如来寺② 大姫と光高 石仏群

(画像はH25.12.14のものです。)如来寺は①で書いたように加賀藩4代当主・前田光高の正室・清泰院(大姫・阿智姫)の位牌所であり、前田家に嫁い徳川系女性や将軍の位牌所となっています。当然、寺のあちこちには三つ葉葵の紋が配されています。 清泰院は水戸徳川家初代藩主・德川頼房の四女・阿智姫として生まれています。頼房の三男で水戸藩を継ぎ水戸黄門で有名な徳川光圀とは、腹違いになりますが一歳違いの姉に当たります。 5歳で三代将軍・徳川家光の養女として大姫と名を改め一年間養育され、6歳で前田光高17歳に嫁いでいます。 夫婦仲は良かったようで、光高は生涯側室を置かず(德川正室からの嫡子という考えもあったでしょうが、これは父・利常と母・珠姫の関係に感化さているようです。ちなみに利常が側室を置いたのは珠姫死後10年以上たってからです。) 二人の間には大姫16歳の時に江戸屋敷で長男・綱紀(5代目当主)が誕生しています。綱紀誕生を金沢で聞いた光高は父・利常と祝いの連歌会を開き喜び合っています。当時の家光時代、多くの大名改易が発生していますが、その多くの理由が後継問題でしたから、嫡子誕生は大きな喜びだったはずです。 その喜びが、いかに大きかったかを証明するように、直近の参勤交代では金沢→江戸の通常行程12泊13日間を、7日で歩くという歴代藩主最短記録を樹立しています。金沢・江戸間480キロ、しかも現在とは違いアルプス越えや橋のない急流40以上、また加賀藩の大名行列ですから規模も尋常ではないこ…

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如来寺① 前田光高と天徳院墓所

義母・義兄がやってきた翌日。みんなで観光しようとなったんですが、別段行きたい場所を決めていなかったというご返事。 2.3日前の北國新聞の記事に如来寺の牡丹が満開だというのを観た嫁さんが、満開の牡丹が観たいというご要望。嫁さんは頭の中で満開の牡丹のお花畑を連想していたようですが。 何度か如来寺には立ち寄ったことのある僕は内心で思っていたこと、如来寺にそんな大きな花の敷地があったかなあというくらい。。まあ、嫁さんのリクエストだし、いざとなれば近くの珠姫の寺・天徳院もあるし、牡丹と聞いて喜ぶ義母もいましたから。(一部画像はH25.12.14の物があります。) ただ予測通りと云いますか、牡丹の花畑はそれほど大きいものではなく、これから徐々に広げていくという感じでした。でも牡丹が花開いて美しい姿を見せていました。 この牡丹はへ平成18年(2006年)に住職の古希祝として、縁故の人達から贈られたものだそうです。昨年、更に40本を新たに植えて数を増やしたそうです。 如来寺は小立野台地の一角、金沢商業高校に向かう道の入り口にあります。 この寺の近くには前述の加賀前田家三代当主・前田利常の正室・珠姫の菩提寺・天徳院。利常の生母・寿福院(千代保(ちよぼ))の位牌寺.・経王寺などがあります。如来寺も利常の長男・光高の正室・清泰院(大姫)の位牌所となっています。清泰院の位牌所になって以降、この寺院は前田家に嫁いだりした徳川家関連の女性の位牌所になっています。 前田光高は利常の…

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呉竹文庫 熊田源太郎

手取川の河口にある美川湊は古くから漁業や北前船の中継地として栄えた町です。 美川町(現・白山市美川地内)は手取川の両岸にあるのですが、北隣の松任側から美川町を南北につなぐ美川大橋を渡ってすぐに左折して、手取川の導水路になる熊田川沿いの高台を登った場所に呉竹文庫があります。 ちなみに、この導水路の熊田川はサケが遡上することで知られています。毎年一万匹超の鮭が遡上しており、日本海側では最南端の遡上地と云われているそうです。 その高台にあるのが「呉竹文庫」です。入口は狭いですが、駐車場は広く停め易いです。 駐車場にはこんな記念碑があります。上杉謙信軍と織田軍の戦った手取川合戦の碑です。 手取川合戦に関しては信長公記や長家家譜などに書かれているくらいで、詳細な記述書や図解があるわけではないのですが、合戦地は水島の記述からフィッシュランドのある手取川橋辺りからこの美川河口ではないかと云われています。 手取川合戦とは。。。七尾城攻防戦に端を発します。能登国守の畠山家は永禄九年の変以降衰退を極め、畠山の当主を若年の春王丸が継いだ頃には、七尾城内は大きく二つの派閥に分かれていました。それが温井・遊佐氏と長氏でした。こういう内憂の際に外部の勢力に頼ることは国を滅亡させることになるのですが、この両者はそれをやってしまいます。前者は上杉謙信を頼り、後者は織田信長を頼ったわけです。 前者の要請を受けた上杉軍は七尾城を囲みます。ここで後者の長氏は一族の長連竜を織田軍の援軍要請に派遣します。…

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宝慶寺前~稗田越え~稗田の里公園~龍双の滝

11月の9日は我が嫁さんの誕生日でした(恐怖のさそり座の女です。で、プレゼントは今回、マイメロちゃんのぬいぐるみを渡しておきました。けっこう大きくてニコニコになってる嫁さんはすっかりよい歳だけど、こういう無邪気なところは良いなあ ここのところ、キティちゃんが続いたけど、今回は大きいことは良いことだということで、大きさ勝負で上げたけどこれだけ喜ぶとこっちまでうれしくなりますねえ。子供の頃には人形やおもちゃを貰っていた娘は、大概アニメおたくの商品で喜んでますが、母がこういうのを貰って喜んでると、羨ましそうにしています。まあ、今回は選んだのは娘との共同行為でしたから(いつもは僕だけ)。。。 文句は言えないので で、人形の写真を撮って置こうと思ったら、嫁さんがしっかり自分のタンスにしまいこんで隠したから、今回は画像なしで申し訳ありません さて、プレゼントをもらってご機嫌の嫁さんと久しぶりにドライブに。。。

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道の駅 マリンドリーム能生

相変わらずですが、この時期になると仕事が混んで、更にトラブル処理が集中します しばらくサイトに来られなかったことをお詫びします。 コメント下さったgoさんやsomaさん、がにちゃんさんにコメント返しも出来ず、気持ち玉を下さったイータンさんやmikomaiさんにもご訪問できず、申し訳ありませんでした。 これすべて、日頃の不摂生で体調崩し、動けない分溜めこんだ仕事もなかなか消化できずにいる僕が悪いのです(超反省) 今回も前回と同じく、昨年10月の上越への往復の立ち寄り地です。 前回の筒石駅は上越に向かう途中で寄って行ったのですが、今回は帰り道の立ち寄り地です。 実はこの時の予定では嫁さんの実家を出たら、今夏(H25)に行った小布施に行くつもりだったのですが、体調が悪いという嫁さんと録画を忘れて早く家に帰宅したい娘に拒否権を発動されて、家路に国道8号をひた走って戻ることになったのです。特に娘の生意気な口のきき方にはカチン おかげさまというか、根が単純な僕は超不機嫌。。。 能生の道の駅に着くまでの運転の間、よりにもよって車の流れが悪くて、ますます不機嫌に。。一言もしゃべらず・ただでさえ目つきの悪いのが更に険悪な眼となっておりました。道の駅に着いたら、母娘を見向きもせず、サッサとトイレにダッシュ。。。{%大変we…

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峨山禅師生誕地 棚田の風景

前回の日記は3部作になってしまいましたが、その中に峨山禅師のことを書きました。峨山禅師は永光寺(ようこうじ)の南の山岳地帯の宝達山の南麓の羽咋郡瓜生田(現在の河北郡津幡町瓜生)で生まれています。 ちなみに能登は山が意外に多いのですが、高山と呼ばれるような山はなく、この宝達山が能登で一番高い山になります(637.1メートル)。ただ丘陵面積が広く、県内の宝達志水町・かほく市・津幡町さらに富山の氷見市・高岡市に跨っています。名前の由来は江戸期に金脈が出たからと聞いたことがありますが、詳細は不明。 昨年のお盆に足を延ばして、この瓜生まで来て峨山禅師の生誕碑も観てきていたので、この機会に改めてアップすることにしました。実はその時は棚田の風景を観に来ていたんで、峨山禅師はついでだったもんで、あまり写真は撮っていなかったんです。「ついで」なんて書いたら峨山禅師に怒られそうですけど。。 津幡町でも山間の里と云われる河合谷地区。その河合谷でも一番奥にあるのが瓜生です。昨年(H24)の春に豪雨で崖崩れが起こり、唯一の生活道路が埋まって部落が孤立したのは記憶に新しい出来事でした。宝達山側にも道はあるんですが、とても普通車が通れるものではないそうです。災害の際もこの裏道を通って緊急を知らせたそうですが、相当苦労したそうです。 八の谷・池が原の吉倉地区からこの瓜生の辺りは良質米が採れることで知られていて、美しい棚田の風景が見られます。 江戸期までは氷見からの街道があり、中継に宿場になっていたそうですが…

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永光寺 ③ 五老峯 瑩山禅師墓所 峨山道

回廊の最上段から伝燈院とは反対の扉から出ると緩やかな登り坂があります。これが五老峯に向かう道です。 登り始めるとすぐに右手に手水舎のようなものがあります。 この水舎に流れ出す水は、これから向かう五老峯の下を通って湧き出す名水です。そのため「白山水」「五老峯の御霊水」と呼ばれています。 案内板には元享3年(1325年)に五老峯を築いた際に湧水が出たとなっていますが、瑩山が元応元年(1319)に書き残した「洞谷山尽未来置文」に五老峯のことを書き、元享元年(1323年)に五老峯を築いています。瑩山禅師の逝去と共に瑩山の墓が作られ、瑩山の書を五老峯に納めて以降に湧き出した湧水だと思われます。尊師達の元を経由して流れ出る清水は大事にされ、現代に至るまでこの霊水は伝燈院と大本山・總持寺の尊前に礼されています。 ちなみに、開祖・道元の永平寺の廟所を見学した人は観たと思いますが、廟所の入口手前の脇にも「白山水」があります。曹洞宗が北陸に来てからは禅という修行を主とした教えと相まって、白山信仰や白山修験者との結びつきが出来ていました。 特に、總持寺の貫主を瑩山から継いだ峨山は、元々は白山修験者から瑩山に弟子入りした人物で、その傾向は更に顕著になったといえます。 白山は山自体が信仰の対象でしたが、そこから流れ出る水は霊水は修験者だけでなく北陸民衆には愛されていたもので、以前書いた浄土真宗の北陸の先駆者・綽如(しゃくにょ)も白山信仰を無視できず協調を図って信仰を広めています。 …

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洞谷山 永光寺(とうこくさん ようこうじ) ①

金沢方向から国道159号線を七尾方向に走って、白鳥が飛来することで有名な邑知潟(おうちがた)のある邑知を過ぎると右手に「五老峯 永光寺」という大きな看板と石柱の門があります。そこを右折して山の方にしばらく登って行くとある寺院が「洞谷山 永光寺」です。ずっとエイコウと思っていましたがヨウコウが正解だそうです。 永光寺は曹洞宗の寺院です。創建は正和元年(1312年)、瑩山禅師(常済大師)が建立したものです。 現在の曹洞宗の大本山は、御存じのように、福井の永平寺・横浜鶴見の總持寺の二大本山制を採っています。 両本山のトップは貫主と呼ばれており、曹洞宗全体のトップは管長となっています。この両二大本山の貫主が2年交代で管長を努めています。現在(H25)の管長は永平寺の貫主が勤めています。 江戸期以前は奥州と九州にも大本山がありましたが、幕府命令で二大本山になりましたが江戸期には水戸の祇園寺も大本山を名乗った時期がありました。明治維新後は現在の形態になっています。 つまり曹洞宗は大きく分けると2派閥(二大本山)の共同体制組織というわけです。 なぜにこのような2派閥になったのかというと話が長くなりますが、開祖・道元が曹洞宗を開いた頃に遡ります。 開祖・道元が京都の聖興寺で曹洞宗の布教を始めていたころは、新教に対して延暦寺からの制約や妨害が厳しい時代でした。 同じ頃に派生した禅を主体とした日本達磨宗も延暦寺からの制約・禁制を受け、布教禁止令や焼き討ちを受けて越前に避難していたのです…

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親不知 如砥如矢

昨年(H24)、このサイトで人気のあるgoさんのブログに、「一枚の写真~ウォルター・ウェストン像 」という記事がUPされていました。 goさんの思い出の一枚の写真から人物像が書かれており、信州への思い入れが感じられて拝読しました。 ウォルター・ウェストンは登山が好きな人には「日本アルプスの父」として一般常識となるほどの有名な人物なんですが、、、、 山のことになると、ど素人の僕は、、、詳しい経歴を知らず、「日本アルプスの父」「親不知が日本アルプスの起点(北端)と提唱した人」「英国人の宣教師・登山家」 といった具合に箇条書き程度の認識しかありませんでした。このブログのおかげで、人となりを詳しく知ることができました 僕がウォルター・ウェストンを僅かながらに頭の片隅に残していたのは、いつものような書物やドキュメンタリー映像ではなく、やはり記念像でした。なかなか面白いポーズをとった像ということで印象に残っていたんです。 そのブロンズ像があるのが親不知。 親不知は以前の日記にも書きましたが、親不知駅がある歌地区から青海川までが子不知。そして歌地区から市振の境川までが親不知になります。その親不知の最大の難所に当たる「天険(天下の険)」にある親不知観光ホテルの横を登ったコミュニティロードの展望台の横にウォルター・ウェストンのブロンズ像があります。 この像は明治27年(1894年)にウォルター・ウェストンが親不知を訪れ…

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北斎館から鴻山亭

岩松院から小布施市街の北斎館に向かいました。 うまい具合に駐車場も見つけて歩いていくと、北斎館の廻りはお土産屋さんやレスト喫茶が多く集まっています。 そんなお店を観てランランと輝く眼が光る女性陣 北斎館の前に3館(北斎館・高井鴻山記念館・おぶせミュージアム)共通券売り場があったんですが、僕だけ買って北斎館に。二人は北斎館だけ見て、ウィンドウショッピング&お買い物に というわけで、北斎館は三人でしたが。。。何せこういう所に来ると、じっくりゆっくり観る僕と眼につく物しか見ない女性陣。。。まあ、北斎館からは別行動になっちゃいました。 葛飾北斎はあまりに有名なので説明の必要はないと思います。 長寿であったこともあるし、奇人変人扱いされますが生活のすべてが絵画に繋がっており、浮世絵はもちろん肉筆画・挿絵など作品は多岐にわたり生涯作品が3万点を超すと云われています。 奇人と云われる代表例は改号と引っ越し、改号30回、引っ越しは何と93回 引っ越しに関しては、僕も人に自慢できるくらいやりましたが、とてもとても北斎の2割くらい(独身・結婚後含め21回)で敵いません 僕の場合は転勤でしたが、北斎の場合も理由がはっきりしています。 …

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梅洞山 岩松院

小布施町の東部にある岩松院は曹洞宗の寺院です。 文明4年(1472年)に苅田城主・荻野常倫によって創建されたと云われています。 苅田城は岩松院の脇を登った所に小城・大城と呼ばれる2つの城に連郭式の石垣を用いた堀切など堅固な造りの城だそうです。今回は家族連れで雨でぬかるんでいたので、城は断念しましたがこの辺りでは珍しい造りだそうです。この地は川中島4郡の一つに当たり激戦地の一つで、苅田氏の後も高梨・武田・上杉・森(織田家)と領主が変わっており、現在の城址はだれが改修したかははっきりしないそうです。 岩松院にも似た石垣が多く使われており、領主の館跡、苅田城の詰所跡と説があり、それを利用して寺院を整備したようです。岩松院を整備したのは戦国武将・福島正則で、福島正則の菩提寺となっています。 本来の福島家の菩提寺は京都の妙心寺塔頭海福院ですが、この当時の大名は自分の領地に菩提寺を置くのが慣例になっているためのようです。 福島正則は豊臣家において加藤清正と並んで豪将として有名です。 賤ヶ岳の戦いでは七本槍の中でも武功一番として七人の中で最高の5000石を恩賞として受けています。 福島正則は豊臣秀吉の母方の縁者に当たるようで、豊臣家では一門衆の扱いを受けていたようです。 その他多くの戦いに活躍して尾張清洲24万石の大名に抜擢されています。これは豊臣方における東海方面の抑えの役目でしたが、関が原では東軍の先鋒となり、岐阜城奪取・関が原先陣と活躍しています。その戦功により安芸広島49万石…

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海月寺

江戸期、金沢の金石は宮腰(みやのこし)と呼ばれ北前船の母港として栄えました。 そんな金石の東方の一画に海月寺という小さな寺院があります。ここに銭屋五兵衛の三男・要蔵の墓があります。 以前、海の豪商と呼ばれた銭屋五兵衛を紹介しました→銭屋五兵衛記念館  銭五の館 海の豪商と云われた銭屋五兵衛ですが、その最期は悲惨なものでした。 銭屋五兵衛は晩年は家督を長男・喜太郎に譲っていましたが、喜太郎は生来病弱で性格も温厚なことから、銭屋の実権や方針は引き続き五兵衛が握っていました。そして、その意向を実践していたのは三男・要蔵と手代・弥吉が両翼となっていました。銭屋の没落の要因となった河北潟干拓事業も総責任者は要蔵が受け持っていました。 銭屋が加賀藩から責任追及されたのは、河北潟での魚の大量死、それを食べた漁民の死が銭屋の干拓事業の際の石灰と共に毒を投入したと疑われたことです。(数年後、河北潟の赤潮による毒素化と学者に証明されています。) 加賀藩の苛斂誅求な処置は情け容赦のないものでした。銭屋一族・使用人のことごとくが捕えられ入牢と共に厳しい拷問や追及に処されます。 千賀女などの奔走に同情した真龍院の助言などにより、長男・喜太郎が釈放(ただし加賀所払い)されましたが、時すでに五兵衛は牢死。しかし加賀藩の処分は厳しく銭屋は家名断絶・財産没収(家名に関しては後年、許可が下ります。)更に主犯格とされた要蔵と弥吉は磔刑。さらに一族・使用人など51人が斬死・さらし首となってしまいました。 …

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称念寺① 新田義貞墓所

称念寺は時宗の寺院です。福井の丸岡町長崎の地(現・坂井市)にあります。 泰澄大師が阿弥陀堂を建立したのが始まりと云われています。 時宗については名前を聴けどあまり知られていない宗派の一つです。特に北陸ではなじみの薄い存在になっています。しかし、江戸期以前は全国で一番流行った宗派は時宗といわれています。 開祖は一遍(智真)、元々は浄土宗に学んだ人ですが、浄土宗の基本の「信心の表れが念仏」に飽き足らず、簡易・掘り下げて「念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になる」と説きました。民衆への衆生済度のために、全国行脚(遊行)をして「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」という札を配る「賦算(ふさん)」と踊り念仏を広めました。 時宗では1日を6分割して交替で念仏を唱えるため大勢で遊行しましたから、室町時代以前は時衆とよばれていました。またこれに関しては開祖・一遍が独自の宗派を作る気はなく、あくまで浄土宗の一部であり、市井の上人と云われた空也を手本にしたためとも云われています。一遍は全国行脚を行ったこともあり遊行上人と呼ばれ、以降の時衆のトップは代々遊行上人と呼ばれることとなります。 一遍死後、時宗はバラバラになってしまいましたが、それを改めて宗派としてまとめ上げたのが、2代遊行上人・他阿真教になります。現在の各宗教団にはこういった中興の祖となった人物がおり、その後の発展につながっています。曹洞宗の瑩山紹瑾・浄土真宗の蓮如・日蓮宗の日乾などがその例です。 現在でも時宗では一遍と真教を祖と…

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板屋神社(板屋兵四郎)

金沢と云えば武家屋敷や老舗など加賀百万石の伝統と街並みを残している街。金沢城や多くの寺社が伝統文化を伝えています。特に観光客や市民が多く訪れる兼六園は水と緑が織りなす庭園が人気になります。 兼六園と云えば、霞ヶ池や瓢池(ひさごいけ)や噴水など多くの水で観光客を和ませています。ところがこの泉水の水がどこから来ているか知っている人は意外に少ないはずです。 加賀百万石文化が花開こうとしていた矢先の寛永8年(1631年)、長町武家屋敷の南西、法船寺門前の民家(現在の中央通町11)から出火、原因は武士による放火、俗にいう「寛永の大火」 江戸期を通じて金沢は大火に何度も襲われていますが、その最初の大火がこの「寛永の大火」。 この大火は南西からの強風に乗って、金沢の町を総なめにして、金沢城にも火が掛かり全焼、焼失家屋1万戸以上の大火となりました。金沢市の地図が大幅に変わり、現在の町割りになったのはこれ以降です。 もちろん強風による被害も大きかったのですが、消火の水がないことも大きな被害に拍車を掛けました。 特に金沢城中には井戸しかなく、堀はあっても空堀で水はなし。燃えるに任せた状態でした。過去にも落雷などで何度も金沢城は火災に遭っていました。その度に建物は燃えるに任せた状態で、金沢城に天守がないのも慶長7年(1602年)の落雷によるもので、それ以降幕府との関係上造れず、歴代藩主にとっては屈辱の一つでした。 そんな時に起こった寛永の大火は、金沢における弱点をさらけ出したものでした。 あ…

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二俣本泉寺

本泉寺は戦国期において、加賀一向宗の加州三ヶ寺として波佐谷松岡寺(小松市)・山田光教寺(加賀市)と共に中心的な存在でした。ただ真宗独立王国・百姓の持ちたる国と云われた時期は二俣から若松(現在の金沢市若松町)に移っていました。 二俣(金沢市)は山深い場所ですが、加賀から越中・砺波に抜ける最短コースにあります。江戸期には参勤交代もこのコースを通っていました。 浄土真宗は当時幾つかの派閥に分かれていましたが、戦国期初期においては主流は他派閥が大きく、現在隆盛を誇る本願寺派(東・西本願寺)が教勢を大きく伸ばしたのは、8代教主・蓮如になってからです。そして蓮如が最初に教勢を伸ばした地が北陸という地でした。 現在、宗教界で大きな勢力の浄土真宗・日蓮宗・曹洞宗の開祖死後の隆盛は北陸から派勢しているのが共通で興味深いものがあります。当時、仏教の本場は京都・奈良で、国教扱いだった高野山・比叡山でしたが、前述の三宗派それから時宗・臨済宗・浄土宗などの開祖も両山で勉強・修行した人達です。 この開祖たちに共通するのは宗教は特別な人間の物なのか、民衆には無用な物なのかという疑問から始めていることです。もちろん教義に関して修行や善行の必要性に対する疑問もですが。 当時の宗教は民衆の物ではなく、貴族階級の物でしたし、京都・奈良近隣では両山の影響力が強すぎて、独自の宗派や教えを延ばすのは排他的で難しかったというのが実情でした。その点から関西圏から近く、文化吸収には柔軟な北陸の地に避難・進捗は当然の流れだ…

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今江城址(御幸塚城)

前回の記事の浅井畷の合戦を書いた際、前田利長の別働隊が布陣していた城が今江城だとしたので、以前訪れているのでご紹介します。 今江城の別名・御幸塚(以前はみゆきづか、現在はごこうづか)の起源は、花山法皇(968-1008)がこの地に滞在中に、加賀三湖(今江潟・木場潟・柴山潟)を眺めるために近くの三湖台という丘に登ったことからこの辺りを御幸と名付けられたものです。花山法皇の伝承の足跡としては、近くの那谷寺の名にも残されています。 1960年代までこの城の西側には今江潟という湖が広がっていました。その大きさも結構大きくて、ここから小松空港までの間にありました。その後、干拓によって今は広い田園地帯になっています。城があった当時は側の湖を利用した堀に囲まれていたようでなかなか堅固な城の要素があり、加賀平野の要衝点ということで古くから重要視された城でした。 築城年ははっきりしませんが、富樫泰高が加賀守護職に初めて就いた辺りではないかと云われています。そうすると1441年以降となります。 この人物はなかなか波乱万丈の生涯を送っていて、加賀守護・富樫家の衰亡期を逞しくまたずるがしこく送っています。そもそも富樫泰高は守護職には縁がないはずでした。守護就任前は醍醐寺の修行僧で喝食(食事の報告係)をしていたという経歴があります。ところが守護だった兄・教家が室町幕府6代将軍・足利義教の不興を買って失脚した際に還俗して家督を継いだ曰くつ…

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金谷山

ケーキを買って、一路上越市に向かいます。と、いっても前の日記のケーキ屋さんも上越市だったんですけどね。例の市町村合併で大きく地図が変わってしまいました。犀潟・大潟・柿崎も上越市になったんですねえ。 新潟にいた頃の僕の感覚では、柿崎は柏崎と同地区で中越地区のつもりでした。嫁さんはそうじゃないと云いますけど。たまに行くと市町村が変わって、地名表示が変わって混乱しちゃいます。 実家へ行く前に遅いお昼ご飯にラーメンを食べて行くことに 上越出身の嫁さんは石川や滋賀に住んだせいで、薄口出汁が多いのに辟易してたみたいで、濃口の上越が恋しかったみたい。濃口ラーメンが食べた~い 道沿いにあったラーメン店に             「こだわりのちゃーしゅーめん 昭月」 嫁さんのご希望とは異なり、濃口ではないあっさり系、僕と娘はムフフ 口当たりも良かったし、麺もコシがあってまずまずのお味でした 看板にチャーシューが売りだと書いてあったのに、何にも見ていなかった僕は、いつものごとく味噌ラーメン。しっかり見ていた娘はチャーシューメン。 ということで、チャーシューの写真は娘のをパチリ

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白犬父さんの故郷

さて、ここがどこか解りますか?雪があるともっと解り易いんですが 某携帯メーカーのCMで白犬父さんと奥さんが雪の道で女学生とすれ違って、娘の彩を思い起こすシーン それがこの場所です。 ここは福井の一乗谷にある復元町並の一画です。この塀の前で記念撮影するのが観光客の定番になっています ちなみに、ここに白犬父さんの実家がある設定で、若い役者さんと再婚したお母さんは最初はここに住んでいる設定でした ということで、この日は嫁さんと紅葉を観に九頭竜に行こうと思ったんですが、先に歴史好き&ミーハーな僕のご希望で、ここにやって来たんです。 戦国時代、一乗谷を本拠に越前を治めていたのが朝倉氏です。一乗谷は下城戸と上城戸という土塁・石垣と城山を中心にした名前の通り、1.7㎞の谷間のことです。ここに朝倉館や武家屋敷などが作られ繁栄していました。 元々、初代の孝景(敏景)は越前の土豪から始まり、越前の守護にまで登りつめました。下剋上の成り上がり戦国大名の第1号。教科書にも載った分国法(実は家訓)の「朝倉孝景条々(朝倉敏景十…

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足羽山 足羽神社 ~ 継体天皇像

前週、越前海岸、つまり福井まで行っていたんですが、この日も福井にお出かけでした。アニメ・漫画おたくの娘がイベントに行くというので、運転手になったんですよ 娘をイベント会場に送って、嫁さんと二人で福井市内を散策&ドライブすることにしましたよ 昔勤めていた会社の本社が福井市内だったので、案外に福井の土地勘はあるんですよ。それに20年以上前になるけど、1.2年ほど住んだこともあるんでね まず向かったのは、足羽山(あすはやま)です。 足羽山は福井市内のど真ん中、市街地に囲まれた山のことです。頂上に登ると四方を福井市内が一望することが出来ます。山全体が遺跡や公園になっていて、桜の時には桜のトンネルができ、6月には愛宕坂に紫陽花の道ができます。山を通る道もドライブコースになっているので、家族連れやカップルのデートコースにもなっています。 まずは腹ごしらえをしようということで入ったのが、足羽神社の横にある「中村屋」 このお店はレトロな造りで、中に入ると田舎風の造りで古い家具や民芸具で店内を飾っています。 注文したのは「餅入り十割蕎麦」結構腰があって腹持ちもいいですよもう少し量があるといいんだけどなぁ 越前蕎麦は前回も紹介しましたが、皿に入っているのが特徴です。 元々はおろしそ…

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新潟ふるさと村

ホテルは黒崎IC近くの「ホテルディアモント新潟西」でした。 7/12に新規オープンしたばかりで、室内も綺麗でゆったり出来ました。 以前は何にもない場所でしたが、今ではすっかりR8沿いにいろんな業種が立ち並んでいます。信濃川のたもとに建っているので景色も良かったです(9階建の8Fだったので、窓からの風景もなかなかよかったですよ。) 疲れもあって早く寝ちゃったので 朝早くにが醒めちゃいました。2人は夜、ライブの話に夢中で夜更かししたらしくまだ夢の中& よし、散歩して来よう ホテルの横の平成大橋を渡って信濃川を横断、さすが日本一の川、橋が長かった 橋を渡りきると小さな空き地が、そこにこんな場所が、、 此処で、うん蓄をご披露しましょう 順徳天皇(順徳院)は後鳥羽天皇の息子です。承久の乱で首謀者の1人として、佐渡島に流されてそこで亡くなっています(絶食の自殺と言われています) 詩歌など芸術系に優れていて、その後の宮廷の作法・装束などを確定した天皇と言われています。陵は2か所、火葬した佐渡の真野陵、京都に持ち帰…

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倶利伽羅山 八重桜

倶利伽羅峠は昔は北国街道の難所ではありましたが、街道のおかげもあり、倶利伽羅不動尊や長楽寺の寺社・宿場もあり栄えた場所でした。 しかし、明治初頭の竹橋宿の大火、更には廃仏毀釈による長楽寺の廃棄、国道8号線・北陸本線の敷設により、倶利伽羅越えの北国街道の役目は無くなり衰退して行きました。 それでも津幡・小矢部の住民や一部の人にとっての生活道路として倶利伽羅峠や天田峠越えの道は難路ながら残っていました。昭和末期まで倶利伽羅越えの峠には茶店が現存営業していました。 昭和9年、射水郡大島町(現在の射水市)に高木勝己さんという運送業の人物がいました。彼が助手と共に仕事帰り、天田峠越えの途中で30メートルの崖下に転落しました。車は大破しましたが二人は無傷という幸運な事故でした。それから20数年後、彼が眠っていた際に夢枕に倶利伽羅不動明王が出てきてこう言ったそうです。 「倶利伽羅山が荒れ果てて寂しいものだ。」 ここで高木氏はあの事故での無事は倶利伽羅不動のご加護だったんだと一念発起。倶利伽羅を吉野山のように桜の名所にして人が来るようにしよう。昭和34年から19年間、奥さんと一緒に私費で毎年500本近くの桜の苗木を津幡町坂戸口から小矢部市蓮沼までの倶利伽羅峠の街道沿いに自力で植えて行きました。徐々に桜並木は花をつけ約4000本の名所として知られるようになりました。 高木氏は平成2年に85歳で逝去されましたが、その業績は津幡町・小矢部市が引き継ぎ現在は約6500本の八重桜が咲き誇る桜の名所に…

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首洗池

斉藤実盛は単騎奮戦した際、最後に一騎打ちを行い打ち取ったのが手塚光盛という若武者でした。手塚光盛が単騎残って戦う武者に一騎打ちを自分の名を名乗り挑んだ際、斉藤実盛は「事情があって名を名乗ることはできないが、良き武者に出会い嬉しい。お相手する。」と答えています。 長い時間の奮戦と老齢により息切れした実盛は、馬が稲刈り後に足を取られ、その隙を光盛によって討たれています。 首を取った光盛が主将・源義仲の首実検に持参した際、 「大将の目印の赤地錦の直垂・立派な兜・萌黄の鎧、大将の格好だが侍と思われます。」と戦闘の模様と共に報告しています。 義仲も誰だろうと不思議に思っていましたが、側にいた斉藤実盛と親交のあった樋口兼光(今井兼平、巴御前の長兄)が気づき、池の水で首を洗うと黒髪が白髪に変わったために、実盛と確認できたそうです。 < 義仲の嘆きは大きかったというより衝撃そのものでした。 先の記事に書きましたが、父の源義賢が討たれた際、同居の2歳児だった義仲を匿い木曽に送ってくれた命の恩人が斉藤実盛だったんですから。 しばし主従三人は泣き通したと云われています。その姿を模した像が池の淵に建てられています。三者三様の哀しみと慚愧の念が表現されています。 池の西側の坂道を登った場所を手塚山と云いますが、その頂に小さく古びた祠堂があります。この祠堂は「兜の宮」と呼ばれるもので、実盛の御霊と鋳物の兜が祀られています。この兜は小松市の多太神社に奉納された実盛のクワガタ兜を模したものです。ち…

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鈴木大拙館

昨年(H23)10月に開館した「鈴木大拙館」に行ってきました。 鈴木大拙は宗教の研究家として海外にも広く知られた人物です。 特に「禅の研究」「禅に生きる」はベストセラーとなり、海外にZENが普及したのはこの人物の功績とされています。 鈴木大拙はこの記念館の近くの本多町内で生まれています。本名は貞太郎。記念館前の住宅路を進むと生家跡があります。 金沢四校(現・金沢大学)に入学しましたが困窮のため中途退学しています。しかしこの間に同窓生で後の有名な哲学者・西田幾多郎、国文学者・藤岡作太郎と出会っています。この三人は県内でも有名偉人で「加賀の三太郎」と呼ばれる存在ですが、後年も仲が良く終生の友となっています。藤岡氏は41歳と若く亡くなっていますが、西田幾多郎とは晩年は同じ鎌倉に居宅を構え、親交は西田の死まで続いています。 西田幾多郎については以前記事に書いていますが、京都の「哲学の道」は幾多郎が哲学を思索しながら散歩した道のことです。興味のある人はこちらをどうぞ 西田幾多郎記念哲学館  http://72469241.at.webry.info/201209/article_7.html 大拙の名前は東大再入学後(21歳)、臨済宗・鎌倉円覚寺に師事して受けたものですが、臨済宗以外の真宗の大谷大学の教授職や神智学徒にもなっているなど宗教宗派にこだわらず研究家と普及化に勤めています。 ちなみに円覚寺では、終生の伴侶となるベアトリス・レインと出会っています。ただし二人の結婚…

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国泰寺 高峰譲吉の菩提寺

金沢の広小路を東に登った蛤坂の交差点を南に入る旧北国街道の通り。 ここには金沢の人気観光スポットのひとつの妙立寺(忍者寺)がありますが、妙立寺を通り過ぎ更に100メートルほど進むと、左手に国泰寺という寺院があります。 この国泰寺が「タカジアスターゼ(消化薬)」の発明で有名な高峰譲吉の菩提寺です。高峰博士の墓所はアメリカのウッドローン墓地と東京の青山墓地にあります。臨済宗国泰寺派の寺院です。 本山の国泰寺は富山県高岡市にあります。元々高峰譲吉は高岡の生まれで、父親は高岡の町医者で高峰精一といって、譲吉が1歳の時金沢に転居して加賀藩の御典医になったという経緯もあり、菩提寺の国泰寺も高岡から分派したもののようです。 境内には高さ16メートルのイチョウや楓の木があり、秋に訪れると紅葉の美しいお寺です。 高峰譲吉はアメリカに長く過ごした間、アドレナリンの結晶抽出による止血剤販売・日本初のアメリカ特許取得など多くの業績と財を残しています。 アメリカとの友好にも尽力して、当時の東京市長・尾崎行雄と共にワシントンD・Cのポトマック河畔の桜並木の寄贈などでも知られています。 今年、この桜寄贈100周年ということで、高岡や金沢ではいろいろな記念行事などが考案計画されているそうです。また映画もこれを狙ってか、平成20年、昨年と「サクラサクラ」「TAKAMINE」と公開されました。映画の方はいまいちパッとしませんでしたが、話題性には貢献したかも^^; 「サクラサクラ」 http://sak…

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木谷公園 木谷藤右衛門本宅跡

以前紹介した銭屋五兵衛の記事で「加賀の豪商を一人挙げろと云えば、10人中9人以上が銭屋五兵衛と答える」と書きましたが、それじゃ残りの一人以下が答えるのが今回の「木谷藤右衛門」です。 銭屋五兵衛 http://72469241.at.webry.info/201210/article_39.html 銭五と同時期に北前船の海商で活躍しました。あまり資料文書などが残っていないため、意外に県内でも知らない人が多いのが影響しているようです。知っているのは一部の関係者や歴史好きな人くらい。。しかし、最盛時の規模は銭屋どころではない規模でした。若き日の銭屋五兵衛は木谷家の木屋に修行奉公をしていたそうです。実は木谷藤右衛門が加賀最大の豪商というのが本当と云われています。 代々の当主は「藤右衛門」を名乗っており、初代は江戸期初頭から名前が見られます。木谷家が大きく隆盛したのは大野川の改修がなされてからと言われているので、元禄から正徳にかけて(1700年前後)の3代目からと言われています。大野川は河北潟から外海に流れる唯一の河川で、金沢から潟に流れる浅野川の2河川は加賀藩の重要海運経路になっていました。木屋は河北潟の手前の大野川沿い中継点に位置し海川の運送を一手に担っていました。 当時はこの辺りは粟ヶ崎村と呼ばれていましたが、現在の金沢市粟崎町の木谷公園が木屋の本宅があった場所だそうです。今は松林と散策路のみですが公園敷地は広く往時の規模がしのばれます。 木屋としての木谷藤右衛門は加…

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小矢部ふるさと博物館

小矢部市の水落地内にあるのが「小矢部ふるさと博物館」 外観を見ると古びた公民館に見えますが、れっきとした博物館登録された資料展示館です。入場料は無料で展示点数はそれほど多くはありませんが、こちらには結構興味深い展示があります。 1Fには小矢部地内で発掘された考古史料や昔使われた農具や祭事の道具・衣装が展示されています。更に2Fには今石動城の詳細図や小矢部の偉人たちを紹介しています。 その中で大きなスペースを取っているのが大谷兄弟のコーナーです。 大谷米太郎・竹次郎兄弟をご存知でしょうか。小矢部市のこの水落の寒村に生まれ、日雇人夫・相撲取り・酒屋など職を重ね、戦前後「鉄鋼王」と呼ばれるほどの人物です。 大谷米太郎は大谷重工業・ホテルニューオオタニの創業者。蔵前国技館の勧進元、浅草寺寶蔵門の寄進などで知られています。 竹次郎は米太郎を手伝い大谷重工業を経て、尼崎の昭和電極(現在のエスイーシー)の創業者。死後、自宅やコレクションを西宮市に寄贈して大谷記念美術館となっています。 成功後の二人は母親がここに残っていたこともありますが、郷土愛が深く、特に教育機関に対して多額の寄付や建設に係っています。主なところでは石動小学校・大谷小学校・富山県立大学(当時は短大)・市庁舎と枚挙にいとまがありません。小矢部市に対する多大な貢献から兄弟揃って、小矢部市の名誉市民となっています。 この博物館も元々は兄弟が大谷記念会館として地元市民の交流施設として建設したものです。その後、小矢部市に寄…

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金沢大野からくり記念館

「からくり」と聞けば、多くの人が連想するのが茶運び人形・弓曳き人形などのからくり人形達です。英語でKarakuriは日本のからくり人形を指すそうです。特に江戸期以降は鎖国政策もあり、僅かに伝わる海外技術と自己研究・開発によって独自の発展を遂げました。 本来の「からくり」は機械・模型を指していたそうです。からくり名人と呼ばれた人たちは単なる単一職人ではなく研究・開発の為に多種の学問にも通じた総合技術職人というのが共通していました。 からくり名人として代表される三傑は、土佐の「からくり半蔵」こと細川半蔵、久留米の田中久重、京都生まれ加賀の大野弁吉とされています。 細川半蔵は郷士身分の大工職から始まり、京都・江戸で暦学・儒学を治め、他にも物理・数学にも通じ、和時計・からくり人形を作成し、晩年は江戸に出て幕府の歴作方となって「寛政の改暦」に参画しています。半蔵が高く評価されているのは「機巧図彙(からくりずい)」という自分が作製した4つの和時計と9つのからくり人形の仕組み、諸元寸法、製法を記述した機械技術書として残したことです。これによって、後に続くからくり職人の手本となり現代の職人の復元・技術継承に繋がっています。また、後に出た田中久重・大野弁吉もこの書を模写し参考にしたそうです。 田中久重は「日本のエジソン」「からくり儀右衛門」の異名が知れ渡っています。 社会科の教科書にもよく載っているので、ご存じの人も多いと思いますが、鼈甲職人の息子から始まり、天性の才能か子供の頃からからくり人…

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銭五の館

銭屋五兵衛記念館から公園を挟んで、海側バイパスの県道8号線(松任・安原線)沿いにあるのが「銭五の館」です。元々、10年程前まではお隣の「百楽天」というラーメン屋さんの部分も資料館・売店でしたが、公園に記念館が完成して隣り部分の資料や遺品が記念館に移され右側の建物と蔵が記念館の別館として展示公開されています。 「銭五の館」の建物は金石町(かないわまち)の銭屋五兵衛の本宅に在った蔵を移築改築したものです。 内部も本宅を再現したものになっていたり、北前船に使われた板を使った場所もあり貴重な建物です。記念館を訪れた人はここを見忘れる方が多いのですが、こちらの建物や資料価値も高い物が多いのでお忘れなく。 銭屋五兵衛は非常に筆まめな人物だったようで、記念館の方にありますが「年々留」という留帳が残されています。五兵衛が長男・喜太郎に当主を譲る辺りから商家としての銭屋の家訓から船の状況・購入品など細部にわたって受牢寸前まで書かれており、銭屋の最盛時の状況・様子が解る資料です。 そんな五兵衛は趣味の道具類も絵入りで注釈を書いたりしています。その一枚一枚の細かいこと^^;また愛用した杖など、散逸を免れた遺品が展示されています。 また土蔵内には文書類が展示されており、五兵衛の書簡の他、永代渡海状、千賀女の代牢願などがあります。特に千賀女の代牢願は繊細で丁寧な文字がびっしりと書かれた物です。祖父や父(長男・喜太郎)への愛情が伝わるもので、文字の美しさも芸術品に値すると思います。 銭屋一族の多く…

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銭屋五兵衛記念館

加賀百万石と云われた大藩の歴史の中には、豪商と呼ばれた商人も多く輩出されています。その中から石川県人に一人挙げろと言われたら、10人中9人以上がこの人物を答えると思うのが「銭屋五兵衛」です。別名は「海の百万石」「豪商 銭五」。 実は銭屋五兵衛という名前は3人います。 元々、銭屋家は越前朝倉家を祖に称する一族で、越前から初代・吉右衛門が能美辰口・金沢の大野・宮腰(現在の金石町)へと移住し両替商を営んだのが始まりです(別説では、白山市鶴来の舟岡山城の家臣一族が出自とも言われています。) 銭屋の名はこの両替商からそう呼ばれたようです。その後、5代目五兵衛が商家を大きくしたことから、銭屋家では当主は五兵衛と名乗ることになります。6代目は両替商の他、質屋・醤油醸造と徐々に多角化を進め、7代目に至って両替商・質屋の他に材木・生糸・海産物・米穀の問屋など多角化し、海運業にも乗り出します。 先に書いた「海の百万石」と呼ばれた銭屋五兵衛とは、この7代目五兵衛を指します。 銭屋五兵衛は幼名を茂助と云い17歳で銭屋家当主となっています。 39歳時、質屋の関係で質流れとなった120石船で米を運ぶ海運業を始め、54歳で当主を長男・喜太郎に譲り(但し、商家の実権は五兵衛が持っていました。)本格的に海運業に乗り出します。 その後20年間で、日本各地に支店34軒、1000石以上の船を20隻以上、総持ち船200隻以上、使用人120人という江戸期屈指の海運業者にのし上がります。更に時の最大権力者・奥村栄実によっ…

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柳廼社(やなぎのやしろ) 藩主隠居所

大野城の外丸を挟んだ場所に10メートル程の時鐘が目印の広い駐車場があり、大野観光にはここに駐車すると便利なのですが、ここの東側に「結ステーション」というコミュニティースペースがあります。物品販売所・観光案内所など観光の起点・中継点になっています。 その結ステーションの脇に御屋敷のような無料休憩所があるのですが、これが新しくできた「藩主隠居所」です。この隠居所は7代藩主・土井利忠が隠居後6年間を過ごしたもので、当時は現在の有終西小学校のグラウンドを右に見ながら進んだ所にある柳廼社がある場所にありました。土井利忠(明治元年没)の死後、明治15年、旧藩士によって土井利忠を顕彰して同地に柳廼社が建てられ、社務所として使われていたものです。 昨年(H22)、移築・修築を行ったばかり。平屋造りで書院風、武家らしい質実なものです。庭園もなかなか良いつくり。特に式台(表玄関)は立派で目を惹きます。観光客で訪れた人は脇の納戸から入る人が多いようですが、お殿様気分で表玄関がお勧めです。 土井利忠は在世中、窮乏だった大野藩を一代で立て直した人物として名君と呼ばれた人です。「更始の令」により君臣の垣根を払い、内山兄弟を抜擢して、面谷鉱山の直営・藩直営店の大野屋の全国チェーン展開・蝦夷地開拓による大型船建造・北方交易、明倫館、洋学館の開設、長崎種痘の翌年の種痘所開設など多岐に渡っています。 旅行日 2011.9.25 藩主隠居所 柳廼社(やなぎのやしろ

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