粟津温泉 おっしょべ公園

少し前にご紹介した「恋人の聖地」、石川県内には四カ所あるんですが、このブログでは三カ所目のご紹介になります。以前にご紹介しているのは…LOVE&BEACH/サンセットブリッジ内灘・一里野温泉/白山温泉郷 恋人の聖地の趣旨・・・ NPO法人地域活性化支援センターでは「少子化対策と地域の活性化への貢献」をテーマとした『観光地域の広域連携』を目的に「恋人の聖地プロジェクト」を展開しています。  恋人の聖地プロジェクトでは、2006年4月1日より、全国の観光地域の中からプロポーズにふさわしいロマンティックなスポットを「恋人の聖地」として選定し、地域の新たな魅力づくりと情報発信を図るとともに、地域間の連携による地域活性化を図っています。  また、このプロジェクトでは「非婚化・未婚化の進行」を少子化問題のひとつとして捉え、日本全国で選定された100ヶ所を越える「恋人の聖地」とともに、フランスのモン・サン・ミッシェルをはじめ海外の著名な観光地にも参画いただき、各地域による様々な活動を通して若い人々のみならず地域社会に向けて「結婚」に対する明るい希望と空気の醸成を図るための活動をしています。(恋人の聖地HPから引用) 各地の恋人の聖地には全国的にも有名な観光スポットが幾つかありますが、石川県内の四カ所はマイナーな存在です。県民でも知らない人が多いかもしれません。 今回の「おっしょべ恋物語/粟津(あわづ)温泉」は粟津温泉郷の一番奥にある公園が中心地になります。他にも粟津市街にもモニュメントや記…

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白山市立博物館 白山下山仏と加賀禅定道

凄く久しぶりに、本地元の白山市立博物館に行ってきました。 市外の博物館や美術館などはちょこちょこ行っているんですが、意外と自分の地元にはほとんど行っていないんですねえ。これが3度め、しかも10何年近く振りかもしれません・・名称が市立松任博物館から白山市立博物館になって初めての来館になります。 今回、今年は白山開山1300年ということで、現在、特別展が開かれています。 10月21日~11月26日 白山下山仏と加賀禅定道 今年の僕のブログでも白山七社や林西寺などをご紹介しましたが、これらの神社・寺社を巡っても、堂宇内に納められていたり、平素観られない非公開のものが多くあります。それらのものが全部とはいかないまでも、一部とはいえみられる稀少な機会ですから、是非期待していました。 今年、僕がUPした白山の遺物を持つ施設のブログは・・・ 4/14 白山七社① 古宮公園(白山本宮跡)周辺 4/13 白山七社③ 佐羅早松神社 6/11 白峰の歴史 白峰八坂神社 6/11 林西寺 白山下山仏に関しては林西寺で詳しく書いていますが、今回はもう一カ所の下山仏を保管する尾添白山社が何年振りかで公開されています。 実は白山七社シリーズは中宮三社の別宮神社(べっくう)は途中書きのままになってまだUPしていませんでしたが、別宮は白山三所権現(白山妙理・大行事・大汝)を祀った神社ですが、名前の通り、この三権現が本尊で、江戸期までは三権現の本地として十一面観音立像・座像・聖観音…

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能登国総社

以前も書いていますが北陸道の国名は越の国と云い、分割された国名は若狭(嶺南)、越前(福井嶺北)、加賀、能登、越中、越後、佐渡となります。若狭は北陸道ですが、京都の外海として畿内に含まれることが多く、佐渡は離島ですから、越前・越中・越後を北陸道とすることが多くなります。三国に分立したのは天武末期から持統天皇の時代と云われています。 元は越前・越中・越後の三国でしたが、国域や国境も何度か変遷しています。越前の最大域は嶺北に能登・加賀を含めた領域、越中は新潟の上中越を含んだ領域という時代もありました。 養老2年(718年)、越前国から四郡(羽咋(はくい)郡・能登郡(鹿島(かしま)郡)・鳳至(ふげし)郡・珠洲(すず)郡)を分離して能登国が誕生しています。天平13年(741年)一旦、越中国に併合していますが、天平宝宇元年(757年)に改めて独立して能登国が再誕生しています。能登が越中時代、国司で赴任したのが28歳の大伴家持(746~749年)で、家持はこの赴任期間に223首の和歌を作っています。 能登巡行の際にも幾つか読んでいます。 (万葉集から) ※之乎路(しおじ、志雄路)から 直越えくれば 羽咋(はくい)の海 朝凪したり 舟梶もがも ※妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川(にぎしかわ、仁岸川) 清き瀬ごとに 水占はへてな ※珠洲(すず)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり ※香島)(かしま、鹿島)より 熊木をさして 漕ぐ舟の 梶取る間なく 都し思ほゆ ※とぶさ(鳥…

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月照寺 玉泉寺

以前ご紹介した加賀八家・前田対馬守家の菩提寺・玉龍寺。金沢に多くの寺院が林立する寺町に隣接する野町にあり、周囲に多くの寺院が林立します。加賀藩三代・前田利常を養育した前田長種を祖にしています。 尾張時代を遡ればこの前田対馬守家は、加賀前田家の本家筋に当たります。本家から二・三代前に分家した荒子前田家の前田利家が織田信長の北陸方面軍の与力として出征し、能登に地盤を固め賤ケ岳後の金沢入城によって能登・加賀半国を領有して地歩を固め始めた時まで、前田本家(当時は前田与十郎家)の前田長定・長種親子は尾張に残って、下之一色城を本城として本貫の地・海東郡(現名古屋市中川区・津島市・あま市・蟹江町周辺)に寄っていました。。最盛期には四城(前田・荒子・蟹江・下之一色)を持っていましたが、前田城・荒子城は廃城となっており、蟹江城は長島攻めの基地として滝川一益の支配下となり城代待遇、後に織田信雄の持ち城となり織田信雄傘下となっていました。 天正12年(1584年)豊臣秀吉が織田信雄・徳川家康連合軍と戦った小牧・長久手の合戦の開戦前、織田信雄方だった前田長定に秀吉の内意を受けた滝川一益の誘いに乗って、蟹江城を攻め落とし秀吉の来援を待ちます。ところが脅威を感じた織田信雄・徳川家康の大軍で逆に完全包囲を受け、秀吉の来援も間に合わず落城。この落城で前田長定は捕縛、一族・妻子と共に斬首。本城・下之一色城を守っていた前田長種は降伏開城して、前田利家を頼って能登に単身落ち延びています。前田利家は本家の御曹司・長種を迎え入…

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実性院③ 大聖寺藩主墓所

実性院の左脇の裏山に続く参道を登ると、大聖寺藩主の墓所があります。この墓所も前回紹介していますので、詳しくはこちらをどうぞ ⇒ 山ノ下寺院群② 実性院 (H27.11.3)  藩主墓所に登る参道沿いには、家臣団の墓地があります。実性院の真裏に当たる山上の位置にあるのですが、時代ごとに墓石の形態は変わりますが、山上に近づくごとに墓標が大きくなっていきます。特に最後の石段前の脇道、実性院の本堂の上に当たる位置には、藩主墓と同形態の墓があります。大きさも側室・子族並みの大きさがあり身分の高さが窺えますが、碑文が摩耗していて判読できませんでした。。 大聖寺藩主墓所 梅芳院の五輪塔 空・風・火・水・地が鮮明に彫られています。梅芳院は後述していますが、7代利物(としたね)の側室、9代利之(としこれ)の生母 前ブログでも書きましたが、大聖寺藩主の墓は石垣の土台の上に五輪塔を重ねたものです。石垣の中はどうなっているかは解りませんが、江沼神社の利治を主祭神ににする神殿の様に南加賀の神社の神殿も石垣造が多く、石垣の形態が似ています。五輪塔は元々は仏教のストゥーパ・五重塔から変形したものと云われますが、この形態は日本特有のものです。大きくは名前の通り、空(輪)・風(輪)・火(輪)・水(輪)・地(輪)の五行を表していると云われます。発案者は空海とも云われていますが、古くから宗派を超えて広まっています。 藩主墓所入り口の灯篭土台 上部が無くなっています。 ちなみに加賀本藩の野田山墓所…

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実性院②

実性院は江戸期の建物ですが、内外部共に補修や改造の痕が多く観られますが、曹洞宗特有の屋根付通路の伽藍配置、本殿内の正側三方丈・広縁(大廊下)・露地(土間)は基本的な配置と景観を保っています。曹洞宗寺院は仏間・正方丈が派手なものが多いのですが、思ったよりも簡素な造りです。ただし、正方丈を仕切る柱、仏間の装飾柱は立派な木柱で側方丈、広縁から隔絶した雰囲気を感じます。 曹洞宗は臨済宗・黄檗(おうばく)宗と並ぶ禅宗の一派ですが、禅宗は武家階層に広く広まっており大名家の菩提寺に広く広がっています。密教系の天台宗・真言宗や浄土系の法華宗・浄土宗・浄土真宗の内陣・外陣に比べるとはっきりと広間が区別されたものが多いのが特徴です。特に大名家が訪れる菩提寺には、この区割りが更にはっきりしてきます。法要や葬式では座る位置は身分や序列がはっきりしますから、正側三方丈の他に広縁・露地は更にこれを助長していると云われます。 また、九谷焼の本家ともいえる大聖寺藩の菩提寺ですから、再興九谷・現代九谷の良品も展示されています。 上:実性院門前 九谷絵皿参勤道中一里塚碑 中:再興九谷 赤絵大皿 下:実性院 九谷焼コレクション 上:海部公子作 色絵水注ぎ 以前、ご紹介した洋画・陶芸家、硲伊之助(はざまいのすけ)氏の弟子に当たり、硲伊之助氏が作陶した吸坂窯を継いで、ご夫婦で製作活動を行っています。まだ嫁さんを連れて行っていないなあ。。あの美術館。 中:下:現代九谷 コーヒーカップ 古九谷が廃された原…

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実性院①

昨昨年、訪れるのが遅れて白い花を見られなかった実性院でしたが、昨年は予定が狂ってこられず、今年は大丈夫と思って伺いましたが、今度は逆に1.2週早すぎた1分咲きといった感じです。花の時季に合わせるのは本当に難しいですね。 実性院は大聖寺藩主・前田家の菩提寺になります。本堂横には御霊屋に歴代当主(初代~14代)の位牌が納められ、左手の参道から裏山に登ると山頂付近に、歴代藩主の墓所があります。大聖寺藩は加賀藩主三代・前田利常が三男・前田利治を7万石で分藩したことから誕生したものです。 大聖寺藩は廃城だった大聖寺城を本城としては使用せず、麓の大聖寺川沿いに陣屋を構えて政庁としていました。 文政4年(1821年)10万石に高直しを行い大聖寺10万石となり、陣屋持ち大名としては最大級になっています。ただ、高直しというのは、実質石高はそのままで表高を引き上げたもので、最後までこのギャップに苦しんだ藩でもありました。前回、実性院を紹介した時に大聖寺藩の歴代藩主を簡単に紹介していますので、興味のある方はどうぞ・・・ 山ノ下寺院群② 実性院(H27.11.03) 実性院の前身は宗英寺という大聖寺家臣・玉井市正が建てた寺院でした。万治3年(1660年)初代藩主・前田利治が江戸屋敷で亡くなった際に遺体を大聖寺まで運んで荼毘に付したのですが、発足間もない大聖寺藩(寛永16年(1639年))では、まだ菩提寺がなく新しい曹洞宗寺院は宗英寺(正保元年(1644年))しかなく、仮安置という体裁をとっていました…

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一里野高原 イルミ

台風がどんどん近づいていた前日。嫁さんと二人で夜の一里野高原に 真っ暗な夜の高原に向かう道は久しぶりで、途中雨も降り出して、所々霧も出て怖々運転しておりました。昼間は何度も走っているんですが、真っ暗な夜のワインディングロードは久しぶりで、数えるほど^^; そうまでして行きたかった一里野高原。 毎年秋から冬にかけて、輪島の千枚田までイルミを観に行っていたのですが、今年はついに加賀地区にも登場。ところが時期は8月から9月いっぱいまで、行こう行こうと思いながらあと2週間。。ついに我慢しきれず、嫁さんを無理やり連れだして、一路、白山の麓・一里野高原スキー場まで。。、真っ暗なワインディングロードに、狭いトンネル内の所々に工事信号の片側通行、あげくに雨が降って所々で霧発生の悪路でした。できれば晴れてくれると、もっと楽だったのに。。 今年は白山開山1300年。。今回はそれを記念してという口実に、恋人の聖地らしくと云うことで、イルミネーションのゲレンデを作製。 ガゼポは18世紀頃にヨーロッパの宮殿の庭園などに作られた日本でいう東屋(あずまや)。中国の崖上などに建てられた亭が発祥と云われています。一里野では建物の天井に鐘があって、紐を振って鳴らすとみんなの注目を浴びちゃいます ちなみに恋人の聖地もプロジェクトは10年程ですが全国的に広がってきましたが、始まった頃は県内では河北郡内灘町のラブビーチ・サ…

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高山右近の碑③

慶長19年(1614年)にマニラに退去させられた高山右近でしたが、乗船した船にはすし詰めの乗員数で劣悪な環境状態。途中、高齢の三人の宣教師が死亡したと云われています。定員オーバーの為、通常の倍以上の日数を掛け、マニラに辿り着いたというのが実情でした。しかし、先駆けの伝達で「日本の殉教者的武将」の名は知られており、マニラ総督府の祝砲と大歓声と共に、大歓迎を受け、総督からはスペイン人しか許されないイントロラムス内に邸宅と十分な援助を与えられたそうです。 しかし、この過酷な船旅に消耗した身体は癒えることはなく、熱病に侵され到着40日後、帰らぬ人となっています。マニラでの高山右近の葬儀は10日に渡り盛大に行われたと云われています。旧暦慶長20年(1615年)1月6日(新暦2月3日)享年63歳。福者記念日は逝去日2月3日。 高山右近に同行した一族や仲間には妻のジュリア夫人、娘で横山康玄に嫁いでいたルチア、長子・長房の子が5人と云われています。高山右近の家族構成については色々な説や伝承があり一致は見ないのですが、マニラに向かった一族は右近と7人の家族と云われています。 長子・長房(ジョアン)については死亡説があって慶長13年(1608年)夫婦共々亡くなった(病没)というものがあります。そうなると、利長が同年に書いた遺言状の不和を嘆いた「高山長房・篠原長次の不和」は右近本人になってしまいますが、この点は大きな疑問が残ってしまいます。この頃の金沢での右近の公的な事蹟は高岡城築城くらいで、伝わるの…

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②高山右近 前田利長時代

天正16年(1588年)加賀に来た高山右近でしたが、前田利家時代にはそのほとんどが大阪での前田利家の相談役、外征と金沢城の修復・町割りの整備にと大阪・金沢間往復に忙殺されたと云えます。畿内の先進的な築城術、利休七哲としての文化の素養による金沢文化の創設など、多岐に渡ったことが窺えます。 しかし、この間に忠節を尽くした右近の実績と信義は、利家の信頼と藩内でも重きをなしていったようです。 H21.11.01撮影 高岡城址 前田利長像 恩人ともいえる前田利家が亡くなったのは慶長4年(1599年)。跡を継いだ前田利長はやはり利休門下として高山右近とは元々が交際が深く、利長は重要な相談役として右近を重用することになります。 利長時代の執政は前ブログでも来ましたが、篠原一孝・横山長知・奥村栄明の三家老でした。この三人の中で横山長知(ながちか)が特に腹心的最側近となっていました。この横山長知と高山右近は加賀藩内で特に友好的な関係であったとされています。しかし、陪臣出身の横山家と客分の高山家(右近は客分ですが、長子・長房は利長家臣になっていたようです。)は、前田家旧臣からは嫉妬の眼で観られ、一部家臣団との確執があったようです。 いずこにもあることですが、創業者の家臣団と二代目・家臣団にはどうしても軋轢が発生します。前ブログで前田利長の失策としましたが、利家の遺言「三年は大阪・洛中に留まれ」を半年で帰国した事情には、徳川家康の謀略もありましたが、この人事の収拾も影響したようです。痛恨事はまとめ…

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高山右近記念公園①

今年(H29)2月7日 大阪城ホールで戦国武将だった高山右近(洗礼名ジュスト、ユスト)の列福式が行われ、高山右近を福者とするカトリック教会・ローマ教皇庁の宣言がなされました。古くから、高山右近の所縁の地(金沢・高槻・明石など)から日本キリスト教会に聖者・福者の申請が行われており、もっと大きなニュースとして報道されると思っていましたが、意外に小さい見出しで逆に驚いたものです。やはり、キリスト教は名前は知られても、まだまだ日本での地位は小さいものなのか、聖人じゃないとダメなのかと勘繰ってしまいました。 高山右近列福式ニュース ⇒ バチカン放送局 カトリック教会では各教区から推薦された候補者が「神のしもべ」とされて、教皇庁列聖省による列福の審査対象者になります。神のしもべの中から英雄視、福音的な生涯と公認された者が「尊者」と呼ばれます。 更に、尊者の徳ある行為、あるいは殉教によりその生涯が聖性に特徴づけられたものであったことを列聖省が証明した者が列福式を経て「福者」になるわけです。「福者」はその上のランクになる「聖人」の候補者になるんです。今回の高山右近の「福者」の列福は「聖人」への道が開かれたことを意味します。一部関係者の間では一気の列聖を期待していた向きがありました。 ちなみに、近年、「聖人」となった有名人は、「神の愛の宣教者会」を設立して貧困者の救済と後継者育成に尽くし聖女と呼ばれたマザー・テレサ(1997年死去、2003年列福、2016年列聖)。歴代2位の教皇在位と宗教の枠を…

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タラ汁 ひまつぶし

城山トンネルを抜けて宮崎海岸(翡翠海岸)を横目に見ながら走る国道8号線。。城山トンネルの坂道を降りた所にある踏切を渡った宮崎漁港の宮崎の町から境関の旧街道に入る境西の交差点までの国道沿いには、タラ汁の文字の看板の食堂が並んでいます。別名・タラ汁街道と呼ばれています。 この朝日を通るときは、いつも午前中か真夜中が多くて、なかなか食べる機会に恵まれなかったんですよね。。 そういえば、このタラ汁街道で最後に食べたのは20年以上前になるかもしれません。その時は、老舗の栄食堂さんだったかな。。男同士なら栄さんも良いかも、トラックドライバーさんに人気の一品物・天婦羅が多いです^^ その間には、高速(北陸自動車道)の越中境SAでも食べたことはあるんですが、あの白いプラスティック容器では全然美味しく感じません。やはり、たっぷりの味噌汁で一匹分をゆっくり陶器やお椀で食べたいですからねえ。。 タラ汁のお店は何軒かありますが、今回は境関に向かう交差点・境西にある「ひまつぶし」さん。山登りでバテバテ、それに夕方前の遅いお昼、お座敷で足を延ばしたかったこともありまして。。栄食堂さんの斜め向かい、、 朝日町のタラ汁は、スケトウダラのぶつ切りに、味噌仕立ての汁にゴボウやネギを入れて臭み取りにしたシンプルな味噌汁。石川・富山では昔からあった猟師飯・家庭飯の一つです。内臓ごとぶち込むので旬としては、白子や卵のある冬場がメインですが、滋養や体力の消耗しやすい夏場にも良いと思います。暑い時には熱い…

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宮崎城址

平安末期から鎌倉初期にかけて、越中最東部・黒部川東部一帯を支配していたのが宮崎党でした。北陸宮の御所警護の名目で築かれたのが、城山(当時は八幡山、脇子山)山頂の宮崎城になります。 宮崎氏は藤原鎌足の末裔を称していますが、藤原氏荘園の代官的存在、そこから台頭した土着の豪族、在地領主だったと思われます。ちなみに、この黒部川東部には宮崎・入善・南保・佐味・大家庄・五箇荘などの荘園地があり、そこから発生した各在地領主が武士団となって、勢力争いを繰り返しながら、その中から宮崎党が台頭支配していったようです。 この地には、宮崎浦、泊、入善など良港があり、交易が行われていたと云われます。また信濃路からの貢納品や物資を送る、都への出向港にもなっており、その交易料は大きな収入源となっており、経済力と共に大きな武力も備えていったようです。 宮崎長康の出自は、前述の荘園のうち「大家庄」と云われています。大家庄は朝日ICの南、小川(名前は小川ですがけっこう大きい川です)の対岸にありました。田園の中の墓地に井口城址という石碑がありますが、そこが井口館跡とも云われています。井口氏は南北朝で桃井直常と共に名が出る家柄ですが、そこから東部に分家した各支族が派生したようです。後年の義仲上洛戦では、宮崎党は主力部隊として、その前哨戦となる礫城(火打城)の戦いでも、人造湖を造るほどの大掛かりな合戦でしたが、越前に出陣していますから早くから源義仲と誼みを通じていたようです。 これはあくまで一部の異説なのですが、越中国…

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以仁王と北陸宮

富山県の最東部・朝日町の朝日ICから国道8号線を新潟方向に進むと城山を貫く笹川・城山の二本のトンネルがあり、抜けると左手に翡翠がとれる別名・翡翠海岸と呼ばれる宮崎海岸の海岸線が観られ、それまでの暗く狭い道がいきなり開けたような穏やかな平地に変わります。この平地帯は東端の境川で越中・越後の国境になります。この境川の地は国境の緩衝帯であり、国境の係争地でもありました。江戸期の加賀藩の境関が出来るまでは越中側の国境警備・防御は、この城山の山頂にあった宮崎城が果たしていました。 散らした画像は、笹川郷の総氏神の笹川諏訪神社です。寿永元年(1182年)源義仲が諏訪大社の大祝(おおはふり)・金刺盛澄に銘じて勧請して建立・創立した神社です。全国にも広がる諏訪神社の中で創立者・創立年が明確なのは笹川諏訪神社が唯一だそうです。この地で源義仲が烏帽子親となって元服式が行われ、正式に北陸宮という名が誕生した地です。 この宮崎城を築いたのは地元の豪族・宮崎長康ですが、城としての防御機能を持たせるようになった最初の事由が、朝日将軍・源義仲がこの城山の裏側に御所を造営して以仁王の第一王子・北陸宮を庇護し、その防御の役割として城山の山頂に築城を命じたのが始まりと云われています。今回はこの北陸宮の出自と父親の以仁王について。。。名前は「以仁王の令旨」として平家打倒の旗印としてよく知られていますが、どんな人と云われると意外に知らない方が多いですからね。。 治承4年(1180年)5月、以仁王は打倒平氏の令旨…

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旧山岸家住宅

山の民の里とされる白山麓ですが、戦国の混乱は牛首村にも及んでおり、白山平泉寺と越前・加賀一向一揆、更に再侵攻した織田方の柴田勝家軍の間で揺れ動いています。まず時代は越前朝倉家滅亡の頃に遡ります。 ついでに散りばめた画像は林西寺の側の食堂・「みのすけ」さんで食べたお昼の食事で「温そば定食」+100円の大盛で1180円。白山麓のじわもの料理(地産地消)^O^ 祖父と同じ名前で釣られてはいっちゃいましたが、古くから観光事業に尽力している老舗食堂。味も素朴で美味しいお薦め品。文章とは合わないですがご勘弁^^ お隣の越前・勝山の地名の由来ですが・・・織田信長軍が一乗谷を滅ぼして朝倉義景を自害に追い込んで引き上げた後、越前の統治は恭順した朝倉景鏡(あさくらかげあきら、朝倉家滅亡後は土橋信鏡、)に本領安堵と共に一応任せた形をとりました。ところが、部下の相克から土一揆が発生。更にこれに一向宗が加わって一向一揆に変貌します。いつしか一揆衆の標的は景鏡に移っていきます。 元々、朝倉家と一向宗には長い抗争と和平の繰り返しが過去にはあったのですが、そうした朝倉家への恨み辛みの上に、更に織田家に朝倉家及び越前を売った景鏡を標的にするのは自明の理でした。 全盛期の朝倉家ならともかく単なる代官的力しかない景鏡に全面対決する力はなく、一族を率いて逃げ込んだのが白山平泉寺でした。当然ながら越前一向宗は景鏡の引き渡しを要求しますが平泉寺はこれを拒否。平泉寺VS越前一向衆という戦いにまで発展したので…

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林西寺

白峰関連が続いています。。たった一日に廻ったのに、いったい何話書くんだと云われそうですが、笑っておつきあいください。 白山山頂の管理権問題が三番場で争われている最中、天文12年(1543年)牛首・風嵐(平泉寺後援)VS尾添(白山寺後援)の杣取権(木材の伐採・加工権)がこじれ、江戸期に入っても越前松平藩VS加賀前田家の領土係争地になっていました。明暦元年(1655年)に前田利常が尾添に杣取を命じたことから急速に悪化。両地の抗争が両藩の領地抗争に発展します。そして加賀藩が訴える形で幕府裁定に持ち込まれます。 しかし、この領地争いは前々ブログで書いたように。元は加賀領とはいえ柴田勝家時代に白山麓16か村は越前領になっており、その後一向宗討伐の流れで加賀領になっていた経緯、室堂の社屋建築の実績なども牛首・風祭にあり、尾口・尾添は別にして、白峰・西谷は越前平泉寺に親密感を持っていたようです。これに加えて親藩VS外様では加賀藩は不利な立場と言えました。 ちなみに白山麓16か村の内訳は牛首・風嵐(かざらし)・島(桑島)・下田原の白峰四村、深瀬(ふかぜ)・鴇ヶ谷(とがたに)・釜谷(かまたに)・五味島・二口・女原(おなはら)・瀬戸の尾口七村、大日川上流部の新保・須納谷(すのだに)・丸山・杖・小原(おはら)の現小松市の西谷五村。今訪れても山深い山村で多くが過疎やダムの影響で無人村ですが、瀬戸・女原・二口の様に伝統的行事が受け継がれ集落が残る村もあります。 ところが歴史の機微と云いますか、抗争が激化…

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百万貫岩

僕がこのサイトで一番最初にUPしたのが、石川県の名のもとになった手取川についてでした。            2012年6月23日 ⇒ 最初のUP 日本最大級の石ころ さすがに5年も経つと変更部分が、粟津温泉の温泉旅館「法師」、創業が養老2年(718年)でこの時点では世界最古だったんですが、山梨県の西山温泉・慶雲館(慶雲2年(705年)開湯)、兵庫県の城崎温泉・千年の湯 古まん(養老元年(717年))が前年にギネス申請・翌年正式に登録されて、世界(日本)3位になっています。 前ブログの石川の県名の由来と百万貫岩 白山を源流に加賀平野を扇状地にして日本海に流れる「手取川」。3000メートル近くの急峻な日本有数の高低差から流れるため、「石も転がる急流の川」ということで、別名が「石川」。つまり、この手取川の別名から採られたのが県名の由来です。 大昔から暴れ川と知られる存在でしたが、昭和9年に最大の氾濫が起こっています。下流域の現在の川北町・辰口町(現在は能美市)など多くの町村が被害に遭い、多くの家屋や村民が犠牲になっています。その教訓から、河口の美川町から白山麓入口の鶴来町まで長い河岸堤防が築かれています。堤防の上は道路になっていて平常時は県民の憩いの場になっています。天気の良い日にはこんなに静かな川がと思う広々とした風景が続きます。昭和の大洪水・大氾濫の凄さの名残が手取川上流にあります。それが「百万貫岩」。 捕捉になりますが、正確には石川県の名前は、金沢県(金沢藩)から県…

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白山七社(番外編) 岩根神社

前回紹介した白峰の中心から天領取次元・大庄屋・山岸家を右手に観て、石積みが観られる道を真っ直ぐ行くか、白山公園線を市ノ瀬方向に進むと。。白山公園線を冬季通行止めにするゲートの左手に広場があります。 そこが岩根神社になります。(例年ならば11月から4月末までゲートは閉まっていることが多いです。) 白山七社・岩本神社で書きましたが、岩本宮の旧名が岩根宮と呼ばれたとなっていました。能美市教育委員会では岩根宮として文化財指定しています。 しかし、疑義にしたように岩本神社では、岩根宮の名称を天狗壁頂上の磐座を名の謂れにしていますが、やはりどうしてもこれには無理が多いと思われます。それに加賀禅定道とは手取川を挟んでおり、登山道とは少し違っています。ただ、中世以降は間違いなく岩本の渡しの関係性からも岩本宮として白山七社・本宮四社の一角というのは間違いありません。 白山開山(養老元年・717年)から加賀国成立(弘仁14年・823年)までは加賀自体が越前の一部でした。 加賀・越前・美濃番場が定められた天長9年(832年)、鎌倉時代に書かれた白山之記に岩本宮の記述があることから遅くとも平安末期。それまでは加賀の白山社として岩根宮という存在があったわけです。 白峰が主張しているのがこの岩根神社の地になります。越前・加賀禅定道からも離れた位置です。 しかし白山七社の中でも加賀国府からの道からの中継点になる岩本宮・別宮。松任・金沢からの本宮の前に立つ剣宮が示すように、加賀の白山七社は各街道…

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白峰の歴史

予定では中宮三社の別宮を書いて、こちらは番外編にしようと思っていたんですが、文を途中まで書いて昨年訪れた別宮の写真を見たら、撮ったはずの摂社の観音堂の画像がありませんで、もう一度行ってこようと思っています。現在の別宮で昔を語るならこの観音堂は外せないんです。ついでにご無沙汰している鳥越城や資料館も観たいと思っていますんで。。。しばらくお待ちを と、いうわけで、先日、白峰に嫁さんとドライブ&お食事に行って来たんで、重伝保存地区を二人でぶらぶら&おそばをズルズルその帰りに岩根神社と百万貫岩を観てきました。ついでに久しぶりに手取川ダムを観ようとPAにも寄りましたが、ダムには立ち入り禁止で手取湖しか見られませんでした 白峰(旧石川郡白峰村・現、白山市)は白山開山の泰澄の下山地として古くから知られ、現在も観光新道・砂防新道に繋がる市ノ瀬や別当出合に向かう白山公園線や、別山に真っ直ぐ向かう別山市ノ街道の登山口として知られていました。この白峰地区は石川県内でも特殊な場所で、古くは冬期間は下界から途絶する地区で、白山と手取川本流に抱かれた自然と共に生きてきた歴史があります。加賀であって加賀でない、福井勝山との関係が深いとはいえ、また福井とも違う雰囲気、白峰は白峰という山の民の里だと理解して欲しい場所です。 福井県勝山市が巨大な恐竜館を造って恐竜の里と呼ばれていますが、白峰の桑島化石壁は勝山市の北谷と同じ手取層群…

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白山七社③ 佐羅早松神社

加賀番場にあたる白山比咩神社と岩本宮・剣宮・三宮はある程度近い距離の存在で固まっています(本宮四社)。 「白山之記」の「白山七社本地垂迹事」という箇所には・・・ 本宮   御位は正一位なり       本地は十一面観音なり。 垂迹は女神なり。 御髻と御装束は唐女の如し。 金剣宮 白山の第一の王子なり       本地は倶利伽羅明王なり。 垂迹は男神なり。 御冠に上衣を着す。 銀弓と金箭を帯し、金作の御太刀刷かせ給ふ。 三宮   白山の第三の姫宮なり       本地は千手観音なり。 垂迹は女神なり。 御装束等は本宮の如し。 岩本宮 白山の第二の王子なり       禅師権現なり。 本地は地蔵菩薩なり。 垂迹は僧形なり。 本地は仏教での本体。垂迹は姿を変えた神話の神の姿になります。この四宮が本宮の菊理姫神を母親にして、残りの三つの宮は兄弟・妹の家族を表していることになります。金剣宮の倶利伽羅明王は剣が本性の明王ですから不動明王にすることがあります。 これから紹介する中宮三社も、この形式を持っていて、関係性が解ります。前述の「白山記」の同文を記すと   中宮   本地は如意輪なり。 垂迹は本宮の如し。 ただし童形か。 児宮と云々。 ただし根本は如意輪なり。 後に三所を祝ひ奉る。 佐羅宮 本地は不動明王なり。 垂迹は金剣宮の如し。 早松は普賢・文殊なり。 二童子の本地か。 別宮   本地は十一面・阿弥陀・正観音の三所権現なり。 十一面は…

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