倶利伽羅(くりから)不動寺 西之坊鳳凰殿

画像一応、左腕が完治して仕事復帰した嫁さんですが、あんまり外に行かなかったおかげか、今年はいつもより花粉症も重症ではなかったようです。この日久しぶりの完全休日が重なった二人^^
久しぶりに二人でお花見に行こうということで、倶利伽羅峠の八重桜に行こうということに、、、今年は満開が遅れて4月末に満開情報が。。ところが、倶利伽羅に近づくと道端の八重桜はほとんどが散っているじゃないなですか。。月頭の風雨で散ってしまったようです。道端にはピンクの花が散っています。八重桜は花が散ると、葉も赤茶けますから鑑賞には向きませんねえ。。ということで、急遽の予定変更で倶利伽羅峠の手前の道の駅を右折して、倶利伽羅不動寺の西之坊鳳凰殿に躑躅を観に行くことに、うまくしたら牡丹も観れるかもと。。

倶利伽羅峠の八重桜はだいぶ古くなりますが、以前簡単にアップしています
               2012.04.30 倶利伽羅山 八重桜
               2011.5.4 倶利伽羅山 八重桜




倶利伽羅不動は縁起によれば、善無畏三蔵がこの地の不動池で感得して彫った彫像を養老2年(718年)元正天皇の奉安で開基されたと云われています。弘仁3年(812年)、弘法大師(空海)が全国巡礼の際に立ち寄り、彫像に感激して同体の不動明王像を作って前立てとして、善無畏の彫像を秘仏として封印。長楽寺を開創したのが始まりとされています。
善無畏(ぜんむい)三蔵は、真言宗では真言宗の教えが日本に伝わるまでの歴史に係わった人物として、「伝持の八祖(八祖大師)」の第五祖に挙げられる人物です。印度の貴族階級の生まれで顕教・密教両教を兼修。唐に渡って大日経の漢訳などを伝えた訳経僧、三蔵(経蔵・律蔵・論蔵)に精通するとして玄宗皇帝から三蔵法師の尊称を受けています。(三蔵法師は尊称で、西遊記の玄奘三蔵も尊称を受けた一人、日本では最澄・空海と共に渡海した法相宗の霊仙のみです。)来日説もありますが、善無畏が印度から唐に移ったのは80歳の高齢ですから、ちょっと無理があるかも。。

倶利伽羅不動寺の本尊は不動明王像で山頂本堂の脇にある施無畏堂の後ろにある奥の院に納められています。現在の不動寺や津幡町では善無畏作の本尊が納められていると云っていますが、僕が子供の頃(中学生だったかな)に不動寺の住職に聞いたのは、これは弘法大師作と伝わる前立像になるそう。善無畏作の本尊は奥の院の更に先といわれますが場所は誰も知らないと聞いています。奥の院は3年に一度開帳されますが、今年10月がちょうど開帳に当たるはずです。ちなみに前述の施無畏堂は奥の院の拝殿になります。コンクリート造りで趣は薄いですが、地元の人は本堂よりこちらにお参りします。

通常の不動明王像といえば鬼のような表情の神仏像ですが、倶利伽羅不動明王は、元々は不動明王の持つ剣のことでした。不動明王と共に剣として表現されるときもありますが、ここでは「剣に撒きつく炎を纏った黒龍」とされています。この凄まじい姿態から、その筋の人の刺青として倶利伽羅紋々の名で人気があり知名度抜群です。

倶利伽羅不動尊は開創以来、有力者をはじめ民衆にも根強い人気を集め、七堂伽藍をはじめ十二ヶ寺の塔頭が置かれたと伝わっています。しかし、加賀・越中の国境地帯であり、旧北陸道が通る場所の為、幾度も兵火を受けて栄枯盛衰を繰り返しています。江戸時代には前田利長の病気平癒の祈祷所が前田利常によって置かれたのを皮切りに、参勤交代での藩主の休憩所にもなったことから加賀藩の手厚い庇護のもと繁栄しました。幕末に近づく天保7年(1836年)の門前茶屋の失火延焼で山門や不動堂を失い、再建されないまま明治の神仏分離で長楽寺が廃され手向神社だけとなって仏像類は津幡町や金沢市に散逸した状態でした。、明治16年(1883年)には入り口の門前町・竹橋宿(道の駅の辺り)が大火で燃え、威容は長らく失っていました。

昭和24年(1949年)に高野山と地元住民の努力で山頂本堂が再建されて真言宗寺院として倶利伽羅山・不動寺として復興しましたが、江戸時代以前、主要国道としての長楽寺の西之坊があったと云われる竹橋宿からの参道となる旧北陸道は忘れられた存在となっていました。倶利伽羅不動尊・不動寺(地元の僕たちは不動さんと呼んでました)が越中小矢部・加賀津幡町双方からの人気を集め知名度を広げていき、初詣客の数では加賀一宮・白山比咩神社、能登一宮・気多大社と争う存在にまで広がって行きました。

しかし、国鉄・倶利伽羅駅もJRとなって無人駅となり、国道8号線がバイパス化されて旧国道は県道に格下げとなりました。このため険しい峠道の山頂にあるために、駐車場も狭く躊躇する人が多く、山頂本堂にはこれ以上の許容力がなく交通の便と足腰の不安を持つ人への配慮から施設の拡充、簡易化が課題だったといえます。
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平成10年(1998年)10月、竹橋宿の西之坊があったとされる場所に「西之坊鳳凰殿」が復興事業として伽藍が造られました。土台は鉄筋コンクリート・バリアフリーですが、上部は樹齢千年超の檜を使用し、左右の幅75メートルと大掛かりな神殿造の寺院建築です。中央の屋根の左右に鳳凰が配されています。
建物は三つに分かれていて渡殿で接続されており、中央が三仏堂として本堂に当たり、不動明王を中心に薬師如来と千手観音が祀られており、須弥壇下には回廊巡りとして如意宝珠(大きな水晶玉)が置かれています。また、須弥壇では毎日12:00に護摩木を焚く護摩法が行われ、1時間ごとに祈祷儀式が行われます。
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また三仏堂真裏の登山道を登ると奥の院として真言宗の教祖・大日如来の黄金の仏像があります。ここが真言宗の別格本山だと思い出させてくれます。北陸では小松の那谷寺と並んで不動寺も別格本山になります。
真言宗寺院は境内の庭園や何でもありの構築物が華やかで、境内を歩くと飽きないものが多いんですが、那谷寺といいこの不動寺の鳳凰殿を観ると納得させられます。

右翼殿・不動堂には弘法大師帰朝の際に嵐に遭遇した時に、師の恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から授かって祈ったという波切不動尊が安置されており、参拝者の災厄除け・交通安全の担当になっています。右翼殿前は車のお祓いが出来るように駐車スペースになっています。
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左翼殿には阿弥陀如来が置かれ、高野山の「阿弥陀聖衆来迎図」を模して、勢至菩薩、観音菩薩をはじめとする諸眷属を再現しています。ただ、まだ完全には出来上がっておらず、近年完成予想なんだそうです。

鳳凰殿の前には大心池が配され、大灯篭、大香炉、弁天堂の島に橋が架けられています。盆には灯篭流しに伽藍がライトアップされます。

さて、ここまでの説明と画像を見て、鋭い人は気づいたと思いますが、何かに似ていると思いませんか。。
そう、国宝・宇治平等院鳳凰堂。建物と前面の池は平等院を模写したとしか思えません。。ちなみに現在の平等院は池に囲まれて島の中に建つようになっていますが、側面から背面の池は平成に入ってから確認され復元されたものです。鳳凰殿の建設時には、平等院も前面の池だけでした。ですから修復・改修前の宇治平等院鳳凰堂を大きくしたようなそっくりさん、右翼殿の阿弥陀如来の來迎図の再現などは日本の顕教の代表ともいえる浄土教、鳳凰堂の本堂と同じ志向です。密教色の強い真言宗がよくぞ造ったという感じ。。まあ、その辺は御愛嬌ということで、、、、西之坊がどういう建物だったかという確たる資料がないんですから、機能と見場を優先したといった感じですね。まあ、名前を鳳凰殿として屋根に鳳凰の装飾まで配したんですから確信犯ですね。。一応、不動寺では平安時代の神殿造りの様式を取り入れて、荘厳優雅な雰囲気を漂わせたとしています。
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この鳳凰殿の周りには躑躅・石楠花・牡丹・藤が配されていて、この時季には美しい花に彩られています。
特に躑躅はいろいろな種類が配されていて、美しい風景が広がっています。創建当時から10年ほどはまだまだ育ち切っていない印象が強かったのですが、年数を経るごとに育った木花が、眼を和ませてくれます。
側面から背面の山上は起伏がありますが、躑躅の散策にはもってこいです。所々に配されている観音像とも妙にマッチして風景を楽しむにはうってつけの躑躅の名所です。創建当初の庭園の何でもありの石造りの観音を観た時はなんじゃこれという世界でしたが、花が一緒にあると別世界。。恐れ入りました。。
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辛いところは、躑躅とサツキもそうだし、石楠花もそう、違いが解らず、種類や名前が解らない僕。。牡丹と芍薬(牡丹は木で、芍薬は草、茎の色が違う^^V)の違いは解るけど。。名はやっぱりわからない。。嫁さんも同じくで、綺麗だなあだけの花素人夫婦。。左の真紅の花の画像、嫁さんにこれは躑躅じゃないよと云われて、躑躅だと言い張った僕^^;さっき見たブロ友のgoさんの吉岡園地のブログによれば、西洋石楠花(シャクナゲ)@@;ドヒャ~~
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旅行日 2017.05.03


※ここからは僕の個人的私見です。けっこう偏見や穿った見方です。悪しからず、、、

鳳凰殿の建物に関して、僕がちょっと悪意を持って書いているように感じられる人が多いと思います。建物に関しては文句はないのです。たとえ、平等院を参考にしたとしても芸術性に優れたことに異論はありませんし寺院建築の模範にもなるものだと思います。。気に入らないのは、鳳凰殿という名と元になる鳳凰の像を屋根に配していること。通常、寺院の屋根上には災厄除けの鬼瓦か、鴟尾(しび)と呼ばれる魚の尻尾が飾られています。東大寺や唐招提寺が著名ですが、鴟尾は火除けの意味合いを持ちます。後年の城郭の鯱(しゃちほこ)はこれが変化したものと云われています。

日本国内で近年建築の寺院を除けば、鳳凰を天辺に設置しているのは平等院鳳凰堂と鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)のみといっても過言ではありません。この三か寺に共通するのは、修学旅行などで京都に行くとどれかがコースになるほどみんなに認識されています。そして特殊な造りで、それまでにない特徴的な構造建築ということです。内部構造は置いておいて、兄弟・親子共いえる金閣・銀閣ですが、外観に関しては銀閣寺は足利義政が金閣寺のコピーに徹したというか対抗して似せたといえます。外観と内観の意匠の違いは、義政の芸術性(日本で最初の侘び寂びを芸術に持ち込んだ人物はこの人だといえます)のなせる技と彼の趣味だといえますからここでは除外します。問題は平等院鳳凰堂と金閣寺です。

平等院は藤原頼通が建立したとされていますが、元々は父親で「「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠んだ藤原道長の別荘・宇治殿だったのです。道長の阿弥陀信仰は狂的なほど有名でした。道長は法成寺建立に晩年の精力を傾け、極楽浄土に行けるように、九体の阿弥陀如来像と我が手指を糸で繋いで亡くなっています。宇治殿も現在の姿にする構想を元々持っていたようで、その遺志を継いで西方浄土を模した建築を造ったのが子の頼通になります。頼通も26歳で当時の最年少摂政、太政大臣、関白を半世紀に渡って歴任、道長と共に藤原北家の全盛期を作り上げています。

この親子はともに上昇・権力志向が強く天皇を取り込み、姻戚政治の頂点に立っていたわけで、朝廷に獲って替わることも十分可能だったのです。その行動の多くは天皇家をないがしろにした寄生虫といっても過言ではありません。それを抑えたのは天皇という存在があっての自分たち藤原家という自制と、道長にとっては公正で手強い政敵であり、唯一反論や意見を言いあえる友人。頼通にとっては師父となる賢人右府と呼ばれた藤原実資の存在が大きかったようです。ただ、次に転生する西方浄土では自分が本当の頂点(天子・天皇)に立つという意思が平等院の姿には窺われます。
ちなみに藤原実資の日記「小右記」に道長の詠んだ「この世をば…」の歌とくだりが載っていて、時代の流れの重要資料になっているそうです。そうそう、内容を観たことはありませんが、藤原道長の世界記憶遺産に指定された「御堂関白記」と合わせると面白そうですね。

あからさまなのは鹿苑寺・金閣寺の前身となる別荘・北山第を建てた足利義満。改めていえば義満が築造した北山第は規模面積で御所に匹敵し、大小の役宅を配し、仏塔としては史上最高度(約109メートル)を誇った七重大塔が建てられていました。現在、金閣と呼ばれる舎利殿には対となる天鏡格という一回り大きい建物が北西に建てられ2層同士で空中回廊が渡されていました。天鏡格からこの回廊を通らないと舎利殿には入れないようにしていました。天鏡格は義満と重臣・公家との会所になっており、義満は執務室と云える舎利殿から会所の天鏡格に回廊から彼らの前に現れるという演出です。更に賓客を迎える際には逆に天鏡格から回廊を通って舎利殿で持て成したといいます。現代に言い換えれば、天鏡格が国会議事堂で舎利殿は迎賓館兼総理執務室というわけです。別荘といいながら室町第の将軍組織より格上の北山第を築いていたわけです。

朝廷御所の儀式が行われた正殿を紫宸殿と云いますが、天鏡格の横に宸殿の名を持たせた正殿を造って、諸儀礼の際には、公家の伺候も御所より優先させていました。今は見る影もありませんが、あくまで創建時点では寺院ではなく(鹿苑寺として寺院になるのは義満の死後)御所を見下ろすような北山に新たな御所(大内裏)という政治の場を作ったわけです。もっといえば暗黙威圧するように天皇の上に立つと誇示して見せたわけです。

義満が自身で頂点に立とうとしたのか、子の義嗣を頂点に立たせようとしたのかは不明ですが、御所内の奥向きを自分の奥向きのように出入りし、政務的にも天皇から人事権と祭祀権を奪っていますし、儀式では上皇待遇を受けています。また義嗣の元服式は武家式ではなく宮中で行われ親王格として行われています。

鹿苑寺の金閣寺と呼ばれる舎利殿は、一階が公家の神殿造、二階が武家の書院造、三階が中華・禅宗風、天辺に鳳凰が飾られています。この三種の階層の違いは諸説ありますが、単純に観たまま考えれば公家の上に武家が置かれ、その上に中華(ここでは国ではなく頂点を表していると思われます。)という至高を置くわけです。
更に三層には阿弥陀如来像と二十五体の仏像が置かれていたと云われます(現在は消失)。狭い三層のスペースにこれだけの仏像を置けば人一人分の余地しかないことから、1.2層の上の頂点に立つ一人の権力者(主上)の御座所を表すと思われます。天皇ならば和風でよいのですが、それをわざわざ中華風にしたのは。。。

義満は明徳3年(1392年、南朝元中9年)に南朝を騙す形で南北朝を統一。やり方はどうあれ戦乱に明け暮れた分裂状態の朝廷をを一つにしたのは彼の大きな功績です。その2年後には対立していた後円融上皇が死ぬと、完全に権力掌握に成功し、征夷将軍出身では初の太政大臣、準三后として公家の頂点、つまり武家・公家双方のトップになっています。

応永8年(1401年)明との国交を樹立しています。歴史の教科書では証明に勘合符を用いたことから勘合貿易として習ったと思います。内実は明皇帝から義満が日本国王として任命された体をとったもので、見返りに倭寇退治も課されていました。明皇帝から国王任命を受けるということは、日本が明国の組下になるということで、ていの良い朝貢貿易だったということです。
元々、義満は太政大臣時代から数度にわたって明に使節を派遣して正規の通交を求めていました。しかし、明からは天皇の陪臣に過ぎないものと、国交を持つことは拒否されていました。そして、義満がとった手段が太政大臣の辞任と、出家による準三后からも離れることによる天皇家、朝廷からの独立でした。要は陪臣ではなくなったわけです。つまり、日本での称号よりも貿易の実利と中華からの後ろ盾を採ったわけです。しかし実際には将軍職を息子・義持(4代)に譲ってはいても、日本国内でもそれまでの権力を手放さず欲しいままにしていました。

日本は古来から中華の国とは天皇家が表に立って、聖徳太子以来、中華の柵封を避け続けてきた歴史がありました。この長い歴史の禁を破ったわけですから、朝廷の内外からの反発は当然あったのですが、強大な権力によって押さえ込んだというより言わせなかったというのが真実に近かったようです。ただ、義満を少し弁護するならば、朝貢というのも形ばかりで明の立場に立ったともいえ、それ以上の貿易の実利があったわけですし、当時の最先進国に認められることは彼自身の大きなステータスになったのですから。。

もう一つ弁護的に言えば、義満より先に日本国王の称号を持った人物がいたのです。南北朝の争乱時代、一時期は菊池氏や阿蘇氏を主力にして、北朝と対立した足利尊氏の長庶子・直冬(ただふゆ、尊氏の弟・直義の養子)と組んで大宰府を陥れて九州を制圧寸前まで行った人物。南朝の懐良(かねなが)親王という前例がありました。懐良親王の勢力は、衰退の一途をたどる南朝方では唯一の領土拡張の活躍を見せた勢力でした。その原動力が皇族として初めて日本国王として認められたという事実でした。これによって、ただでさえ勤皇思想の強い九州勢力が、しぶとく味方した一因と云えるのです。この懐良親王の日本国王柵封がどれだけ北朝&幕府を苦しめたか、懐良親王の勢力が敗退衰亡したのは南北朝統一の数年前、眼の前で観た義満にはそのメリットがよく理解できていたんでしょう。ただし、懐良親王・日本国王の存在したことはその死後にも生き続け、義満は彼の敵対勢力として門前払いを食い続け、前述のような策を弄することになってしまいました。ただ、陪臣の義満が日本国王と認めらた前例は、国力の弱った末期の明国、その後の清国では伝統のままに一般貿易を禁じ鎖国体制をとり続け、倭寇撲滅の見返りとして、朝貢貿易としてその後の戦国大名に乱発していくことになります。

長々と横道に話が逸れましたが、日本国王として中華に認められた人物は金閣が造られた時点では、足利義満ただひとり。彼が金閣の第三層の主だという証明です。
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そして金閣の上の鳳凰。鳳凰のことを大辞林にはこう書かれています。
古くから中国の伝説にみえる想像上の瑞鳥。麟りん・亀・竜とともに四霊(四瑞)と呼ばれた。体は、前半身が麟、後半身は鹿、頸くびは蛇、尾は魚、背は亀、頷あごは燕つばめ、くちばしは鶏に似る。羽にはクジャクのような五色の紋があり、声は五音にかない気高く、梧桐ごどうにすみ、竹の実を食べ、醴泉れいせんの水を飲むとされた。聖天子の治政の兆として現れるとされる。雄を「鳳」、雌を「凰」と称したともいわれる。

つまり、鳳凰という鳥は「聖天子が世に現れて、治世を始める時に、姿を現すめでたい珍しい鳥」となるわけです。新たな聖天子がだれか、鳳凰の下の御座所の主、これで言わずもがなというものです。日本国王は俺だという意味合いに印象付けられるわけです。
平等院鳳凰堂の場合は下に御座所はなく阿弥陀如来座像がデンといるわけで義満ほど悪質ではないのです。銀閣寺は義政が金閣寺以上の物を造ろうとした対抗上、外装を金閣寺の意匠にまねただけ・・
本来ならば天辺に鳳凰を使用できるのは、日本では天皇の玉座といえる高御座くらいじゃないでしょうか。

鳳凰というのは新たな権力者や施政者の出現を意味するわけです。仏閣では聖天子を聖観音と読み替えるずるい言い訳をするところもありますが問題外ですね。室内やデザインとしてならともかく、こんなものを一般民衆を迎える寺院の屋根の天辺に鳳凰を作るなぞは、政教分離の日本で何を考えていると云いたくなるんですよ。道長・頼通、義満の有力者=寺社の時代ならともかく、、、それが、寄りにも寄って、地元の歴史ある仏閣だから尚更の思いが出ちゃうんですね。僧籍で天台宗と共に僧侶教育の学府を自認する癖に意味が解ってるんでしょうかね。解っていたらとんでもないことです。

もちろん、平等院や金閣寺の装飾があまりに有名になりすぎて、お札の図案にまでなり、一般に奇瑞の鳥として認識されているのも事実で、一般素材としてデザイン性が高いのは事実で、側に置きたいデザインと認知されていることも確かです。僕も美術作品の鳳凰図や彫像はけして嫌いではないんです。でも、寺院のメインに配するのは。。。違和感が。。

平等院鳳凰堂と鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)に関しては、今は寺院として扱われていますが、個人の思いや憧れ、熱情の主張がなされた建物です。寺院としてではなく、藤原道長・頼通、足利義満、足利義政の個人の造った遺構・作品という眼で観ることをお勧めします。寺院建築としてみてしまうと平等院はともかくとして、金閣寺は議事堂・迎賓館・執務室、銀閣寺は個人の邸宅として観た方が歴史に即すと思います。

一般的に教科書で習う足利義満は金閣寺を建てた人として一貫していて、気の利いたものでは南北朝を統一させた年表や勘合貿易がチラッとくらいです。足利将軍家の認知度は全体に低く評価されますが、日本史上の武家者で天皇を凌駕して頂点に一番近づいたのが足利義満だったのです。どのようにして武力・権力・財力を得たかを書き出すと本が何冊も掛けるほどなのでまたの機会に。。ただ義満の最期を記すと

義満が目指したのは天皇家乗っ取りだったのか、太上上皇(天皇)としての頂点だったのかは、ゴール寸前の未遂で終わっているのでわかりません。成功していれば、歴史は大きく変わっていたことでしょう。
足利義満の終焉は突然でした。前述した三男・義嗣の宮中元服は立太子の礼の儀式作法に則ったもので、終了後には無位無官からいきなり従三位参議につけられています。次男の4代将軍・義持の元服時の官位が正五位下ですから破格のものでした。これは摂関家を越える皇族以上親王級のものです。予想ですが、実質の立太子の礼を受けた義嗣を後小松天皇の養子として、次代の天皇位にしようという目論見だったと思われます。
この時点で、軍事力・政治権力更に人事権、更に天皇の祭祀権も手中にしており、あと一歩どころか手に持っていたというところまで来ていたわけです。ところが、この元服の2日後、義満は病に倒れ一週間後に亡くなっています。前日までピンピンしていたと云いますから、毒殺説が有力視されるわけです。

その死後、相続継承はごたついたのですが、継いだ義持は義満とは不和だったとされ、朝廷からの義満への太上法皇号の追贈を辞退。足利家の家督相続でも義嗣を追放、その後には謀反の罪で殺害しています。更に義満の強圧政策を完全否定して、武家統制のみに転換して大名融和策をとります。これが奏功して義持の将軍在位は歴代足利将軍では最長の28年を数えます。
また北山第を寺院として舎利殿(金閣)・七重大塔以外の堂宇を破却しています。義持の行動は不和によるというにはちょっと異常なくらいです。なぜここまで破壊したのに肝心な金閣寺と七重大塔(その後、落雷で消失)は残したのか。。とにかく義満の政策と夢はここで自分の死と共に灰燼と水泡に帰しています。

ちなみに義持は5代を義量(よしかず)に家督を譲ったものの、一子・義量は2年も満たずに急死。急遽・将軍職に復帰しています。在位のまま晩年の長い闘病生活に入っても光景をたてずに死去。次代の将軍を籤引きで決めるという異例の事態を引き起こしています。
跡を継いだ籤引き将軍・恐怖の魔王と呼ばれた6代・義教(義満の五男・義持とは同母弟)は、初期段階で挫折しましたが、義満の治世を目指したと云われています。僧名・義円、天台座主・大僧正まで経験して還俗して将軍となった義教の対宗教組織強硬策などの行跡を踏襲したのが織田信長になります。

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