能美市九谷焼資料館

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前々回に奥野八幡神社を書いていたら、やはり寺井の九谷焼陶芸村に行こうか、忘れないうちに、、イヤ行った方が良いかなと。。
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昨年秋から長いリニューアルのために閉館していた能美市九谷焼資料館が3/21に開館したということだし。。やっと歩けるようになった嫁さんをリハビリがてら誘いまして、九谷焼の鑑賞に
それにしても、佐野の泉台地の高台は遮蔽物がなくて、厳しい陽射しに、車から降りた途端に汗がドバ~~

先々週まで松葉杖をついていた嫁さんですが、もうゆっくりなら歩けると、サッサと館内に逃げ込みます・・玄関にある像も太陽がまぶしそう
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加賀の各地に九谷焼の資料館や博物館がありますが、後述する九谷焼作家や後進育成を目指す石川県立九谷焼技術研修所・支援工房九谷、資料館別館でロクロ・絵付体験の出来る九谷焼陶芸館、販売店群など九谷の陶芸村を構成する中心点として、能美市九谷焼資料館は九谷焼の収蔵品は古九谷から現代九谷まで最大規模を誇っています。
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能美市九谷焼資料館 HP案内

能美市九谷焼資料館は九谷焼の歴史を振り返るとともに、過去の名作を鑑賞し、さらに現代九谷の新しい息吹を広く一般に公開するため1982(昭和57)年にオープンし、2018年(平成30)年にリニューアルオープンしました。館内では、「紺青の間」「朱赤の間」の江戸時代からの名品の常設展のほか、「紫の間」「緑の間」では随時特別展覧会が開催されています。

ロゴについて  九谷五彩の紺青・赤・紫・緑・黄の丸皿が梅花のように連続して時計回りに配置されています。
これは九谷焼資料館展示室の見学順路を反映している。5つある展示室は、九谷五彩の各色の色壁で区別されています。
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五彩手や青手に代表される色絵九谷は「紺青(こんじょう)の間(ま)」、明治の貿易九谷いわゆる「ジャパンクタニ」に代表される赤絵や金襴手の九谷焼は「朱(あ)赤(か)の間(ま)」、特別展や企画展は「紫(むらさき)の間(ま)」と「緑(みどり)の間(ま)」、九谷焼制作工程の資料や専門図書閲覧は2階の「黄色(きいろ)の間(ま)」となっています。
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丸皿はそれぞれ次の色皿が架かっているように見えます。しかし、黄色の丸皿だけ紺青と緑の皿がそれぞれ双方から架かっています。これは「黄色の間」のみが2階に位置していることをイメージして、敢えてこうした形とし、施設構造にあわせマークの独自性を出したものです。

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前ブログの後、このブログを書き始めて大きな失敗とお詫びが。。。実は能美市九谷焼資料館は、江戸期から明治の常設作品展は撮影禁止ではなく、日展・現代作家展は撮影禁止でした。で、常設展示は当然撮影したものの、ブログにアップして良いか確認するのを忘れてしまいました^^;で、迷いに迷ったので、撮影画像は館内の一部を除いてアップしないことに。。。

ただ、能美市九谷焼資料館は、全国でも珍しい収蔵物のデータアップを公開しているのです。この好感度画像は規約を守れば、共有自由、イベントなどに使用も可能です。以前、フィッシュランドの観覧車をラッピングアップしたり、舞踏・ジャズイベントのバック映像にも使われていました。 ウルトラアート HP
九谷焼作品は能美市九谷焼資料館のウルトラアートからの画像でアップします。。画像詳細を入れるのが条件なのでちょっと面倒ですが。。

九谷焼は大きく分けると、古九谷・再興九谷・産業九谷、近代九谷・現代九谷という時代・状況に分けられます。

画像古九谷 青手芭蕉図鉢 サイズ 口径34.0/底径15.0/高7.3cm  作者 古九谷  年代 17世紀  所蔵先 能美市九谷焼資料館

古九谷は大聖寺藩・初代藩主・前田利治が寛永17年(1640年)金山発掘の際に奥九谷の陶石発見から、錬金役・後藤才次郎定次を有田に派遣して製陶を学ばせ、明暦年間(1655年~)九谷村に九谷初窯を築かせ、指導を受けた田村権左右衛門と共に大胆な画風などで一世を風靡しましたが、40年程で閉窯となっています。理由は不明ですが、破損の未克服、白磁が作れなかったといった技術的な面があったとも、後藤家の不正事件があったなど云われていますが、明確な事由は解っていません。
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古九谷 色絵花鳥図鉢 サイズ 口径38.0/底径20.0/高7.5cm 作者 古九谷  年代 17世紀  所蔵先 能美市九谷焼資料館

ちなみに後藤才次郎については謎に包まれた部分が多いのですが、諱名(いみな)にも二種説があります。忠清と定次になります。九谷焼関係の書では忠清にしているものが多いのですが、こちらでは定次を採用しています。前々回ちらりと紹介しましたが、加賀関係の辞書とも云える「加能郷土辞彙」でも定次としていますし、大聖寺の本善寺には定次銘の梵鐘があります。大聖寺分藩と養子縁組が関係しているんですが、金沢後藤家と加賀後藤家についてはまたの機会に、、、

以前にも書きましたが、加賀藩には3代・前田利常が裏千家4代・仙叟宗室を招いて金沢茶道が確立したおかげで、仙叟が同道して永住した大樋(土師)長左衛門)の茶道系の大樋焼があるものの、儀典・芸術用や一般食器の目立った焼き物の製造がありませんでした。
加賀藩は100万石(実質120万石)の大領であり、藩主の官位は従三位参議で公卿、江戸城での格式も準御三家扱い、更には万石取の八家老家も武家官位(大名格)が与えられていました。これを見ただけでもその家格や格式を維持するための儀礼・儀典費用は莫大なものになります。更に加賀藩の人口は幕府提出資料で享保6年(1721年)では約71万人。ちなみにこの人口は15歳以上のみ、全人口の過半数は占めるであろう未成年は含まれていませんし、15歳以上でも寺社門前地・藤内(藤原氏荘園)の住民は含まれていませんから。。実質、140万以上はいたと推測されています。

朝廷・幕府での式典、身内の冠婚葬祭にも他大名家への接待など、高級調度品は必須。また藩内の武家から百姓まで一般食器の需要はとんでもない量になります。自国内に製造元がないということは、このすべてを他国からの輸入に頼ることになります。当然ながら、お殿様にすれば、どんな立派な絵皿や壺を手に入れて他家の大名に自慢しても、それは有田・伊万里・京・楽焼などその他もろもろ他国のもので、自慢も半減、手に入れるだけでも相当額に登ります。いくら安物の食器でも、メインとなった有田や瀬戸から運ぶことになるわけですから、そこには商人の手間賃や運賃が加算されるのですから、食器価格も当然高騰します。一般市民からも藩に対して食器の値下げ要望と増量の要望が来るわけです。
画像春日山窯 赤絵花鳥文大皿 サイズ 直径31.0/高6.0cm  作者 春日山窯  年代 江戸後期  所蔵先 能美市九谷焼資料館
九谷初窯が閉窯して約100年、歳費の増加、度重なる大火によって疲弊した加賀藩を断ち直すため、18世紀末、民間では卯辰山では殿村屋和助、小松の粟生屋源兵衛(楽焼)、林八兵衛が小松に若杉窯を開いていますが、軌道には程遠いものでした。12代・前田斉広は政治改革の一環として、九谷焼の復興を狙って京都から青木木米を招聘、青木木米は九谷陶土を視察すると殿村屋の元窯で試し焼き、島原出身の陶工・本多貞吉など数名を招聘して春日山窯を開窯します。これが再興九谷の正式な先駆けともいえます。

この加賀藩による春日山窯の開窯は、文化の大火によって藩財政が逼迫、一般食器の作製方針の藩と木米の芸術作品の方針が対立、更に木米への待遇悪化により、青木木米は僅か2年で帰京してしまいます。その後、3年程、本多貞吉が残っていましたが、若杉窯の林八兵衛の要請を受けて移籍しています。主工二人を失った春日山窯は、その後10年程稼働しますが、最終的に閉窯しています。
この春日山窯の挫折や財政再建に失敗した前田斉広は隠居しながらも実権を掌握、千歳台に広大な竹沢御殿と庭園を建築、趣味と贅沢三昧の世界に逃げ込んでしまい財政逼迫の傷を広げてしまいます。
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画像上:若杉窯 染付霊獣文皿 サイズ 口径30.5/高6.5cm  作者 若杉窯 裏銘 角福  年代 江戸後期~明治  所蔵先 能美市九谷焼資料館
右;花坂陶土 本多貞吉が発見した陶土で、陶土の適用性はもちろん立地も良く、現在も九谷焼の主要陶土の位置にあります。陶土は細かく砕いて粘土と混ぜて素材となります。


しかし、この九谷焼再興の機運は衰えることなく、若杉窯に移った本多貞吉花坂陶土の発見によって、安定した陶器を作り出し若杉窯を発展させます。若杉窯が大きく発展すると加賀藩が乗り出し官営となりますが、本多貞吉は場長として、多くの作品を算出し、後身を多く輩出して再興九谷の祖という名を残します。前述の様に若杉窯の成功によって、加賀藩は即時介入、官営にするとともに他藩からの磁器購入を禁止して、藩内磁器の隆盛を狙います。
画像民山窯 赤絵小紋竜図大徳利 サイズ 胴径14.7/高29.5cm  作者 民山窯  年代 1822(文政5)~1844(弘化元)年  所蔵先 能美市九谷焼資料館

若杉窯に刺激を受けた加賀の各地に九谷焼の窯が開かれます。
春日山窯を惜しんだ加賀藩士(元姫路藩士)・御細工所小頭・武田民山(武田秀平、旧金沢城舞楽殿欄間(現中村神社拝殿)成巽閣謁見の間、極彩色欄間作者)が、文政5年(1822年)に開いた民山窯は赤絵で境地を開き、赤絵九谷の開祖・金沢九谷の祖として、道を開いています。ちなみに本名・武田秀平信興は芸術製作の多才、天才で、前述の欄間彫刻では友月、陶芸は民山、盆庭(盆砂・石)では景雲堂を号して多くの作を残しています。他にも書画・埋物細工・蒔絵などの作品を残すなど多種多芸の天才です。
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画像上: 吉田窯 色絵紫陽花瓜文角鉢 サイズ 角37.8/底21.3/高8.2cm  作者 吉田屋窯  年代 1824(文政7)~1831(天保2)年  所蔵先 能美市九谷焼資料館
右:宮本窯  赤絵福寿字入大深鉢 サイズ 口径26.0/底12.0/高11.5cm  作者 宮本窯  年代 江戸末期 所蔵先 能美市九谷焼資料館


本家,、伝統の地とも云える九谷村では、文政7年(1824年)、吉田屋・豊田伝右衛門と本多貞吉の養子・清兵衛吉田屋窯を開き、2年後には吉田屋窯を山代の越中谷に本拠を移しています。吉田屋窯は僅か7年、伝右衛門の死で幕を下ろしますが、吉田屋窯その後を引き継いだ宮本窯から多くの人材が育っています。更に大聖寺藩官営の九谷本窯他後継によって山代窯は増改築・修繕を繰り返し昭和15年(1940年)まで使用され中心地となっていました。 → 古九谷の里~九谷焼窯跡展示館
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松山窯 色絵蕪に遊禽の図 サイズ 口径38.5/高6.5cm  作者 松山窯  年代 江戸末期  所蔵先能美市九谷焼資料館

また、吉田屋から宮本屋に移った際に民山窯を参考にした赤絵が中心になったため、吉田屋の青手を残そうと大聖寺官営の松山窯が築かれています。この青手九谷の後継も江沼九谷の一翼を担う存在に育っていきます。
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小野窯  赤絵百老図鉢 サイズ 口径46.8/高6.8cm  作者 小野窯 銘「小野」  年代 1819(文政2)~1872(明治5)年  所蔵先 能美市九谷焼資料館

小松の若杉窯と共に発展したのが文政2年(1819年)開いた藪六右衛門が能美に開いた小野窯で、絵皿や壺と云った実用品だけでなく蓮台や獅子など置物と云った鑑賞用に境地を開いています。

小野窯の名を世に知らしめたのが絵付の天才・粟生屋源右衛門(前述の楽焼の源兵衛の息子)、その弟子や直接の影響を受けたとも云える中には産業九谷の九谷庄三・斉田伊三郎(道開)がいます。
画像粟生屋源右衛門 色絵山水図扇面形皿 サイズ 長径35.5/短径16.5/高5.5cm  作者 粟生屋源右衛門  年代 1789(寛政元)~1863(文久3)年  所蔵先 能美市九谷焼資料館

ちなみに粟生屋源右衛門は、名前の通り、能美の寺井宿の隣・粟生宿の楽焼の住人ですが、小野窯だけでなく加賀・小松・能美の各窯に関与しており、前述の宮本・松山窯双方に関与し、更には能美の蓮台寺窯にも関与、多くの後身に影響を与えています。当時、加賀藩としては兄弟藩とはいえ、大聖寺藩に技術流出を恐れて、九谷職人の他藩への越境に眼を光らせていましたが、そんなものどこ吹く風であっち行ったり、こっち行ったり、しまいには小松奉行も見て見ぬふり、金沢城からの召還に慌てて大聖寺まで奉行が迎えに行ったという逸話まであります。この人のそんな豪胆さで後継が南加賀にも育ったと云えます。
自身も楽焼の傍ら多くの九谷作品も残して後世に残しています。この人の教授を受けた人は加賀全体に及んでおり、本多貞吉が九谷焼再興の祖とすれば、九谷焼の命と云える絵付中興の祖とも云える人物です。ちなみに、僕が九谷焼の作家で、白地塗に彩色する美しさ、最初に興味を覚えた作家です。

これらの江戸後期に花開いた九谷焼が再興九谷と呼ばれる時代でした。古九谷の影響をもちろん受けていますが、加賀藩や小松奉行所の管理下に置かれていましたから、大小の制限はありましたが、保護を受けたことは確かです。金沢・加賀山代・大聖寺・小松・能美に分かれた九谷焼は陶土の発見・改良、 呉須(ごす)の導入、赤絵・金彩などの多種の絵付け技術の進化など、各地の九谷は独自の発展を遂げながら、相互の交流で進化を遂げて行ったのです。主工・窯主が亡くなったために窯を閉じるものもありましたが、加賀藩・大聖寺藩の保護下で発展してきたのです。しかし明治維新になると加賀藩・大聖寺藩の保護を失い多くの窯が姿を消しますが、これらの窯から独立した陶工が多く次代に羽ばたいていきます。
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九谷庄三 龍花卉文農耕図盤 サイズ 幅59.0/36.3/高7.4cm  作者 九谷 庄三  年代 1816(文化13)~1883(明治16)年  所蔵先 能美市九谷焼資料館
幕末になると若杉・小野窯から九谷庄三・斉田道開が独立して、各々新陶土を発見するとともに、寺井窯・佐野窯を開きます。二人はともに画工師に優れた陶工で、斉田道開は赤絵に優れ、二度焼の技法を編み出して金の発光を促し、赤絵と金彩の明るい佐野赤絵という作風を確立します。また、それまで素地から絵付まで一貫生産だった九谷窯でしたが、斉田道開は佐野窯錦窯(上絵窯)として素地窯を独立させ分業制にします。これによって、素地専門の陶工・上絵専門の陶工が出来ることになり、顧客の要望も取り入れやすくなり大量生産の産業九谷の道を開いたのです。
画像能美市九谷焼資料館 ジャパンクタニ時代の欧州室内 再現ジオラマ展示
九谷庄三は海外からの洋絵具を一早く導入することによって、それまで和絵具では出せなかった中間色を出すことによって、五彩を彩る緻密な彩色金襴手を確立します。明治に入って、ウィーン万国博覧会の成功によって、九谷焼のブーム(ジャパンクタニ)が起こると、九谷庄三の派手な意匠は海外で持て囃され、輸出九谷の中心的存在になり、国内販路も大きく広げていきました。現在、九谷焼というと一般の多くが思い浮かべる意匠は庄三風のものと云われるほど、、全国に販路を広げ九谷焼を産業として確立した功労者として再興九谷中興の祖とも呼ばれています。
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永楽和全(12代) 金襴手鳳凰文鉢 サイズ 口径18.8/底6.0/高9.2cm  作者 12代 永楽 和全  年代 1823(文政6)~1896(明治29)年  所蔵先 能美市九谷焼資料館

山代九谷でも大聖寺藩が招聘した京焼の永楽和全が新風を吹き込み人気を博しています。永楽和全は金沢でも作陶しており、金沢九谷にも大きな影響を与えています。

斉田道開の分業制によって素地師・上絵師の専門家が誕生したように、九谷庄三も大量生産に応えるために素地窯と錦窯を分業化しています。それぞれの能力を上げ、古九谷の課題だった白の着色、破損性の改善も進み、上絵技術も向上しています。最盛期の九谷庄三の工房には300人の絵師が居たと云われますが、二人の窯が閉じられてからもその工房から多くの作家が巣立っています。

古九谷・吉田屋への回帰・探求を進めた作家も注目を集めます。初代・徳田八十吉・松屋菊三郎・石田平蔵・川尻七兵衛・松本佐吉などがこれに当たります。古九谷・吉田屋への探求とはいえ、古九谷風・吉田屋風といった具合にベースを置くとしても、独自の画風や色彩に昇華していくもので、現代の三代・徳田八十吉を代表とするの五彩・光彩に繋がって行ったのです。
明治20年代をピークに輸出減少になると、産業九谷と近代九谷の双方の潮流は、うまい具合に共有して国内での九谷焼の地位を高めてきたわけです。

再興九谷の時代は代表する陶工・手工・画工はいても、大規模な窯組織の時代と言えました。それに続く明治後期からは古九谷風・吉田屋・木米風他、九谷焼の古九谷・再興九谷・産業九谷で培った源流として、作家個々の個性が強く打ち出されていきます。しかし作家個々がバラバラでは、効率も悪く後進も育ちにくいし、販路も作陶の傍らで独自に動くのは難しくなります。石川県も伝統産業として保護と後進育成の手を伸ばしていきます。

明治16年(1883年)、石川県は芸術家で海外通の佐賀出身・納富介次郎(のうとみかいじろう)を4年間の約束任期で招聘します。当初は海外・貿易に精通している納富に好調な九谷焼輸出を託した形でした。納富は工芸品の巡回指導の傍ら、欧州の一過性ブームの先、中国への販路拡大を提言していますが県では財政上却下していますが。。巡回指導では九谷焼では、それまで人力に頼った陶土の粉砕作業に水力を利用するなどさせています。その他にも輪島漆器、加賀友禅などにも提言を行っています。
彼の大きな功績は二つ。工芸品の生産体制の協同・効率化のために同業者組合の設立や物流の効率化を進めたこと。これによってそれまでバラバラだった九谷窯元・作家が江沼郡九谷陶画工同盟会、金沢九谷陶画工同盟会、能美郡九谷商同盟会、九谷陶画工同盟会が発足しています。

もう一つが工芸制作の後進育成学校の創設でした。実を云えば県としては芸術界に力を持ち、中国輸出事業はできなかったものの、納富介次郎の4年の実績は高く評価され引き留めたかったという内心がありました。元々、納富の本業であり希望していた画学校設立を金沢にという餌で任期更新を狙っていました。ところが納富は更に上を行っていて工芸製作の後進育成を担う工業学校の創設を提言したのです。県の努力と納富自身の周辺説得によって実現したのが日本初の中等実業教育機関・工業学校、金沢区工業学校(現・石川県立工業高校)の設立でした。初代校長は納富介次郎が任期の3年9カ月努めています。専門画学部、美術工芸部、普通工芸部が置かれ学校内には窯場も置かれていました。 参考 → 県工後援会HP 納富介次郎略伝

ちなみに、納富介次郎は退任後、富山工芸学校(現・高岡工芸高校)・香川県工芸学校(現・高松工芸高校)・有田工業学校(佐賀県工業学校から独立、現・有田工業高校)を創始しています。高岡では仏壇・銅器の為の木材彫刻・金属彫刻・鋳銅・髹漆(きゅうしつ)、香川では木工・金工、有田は木工・金工に窯業を加えるなど地元工芸に即した専門学校になっていました。現在もこの四校は相互姉妹校を締結しています。

この教育伝承は九谷焼でも受け継がれ、昭和59年(1984年)には陶芸村に九谷焼の人材育成の石川県立九谷焼技術研修所、平成13年(2001年)には自立のための製作から工房ギャラリーを提供する支援工房九谷と後身開発の努力が行われています。

このブログを書くにあたって、納富介次郎の名は高杉晋作などと上海視察で渡航したり、ウィーン万博の随員、フィラデルフィア万博の審査員といった幕末・明治初期の海外経験が豊富で、県工の初代校長、石川県の伝統工芸の後援程度は知っていましたが、、、調べるうちに前々回の奥野八幡神社境内の九谷神社に、大正7年(1919年)7月、納富の死去の報と共に合祀されていることは今回初めて知りました。

明治末からは作家個々が注目されるようになります。その間には板谷波山(金沢工業学校教師)・北大路魯山人(大正4年滞在、山代いろは草庵)・冨本憲吉(北出窯来訪)など陶芸界の名工と呼ばれた名人が指導や試作を行っていますが、その影響も個々人に及んでいたと思われ、多くの作家が登場してきます。

近代から現代にかけては国から認められた作家が登場して九谷焼の名を広めています。九谷焼作家・陶工として、大正6年(1917年)初代・諏訪蘇山が帝室技芸員に選出。帝室技芸員は戦前の美術工芸作家を顕彰する制度で、戦後の日本芸術院・文化功労者・文化勲章・重要無形文化財(人間国宝)に当たる制度になります。昭和28年(1953年)初代・徳田八十吉が無形文化財指定。平成8年(1996年)二代・浅蔵五十吉が九谷焼初の文化勲章受章。平成9年、三代目・徳田八十吉が彩釉磁器で九谷焼初の人間国宝、平成13年、吉田美統(よしたみのり)が釉裏金彩で人間国宝。と、名工と云われる人材が輩出しています。
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資料館展示室「群青の間」の「迎え花
迎え花は毎週変わるそうです。この日は草月流・上田萌扇さんのお手前、向日葵・蘭・紫陽花などを組み上げたそうです。


現代においては多くの作家が活動しています。意欲的な造形を施したもの、斬新な色彩のものなど、いろいろなものが出てきています。資料館でも現代作品展が展示されていましたが撮影禁止。。
オープンデータにはありませんでしたが、名前の出たほとんどの作家の作品展示を観られます。九谷焼の古九谷から現代まで流れのように見られる資料館なので、九谷焼の知識を得るにはお勧めの資料館です。 → 能美市九谷焼資料館 HP

更に産業としては、ガラス・グラスとの接合・劣化防止のチタンコート・無鉛絵の具の使用など、、、能美市にはウルトラマンランドのある関係で、ウルトラ怪獣シリーズなど、、顧客要望に応える商業面を重視したものも並行して出てきています。陶芸村の店舗を巡ると意欲的な作品に出会えます。

九谷焼資料館に入館すると、前述の二代・浅蔵五十吉美術館の共通入場券がいただけます。次回はそちらとシンボルモニュメント。。。

旅行日 2018.07.22




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