称念寺② 明智光秀伝承

前回紹介した称念寺には、もう一人の武将の伝承が残っています。それが明智光秀夫妻の伝承です。

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明智光秀はご存じのように「本能寺の変」で、織田信長を急襲した武将です。その後、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、三日天下と主殺しの汚名を着たまま消えて行った人物です。
新田義貞もそうなのですが、敗軍の将はその後に勝者によって事績や記録が消されてしまうため、生い立ちや変の動機など謎の部分が多く残ってしまいます。しかし、明智光秀の所領だった丹波や大津・坂本はもちろん各地に残る事績・伝承では悪い評判があまりありません。逆に誠実な人柄の表れる物ばかりです。
特に自分の家族、家臣団や家来には細やかな対処を行っており、実際に信長に対する反乱「本能寺の変」においても、家臣団から一人の裏切りを出していないことは特筆されます。

 (※明智光秀に関しては多くの説や異論がありますが、ここでは省略します。
 ただ、一言いっておくと、個人的には好きな武将の一人ということです(ちなみに信長も好きなんですよね。)。  知れば知るほど、織田信長とは対極をなす人物像が浮かび上がってきます。この二人が結びつくこと自体奇  跡に近いものがあるし、あの信長が正反対の性情の光秀を軍師的存在として身近に置くと云うのも奇跡的でし た。
 信長の覇業があれだけ先進できたのは、信長の急進的な発想と光秀の伝統に精通した合理性、臨機応変な  機敏性が合致したと云えます。)

この称念寺の伝承は、明智軍記から伝わるものです。明智軍記に関しては書き間違いや時代考証の点で矛盾があったりで、悪書・偽書扱いされることが多いのですが、登場人物の関係性や名の読みなどに関係者でないとかけない部分も多く、真贋定かではありません。今回は寺院の伝承であり、後で書く松尾芭蕉の知る話ですから、明智軍記を元に書いていきます。

明智光秀は明智城主(長山城?)・明智光綱の子として生まれました。ちなみに光綱の父は光継といって、長井長広と共に斉藤道三の美濃領有に貢献した人物です。光継の娘・小見は道三の正室となり帰蝶(濃姫)を生んでいます。つまり、信長の正室・濃姫とはいとこになるわけです。
父の死後に家を出た母親に引き取られ越前小浜の西福庵で育ちました。(西福庵は称念寺の末寺で称念寺住職・薗何が訪れており、ここで学問他の教授を受けたようです。)その後、京都で将軍家や細川家に仕えたという記述があります。その後、明智城に戻り、叔父の明智光安の後見で城主に復帰しました。

復帰後に同じ美濃の豪族・妻木氏から嫁を貰っています。光秀の正室の名は煕子(ひろこ)。戦国一のおしどり夫婦と云われる二人の門出でした。
光秀には有名な美談の嫁取り伝説があるのですが、、他の資料に光秀の先妻・千草という名があり、姉が千草で妹が煕子だという逸話もあります。(その逆という話も)
ちなみに明智一族、妻木一族共に近江・坂本の西教寺が菩提寺になっています。明智光秀・熙子夫妻は共にここが墓所となっています。

結婚後、しばらくして斉藤道三を攻め殺した斉藤義竜に明智城を攻め落とされ、光秀は妻子共々故郷を落ちることになり放浪生活になってしまいます。放浪後、明智光秀が頼ったのが越前の称念寺の薗何上人で、先に小浜で教えを受けた伝手を頼ったものと思えます。当時、称念寺は三国湊の権益を持ち、沿岸貿易で多くの人が立ち寄っていましたし、時宗特有の遊行により各地の情勢や情報が集まっており、光秀はここで多くの知識を身に着けたと云われています。

光秀は称念寺の門前に住まいを持ち、寺子屋で子供たちに教える傍ら、朝倉氏への仕官活動を行っていたそうです。この時期に娘の玉(珠)・後の細川ガラシャが誕生しています。(光秀が朝倉氏に仕官後に移った東大味にある明智神社とも言われています。そこにも細川ガラシャ生誕碑があります。)

そんな浪人生活を送っていたある日、仕官が決まるチャンスとして朝倉家の重臣を招いた連歌の会を催す機会に恵まれます。ところが、その会を開く資金が手元になく光秀は困り果ててしまいます。
そんな光秀のために、熙子は自慢の黒髪を切って売り、その資金を用立てます。そして、これが見事にその後の光秀の道を開くことになります。
道を求め続ける旦那さん、苦境の中で、旦那さんを献身的に助ける奥さんの姿は、美しい伝承として語り継がれていきました。
余談ですが、明智軍記では熙子は山崎の戦いの後、坂本城で自刃して光秀の跡を追ったことになっていますが、西教寺の言い伝えではその6年前に熙子は病死したことになっています。それも重病に陥った光秀への看護疲れが原因とされています。どちらにしても、光秀に尽くし切った人生だったようです。
光秀もまたそんな熙子を愛し続け、戦国期には珍しく側室は置かず、熙子と子供たちを身近に置いて愛しんだと云います。

 ※観光や明智夫妻の伝承を聞いて訪れた人たちが称念寺門前に住んでいたと聞いて、山門前や門前の住宅 を背景に記念写真を撮っている姿を見かけます。実はこれは大きな間違いです。光秀が滞在した頃は北国街 道が寺の東側を直線にありました。そして正門も街道沿いにあったんです。つまり、今の山門は昭和になって  作られたもので、裏側の駐車場の辺りが昔の山門があったことになります。つまり駐車場を挟んだ田圃の所に 光秀の住居があったことになります。何にもない場所ですが、そこはお見逃しなく
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江戸時代になって、奥の細道の旅程で松尾芭蕉がここを訪れて、この伝承を聞いて行ったそうです。
称念寺に芭蕉の句碑がありますが、これは後世になって作ったもので奥の細道とは直接関係はありません。
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奥の細道を終えた後年ですが、伊勢の門弟の山田(島崎)又玄(ゆうげん)宅に赴いた際、又玄の妻の甲斐甲斐しい世話に感激します。
又玄は神官で、才能がありながら、生活に追われて貧しく出世できないことに悩んでいました。
そんな又玄に芭蕉は、「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」の句を贈って励ましたそうです。もちろん「明智の妻の話」とは称念寺時代の光秀・熙子の夫婦愛を指します。
「今は出世の芽が出てないが、おまえにはそれを支える素晴らしい妻がいるじゃないか。今夜はゆっくり明智の妻の黒髪伝説を話してあげよう」と云う意味になります。

その後、又玄は俳人として大成したと云います。
松尾芭蕉の墓がある大津の義仲寺の句碑「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」は、この人の作品です。

旅行日 2013.03.31















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