粟津白山神社

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大王寺の本堂を左手に進むと、祈りの小径の入り口になる粟津白山神社の長い石段が現れます。
粟津温泉街を見下ろす山上にあり、一の鳥居から粟津温泉の町の広がりが観られます。大王寺が拝殿とすれば、白山神社の位置は神殿、奥の院といった位置になります。そのためか加賀の国守や、加賀藩から小松に隠居領として入部した前田利常が参拝した記録が残されています。
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一の鳥居を潜ったすぐ脇に、綺麗な由来碑がありましたので転記を。。綺麗だったので新しいものだと思ったんですが昭和60年(1985年)のものでした。後ろには同時期に寄進された珠玉を抱えた獅子像。さすが小松・加賀の神社ですねえ。。現代九谷の代表的なモチーフです。珠玉は加賀手毬になることが多いのですが、有力氏子や九谷焼の工房のある加賀・小松の神社ではよく見かけます。けして嫌いなモチーフではないですが、僕にはお金持ちの床の間に置かれた置物が連想されてしまいます。う~~む、貧乏人のひがみ眼ですかね。。
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白山神社由来碑

湯の町を眺望するみどり深き山上に鎮座まします白山神社は、奈良時代より粟津保の総社であり、保内の人々によって厚く崇敬されてきた。

粟津保はもと粟津上保、粟津下保に分かれていたが、南北朝以降は合して粟津郷となった。

当社はむかし白山比咩神社と共に伊弉諾命(いざなぎのみこと)・伊弉〇命(いざなみのみこと)・菊理比咩命(くくりひめのみこと)の三柱を祭ると称せられ、また粟津白山宮と号し、養老二年(718年)僧泰澄の温泉発見の古事に因み、社殿に白山妙理権現を安置したと伝えられる。

天永 永久(1110 ~ 1118年)のころ、加賀守・藤原顕輔(あきすけ)は白山に登り参籠中霊夢に感じ、直ちに当社に詣で和歌を献じた言ふ。当時祠殿宏大であったが、源平時代の兵火に遭ひ、神宝旧記の類は概ね焼失した。

正保元年(1644年)前田中納言利常公は粟津御入湯の折、粟津之郷御総社・白山宮に御参拝相成った由、郷内信心衆の間に伝承され、今に至るも悪疫退散、五穀豊穣の霊験あらたかな社として著名である。

昭和六十年九月吉日  三思道人謹白


粟津保(粟津郷)は現在の温泉街のある粟津上保、小松ドームを中心にした下粟津町・津波倉(つばくら)町近辺の粟津下保に分かれていたようです。玄関口と言えるJR粟津駅近辺は粟津ではなく符津(ふつ)と呼ばれていたようです。ちなみに町名が示すように小松の地の現在の中心街は江戸期に前田利常が入部してからのもので、海と湖沼が多く、低湿地帯が広がり、島のように遺跡群や村落が点在しており、国府があった時代を含め中心地は現在の山側環状バイパス(加賀産業道路・国道新8号)に沿った低山岳地に発展していました。
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資料がほとんど焼失したために、最盛期は予測するしかないのですが、粟津開湯の古事から言えば。。
白山開山前から白山信仰の拠点となっていた越前丸岡の豊原寺から、現在の国道364号の山中越えで、那谷寺を経由して、国府から中の峠越えあるいは大日川ダムの大日川沿いに進んで、鳥越の白山別宮に至る白山へのもう一つの禅定道が想像されます。

平安時代、加賀国が誕生して野々市や金沢が徐々に政治経済の中心になっていく際に、その方向からの入山者を迎える役目が加賀番場・白山比咩神社になるわけですが、もう一つの豊原寺からの道を想像すれば、那谷寺や粟津白山宮がそれまでの白山比咩神社の代わりを果たしていたともいえます。しかし白山開創の当初と遅くとも平安当初までと思われます。平安後期には那谷寺は、中宮三社の勢力下の中宮八院の傘下に組み込まれていましたから。。粟津白山宮が白山比咩神社と同じ三柱特に菊理姫を主祭神に置くのはここから窺え、十分格式を保って平安末期から鎌倉期を迎えていたと思われます。加賀国守が白山下山後の報告にわざわざ、こちらに下山報告をするのはそれ以外考えられません。
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三の鳥居は簡易型で、祭礼の際には縦長の雪洞提灯が5本吊るされます。拝殿脇に古いものが吊られていました。祭礼には新品の新しいものが吊られて美しい灯りが灯されます。
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加賀国司として白山登山をして下山後に、粟津白山宮に参拝・和歌を奉納した藤原顕輔(あきすけ)は平安後期に活躍した歌人・公家でした。白山宮に奉納した和歌は色々調べましたが解らずじまい。。だれか知っている人がいたら教えてください。。

小倉百人一首にも選ばれている歌人
・・・秋風に たなびく雲の たえ間より もれいづる月の 影のさやけさ
ちなみに次男・清輔も選ばれていて、親子二代で入選しています。
・・・ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

藤原顕輔の家は藤原北家の流れを汲んでおり、代々受領(国司・国守)を司る家柄で中級貴族になります。受領は直接任地に赴いて公務を行う四上級官の最上位で、今でいう知事になります。官位は四位前後(最終は正三位)ですから殿上人で朝議には出ない家柄と言えます。
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父・顕季(あきすえ)は白河上皇の信任が厚く、丹波・美作守を歴任しており、その財力は抜きんでていました。六条に邸を持っていたので六条藤家と呼ばれていたのですが、院政史上では最も権力を振るった白河上皇の院庁として提供使用されたほどです。ただし、白河上皇から信任は受け優遇されて官位は階段飛びの出世をしていますが、政治能力は認められておらず政治の舞台に登る参議・議政官就任は最後まで適っていません。他の公家からも政治力に関しては日記などでボロカスを云われています。
しかし歌道に関しては突出していて、歌聖・柿本人麻呂の尊像を祭って和歌を献じる「人麿影供(ひとまろえいぐ)」を創始した人物として知られています。また、三人の子供からの血筋は今も歌道家の家として知られる四条家を始めとする羽林七家が輩出されています。
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顕季の六条家と人麿影供を継いだのが三男・藤原顕輔でした。ちなみに長男・長実、次男・家保は歌道と共に重臣として院庁に努めて出世しています。特に長実は鳥羽上皇の正室・美福門院(藤原得子)の父として権勢を誇っていました。家保は鳥羽上皇の政治の中心人物として活躍し現代も続く四条家の家祖になります。

本家を継いだ藤原顕輔は10歳で院御所に出仕して順調な出世を果たし、加賀守として赴任したのは20代前半の若さでした。粟津白山宮に参拝したのもこの時期になります。国司の身で白山登山を行えるほどの若さと言えます。

無事、加賀守・中務の次官などを務めあげ20代後半で正四位下と公卿にあと一歩まで上り詰めていました。ところが10年後、白河上皇の怒りを買って(讒言と云われています)昇殿差止めをくらい3年の不遇をかこちます。
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寄進当時は白馬であったろう神馬像 ちょっと痩せ気味の姿で落ち葉の中で観ると、ちょっと不気味なものがありますねえ@@
白山比咩大神(菊理姫)は、民の願いを受けると、白馬に乗って山頂に登り姿を現して願いを叶えると云われています。初詣のおみくじを神馬に結ぶのは、大神に願いを白山に届けてもらうためです。 


白河上皇の死後、関白・藤原忠通の娘が崇徳天皇の中宮になった際に中宮令として復帰、従三位として公卿になっています。その後は崇徳天皇・上皇の側に仕えて勅撰集の編纂に尽力しています。顕輔がラッキーだったのは、崇徳上皇が流罪となった保元の乱の前年に亡くなったこと。悲惨な道連れにならなかったこと。いくら関白の引きがあっても類害は免れず六条家は危ないところでした。息子の清輔は忠通の引きで崇徳天皇から近衛天皇、後白河・二条と天皇家に仕えていました。
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源平の争乱ではこの辺りも騒乱の渦に巻き込まれ、藤原顕輔の事蹟を含め創建来の資料が失われ、戦国期の織田信長の侵攻で資料類を完全に失っています。この為詳しい歴史が不明になっています。
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しかし、粟津白山宮の隆盛を伝えるものとして「銅造十一面観音懸仏」が残されています。この仏像は鎌倉時代の作ですが、十一面観音は白山妙理大権現の本地仏であり、この像が置かれていることは白山信仰上では、粟津白山宮が重要な立ち位置だったことを示しています。
神社の案内板から・・

小松市指定文化財 文化財名:工芸品 銅造十一面観音懸仏 管理者:粟津町々内会長

由緒並びに指定理由

粟津町白山神社は、旧、郷社でその創祀も古い。平安時代の頃から白山信仰の主要神社であった。白山社の主祭神は白山妙理大権現であり、その本地仏は十一面観音である。神仏習合であったので、この尊像は懸仏としてまつられ、この神社の御正躰であったと思われる。

現在は鏡板を亡失しているが、鏡板が損傷したので、文化元年(1804年)に厨子を新調し、その中に祀ったのであろう。

厨子の銘文には、粟津郡内緒村二十八か村の肝煎が信心衆総代として名をつらねている。

鎌倉時代初期の作と思われる秀作である。

明治初期の排仏きしゃくの嵐の中に、当地方では多くが破かい破棄された中で、よく伝世管理されてきたものである。仏教美術の上からも、白山信仰の貴重な遺品として、その来歴も明確であり、価値のものである。

昭和六十二年十一月三日 指定 小松市教育委員会

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懸仏というのは、鏡に描かれた仏神の姿・鏡の前に仏像をセットで置いたものを云います。
以前観たことがあるはずなんですが、うろ覚え、、体高は小さなもので、頭上に化仏、天衣条帛(左肩から片掛けで巻いた衣)、右手は膝上で掌を広げ、左には三鈷杵だったか花瓶を握って胡坐をかいた座像です。胡坐の真ん中に釘穴のような小さな穴と顔つきは細目だったような。。古い記憶で定かではありません。
本来は背面に鏡を取り付けた姿なのですが、鏡は文面内に書かれているように江戸期に失われていたようです。粟津の仏像には背中に取付用の小さな穴があるそうです(さすがに背中は見ていません。。)

大きさも小さく厨子入りで目立たなかったこともあり、町民宅に隠し、係官の眼を逃れたようです。その後は厨子に納められたまま脇仏として置かれていたそうです。本来はこの仏像がご神体だったと思われます。公開されたらいいなあ。。
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前にも書きましたが近くの花山神社のご神体は仏僧スタイルの花山法皇の一行立像。神社ですが、明治の廃仏毀釈を逃れた仏像が神殿内や拝殿内の脇に置かれながら静かな信仰を受けている例が加賀の各地に観られます。白山信仰がいかに神仏習合が強かったかを伝えるものと言えます。

源平の争乱、戦国の兵乱とで歴史を綴る文物を失い、荒廃した粟津白山宮でしたが、その後は村の祠堂として細々と残っていたようです。この祠堂を神社として復興したのが加賀藩三代・前田利常になります。このブログで小松のことを書くと必ず出てきますが、みなさんにはまたかと言われそうです。
江戸では鼻毛を延ばしてバカ殿さまを演じたり、江戸城内の庭で小便禁止看板に立ちしょんをして豪放磊落を演じたり、まあ逸話には事欠かないのですが、加賀藩では最高の名君で通っていますし、小松では悪口厳禁なほど人気があります。

寛永16年(1639年)前田利常は家督と本藩を4代・光高に譲り、富山・大聖寺を次男・三男に分藩しています。また自身も隠居領として小松能美22万石を受けて小松城に入っています。粟津の地も当然ながらこの隠居領に含まれています。利常は小松城周辺に町割りを行い経済活性に努めると共に、人心安定のために小松能美領内の寺社仏閣を保護再建を行っています。特に那谷寺は寺院の再建と共に自身の別邸と庭園を造って滞在していました。現在も苔庭の武家庭園として貴重な存在です。

白山開湯の地・粟津も訪れています。正保元年(1644年)利常は粟津に訪れ、法師に逗留しています。
旅館法師と総湯の前、道路のど真ん中に黄門杉と呼ばれる老杉がありますが、この杉は利常自身が植えた杉と云われています。黄門は中納言の別称です。水戸光圀は水戸黄門、前田利常は加賀黄門と呼ばれていた由縁です。黄門杉は明治の大火の際に火がこの木までで止まったということで、粟津の守り神として大事にされています。
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この時に利常はこの祠堂にも参拝。神社への寄進と再興を命じています。ちなみに利常が自分の隠居領内で小松発展の整備と趣味でのんびりできたのはこの年まででした。翌年、金沢本藩を継いでいた長男・光高が急死。後を継いだ綱紀はまだ3歳の幼子で、後見として藩政復帰をせねばならなくなったため。。

旅行日 2017.11.09





訪問時の11月9日は嫁さんの誕生日 今年はキティちゃんのぬいぐるみをあげましたが、宅急便が来るとニコニコで部屋の奥に隠してしまいました。おかげで画像なし。。
それにしても、良い年なんですが、キティちゃんを見る時は子供の眼その物^^;まあ、そこが良いとこでもあるんですが。。

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