火伏不動尊 ~ 市神宮跡

鶴来の町にお仕事でお客さんちに行ったんですが、ちょっと早かったみたいで留守。
少し時間つぶしにそこらをぶらぶら。。ちょっと変わった建物を見つけて立ち寄ってみました。
鶴来の町は獅子吼側は段丘になっていて、大きな断崖が壁のようになっています。そこを背にするように中心街があります。その崖の登り口にあったのが、この建物でした。古風な木造りの建物。
画像

入口には火伏不動尊の文字が、こういうのを見ると興味津々で観に行ってしまう僕^^
玄関は鍵が掛かっていて入れませんでしたが、ヒョイと上を見上げると面白いもの発見。
表額と並んで架けられているのは、一枚岩の欠片。その石に古銭を貼り付けて鳥居を作ってありました。
画像

のどかで静かな所で鶴来別院や真宗系のお寺が多く並び、住宅が立ち並ぶ場所ですが、ひょっこりとこういうのがあるのが、古くから白山麓に向かう宿屋や酒造が多くあって、真宗と白山詣での入り口として栄えた宿場町だった名残と云えますね~~
画像

この火伏不動尊の下に広がるのが鶴来の中心街で住宅なども密集している場所で、火の用心は大事なものでした。もちろん、消防設備も大事ですが、古くから火から守られる願いを込めた火伏不動尊は大事にされてきました。ちょっと格子の隙間から覗き見すると小さな不動尊像が。。。
画像

地蔵堂や地蔵尊はよく観かけますが、この不動尊の管理は清沢町の有志で管理しているそうですが、町内管理でこのように立派な御堂を持つ不動尊はなかなか珍しいと思います。この辺りは古くからの住人が多く、真宗時代には一時期とはいえ清沢坊と呼ばれた真宗の拠点が置かれたくらい信心深い土地柄ということもあると思います。
画像

ちなみに清沢坊についてですが、蓮如(本願寺8世)の七男・蓮悟が白山麓布教強化のために建てたもので、後に十男・実悟が入って清沢坊願得寺を創建しています。一時期白山麓の真宗門徒の本拠になったものです。
蓮悟は加賀三箇寺の一つで若松本泉寺を本拠に加賀真宗を主導した一人です。
実悟は連悟の養子として北陸に来た人物です。加賀を「百姓の持ちたる国」と最初に評したのがこの人です。
しかし大小一揆の際に焼討に遭い清沢坊願得寺は焼亡破却されています。跡地は広場になっていますが、面影はほとんどありません。後年になりますが実悟が破門から復帰後に大阪の門真市に創建した河内願得寺は清沢坊を復活させたといえます。願得寺はその後、東本願寺五箇寺として門主を輩出できる資格がある寺に昇格しています。
画像
画像

元々は火伏不動尊から少し南に行った所にある日の出陸橋のたもとに「恵比寿神社」として江戸期以前から存在していたそうです。しかし明治になり、廃仏毀釈により恵比寿神社が、神社統合と用地整理にあい、崖上にある金剣宮に合祀されてしまいました。地元の清沢町によって残された不動尊が現在地に移されて、火事の守り神として大事にされてきたそうです。
画像

日の出陸橋のたもとはよく仕事の途中で通りかかるので画像があります。大きな珪化木がありますから、それが目印になります。それにしても尋常じゃない大きさです。僕が県内で観た中では一番大きい部類かもしれません。
画像>
画像

由来記によれば、元々は市姫社が始まりのようです。創建は奈良時代とも云われますがはっきりしません。市姫(市比売)は大山祇神(おおやまつみ)の娘でスサノオの妻、アマテラスとスサノオの天の真名井の誓約で生まれた宗像三女伸の市寸島比売(いちきしまひめ)の二説有りますが、市場の神様として知られています。県内でも輪島の朝市通りの神様が市姫社です。鶴来も四六・一六の市があるように、鶴来街道の本通は古くから市が並んだそうです。
画像
画像









手取川の氾濫によって幾度も水害に流されて、水の守り神として蛭子神(ひるこがみ)を奉じて蛭子社になり、転じて恵比寿神社になったようです。恵比寿もご存知のように商業の神様です。
蛭子神はイザナギ・イザナミの最初の子供でひるこのため海に流された神です。国内にはこの蛭子と恵比寿を同一視する神社が幾つかあります。正月の福男神事で有名な西宮神社もその一つです。
地元ではこの恵比寿神社に件の火伏不動尊もいつの頃か祀られ「市神宮」と呼んでいたそうです。

明治4年(1871年)、前述の神仏分離により、まず火伏不動尊を清沢町の現在地に移しています。つまり火伏不動尊は単独としては130年以上の歴史があるということです。
火伏不動尊が抜けた恵比寿神社は元の蛭子社になって残っており、明治12年に新殿に建替えられましたが明治39年に前述のとおり、用地整理のために神社統合となり金剣宮に合祀されています。この際に新殿は野々市の中林春日神社、尾口の二口神社(現・白山市東二口、東二口神社?)に移されたそうです。
                          市神宮跡・旧鶴来小学校跡地

その後、跡地には旧鶴来小学校が建てられていましたが、昭和38年(1963年)一の宮・南の三校統合で朝日小学校として別地となって、そして現在の広場が残されています。
ちなみに、朝日小学校は平成25年9月に新校舎が竣工して、見違えるような校舎が八幡町にあります。
画像
画像

広場には、「市神宮跡碑」「旧鶴来小学校校歌碑」の他に、江戸末期から明治にかけて画壇で活躍した「村山翠屋(むらやますいおく)顕彰碑」があります。
画像

村山翠屋の江戸期末期に描いた代表作「四季花鳥図屏風」(六曲一双屏風絵)は、近くの鶴来博物館に展示されていました。他にも興味深い展示があったんですが、残念ながら鶴来博物館はH.25.3に閉館して、松任駅近くの白山市立博物館(旧松任博物館)に集約されたので、そちらに移ったのか詳細は解りません。。。しばらく行っていないので、機会が在ったら行ってみます。

ちなみに、旧鶴来博物館はユニークな造りで興味深いものがあります。
別名・朝日城と呼ばれる三層の天守閣と城壁が道路沿いにあります。獅子吼高原白山比咩神社に向かう際には眼を惹く存在です。昭和の私的な城です。
昭和37年(1962年)、鶴来町出身の実業家・山田甚太郎が別荘として、この城郭と武家屋敷風の家屋を建てたものです。2年後に山田氏から鶴来町に寄贈されて博物館となっていました。
画像
画像


旅行日 2014.05.30 2013.08.21 2013.12.04

火伏不動尊




"火伏不動尊 ~ 市神宮跡" へのコメントを書く

お名前:
メールアドレス:
ホームページアドレス:
コメント:

最近のコメント