越前大野城

越前大野城(別名:亀山城)は1575年に越前平定に織田信長の武将として活躍した金森長近が入部・築城したのが始まりの城です。 金森長近は最初は大野盆地の西端にある戌山城(いぬやまじょう)に入りましたが、翌年から盆地にせり出す小孤峰の亀山の山頂に新城の建築を始め、亀山の東に広がる平地に二の丸・三の丸・将棋盤のように区画された城下町を整備しています。これが現在の大野市街の基礎になっています。 標高239メートルの山頂の天守からは大野盆地の四方が見渡せ、防衛上は戌山城の方が上ですが、政治・戦略上はこちらの方が良かったと思われます。 金森長近が大野城に在城したのは約10年でしたが、その後、長谷川秀一・青木一矩・織田秀雄と城主が変わり、関が原後は福井藩の直轄領、松平(結城)秀康の三・四男、天領など領主・城主が頻繁に変わり、1682年に幕府老中だった土井利房(土井利勝の四男)が老中辞任後、国替えで転封、越前大野藩の初代藩主になっています。 大野城は古図によると、天守・小天守・天狗書院(天狗櫓)の三つの天守からなる複合連結式の城だったようですが、1775年に焼失、20年後に小天守・天狗書院が再建されましたが明治維新に破却され城壁だけとなり放置・売却されていました。おかげで往時の姿は不明となっています。 昭和になって旧士族の寄付により1968年に再建されたものです。 ただ、往時の絵図や他城の天守から推定製作したために、天狗櫓に小天守があり、3連結ではなく2連結になっています。城もコンクリート…

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高尾城址・見晴し台

金沢市の東南に位置する場所にあったのが「高尾城」別名は「富樫城」 「百姓が持ちたる国」と呼ばれた加賀一向一揆を象徴する城でした。 高尾城の築城年代は不明ですが、富樫氏が建武の新政時に加賀守護についた1335年から加賀守護に復帰した1400年初頭ではないかと云われています。富樫氏の本城でしたが防衛戦用の山城で郭内に館などもあったという記録もありますが不明です。守護職は近くの野々市の「富樫館」に住んで政務・生活をしていたようです。 高尾城の最後の城主は富樫政親。一時期、小松の今江城に本城を移したりしましたが、ここを本城にして加賀一国の守護でした。1488年、一向一揆に攻められこの城で自刃しています。城もこの後歴史に出てくることがなく廃城となったようです。 教科書などでは政親の死を持って加賀は百姓の国になったと書いている物が多いですが。政親の家督継承の際、応仁の乱の関係で東西に分かれた弟の幸千代(大聖寺城主)との長きにわたる争いとなり、政親は一向宗の支援を受けて勝利を得ました。その後から一向宗勢力の勢いを恐れた政親は一向宗の勢力減少を狙い圧迫を続け、たまりかねた一向宗徒が在地勢力や一部の富樫一族と結びつき、守護に反抗して攻めたのが真相です。実際、落城後、守護職は政親の大叔父・富樫泰高がついています。大きく力は弱まりましたが守護としての地位と政務は富樫家に残っていたわけです。 更に言えば、1531年本願寺の内紛により起こった「大小一揆」において、富樫家は小一揆に加担して敗れ守護追…

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小丸山城址 小丸山公園

七尾駅から和倉に向かう途中、右手に小高い丘があります。ここが「小丸山公園」です。ソメイヨシノや枝垂桜があり、能登の有力な花見スポットになっています。また自然林も多く、日影も多く、夏の避暑にも良い場所です。 ここは元々は小丸山城がありました。 前田利家が能登を分与され入部した際、築城したものです。 畠山氏が治めていた際は本城は「七尾城」でしたが、堅牢な山城の為、新任の治政に向かないため、ここに本城を築城したようです。ただ利家本人はあまり在城せず、兄の安勝(前田慶次郎の妻の親)・長連龍などに城代を任せていました。 構造としては平山城。本丸・宮丸・天性丸そして南面防衛の大念寺山砦で構成されていました。また、29(現存は16)の「山の上寺院群」と呼ばれる寺院を配置して防衛用に配していました。加賀藩以降も寺院を防衛拠点として配すのは金沢城・高岡城にも受け継がれています。 大念寺山は道路・鉄道により現在はありませんが、宮丸は愛宕山相撲場になっています。三更橋で繋がる本丸と天性丸は城の面影が解ります。また宮丸跡の相撲場から本丸・天性丸に向かう土塁は往時を偲ばせます。 前田利家が金沢に移った後は前田安勝が城代を務め、利家死後は能登を相続した次男の前田利政が居城としました。利政が関が原戦の責任で没落後、一国一城令により廃城となり、城の建物は取り払われました。 この小丸山は七尾の高台になり、東西南北に市街を見渡すことができ、港に近く・能登への街道ののど元に当たります。地勢的にも重要拠…

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源氏ヶ峰砦・城

倶利伽羅合戦における平家軍の配置は猿ケ馬場の本陣からこの源氏ヶ峰の砦にかけての街道沿いに布陣していました。 その平家軍に対し義仲軍は夜襲の奇襲攻撃「火牛の計」などにより、深い谷底に追い落とし勝利を掴んでいます。 その後、この峰の砦を義仲の源氏軍が占領したことから「源氏ヶ峰」と呼ばれるようになりました。 源氏ヶ峰の標高は240mですが見晴らしが良く北陸道を見渡せる位置にあり、裏間道の上に立地していました。この好条件の砦陣地を奇襲したのですから、源氏軍が巧妙だったのか平氏軍に余程油断があったとしか思えない場所です。 倶利伽羅合戦後は重要拠点として、戦国時代も佐々成政が大掛かりな改修を加えて要塞化し前田軍に備えたと云われています。 その際規模が大きくなり曲輪内を間道が通る形に成っていました。 また堀切・切岸が施されているのが解ります。 北陸道街道から土塁に登れるようになっており、そこから約1キロ進むと主曲輪がある峰の山頂に行けます。その間は堀切・切岸が施されているため両側が崖になったような馬の背のような道を歩けます。 なかなかハードな道ですから覚悟を決めて登って下さい。特に主曲輪の目前は急ですんで気をつけて。。山頂には石柱が建っているだけ。。裏間道も草木でこれ以上は解りません。昔は滝までの間道があったんですが。。 源氏ヶ峰の入口横のガードレール上から、平家軍が落ちた地獄谷が眺められます。他の場所にも展望台が設置されていますが、ここからの眺めが一番解り易い地点です。急カー…

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もう一つの鳥越城

以前紹介した加賀一向一揆の最後の牙城となった「鳥越城」現在の白山市鳥越地区にあり全国的にも名前が売れています。http://72469241.at.webry.info/201208/article_36.html ところが石川県内には、もうひとつ「鳥越城」という城がありました。 金沢市の北隣、津幡町の七黒にありました。最初は一向宗の防御施設に始まり、前田利家の金沢入部後は東方の防衛拠点の一つになっていました。ここは越中との県境近くに当たり、末森城と並んで対佐々の重要拠点でした。ちょうど末森城から始まって連なる宝達山の稜線の最南端になり、金沢城からは直線で約15キロ。この城を越すと平坦な地形が金沢に続くため、街道にある津幡城の付城として、東方防御の最終ラインになっていました。 1584年末森城の戦いの際、前田軍の善戦で佐々軍は撤退したのですが、佐々成政は撤退時にこの鳥越城を手に入れています。 実は末森城の戦いが前田軍の敗退という誤報が鳥越城兵に流れ、城主が城を放棄してしまい、労せず佐々軍が手に入れたというものです。 前田利家がこの事実を聴いて驚愕。城主だった目賀田又右衛門を永久追放にしています。その後、自ら軍を率い激戦を繰り返し取り戻しています。 前田利家が能登・加賀・越中の3国領有後、防御地の役目を終え廃城となっています。 城のあった山は標高60m程ですが、斜度がきつくなっています。 現在は登り口に案内板。小さな本丸跡に標柱があるだけで、激戦地の面影はありませんが…

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下城戸 一乗谷

一乗谷の入り口は京都・近江側の南口にあたる表口が「上城戸」、加賀側の北口にあたる搦め手口が「下城戸」と呼ばれ、この両城戸の内1.7キロ「城戸ノ内」に朝倉館や武家屋敷の本拠が置かれていました。 城戸は一種の城門の役割を担っていましたが、「上城戸」は長さ50m高さ5m・幅13m。現在はただの土手にしか見えませんが、当時は外堀と石垣も設けられていたそうです。 対して「下城戸」は長さ20m高さ5m・幅18m。幅10mの堀もあります。当時は足羽川と外堀は繋がっていたそうです。また桝形虎口になる門は巨石が積み上げられています。現在あるものは埋もれていた石を近年、復元した物ですが、10t以上の石で構成され最大の物は40tを超すそうです。 朝倉氏が本拠を置いた時代、足羽川は三国の湊に繋がるため、下城戸の外隣に港と市場や町家が栄えていたそうです。 当時は、加賀や越前の一向宗徒との確執や戦が多く、上に比べ下の堅固さが特筆されます。防御面を重視していたことが窺われます。 駐車場はありませんが、立ち寄って見る値打ちはある遺構と石組みです。 旅行日 2010.11.7

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幻の帰雲城

世界遺産の白川郷を室町・戦国期に治めていたのが内ヶ島氏と言います。 内ヶ島氏は飛騨の金銀採掘で豊富な資金を得ていたそうです。 その豊富な資金で、足利義政の銀閣寺の援助もしていたと言われています。その内ヶ島氏の居城が帰雲城(かえりくもじょう)です。 豊臣秀吉の佐々成政征伐の際は佐々成政の援軍となっていましたが、豊臣への帰順を許され白川郷も安堵されて帰郷していました。 しかし帰郷3ヵ月後、天正の大地震によって帰雲山が崩落、山津波によって城及び城下郡家全てが一晩で滅び去ったといわれています。 天正の大地震はM8と推定されていて、越中の木舟城も倒壊していますし、美濃の大垣城・近江の長浜城も倒壊全壊しています。 また、大河ドラマ「功名が辻」で山内一豊の娘が城で亡くなっていますが、これは長浜城の出来事です。三十三間堂では千体の仏像の内、六百体が倒れたそうです。 金銀の採掘で裕福だった内ヶ島氏ということもあり、1夜にして一族郎党ことごとくが消え去ったことから埋蔵金伝説が古くから語られています。 古くから発掘・調査が行われていますが、未だ位置さえ、遺物さえも発見されていません。 現在この保木地区、城址跡の記念碑と慰霊碑が建つこの場所はあくまで有力地のひとつです。古い文献の地名とここの土質が帰雲山と同じ物なんだそうです。遠くに見える帰雲山の崩落の痕は、今も痛々しく見られます。 崩落の写真を撮ったつもりだったんですが消えていて申し訳ありません。 戦国期、戦乱ではなく自然災害によっ…

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荻町城址

白川郷の観光紹介写真で、よく山の上から集落を遠望したような写真が紹介されていますが、それがこの城跡からです。 始まりは、南北朝の時代、南朝の貴族が隠れ住んだことが始まりだといわれています。 その後、荻町城は内ヶ島氏の家老・山下氏の館城でした。 内ヶ島氏は土砂崩れで一族諸共に滅んだ幻の城「帰雲城」の城主一族でしたが、帰雲城亡き後、荻町城が白川郷の主城として機能したようです。 ただ、登ってみると解かりますが、城域は小さく館跡という感じです。 しかも、街道から外れているので、立地面からも防御地の意味はあまり無かったようです。山下氏もその後は徳川家の家臣となって名古屋に移っています。白川郷の領主・山下氏勝は尾張初代藩主の徳川義直のもり役で、本城を清須から名古屋に移すように家康に進言した人物といわれています。 この城の城主・山下氏勝には、こんな恋話が残っています。 白川郷の合掌造りで一番大きい「和田家」(国の重要文化財にも指定されています。)この家は庄屋や番所役人を勤めていた家ですが、この家に近在でも美人で有名な「おその」という娘が居ました。引く手あまただったのですが、当人は嫁に行く気なんて全然無かったそうです。ところがある日、ここに家老の山下親子が宿泊した際に、息子の氏勝とおそのは一目惚れ、、、身分・親もいる。で告白はしなかったそうです。 その後、おそのは家から山の上の城を眺めては恋煩い。食事ものどを通らず。そんな娘に父親が心機一転、主城づとめの山下親子に談判して嫁にして貰…

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宮守堀(いもりぼり)

4/11 旧県庁の建物を保存改築した「しいのき迎賓館」と「宮守堀」が公開されました。金沢城の南側に広い芝生地帯の広場(広坂緑地)になります。 土日と桜の満開時が重なって凄い人出だったそうです。 金沢城は大手掘・白鳥堀・百間堀・宮守堀に囲まれていたのですが、明治から昭和初期に埋め立てられ、道路となってしまっていました。 その姿を残していたのは、北側の大手堀だけでした。 今回、宮守堀が復元されました。辰巳櫓下から広がる堀はなかなか美しいです。 公開前週に行った時には堀への注水作業中で、堀は半分くらいでしたが、公開時には、満杯の姿が見られます。 石垣を使用していたのは、辰巳櫓下の鯉喉櫓台石垣だけでしたが、これも同時に復元されています。宮守堀は土砂の掻揚げ式で作られたものですから、大阪城ような深く堅固には見られませんが、石垣は相当の高さで、堅固さを誇っています。 堀と石垣の間に遊歩道が整備され、散策や休憩にはうってつけの空間になっています。 旅行日 2010.4.5

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金沢城 河北門

現在、「百年後の国宝に」というスローガンの元に金沢城は復元工事が進んでいますが、4/24には河北門と宮守(いもり)掘が公開予定になっています。公開といっても、平日でも工事中の現場は公開されていて、進捗状況はいつでも見られます。ほんとに間に合うんだろうかと思ってしまいます。 河北門は、もともと金沢城の三の丸にあったもので、明治初期まで健在でした。しかし、軍の旅団司令部の施設にされた際、失火から多くの城の施設が燃えてしまい河北門も焼失してしまいました。 石川門・河北門・橋爪門は金沢城の重要な門でした。江戸期の大火後、二の丸が中枢機能となっていたため、本来の搦め手門の石川門・そして正式な正門となる河北門・橋爪門は重要な入り口の門でした。 今回、復元されている河北門は本来の金沢城の顔だった門として三御門の中で一番格式の高い門です。 門の前に立つと、その威容には圧倒されますが、菱櫓の窓から見下ろすと美しい姿が見られそうです。ゴールデンウィークには美しい姿が見られそうです。 旅行日 2010.3.14

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高岡古城公園 本丸広場

古城公園は高岡城の城址ですが、射水神社・市民会館・体育館・動物園・博物館を含む市民憩いの公園になっています。 高岡大仏から北にまっすぐ進んで、赤い欄干の駐春橋と石垣の見られる土橋を渡った先の射水神社の隣りに3000平方メートルの芝生公園があります。ここが高岡城の本丸跡になります。 高岡城は加賀藩2代藩主前田利長が隠居城として高山右近に設計を指示したものといわれています。城の1/3を占める水郷と堀が織り成す、緑豊かな城です。ただ建築物はなく、命じた利長も築城開始3年でなくなっています。また、大阪夏の陣後に廃城になっていますので、資料からも倉庫などしか確認できていません。しかし、江戸期は軍事拠点として重視され高岡奉行所が置かれ、魚津城と並んで加賀藩の越中管理の拠点になっていました。 本丸公園は広い芝生が広がり、真ん中に立つとその大きさが偲ばれます。 芝生を囲むように遊歩道も整備されていて、散策にはうってつけです。 途中には、馬上姿の利長像もあり、本丸を眺めているように見えます。 旅行日 2009.11.1

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KKR名古屋

名古屋には、2年に一度くらいの感じで訪れています。 名古屋のシンボルといえば色々ありますが、やっぱり緑が多い名古屋城でしょう。車で行くので、繁華街や名古屋駅近辺よりも、名古屋城近辺のほうが停めやすいのです。 KKRはちょっと古い建物ですが、事前に名古屋城側を指定予約できます。夜の幻想的なライトアップ、朝の静かな緑と城のコントラストも良いですねぇ。これで3度目でしたが相変わらず景色がいいですねえ^^ 以前は、駐車料金は無料でしたが、現在は300円だったかに変わっているのが欠点><(それでも名古屋市内で一泊駐車300円は安い。) ただ、融通の利かないサービスと対応。。。。クレームは止めておこう。。家族向きではないかな 旅行日 2008.4.11

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坂戸城址

坂戸城は上田荘・長尾氏の居城でした。 上杉家の移封と共に堀氏が入りました。 標高634mの山頂に本丸などがありますが、使用されるのは戦闘時のみで、平素は麓に館や長屋が築かれていてそこで政治や生活をとっていたようです。現在は登ってみると城という印象は受けませんが、館跡の石垣などに面影があります。 坂戸城は関東と越後を繋ぐ中継点にあたり、関東の軍勢の攻撃目標にされました。御館の乱の北条軍、本能寺の変前の滝川一益、 天嶮に恵まれた城でその度に持ちこたえています。 堀氏が移封後廃城となりましたが、上杉景勝・直江兼続の故郷の城として人気が高く、6/30山開き後は多くのハイキング客が訪れています。 ちなみに、NHKの「天地人」のオープニングで、与六と泉沢が武田勢から逃れ、馬で疾走するシーンはここで撮影されたものだそうです。 旅行日 2009.12.6

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阿尾城址

阿尾城は文禄年間(1570年頃)、菊池入道によって築城されました。 菊池家は南朝方として活躍した九州の菊池党の末裔と言われています。 阿尾城は氷見市阿尾地区の海に突き出た岩山の上に築かれていました。 富山湾に面し、七尾への街道の分岐点のため、交通の要所、能登・越中の騒乱の中心になった場所です。 上杉謙信の七尾城攻めの前線基地になったり、前田VS佐々の戦の激戦地にもなっています。最初、佐々の配下になっていましたが、その後前田に寝返っています。その際、花の慶二で有名な前田慶次が城代として入城しています。慶次はこの城にいる間に末森城の合戦・阿尾の合戦で中心的な働きで勝利を治めています。慶次の城として訪れる若い女性も多いようですね。 海に突き出た高い岩山なので眺望は素晴らしいです。 本丸跡の先端からは、富山湾の海岸線、能登半島の東海岸、そして富山湾越しに立山連峰を眺めることが出来ます。近くの雨晴海岸からの眺望が有名ですが、ここからの眺望も負けないものがあります。 城の入口には白峰社(崇徳神社)が建っていますが、その奥を登っていくのが城になります。細い道で両側が崖になっていますから、まさに天然の要害です。ただし水の補給や貯蔵は難しそうなので、長期の篭城は難しかったと思われます。事実、阿尾の合戦も城方は外に出て野戦に望んでいます。海上の監視や灯台の役割のほうが強かったと思います。 現在も岩山の先端になる本丸には、簡易の灯台が設置されています。 旅行日 2009.11.22 …

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松任城址

僕の家から一番近い城跡と言えば、この「加賀松任城」になります。 松任駅前の交差点の一角の公園がそうです。以前までの公園の名前は「オカリヤ公園」と呼ばれていました。オカリヤは昔、この場所に現在違う場所にある若宮八幡宮の御仮屋が置かれた所からつけられたそうです。 本来の城址はもっと大きく広がっていましたが、今はこの公園だけ。この公園がちょうど本丸跡になります。 昨年(H23.4)、改修工事が施されて、芝生広場が拡張されて「松任城址公園」と改称されました。 松任城が大きな歴史に出てくるのは、上杉謙信と織田信長軍(柴田勝家主将)が唯一、直接対決した手取川合戦。この時、上杉謙信が攻略して本陣を置いたのがこの城です。天地人でご存知のように合戦は渡河作戦を決行した織田軍に対して、雨中の奇襲と追い討ちで上杉軍が勝利しています。 その後、柴田勝家に攻略され徳山則秀・前田利長・丹羽長重と城主が変わり、関が原後に前田家に編入されました。その後、佐々征伐で出陣して来た豊臣秀吉を前田利家が出迎えたのもこの城です。 今は、城の雰囲気はありませんが、駅前の森の公園といった雰囲気で、静かな佇まいです。避暑には最高の場所になってます。ちょっと暗いけど^^; 旅行日 2009.5.8 グランドホテル松任楽天トラベル 松任駅から一番近い!!大浴場のあるホテル!! 楽天市場 by

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鳥越城

白山麓に向かう大日川と手取川の合流地点にあるのが、加賀一向一揆の最後の牙城「鳥越城」 標高359メートルの山城です。 戦国時代、「百姓の持ちたる国」と呼ばれた真宗王国・加賀の終焉の地です。加賀一向宗の本拠は現在の金沢城の前身「金沢御坊」でしたが、織田信長の侵攻により佐久間盛政に奪われ、この鳥越城と向かいの「二曲城」を最後の拠点として抵抗しました。 難攻不落といわれ激しく抵抗しましたが、講和交渉で騙され主だった者を騙し討ちされ落城しました。 一向宗は浄土真宗の別称のことで、本来真宗が正式とされています。 加賀ではやはり真宗門徒が多く、今も信仰の厚い土地です。佐久間盛政の後、入部した前田家も苦労したようです。 国指定史跡に指定されていて発掘調査が進められて、調度品や鏡・武具・鉄砲の弾丸などが発見されていますし、各曲輪の整備・石垣・各門・防御塀の復元・再現が進められています。 標高があり、南北に北国街道が見渡せ、越前との交通要所の分岐点だったことが解ります。 城の登り口から反対方向に500m程行った所にある「道の駅 一向一揆の里」に資料館が併設されています。是非、寄って見て下さい。 ちなみに、9/5に公開される予定のクレヨンしんちゃん「嵐を呼ぶ アッパレ! 戦国大合戦」の実写版「BALLAD(バラッド)~ 名もなき恋の歌」のロケ地にもなりました。 ただ、例の草薙君事件があったので、チョット心配してるんですけど。。。。期待しています ガ…

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柴田神社

福井駅前から5.6分歩くと「北の庄通り」という商店街があります。 繊維の町、福井を代表するファッション街です。けっこう個性的な店が多いんで見て歩くだけでも面白い通りです。その通りを歩いていくと途中に商店の間に鳥居があります。 それが「柴田神社」です。この地が戦国時代に織田信長の武将の鬼柴田で有名な「柴田勝家」の居城の「北の庄城」の本丸があったとされる場所です。柴田勝家は羽柴秀吉により滅びましたが、その終焉の地がここだとされています。江戸時代までは小さな祠がたっていましたが、明治になって旧藩主・松平春嶽によって柴田神社が作られました。 福井市は戦災や震災で、町自体が大きく変わってしまったため、北の庄や福井城の全貌がまだまだ未解明です。現在も発掘調査が進められています。この神社のそばにも発掘の現場や資料館がありますから、覗いてみるのもいいものですよ。 柴田勝家の奥さんは、有名な「お市の方」です。彼女も勝家と共になくなりました。お市の方の連れ子の三姉妹を祀る「三姉妹神社」も同じ境内に立てられています。三姉妹は茶々・お初・お江ですが、太閤秀吉の側室「淀君」京極高次の室「初・常高院」徳川2代将軍秀忠の室「お江の方」といえば有名な方々ですね。戦国時代に翻弄された女性達です。 福井駅前の繁華街の中に、狭間のようにぽっかりとある静かな空間のような場所です。 旅行日 2008.2.15

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春日山城

北信越で人気投票をすれば、トップに上がってくる人気者が上杉謙信です。義の武将とも呼ばれていました。 その上杉謙信の居城が春日山城です。 標高189メートルの山城です。急峻な山肌の山上にありました。 江戸時代に廃城となり建物は在りません。 山頂まではひたすら登りが続きます。登ってみましたが、日頃運動不足の僕にはつらかつたぁ。。。。頂上に着いたら、息が切れてゼイゼイでした。 でも、山頂からの眺望は美しいですよ。しかも、四方を見下ろすように。。。体力に自信のある人は挑戦してみてください。辛かった登りの見返りに余りある眺めが待っています。 来春の大河ドラマは、「天地人」の直江兼続ですが、前半戦はこのあたりが舞台になります。上越市のあちこちにポスターや幟が立っていました。 旅行日 2008.12.3

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