芦城公園

ゴールデンウィークは嫁さんと僕の休みが合わず、どこも行かずに過ごしていましたが、5/9の土曜日に家族の休みが揃いました。。 とはいえ、たまの休みはついつい睡眠に充てるお気楽夫婦なので、結局お出かけは2時過ぎ。。。 どこに行くとかも考えてなかったのですが、ふと思い出したのが以前行った小松城の芦城公園。あの芦城公園の巨大藤の咲いてるのが観たいなあということに、帰りに河内の吉岡園地と松任グリーンパークに廻れば藤の花見のベストコース。ということで娘も加えて、まずは芦城公園に ところが小松市街に入ったら、道が混み始めてきました。。そうか忘れていた小松は「お旅祭り」の真っ最中 今年は8~10日の開催でしかも中日の山車8台の揃い踏みのメイン日。ほんと、すっかり忘れていました。。 市役所の駐車場に車を停めて、、、おかげといってはなんですが、芦城公園はあんまり人がいなくて静かでした。何度か嫁さんや娘を小松に連れて来ていますが、芦城公園は二人とも初めて。。。ゆっくり散策してきました ところが、肝心の藤は花が散っていて、、、緑の葉っぱばかりが目立ちます。あ~~もっと早く思い出していれば、、、いやいやそもそも今年は花が早すぎる。。。 芦城公園は以前もご紹介しています。。。公園の歴史など詳しいことを知りたい人はこちらをどうぞ ⇒ 芦城公園 藤に似た花が咲くものを…

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粟生少彦名神社(あおすくなひこなじんじゃ)

前回の「芭蕉の渡し」の対岸に当たる粟生宿にあるもう一つの「粟生少彦名神社(あおすくなひこなじんじゃ)」 ここには芭蕉の渡しの半年ほど前に立ち寄っています。お客さんとの待ち合わせの時間調整に立ち寄ったんですが、なかなか古風で規模の大きさが印象に残っていました。 粟生少彦名神社の由緒書によれば、江戸期の火災で文書類が焼失して詳しい由緒が解らなくなっているそうです。 往古に湯口村と北尾村が合併して一村となった際に、村民を挙げて防水土手と水路を作事したことにより、良質な穀草類が生産されるようになり「粟生」という地名が生まれたとされています。旧寺井町粟生(現・能美市粟生)は、現在も非常に広い範囲で工業団地や田園地帯が広がったりしますが、江戸期には対岸の芭蕉の渡しの辺りも粟生と呼ばれていました。明治中頃には、寺井の中心街に当たる三道山や吉光なども粟生と呼ばれ旧寺井町の過半を占めていました。 江戸時代には、加賀平野屈指の穀倉地帯の実りの感謝と願い、治水の願いを込めて、藩主が参勤交代でこの道を通る際には、この神社に立ち寄って祈祷を行ったと云われています。 社域の大きさはそれを示すようです。更に、この神社の紋所は梅鉢紋で加賀前田家との深い係わりを窺わせます。今回は画像がありませんが、現在の本殿の中に江戸末期の本殿が収められており、一間社流造・柿葺・壁板三面が欅の一枚作りで流麗な彫刻が施されています。 是非一度は拝みたいのですが、まだまだ果たせずにいます。能美市のHPに画像がありましたので、興…

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芭蕉の渡し

石川の大河であり急流として知られる手取川。石川県の名の元にもなったと云われる川です。 河口を中心に加賀の扇状地を構成し、遠く海流によっては自動車が入れたり、走れる内灘海岸や千里浜海岸の砂を作るなど、石川の自然環境に大きな影響を与える大河です。過去には何度も氾濫を起こしており、それが扇状地を構成したわけです。 現在は上流の砂防ダムや氾濫防御の土手の役割を成す河岸道路によって、昭和9年の大氾濫以来大きな氾濫は起こっていません。しかし、砂防ダムにより石や砂の流出が減少したため、千里浜海岸の渚ドライブウェイの幅が年々減少するという問題が深刻になっています。 江戸時代、奥の細道の道中、芭蕉一行は金沢を早朝に発ち、野々市、松任を経由して小松へと向かっています。当然ながらこの手取川を芭蕉一行も渡っています。奥の細道には木呂場(ころば)から粟生宿(あお)に至って手取川を渡ったとなっており、曽良日記に小松到着の時刻(午後4時頃)の記載があり、粟生から手取川を渡ったのは日差しのきつい昼ごろと推定されています。 ちなみに芭蕉一行は芭蕉・曽良の二人に、多太神社で紹介した北枝、同じく小松まで同道した竹意の四人でした。竹意については詳しいことが解っていません。ただ、小松で投宿した近江屋は竹意の紹介だと云いますから小松の人だったようです。 旧北国街道は現在の県道157号線になり、現在は手取川大橋で手取川を渡って手取フィッシュランドに至るようになっています。その距離約500mですが、当時というより明治以…

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多太神社

小松市街にありながら大きな本殿と参道を合わせ持ち、社域には大きな木々と三社の摂社を抱えているのが「多太神社」です。創建は当社縁起から武烈天皇5年(503年)。祭神は衝桙等乎而留比古命(つきほことおるひこ、仁徳天皇、)。八幡三所大神(応神天皇、仁功皇后、比咩大神(宗像三女伸))他多数 元々は仁徳天皇(仁徳大皇)が主祭神だったようです。(多太の名は、出雲風土記の命名(みことな)の現れる地・多太郷から来ていると思われるため)つまり、古くから知られる延喜式内社になるわけです。式内社については、以前触れたことがあるので、こちらをどうぞ ⇒ 式内社(上柏野 楢本神社の欅) 平安初期に八幡宮を合祀して多太八幡宮と称していました。更に江戸期には能美郡の総社とされていました。この小松・能美では由緒ある神社の筆頭になります。 延喜式内社として知られる神社ですが、その名を更に高めたのが斉藤実盛の兜鎧が奉納されていることにあります。 斉藤実盛に関しては以前に2記事をUPしています。是非お読みください。              実盛塚・篠原古戦場        首洗池 斉藤実盛の篠原の戦・首洗池は「源平盛衰記」「平家物語」の悲話となっています。また、実盛塚での遊行上人との出逢いと成仏は世阿弥によって物語となり、能、謡曲「実盛」・浄瑠璃「実盛物語」となって受け継がれています。 斉藤実盛は天永2年(1111年)越前国南井郷(現・鯖江市南井町)に河合助房として生まれ、13歳で武蔵国長井庄(現・熊谷市妻…

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芦城公園(ろじょうこうえん)

芦城公園は小松城の三の丸跡に作庭された公園です。 公園内には図書館・博物館・公会堂・本陣記念美術館の公共施設、茶室「仙叟屋敷ならびに玄庵」が建てられています。仙叟屋敷、玄庵は前田利常に御茶堂として仕えた千家4代・仙叟宗室(せんそうそうしつ)の没後400年(平成9年)に裏千家15代・仙叟宗室が建築寄贈したものですが、こちらも解放されていますが事前予約が必要です。 園内には桜池とあやめ池の二つの池を巡るように小山(桜山・うずまき山)と数種の橋を介した泉水式回遊和風庭園を成しています。三の丸跡ということで、江戸期の庭園のように感じますが、実は明治末期以降の作庭です。兼六園に雰囲気が似ています。 四季それぞれに違った顔を魅せてくれる庭園です。北側には松の名木があり、桜、藤、つつじ、百日紅、紅葉更には冬には雪釣りも施されます。 特に桜は小松でも随一の人を集める名所になっています。ソメイヨシノ110本、しだれ、八重桜約130本。 この公園には何度か訪れているのですが、なぜか桜と藤の季節に訪れたことがなかった僕。 初めて桜の季節に訪れたものです。ただし、日頃の行いと、仕事途中のおサボリですから、お天気はあいにくの雨ふり。。ですが。。。画像のご紹介ということで。。 公園の北面には松の名木が多く植林されており、その中に石塔や名石が配されています。一部ですが小松城時代の物もあります。 北西部にある「あやめ池」の奥には「うずまき山」(標高7.36m)に登ると、あずまや…

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小松城址

小松城は江戸時代を通じて加賀の国に金沢城の支城として存続していた城です。 御存じのように江戸時代は一国一城令によって、加賀藩は金沢城を本城として、小松城も廃城になっていたのですが、加賀藩三代藩主・前田利常の隠居城として幕府から特別許可が下りて再興したものです。 小松城の最初の築城は通説では、天正4年(1576年)一向一揆衆の有力武将・若林長門守によるものとされています。ただ、明智軍記や小松軍記の記述にある朝倉義景・明智光秀の問答や記述からはそれ以前に小松の名が出ており、明智光秀が朝倉氏に係ったのは1560年代とされていますから、それ以前から小松に城もしくは砦、寺(北陸の本願寺の寺は城郭を兼ねた造りが多かったですから)があったと思われます。 ちなみに若林長門守は、越前朝倉氏が滅亡して(天正元年)織田軍の勢力圏になった後、土一揆の蜂起で一向宗の再占領になった天正2年に本願寺から越前・加賀に派遣された人物です。雑賀衆の一門と云われています。その後、織田信長の越前再侵攻(天正3年)にも前線に出ており、その後は小松城、鶴来の舟岡城の主将として転戦、最後は鳥越城に入るなど抵抗戦を主導した人物の一人です。 鳥越城攻略にに手間取った柴田勝家の謀略によって、松任城で鳥越城首脳が騙し討ちで殺害された際に命を落としています。なお、松任城で討たれた首脳や武将の内、数名の首が安土に送られ晒されていますが、若林長門守はその内の1名です。 前田利常が再興する以前の小松城に関しては、詳しい図…

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和田山古墳群(能美古墳群)

能美丘陵地は加賀平野の真ん中に忽然と在った丘陵地です。 以前紹介した秋常山古墳や和田山城はこの丘陵地を利用して造られたものです。 能美の丘陵地は古くから古墳が多く存在し、3~7世紀の古墳時代全般に渡る物で、方墳・円墳・前方後円墳・前方後方墳・周溝墓等々、多種多様な古墳が存在しています。しかし、戦後の市街造成によって大きく掘削されて多くの丘陵が失われています。地元の方なら地名で分かると思いますが、三道山・九谷・寺井町の大部分は丘陵を掘削してできた新興地です。もしそのまま残されていれば、貴重な古墳地帯として、計り知れないものがあったと思います。それでも、現在は60程の古墳が残っています。 その中で比較的多くの古墳が残されているのが和田山古墳群になります。 確認済みが23基、掘削されて消滅したのが4基で、19基が国指定史跡として現存しています。前述の和田山城はこの古墳群(8・9・11・14号墳)を利用して造作されたものですが、古墳・出土物の調査が進められており、3年前(平成23年)には23号墳から出土した須恵器(壺・高杯)から「未」「二年」の文字が再確認されています。共に年数を表すのではないかと推測されていますが、この文字発見は須恵器に記されたものとしては、これまで堺市・野々井古墳出土の6世紀初頭の破片が最古と云われていましたが、それを更新したことになります。 23号墓は昭和52年(1977年)に見つかった5世紀末の円墳ですが、周溝から整然と並べられた46個の有蓋高坏と器台に乗せた脚付壷が…

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遣水観音山霊水堂(仏大寺の霊水)

昭和60年(1985年)に選定された名水百選とは別に、平成20年に選定された名水百選があります。 昭和の百選とは重複しないように選ばれていますが、石川県内からは4か所選ばれています。内3か所が加賀から選ばれています。 白山市(旧美川町)にある手取川の伏流水から湧き出る白山美川伏流水群。小松市にある白山の伏流水が涌く桜生水(さくらしょうず)。 そして今回ご紹介するのが能美市(旧辰口町)仏大寺にある遣水(やりみず)観音山霊水堂の仏大寺の霊水です。 加賀地区の人で湧水の人気投票をすれば、たぶんトップになるんじゃないかというぐらい人気のある場所です。 標高400メートルほどの観音山の林道を2キロ程進んだ場所にあり、駐車場には水汲みに来た車がいつも見られます。湧水の蛇口が龍になっていて5.6個あるんですが、湧水の勢いにはビックリするくらい。 霊水堂から登ることのできる観音山は標高400メートルほどですが、白山山系西方のでっぱりみたいな所で孤峰になっています。前述のように水系が豊かで別名・遣水山(やりみずやま)とも呼ばれています。 北陸の寺社や神社に行くと、由来に名前が大概に出てくる「越の大徳」と呼ばれる白山開山の泰澄上人ですが、この山や山裾も泰澄上人を信奉する修験者の拠点になっていました。 今では霊水堂目当てや観音山から縦走するトレッキングコースとして女性陣が多く訪れていますが、明治までは修験者の山として女人禁制になっていました。 観音山の七合目…

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尾小屋鉱山資料館(尾小屋マインロード)

以前、ご紹介した十二ヶ滝のある郷谷川を横目に観ながら上流に進むと、尾小屋鉱山資料館と鉱山跡を巡ることができる尾小屋マインロードがあります。 尾小屋鉱山は江戸時代から続いた鉱山です。 天和年代(1680年頃)から加賀藩が金の採掘を試験的に始め、宝永年間(1704年頃)になって加賀藩が本格的に採掘を始めましたが、量・質的にも良質とは言えずあまり重要視されていませんでした。 明治13年(1880年)、加賀藩八家老の一つ・横山家の10代当主・横山隆平(よこやまたかひら)・隆興兄弟が経営参入、鉱山開発に乗り出し、翌年に銅の優良鉱脈を発見して隆盛しました。(名義的に当主の隆平、鉱山実務を鉱山長として隆興が行ったと云われています。) 洪水などで苦戦した時期もありましたが近代装備を導入して乗り越え、銅の精製も行い粗銅生産量は明治36年(1903年)には生産量が1000トンを超えて、当時の日本一の銅生産量を誇るほどに隆盛しました。全盛期の大正8.9年(1919年)には2000トンを超え、山間の町には鉱夫数1700人超・人口5000人超が存在し、小松から尾小屋を繋ぐ尾小屋鉄道が開通しました。 横山家の鉱山事業部は金沢(現・金沢市大手町)に置かれていました。 明治期の石川県には繊維工場などの女性労働力をメインにしたものが多かったのですが、男性労働力をメインにした鉱山事業は北陸では特筆されるもので、前出の横山隆平・隆興・章(隆平の次男の子)などは北陸の鉱山王と呼ばれ、他鉱山の買収、尾小屋鉄道、加州…

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花山神社 菩提町

小松市に岩山を中心にした遊仙峡と呼ばれる寺院庭園を巡ることができる那谷寺(なたでら)があります。北陸の寺院でも四季の景観は随一と云われています。 寺伝に依れば、開創は白山信仰により「越の大徳」と呼ばれた泰澄上人で、岩窟に千手観音を治めたのが始まりと云われ、当初は「自生山 岩屋寺」と名付けられており白山修験者の拠りどころとなっていました。 寛和2年(986年)花山法皇が行幸した際に、法皇が「私が求めている観音霊場三十三カ所はすべてこの山にある」といって、西国三十三カ所霊場の第一番・那智山と第三十三番・谷汲山の一字ずつを取って「那谷寺」と命名し自ら中興の祖となったと云われています。 この那谷寺の東方の山を越えたところに菩提町という村落があります。ここには古くから花山法皇に関する伝承が伝わっています。なんと、法皇は晩年をここで過ごして亡くなったというものです。 まずは花山法皇について・・・ 第63代・冷泉天皇の第一皇子として生まれ、生後11か月で立太子、17歳で第65代天皇となっています。 一部乱心の質はありましたが、荘園整理令、貨幣流通の活性化など画期的な政策を行おうとしますが、わずか2年の在位で出家退位しています。これには藤原北家の藤原兼家の陰謀策略によると云われています。退位後は熊野・比叡山に修行し、摂津・中山寺(宝塚市)で伝説の宝印を探し出し、三十三霊場を巡って法力を得たと云われています。同じ摂津・東光山(三田市)に院政生活を送ったと云われています。41歳で花山院(現・京…

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西尾十二ヶ滝 ~ 松岡寺跡

小松市の東方の大倉岳高原スキー場に向かう国道416号線を走ると、西尾の里の入り口の県道167号線の手前、郷谷川の流れの途中に「十二ヶ滝」はあります。 小松市街を流れる梯川(かけはしがわ、下流では安宅川ともいいます。)がありますが、郷谷川はこの梯川の上流域の支流の一つになり、さらに上流で西俣川と三つに分かれ、鳥越と大倉岳に更に枝分かれしますが大日山・大倉岳山系を源にしています。 大倉岳の麓には昭和46年(1971年)まで大規模鉱山の尾小屋鉱山があるように、この辺りには固い岩盤があちこちに存在します。西尾の里にも多くの奇岩や岩盤の滝が多くあります。町興しに西尾八景(十二ヶ滝.・象岩.・観音山・烏帽子岩・鱒留の滝.・鷹落山・大滝.・大倉岳)が制定されていますが、岩盤で構成されたものが多くあります。大滝と鷹落山以外は観て来ていますから、一部ですが。。。。残りは機会が在ったらまた。。(2012.09.01撮影) 郷谷川は流れは緩やかですが水量が豊富な川です。明治以降に尾小屋の銅山からの廃水のために汚染問題がありましたが、長年の地元・小松市の努力で改善が施され、現在はまったくそういうことは感じさせない清い流れと田園・森林風景が豊かな世界になっています。 ちなみに閉山した尾小屋鉱山には鉱山博物館と尾小屋マインロードと呼ばれる鉱山通路を回れるようになっています。山奥深いですが、なかなか面白い場所です。 小松市街から尾小屋に向かう国道416号を進むと、加賀三カ寺の一つ・松岡寺の前身の庵が…

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河田山古墳群

前回紹介した和田山城址のある和田山・末寺山古墳群には約40基以上の古墳が確認されているのですが、近くの秋常山や寺井山を合わせれば約60基程。造成や掘削を考慮すれば、100~200基以上が存在したとされています。 これに匹敵する県内の古墳群が「河田山古墳群」です。この古墳群は昭和61年(1986年)に発見されたもの。それまでにもいくつかの古墳が確認されていたのですが、国府台・上八里町の工業団地・住宅団地の造成時に多数の古墳群が確認されました。その数63基。県内の古墳群として確認されたものとしては最多数を誇ります。 河田山は元々、六つの尾根からなる丘陵地帯でした。そこに古墳期前期から後期にかけての63の古墳が所狭しとあったそうです。形状も前期の前方後方墳から後期の円墳までがあり、前回紹介した和田山・末寺山古墳群と時代を共にするものですが、方墳などから発生時期はこちらの方が早い時期からになるようです。 金沢方向から産業道路で国府台を左折したところですが、閑静な工場地帯と住宅団地になるのですが、発掘調査後に開発修正で9基を保存して、残りすべてが掘削・開発され、工場や住宅地の下です。 残念な話ですが、発見時に詳細な発掘調査が行われ、古墳期後期の切石積の石室が発見された12.33号墳が移設されており、12号墳は屋外に復元展示、33号墳は資料館内に移設展示されています。切り石積みの石室は全国的にも珍しく、貴重な発見ということもあったようです。 この方墳は7世紀中頃のもので、切り石は凝灰…

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和田山城址

和田山城という名前を聞くと、城好きな人は今人気の天空の城・竹田城の別名と思われそうですが、今回の城は加賀の手取川南岸の丘陵地帯にあったお城です。 古代における石川県の中心地は手取川南岸から加賀温泉に広がる平野部であったと云われています。当時は加賀三湖や大小の湖沼が存在していましたので、現在の小松市街の旧8号線(現在の305号線)東部の加賀国府があったという古府町辺りから手取川南岸の寺井(現・能美市寺井)の平野部だと推測されています。 寺井や小松の西部を訪れると、なだらかに広がる平野が広く感じると思います。 その平野部にポツネンと標高50メートルほどの丘陵地帯があります。昭和の高度成長期に道路建設や住宅地の造成のために大きく削られてしまいましたが、この丘陵地帯に3~7世紀にかけての古墳が集積しています。 以前紹介した北陸最大の古墳・秋常山1号墳の秋常山、多くの武具が発見された和田山5号墳、40数基が発見発掘されている和田山・末寺山古墳群、同じく10基以上が確認されている寺井山古墳群などなど。。。元々、これらは同じ丘陵地でしたが、前述のとおり造成による掘削により大きく削られ、その際に更にあったと思われる古墳群が失われてしまったようです。 この大規模な古墳期・飛鳥期(3~7世紀)の円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳など、古墳の展覧会のような場所が存在するのですから、加賀の古代史の中心地はこの近辺だと推察されます。 この古墳群はまたの機会にご紹介したいと思いますが、史跡公園とし…

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秋常山古墳群

北陸で一番大きなお墓はどこ?となると、能美市秋常町(旧寺井町秋常)にある前方後円墳になります。 一応正式名称は「秋常山古墳群・1号墳」。別名・秋常茶臼山古墳。築造年代は墳墓の形式と出土した高杯から4世紀後期と推定されています。 大きさは全長141メートル(後円108メートル、前方67メートル)、高さ19メートル(後円)、この大きさは3段として計測されたものです。墳墓は2段で3段目は基壇という説もあって、その場合は121.5X90.5X16.0になるそうですが、それにしても北陸最大級の古墳に変わりはありません。 肝心な被葬者ですが石室は未調査ではっきりしていません。地中レーザー調査や電気調査で未掘墓の確認がなされており、将来保存にとってあるそうです。ただ、近くにある和田山古墳群の5号墳は同じ形状・同方向なので同種の人が葬られていると想像されています。和田山5号墳から大量の武器・武具・甲冑・男性の骨が出土しており、当時の豪族の首長ではないかと想像されています。また、くびれ部分に造出(祭祀や追葬を行う場所と云われています。)が確認されていて赤く塗られた祭祀用の土器が大量に発掘されています。 前方後円墳と云えば、堺の伝仁徳天皇陵が有名ですが、仁徳陵との違いは前方部の長さが違うこと、仁徳陵は後円部が小さく前方部が長いのが特徴の鍵穴みたいな形ですが、秋常は後円が大きくなっています。 ちなみに前方後円墳という名称ですが、別に前後が決まっているわけではありません。正直、どちらが前とは…

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今江城址(御幸塚城)

前回の記事の浅井畷の合戦を書いた際、前田利長の別働隊が布陣していた城が今江城だとしたので、以前訪れているのでご紹介します。 今江城の別名・御幸塚(以前はみゆきづか、現在はごこうづか)の起源は、花山法皇(968-1008)がこの地に滞在中に、加賀三湖(今江潟・木場潟・柴山潟)を眺めるために近くの三湖台という丘に登ったことからこの辺りを御幸と名付けられたものです。花山法皇の伝承の足跡としては、近くの那谷寺の名にも残されています。 1960年代までこの城の西側には今江潟という湖が広がっていました。その大きさも結構大きくて、ここから小松空港までの間にありました。その後、干拓によって今は広い田園地帯になっています。城があった当時は側の湖を利用した堀に囲まれていたようでなかなか堅固な城の要素があり、加賀平野の要衝点ということで古くから重要視された城でした。 築城年ははっきりしませんが、富樫泰高が加賀守護職に初めて就いた辺りではないかと云われています。そうすると1441年以降となります。 この人物はなかなか波乱万丈の生涯を送っていて、加賀守護・富樫家の衰亡期を逞しくまたずるがしこく送っています。そもそも富樫泰高は守護職には縁がないはずでした。守護就任前は醍醐寺の修行僧で喝食(食事の報告係)をしていたという経歴があります。ところが守護だった兄・教家が室町幕府6代将軍・足利義教の不興を買って失脚した際に還俗して家督を継いだ曰くつ…

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浅井畷古戦場

加賀における最後の合戦が行われたのが小松城東方の浅井畷と呼ばれる一帯でした。 畷の名の通り、当時は小松の地は手取川による湿地帯が多く、そこをほそい隘路が通っていたそうです。また、その湿地を利用して桑の実畑が広がっていたそうです。 現在はその名残は観られませんが、住宅地の一角に九つの墓標が立つ園地があるのですが、ここが浅井畷合戦の最激戦地になった場所と云われています。 戦ったのは前田利長軍(25000)VS丹羽長重軍(3000) これは前田軍の侵攻時のもので、実際は戦闘開始時は1万余VS1000と思われます。 時は関が原合戦(慶長5年 1600年)直前 この時点ではご存知のように能登・加賀の前田家は東軍に服属した形でした。当然、そのままならば、大国の前田家が東軍になるのですから、加賀江沼・越前の小中名も東軍に与したはずだったのですが、石田光成との友諠によって大谷義継が西軍についたことで、北陸の様相は一変します。そもそも敦賀の大谷義継をはじめ加賀江沼・越前の各領主は豊臣秀吉による政策で、前田・上杉の抑えとして配されており、その元締めが大谷義継だったのです。 同じことは毛利・黒田の抑えの宇喜多秀家や、島津の抑えの小西行長・加藤清正、徳川の抑えとなる東海も云えるのですが、こちらは肝心の元締めとなる福島正則が徳川方の先鋒になったのですから、やんぬるかな秀吉の構想は一番大事な部分が破たんしたわけです。 大谷義継の西軍参戦は、前田利長にとっては脅威になったわけで、京・近江に向かう…

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移動販売車 BOB HOUSE

3/6 仕事の合間に金沢大桑の本屋に立ち寄った際、店舗の前に停まっている移動販売車(ケータリングカー)が目に入りました OH!!久しぶりに出会ったなあこの車 こういった移動販売車、当たり前の風景になってきましたが、石川県内にはこの移動販売の車は30数種類が存在するそうです。この数は全国でもトップクラスなんだそうです。今はこの移動販売車を製造・改造する会社が各地に広まってきましたが、数年前までゼックという野々市の会社1軒がトップシェアを誇っていたそうです。それで地元に多いみたい。 そんな移動販売車の中でも人気のあるものがあるんですが、この日出会った「BOB HOUSE」はトップクラスの人気を誇っています。販売してるのはホットドッグ。これがなかなか美味しんだなあ。 日頃は小松や加賀の方に出没していることが多いので、なかなか食べられないんですよ。ほんとラッキーだったかも 今回はオーソドックスな「ボブドッグ」をば、からしタップリ、ソーセージもブッ太いし、むふっ そうそう、ここの名物は「スペシャル・ボブドッグ」といって、長さ35cmの巨大ホットドッグ。機会があったら是非どうぞ。 4/3 久しぶりの完全休養日、たっぷり寝ダメさせていただきました。 同じく休日で、昼まで寝ていた嫁さん。もそもそ…

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2・3回目の初詣

元日、Uターンしてしまった初詣 4日に改めてやって参りました 体調もやっと復活してきた娘も含めて家族で出直してきました。 前回と同じく「安宅住吉神社」にやって来ましたよ。元日は雪だったけど、この日はあいにくの 元日は参拝客は多かったけど、4日ともなれば参拝客は少ない。けれど、社務所のおじさんや巫女さん達の元気な「明けましておめでとうございます。」の声が響き渡っています。弁慶の顔もこの間より柔らかく見えるのは気のせい 拝殿にてガランガランと願いを込めまして、3人で御神籤を引きまして、、、しかし、僕と嫁さんは末吉・娘は小吉 良いのだこれから昇り調子になるのが末吉・小吉なのだ 拝殿前の亀石を3回ナデナデ この亀石を3回撫ぜると長寿になるそうです。来られた際はお忘れなく この神社の敷地内には「安宅の関址」があります。 能・文楽の「安宅」・歌舞伎の「勧進帳」で有名です。奥羽逃避行中の義経・弁慶…

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H23 Uターンの初詣

今年(H23)は久しぶりに元日に初詣と思い「安宅住吉神社」まで、雪が舞う中を嫁さんと二人で行ったんですが 海辺の駐車場に車を停めて本殿まで登ってみると 狭い境内には人・人・人 こんなに寒いのに 本殿までの人の列を観た二人思わずUターンしてしまいました どうしても列に並ぶという行為ができない夫婦 弁慶さんに睨まれても帰ることに、4日にもう一度初詣はやり直そうということに 帰り道、長靴に穴が開いたと騒ぐ嫁さんの為に、小松のアル・プラザに寄って行くことに。。。結局、今年最初の買い物は嫁さんの長靴(ゴム長とも云う)という色気の無い物に成ってしまいました ちなみに、嫁さんは僕と出かける時、天気の悪い時は長靴か登山靴みたいな編上げブーツ、晴れてもスニーカー{%メイドに…

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道の駅こまつ木場潟

H22/10/9 天気は雨降り 時々、土砂降りにもなっています 石川の各地ではいろいろとイベントが開催されていましたが、みんなたいへんだったみたい 金沢ではネンリンピック。僕の住む白山市では昨年紹介した ほうらい祭り。 開会式も造り物や獅子舞が出ていましたが、雨でたいへんだったみたいです 嫁さんが休みで、買い物に行くというので運転手に立候補 午前中、仕事が入っていたのでちょっと行って来て、二人でレッツゴーです あっと、娘は僕の風邪を貰ったみたいで、部屋に引きこもっています。 僕みたいに咳は出ないみたいで、熱っぽいだけと言ってました。 そのかわり、お土産はしっかり頼まれました 嫁さんのご希望は「ホームセンターならどこでも良いのだ」 ほんとは晴れていたら、福井まで行くつもりだったんですが断念 金沢はイベントだらけで交通規制中だから南へ行くことに。。。 小松に行くつもりで国道8号線を走って思い出したのが道の駅 4/22(H22)にオープンした「こまつ木場潟」 石川県には昔から5つの大きな潟があったのですが、干拓や開発で姿を変えて…

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プラチナルート① ウルトラマンスタジアム ~ 昆虫館

(H22.7.21) 我が愛すべきデスクトップPCの「バリュウ君」 我が家にやって来て約5年。僕と娘の酷使にもめげず頑張っていたのですが、近頃僕と同じく体調が思わしくなかったのですが、金曜の夜に旅立ってしまいました。 夜、使っていたら、いきなりの落雷 近所中、3時間ほど停電になってしまいました。停電が解除と共に「バリュウ君」の電源ボタンを押してもうんともすんとも反応しません。なにやら焦げ臭い臭いも長いつきあいだったのに。。。エ~ン 仕事用のノートPC「びぶろ君」で、この日記を書いています。 「バリュウ君」では、和音入力で使っていたんですが、「ビブロ君」ではローマ字入力。文章を書くときは慣れてないので、なかなか難しい 変な文や文字があっても勘弁してください。 えっ?元々、誤字脱字が多いって>>>>すみません トホッ 7/17 嫁さんの実家から義母・義兄・義弟家族・総勢6名がやって来ました。 毎年、この時期に義母・義兄がやって来るのですが、今回は温泉に行くということで義弟家族も付いて来たんです{%…

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2010年の桜

毎年の事なんですが、2月末から4月にかけては仕事が立て込んで、好きなことができないことが多いんです。 今年も同じく、相変わらずの行き当たりばったりの仕事ぶりもありまして、すっかり更新が滞ってしまいました。 でも、この約2か月間で年間の三分の一以上を稼がねばならないので、頑張らないと家庭の崩壊にもつながるのです、ファイトなのです。ただ、残念なのは例年に比べて桜の時期が早かったこと、昨年(H24)のように遅れた桜なら、時間が獲れるようになってゆっくり見られるんですが、今年みたいに早く散ってしまうとお花見ドライブも逃してしまいそうです。 というわけで、今年はのんびり見られそうにないので、3年前の日記をUPということでお許しを^^; (本文) 今年(H22)の石川県の桜は昨年(H21)より遅くて、4/10前後が満開だったのですが、強風と豪雨で散ってしまって、短い期間になってしまいました。残りは5月まで咲く樹木公園くらいです。 ということで、短かった桜のシーズンでしたが、写真を幾つか撮っておいたので、行ってしまった桜の季節を。。。今頃とは言わない様に などと言いつつ、たしかに今頃と思いつつ。でも、新潟や東北の方は今が盛りだそうですが(4/28)                   まずは(H22)3/17 早咲きの兼六園の桜                   4/5 香林坊の広坂…

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松任金剣宮 ~ 那谷寺

さて、この日は朝からハプニング 事故停電ですよ。朝の6時にいきなり電気がプッツン 強風と雷で、近くの電線が切れてしまったようです。いやーまいりました 電気がないと、PC・TVはもちろん、なんと固定電話も駄目 さらには電気点火のファンヒーターや風呂も駄目なんだもん。点いたのはガスコンロだけ 現代社会は電気がなくなるとエライことになるもんですねぇ。。 とにかく寒くて寒くて。。。。布団から出るのがつらかった~~~ しかし、外のほうが暖かいのはなぜ。。。ひぇ~~~ 午前中、仕事があったのでササッと済ませて家に戻ったけれど、まだ復旧していなかった。嫁さんと娘は休みで、布団の中で震えておりました 帰って30分程で復旧しましたが、こんな日こそ初詣に行かなきゃ                              (どういう理屈じゃ←嫁さん弁) 前日から徹夜で年賀状のイラストを手書きしていたのに停電に邪魔された娘は、、、、、これから、もう一度チャレンジ   彼女、趣味の漫画同人の仲間には手書きイラストを書いているんです。 ということで…

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いしかわ動物園 ナイト・ズー

8月の土日、いしかわ動物園では「ナイト・ズー」が行われています いしかわ動物園は今年が開園10周年(H21) 開園もついこの間のように思っていましたが、月日がたつのは早いものですね。久しぶりに行ってきましたよ 10年前の開園前、石川県内の動物園・水族館は金沢の卯辰山の頂上にあったんですが、能登島に水族館と産業道路沿いの能美市(旧辰口町)に動物園と分割されました。更に金沢市の金石にあった野鳥園も統括して「いしかわ動物園」となりました。野鳥園からの引越しも多かったので、鳥の園舎が多いのが特徴にもなっています。朱鷺の分散飼育地にも選ばれていて、現在受入れ施設の建設中です。それから、動物の迷子や看護・介護・リハビリの施設「動物リハビリセンター」「動物病院」も新設されています。もちろんここも見学できます。(追伸 現在(H25)、朱鷺も何度かふ化に成功し、佐渡センターから放鳥も行われています。)朱鷺の飼育は画像・映像でしか見られませんが、いつの日か能登の空を飛んでいた「のり」のように羽ばたくのが観たいですねえ。 園内は回遊式になっていて、ガラスや堀をめぐらして動物を見られるように落ち着いた雰囲気になっています。動物の数はそんなに多いほうではありませんが、じっくりゆっくり観られて好きな動物園のひとつです{%…

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川北の火祭り

川北町の手取川河畔で「手取の火祭り」がありました。 石川県内では最大の花火大会です。仕掛け花火はありませんが、連発の打ち上げで18000発 今回は、夜になってからで見に行ったんですが、近くまで行くと路上には多くの車が路上に停められて隙間なし、仕方がないので車でそのまま運転しながら、打ち上げ場所の側を通ることにしました。車が渋滞で停まるごとにハンドル片手に撮ったのですが、携帯なのでとってもイマイチの写真になっていますが、ご勘弁を やっぱり運転しながらの携帯写真は駄目ですねピントやズームは合わせられないし、タイミングも合わないし 打ち上げの会場近くに行った時には、45mの大篝火は燃えてしまって倒れて煙が上がっているし、この日は小雨上がりで曇り空&無風で煙が留まっていて、花火には今一の感じになっていました 渋滞で橋の真ん中で渋滞でしばらく停車、車からはちょうど良い時に打ち上げ場の近くになったのだけが良かったな ただし、おまわりさんが側にいて、なかなか写真は撮れなかったけど 橋までは、来る時は20分で来られ…

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未知の駅 和気の岩

石川県の東側(山側)を走る山側環状道路と接続する産業道路は看板広告禁止道路なので、美しい景観を見ながら走れる道路です。 金沢方向から川北大橋を渡ると泉鏡花が愛した「辰口温泉」、朱鷺の飼育をしている「いしかわ動物園」などもあります。 金沢方向からいしかわ動物園を過ぎると左手に赤茶の岩山が観られます。そこが「未知の駅 和気(わけ)の岩」です。もちろん、未知は道の当て字です。 道の駅としてはトイレしかないのですが、トイレ施設の裏には大きな岩山がそびえて観えます。 この岩山は2000万年~1億7000万年前の中新世の火山活動で流紋岩が露出したものです。流紋岩は流れ出た溶岩が堆積して冷えて出来たものです。中新世記は日本列島は大陸と繋がっていた時代で、日本海はまだ広大な湖の時代でした。この時代の激しい火山活動で日本海が広がって行き海になって行ったんだそうです。 当時は能登半島はなくこの岩山が海岸線でした。この岩山から北は大昔は海だったということ。高台から金沢方向を海だと思って見るとそう思えて来るから不思議です。 トイレ横の登り階段を行くと岩山が間近で見られ、溶岩の流れた流紋が観られます。また芝生が広くとってあるので、緑の芝生と赤茶の岩山のコントラストは美しいものがあります。芝生の上に座ったり寝転がると運転疲れを癒すには最適です。 この道の駅と道路を挟んだ反対側に山を登って行く道があるんですが、そこに金沢大学の低レベル放射能研究所があります。放射能検出に関しては全国的にもトップ…

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剣豪・草深甚四郎の墓

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて剣技は発展して、剣豪と呼ばれる人材が出現、各地に流派が起こりました。加賀の国にも一人の剣豪がいました。「草深甚四郎」がその人です。 草深甚四郎は13歳で武者修行で各地を巡り、29歳で地元に戻り「深甚流」を起こし、この墓から南にある土室地区に居を構え多くの子弟に教えたそうです。その後「深甚流」は加賀藩の武学校・経武館に受け継がれていきました。 古話には、流浪中の塚原卜伝とも対戦していて、長剣・短剣の木刀で2試合を行い、長剣で勝利・短剣で敗れ、互いの弟子になることを請うたそうです。その際使ったとされる木刀が土室の神社に奉納されています。 川北町では毎年、慰霊祭を行い「草深奉納剣道大会」が開催されています。10月に行われるこの大会には石川県内の剣士が集まってきます。 墓のある場所は田園の真ん中にありとても静かな場所で、駐車場やベンチなど小さな公園として整備されていて、春には桜も綺麗に咲くため隠れた僕の休憩のお気に入りの場所になっています。 旅行日 2011.4.15 剣聖草深甚四郎 平成2 戸部新十郎監修刀剣ーかたなのほんや 甚四郎の虚像と実像1.伝承にみる甚四郎像2.卜伝との邂逅3.甚四郎松と天狗説上段の章 甚四郎の生きた 楽天市場 by

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弁慶謝罪の地 堂林寺跡

安宅の関に行ったので、せっかくなので「勧進帳」の完結の地にも立ち寄りました。 根上町と美川町の境には昔、道林寺という寺院がありました。 根上町の体育館の脇道を入り、公民館の前広場に記念碑があります。 ちなみに根上町はスポーツ教育が盛んな土地柄で、格技館や町営グラウンドも充実しています。今年アスレチックスに移籍した松井秀喜の生家も近く。こんな土地柄もメジャーリーガーが生まれたのかもしれません。 計略の為とはいえ、主人の義経を杖でぶん殴った弁慶が涙にくれて、謝罪をしたのが堂林寺と云われています。 ここで休息を取っている義経一行に、後を追って来た富樫が酒樽を振る舞い酒宴を催しています。しかし、疑った弁慶が舞を舞う間に義経一行を先行させ、自分一人が残って富樫に礼を申し上げて立ち去ったそうです。 この行為に激怒するかと思いきや、富樫はこの主人思いの弁慶を優しく見送ったそうです。その後、義経主従は東の鶴来の金剣宮に、北の大野湊神社に向かったという2説があります。 ちなみに富樫は、名前は「富樫左衛門泰家」。安宅の関守となっていますが、この時は加賀の守護に任じられていました。 この安宅の一件によるためか、義経逃亡後解任されて出家しています。 更に後日談があって、彼はその後、一族で奥州平泉に行き、義経との再会を果たして加賀に帰国。現在の金沢の隣町の野々市に本拠を構え、長寿を全うしたそうです。野々市に本拠を構えた富樫氏は、建武の新政時に加賀守護に復帰しました。その後、一向一揆との確執…

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安宅の関址

安宅住吉神社の敷地には「安宅の関址」があります。 能・文楽の「安宅」・歌舞伎の「勧進帳」で有名です。奥羽逃避行中の義経・弁慶一行12名と関守・富樫との問答など人気技芸です。その舞台がここになります。弁慶たちの難関突破にちなみ、安宅住吉神社は学業やスポーツなど受験生・選手などに人気があります。 弁慶の智勇・富樫の情・義経の忍として昔より人気があり、義経記などの読み物・能・文楽・歌舞伎と共に多くの俳人や作家の題材に成っています。 特に歌舞伎は200年以上の歴史の「お旅まつり」の曳山子供歌舞伎・全国子供歌舞伎・秋の中学生勧進帳など小松は歌舞伎の町に成っています。平成16年には本格的な歌舞伎舞台を持つ「芸術劇場うらら」も開館しています。こけら落としには市川団十郎が弁慶、坂東三津五郎が富樫、中村芝雀が義経を演じ、安宅の関公園の入り口にある「勧進帳ものがたり館」に3人が演じた際の衣装が展示されています。 安宅の関の入り口は神社を廻り込んだ海辺にあり大きな門が目印ですが、この門を潜るとすぐ左手に歌舞伎「勧進帳」の像があります。 この像は昭和41年に造られた物ですが、当初は弁慶と富樫の2体でした。平成7年に作者の都賀田勇馬氏の息子によって義経像が作られました。 弁慶と富樫にはモデルがいて、弁慶は七代目松本幸四郎(現市川団十郎・松本幸四郎の祖父、海老蔵・染五郎の曽祖父)富樫は二代目市川左団次です。 像の前を登ると義経と富樫を祀った「関ノ宮」ちなみに右が義経で左が富樫です。ここをさらに登…

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安宅住吉神社

今年(H23)の初詣は「安宅住吉神社」に行ってきました。 「安宅住吉神社」は創建872年の古い社です。 安宅は北陸道の港町として古くから栄えた場所です。戦国期の戦艦にあたる「安宅船」の名の元となったという説もあります。神社も海沿いにあり、海の守り神として昔から尊宗されてきました。 この神社は県内の受験生には、金沢の「金沢神社」と人気を二分しています。「金沢神社」は加賀前田家の祖先「菅原道真」を祀ったものですが、こちらは難関突破として人気があります。 その元になったのが、能の「安宅」、歌舞伎の「勧進帳」で有名な「安宅の関」が敷地内にあるためです。お馴染み、義経・弁慶一行が奥羽逃避の途中、安宅関越えの知略と関守・富樫の情を伝えたものです。難関を見事通った弁慶の像も境内の稲荷堂の前にあります。また、表参道の途中には、関通過の際、弁慶が植えた「逆植えの松」があります。 神社とは関係ありませんが、「君が代」の「さざれ石の巌となりて」の「さざれ石の巌」をご存知でしょう。岐阜の揖斐川・春日の「さざれ石公園」にあるのが元なんですが、岐阜から寄贈された「さざれ石」がこの神社の表参道の駐車場にあります。表参道の駐車場は車を停める人が少ないのですが、立ち寄ってみる価値はありますよ。 旅行日 2011.1.4

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