白山七社(番外編) 岩根神社

前回紹介した白峰の中心から天領取次元・大庄屋・山岸家を右手に観て、石積みが観られる道を真っ直ぐ行くか、白山公園線を市ノ瀬方向に進むと。。白山公園線を冬季通行止めにするゲートの左手に広場があります。
そこが岩根神社になります。(例年ならば11月から4月末までゲートは閉まっていることが多いです。)
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白山七社・岩本神社で書きましたが、岩本宮の旧名が岩根宮と呼ばれたとなっていました。能美市教育委員会では岩根宮として文化財指定しています。

しかし、疑義にしたように岩本神社では、岩根宮の名称を天狗壁頂上の磐座を名の謂れにしていますが、やはりどうしてもこれには無理が多いと思われます。それに加賀禅定道とは手取川を挟んでおり、登山道とは少し違っています。ただ、中世以降は間違いなく岩本の渡しの関係性からも岩本宮として白山七社・本宮四社の一角というのは間違いありません。
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白山開山(養老元年・717年)から加賀国成立(弘仁14年・823年)までは加賀自体が越前の一部でした。
加賀・越前・美濃番場が定められた天長9年(832年)、鎌倉時代に書かれた白山之記に岩本宮の記述があることから遅くとも平安末期。それまでは加賀の白山社として岩根宮という存在があったわけです。
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白峰が主張しているのがこの岩根神社の地になります。越前・加賀禅定道からも離れた位置です。
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しかし白山七社の中でも加賀国府からの道からの中継点になる岩本宮・別宮。松任・金沢からの本宮の前に立つ剣宮が示すように、加賀の白山七社は各街道の要所に当たっています。そう考えれば越前からの谷峠越えの中継点(加賀の始点)となる白峰も決しておかしいとは言い切れないと思われます。

後年、白山争論の一つの原因となった牛首・風嵐(白峰)と尾添の争いにより、平泉寺を背景にした牛首・風嵐を白山本宮がそのまま白山七社に数えるわけがなく、岩根宮をはずして、自分の勢力下の岩本宮を白山七社にしたと思われるのです。岩根神社の境内にある由来碑を記すと。。
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狛犬は、昭和6年7月 寄進者 白峰村 小田 松治郎
小田は白峰ではコダと読みますが、屋号ムツバ、風嵐地区の地区長さん的存在
加賀では珍しく足が太目短足ですが、どっしりした感じ。。洪水にも耐え抜いたようです。


岩根神社の由来

 当社は風嵐集落の産土神として 伊弉諾尊 伊弉冉尊 菊理姫神をお祀りし 古来白山三所の社として広く白山登拝者の崇敬を集めた
 養老元年(七一七年) 白山開山の祖泰澄大師の創建により白山七社の内 岩根之宮としての由緒があり 神迎おどり(国指定選択文化財)等白山まつり発祥の地でもある
 天然の巨岩に鎮座し 大欅がそびえ樹根は岩を垂下奇観を呈して国の天然記念物(昭和十八年)に指定された 
 昭和九年大洪水によりその巨根が洗掘され 以来樹勢枯渇したが現在もその一部を残している
 左右の巨岩にのせて白山三所(御前峰 大汝峰 別山)の社を奉斉したが 後世中央巨岩(御前峰)に合祀された
 昭和の代 氏子風嵐区民の奉祀により 本殿 拝殿 弊殿及び鳥居等社殿 境内の修復整備に努めた
 手取川総合開発手取ダム建設に併せ集落再編整備事業により 昭和五十四年全戸移転 以後村内在住の氏子 崇敬者により奉祀され現在に至っている
 白山連峰眺望絶佳の地であり此処 自然休養村 緑の村を訪れる人々の憩う場でもある
 白山の恩恵に感謝し ひたすら世の平和と白山水系の安全繁栄を希うお社として 祖先の遺徳に応え再整備の奉仕を行ない次代に継承するものである
                              謹  書

  平成五年十二月吉日
                        岩根神社 氏子一同

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風嵐(かざらし)集落は、元々は牛首村からの出作り小屋が置かれて、居ついた住民によってできた村落(風嵐村)だったと云われています。盆地特有の風や嵐の音が激しいことからこの名がが付けられたともいいます。このため、生業は林業・炭焼き・出作りがほとんどの集落でした。山岳地帯の白峰では数少ない平坦地があった場所で、稲作も行われていたそうです。由来碑(織田文書からの引用か)によれば風嵐の方が牛首より先に作られたとなっていますが、泰澄が先に立ち寄ったのは市ノ瀬、更に準備だったのでしょうか牛首に立ち寄ってから白山山頂に向かったと白峰では伝えています。この辺りは幕末に書かれたもので白山争論のために、泰澄との関連を強調したいともいえるかもしれませんので、はっきりはしません。

風嵐集落岩根神社と道路を挟んだ高台にあったのですが、昭和54年(1979年)に手取川ダムと村内再整備の宅地造成で集団移転を行って、現在は牛首地区や金沢などに全戸移転しています。跡地は「緑の村」として公園化され、宿泊施設・御前荘、白山を観ながら入れる展望の湯、白山砂防科学館、コテージを配した緑地公園になっています。

岩根神社の横に簡素な2階建て建物がありますが、明治27年(1894年)開校の白峰小学校の風嵐冬季分校で昭和48年(1973年)まで使用されたものです。校舎は昭和40年代の物です。
白山麓でも白峰地区は山間に集落が分散しているために、明治から大正にかけては、風嵐は冬季使用でしたが、他地区には本校から1名の教員が派遣される分教場や巡回授業所が置かれていました。
しかし昭和9年(1934年)の最大の水害と云われる手取川洪水、本道の整備(国道157号線)、近代化により主要産業の炭焼きの需要減で過疎化が進み、手取川ダムの整備で、昭和40年代にその多くが姿を消しています。
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白山開山の為に白山山頂を目指した泰澄上人は、市ノ瀬(風嵐とも云われています。)の住人・笹木(佐切) 源五郎と共に行を共にして向かいます。越の大徳と呼ばれた泰澄は、この当時には、文武天皇から鎮護国家法師に任命され、白山豊原寺(現丸岡町豊原、白山神社)を建立し十一面観音(白山神)を信奉しており、白山麓でも知られた存在だったようです。



白山神は全国の山の民・被差別民に信奉された経緯も、泰澄以来のものだと考えられています。

白山開山の為に登頂した泰澄達ですが、下山予定を過ぎても下りて来ず、牛首の住民たちは心配になります。このため、牛首から白山に向かう山道の最初の広場になる地に向かうと、夕暮れに下山してきた泰澄上人が現れます。(市ノ瀬の伝承では場所は市ノ瀬・六万山のブナ林の空き地)
修行を終えたその神々しい姿に感激した村人たちは歓声を上げ、手を振り足を踏み鳴らし、持っていたカンコをうち叩いて迎えたと云われています。これが神迎え踊りとして国選択無形民俗文化財・石川県指定無形民俗文化財「白峰かんこ踊り」の発祥とも云われています。

場所(風嵐・市ノ瀬)には異説があるように、カンコの名称も伝承の神迎えからの変称が有力ですが、野良仕事の際に腰に下げるカンコ(蚊遺火、携帯蚊取り線香)、羯鼓(かっこ、鞨鼓、唐楽の楽器)に似た太鼓に合わせて踊るからとか諸説があります。
風嵐・市ノ瀬から発祥したこの踊りは白峰本村にも伝わって、泰澄下山の6/18はもちろん祭事や盆踊りなどに取り入れられて発展してきたものです。現在は巫女姿の踊りや野良着姿の踊りなどが主になっているようです。

白峰の伝承では、この風嵐の地に下山した泰澄が滞在して、この岩根宮を開基したことから風嵐集落が開かれ、翌年に牛首に牛首社(薬師社)を開基して牛首村が開村したとしています。この伝承もあって、古くから風嵐村・集落の岩根宮は産土神として信奉されてきました。長くは岩根宮と呼ばれていたようですが、戦国期以降は岩根社と呼ばれ、明治の改編では無格社とされていました。昭和21年(1946年)に岩根神社と改称しています。
前述のとおり、昭和54年に集団移転で集落は失いましたが、旧来からの氏子・崇敬者によって境内の整備が長年施されています。
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岩根神社は名前の通り、大きな岩山三個を白山三山(別山、御前峰、大汝峰)に見立てて、それぞれの頂上に祠を置いていました。主祭神は白山三山になぞられる伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊・菊理(くくり)姫神がそれぞれに祀られていました。この大岩に欅の巨木が根を張って三所を包み込むように立っていました。
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ところが昭和9年(1934年)の手取川本流の大洪水によって、大岩と欅の根が洗い流されて樹勢が弱ってしまいました。大岩の周りや頂上に登ると枯渇した木根が見られます。


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昭和21年(1946年)、中央最奥で一番大きい岩の御前峰の社に別山と大汝峰を合祀して、社を一つにまとめています。この時から前述の様に岩根神社として名称も整えられています。
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昭和9年7月の大洪水は、前年の豪雪の雪解け水と400ミリの豪雨が重なったもので、別当谷大崩れの他にも広範囲に土砂崩落を起こしたもので、白山麓はもちろん下流の市町村にも大きな被害を起こしていますが、壊滅した市ノ瀬・赤岩で12m、ここ風嵐でも7mと河の水位上昇を記録しています。前述で風嵐集落が緑地公園になっていると書きましたが、洪水当時は河岸に集落があった為に壊滅的な被害を出しています。この痕跡を残す物に、市ノ瀬に向かう途中に百万貫岩があります。百万貫岩はその名の通り129万貫の重量がありますが、この洪水時に3キロ上流で支流の宮谷川から流されてきたものです。過去に何度も土石流や洪水を繰り返した手取川は急流として知られるように、大小の石が河中や河岸にあります。
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地面に埋まっている部分があるために岩盤なのか岩石なのかははっきりしません。岩根神社の本体となる岩山も手取川上流から流され運ばれて来た岩石とすると百万貫石に匹敵すると思われます。その岩盤に欅や他の木々が根を張るのですから、自然の力の凄さには驚かされます。古代の人たちもその神秘と岩に根を張る姿に社を建てたと思われます。

白山七社の番外編として岩根神社を紹介しましたが、、現在の定説は岩根宮・岩本宮を一つ(岩本神社)としています。集落を持たない神社なので、建物群や構築物はありませんが、境内の雰囲気や岩上の形態を観ると、往時は十分な資格を持った重要地だったと思われます。
やはりその場に立つと、岩本宮の前身・岩根宮はこちらだったと再確認させられる存在感があります。
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開道紀功碑 漢文の上に摩耗で判読しづらいのですが、大正10年(1921年)起草と白峰・別当出合三里の文字は読めました。。現在の白山公園線(県道33号線)は昭和35年に認定されていますから、それ以前の開道記念碑です。ちなみに終点・別当出合から66m進んだ所から白山山頂は当然徒歩ですが、県道120号線になります。

次回は白山公園線を更に市ノ瀬に向かって奥地に行ったところに、このサイトでは一番最初にアップした場所に再訪です。しばらくぶりでしたが、駐車場が整備され、間近まで普通の格好で行けるようになっていました。

旅行日 2016.06.11


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