましたが、漆島の八幡神社を末社として合祀して神田神社が周辺の惣社になって行ったようです。
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神田神社 裏参道 根上松
中世以降には山島郷の中心地は安吉村に移り戦国期の真宗勢力の中心地・安吉城が城館として築かれたと伝わりますが、吉田漆島は大慶寺川に沿って500m程上流になりますが、間には田園があるだけで安吉から神田神社の社豪が遠目に遮るものなく見られます。
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山島郷はその後も安吉を中心地にしていましたが、明治には山島郷には安吉・吉田漆島・矢頃島・向島・藤木・寄新保・上島田・内方新保・長島村・御影堂に集約されていました。現在は吉田町、漆島に分村していますが、隣の山島台ニュータウンも大部分が吉田漆島の田園地だったと云われ、本来の村領は山島郷最大だったと思われます。明治5年(1872年)に明治の学制発布から全国の小学校の多くが造られたのが8~10年前後になりますが、明治7年と早い段階で吉田漆島に小学校が開設されたのもその証明だったと思われます。
氏神社となる神田神社は山島郷東南部の惣社として現在も整備が行き届いています。
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鳥居の木跡地記念碑
昭和52年(1977年)に二本のケヤキが旧松任市天然記念物に指定されていました。
大きい方が年月は不明ですが平成12年頃に崩樹、平成21年(2010年)に残る一方も崩倒木し撤去されています。僕は残念ながら、先の大きい方は見ていませんが、一本になったケヤキは見ました。すでに内部が空洞化して抜け殻状態でいつ崩れてもおかしくない状態でした。
境内の社豪には手入れを受けたケヤキや松の大木がありますが、この神社に往古から大欅がありました。社伝が伝えるように竹内宿祢神田神社を建立した際に、鳥居の代わりとして手植えしたケヤキと伝わり、伝承から「鳥居の木」と呼ばれるように、神社の南側に二本の巨樹が立ち並んでいました。

環境省の「巨樹・巨木林データベース」によれば
※A 確認年月日・平成11年(2000年)追加計測・実測 教育委員会事務局文化課文化財係 独特の呼称・鳥居の木 健全度・枯死寸前 樹齢推定・300年以上 市町村文化財 視認性・遠方より確認できる 樹高・17m 幹周・705㎝
※B 確認年月日・平成11年(2000年)追加計測・実測 教育委員会事務局文化課文化財係 独特の呼称・鳥居の木 健全度・枯死寸前 樹齢推定・300年以上 市町村文化財 視認性・遠方より確認できる 樹高・18m 幹周・622㎝
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現在、神田神社で一番大きな欅
僕が最初で最後に眼にしたのは白山市合併後2.3年で1本だけになっており、すでに枯れ死寸前で、幹の中も空洞になっていました。

当時、平野しかない旧松任市内では樹高は式内論社・楢本神社(産みの木)には及ばないものの、幹周りでは市内最大の巨樹でした。枯れ死したものを含めると、宮保八幡神社(式内社・笠間神社末社)のケヤキに迫るものがありました。 ⇒ 2014.08.20上柏野 楢本神社の欅(けやき)

当時の訪問時の画像を探していたんですが見つかりませんでした。替りと言っては失礼ですが、いつも巨樹の参考にさせてもらっているサイトブログに平成16年(2005年)の画像が載せられていたので、興味のある方はこちらをどうぞ ⇒ 人里の巨木たち 鳥居の木
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名木と云われた「鳥居の木」は失われましたが、境内には幹周り3mに迫るケヤキが幾本かあり、次代を担っています。

旅行日 2019.03.25









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